抽斗の釘

小説、散文、文章、短編

仰向けの世界

  彼は勤めの帰路の電車、乗合せた同僚と鬱病について話した。

  彼も同僚も然る病の治療中で、服用する薬や副作用について和やかに話した。

  車両は動き出し、二人は肩を並べ座席に着いた。ゴトゴトと鈍行は夕刻の街を抜けて行く。

  話すと二人の治療薬は異なったし、同僚は不眠に悩み、彼は過眠であった。

  会話は、堕ちていく夕日の中、一日が終わった疲れと安堵の車内に、緩やかに広がる。

  同僚は深夜に悶え苦しみ、彼は早朝に頭を抱えのたうち回った。

  窓から注ぐ斜陽は、乗客の体を温めた。定型のアナウンスが、乗客の日常を確かめた。

  同僚は今後の生き方に悩んでいた。死ぬまでの間にどうやって自身の理想を叶えるか。

  彼は現在の生き方に苦しんでいた。死ぬまでの間に何を成し、その為の今は何なのか。

  同僚はベッドの中、仰向けに手を合わせ、天井の神に願った。どうか寝かせてくれと。

  彼はベッドの中、仰向けに見る天井から、百足が落ち体を這う、浅い夢に何度も起きた。

  鈍行は尚も乗客とその日常を運ぶ。二人は共感と差異に笑いあった。ゴトゴトと揺れる。

  同僚の最寄りに到着し、二人は別れを告げた。車両はまた、ゆっくりと動き出す。

  彼はふと周りを見渡した。其処が優先座席で、彼の他は背の丸い老人ばかりであった。

  彼は窓に頭を任せ、車内の天井を仰いだ。

  夕日に染まる丸い吊革が、ゆらゆらと、掛かる主人を待つように揺れていた。

  

  

熱帯魚

  夏に金魚を死なせ、次の冬には熱帯魚を眺めていた。夏祭りで掬ったものであったが、6尾は月日を追うごとに減り、次の夏に最後の1尾が浮いた。6尾とも庭の同じ所に埋め、線香を上げた。その度に、土に溶け、骨の様を思い描いた。
  黒の壁紙に、青の背景を施した水槽が、几帳面に並べ、積まれている。鮮緑の水草に、赤や黄色などめまぐるしい。エアポンプがガラスを鳴らしている。
「冬なのに熱帯魚買うの?」
熱帯魚の水槽を眺める僕を横に見上げ、彼女は尋ねた。
「難しいから、またすぐ死んじゃうよ」
積み重なって並べられた水槽は、照明で照らされてどれも薄明るく、色とりどりの魚がそれにぼんやりと照らされ思うままに漂っている。ガラスには品種の説明が貼られていた。値段、人への慣れ、適正温度、餌、飼い方、留意点等々。魚はしかし、そのようなことは気に留めず、水泡と遊び、小さな仲間を追いたて、何もせず漂い、寄り添い、水槽の中はそれぞれの思惑や欲求で満たされていた。どれも、小さなガラスの中であった。
「冬は、関係ないでしょう」
僕は思わず笑って返した。
「そう? 熱帯魚なんだから、また夏に飼えばいいよ」
彼女はフェイクファーのついた緑のフードとショートヘアーを揺らし、正論とばかりに僕に説いた。青く光る水は、僕にとっては恐らく冷たいんだろうと思った。魚たちは片目で僕らを捉えていた。黒く深い目であった。
  きんと冷えた夜だった。プラットホームで電車を待っていると、彼女は僕のコートの袖を引いた。
「あそこ、みて」
夜のプラットホームは電灯に浮き、ホームの先、ガラス張りの喫煙所も暗闇に浮いていた。その先の暗闇には何も見えなかった。喫煙所には、背広の男性や丈の短いスカートの女性などが煙草を吹いていた。
「水槽の熱帯魚みたい。プカプカ口を開けて」
煙草を吸う僕にとって皮肉を感じたが、彼女は揶揄でなく、単純にそう感じている様子だった。
  車窓には夜の街並みが流れた。暗闇に浮かぶマンションは、ペットショップの並べられた水槽のようだった。それぞれの部屋に電灯がともり、各々の部屋で生活が営まれていた。飯を食い、寝る。家庭内で起こる問題など、僕には観察の戯れのように感じた。関わることの出来ない、けれども起こっている現実であった。
  最寄りの駅で降りると、僕らはコンビニで夕飯を買い、部屋に帰った。
  部屋に入ると、ホームセンターで買った安価なスポットライトを点け、ハウスミュージックを小さく流して、薄暗い部屋でナポリタンをチンして食べた。暖房は強めに設定し、本や菓子、グラス、物が溢れ散らかった部屋で、幾つもの布団や衣類がごちゃごちゃに折り重なるベッドに沈んだ。
  僕は沈んだ。僕らは温水が満たされた水槽の底にいた。漂う熱帯魚の下。少なくとも彼女がそばにいる間は温水の中だった。小さな音楽が少し激しくなる。暗闇の部屋、電灯に浮かぶ天井、色とりどりの、漂う魚の腹を見る。体は水槽の底、更に沈んでいく。僕の体は温水に柔らぐ。鰭や鱗が溶けていく。僕らは泳がなくてはいけない。死ぬまで泳がなくてはならない。誰に観られ、観られることもなく。餌を求め、生きている。尽きて水面に浮く日は其処にある。水面はすぐ頭上に見えている。今僕らは、浮くことも無く沈んでいる。
  音楽が止まり、時計の針の音が聞こえた。朝が来ると、窓や扉は全て開け放たれて、温水が外に流れ出てしまう。僕らは流水に浮き上がり、背ビレを冷やして彷徨う。
  ‥僕は仰向けに煙草を吹いた。僕も熱帯魚だった。彼女はすぐに死ぬと言う。生を、温度を、貪るように彩り漂い、活きれど、泳げど、戦えど、水槽の中。
  煙草を消すと、彼女は布団から少し顔を出し、両目で僕を捉えていた。目は、揶揄うように微笑んだ。