抽斗の釘

小説、散文、文章、短編

加密列

 金がなく飢え死にしそうになれば、私も生ごみを漁り、犯罪を選ぶのだろうか。

いや、何もせず、死んでいくほうがよいと、点けっぱなしの報道を横目に薫は思った。

 家賃が払えず、光熱費も払えない。ただ床に寝そべって、払え払えと急き立てられ、それでも寝そべっていると、ついに立ち退けと部屋から放り出されて、それで打ち上げられた魚のごとく、道端に倒れたまま、冬の寒さや飢えに死ぬ。それもありだなと思った。生きるためにという口実で、人に迷惑をかけるぐらいなら、汚れた仕事を請け負うぐらいなら、生きるためと、それならば、ただ外に放り出されて、のたれしぬ、というのも、ひどく自然で、作為的ではなく、それでこそ生き物のようにも思える。

 ラスク、がしっぽを振りながら、膝の上に手を掛けた。ジャック、ラッセル、テリア、に見える、保護犬。時計を見ると、御飯の時間、よりも一五分ほど早い。

 貧乏など、学生の頃はぜんぜん気にならなかった。食費を削っても平気だったし、スナック菓子の生活でも体を壊さない。着るものも、古着が一番似合うと思ったぐらいで、本当に食べるものがなかったら、友達やバイト先など、いくらでも頼ることができた。

 三〇の半ばを迎えた今、不思議と、貧乏になって、頼れるところがどこにも見当たらないことに気が付いた。年齢だろうか、社会的な、経験によるプライドだろうか、食べるものがないから少し分けて、などと、知人には決して言えないような気がする。そうするぐらいなら、やはり、のたれしぬ、ことを選ぶのかもしれない。

 薫はペット皿にドッグフードをざっと流しいれた。ラスクはそれにがつがつと食いついた。本当に食べるものがなくなれば、ラスクの御飯を分けてもらおう、そんなことを考えた。まだ働いていたころ、ちまちま買いに行くのが億劫で、買いこんでいる。ラスクの小ささなら、一年は持つほど押入れに残っている。

 薫は頭痛が原因で仕事を辞めた。そんなことで、だとか、医者に行けば、だとか、いろいろ言われたが、仕事を辞めれば頭痛が止むと直感的にわかっていた。また、仕事を辞めなければ頭痛は止まないと、どこかでわかっていた。

 ひどい上司も、辛い仕事も、あるわけではなかった。ならばなぜ、次の当てはあるの? それもない。どうするのよ? どうしようもない。やっていけるの? やっていけない。

 薫は通帳を開いた。退職金は一〇年勤めて百万をちょっと超えたぐらい。しかしもうそれも跡形もなくなりつつあった。

 学生のころ、興味本位と貧乏があって、怪しいマッサージ店で働いたことがあった。派遣型のマッサージで、顧客の自宅に赴き、マッサージをする。丈の短い黒いスカートが制服だった。

 源氏名はカミルにした。バイトの面接は中国茶の喫茶店で、メニューにあった加密列茶(カミツレカモミールティー)という表記が目について、少し気に入った。本名に近い源氏名はやめた方がいいとマッサージ店の店長に言われたが、薫はそれでいいと思った。近いとは思わなかったし、一方で、近ければ近いほど自分から遠くなるような気もした。加密列茶が中国茶かどうかも疑わしくて、それも面白かった。

 数か月でマッサージのアルバイトはやめた。正式にやめたわけではないが、面倒になったのと、恋人ができたのとで自然といかなくなった。

 けれど、本当は人気がなかった部分が大きい。ウェブサイトに書かれた口コミは、サービスが悪いだとか、愛想が悪いだとか、かわいくないだとか、脚が汚いだとか、どこぞが黒ずんでいるだとか。そんなこと、他人に言われる筋合いはない。人気もやる気も、元よりなかったのだ。

 何度か店長から電話があったけれど、それにも出なかった。しばらくたってサイトを確認してみると、それでもカミルは在籍となっていて、手の平で顔を隠した見覚えのある女がいつまでも残っていた。

 今でもカミルは居るのだろうか。サイトと客の記憶に、生きているということになるのだろうか。私が、のたれしんだ後も。

 薫はそう思い、ふとサイトを見に行きたくなったが、もし残っていれば面倒な気持ちになるだけだろうと、やめにした。

 

 ラスクが再び膝に両手をのせて、しっぽを振っている。薫は時計を見た。散歩の時間の、一五分ほど前だった。

 立ち上がり、支度した。上着とキャンプハットをかぶり、ラスクにリードを付け、アパートの下に出た。

 揺れ動く下半身とか細いしっぽ前に見ながら、もしドックフードまで尽きてしまったなら、この子はどうするだろうと考えた。しかしすぐ、ラスクならどうにでもやっていけそうだと思った。落ちているものは食物、それ以外でもなんでも口にする。野良でも腹を壊すこともあるかもしれないが、飢えて死ぬことはないだろうと思った。この子は生きているのだから、生きていける、と、妙なことを思った。寒さも天然の布団を纏っているのだから、くるまってやり過ごすのだろう。

 ラスクは先行して決まった散歩ルートを通った。寒々しい日だった。冷たい風に帽子が翻るのを抑える。ラスクは風に毛皮を揺らし、平気そうに歩いた。

 坂道を下った突き当りに、広い児童公園の脇道に出る。その脇道も坂道で、下り坂と下り坂とが直角にぶつかるところだった。見通しが悪いからか、オレンジのカーブミラーが設置されている。そこで用を足すのがラスクの習慣だった。

 ラスクが足を上げている間、そこで小学生に出会った。散歩ルートや時間はほとんど変えないのに、今まで見たことのない小学生だった。彼女は公園の脇道を上ろうとするところだった。水色のランドセルを背負って、真っ白な汚れのないフリースを着て、濃い緑色のスカートをはいている。白いソックスに、ピンク色のスニーカー。

 いいなと思った。きっと大切に育てられているに違いない。清潔に洗濯された洋服。汚れを知らぬ無垢な脚。が、その時薫はハッとして、そばを通ろうとする少女から咄嗟に顔をそらした。少女の目が、ひどく大人びて、年寄のように見えたのだ。

 少女と薫はやがてすれ違った。その際、薫は横目でさっと少女の顔を再度盗み見た。目の周囲だけが、ひどい色素沈着を起こしている。二重のはっきりとした、涼しげに垂れる大きな目だった。前髪はそれを隠すことなく、さっぱりと眉上で流されている。

 少女はすれ違う間際、ふっと目を細め、微笑んで見せた。

 薫が息を飲む間に、少女はもう坂を上り始めていた。薫は振り返って少女の後ろ姿を見た。水色のランドセルと、深緑のスカート。薫はどうしてか、唐突に、そのスカートの香りを感じたような気がした。甘くて酸い、さわやかな果実の匂い。あの中国茶喫茶のカミツレの香りだった。

 ぼんやりと振り返ったまま立ち止まっていると、ラスクがリードを引いた。見下ろすと、用事は済んだから、早くいこう、という顔をしている。

 薫はラスクに引かれるまま前を向き、歩き出した。黒ずんだ目がどうしたというのだ。そう言い聞かせた。

 しかし薫は、少女の黒ずみに、不幸を見出せずにはいられなかった。いや、少女の不幸を望んで止まない自分がいた。自分の体の各部の黒ずみと、少女の目の周囲の黒ずみは、きっと同じ道のりを辿るはずだった。であるのに、一方で少女をうらやむ自分がいた。

 薫は歩きながら、なぜか、少女の目の周囲の黒ずみが、自分のせいであってほしいと思いついた。ならば、少女の目の周りにクリームを丁寧に塗ってやりたい。そして一緒に風呂に入り、優しく抱きしめてやりたい。ささやかな冗談を交わしたりして、笑い合いたい。

 薫は突如沸き起こるそんな衝動に、せめて挨拶だけでもと、閃いた。声をかわしたい。自分を認知させたい。あなたを認知していると伝えたい。と、少女を再び振り返った。

 坂の中腹に、水色と深緑、が見えた端に、ぐらっと視界に力がかかった。腕が引かれる。慌てて前を見ると、ラスクの背、肩が筋肉に盛り上がって、首輪をもって必死にリードを引いている。首輪がのどに食い込んで、息がゼイゼイと鳴っている。待って、という間も、それでもラスクは顧みずに地面を掻いた。

 何か見つけたんだ、と薫も歩を合わせて駆けると、ラスクは走り出したのち、地域のごみ置き場で立ち止まり、熱心に臭いを嗅いだ。ラスクの鼻先には、黒くなった林檎の皮の欠片が地面にへばりついている。薫は顔をしかめてラスクを引き離すと、やっと再び少女を振り返った。

 そこにはもう少女の姿は居ない。坂道を折れて曲がったのだ。どこかでそれも予期していて、落胆ともあきらめともつかぬ気持ちのまま、顔を戻そうとした。が、そのときふと、坂と坂の交差に立つカーブミラーに目が付いた。

 薫はほんの少しの間、その鏡面から目が離せなかった。鏡面の中、あの少女が、薫のほうをまっすぐに向き、薫がそちらを向いたとわかると、ゆらゆらと手を振ったのだ。

 薫は反射的に手を挙げた。そして心持、手首を揺らし、鏡面の少女が振り返り、背を向けて駆けだすのを見届けると、力なく手のひらをすぼめた。

 

 それから少女と出会うことはなかった。

 一方で、それからラスクの拾い食いがひどくなった。何か見つけると、その小さな体躯からは考えられないほどの筋力で薫を引き、素早くゴミに食いついた。柿の実、蜜柑の皮、ポテトチップスの欠片、ラーメンの残り汁。そしてついに、食物を包んでいたであろうビニール片を飲み込んでしまって、腸閉塞となった。治療と通院の費用が必要になった。

 頭痛は休暇旅行にでも行っていたように戻ってきた。薫は下町の書店へと求人誌を求めに行った。

 その帰り、日和が好いからぶらぶら歩いていると、中国茶という看板を見つけた。引かれるように中を見た。あの喫茶店ではない。日本茶葉を取り扱う店で、その中にハーブティも揃えるようだった。中に入って、加密列を見つけた。裏表紙を見ると疲労回復、鎮痛作用とある。これは、と思い、茶葉を買った。

 帰宅し、さっそく茶を淹れた。一口飲む。林檎に近い甘い果実の香りがしたが、味は少々苦かった。すぐマッサージ店のことを思い出した。サイトを調べに行くと、驚くことにカミルという名前と写真は残っていて、未だに出勤していることになっていた。一〇年以上も前からずっと出勤を続けているのだろうか。そんなことはない。カミルは薫だ。出勤などしていない。

 薫はまた一口加密列茶を飲むと、店のサイトの番号に電話を掛けた。削除を依頼しようと思った。頭痛はない。鎮痛作用が効いているのだろうか。薫は微かな活力と義憤が沸きあがるのを感じていた。

 受話口に男が出る。あの時の店長なのかは分からなかった。薫は開口一番、過去に働いていた者だが、写真がまだ使われていることを伝えた。

 源氏名を伝え、男の返答は意外だった。カミルはまだ働いているという。今日も出勤予定だと付け足した。

「いたずらですか? 営業妨害は止めていただきたいですね」

男の声は薫の返答を待たず、威圧的に落とされた。

「いえ、そんなつもりは」

薫の声は震えた。後が続かない。

「……ご予約、されますか」

男の威圧的な声は、意外なことを続けた。そして滔々と施術時間と料金を述べる。一時間八千円が、安いか妥当なのかは分からなかった。

「体の痛みや、疲労感、コリをほぐしますよ。皆様満足されます」

「あ、あの」

薫は言葉を探した。男は返答を待つのか、無音となった。薫の手元の湯呑から、ゆらゆらと白い湯気が上る。あの香りはもうしない。

 

 

 

万年茸

 

 日が暮れるのが早くなった。

 絢菜はふた吸いばかり吸った煙草を灰皿へ落とし込み、駆け足のところを早々、赤信号に止められた。それで手持無沙汰に、そんなことをあらためて思った。

 目の前の交差点では帰宅時間とも相まって、乗用車やバス、タクシーなどの前照灯が、信号機に合わせ、多様なエンジン音と共に目まぐるしく行き交った。また、正面に見える郵便局では、しきりに郵便の赤いバイクが出入りしている。

郵便局の道なりに行き当たる踏切は、警音を鳴らし続けていた。その向こうでは夜空が、まだ微かに紅色を残している。冷たく強い風が吹いた。絢菜は紫のマフラーを襟もとで強く抑えた。

 交差点の先、踏切までの道には、郵便局に続き片側の道に連なっていくつか小店が並んでいる。古本、理髪、額縁、酒屋、学生服。どの店も時代に置き忘れられたように、小さな店構えはどれも一様に古びている。いくつかはシャッターが開いたところも見たことがない。その古めかしい並びに、暖簾も出さない小さな飲み屋があった。いわゆる隠れた名店ということらしく、上司の小東は好んでそこに通っているらしい。今日は絢菜も誘われた、というよりも絢菜のほうから誘ったに近いかもしれない。信号が青に変わった。絢菜は駆け足に交差点を渡った。

 絢菜は入社三年目で、職場では未だ若手という位置づけだった。一方上司の小東は春先に都市部の支店より転勤してきて、職場の中では日が浅い方であった。絢菜とは課も異なるから業務上の関りはあまりないが、年齢も二回り近く離れているのに、不思議と馬が合うというか、たとえ絢菜が何をしてもきっと彼は怒らないだろうし、彼は絢菜が怒るようなこともしないだろうといった、不思議な直感の安心を絢菜は抱いていた。きっとそれを小東も感じているだろうと、これもまた直感のようなものを内心いだき、日ごろから何かと声を掛け合う仲になっていた。ある時ふと小東がこの店に通っていることを聞きつけて、もともと入りにくい店構えでもあったから、興味や経験というところで、この日はちょっとだけ飲みに行こう、という話になった。

 絢菜は店の前に来ると、古木枠のガラス戸をそっと引いた。むわっと室内の暖気と、湯気が広がったように見えた。

 小東は先に、入り口にほど近いカウンターの隅の席に座っていた。テーブルにはビールのジョッキが置いてあり、半分ほど減っている。小東はすぐに顔を上げた。

「お待たせしました」

「おつかれ」

「やっと終わりましたよ」

「大変だったね。定時間際に」

絢菜は大仰に肩を落として見せた。職場では、金曜は定時で終業、という決まりがあるものの、定時間際に絢菜のほうの課で問題が起こった。

「解決したの」

「ええ、一応。残りは週明けにやることになりました。ああ、疲れた」

「ビール、に、する?」

小東はお品書きを片手に差し出したが、絢菜は受け取らず、マフラーやコートを脱ぎながら頷いた。

おやっさん、ビール、ひとつ」

 すぐにビールが出され、続いて通しの小鉢が二つ並べられた。鳥皮のポン酢と、魚の端材の生姜煮だった。

「おつかれさまです」

二人はグラスを擦り合わせるように重ねた。

 

 

 酔いもいくらか回った。二人の会話は他愛のない、職場の話が主だった。

 小東は仕事ができる上司だった。聡明で、冷静で、声を荒げたことも、今まで一度もない。部下などが問題を起こしても、咎めることはせず、また難色も示さず、ただ淡々と問題解決に向かい動いた。それができる知識と経験と、そして頭の回転を持っていた。

 また、同僚に聞いた話では、通勤時には必ず文庫本を開いているらしい。推理小説かなにかだろうか。それに加え、学生の頃には陸上でどこぞの選抜にも出たという。近年まで地元の小学生をボランティアで教えているような話も聞いた。それでルックスさえもう少しシャッキリとしていたなら、異性からの人気も高かったに違いない。小東は顔も体もぬっとしていて、さらにいつも一回り大きい背広を着用しているものだから、古木のような野暮ったさを纏っていた。今の業種よりも、考古学や歴史の研究家のほうが似合っていそうだった。

 パート従業員の昼飯時の愚痴がひどい、という絢菜の話が終わったころ、小東は微笑みながらおもむろにカバンから銀の小包装を取り出すと、さっと口に流した。絢菜は頭上でさらさらと鳴る顆粒の音を聞き、それを眺めた。わざわざ目の前で飲んで見せるのだから、詮索しても問題はないように思えた。

「なんです、それ」

「これね」

丸めた包みを開くと、そこに霊芝と書かれている。銀の包装に薄い緑や茶色で色付けされてある、市販の漢方のように見えた。

「れいしば」

「レイシ、ね。万年茸のことだよ」

マンネンタケ、といわれ、キノコだと分かった。そんなキノコは知らなかった。

「漢方ですか」

小東は口を洗うようにビールを飲みながら頷いた。

「お酒で飲んでいいんですか」

絢菜は少々大げさに眉をしかめて見せた。

「昼飯、今日、いけなかったから」

小東は苦笑いを浮かべながら、ぼそりと弁解した。

絢菜は相槌も半ば梅酒の残りに口を付けた。小東も間を埋めるように、ジョッキをなめるように口を付けた。絢菜は横目で小東を覗きながら、

「なんの薬なんですか」

と切り出してみた。

「うん、いろいろ効能はあるみたいだよ」

絢菜は小東の籠り声に瞬間、苦悩、と聞こえ、ひやりとしたが、すぐさま空耳と理解し、頷いた。

「不眠と、食欲改善と、記憶の向上、疲労の改善、あと神経衰弱にも……」

小東はメモを読み上げるように宙を見て述べたのち、ぱたりと止め再びビールを口にした。続くかと思えばそのまま言葉はなく、ちらりと絢菜のグラスを見た。

「次、何か頼む?」

「いえ、もう……」

「そう? じゃあ俺はもう一杯だけ……」

それから半時ほど小東は飲み続けた。いくらか饒舌になったらしく、いつも飲んで帰ってから、さらに焼酎を飲むだとか、妻にインスタントラーメンを作ってもらいながら、食べずにソファで眠ってしまうだとか、つまらない話を小東は面白そうに語り続けた。絢菜はただそうですか、と、空になったグラスを時々見つめながら、半ば目をつむり頷いていた。

 

 

 店を出ると雪が散らついていた。通りの交通量はずいぶん減っている。後から、会計を済ませた小東も出てきた。

「ああ、雪だね」

「ごちそうさまでした」

小東は適当な返事をしたまま、絢菜に預けていた自分のマフラーと鞄を受け取った。それを巻きながら、

「帰るか」

とつぶやくと、駅の方へのそのそ歩きだした。数件の店並みの先に、踏切があり、そのすぐそばはもう駅となっている。だから踏切の周辺は同時に駅前にもなり、植木などが整備される簡単な広場だが、街灯が少なく夜は薄らさみしい。

 夜景に小東の後ろ背を改めて見ると、やはり古木のようにぬっと高い。それが膝をあまり曲げずに足を擦るように歩くから、どこか静的というか、夜の森を意思持つ樹木が人知れず徘徊しているような、児童劇の世界を垣間見ているような、懐かしい気持ちになる。絢菜はそんな後ろ姿に、やはり着ぐるみに対する子供のように、とびかかったり、ひっかいてやったり、黒いマフラーを締め上げたいような衝動を感じた。

 踏切でさよならだった。絢菜は手前の改札で、小東は逆の方向、踏切を渡って向かいの改札にいかなければならない。

 横断歩道で小東は立ち止まり、絢菜を振り返った。

「じゃあ……」

と、小東が心持手を挙げたところで、絢菜は笑みを浮かべ遮った。

「改札までお見送りします。こっち、まだ来ませんから」

「いいよ、そんなの」

と渋る小東の背中を押した。小東のコートは厚い羽毛で、温かくも冷たくもなかった。うっすら思いがけない贅肉の感触と、その下の硬さは背骨を感じるようだった。

「ほら、奢ってもらったし、それぐらい……」

と、絢菜の言葉に重ねて踏切の警音が鳴った。絢菜は咄嗟に小東の背から手を離した。小東は後ろを見ないまま足を止める。遮断機がゆっくりと下降を始めた。赤い電灯が交互に光った。目に残る強い赤光は、繊維のように軽く降り続く薄い雪と、それが付着する白髪交じりの頭髪と、そして黒いコートの縁とを律動的に赤色に表した。

 絢菜はその光景を後ろからぼんやりと眺めた。光は鼓動のようだった。

「生きてる」

絢菜はそう口にしたのか、心に思っただけか、自身でも分からなかった。ちょうど回送電車が踏切を通過し、轟音に辺りが覆われたためだった。

 しかし小東は振り向いた。振り向き、絢菜を見下ろした。枠なしの眼鏡が、その表面の手垢とともに赤く光っていた。眼鏡の下には立派な鼻と、そして一筋の鼻血が、流れ、そしてマフラーに擦れて伸びたところだった。

 絢菜はその一瞬間に目を見開き、そして次には目を細め、首をかしげて見せた。

 遮断機が上がり、二人は連れ立って踏切を渡った。小東は改札を抜け、今度こそ大きく手を挙げて、別れを告げた。

 それからしばらくして、絢菜は自分の電車へ乗り、車窓を眺めながら帰った。小東の鼻血が気になった。今もなお、鼻血の跡を口元につけたまま、電車で居眠りをしたりしているのだろうか。

 電車は明かりのない田園地帯の中を走っていた。町と町との間の道だ。絢菜は夜道に、朝に見る枯れた田園風景を思い重ねた。

 と、前方の窓に青い光が見えた。それは一息に車両の横を通っていった。踏切だった。人気のない、田園の間にある踏切。自殺防止の青い電灯。それと踏切の赤い電灯とが混ざって、絢菜が顔を覗かせる車窓の、前を通過するその瞬間、いかにも人工的な紫色に変わり光っていた。

 絢菜はそれが見えなくなるまで目で追い続けた。まだ残る酔いのせいか、とてもそれが、美しく、特別な体験のように感じられた。それが彼方に消えてしまうと、唐突に小東の死を思った。小東の葬式を想像した。あのぬっとした背も、棺に納められるのだろう。死んでも変わらないすまし顔で、そうですか、といった風に、蝋を塗ったような蒼白顔で朽ちていくのだろう。

 絢菜は少し泣きたいような気持になった。しかし涙は出なかった。ふるふると唇が震え、それでだけで涙は引っ込んでいく。

 絢菜の度々崩れかける顔を、黄色い車窓に映しながら、明かりのない田園の中を、電車は抜けていった。

 

 

 小東が鼻血を流しながら職場で倒れたのは、それからひと月近く経った年末間際のことだった。幸いにか、すぐに正月休みとなるので、そのまま小東は休職を申し出たらしい。療養に充てるとのことで、年明けか、二月になってからか、体調次第ですぐ顔を出すだろう、との噂だった。

 絢菜は年末に、亡き祖父の古家の片づけを手伝っていた。数年前に故人となってから、祖母は叔父の家で同居することとなり、しばらく古家は放置されていた。年末が好い機会だからと、親族でかわるがわる遺品の片づけや掃除に訪れることとなった。

 絢菜は座敷の押入れを片付けていた。そこには床飾りが主に詰め込まれていた。掛け軸、瀬戸物、茶器、干支の木彫り。どれも大事そうに桐の箱に仕舞われていたが、奥にひときわ大きな木箱を見つけた。

 開けてみると、床飾りにしてはいくぶん大きな枯れ木に、手のひらほどの大きさの、ひだのようなものが、幾重にも並び生えているものだった。ひだはキャラメルのような深い茶褐色で、陶器のように硬く、指でたたけば軽い音がした。

「おばあちゃん、これなに」

絢菜は座敷の押入れに頭を入れた祖母を振り返り、尋ねた。

「霊芝さね」

祖母は押入れから頭を出すと、何事もないように言った。

「レイシ、ね」

「何がいいのか、さっぱりね。縁起物だろうけど」

そうか、これが万年茸かと、絢菜は一人感心していた。床飾りもなるのだろうか。

「これ、食べれるの」

「そんなもん、食べたなら腹こわすよ」

食べられるものなら、と祖母は笑った。

 絢菜はふうん、と言ったまま、大きな霊芝の飾りを両手に抱え、冷えた台所へと向かった。ダイニングテーブルに霊芝を置くと、代わりに置いていたスマートフォンを取り上げ、霊芝について調べた。

 霊芝はやはり万年茸という説明で、うまく乾燥して保管すれば万年は形を崩さないとある。漢方として昔から重宝されているようだが、医学的根拠はいまだ乏しいらしい。祖父の持つもののように、飾りとして利用されることが多い。食用には適さないとある。

 絢菜はスマートフォンを置いたのち、心持背を伸ばして祖母のいる座敷を顧みた。そして気配のないことを確認すると、霊芝の傘の部分をさっと指でぬぐい、そっと口をつけ、それから犬歯を立てた。かり、と軽い音がして、欠片が絢菜の舌の上に落ちた。クイニーアマンをかじった時のようだった。

「うえ」

すぐに異物感が口に広がり、反射的に指先へ欠片を吐き出した。それは鉱石のように、紫色の輝きを見せていた。

蟷螂

 

 亮平は大学に向かうべく地下鉄に乗り込んだ。

 昼前の時間であるのに、車内はまずまず混んでいて、席は座れないほど埋まっていた。そこには彼と同じような学生をはじめ、他は仕事だろうか、スーツ姿の大人もちらほらと姿が見える。彼はふわりと車両内を見渡したのち、同い年ぐらいに見える白いダウンコートの女性を端の座席に見つけると、その前のつり革に漫然とぶら下がった。

 電車はホームを抜けると、すぐに車両の窓へトンネルの内部を映し出した。重ねてその黒い車窓に、車両内の風景、そして亮平自身の姿を重ね映した。映る自分は、自分が思っていたよりも野暮ったく見えて、さっと、目をそらした。

 すぐに電車は次の駅へ停車し、また幾人かの乗客が車両へと入ってきた。座席同様、新規の乗客たちにつり革も埋まり始めた。亮平は人の波に押され、ダウンコートの女性の前から、閉じている方の扉へと避難した。

 再び電車は動き出した。亮平は扉の窓に背をつけ、混みつつある車両内を眺めた。乗客はみな連れ合いがいない様子で、誰しも顔を合わせて会話することなく、ただ手元の携帯電話や文庫本などに目を落としている。みな示し合わせたようにきれいにつり革につかまり、通路を開け並んでいる。

「……なお、車内での通話はご遠慮ください……」

亮平は退屈そうに眼を細めると、窓に背をつけたまま体を横に滑らし、扉の脇の手すりへと肩を預けようとした。

「あっ」

するとつり革の方で声が上がった。反射的に顔を向けると、見知らぬスーツの男が腕を亮平に伸ばしていた。そのまま男の腕は亮平の腕をつかんだ。亮平は反射的に手すりにもたれるのを止め、腕をつかむ男の手を見た。

何をされたのだろうか。と、思う間に、男の手を見る同じ視界、腕の脇の銀の手すりに、薄緑が映った。それは小さな蟷螂だった。蟷螂が手すりに付いている。それは、なめらかな鉄の上、滑り落ちることもなく、下方に向かい垂直に動いていた。

亮平の腕をつかむ男の手はすぐにほどかれた。亮平は咄嗟に男の顔を見る。スーツの男は少し申し訳なさそうな顔をしながら、目も合わせず、小さくお辞儀をした。

「あ、」

と、亮平もこぼして、小さくお辞儀を返した。助けたのだと思った。しかし男は何も言わず、下を向くばかりだった。亮平はちょっと体を揺らしたのち、くるりと体を返すと扉窓に張り付き、地下道の黒い壁を、見るともなく眺め続けた。

 

それから何事もなかったかのように、車両内は車輪の音だけが鳴る静けさへと戻った。そしてガタガタと大きな音を立てたかと思うと、風景は一息に、河を渡る鉄橋の上へと駆け上がった。秋口の水彩のような青空と、青銅に似たなめらかな大河の水面と、その両岸には黄色がかった枯草の河原が伸びている。それらは数秒ののち流れると、すぐに都会の風景へと移り変わり始めた。

 亮平は過ぎ行く河原を眺めながら、小学生のころを思い出していた。

 汚れるのも、寒さも気にせず、友人とともに雑木に立ち入り蟷螂を探した。蟷螂は少し歩けば容易に見つかった。そして容易にそれを素手でつかみ、捕まえた。

 捕まえたものの大きさを比べ競った。亮平が一等になることは、ついになかった。大きくて力強いのは雌だった。区別などの知識はないから、大きければ雌だと決めつけ、友人たちは仲間の目を集めた。雌は同じ蟷螂でも雄を食うと噂しあった。知っていても、何度もそれを口にした。亮平は小さくてか細い雄しか、捕まえることができなかった。亮平はそれからを覚えていない。捕まえて、すぐに逃がしたのだろうか。大きな雌を捕まえた友人たちは、それからどうしたのだろうか。

 

 電車は速度を緩めた。直に次の駅に停まるらしい。亮平は思い出したかのように、自分のすぐ脇の手すりを見た。しかし蟷螂の姿は消えていた。自然と目は、車両内に蟷螂の薄緑を探した。と、車内の床、通路の中央に、小さく、てこてこと歩いているのを見つけた。

 電車は駅に到着した。扉が開くと、車内の人々がホームに向かい動き始めた。

 亮平は顔を上げて周囲を見た。蟷螂に気付き避ける人もいたが、半ばは気づかず足を動かしているらしい。亮平は無意識に、先ほど自分の腕をつかんだスーツの男を見た。男もその駅で降りるらしい。体を出口に向け、降りる集団へ体を預けようとしている。男のすぐ前には白いダウンコートの女性もいる。

 男は蟷螂を見ていた。当然、踏まれるかもしれない危険にも気が付いているだろう。が、男は蟷螂を一瞥すると顔を正面へ向け、出口へと向かう女の後に続いた。

 蟷螂は雑踏に埋もれて見えなくなった。亮平は蟷螂のつぶれる姿を想像した。いやな様子だと思った。

 亮平は扉窓にもたれた体を返し、再び車窓の外を見た。耳には人々が入れ替わる気配が伝わっていた。ホームのベルが鳴る。閉まる音がする。亮平の目に映るのは、向かいのホームにたたずむ、人々の流れる姿だけだった。彼はそこに知り合いの姿を探した。

小綱の呪い

 目を覚ますと砂の上に居た。それも、薄紅色の砂だった。ここはどこだろうと辺りを見回すが、薄紅の砂浜と、それに沿って深い青の海が広がり、海の反対側には浜に並行して深そうな森が伸びているのが分かるだけだった。記憶のある風景では無かった。空からは霧雨が降っていて、体中濡れていたけれど、冷たくも寒くもなかった。空を見上げると、雲も薄紅色をしていた。なんとも気味の悪い風景のなか、僕は朦朧としていて、それまでのことは思い出そうとしてうまくいかない。僕は眠っていたようだった。暫くぼんやりとそのまま、静かに寄せる波を眺めていた。もう一度寝てしまおうかとも思った。しかしそうしていても仕方なく、歩こうと思った。歩いて、ここがどういう所なのか確かめようと思った。シャツもズボンも砂まみれで、叩いてもなかなか落ちない。砂まみれのままで、雨に湿る砂に足跡を付けながら、海岸に沿って歩くことにした。辺りは静かで、波の寄せる音と、砂が水分を吸い込む、シュワシュワとした音だけが鳴っていた。

  しばらく進んで砂の小山を越えると、土地の子供だろうか、ひとりの男の子が、波打ち際でパチャパチャと遊んでいるのを見つけた。学校帰りだろうか、麻の手提げ鞄を砂の上に放り出して、波だとか、砂だとかを蹴り上げている。僕は他に頼りもないので、その男の子に話しかけることにした。

「こんにちは。ひとりで遊んでいると危ないぞ」

男の子は僕に話しかけられて、一寸まごまごとしていた。何をしていると尋ねると、

「海をみてる」

 とのことだった。

「海たって、ここらの子だろ? 珍しいものでもなしに」

「うん、何もないよ。……あなたは誰? 村の人?」

「いや、村の人間ではないよ。たぶん違うところから来たんだ」

「……ふうん。遠くなら山の向こうに行ったことあるよ。あなたはそこの人?」

「どうだろう? いや、もっと遠く。たぶん君の知らないところ」

「じゃあ、遊覧船に乗ったの?」

「遊覧船? 歩いてきたのだと思うけど。よく覚えていないんだよ」

「ふうん、変だね。……遊覧船なら島のそばを通るんだよ」

「島? そう……。ここはなんていう所? その村まで連れて行って欲しいんだけど」

「ううん。いいけど。……でもぼくはやめたほうがいいと思う」

「どうして? 僕は帰りたいんだよ」

「……ねえ、こつなって知ってる?」

「こつな? いや、知らないな。こつな?」

「鬼の子だよ。御爺様がね、島にいるんだって」

男の子は伏せた目のまま、相変わらず足で砂をいじっていた。僕は島と聞いて、自然と海のほうを見た。水平線は靄でぼやけていたが、そこに薄っすらと青い輪郭が見えた。その方に陸地があるようだった。

「あの島? あの島に鬼が住んでいるの?」

「知らないよ。でも御爺様がそうだって」

「怖い鬼?」

「そんなの怖くないよ!」

 男の子は一転、弾ける様にケラケラと笑った。何が面白いのか僕は分からなかったが、僕の反応が曖昧なので、俯いていた男の子は、はっと顔を上げて、僕の瞳をじっと見つめた。そしてまた俯いて、砂をいじりながら口を開いた。

「こつなは鬼の子供なんだよ」

「鬼? どんな……?」

「知らないの? みんな知ってるよ」

「僕は知らないんだ。みんなお爺さんに聞いたの?」

「御爺様はもういないよ。でもぼくはこの前御爺様に聞いたんだ」

「そう? ……、それよりも村に連れて行って欲しいんだけど」

男の子は尚も俯いたまま、足で砂の小山を左右に動かしている。

「ねえ。じゃあ、おおつなは知ってる? ……」

「おおつな? いや、それも知らない」

「じゃあ教えてあげるよ」

それから男の子は、ゆっくりと、しかし徐々に速度を上げて、大綱の話を始めた。男の子の祖父から聞いた話か、それともどこかの本を暗記したのか。宙を見ながら淡々と語るその話しぶりは、彼の幼さの分、なんだか何かが憑いたように狂気じみて、僕は気押されそうになりながらも、男の子の話にじっと耳を傾けた。男の子が満足すれば、きっと村へ連れて行ってくれるだろう。僕は今にも動きたい気持ちを我慢することにした。その間も、霧雨は僕らの体を静かに湿らせていった。

 


「そのむかし、国には方々鬼が棲んでいた。中でも西の大綱は有名で、体は大きく力持ち、手の付けられない無法者。十人かかる引き網を、ひとりで軽々上げるその様は、やはり鬼そのもので、いつしか者共彼を大綱と呼ぶ。夜な夜な海を渡って村に現れ、米と宝を奪っていった。者共困り、ある日娘を差し出した。娘はサヨと呼ばれる器量者、村一番の娘であった。娘は老いた親を持ち、当然彼のらは泣いて拒んだ。しかしそれもこれも村のため、鬼が退くならそれも命と、身を捨て鬼へと攫われた。悲しんだのは老いた親。露を飲んでは娘を思い、無事であれと願わぬ日は無い。募る思いは瓶を溢れ、次の新月闇夜に紛れ、翁はひとり海に出た。

   鬼の島は美しく、冷泉嘆美で獣も眠る。翁は鬼の寝床へ忍び込む。中を覗けば鬼は留守。翁と娘は泣いて喜ぶ。翁は娘を誘い出す。しかし赤子が居るから逃げ出せぬ。置いて行けと翁は言うが、娘は一向首を振る。そこへ鬼が戻り来て、逃しはせぬと怒りに燃えた。翁と娘は赤子を抱え、風のように船へ飛び乗る。鬼の足に地面は揺れて、赤子は激しく泣き出した。鬼の怒りに海は荒れ、容易に船は進まない。そこへ娘は大きく手を振る。鬼への別れを告げるため、力いっぱい手を振った。鬼はひとたびそれを見遣ると、嵐は去るように静まった。怒りは消えて、波は止む。船は進んで島を離れ、鬼の姿は闇に巻き、ついぞ見えなくなってしまった。

彼らは村まで辿り着き、赤子は小綱と名付けられ、村ですくすく育っていった。しかし小綱は鬼の血を引く。者共からは鬼の子だとはやし立てられ、ついに村には住めなくなった。気に病む小綱は、山の柴に火をつけて、そこへ飛び込み、身体を焼いて死んでしまった。小綱の体は灰になって空に飛び散り、いつしか消えて無くなった。それからというもの、鬼は村に現れない」

 


  僕と男の子はいつしか砂浜に腰を下ろして海を眺めていた。男の子は話が終わると、ふいと濡れた髪を揺らして僕の顔を見上げた。

「これは学校で習うやつだよ」

「学校? お爺さんじゃなくて?」

「御爺様のはこつなの話だよ」

「ふうん? それじゃあこつなは村人からいじめら   れて、死んでしまったわけだ」

そう聞くと、男の子は放っていた手提げ鞄を手繰り寄せ、中から紙の束を取り出した。それは古い紐で綴じられた藁半紙の束で、表には、「○○地区片子伝承に関する覚書」と記されていた。きっと男の子の祖父のものであろう著作名が記されている。男の子は僕にそれを差し出した。

「これはお爺さんが書いたの?」

「家にあったんだ」

男の子は少し固い笑顔を浮かべながら、三角座りの膝の裏へ、両手を抱え込んで揺れていた。人文学か、風土歴史の研究書かだと思いパラパラと中を開けると、記録書にしては情緒的で、物語的な内容であった。前半は男の子が話したような内容とほぼ同様であったが、後半は鬼の子、小綱がどのような半生を遂げたのか、作者の創作で描かれていた。きっと彼の祖父の趣味か娯楽で書かれた他愛のない散文だろうと、僕は一寸面倒くさくもあったが、男の子の手前、砂の湿りを尻に感じながら、波の音を耳に、その物語を読み始めた。

 


……暗がりの部屋の中、パチパチと囲炉裏の薪が心細く弾けている。その白い薪を瓦釘で突きながら、海水に濡れた体を暖める翁は、やはりそうやっていても不安を紛らわせそうには無かった。無事に島から抜け出せたのは良かった。しかし海水に濡れた赤子の包み布団を剥いだ時、翁と刀自は驚いた。赤子は両腕を縮みながら、すやすやと眠っていたが、その肌の色、青い痣が斑点状に、全身に黴のように生えていた。

「こりゃあ……」

 翁は言葉にならず、刀自は小さく悲鳴のような声を 上げると、おろおろと取り乱している。

「可愛いでしょう? あなたの孫(ムマゴ)ですよ」

サヨは目を細めて赤子を抱いている。

「こりゃあ、どうしたんかね? 鬼の子だろう、この肌は。どうしたことだ」

「どうもありませんやね。……名は、小綱です。ほら、こんなに小さな手々で。見てやってくださいな」

「こりゃあ、どうしたもんだね。だからあの時捨てろと……。いや、しやあねえ。しやあねえがしかし……」

翁は大きく開いていた目を、力なく緩めた。サヨはそんな父の様子を気にも留めず、体を揺らして赤子をあやしている。赤子は眠たいのか、閉じられた瞼の上に、薄く細い眉をしかめ、長い夜に唸るだけであった。

  只でさえ、鬼に攫われ姿を消していた娘が、或る晩突然戻ってきたのである。当然村の人々は不振の目で翁の家族の様子を窺った。そして娘は見知らぬ子供を抱えている。しかもその子というのが、人には見えぬ肌の色を持っていた。彼らはすぐに妖の気配を感じ取った。鬼の気配というだけで村人からは敬遠されるが、しかし実際のところ、本当に鬼の子供かどうかは定かではない。問題は経緯と結果であった。サヨと翁は何処の者か分からない、外の血を村に引き入れたのである。その特異性、特殊性が、村の人々の本能的な保身を脅かした。半分はサヨの血であるとはいえ、それも村人からしたらどうだか知れない。何せ村人は小綱の産場を目撃していない。ともかくそういった経緯があって、結果として、現れたのが尋常ではない肌の色の子だ。村人は警戒し、嫌忌せずにはいられなかった。

  小綱がそんな生まれで、また肌をもっていたため、彼は当然のように村人から疎外を受ける対象になった。村人からは鬼の子だと気味悪がられて、誰も集まりに加えようとはしない。こそこそと噂をし、こつなの痣をしかめ面で厭った。

「鬼の子だ。今に人を喰うぜ」

「あの痣に触れると痣が移ると聞いた。あの家のモンは鬼が化けてるらしい」

「なにせ鬼に寝取られたんだ。卑しい娘よ、あれは」

そういった会話が、晴れの日も雨の日も、村の軒では交わされた。話題や退屈を持て余す村人にとって、それは恰好の材料だった。

  翁夫婦も、サヨには見せぬが、小綱には鬼の血が流れていると密かに恐れた。サヨ自身すら、鬼と自分の子だと言うし、しつこく口を出した日には、「誰が親でも関係ない。」とサヨは怒るのである。そうやって、サヨは小綱の生まれや見た目を人目から気にする様子を出さず、ひとりの母親として優しく小綱を愛した。そんなサヨの様子もあって、翁夫婦は、他の村人からすると、幾分嫌忌を面に出さず、通常の祖父母のように小綱を可愛がるように見えた。しかしやはり、村の者と話す会話の端々には、小綱が普通に生まれた子であるならばと、何処か肩身の狭い思いをしない時は無かった。家の子はああだからと、つい口癖のように言ってしまい、その口癖に何の作為も混じらないものだから、祖父母からの子孫への劣等感は消えることが無かったのだろう。そして何より、翁の一族の血を汚したと、残念に思ったこと、しいては村中からそう思われることが、翁にとって無念であり、情けなくもあった。

  小綱が七つの頃になれば青い痣は絵の具を垂らしたように広く濃く伸びた。ある夜から、それはとても痛みだした。痛い痛いと小綱は幼い口でサヨへ訴え、布団の上を転がり、容易に寝付けそうにない。サヨはどうにかして痛みを癒してやろうと、湯を沸かして布で痣に当ててやった。しかしそれでも駄目だった。癒えるどころか、痛みが走ると見えて、小綱はぎゃあと大声で泣きだす仕舞いだった。どうしようもなく、あれやこれやとサヨはなだめ、鎮めて、それでも小綱は転げまわり、床を掻いて、そうやっていつしか疲れ切って眠ってしまうのだった。

そういった日が続いて、これはいけないと、サヨは小綱を、村の薬師へ連れて行った。薬師は眠たげな目に茶けた半纏を羽織った気難し気な老人で、手の甲や額には大きな瘤が幾つもあった。

「これはどうだろう、草や虫のかぶれでは無くて、生まれつきのように見えるね」

薬師はごわごわとした手で小綱の肌を撫で、指先で突いた。ちょっと黙り込んで、そして手の甲の瘤をサヨと小綱に見せて言った。

「これを見てくれ、これも生まれつきのものでね。後から後から増えて腫れてくるんだ。残念ながらこれも薬が無くってね。かぶれや解熱、鎮静、消毒、いろいろ薬を作ってみたが駄目だった。あんたも恐らくその類だよ。つまり、薬が無いんだ。治し方が分からない。うつりはしないと思うがね」

「そんな、何か方法は……」

 サヨは食い下がろうとしたが、どうしようもないことをすぐに悟った。次の言葉も出てこず、静かに黙り込んでしまった。

「……では、治してくれとはもう言いません、せめて痛みを和らげる方法は無いんでしょうか?」

「ううむ。肌を清潔に、毎晩湯で洗ってあげるしか無いね……、これ以上ひどくならないようにね」

「しかし湯も痛むと泣くのです」

「そうか。ならば湯が痛いというのなら、これを渡すから、これで暖めてあげなさい。魚から絞った油だ。少しは肌が柔くなって、痛みもましになるかもしれない」

 


  村人の中には、小綱の特異性を受け入れてくれる、賢明で分別のある大人も居ないではなかった。医者も移るものでは無いと言ったことから、それを信じ、小綱と遊んでやったり、声をかけてやったり、サヨの代わりに面倒を見てやったりした。しかし小綱自身、そんな大人たちの目から、憐れみや蔑みといった感情を、子供ながらに汲み取っていた。そういった鋭さ、敏感さという小綱の特性は、或る種の、鬼の妖気に近いものがあったのかもしれない。ともかく小綱や周りの子供が幼い頃は、まだそれでも、その、世間から向けられたものが、なんだか分からずに生活していた。分からないながらも、自分の存在の祝福されていないこと、自分は厭わしいもの、そういった、何処か肩身の狭い思いをしなければならない運命を、漠然と抱えて生きていたのだった。

  月日は流れ小綱は十になった。彼は口下手でもじもじと控えめな子になった。背は他の子より一回りも大きく、力も強い。そして大きくなるにつれて段々と、自分の見た目と境遇と、周囲の目とを意識するようになった。その世間から向けられているもの、肩身の狭い思い、自分が世間から祝福されないもの、視覚的にも、厭われているものという自覚が、心の中に形のあるものとして蓄積し始めた。村人の目、子供たちの言動、さらに言うと家族にも迷惑をかけているのではないかといった疑心、それらは逐一小綱の心にぐさりと刺さり続けた。暑い日でも大きな布を纏って、出来るだけ肌を隠すようにした。蒸れて痣の痛みは増し、母親には布を取るよう注意されたが、それでも人目を汚す思いをさせるよりは良いと頑なに外さなかった。今更痣の痛みを訴えても仕方なく、その痛みはすでに彼の日常として当たり前のものになっていた。

  周囲の子共は、大人を真似て残酷だった。そして彼らの純粋な好奇も、小綱にとっては残酷だった。子供たちは大人と同じように小綱の体や親が鬼であることを面白がって、こそこそと噂をし、理由を付けて遊びの輪へ誘うことを避けた。そんな時、小綱は勇気を出して子供たちに声をかけることが出来なかった。自分が子供たちに受け入れられるとは、到底思わなかったし、自分などが遊びに加わるなんて迷惑だと思った。友達を悪い気分にさせたくない、そう思ったのだった。そう思いながら、それ以上に、もしまた断られたらと、自分が否定される恐怖のほうが強かった。小綱はそんな時、上手い対処というのをまだ知ることが無かった。村の隅の影に隠れて、ただ日が暮れるのを待ったのである。家に居れば家族に心配をかける。ひとりぼっちの所に、通り掛けの大人に声を掛けられても、力なく笑って、その時が過ぎるのを待つしかなかった。また次第に、小綱が反撃をしないと分かると、子供たちは直接小綱へ攻撃の手を向けた。小綱があまりにもその境遇を受け入れすぎたのだった。

「よう、なんでそんな色をしてるんだ」

「小綱、お前が何を気にしているのか知ってるぜ、その痣だろう」

「鬼がおとうだったのは本当か? みんな言ってるぜ」

「カビが生えているみたいだ。洗って落とさないのかよ」

「ちょっと触らせてみろよ」

「やめとけ、触るとうつるぜ、痒くなって鬼になる」

みんなで小綱を囲って、木の枝などで痣を突いては、悲鳴を上げて逃げ回った。また、体中に魚の油を塗っているものだから、小綱からは生臭さがにじみ出ている。魚の死骸だと馬鹿にされ、おとなしい子供からも避けられた。それでも、やはり大人びたというか、人を傷つけることは良くないと知っている子共たちも少しは居て、その者からは助けてもらったり、かばってもらったりもした。小綱はそんな優しさを嬉しく思った。優しさに人知れず涙を流したりした。しかしそれ以上に、情けない気持ちでいっぱいになった。そしてそんな子供たちからも憐れみのようなものを感じて、やるせなくなったのだった。小綱はただ、他の子と同じように、対等に暮らしたかった。もちろん子供たちはそんな難しいことを一々考えない。しかしこれまで人の目にさらされ続けた小綱にとっては、人の目を色々考えてしまう癖がついていた。人々を不快な思いにさせたくない、ただ純粋に、自分の感じたこと、考えていることを伝えたいと願ったのだった。

  小綱はある日、思い切って母親のサヨに相談をした。

「お母さん、なぜ僕はこんな見た目なんでしょうか。この肌はどうしたら治すことが出来るんでしょうか」

小綱の湿った瞳から、小綱がその脆弱な勇気をひねって言葉を出していることが、サヨにはよく分かった。普段あまり不満を口にしない小綱であったので、サヨはそれにも驚いた。

「……ああ小綱、確かにお前は他とは違う見た目で、生まれも特別です。でも、誰もそんなこと気にしないわよ。誰かに何か言われたって、そんなこと気にするもんじゃないわ。元気に声をかけてみなさいよ。仲間にいれてって言うだけだわ、簡単なことよ」

サヨは小綱の状況をある程度は察していた。だから余計に、気丈に振舞うことが必要だと考えていたのだった。それは、小綱に対するサヨ自身の態度でも、そうやって見せることが息子への教育だと考えた。その考えは、世を渡るうえで一部では正解だった。村人や、特に子供たちからの、好奇の目や特異性に注目する心理は、村という小さな集団を成り立たせるうえで当然の機能だった。そしてその特異性は一時的なもので、例えば小綱の方から勇気を出して輪に入っていったり、周囲の子供らと同等か、それ以上の力で向かっていたりすれば、自然にその特異性というものは慣れてしまって、厭わしささえ残るものの、攻撃を向けられることは無くなっていたに違いない。誰しもある程度の特異性は抱えているものだ。みなそれを隠したり、押し殺したりして人々の輪に入る。また、時にはそれを武器に人々を導く。しかし小綱はまだ世間ずれしていない子供だった。そして、そういうことが出来ない心を持っていた。そんな難しい考え方は出来ずに、ただ目に入る自分の痣と痛みを恨めしく思った。小綱はそんな風に母親に説得され、なんとも悲しい気持ちのまま、わかりましたと話を切り上げた。

  小綱はその夜、布団の中で考えた。母親の言うように、勇気を出そうかとも思った。しかしそう思うとまた、なんとも悲しい気持ちに襲われた。自分が世界で一人ぼっちのような気持になった。痣が無くなりさえすれば、すべてはうまくいくのだと、そう思った。小綱はただ、みなと同じように、心配なく遊びたいだけであった。みなに、他の子たちと同じように、何の心配もなくお喋りをしたいだけだった。

小綱はそうやっていつからか、みんなと仲良く出来ないのはこの痣のせいだと自分の体を呪うようになった。そしてなぜ生まれてきたのかとその境遇を呪った。小綱の心の弱さは段々ひどくなって、些細なことですぐに傷つき、のけ者になれば、自分なんて生まれなければよかったと、ひとり涙を流した。誰にでも訪れる孤独をうまく処理できず、それが自分だけなのか、みんな持つものなのかをも知らず、どうしたら良いのか分からなくなって、そして、その溢れる、ドロドロとした気持ちの処理の方法として、その矛先として、自分が生まれるきっかけとなった、自分の父親を呪うようになった。なぜ父親が鬼なのか、なぜ僕をこんな目に合わすのか。なぜ母を傷つけ、みなと同じような体にしてくれなかったのか。そして一向に姿を現さず、僕を守ってくれもしない。姿も見たことがない父親が、自分に向けて薄ら笑いを浮かべているような、小綱の頭には、そんな憎らしい想像がこびりつくのだった。そしてその憎らしい想像は、小綱の最大の敵として小綱の前に立ちはだかった、

 さて、母親のサヨは、そんな相談を受けてから弱々しい小綱を、どうにか強い大人に育てようと色々と工夫を行った。小綱を、その生い立ちからくる弱く繊細な子供だと分析して、この辛い世の中に、ひとりでも生き抜いていくことができるよう、父親のように力強く生きていけるよう、よくよく勉強させ、運動をさせ、出来るだけ他の子供と関わらせて、立派な大人になることを願った。それでもうまくいかず、ぐずぐずする小綱をけしかけては、体の痣など、人との違いなどは取るにならないことだと、ことあるごとに小綱を叱り教えた。

 そんな母親の教えもあって、小綱はのけ者にされながらも勉強に励み、仲間の輪に入ろうと努めた。周りの子供も成長するにつれ、小綱をのけ者にせずに、受け入れる場面も生まれるようになった。しかしそういう場面が増えるほどに、ふいに訪れる、痣や生まれを気味悪がられる瞬間が、余計に小綱を苦しめた。希望を抱くほどに、失望は色濃くなり、その性質は、彼へ呪いのようにまとわりついた。

 日ごとに、小綱の体は目に見えて変わっていった。痣は薄くなるどころか更に濃くなり、もう彼の体に青い所が無い程に染まっていった。また、額の上には突起のような瘤が生え、それを発見した小綱は、まるで角のようだと余計にふさぎ込んだ。そうなると、もういよいよ人目に出ることが耐えられず、彼は家に籠るようになった。毎晩自分の突起を触っては、涙を流し、しかしそれでも母親は、人と異なることを嘆かぬよう、前向きに努力することを諦めさせず、明るい声をかけ続けた。そんな日々を過ごすうちに、小綱は暗い家の中、ついに村で生きていくことが耐えられないと思い立った。何をしていても息苦しく、意識があるうちは常にどこか辛い。食事も味が無くなって、睡眠の中では化け物に追われた。昼間の長閑な村の声も、家の影で小さくなる小綱にとっては耳障りであった。耳を自分で引っ張り血が滲んだ。不眠に目は落ちくぼんで妙な眼力を持った。苦しさを紛らわすために、小綱はある日、衝動に襲われて、自分の腕に噛みついた。それは行き場のない気持ちの排出だった。噛み口からは血が溢れて、口の中へと広がった。血の味は、不思議と彼の心を優しく静めるものだった。そうやって一人で色々と暴れたり、自分を壊したりすることで、やっと一息つくことが出来るのだった。

 満月が浮かぶ、村の祭りの日だった。小綱は相変わらず、暗闇の家に一人で布団にくるまってやり過ごそうとしていた。その日もひとしきり自分を傷つけて、やっとウトウトしながら、そこである夢をみたのだった。小綱は夜の砂浜で焚火をしていて、辺りは暗く、周囲の砂だけが灯りに紅い色をしているのが印象的だった。そこには小綱の父親、大綱がいた。夢で見た大綱は、村の人々が言うような怖いものでは無かった。小綱はそこで、大綱と一緒に餅を焼いて食べた。それは小綱が捏ねて作った祭りの餅で、熱々のそれを息を掛けながらふたりで分けたのだった。大綱はその餅を食べて、美味いと言って笑ってくれた。小綱はそれがとても嬉しかった。

  ドンドンドンと太鼓の音が腹に響いた。盛り上がる祭りの音で小綱は目を覚ました。村の祭りはいよいよ佳境だった。祭りばやしが夜空に響いて、村人の賑やかな笑い声や、皆が息を合わせる力強い掛け声や歌が、地面から沸ように響いていた。小綱はもぞもぞと布団からでると、窓から祭りの様子をこっそりと覗いた。村は燈火に炎々と沸いて、みな楽しそうだった。賑やかにお酒を飲んだり餅を食べたり、汗をかいて踊ったりしていた。小綱はそんな村人たちの活気や匂いがとても厭わしく感じて、そこから離れたい、どこか遠くへ行きたいと強く思った。そこで小綱は、このまま誰も知らないうちに、ひとりでこっそりと村を抜け出そうと考えた。

「村にはもう、僕の居場所なんてありはしないんだ。村を抜け出そう。僕が消えてもきっと誰も悲しまない。僕は居なくなってもいいんだ」

しかし何処へ行こう。小綱が思いついたのは、あの大綱の島へ行くことだった。あれほど恨んでいた大綱だったが、しかし夢で出会った大綱が、本当のように思えたのだった。あの大綱に会ってみたい。あの大綱なら、僕を受け入れてくれるだろう、小綱にはそんな思いが芽生えていた。思い出こそ無いものの、その時の小綱は、大綱に呼ばれているとさえ思ったのだった。幸い村の人々は祭りに集まって、小綱のことなど気にかける様子はない。家族でさえ、小綱を置いて祭りの仕事に参加していた。抜け出すにはこの時しかなかった。小綱は祭りが終わらないうちに、暗闇の海岸へ、一直線に走り抜けた。

 


 夜の海は満潮で、平生よりも水嵩が増えていたが、満月の明りで遠くまでよく見えた。小綱は翁の櫓船を、力いっぱい浜辺から押し、静かに揺れる水面へ出した。そこへひょいと飛び乗ると、櫓船はよく揺れて、それで小綱はちょっと怖くなったが、しかし櫓船はもう引潮に乗ってしまって、小綱の意思なくどんどん沖へと進んでいった。小綱は縁に掴まりながら遠くを見た。満月は海を照らして、波はキラキラと輝いている。またその月明かりが、一直線に島へと伸びていた。小綱は誰も居ない海の広さに、彼自身の高鳴る心臓の鼓動を感じた。帰れなくなる不安もあった。しかし村を出ると決した手前や、なによりひとりで冒険をするといった沸々した気持ちのほうが勝っていた。そしてそれ以前に、船を返して戻る方法が分からなかった。

 船を漕いでいくことは、小綱が思っていたより力のいるものだった。休もうと櫂の手を少し止めれば、すぐに船首は思わぬ方向を向いてしまう。月明りの道を逸れぬように、小綱は息を切らしながら櫂を必死で動かした。それでも、時折海風が抜けると爽やかで、小綱は手を動かし続けながらも夜の海を見渡し、満月を何度も見上げたのだった。櫂を動かせばそれだけ進む、そういった手ごたえを小綱は少なからず喜ばしく感じていた。彼はただ櫂を動かすことだけに集中した。動かし続けなければ、何処かに流されてしまうし、波に呑まれて沈んでしまうかもしれない。ただ夜海の上、月の道を逸れぬことだけ意識する。遠くには月明かりに島の姿が見えている。このままだ、もう少しだ、そう思い続けると、その間は不思議と、自分の痣や、村でのお祭りを忘れることが出来たのだった。

  幾時過ぎたのか、小綱には分からなかった。かなりの間、小綱は櫂を動かし続けた。月は傾き、とっくに海の道は消えてしまって、それでも向こうの岸は見えていた。命辛々、そう思うほど小綱は憔悴して、ついに船底が砂を捉えると、彼は息もつかず、船から浅瀬に滑り落ちた。海水は冷たく、熱く燃えた彼の体をさっと冷やした。小綱は気持ちよさそうに浅瀬に横たわりながら息も絶え絶え目を閉じた。海水の浮力と揺らぎが、硬くなった彼の体を和らげる。やっとの思いで島に着いた。小綱はその心地の良い疲れをしばらくそうやって楽しんだ。島は静かなもので、ただ波の寄せる音がするだけだった。腕や全身がゆっくりと伸びるのを感じる。

  体がすっかり冷えてしまうと、小綱はようやく起き上がって、島の様子を改めて確かめた。月明かりに青く光る砂浜と、それに並行して鬱蒼とした黒い森が広がっている。と、浜辺から森の中のほうへ、草木の薄くなっている、道のような跡が奥へ伸びているところを見つけた。遠い昔の道のようで、そこはもう雑草が生えてしまって、小石もゴロゴロあって、とても歩きにくいものだった。しかし他に足掛かりは見当たらない。小綱は櫓船を浜にあげてしまうと、導かれるように、そのまま道を辿って森の中へ入っていった。

  森の中はいっそう静かなものだった。けものや虫の気配もない。小綱は暗闇におびえながら、茫々と伸びた草を掻き分けて進んでいった。枝や草葉が、小綱には煩わしく感じた。それらは彼の腕や頬を撫で、引っ掻き、たくさんの細かい傷や、障害をもたらした。小綱は苛々とそれらを薙ぎ払って道を作った。頭上には、茂る木々の隙間から月明かりが薄っすらと抜け降りて、それだけが小綱の心の支えだった。どれだけ進んだことだろうか。先が見えず、出口も分からない不安に、小綱が泣きそうになったころ、突然森が拓けて、月明かりに白く浮いている洞窟が現れたのだった。

 森の広場に、洞窟はその白い石灰の肌を夜闇にぼんやりと光らせていた。風は無くしんとして、小綱はその不思議な様子に、背中の汗が流れるのを感じた。小綱の足は自然と洞窟へと向いて行った。洞窟の中は暗いもので、中の様子は外からはよく分からなかった。恐る恐るちょっと中に入ってみると、目が慣れてか、それとも月明かりを反射してか、手もとの視界だけは薄っすらと見えてくる。彼の息の他、なにものの気配もなかった。小綱はそろそろと、引き込まれるように中へと進んで行くのだった。

 洞窟の中をいくら進んだのか、小綱には長く歩いた気もするが、案外そうでもないような気もした。洞窟の中はジメジメとしていて黴臭い。足元も悪く、滑りやすかった。小綱はそうやって、ぼそぼそとひとりで歩いている内に、実は出口がもう閉じていて、後ろから壁が迫ってきていて、自分のほんの周りだけが、土の中にぽっかりと開いているようなそんな想像に襲われた。それでも、小綱は進むしか無かった。夢で出会った父親を見つける、そういう希望は、もう根拠のない、確信じみた願いに変わっていた。足取りは早くなって、またどきどきと鼓動が強くなる。汗が額に滲んで息は浅い。後ろを振り返るのが怖かった。小綱が耐え切れず、ついに走り出してしまうと、そこで突然壁に当たった。小綱は息を切らしながら、グッタリと落ち込んだ。結局誰にも出会わず、誰かが暮らしている痕跡も見つけることが出来なかった。ハアハアと小綱の息遣いだけが壁に反射する。もうここには何も無いと分かると、小綱はすぐにでも引き返して、洞窟から抜け出し、恐怖から解放されたくなった。しかし折角そこまで、やっとの思いでたどり着いたのだ。何か足掛かりを見つけたかった。逃げ出したい気持ちを抑え、ひとつ大きく息を吸って、目を閉じた。小綱は変わらない心臓の高い鼓動を感じた。壁があること、そこが終わりであることを改めて見つめると、小綱には不思議な安堵が生まれた。これ以上は進まなくて良いのだ。そしてそっと、行き止まりの壁を手でなぞった。壁は冷たく、しっとりとして、そして艶やかだった。そこは暗く、孤独だが、さっぱりとした心地よさがあった。小綱は一寸そこで休んでいこうと、壁にもたれながらその場に座り込んだ。

「痛っ」

 途端に小綱の尻に何かが刺さった。顔をさげると、何か、尻の下に小石とは違うものを見つけた。何か白い、消し炭のようなものが散らばっているのだった。小綱はじっと注意深くそれを眺めた。それは何かの骨のように見えた。小綱はすぐに、それがもしかすると父親のものかもしれないと思った。小綱は確証を探した。何か父親たる、もしくは父親が残した痕跡を求めた。しかし暗がりの中、探せど頭の骨が見当たらない。その骨はなにものかが荒らしたようで、きれいには整っておらず、割れたり砕けたりしいて、それが父親のものだと確信は出来なかった。

 小綱はその散らばる骨の傍に力なく座り込んだ。これが父親のものだと、信じるものがなく、それに、それ以前に全然異なる動物のものかもしれない。小綱は肩を落とした。行きついた先がこれだと分かって、力なく項垂れてしまった。散々歩いてきた疲れと、なにかの亡骸を目の前にした、ぽっかりとした気持ちに沈んだ。小綱は洞窟の壁にもたれて、ぼんやりと暗闇を眺めた。そして時々骨を眺めた。そうしている内に、なんだか、憎んだり、会いたくなったりした父親が、なんてことは無いような気になった。それは力ない骸を目の前にしたからかもしれない。自分に流れている鬼の血が、不思議と、それほど大したものでは無かったと、そういう考えが生まれだした。彼が呪うように強く思ったその矛先が、どこにも無くなって、その思いは行く宛もなく、霧のように彼の頭上へ、もやもやと浮かび続けるのだった。

 この気持ちはなんだろうか。小綱はもやもやとした気持ちを浮かべたまま、その骨を埋めてやろうと思いついた。もう目的が何もなく、他を探す宛ても気力もない。疲れてはいたが、どうにか、体を動かしたかった。小綱は羽織っていた布を脱いで、何のものかもはっきりしないその骨を、そこに集めた。脆く崩れるそれを、ひとつひとつ指先で摘まんで布へ入れていく。全て納めるのには、そう時間は掛からなかった。布に全てを包んでしまうと、次には穴を掘ろうと考えた。しかし洞窟の地面は脆いが固く、こつなはフウフウと息を吐きながら、両手で一生懸命地面を掻いた。しかしちょっと小石が剥がれるだけで、布が埋まるほどの穴は到底出来そうにない。ついに小石の先で指を切ってしまって、それで小綱は洞窟に骨を埋めることは諦めた。そっと、指先に滲む血を舐めると、落ち着いて、ほっとした。そこで小綱は布を脇に抱えて、洞窟を抜けることにした。帰りは来た道をまっすぐ戻るだけだ。出口があることが分かっているし、血をなめた落ち着きもあって、小綱はずいずいと、すぐに洞窟を抜けることが出来たのだった。

 洞窟を出ると、変わらず静かな夜が広がっていた。帰り道は分かっていた。急ぎ足に森を抜け、小綱は砂浜に飛び出した。砂浜の土は掘りやすいと思いついたのだった。満月は随分傾いていたが、まだ砂浜を青く照らしていた。見渡すと、遠く東の空が、少しずつ明るくなるのが見えた。小綱は何も言わず、何も考えず、ただ手で砂をかき分け穴を掘った。暗い洞窟では気が付かなかったが、月明かりに両腕が照れされて、自分の青い痣を思い出したのだった。しかしこの時は、痣を呪う気持ちや、醜いと思う気持ちは、不思議と彼の心には起こらなかった。小綱は自身でそのことに驚いた。結局は、痣が厭わしいのでは無くて、それを見る人々が、そして彼らから向けられる嫌悪の目が、彼に辛い思いをさせていたことに気が付いたのだった。小綱は穴を掘りながら尚も考えを巡らした。何が辛かったのか、何が憎らしかったのか。彼にはよく分からなくなった。彼はふと、母親のサヨを思い出した。すると涙がぽろぽろと溢れてくる。サヨの、痣や生まれは気にすることじゃないといった言葉が耳に響く。小綱を説く、サヨの真剣な顔が思い浮かんだ。心がぎゅっと縮んだ。

「ちがう」

小綱は呟いた。涙はさらに溢れる。抑えきれず声が漏れる。

「ちがう、痣も、お父さんも、あるものなんだ」

小綱の涙はぽたぽたと落ちて、彼が掘り続ける穴の底を濡らしていった。

「気にしないなんて、できるわけないじゃないか。それが僕なんだから」

砂浜の穴はいよいよ深くなり、海水が染みるところまでたどり着いた。小綱はその、染み沸く海水を見つけると、彼の心からは何もかも溢れてしまって、その場にうずくまり、穴に向かってわんわんと泣き上げた。声は砂浜に、夜に、空に響いていく。その声を聴くものはどこにもいない。ただ月がゆっくりと傾いて、波が静かに揺れて、東の空が白んでいった。

 


 村の岸までの船は気安いものだった。もう空はすっかり朝になって、村の岸は良く見えた。布で包んだ骨は、すっぽりと砂浜の穴に収まった。しっかりと砂をかけて、そして埋めた場所が分かるように、乾いた流木を深く刺して立てた。小綱には、船が沖まで進んでも、骨をどこに埋めたのか良く分かった。朝の白い砂浜に、黒くその流木がよく見えた。まるで、そこに誰かが立っているようだった。穏やかな朝の水面は、鏡のような白金色をしていた。

 小綱が村に辿り着くと、家族が大切に迎えてくれた。心配したと叱られもした。しかし小綱はひどく眠たくて、返事もほどほどに、食事もせず、布団へと包まった。祭りの後の村の朝は、まだ人や燈火の匂いが強く残っている。しかし小綱には、不思議とそれほど嫌な気持ちは湧かなかった。彼は布団のなかでウトウトとしながら、それでも妙に目が冴えてしまって、眠たいが、うまく眠ることが出来なかった。小綱は布団の中で、一夜の冒険のことを思い巡らした。海のこと、砂浜のこと、森のこと、様々な場面を行ったり来たりして、心が休まらない。そして洞窟のことを思い出した。布団に包まっていると、またあの洞窟に入り込んだ気持ちになった。そして小綱は骨のことを思い出した。小綱が浮かべていた、もやもやとしたものはどこへ行ったのか、彼はそれを探そうとした。しかし小綱の心には、もうどこにも、もやもやとした気持ちを見つけることは出来なかった。彼の心の中は、あの洞窟のように、ぽっかりと暗く、手探りしても何も掴めないようだった。すると、途端に小綱は不安に襲われた。もやもやした気持ち、大綱を憎んでいた気持ち、サヨが教えた言葉、自分の痣、そしてそれらを呪う気持ち、それらはこれまでの小綱の全てだった。今までの小綱を作り上げていた全てのものだった。小綱は気が付いた。小綱が抱えた鬱々とした気持ち、そしてその呪いは母親のサヨが小綱にかけたもの、そして小綱が掛けた、彼自身のためのものであった。それを心から失ったことに、彼は気が付いた。小綱は布団の中で、地面がぐらぐらとゆれ、底が崩れ落ちていくような感覚に襲われた。

「僕は何のために生きてきたのだろう? 僕は何のために生きていくのだろう?」

洞窟の暗闇は、小綱の心を襲う。そして同時に、彼の体も、闇に混じらせ溶けていく。

「……僕は本当に、ここに居るのだろうか?」 

小綱は頭がおかしくなったように飛び起き、取り乱し、母親を大声で探しまわった。家の者は驚いて母親を連れてくる。

「お母さん、僕はもうだめです! 僕をどうか殺してください!」

小綱はサヨの裾を掴んでそう訴えた。サヨは驚いて、小綱を一生懸命抱きしめた。それでも小綱は母親の腕の中で、殺してくれと幾度も叫び、暴れ、叫び、頼み続けた。それを見ていた村人は、いよいよ小綱が鬼に成ったと恐れ震えた。鬼の血が目覚めたと、村人がそう思うほど、その様子は人間のものとは思えない、鬼気を帯びているものだった。目は血走り、髪は逆立ち、肌は血の気無く、それまで以上に真っ青に染め上がった。錯乱する心を抑えきれず、小綱はどうしようもなく、母親の腕へと噛みついた。翁はその時、小綱の口から牙まで伸びているのを見つけた。村の者で寄りたかって小綱を引き離すと、サヨの腕からはしたしたと血が流れ落ち、地面に染みて、しばらく残り続けたのだった。

 


 村の人々は、小綱を村には居させられないとして、あの大綱の島へと追い出した。それからは小綱の姿を見たという人はいない。恐らく、彼は洞窟に住み着いたか、あるいは島を抜け出して遠くの国へ行ってしまったのだろう。それでもサヨは、たまには村のものが食べたいだろうと、祭りの日には海を渡ってあの島の砂浜へ、砂に刺さる流木の傍へ、餅をお供えに行った。サヨは毎年、餅が無くなっていることを喜んだ。果たして誰が餅を食べたのか。それを知る術はどこにも、誰にもありはしない。

 


「それで、あの島には小綱がまだ住んでるの?」

僕はその紙の束を読み終えると、男の子へと話しかけた。男の子はこくりとうなずいた。

「……まさか、君が小綱じゃないだろうね?」

男の子はにこにこと笑って答えた。

「ぼくはあなたがこつなだと思ったよ」

霧雨はいつの間にか止んでいた。靄も晴れて、向こうの岸までよく見える。僕は小綱が出て来やしないか、じっと、注意深く向こう岸を見つめた。

「いのちがはな、いのちがはな」

「ん?」

「御爺様がね、よく言ってた」

「ふうん」

「ぼくはね、こつなにもし出会えたら。こつなにそう言ってやりたいんだよ」

「会えるといいけどね。……さあ、そろそろ村に連れて行ってよ」

「いいよ」

僕らは尻の砂を払って立ち上がった。そこで僕は気が付いた。僕らが尻に敷いていたのは倒れた黒い流木だった。後ろの茂みが微かに揺れた。振り向くと、何か青いものが、森の奥へ逃げていくように見えた気がした。

鬱の花

    祇園の街は夜半を過ぎて、昼間の賑わいや夜の街のきらめきは夢のように消えていた。それは何も喧噪だけではなく、大抵の店灯りはもう消されてしまって、暗闇を引き立てるぼんやりとした街燈と、時折空車のタクシーが、ゆっくりと黄色いライトを揺らして通夜のように通っていくばかりである。そういった静寂の闇の世界でも、昼間の熱気は幾分残って、生ぬるいうすら風でもそよげば、何か化け物でも現れはしないかと恐れる、そんな不気味さが漂っていた。歩道へ乱雑に積まれた生ゴミは温まり、カラスさえも寄り付かない。夜を持て余す無頼漢さえ、今日は止めだと引っ込んでしまう。遠く見える八坂神社の交差点は、赤の信号が妙に浮いて、横断歩道をうねりが渡る。そんな黒い夜の通りを、律子は勤めを終えてコツコツと駅に向かっていた。

 律子がその日に限って易者の前で足を停めたのは、何も彼女と同年代の若い女性が一般的に持つ、恋愛や天命といった占いへの興味からだけではなかった。彼女はいつからか神経衰弱に陥っていて、医者にかかって薬を飲んでも一向に治ることはなかった。フツフツと、何事も面白くない、鬱屈とした生活の中、ふと露店易者の赤い提灯が眼に入った。半信半疑、気晴らしに、いざ相談してみると、植物が背中に生えて伸びている、易者からそんな指摘をされるとは、夢にも想像していなかった。

    さて、そもそも律子がなぜ、そんなうだつの上がらない、晴れない心持を抱えていたのかだが、彼女はそもそも学生の頃から頭痛や体の重さに悩んでいたのだった。女学校に通いながら、そんな苦痛を親に訴え、整体や整骨院に通うが良くはならなかった。それでもまだ、生活は行える程度だから、特段気にはせず、親なども、成長の過程でよくあることだと追及はしなかった。

    学校を卒業し、無事に保険会社に就職したものの、苦痛は一年ほどで段々酷くなり、生活に色々支障を与えだした。頭痛で仕事に集中できず、体は重たく夜は疲れても寝付けない。寝ていないものだから、昼間はウトウトとして、すべての営みが曖昧になっていく。溜まる疲労を感じても癒し方が分からない。段々と、わたしはこのままで大丈夫なのだろうかと自らへの不安は募っていった。いよいよ職場や両親との会話もちぐはぐで、仕事の失敗も積もり、いろいろな誤解が生まれては落ち込んでしまう。それで、上司の勧めもあって内科へ足を運んだ。そこで医者からは、ストレスと疲れによるものと診断されて睡眠薬を渡された。しかし薬を飲んでみても眠れるのは数時間の間のみで、途中で目覚めると、それからはやはり眠れない。再度医者に訴えると、適度な運動とリラックスすることを進められた。そこで、朝夕のランニングを日課として、他に鍼灸にも通った。ヨガやエステにも通った。寺や教会にも顔を出した。しかし努力虚しく改善は見られなかった。

    律子はついに職場に居づらくなって、保険会社を辞めてしまった。実家の目も気になって、迷惑はかけられないと独り暮らしを始めた。とはいっても生活がある。一生懸命に求人誌を捲っていると、たまたま祇園でのカフェの応募を見つけた。アルバイトではあるが、とんとん拍子に採用され、これで一安心、律子は新しい生活に希望をわかせた。心機一転やり直そうと、最初こそ奮闘していた。

    カフェは、ある宝石店の二階にあって、どうやら歴史あるところの様だった。昭和の趣が残る品の良い店で、食器にせよ、机にせよ、流れる音楽にせよ、落ち着きと調和がある店は、律子にとっても趣味の合うものだった。なにより給仕の制服が淑やかで可愛らしい。それがすらっとした律子に妙に似合うことも、彼女自身よくわかった。しかし給仕は前職のような重圧は無かったものの、どうしても多くの人と関わる仕事ゆえ、彼女にとってはひどく神経を使う必要があった。これは良い生活だと思い込もうとするが、体の重さは治らない。体調は良くなく、変わらず眠れない日が続く。良くならないとまた、余計に心配になる。失敗はそこでも相変わらず起こった。何をしても駄目だと項垂れてしまって、倦怠感はひどくなる。いつまでこの辛さは続くのだろうか、そういった終わりが見えない苦痛に、律子の気持ちはまた、徐々に閉じていった。

    銀行役員の長女として育った彼女は、家柄や長女という立場から、親の言うことをよく聞いた。律子の他に弟妹をもつ家庭にとって、彼女の聞き分けの良いことは両親に評価された。真面目に、誠実にと教えられ、そうあることが彼女にとって存在の意義だった。また、そんな誠実な人柄をもって周りの信頼も厚かった。そしてその信頼もまた、彼女を余計にそうさせた。さらに、彼女のすらっとした佇まいや、さっぱりとしたショートカットや身の回り、静かな話し方はそれだけで清純そうで、人々に好感を与えた。世間ずれした話は無く、無いゆえの魅力に、異性からの人気は或る程度根強かった。ただ、そういう周囲の理想や期待に応える義務感から、彼女は遊びいうことが不得意であったし、不健全だと思っていた。経験も希薄で、ゆえに異性が苦手だった。女学校で育った経歴もあって、男性の独特な力強さと油分がどうしても受け入れがたかった。子供のころはそれでも支障は無いし、むしろ両親などは安心していた。しかし大人になれば、嫌でも異性と関わる機会は避けて通れないし、様々な経験を経ていく周りの友人たちをみれば、複雑な焦りと軽蔑のようなものも感じていた。しかし、今更になって方法が分からないし、人に聞くことも出来ない。異性に関わる苦痛は克服できず、特に職場での様々な年代の異性とのやり取りは、戸惑いと嫌悪に満ちていた。

    さて、そんな女性であった律子だが、周囲に自分の価値を求める性格と、異性との関わりに苦しむ中で、常に肩に力が入り、学生のころから頭痛や体の重さは彼女にまとわり続けた。それだけでは慣れたもので、また我慢も出来ていたが、そこから不眠も現れたため、いよいよどうしたらよいか分からなくなった。人に迷惑はかけまいと、周囲にはろくに相談せず、一人で苦しんでいた。せわしない生活から落ち着いて考え抜く時間もなく、冷静な目をふさがれて、易者に声をかける次第になったのである。

 


    易者は閉店した土産物屋のシャッター前に、簡易な店を構えていた。街燈もない薄暗がりの中、折り畳みの机を広げただけの簡素なものだった。易者は三十代にも五十代にも見える血色の悪い女性で、重たいおかっぱ頭に粉っぽく塗られた長いまつ毛が不気味だった。蒸し暑い夏の夜であるのに、薄紅のコートを羽織って、寸分動かずじっと座り続けている。机には「裏無い」だとか「非商売」だとかの文字が張られており、いかにもイカサマ染みていた。しかしそんな怪しさも、律子にとってはどこか、かえって魅力にも感じられたのだった。

「あの、鑑定をお願いしたいのですが……」

「はい、今晩は。十五分の鑑定で三千円頂きます       が、宜しいでしょうか?」

 律子は了承し、パイプ椅子に腰を掛けた。くたびれた座布団の、硬い繊維が気になった。易者を前にしてみると、彼女の周りから甘い香の香りが漂ってきた。ぬるい夜風が吹いて、提灯の明りがゆらゆらと揺らいで見えた。

「……さてお名前を、伺っても宜しいかしら?」

「大原律子と申します。大きな原っぱに、規律の律に、子どもの子です」

易者は礼を述べて律子をじっと眺めだした。易者のけばけばしいまつ毛は、律子の頭頂から体の輪郭をなぞるように、肩、腕へと降りて、最後に背中のほうでじっと止まった。

「おそらくこれのためにいらしたんだと思うけど。驚かないでくださいね。あの、あなたの背中にはですね、植物が生えています」

相談もせず出し抜けにそう言われ、律子は面食らわずにはいられなかった。

「背中、ですか?」

「そう、背中。……体が重くないですか?」

何も言わない傍からそう当てられて、律子は自然に前のめった。

「わたしに、何かがついているってことですか、それは、いったい取れるものですか?」

易者のまつ毛に覆われた黒い眼は、律子に向けられながらも、依然として律子の後ろを捉えている。そのまま女は少し首を傾げて見せた。女は一息おいて、その植物は故意には取ることが出来ない、無理に抜き取ろうとすると、下手をすれば魂までくっ付いてごっそり抜けてしまうという。話を聞けば、どうやらその植物は背中から生えて根を張り、根は脊髄を通って魂に寄生しているとのことだった。律子は狼狽する。いつそんなものが根付いてしまったのだ、どうやって退治するのだと。女は穏やかな調子で続けた。

「こういう類のモノは、目に見える植物と同じで良質な土壌に生えやすいと言います。特別なことではなく、あなたの体が根付きやすいものだったということです。こういった、モノの種類にもよりますが、一度芽吹くと、環境が悪くなるにつれてどんどん逞しく、根深くなっていくものもあるのです。まるで雑草のように。あと、いつ寄生されたのかは私にはわかりません。ただ生えているという事実のみが分かります」

 淡々と述べた後、そこで易者はまた一息ついた。律子はただ、目の前で言われていることを信じきらぬよう理性を保つ努力をした。しかし女の話は、彼女にとってどうも惹きつけるものがあった。それだけ律子は弱っていた。女の話やその風貌は、どうしようもなく弱った律子にとって、頼り易さすらも感じさせるものだった。

「いつ寄生されたのかは分からないけど、そのきっかけはたぶん、目に見えるものと同じだと思う。風に運ばれるものあるし、鳥や虫などに運ばれるものもある。それか、もしかしたら変な茂みにでも入った?」

律子は何とも言えず、ただ首を傾げて応えた。

「とにかく、きっかけは誰にもあることです。重要なのは、種が芽吹いてしまって根付いたこと。こういう類は最近多いの。寄生されてしまって魂の栄養が吸われていく。心の栄養が吸われて、モノはどんどん、植物みたいに茂って成長する。それで、体が重たくなって元気がでない。要は、一般的に言われる鬱状態ってこと。つまりそうね、この植物。これは鬱の花、とでも呼びましょうか」

「ウツの花……ですか」

「ええ。丁度、そうね。あなたのは烏瓜に似てる。蛾が運んだのか鳥が運んだのか。とにかく、たいがいの人は種が付いても根付かず取れてしまうわ。弱るときは誰にでもあるでしょう? でも、たいがいの人は立ち直って元気になる。でも、あなたの場合、運悪く芽が出て、根付いてしまったの。……そうね、どんな人に生えるかというと、魂の土壌が良く柔らかい人。つまり優しい人だとか、くそ真面目な人とか、つかれやすい人、とかだね。育ちが良いとか、意志が弱いとか。でもほとんどのケースでは、土壌が柔らかいから、万が一芽吹いても、根付かず、育つことなくすぐ抜け落ちてしまうものだよ」

「……もしそうなら、どうしてわたしの場合だけそんなことになったんです?」

「さて、そこで環境です。柔らかい土に、雨や風が激しく吹き込んで土は固くなります。そこで枯れるモノもありますが、その過酷な環境が土を固めてしっかりと根を掴んでしまったのだろうね。鬱の花もタイミングが合えば、その過酷な環境にしっかりと免疫をつけて成長します。……あなた、生活で何か辛いことあった?」

「仕事、でしょうか……?」

「そうですか? 仕事、確かに仕事は多くの人が抱える問題ね。もしかするとその環境かもしれませんね。あなた若く見えるけど、勤めて長いの?」

「いえ、就職して一年たって。今は別の仕事を……」

「……そうですか? モノはもう少し成長して見えるけどね。……とにかく安全な治療は一つ。枯れるまで待つこと」

「待つ? 枯れるまでですか? あの、それは、枯れるのはいつになるんです?」

女はそこで、小さな息を漏らした。背中のものから目線を外して、今度は真っすぐに律子の目をみた。

「……いいですか。植物がいつ芽吹いて、いつ枯れるかなんて誰にも言いあてっこできないもんでしょ? ぴったりと当てるなんて。……ただ言えることは、何物でもいつか息絶えるってこと。それは、どんな物事にも言えることなんです。ことわりです。芽吹けば枯れ、実れば腐る。若ければ老いるし、美は醜に。昇れば暮れるし、始まれば終わります。いつかは分かりませんが、いつかには、枯れていきます」

「そんな、でも辛いんです。この辛さはいつまで続くんですか」

律子は食い下がった。女は呆れたように目を細める。

「そんなこと、その花しか知りません。……ただ、あなたが出来ることは、豊かに生きることです」

「豊かに?」

「そう。つまり、植物と同じで、しっかりとモノを育てて、早々に枯らしてしまうのが方法なんです。物事の順序というのは、覆したり省略したりは出来ないの。さっきも言ったように無理に順序を歪めると、そのしわ寄せが必ず現れる。無理にその花を抜いてしまうと魂まで抜かれてしまう。出来るだけ、あなたの良い土壌のまま、栄養と水を与えてください。太陽を浴びせて、美しく、軟弱に育ててしまえば良いのです。そう、無理に頑張って、圧力をかけてしまうと、今は雑草のようにしぶとく強くなると思う。根強くいつまでもあなたの魂に生え続け、魂の土壌を吸って枯らしていく。いいですか、土壌はあなたの魂そのものです。魂はあなたの体そのものです。土壌を柔く、豊かにすることを意識して、きままに生きてみて。いい加減に、不真面目に、周りを気にせず、したいこと、好きなことを追ってみて。あなたはそれぐらいが良いかもしれない」

 女はそろそろ時間だと告げ、延長するかを尋ねた。律子は話の続きを聞きたくなったが、これ以上不可解なことを言われるのも嫌だと思って、帰る支度を始めた。

「……出来るだけ、そうしてみます。あの、最後に一つ、こういうのって誰でもつかれるものなんですか」

「ううん、さっきも言ったけど、そもそも悪い土壌には付きにくいものなの。モノだって出来るだけ住みやすいところを選ぶと思う。柔らかく、温かく、豊かな土にね。あなたが花にとって住みやすい所ってこと」

「……ちなみにそのカラスウリって、今はどんな状態なんです? 例えば花が咲いてるとか」 

「まだ花は咲いてないね。肩や頭に蔓が巻き付いて苦しそうだよ」

「……その、花が咲いたらどうなるんです?」

「うん、言いにくいけど、このままもっと酷くなるんじゃないかと思うよ。花を咲かすのにはエネルギーが要るからね。その分吸われていく。……それに、植物によったら花粉や種をまき散らすものもいるし。人に移る前に、あなたのところで枯らしたいもんだね。ああ、ちなみに烏瓜ってのはあくまで例えね。こういうものは、私がそう認知してそう見えているだけだよ。……つまり私には烏瓜に見えるけど、それに性質が近いだけで、そう見えているってこと。花に見えるだけで、本質はそういう粘着な念とか、思いとか、気持ちがそう見せているだけ。物事は目に見えることにイメージが強く認知されやすいの。つまり現実の烏瓜を私は経験として見たことあるから、仮の姿として、そう見えているだけ。寄生する人によったらそれが菊とか、牡丹だったりするの。つまり人が生み出したものは、イメージしやすいものによっていく。人のイメージによって作られたものだから、イメージしやすい対処がある。目に見えないものは、魂の有るものが生み出すしかないんだよ」

「そう、ですか?」

いよいよ易者の話が分からなくなってきたので、律子は礼を言って、その場を切り上げることにした。

 


「ウツの花、かあ」

律子はその晩、シャワーを浴びながら、易者に告げられたことを考えていた。イカサマと思いながら、女の言葉は妙に気になる。彼女の言う通り、気ままに過ごしてよいのだろうか、そしてこれ以上に気怠さと憂鬱な気持ちはひどくなってしまうのだろうか。律子は風呂場から上がって、洗面台に自分の裸を映して念入りに眺めた。細身だが、銭湯などでよく見かける面白味のない体だな、と思った。

    給仕の仕事を始めて、以前の生活より格段に異性と接する機会が増えた。様々な年代の男性から、彼女の若さゆえの興味の目で見られていることも、律子自身よく感じていた。

「豊かな生活……」

律子は鏡に映した自分の姿を眺めながら、ちょっと腰をひねったり、腕を前で組んでみたり、雑誌のモデルがする表情を真似てみたりした。刻々と時間は過ぎていく。小さな一人暮らし用の冷蔵庫がブーンと音を上げた。湯気で律子の体は血色よく、水滴がひとつ、つらっとなだらかな胸元を流れていった。

 

    ところでカラスウリってどんな花なんだろう。律子は寝間着を羽織りながらふと思い、がたがたと本棚を漁って、親から譲ってもらった植物図鑑を引き出した。

「あ、綺麗……」

埃を吹きながら捲ったそのページの挿絵に、律子の目は引き込まれた。白い星型の花に、その端々から、細くレースのような糸が、蜘蛛の巣の様に広がり伸びている。夜に咲き、朝には萎むという説明書きを読み、暗闇に可憐に浮かぶ、神秘的な白い花を思い描いた。こんな美しい花が、わたしには生えるのか。今、咲こうとしているのか。そう思うと、彼女は背中のそれが、何か大切で、特別な愛おしいものに感じられた。丁寧に育て上げたいとさえも思えた。

    律子の様子はその晩以降、次第に変化していった。今まで以上に身だしなみに気を付け、その容姿は品よく磨かれていった。美しい花を宿して、わたしは特別なのだと妙な自信を持つようになってから、異性との会話もだんだん嫌な気はしなくなって、愛想のよい受け答えが出来るようになった。それでも時々、憂鬱な気持ちに襲われることは続いたが、その憂いた様子が、かえって周りの異性を引き付けた。律子自身そういった魅力を纏うことを理解すると、無理をして隠すことなく、神経の弱りを周囲に告げ、周りから心配がられたりして、それが心地よくもあった。

    律子の気持ちは徐々に明るくなった。周りに気を使いすぎることをやめ、或る程度開けて接してみると、こんなにも過ごしやすく、受け入れられることになるとは。彼女の気持ちは徐々に上向き、頭痛や体の重さも次第に感じなくなっていった。しかしその一方で、ある恐れが彼女の中に芽吹きだした。それは、易者に言われた、彼女に生えた花を枯らしてしまうことだった。彼女に宿ったのは鬱の花であった。美しいその花は、いつしか枯れて抜け落ちてしまう。その花が無くなれば、わたしの気持ちは上向いて、せっかく手に入れた魅力が無くなるのではないだろうか。わたしだけのあの花が、美しい花を持つことが、出来なくなってしまうのではないだろうか。彼女はそういった失う恐れを感じながら、毎晩鏡に自分の裸を映して、背中を覗いてみたりした。

    律子の恐れは的中して、徐々に彼女の体や心持は回復していった。体は軽くなり、律子は快活に異性と会話ができる彼女自身を感じて戸惑った。花は果たして枯れてしまったのか。わたしの元から無くなってしまったのだろうか。失いたくない。もう一度確認したい。もう一度見てほしい。律子は、鬱の花を枯らしてしまったのではないか、そんな不安と焦りを感じた。もう一度あの易者に会いたい。もう一度宿していると告げてほしい。律子はそんな衝動に駆られて、それから毎晩易者と出会った夜半に、祇園の街を捜し歩いた。しかし幾ら歩けど、あの夜に浮かぶ提灯を見つけることは出来なかった。それでも律子は諦めきれなかった。あの花だけが、彼女たらしめる唯一のものだと信じた。蔓は伸びる。不安は募って咲き開く。律子はいつしか容姿も疎かになって、靴擦れも気にせず毎晩毎晩祇園の街を、亡者のように彷徨った。

    しかしそれから一度も、律子は易者と出会うことは無かった。ただ、夜な夜な不気味に体を引きずる律子の目には、血走った眼球には、いつか図鑑でみた、美しい鬱の花が、夜闇の中、ありありとそこに咲いていた。

 

 

 

獅子

   一

 南中した太陽の光線は、直線下にその交差点を白く照らした。日の熱を避け、町の人々は陰に退いて姿を見せない。かげろうの揺れるその界隈には、濃い線香の香りが眼に見えずとも漂っていた。

   幹線道路にもなる街道は御陵に続く参道と交わって細い交差点を成している。朝夕の交通量こそ多いものの、日照りの激しい白昼には、棄てられたようにはたと無人になる機会が度々あった。それでも街道沿いに連なる商店や食堂、診療所などは時代の名残に幾つも残り、じっと構えて暗い戸口を開けている。当然、それらの商店を利用するのは周辺地域の住民だけで、庭木の茂る古く低い住宅と、真新しい外壁が輝く建売の住宅とが、間を詰める様にちぐはぐと並んでいる。そんな並びには、単身や小家族向けのアパートも大小幾つかあって、そのうちの比較的新しい一つに、小川は部屋を借りてひっそりと暮らしていた。

   小川が社会に勤め始めて4年が経ち、ある日仕事の電話中に耳の不調が現れた。耳鳴りが会話を阻害し、業務に集中出来なくなった。堪らず医者に掛かってみると、就労の疲れと負担による難聴、と告げられた。それでも生活があるものだからと気にせず働いていると、今度は眩暈が現れて、遂には真っすぐ歩くこともままならず、医者には自律神経云々と呼ばれた。そこからはガタガタと、至る所が崩れていった。

   小川は交差点に面する駐車場に車を停めて、日差しに輝く街道をぼんやりと眺めていた。会社から休みをもらい、紹介された心療内科で頭を使って疲れていた。開けた運転席の窓からは外気に熱せられた濃い風が流れ込む。ラジオを掛けているが、その風に煽られるように、ノイズが解説者の流暢な言葉を所々伏せていた。小川は聞き取り切れない話し言葉に気怠さと苛立ちを感じ、眉をひそめた一瞬間の後、ぱちりとラジオを切ってため息をついた。けれどスイッチを切った後も、静寂の街道の視界、それを揺らすように、ボウボウと風の吹くような耳鳴りが残った。

   医者の診断を上司へ報告する必要があった。小川は医者から処方された薬の一覧を鞄から取り出し、上から順に辿ってみる。窮屈な説明書きから逃れようとする眼を必死に操り、何度も文章を往復した。左右に文字をなぞるが、一向に内容は読み取れず理解できない。いよいよ諦めて、休職を含めた相談を上司にどのように投げかけようか、端末を起動させて医者の言葉を巡らすが、上手く説明できる自信が起こらず、面倒そうに顔を上げた。

   かげろうに揺れる街道の景色、丁度車の前を人が通るところだった。白く照るカンカン帽二つ、父子が手を繋いで跳ねている。街道を行くその姿は、彼にとって平穏でまぶしい光景に映った。薬に頼るようになった僕を、父はどう思うだろうか。漫然と思う小川の手元では、表に並ぶ鮮やかな薬の写真が、熱い風に吹かれてざわめくように揺れていた。

 


    二

 数年も前のこと。小川の父親はある病を患った。父親はその病が発見されて半年の間、断固としてモルヒネを使用させなかった。その病苦や病と闘う姿勢は、一人の人生、根性や意志の強さといった精神を用いて様々な困難を乗り越えてきたその時代を、小川ら家族へ垣間見せたのだった。医者からは父親の余命が家族に告げられた。短い余命だった。医者も家族も、余命を本人には伝えられなかった。堂々と歩き将来を見据える父親に、それを告げるのはあまりにも酷で不憫だった。そして皆、余命を告げたとして、それを慰める自信が無かったのだった。

   健常の時分から、小川の父はとても頑固だった。頑固であるし、それに強い自尊心を持っていた。それは背が高くがっちりとした体躯と、様々な運動を経験したが経歴からも湧いてくるものだった。家族への決め事は妥協させず、分が悪くなると声を荒げて強く出た。休みたい時に一人で休み、躾は厳しく、家族がはしゃげば叱りつける。帰宅時には妻や子供らに玄関まで迎えさせ、自らに対して敬語を使わせた。家族からの頼み事や相談は快く受け付けず、稀に聞いても揚げ足を探し、多くの場合は否定した。そしてそのような弱く無知な家族を否定することで、その自尊心を保っていた。ゆえに、小川自身を含め、家族は生活と人生の多くのことを否定されながら育った。扶養者として、保護を受ける者として、家族は常に父親の顔色を覗いて過ごした。小川はいまだに、世間の父親というものはそういうものだと、どこかで信じているのだった。しかし一方で、父親の交友から話を聞く際には、どうやら家庭外ではとても穏やかで、ひょうきんで、物分かりの良い柔軟な人物のようだった。大人物であった。そういう話を聞く度に、小川は、人はそうやって裏と表でバランスを取るものだと、人生を達観したように捉えていた。

   そんな父親の性格は病床にもあらわれて、意地やこだわりを持って烈火のごとく病と闘った。思うように動かない体を無理に起こして活動し、方々に出向き、他人から良いと聞いた習慣や食材を大量に摂り入れた。病を抱えながら会社へ行き、昼食の蕎麦は発作で喉を通らず吐き出した。温泉とサウナで体を絞り、書籍を読み漁り、治験を取り入れ、医者を何度も替えた。それらの動きは生への執着と、それ以上に、敵を迎え撃つ姿勢として小川の目に強く映った。強く映ったが、一方で小川はこっそりと見ていた。父親が人知れず、陰る座敷で座椅子にもたれ、腹を抑えながら静かに目を瞑っているさまを。夏の座敷には、決まって線香の香りが漂っているのだった。

   治療は報われず、病状は悪化する一方で、身体の異常は顕著に表れ始めた。自慢だった大きくて逞しい体つきは、点滴だけの生活にあっという間に細りだした。硬い筋肉は弱々しく萎んで、しっかりとした骨に力なくぶら下がった。頭蓋骨ははっきりと浮き出し、褐色の皮がたゆむ腕は、注射針の穴だらけとなった。排泄もろくに出来ず、オムツを履きながらよく血を吐いた。吐いた血には、時々鮪の刺身のような肉塊が混じっていた。慌ただしい病室に、小川は時々それらを拾い上げて粛々と片づけた。常に血が流れるものだから、献血は頻繁に行った。医者ですら、命を辛うじて繋いでいる献血が、いい加減費用がかさむと悲鳴を上げた。それでも、それを続けるしかなかった。彼の父親は諦めなかった。そしてそれは結局、世間や決まり事から許される範囲でのことでしか行えなかった。

   末期となりモルヒネが打診されても、彼の父親は薬漬けになるのは嫌だと、起き上がることも出来なくなった体で驚くほどに激昂した。治療の一環だと説明しても、自力で耐えると退け、骸骨の眼球はぎろりと医者や看護師を睨んだ。その一方で、見舞いの者には配慮を欠かさず、病室への来客の際には徹底してお茶を汲むよう、起き上がることのできない体で家族に指示を飛ばした。小川は父の顔色を依然として伺いながら、体と同時に弱っていく自尊心を、恨む程に思った頑固さを、愛おしく、悲しく思わずにはいられなかった。

   次第に、病苦とそのやりきれない思いは信仰に向けられた。ある日から毎日、祈祷師が病室に訪れ、お祈りを捧げながら父の体を撫でた。小川と家族はそれに従って、同じように目を瞑ってお祈りをした。彼の父にとってはそれが支えだった。結果として、小川ら家族もそれに助けられた。父親は荒い言葉を使うことはあっても、信仰という心の支えをもって、ひどく暴れたり自棄したりすることもなく過ごすことが出来た。お守りとして与えられた小さな和紙は、病衣の袂に大切に仕舞われていた。

   ある日唐突に、彼の父親は家族へ感謝の言葉を口に出した。もはや水も飲めず、土壁のように乾いた口は天井に向いて開いていた。衰弱した身体と脳は、長々しい言葉も美しい言葉も選べず、それは一言だけ、削ぎ落とされて絞り出されたものだった。何かを悟って、何かが折れた時だった。直に耐えられないと弱々しく、しかし切に訴えだし、それでやっとモルヒネを受け入れた。体に薬が流し込まれるとすぐに目を閉じ眠り始め、そのままゆっくりと一つ大きく息を吸い、それで死んでしまった。告げられていた余命からは少しだけ延びていた。それも医者の図らいだと小川は知っていた。

 


    三

 車から降りると、小川は遠慮のない白い日差しに苦しそうに顔を歪めた。耳鳴りは治まったが、日差しはキラキラと世間を反射させ小川を追い立てた。彼はそんな光に耐えながら逃げる様に自宅の玄関へ急いだ。玄関に入ると、外とは対照的に、夜のように冷ややかで、そこでやっと一息つくことができた。並べられた靴と黒い土間タイル。湿気た臭いが沈むように残っている。バランス、などと考えながら靴を脱ぐため体を屈めると、奥の部屋から床板の軋む音が聞こえだした。じっと廊下の先を見つめていると、それは徐々に近づき、やがて部屋の暗闇から溶け出る様に、ぬっと一頭のライオンが姿を現した。のしのしと近づく饅頭のような鼻先は湿って光り、野暮ったく広がるたてがみは、体の動きに合わせてふさふさと揺れている。金色の眼は静かに小川を捉え、下瞼は三日月のように白く色づき浮いている。大きな前足は柔らかく床を捉えて膨らみ、体格にはそぐわないその繊細な足先でゆっくりと歩く。ライオンはまっすぐ小川に近づくと、頭を傾け彼の足元へすり寄った。豊富なたてがみが彼の腰を包み、その圧力に体が押される。手の甲で広い鼻筋を擦ってやると、ライオンはグルグルと喉を鳴らしてそれに応えた。小川は安心したように目を細め、ライオンが失せるまで、一人暗がりの中、微笑を浮かべて立ちすくんでいた。

 


     四

 仰向けにぼうっと天井を眺めていると、体が天井に向かって浮くような、同時に床に向かって沈んでいくような、不思議な感覚になった。しばらくするとその浮遊感は、頭にゴムまりが埋め込まれた様な、頭部の異物感へと変わった。そしてその異物にどんどんと空気が送り込まれ、ゴムまりはだんだんと大きくなっていく。眼球や鼻孔や下あごが、それに押しやられて圧迫される。ゴムまりに十分に空気が送り込まれると、ポンポンと跳ねだして、もはや休むことが出来なくなった。

「出来るだけ好きなことをしてください。それで、堪らなくなったらすぐに休んでください。そして、よく寝ること。眠ることが治療です。それでもダメなら薬を飲みなさい。しかしいいですか、飲んだからといってすぐ効くわけではありません。一週間、二週間……、時間がかかるものなのです。」

医者は穏やかにそう言った。しかし趣味のような好きなことがもう無くなっていた。何もかも面白さというものが続かなかった。何事も軽薄で卑怯に見えた。何事も作為性を感じて嫌気がさした。その作為性に呑まれまいと抵抗した。抵抗すると、結局どうにもならない、何もできない無力感が湧いてくる。無力感は次第にどうしようもない不安感へと変わっていく。そんな抗うことのできない不安感や消極性に出会うと、辛さよりもむしろ驚いてしまった。驚いて戸惑ううちに不安感に浸かってしまうと、優しい人が悪魔に見え、常に騙されるといった妄想に追われた。本当にそう感じるのだから、それは覆し難かった。不安に負けると、ベッドに逃げるしか方法がない。休んでみても、休み方が分からなくなる。休みたくても休まらない。寝ても必ず夢に襲われ、戦い、逃げ、走って隠れる。空中を飛び回って落下し、人を助け、働き、熱心に説明し、プールに潜って必死に硬貨を探した。夢の世界は常に慌ただしかった。

   そんなことを考えていると、脈絡なくふと心持が軽くなった。ベッドから起き上がり、部屋の窓を開けた。太陽は徐々に傾き、日差しは緩く、風は爽やかだった。散歩でもしようと、足取りは軽い。外に出る。

 


   五

日が暮れるにつれ、街道の往来は次第に盛んになっていった。人々は陰から出てきて姿を現し、各々の目的に活動を始める。小川が靴を鳴らして街道を歩くと、街の人々はみな気安く、優しい陽気に沸いて見えた。昼間の白い輝きは消され、交差点は薄紅と水縹のアジサイのような色彩に、そこに涼風が通り抜け、彼はのしのしと胸を張って歩いて行く。歩きながら、人々や界隈が妙に愛おしく思え、小川の胸には大丈夫だという気持ちがむくむくと湧いていった。車が幾台も、賑やかに彼の傍を走り抜け、その度に彼の気持ちは強く煽られた。連なるテールランプがまばゆく点滅している。クラクションが遠く高らかに響いた。前方からは部活に焼けた学生たちがやってきて、アイスを片手に逞しく笑い小川を越していく。道の向こうでは、就業を終えた女性が軽快に歩き、ヒールが律動的で若々しい。様々な人が街道を行き交い、言葉と音は宙に溢れた。年寄りは店先に集って温まり、黄色い提灯が揺れている。自転車の女子学生はスカートをなびかせ、スーツの男性はお土産を抱えて急ぐ。飼い犬の鼻は快活で、母親の首筋はやさしげだった。ランドセルが小さく跳ねて、コンビニは光り、スーパーは安売りを叫んだ。家庭用品はガチャガチャと騒ぎ、茶色の猫が捨て身に駆け抜け、ツバメはくるくると落下、2階の窓には人影が映った。駅前では吹奏楽部の演奏会が催され、外国人の笑い声、買い物かごに缶ビール、単車の排気と通過の電車、警報器がけたたましい。浮いた血管、結んだ毛束、靴と目線は交錯し、影の列が滑って踊れば、汗と煙が混じって昇る。重なる楽器のチューニング、心拍高鳴り、子供が泣いてギターが歪む。雑踏は流れ、演奏は始まらず、風が抜けては空が巻き、夏雲が上へ上へと沸き上がる。夕日が傾き、彼は歩く。小川は暗くなる人込みを、なおも独歩に進んでいった。街道は宵にゆらゆらと笑う。小川は美しい夕景に、咆哮するほど高揚し、抑えても、破顔せずにはいられなかった。

 


   六

「依存性が少し高い薬ですから、辞めていくことを考えるならばですね、可能であるならば、薬を割って、半錠だけ飲んでみなさい。つまり、徐々に減らしていくのです。突然辞めてはいけません。いいですか、徐々にですよ。辞めるなら徐々にです」

 夜、電灯を消した部屋では、厚いカーテンの間から月明かりが床に伸びている。小川はベッドに腰掛け、重たい頭に医者の指示を思い出していた。もう、部屋のどこにも、ライオンの姿は見当たらない。ただ暗闇に、小川の眼が、月光を集めてキラリと浮かび上がった。人の心配は、思う気持ちは、いつだって一時的でその場しのぎだ。小川は彼が薬を頼るようになった社会を憎んだ。穏やかで日差しが差す、平気で無神経な営みを憎んだ。また、病室で父を囲う優しげな世間を憎んだ。それと同時に虚しくなった。嫌悪は空虚で、憎む道理が見当たらなかった。憎んだ分の同等に潜む、世間の優しさを感じていた。

   小川は暗い部屋に手を探り、薬を取り出した。白く小さな錠剤を犬歯に挟む。彼の鼻筋に皺が寄る。獣が食事をするように、獲物の骨をかみ砕くように、ガリっと一呼、固く乾いた音が響いた。いつしか虚しさは憐れみに変わっていく。憐れみは徐々に諦めに変わっていく。割れたのは、果たして薬か、その歯牙か。

   小川は一刻の後、麻酔銃を撃たれた獣のように、弱々しく横になっていた。徐々に月は傾き、月光はゆっくりと床を這って行く。じきに、撫でる様に彼の体まで登り、丑の刻には、暗闇にその口元を照らし出した。

 交差点にはもう誰も居ない。月もいよいよ落ちてしまって、ただそこに、埃に汚れる電灯が、しかと佇むだけであった。

 

若葉

  アオはキッチンで佇んだ。

  午後の街中の日影が、締め切った窓ガラスとレースカーテンをすり抜けて、薄っすらと部屋に注いでいる。ダイニングには、灰色の球体がプカプカと浮いていた。


「日曜日は嫌い。」

アオは言う。ふたりはソファに座りながら寝る前に紅茶を飲んでいた。なぜかと佐々木が訪ねると、

「日曜日はお父さんが家に居たから。家の中がみんなそわそわしている感じ。」

「別に何かひどいことをされるってことは無いんだけど、怒鳴られるだとか、叩かれるだとかは。でも、歩く音だとか、椅子のきしみだとか、扉を閉める音だとか、そういうささいなことひとつひとつがどきっとして。あんまり話さないし、話せることもないんだよね。ぎこちなくなっちゃって。」

「午後になるとそれが余計に辛くなるの。息苦しいのに、いつもの家で。外は明るいのに、部屋の中は暗くて。何も進まないのに、何もできなくて。夕方になっていくとそれは絶望。夕飯がピーク。でも夕飯が済むと、みんなで楽しくテレビなんかをみて、笑ったりするの。」

「お母さんもいつものと違うのよ。笑っているけど、どこか緊張している感じ。家族じゃなくて、お父さんを見ている感じ。家事なんかもいつもよりテキパキと早く終わらせちゃって」

「それは、いつものお母さんが、日曜日は妻とか、夫婦になっちゃうってこと? 」

 佐々木はアオの肩に手を回しながら、眉を上げて興味深そうな表情を作った。

「分からない。外は明るいし、近所の子供の遊ぶ叫び声とかがよく聞こえるし。落ち着かなくって、何か色々食べたり飲んだりしちゃう。ジュースとか。お腹が水っぽいのに、それでもまた飲んだりしちゃって。お腹いっぱいで夕飯はおいしくなくなるし。」

「だから大きくなってからは、日曜日は出かけることが多かったの、わたし。出来るだけ家に居ないように。でも可哀そうなのはお父さんよ。みんなに居心地を悪くさせていると感じながら、家の中がなんか変な感じになりながら、でも休日はやっぱり家でゆっくりしたいでしょ。」

「それが生活とか、生きていくことなんだと思うとなんだか切なくなる。普通の、穏やかなことなのに、苦しいだなんて。」

 佐々木はふんふんと相槌を打ちながら、マグカップに残った冷たい紅茶をくるくると回した。

「……。さあ、明日も仕事だから、もう寝よう。聞いてくれてありがとうね。」

  アオは佐々木のマグカップを取り上げると、さっとシンクへ流してしまった。佐々木は大きな欠伸をしながら、その様子を分厚い瞼に眺めていた。

  アオは結婚を機に職を辞め、佐々木と二人暮らしを始めた。佐々木の通勤の便が良い地域に住むため、アオは実家と地元を離れる選択を取った。「いつかは解放されたい」そういった仕事への願いも、この機会は彼女にとって良いものに思えた。

 元来愛想と器量の良い彼女は、職場や得意先から重宝された。退職を方々から惜しまれたことからも、彼女にとって優越を得ることの出来る、幾分満足のいく選択だったように感じていた。そして彼女なりに雰囲気に呑まれ、送別の際には涙したものであった。

 堅実なふたりの貯蓄は佐々木の分と合わせ、しばらく生活する上では十分にあった。アオは思い描いていた良い妻になろうと、てきぱきと家事をこなす毎日を送った。器用な彼女にとって、家事だけを行うことは容易だった。佐々木と一緒に起きるものだから、午前中に掃除や洗濯を済ませてしまうと、節約のため電灯を消した暗い部屋に、ぼんやりと座っているだけのこともあった。昼過ぎのワイドショーを聞き流しながら、前の職場では今頃、などと思いを巡らすことも少なくなかった。未だに解いていない引っ越しの荷を幾つか眺め、そしてはっと思い出したかのように、作りすぎてしまう夕飯の買い物に行き、佐々木の好みを考えるのであった。佐々木は何を出しても、毎日うまいうまいと平らげてしまった。

 買い物から帰り、突如現れた灰色の球体を目の当たりにして佇むも、アオは不思議と戸惑わなかった。自然に、それが眼には見えないものだと分かった。しかし、さて、どうしたものだろうと、買い物袋をキッチンに降ろし、ソファに腰掛けた。灰色の球は彼女の目の前で、依然としてプカプカと浮かんでいる。

 疲れているのかしらと考え、彼女はベッドルームへ向かった。しかしどうすべきかが分からずうろうろしては、またリビングに戻る。リビングの風景は変わらなかった。

 彼女は在職中に使っていたトレンチコートを羽織り外に出た。得体の知れないものから離れたかったし、どうすべきかひとりで考えたかった。こよみは初夏であったが、その日は肌寒い日だった。空は湿気を帯びて陰り、雨が降りそうだなと思った。住宅の隙間から見える街路樹が、強くなびいていた。

 アオは当ても無く住宅街を歩いた。当然、平日の昼間の住宅街は静かなものだった。その静かな住宅の穏やかさと、これから崩れそうな天気のアンバランスに息苦しさを感じた。立ち並ぶ住宅の一軒々々に、電灯を消した部屋のテレビの前に、そのひとつひとつに、同じ私が座っている様を想像すると、車酔いのように気分が悪くなった。

 アオはどきどきした。どうも、心臓ではなく、肺の辺りに感じた。どうしてこんな辛い気持ちになるのだろう、何が私をそうさせているのだろう。狭い住宅街の道路には、追い立てる様にどんどんと自動車が通っていた。彼女の側を、空気をそぐように。

 住宅街を駆け足で進むと、橋が架かる川に抜け出た。水の流れる音と、河原一面に茂る菜の花が、幾らかアオの心を落ち着かせた。ゆっくりと橋の中央に進み、川を見下ろすと、松葉色の川面が、うねり猛って鳴いていた。アオは咄嗟に、もし落ちたならと恐怖した。そこへ、そんなアオを攫うように大きな川風が吹いた。アオは咄嗟に目をつむり、前髪が巻き上がる。強い川風はトレンチコートの隙間から強引に入り、アオの胸を抜け、背中を登り、襟足に吹いた。同時に、雲が揺らされ溜まった水がこぼれたように、さあっと音を立てて雨が降り出した。弱く、軽く、冷ややかな雨だ。それは瞬く間に彼女を、その周辺を、そして町を包み濡らした。アオは咄嗟に目を開ける。曇り空に薄まっていた日光が、霧雨に反射するようにあたりが明るくなった。アオはその、一瞬間の世界の変化を目の当たりにした。顔を上げずにはいられなかった。遠くには、そのガラス粉のような雨の中、小さな山に、名も知らぬ、小さな城が鮮明に見えた。空気の途を通るように、まっすぐと。彼女の城を見据える視界の縁に、緑の小さなものが移った。アオの傍の街路樹には、若葉が薄緑を吹き、綿毛を生やしていた。風に吹かれた小雨が、町を、橋を、彼女自身を、今度は撫でる様に横吹いた。そうか、あれは球体ではなく、空洞だ。

 アオは水滴に光る若葉を指先で触れた。若葉も、水滴も柔らかく、彼女の指先はやさしく冷えた。

「頼りないなあ。」

 アオはその指先で、若葉を軽くつまみ、千切れぬようそっと擦った。

「飛ばされちゃうかもしれないね。食べられちゃうかもしれないね。」

「でも、小さくて、ふわふわで、鮮やかで」

「傷つけられやすい? 」

それは生きているだけで、成長しているだけで、

「誰がこれに文句を言えるんだろう。」

 わたしはここで、日常の風景を見て、わたしは食事をして、細胞を入れ替えて、そしてわたしは時間を進んでいく。わたしの時間をわたしが進む。息苦しさはなくなった。そこでアオはくるりと濡れたコートを返して、来た道を、自宅へ穏やかな足取りを向けた。

 しかし、はて、あの灰色のものはどうしようか。あれもわたしなのだろうか。どうしたら消える? でも私だから消さなくてもいいだろうか。でも目障りだし。とりあえず、あるのは仕方ないとして、風呂場へ隠しておこうか。ベッドの下は? ……実家に持っていくのは良くないかもしれない。捨てるのは、ゴミ捨て場に置くのはなんだか忍びない。リビングに置いておいていいか。でももし佐々木にも見えたら?

 アオはスマートフォンを取り出し、「得体のしれないもの/同居人/対処法」で検索したが、何も有力な方法は見当たらなかった。彼女は諦めて、そのまま近くのペットショップを検索した。少し遠いが、歩いて行ける。出来るだけ軽めのペットケージを購入しよう。餌は必要? 何を与えたらいいんだろう。私は、本当は何が好きなんだろう。佐々木は知っているだろうか。わたしの好きなもの。佐々木はどんな顔をするだろう。でもあれは、たしかに在るものなんだ。そのことに、誰が文句を言えるのだろう。

 アオはそんなことを考えながら、また振り返り、強い足取りで橋の先へ進んでいった。濡れた地面は光沢をもち、彼女の背中へ吹く川風は、もう彼女に気づかれることはなく、あらゆるものに触れながら駆けていった。