抽斗の釘

小説、散文、文章、短編

眠りの国

  先輩は仕事中に時々眠っています。キーボードに手を置きながら、こくこくと。

  先輩は会議中でも眠ってしまいます。腕を組んで、目をつむって考えるふりをして、そのまま、こくこくと。

  ある日、わたしは通勤の電車で先輩と乗り合わせました。座席に隣り合って座り、世間話をひとしきり済ませてしまうと、話題はすぐになくなってしまいました。混み合った車窓からは、何処までも続く曇天と、すすかぶれた街並みが広がっているのが見えました。

 

‥僕は最近、所構わず眠気に襲われることが多くなった。仕事中や通勤中、歩いている時や食べている時も。しかし、それは僕自身の意志で、眠ろうとしているところもあった。‥僕は普段の生活の営みから、目をそらそうとしているのだと、思う。‥つまり、僕は眠りに救いを求めるようになっていた。そして、眠りに救いを求めていると、体の方も勝手に眠りを求め出した。人と話をしているときでさえ、強い眠気に意識を失う時がある。

  そうやって日常の大半を眠気と過ごしていると、徐々に、どちらが、現実か、夢か、わかなくなっていく。日頃、歩いている世界が、眠りの国と混同する。いや、混同させている。

  床につき訪れる、眠りの国は実に良い。食べたり、風呂に入ったり、そういった、しなければならないことが何ひとつない。荒唐無稽で、意思も、意義も、社会的通念も何も無い。何より、本当で無いのが良い。すべて偽りでまやかしだ。本当で無いこと、嘘であることのなんと居心地の良いことか。なんと気楽なことか。本当で無いことの、なんと、なんと素晴らしいことか。匂いも感触も無く、色と音と、取り留めのない物語ばかりしかない。脈絡のない物語は、僕を十分に楽しませてくれる。

  現実は、現実は、僕にとってあまりにも鮮明すぎた。鮮明で、刺激が強すぎる。体が、頭が、それを拒絶しつつあることを感じる。僕には、最近徐々に、人の言葉がわからなくなっていた。声は聞こえるが、何を話しているか理解できない。自分が何をしたのか、覚えていない。次にすべきことを思い出せない。読んだそばから忘れていく。出来ていたことが出来なくなる。僕が作り上げたものが、得たものが、砂の山のようにサラサラと崩れていく。集めても、掻き集めても、指の間を抜けて流れていく。

  いま、目を瞑り、じっとすると、すぐに眠りの国は僕を引っ張っていく。眼球に繋がる神経を、脳が奥に奥に引っ張っていくような感覚がある。すると、前だから後ろだか、三半規管、方向感覚がわからなくなって、ぐらぐらとぶっ倒れそうになる。そうなっていくと、少しの車酔いのような気持ち悪さと、現実から離れていく浮遊感に気持ちが高揚し、考えるということが薄れてきて、ふわふわと感覚がまだらになって、のがれられるのだ。

  混乱、混乱。脳がどうにかなっているのは確かなことで。脳が膨らんだり縮んだりしているのだ。これは。いや、人が、社会が、すれ違う人々が、僕の敵であった。卑小で、ずるく、しゃかいであった。僕の脳だけが道をあるき、明かりや、線や色だけのせかい。生きているのか、起きていても、眠りの国。

  ‥僕は耳栓をする。僕は目を閉じて歩く。夢の中、ああ、眠りの国。

 

  先輩はとつぜん、疲れたんだと、爽やかに笑い、こくこくと、わたしの横で、眠り出したのでした。

  わたしは、垂れた先輩の頭から、ぽろぽろと砂がこぼれていくような、そんな気がしました。 

  車窓が突然白く、眩しくなりました。わたしたちの電車は街を抜け、窓には、朝日をはじいて光る、きらびやかな水田の景色でした。稲刈りが終わり、水が張られた冬の水田は、曇天をまぶしく、みずみずしく映します。

  先輩はなおも、頭をさげて眠っています。落ちていく砂が、キラキラと朝日に光っているのでした。