抽斗の釘

小説、散文、文章、短編

楠木の森

 ……背の高い楠木が、さわさわと木々の上で葉を揺らした。

 ……或る森の、或る木々の隙間に彼女は立っている。

  日常で、自分の言葉を探すのは難しい。

  ここは深い深い、茂った木々の中で、葉や枝の隙間から、午前のさわやかで活き活きとした日がさしている。わたしがどこから、どのようにここへやって来たのか、その道のりはどうでも良いことだった。広葉樹が生い茂り、間に間に、背の低い植物が重なるように生えている。わたしには植物の名前はわからなかった。季節の花もわからない。そして、この場所は、あまり名前や季節は関係のないところだった。薄い紫や水色の小さな花が、遠慮深そうに咲いている。今わたしに重要なのは、名前のないことよりも、音や色で。物事を的確に言い当てない、断定をしないことだった。

  言葉が飛び交う世の中で、わたしに合った言葉に出会うことは、なかなかあることではない。日常に溢れる、自分には合わない言葉を浴びているうちに、だんだんと、自分が削られていくように感じる。それでも、生活のなか、孤独はつきもので、どうしても自分への言葉を、画面に求めてしまう。わたしは画面に溢れる言葉から、誰かを感じ、一人であることから、そして何もない時間から逃れようとしていた。

  つねづね画面には、響きの良い言葉や、小気味の良い言葉に出会うことが多い。人々を代弁してくれるような、巧妙な言葉に巡り合う機会がおおくあり、またその言葉を使うことで、巧妙な快感を小刻みに得ることが出来る。誰かが見つけて、見せてくれた言葉だ。子供のころ、友達が見つけた美しい虫のように、それは輝かしく優越的だ。それは、わたしの心にしがみついて、ざわざわと、濡れた落ち葉を踏み荒らしていく。その感触が心地よい。現に、わたしの足元を、今、茶色の虫が這っている。

  森に佇む大きな楠木は荘厳だ。静かで、たしかだ。風は止み、しんとして、空気は青々しい。言葉が溢れる世の中で、わたしは言葉の真意や本質は求めなかった。ただ、自分に合った言葉を大事にしたい。言羽とは言うものの、やはり葉のほうが豊かで、みずみずしい。わたしは楠木が好きだった。

  耳をすますと、鳥の声や、葉が落ちる音がする。重要なのは、誰それであることを認識しないことだった。顔つき、言動、趣向。要求、願望、衝動。わたしには孤独の寂しさと、孤独の安心とが矛盾していた。人々の動きはわたしを苦しめ、しかし人々の動きから目を離せないでいた。人々の動きはどれも醜く、つまらなく、儚かった。そして、愛おしく、ゆたかで、輝かしかった。そんな人々を敬遠しながら、羨ましく思った。

  小気味の良い言葉、音の良い言葉、やさしい言葉、正解、処世術、助言、卑下、揶揄、皮肉、情報、情報。たくさんだった。わたしは強い眠気に、落ち葉が湿る土の上へ仰向けに転がった。すがすがしい青空を見上げる。そこに模様をつける木々の枝が、方角を失ったようにゆっくりと回りだす。地面がかたむく感覚になった。落ち葉の床に、のめり込んでいくようだった。

  モラル、マナー、ルール。デザイン、カラー、ジェンダー。分からない言葉だらけだった。わたしは我慢できずに目を閉じる。……土の匂いがする。木々の深緑が擦れる匂いがする。腕を広げると、地に這う苔むした樹木の根に手がふれた。すこし、あたたかい気がした。ふわふわと柔らかい苔が手のひらに吸い付く。わたしの黒い血を吸い上げるように。

  わたしは目を閉じたまま根を感じ、その先に伸びていく枝や葉を想像した。それはひとつの樹木であった。長い年月の末育まれた、たくましい植物だった。土に合わないものは枯れていく。ここはわたしじゃないひとの森。生むべきものは、美しいだけじゃない、すがすがしいだけじゃない。生え、青々と伸びる言葉。

  わたしの森だ。

  それでも、強い種には負けるのかしら、などと考えながら、わたしは目を開け、起き上がることが出来た。森の奥、枝葉の影から、小鳥やリスといった小動物が、丸い木の実を両手に、こちらをうかがう様子を思い浮かべる。気楽に暮らせたら良いな、と思う。

……彼女は暫く、ぼんやりと森の中で座り込む。

……頭上ではなおも、さわさわと楠木が揺れる。風に揺れ、落ちた種を探そうと、ざわざわと虫が動いた。