抽斗の釘

小説、散文、文章、短編

獅子

   一

 南中した太陽の光線は、直線下にその交差点を白く照らした。日の熱を避け、町の人々は陰に退いて姿を見せない。かげろうの揺れるその界隈には、濃い線香の香りが眼に見えずとも漂っていた。

   幹線道路にもなる街道は御陵に続く参道と交わって細い交差点を成している。朝夕の交通量こそ多いものの、日照りの激しい白昼には、棄てられたようにはたと無人になる機会が度々あった。それでも街道沿いに連なる商店や食堂、診療所などは時代の名残に幾つも残り、じっと構えて暗い戸口を開けている。当然、それらの商店を利用するのは周辺地域の住民だけで、庭木の茂る古く低い住宅と、真新しい外壁が輝く建売の住宅とが、間を詰める様にちぐはぐと並んでいる。そんな並びには、単身や小家族向けのアパートも大小幾つかあって、そのうちの比較的新しい一つに、小川は部屋を借りてひっそりと暮らしていた。

   小川が社会に勤め始めて4年が経ち、ある日仕事の電話中に耳の不調が現れた。耳鳴りが会話を阻害し、業務に集中出来なくなった。堪らず医者に掛かってみると、就労の疲れと負担による難聴、と告げられた。それでも生活があるものだからと気にせず働いていると、今度は眩暈が現れて、遂には真っすぐ歩くこともままならず、医者には自律神経云々と呼ばれた。そこからはガタガタと、至る所が崩れていった。

   小川は交差点に面する駐車場に車を停めて、日差しに輝く街道をぼんやりと眺めていた。会社から休みをもらい、紹介された心療内科で頭を使って疲れていた。開けた運転席の窓からは外気に熱せられた濃い風が流れ込む。ラジオを掛けているが、その風に煽られるように、ノイズが解説者の流暢な言葉を所々伏せていた。小川は聞き取り切れない話し言葉に気怠さと苛立ちを感じ、眉をひそめた一瞬間の後、ぱちりとラジオを切ってため息をついた。けれどスイッチを切った後も、静寂の街道の視界、それを揺らすように、ボウボウと風の吹くような耳鳴りが残った。

   医者の診断を上司へ報告する必要があった。小川は医者から処方された薬の一覧を鞄から取り出し、上から順に辿ってみる。窮屈な説明書きから逃れようとする眼を必死に操り、何度も文章を往復した。左右に文字をなぞるが、一向に内容は読み取れず理解できない。いよいよ諦めて、休職を含めた相談を上司にどのように投げかけようか、端末を起動させて医者の言葉を巡らすが、上手く説明できる自信が起こらず、面倒そうに顔を上げた。

   かげろうに揺れる街道の景色、丁度車の前を人が通るところだった。白く照るカンカン帽二つ、父子が手を繋いで跳ねている。街道を行くその姿は、彼にとって平穏でまぶしい光景に映った。薬に頼るようになった僕を、父はどう思うだろうか。漫然と思う小川の手元では、表に並ぶ鮮やかな薬の写真が、熱い風に吹かれてざわめくように揺れていた。

 


    二

 数年も前のこと。小川の父親はある病を患った。父親はその病が発見されて半年の間、断固としてモルヒネを使用させなかった。その病苦や病と闘う姿勢は、一人の人生、根性や意志の強さといった精神を用いて様々な困難を乗り越えてきたその時代を、小川ら家族へ垣間見せたのだった。医者からは父親の余命が家族に告げられた。短い余命だった。医者も家族も、余命を本人には伝えられなかった。堂々と歩き将来を見据える父親に、それを告げるのはあまりにも酷で不憫だった。そして皆、余命を告げたとして、それを慰める自信が無かったのだった。

   健常の時分から、小川の父はとても頑固だった。頑固であるし、それに強い自尊心を持っていた。それは背が高くがっちりとした体躯と、様々な運動を経験したが経歴からも湧いてくるものだった。家族への決め事は妥協させず、分が悪くなると声を荒げて強く出た。休みたい時に一人で休み、躾は厳しく、家族がはしゃげば叱りつける。帰宅時には妻や子供らに玄関まで迎えさせ、自らに対して敬語を使わせた。家族からの頼み事や相談は快く受け付けず、稀に聞いても揚げ足を探し、多くの場合は否定した。そしてそのような弱く無知な家族を否定することで、その自尊心を保っていた。ゆえに、小川自身を含め、家族は生活と人生の多くのことを否定されながら育った。扶養者として、保護を受ける者として、家族は常に父親の顔色を覗いて過ごした。小川はいまだに、世間の父親というものはそういうものだと、どこかで信じているのだった。しかし一方で、父親の交友から話を聞く際には、どうやら家庭外ではとても穏やかで、ひょうきんで、物分かりの良い柔軟な人物のようだった。大人物であった。そういう話を聞く度に、小川は、人はそうやって裏と表でバランスを取るものだと、人生を達観したように捉えていた。

   そんな父親の性格は病床にもあらわれて、意地やこだわりを持って烈火のごとく病と闘った。思うように動かない体を無理に起こして活動し、方々に出向き、他人から良いと聞いた習慣や食材を大量に摂り入れた。病を抱えながら会社へ行き、昼食の蕎麦は発作で喉を通らず吐き出した。温泉とサウナで体を絞り、書籍を読み漁り、治験を取り入れ、医者を何度も替えた。それらの動きは生への執着と、それ以上に、敵を迎え撃つ姿勢として小川の目に強く映った。強く映ったが、一方で小川はこっそりと見ていた。父親が人知れず、陰る座敷で座椅子にもたれ、腹を抑えながら静かに目を瞑っているさまを。夏の座敷には、決まって線香の香りが漂っているのだった。

   治療は報われず、病状は悪化する一方で、身体の異常は顕著に表れ始めた。自慢だった大きくて逞しい体つきは、点滴だけの生活にあっという間に細りだした。硬い筋肉は弱々しく萎んで、しっかりとした骨に力なくぶら下がった。頭蓋骨ははっきりと浮き出し、褐色の皮がたゆむ腕は、注射針の穴だらけとなった。排泄もろくに出来ず、オムツを履きながらよく血を吐いた。吐いた血には、時々鮪の刺身のような肉塊が混じっていた。慌ただしい病室に、小川は時々それらを拾い上げて粛々と片づけた。常に血が流れるものだから、献血は頻繁に行った。医者ですら、命を辛うじて繋いでいる献血が、いい加減費用がかさむと悲鳴を上げた。それでも、それを続けるしかなかった。彼の父親は諦めなかった。そしてそれは結局、世間や決まり事から許される範囲でのことでしか行えなかった。

   末期となりモルヒネが打診されても、彼の父親は薬漬けになるのは嫌だと、起き上がることも出来なくなった体で驚くほどに激昂した。治療の一環だと説明しても、自力で耐えると退け、骸骨の眼球はぎろりと医者や看護師を睨んだ。その一方で、見舞いの者には配慮を欠かさず、病室への来客の際には徹底してお茶を汲むよう、起き上がることのできない体で家族に指示を飛ばした。小川は父の顔色を依然として伺いながら、体と同時に弱っていく自尊心を、恨む程に思った頑固さを、愛おしく、悲しく思わずにはいられなかった。

   次第に、病苦とそのやりきれない思いは信仰に向けられた。ある日から毎日、祈祷師が病室に訪れ、お祈りを捧げながら父の体を撫でた。小川と家族はそれに従って、同じように目を瞑ってお祈りをした。彼の父にとってはそれが支えだった。結果として、小川ら家族もそれに助けられた。父親は荒い言葉を使うことはあっても、信仰という心の支えをもって、ひどく暴れたり自棄したりすることもなく過ごすことが出来た。お守りとして与えられた小さな和紙は、病衣の袂に大切に仕舞われていた。

   ある日唐突に、彼の父親は家族へ感謝の言葉を口に出した。もはや水も飲めず、土壁のように乾いた口は天井に向いて開いていた。衰弱した身体と脳は、長々しい言葉も美しい言葉も選べず、それは一言だけ、削ぎ落とされて絞り出されたものだった。何かを悟って、何かが折れた時だった。直に耐えられないと弱々しく、しかし切に訴えだし、それでやっとモルヒネを受け入れた。体に薬が流し込まれるとすぐに目を閉じ眠り始め、そのままゆっくりと一つ大きく息を吸い、それで死んでしまった。告げられていた余命からは少しだけ延びていた。それも医者の図らいだと小川は知っていた。

 


    三

 車から降りると、小川は遠慮のない白い日差しに苦しそうに顔を歪めた。耳鳴りは治まったが、日差しはキラキラと世間を反射させ小川を追い立てた。彼はそんな光に耐えながら逃げる様に自宅の玄関へ急いだ。玄関に入ると、外とは対照的に、夜のように冷ややかで、そこでやっと一息つくことができた。並べられた靴と黒い土間タイル。湿気た臭いが沈むように残っている。バランス、などと考えながら靴を脱ぐため体を屈めると、奥の部屋から床板の軋む音が聞こえだした。じっと廊下の先を見つめていると、それは徐々に近づき、やがて部屋の暗闇から溶け出る様に、ぬっと一頭のライオンが姿を現した。のしのしと近づく饅頭のような鼻先は湿って光り、野暮ったく広がるたてがみは、体の動きに合わせてふさふさと揺れている。金色の眼は静かに小川を捉え、下瞼は三日月のように白く色づき浮いている。大きな前足は柔らかく床を捉えて膨らみ、体格にはそぐわないその繊細な足先でゆっくりと歩く。ライオンはまっすぐ小川に近づくと、頭を傾け彼の足元へすり寄った。豊富なたてがみが彼の腰を包み、その圧力に体が押される。手の甲で広い鼻筋を擦ってやると、ライオンはグルグルと喉を鳴らしてそれに応えた。小川は安心したように目を細め、ライオンが失せるまで、一人暗がりの中、微笑を浮かべて立ちすくんでいた。

 


     四

 仰向けにぼうっと天井を眺めていると、体が天井に向かって浮くような、同時に床に向かって沈んでいくような、不思議な感覚になった。しばらくするとその浮遊感は、頭にゴムまりが埋め込まれた様な、頭部の異物感へと変わった。そしてその異物にどんどんと空気が送り込まれ、ゴムまりはだんだんと大きくなっていく。眼球や鼻孔や下あごが、それに押しやられて圧迫される。ゴムまりに十分に空気が送り込まれると、ポンポンと跳ねだして、もはや休むことが出来なくなった。

「出来るだけ好きなことをしてください。それで、堪らなくなったらすぐに休んでください。そして、よく寝ること。眠ることが治療です。それでもダメなら薬を飲みなさい。しかしいいですか、飲んだからといってすぐ効くわけではありません。一週間、二週間……、時間がかかるものなのです。」

医者は穏やかにそう言った。しかし趣味のような好きなことがもう無くなっていた。何もかも面白さというものが続かなかった。何事も軽薄で卑怯に見えた。何事も作為性を感じて嫌気がさした。その作為性に呑まれまいと抵抗した。抵抗すると、結局どうにもならない、何もできない無力感が湧いてくる。無力感は次第にどうしようもない不安感へと変わっていく。そんな抗うことのできない不安感や消極性に出会うと、辛さよりもむしろ驚いてしまった。驚いて戸惑ううちに不安感に浸かってしまうと、優しい人が悪魔に見え、常に騙されるといった妄想に追われた。本当にそう感じるのだから、それは覆し難かった。不安に負けると、ベッドに逃げるしか方法がない。休んでみても、休み方が分からなくなる。休みたくても休まらない。寝ても必ず夢に襲われ、戦い、逃げ、走って隠れる。空中を飛び回って落下し、人を助け、働き、熱心に説明し、プールに潜って必死に硬貨を探した。夢の世界は常に慌ただしかった。

   そんなことを考えていると、脈絡なくふと心持が軽くなった。ベッドから起き上がり、部屋の窓を開けた。太陽は徐々に傾き、日差しは緩く、風は爽やかだった。散歩でもしようと、足取りは軽い。外に出る。

 


   五

日が暮れるにつれ、街道の往来は次第に盛んになっていった。人々は陰から出てきて姿を現し、各々の目的に活動を始める。小川が靴を鳴らして街道を歩くと、街の人々はみな気安く、優しい陽気に沸いて見えた。昼間の白い輝きは消され、交差点は薄紅と水縹のアジサイのような色彩に、そこに涼風が通り抜け、彼はのしのしと胸を張って歩いて行く。歩きながら、人々や界隈が妙に愛おしく思え、小川の胸には大丈夫だという気持ちがむくむくと湧いていった。車が幾台も、賑やかに彼の傍を走り抜け、その度に彼の気持ちは強く煽られた。連なるテールランプがまばゆく点滅している。クラクションが遠く高らかに響いた。前方からは部活に焼けた学生たちがやってきて、アイスを片手に逞しく笑い小川を越していく。道の向こうでは、就業を終えた女性が軽快に歩き、ヒールが律動的で若々しい。様々な人が街道を行き交い、言葉と音は宙に溢れた。年寄りは店先に集って温まり、黄色い提灯が揺れている。自転車の女子学生はスカートをなびかせ、スーツの男性はお土産を抱えて急ぐ。飼い犬の鼻は快活で、母親の首筋はやさしげだった。ランドセルが小さく跳ねて、コンビニは光り、スーパーは安売りを叫んだ。家庭用品はガチャガチャと騒ぎ、茶色の猫が捨て身に駆け抜け、ツバメはくるくると落下、2階の窓には人影が映った。駅前では吹奏楽部の演奏会が催され、外国人の笑い声、買い物かごに缶ビール、単車の排気と通過の電車、警報器がけたたましい。浮いた血管、結んだ毛束、靴と目線は交錯し、影の列が滑って踊れば、汗と煙が混じって昇る。重なる楽器のチューニング、心拍高鳴り、子供が泣いてギターが歪む。雑踏は流れ、演奏は始まらず、風が抜けては空が巻き、夏雲が上へ上へと沸き上がる。夕日が傾き、彼は歩く。小川は暗くなる人込みを、なおも独歩に進んでいった。街道は宵にゆらゆらと笑う。小川は美しい夕景に、咆哮するほど高揚し、抑えても、破顔せずにはいられなかった。

 


   六

「依存性が少し高い薬ですから、辞めていくことを考えるならばですね、可能であるならば、薬を割って、半錠だけ飲んでみなさい。つまり、徐々に減らしていくのです。突然辞めてはいけません。いいですか、徐々にですよ。辞めるなら徐々にです」

 夜、電灯を消した部屋では、厚いカーテンの間から月明かりが床に伸びている。小川はベッドに腰掛け、重たい頭に医者の指示を思い出していた。もう、部屋のどこにも、ライオンの姿は見当たらない。ただ暗闇に、小川の眼が、月光を集めてキラリと浮かび上がった。人の心配は、思う気持ちは、いつだって一時的でその場しのぎだ。小川は彼が薬を頼るようになった社会を憎んだ。穏やかで日差しが差す、平気で無神経な営みを憎んだ。また、病室で父を囲う優しげな世間を憎んだ。それと同時に虚しくなった。嫌悪は空虚で、憎む道理が見当たらなかった。憎んだ分の同等に潜む、世間の優しさを感じていた。

   小川は暗い部屋に手を探り、薬を取り出した。白く小さな錠剤を犬歯に挟む。彼の鼻筋に皺が寄る。獣が食事をするように、獲物の骨をかみ砕くように、ガリっと一呼、固く乾いた音が響いた。いつしか虚しさは憐れみに変わっていく。憐れみは徐々に諦めに変わっていく。割れたのは、果たして薬か、その歯牙か。

   小川は一刻の後、麻酔銃を撃たれた獣のように、弱々しく横になっていた。徐々に月は傾き、月光はゆっくりと床を這って行く。じきに、撫でる様に彼の体まで登り、丑の刻には、暗闇にその口元を照らし出した。

 交差点にはもう誰も居ない。月もいよいよ落ちてしまって、ただそこに、埃に汚れる電灯が、しかと佇むだけであった。