抽斗の釘

小説、散文、文章、短編

鬱の花

    祇園の街は夜半を過ぎて、昼間の賑わいや夜の街のきらめきは夢のように消えていた。それは何も喧噪だけではなく、大抵の店灯りはもう消されてしまって、暗闇を引き立てるぼんやりとした街燈と、時折空車のタクシーが、ゆっくりと黄色いライトを揺らして通夜のように通っていくばかりである。そういった静寂の闇の世界でも、昼間の熱気は幾分残って、生ぬるいうすら風でもそよげば、何か化け物でも現れはしないかと恐れる、そんな不気味さが漂っていた。歩道へ乱雑に積まれた生ゴミは温まり、カラスさえも寄り付かない。夜を持て余す無頼漢さえ、今日は止めだと引っ込んでしまう。遠く見える八坂神社の交差点は、赤の信号が妙に浮いて、横断歩道をうねりが渡る。そんな黒い夜の通りを、律子は勤めを終えてコツコツと駅に向かっていた。

 律子がその日に限って易者の前で足を停めたのは、何も彼女と同年代の若い女性が一般的に持つ、恋愛や天命といった占いへの興味からだけではなかった。彼女はいつからか神経衰弱に陥っていて、医者にかかって薬を飲んでも一向に治ることはなかった。フツフツと、何事も面白くない、鬱屈とした生活の中、ふと露店易者の赤い提灯が眼に入った。半信半疑、気晴らしに、いざ相談してみると、植物が背中に生えて伸びている、易者からそんな指摘をされるとは、夢にも想像していなかった。

    さて、そもそも律子がなぜ、そんなうだつの上がらない、晴れない心持を抱えていたのかだが、彼女はそもそも学生の頃から頭痛や体の重さに悩んでいたのだった。女学校に通いながら、そんな苦痛を親に訴え、整体や整骨院に通うが良くはならなかった。それでもまだ、生活は行える程度だから、特段気にはせず、親なども、成長の過程でよくあることだと追及はしなかった。

    学校を卒業し、無事に保険会社に就職したものの、苦痛は一年ほどで段々酷くなり、生活に色々支障を与えだした。頭痛で仕事に集中できず、体は重たく夜は疲れても寝付けない。寝ていないものだから、昼間はウトウトとして、すべての営みが曖昧になっていく。溜まる疲労を感じても癒し方が分からない。段々と、わたしはこのままで大丈夫なのだろうかと自らへの不安は募っていった。いよいよ職場や両親との会話もちぐはぐで、仕事の失敗も積もり、いろいろな誤解が生まれては落ち込んでしまう。それで、上司の勧めもあって内科へ足を運んだ。そこで医者からは、ストレスと疲れによるものと診断されて睡眠薬を渡された。しかし薬を飲んでみても眠れるのは数時間の間のみで、途中で目覚めると、それからはやはり眠れない。再度医者に訴えると、適度な運動とリラックスすることを進められた。そこで、朝夕のランニングを日課として、他に鍼灸にも通った。ヨガやエステにも通った。寺や教会にも顔を出した。しかし努力虚しく改善は見られなかった。

    律子はついに職場に居づらくなって、保険会社を辞めてしまった。実家の目も気になって、迷惑はかけられないと独り暮らしを始めた。とはいっても生活がある。一生懸命に求人誌を捲っていると、たまたま祇園でのカフェの応募を見つけた。アルバイトではあるが、とんとん拍子に採用され、これで一安心、律子は新しい生活に希望をわかせた。心機一転やり直そうと、最初こそ奮闘していた。

    カフェは、ある宝石店の二階にあって、どうやら歴史あるところの様だった。昭和の趣が残る品の良い店で、食器にせよ、机にせよ、流れる音楽にせよ、落ち着きと調和がある店は、律子にとっても趣味の合うものだった。なにより給仕の制服が淑やかで可愛らしい。それがすらっとした律子に妙に似合うことも、彼女自身よくわかった。しかし給仕は前職のような重圧は無かったものの、どうしても多くの人と関わる仕事ゆえ、彼女にとってはひどく神経を使う必要があった。これは良い生活だと思い込もうとするが、体の重さは治らない。体調は良くなく、変わらず眠れない日が続く。良くならないとまた、余計に心配になる。失敗はそこでも相変わらず起こった。何をしても駄目だと項垂れてしまって、倦怠感はひどくなる。いつまでこの辛さは続くのだろうか、そういった終わりが見えない苦痛に、律子の気持ちはまた、徐々に閉じていった。

    銀行役員の長女として育った彼女は、家柄や長女という立場から、親の言うことをよく聞いた。律子の他に弟妹をもつ家庭にとって、彼女の聞き分けの良いことは両親に評価された。真面目に、誠実にと教えられ、そうあることが彼女にとって存在の意義だった。また、そんな誠実な人柄をもって周りの信頼も厚かった。そしてその信頼もまた、彼女を余計にそうさせた。さらに、彼女のすらっとした佇まいや、さっぱりとしたショートカットや身の回り、静かな話し方はそれだけで清純そうで、人々に好感を与えた。世間ずれした話は無く、無いゆえの魅力に、異性からの人気は或る程度根強かった。ただ、そういう周囲の理想や期待に応える義務感から、彼女は遊びいうことが不得意であったし、不健全だと思っていた。経験も希薄で、ゆえに異性が苦手だった。女学校で育った経歴もあって、男性の独特な力強さと油分がどうしても受け入れがたかった。子供のころはそれでも支障は無いし、むしろ両親などは安心していた。しかし大人になれば、嫌でも異性と関わる機会は避けて通れないし、様々な経験を経ていく周りの友人たちをみれば、複雑な焦りと軽蔑のようなものも感じていた。しかし、今更になって方法が分からないし、人に聞くことも出来ない。異性に関わる苦痛は克服できず、特に職場での様々な年代の異性とのやり取りは、戸惑いと嫌悪に満ちていた。

    さて、そんな女性であった律子だが、周囲に自分の価値を求める性格と、異性との関わりに苦しむ中で、常に肩に力が入り、学生のころから頭痛や体の重さは彼女にまとわり続けた。それだけでは慣れたもので、また我慢も出来ていたが、そこから不眠も現れたため、いよいよどうしたらよいか分からなくなった。人に迷惑はかけまいと、周囲にはろくに相談せず、一人で苦しんでいた。せわしない生活から落ち着いて考え抜く時間もなく、冷静な目をふさがれて、易者に声をかける次第になったのである。

 


    易者は閉店した土産物屋のシャッター前に、簡易な店を構えていた。街燈もない薄暗がりの中、折り畳みの机を広げただけの簡素なものだった。易者は三十代にも五十代にも見える血色の悪い女性で、重たいおかっぱ頭に粉っぽく塗られた長いまつ毛が不気味だった。蒸し暑い夏の夜であるのに、薄紅のコートを羽織って、寸分動かずじっと座り続けている。机には「裏無い」だとか「非商売」だとかの文字が張られており、いかにもイカサマ染みていた。しかしそんな怪しさも、律子にとってはどこか、かえって魅力にも感じられたのだった。

「あの、鑑定をお願いしたいのですが……」

「はい、今晩は。十五分の鑑定で三千円頂きます       が、宜しいでしょうか?」

 律子は了承し、パイプ椅子に腰を掛けた。くたびれた座布団の、硬い繊維が気になった。易者を前にしてみると、彼女の周りから甘い香の香りが漂ってきた。ぬるい夜風が吹いて、提灯の明りがゆらゆらと揺らいで見えた。

「……さてお名前を、伺っても宜しいかしら?」

「大原律子と申します。大きな原っぱに、規律の律に、子どもの子です」

易者は礼を述べて律子をじっと眺めだした。易者のけばけばしいまつ毛は、律子の頭頂から体の輪郭をなぞるように、肩、腕へと降りて、最後に背中のほうでじっと止まった。

「おそらくこれのためにいらしたんだと思うけど。驚かないでくださいね。あの、あなたの背中にはですね、植物が生えています」

相談もせず出し抜けにそう言われ、律子は面食らわずにはいられなかった。

「背中、ですか?」

「そう、背中。……体が重くないですか?」

何も言わない傍からそう当てられて、律子は自然に前のめった。

「わたしに、何かがついているってことですか、それは、いったい取れるものですか?」

易者のまつ毛に覆われた黒い眼は、律子に向けられながらも、依然として律子の後ろを捉えている。そのまま女は少し首を傾げて見せた。女は一息おいて、その植物は故意には取ることが出来ない、無理に抜き取ろうとすると、下手をすれば魂までくっ付いてごっそり抜けてしまうという。話を聞けば、どうやらその植物は背中から生えて根を張り、根は脊髄を通って魂に寄生しているとのことだった。律子は狼狽する。いつそんなものが根付いてしまったのだ、どうやって退治するのだと。女は穏やかな調子で続けた。

「こういう類のモノは、目に見える植物と同じで良質な土壌に生えやすいと言います。特別なことではなく、あなたの体が根付きやすいものだったということです。こういった、モノの種類にもよりますが、一度芽吹くと、環境が悪くなるにつれてどんどん逞しく、根深くなっていくものもあるのです。まるで雑草のように。あと、いつ寄生されたのかは私にはわかりません。ただ生えているという事実のみが分かります」

 淡々と述べた後、そこで易者はまた一息ついた。律子はただ、目の前で言われていることを信じきらぬよう理性を保つ努力をした。しかし女の話は、彼女にとってどうも惹きつけるものがあった。それだけ律子は弱っていた。女の話やその風貌は、どうしようもなく弱った律子にとって、頼り易さすらも感じさせるものだった。

「いつ寄生されたのかは分からないけど、そのきっかけはたぶん、目に見えるものと同じだと思う。風に運ばれるものあるし、鳥や虫などに運ばれるものもある。それか、もしかしたら変な茂みにでも入った?」

律子は何とも言えず、ただ首を傾げて応えた。

「とにかく、きっかけは誰にもあることです。重要なのは、種が芽吹いてしまって根付いたこと。こういう類は最近多いの。寄生されてしまって魂の栄養が吸われていく。心の栄養が吸われて、モノはどんどん、植物みたいに茂って成長する。それで、体が重たくなって元気がでない。要は、一般的に言われる鬱状態ってこと。つまりそうね、この植物。これは鬱の花、とでも呼びましょうか」

「ウツの花……ですか」

「ええ。丁度、そうね。あなたのは烏瓜に似てる。蛾が運んだのか鳥が運んだのか。とにかく、たいがいの人は種が付いても根付かず取れてしまうわ。弱るときは誰にでもあるでしょう? でも、たいがいの人は立ち直って元気になる。でも、あなたの場合、運悪く芽が出て、根付いてしまったの。……そうね、どんな人に生えるかというと、魂の土壌が良く柔らかい人。つまり優しい人だとか、くそ真面目な人とか、つかれやすい人、とかだね。育ちが良いとか、意志が弱いとか。でもほとんどのケースでは、土壌が柔らかいから、万が一芽吹いても、根付かず、育つことなくすぐ抜け落ちてしまうものだよ」

「……もしそうなら、どうしてわたしの場合だけそんなことになったんです?」

「さて、そこで環境です。柔らかい土に、雨や風が激しく吹き込んで土は固くなります。そこで枯れるモノもありますが、その過酷な環境が土を固めてしっかりと根を掴んでしまったのだろうね。鬱の花もタイミングが合えば、その過酷な環境にしっかりと免疫をつけて成長します。……あなた、生活で何か辛いことあった?」

「仕事、でしょうか……?」

「そうですか? 仕事、確かに仕事は多くの人が抱える問題ね。もしかするとその環境かもしれませんね。あなた若く見えるけど、勤めて長いの?」

「いえ、就職して一年たって。今は別の仕事を……」

「……そうですか? モノはもう少し成長して見えるけどね。……とにかく安全な治療は一つ。枯れるまで待つこと」

「待つ? 枯れるまでですか? あの、それは、枯れるのはいつになるんです?」

女はそこで、小さな息を漏らした。背中のものから目線を外して、今度は真っすぐに律子の目をみた。

「……いいですか。植物がいつ芽吹いて、いつ枯れるかなんて誰にも言いあてっこできないもんでしょ? ぴったりと当てるなんて。……ただ言えることは、何物でもいつか息絶えるってこと。それは、どんな物事にも言えることなんです。ことわりです。芽吹けば枯れ、実れば腐る。若ければ老いるし、美は醜に。昇れば暮れるし、始まれば終わります。いつかは分かりませんが、いつかには、枯れていきます」

「そんな、でも辛いんです。この辛さはいつまで続くんですか」

律子は食い下がった。女は呆れたように目を細める。

「そんなこと、その花しか知りません。……ただ、あなたが出来ることは、豊かに生きることです」

「豊かに?」

「そう。つまり、植物と同じで、しっかりとモノを育てて、早々に枯らしてしまうのが方法なんです。物事の順序というのは、覆したり省略したりは出来ないの。さっきも言ったように無理に順序を歪めると、そのしわ寄せが必ず現れる。無理にその花を抜いてしまうと魂まで抜かれてしまう。出来るだけ、あなたの良い土壌のまま、栄養と水を与えてください。太陽を浴びせて、美しく、軟弱に育ててしまえば良いのです。そう、無理に頑張って、圧力をかけてしまうと、今は雑草のようにしぶとく強くなると思う。根強くいつまでもあなたの魂に生え続け、魂の土壌を吸って枯らしていく。いいですか、土壌はあなたの魂そのものです。魂はあなたの体そのものです。土壌を柔く、豊かにすることを意識して、きままに生きてみて。いい加減に、不真面目に、周りを気にせず、したいこと、好きなことを追ってみて。あなたはそれぐらいが良いかもしれない」

 女はそろそろ時間だと告げ、延長するかを尋ねた。律子は話の続きを聞きたくなったが、これ以上不可解なことを言われるのも嫌だと思って、帰る支度を始めた。

「……出来るだけ、そうしてみます。あの、最後に一つ、こういうのって誰でもつかれるものなんですか」

「ううん、さっきも言ったけど、そもそも悪い土壌には付きにくいものなの。モノだって出来るだけ住みやすいところを選ぶと思う。柔らかく、温かく、豊かな土にね。あなたが花にとって住みやすい所ってこと」

「……ちなみにそのカラスウリって、今はどんな状態なんです? 例えば花が咲いてるとか」 

「まだ花は咲いてないね。肩や頭に蔓が巻き付いて苦しそうだよ」

「……その、花が咲いたらどうなるんです?」

「うん、言いにくいけど、このままもっと酷くなるんじゃないかと思うよ。花を咲かすのにはエネルギーが要るからね。その分吸われていく。……それに、植物によったら花粉や種をまき散らすものもいるし。人に移る前に、あなたのところで枯らしたいもんだね。ああ、ちなみに烏瓜ってのはあくまで例えね。こういうものは、私がそう認知してそう見えているだけだよ。……つまり私には烏瓜に見えるけど、それに性質が近いだけで、そう見えているってこと。花に見えるだけで、本質はそういう粘着な念とか、思いとか、気持ちがそう見せているだけ。物事は目に見えることにイメージが強く認知されやすいの。つまり現実の烏瓜を私は経験として見たことあるから、仮の姿として、そう見えているだけ。寄生する人によったらそれが菊とか、牡丹だったりするの。つまり人が生み出したものは、イメージしやすいものによっていく。人のイメージによって作られたものだから、イメージしやすい対処がある。目に見えないものは、魂の有るものが生み出すしかないんだよ」

「そう、ですか?」

いよいよ易者の話が分からなくなってきたので、律子は礼を言って、その場を切り上げることにした。

 


「ウツの花、かあ」

律子はその晩、シャワーを浴びながら、易者に告げられたことを考えていた。イカサマと思いながら、女の言葉は妙に気になる。彼女の言う通り、気ままに過ごしてよいのだろうか、そしてこれ以上に気怠さと憂鬱な気持ちはひどくなってしまうのだろうか。律子は風呂場から上がって、洗面台に自分の裸を映して念入りに眺めた。細身だが、銭湯などでよく見かける面白味のない体だな、と思った。

    給仕の仕事を始めて、以前の生活より格段に異性と接する機会が増えた。様々な年代の男性から、彼女の若さゆえの興味の目で見られていることも、律子自身よく感じていた。

「豊かな生活……」

律子は鏡に映した自分の姿を眺めながら、ちょっと腰をひねったり、腕を前で組んでみたり、雑誌のモデルがする表情を真似てみたりした。刻々と時間は過ぎていく。小さな一人暮らし用の冷蔵庫がブーンと音を上げた。湯気で律子の体は血色よく、水滴がひとつ、つらっとなだらかな胸元を流れていった。

 

    ところでカラスウリってどんな花なんだろう。律子は寝間着を羽織りながらふと思い、がたがたと本棚を漁って、親から譲ってもらった植物図鑑を引き出した。

「あ、綺麗……」

埃を吹きながら捲ったそのページの挿絵に、律子の目は引き込まれた。白い星型の花に、その端々から、細くレースのような糸が、蜘蛛の巣の様に広がり伸びている。夜に咲き、朝には萎むという説明書きを読み、暗闇に可憐に浮かぶ、神秘的な白い花を思い描いた。こんな美しい花が、わたしには生えるのか。今、咲こうとしているのか。そう思うと、彼女は背中のそれが、何か大切で、特別な愛おしいものに感じられた。丁寧に育て上げたいとさえも思えた。

    律子の様子はその晩以降、次第に変化していった。今まで以上に身だしなみに気を付け、その容姿は品よく磨かれていった。美しい花を宿して、わたしは特別なのだと妙な自信を持つようになってから、異性との会話もだんだん嫌な気はしなくなって、愛想のよい受け答えが出来るようになった。それでも時々、憂鬱な気持ちに襲われることは続いたが、その憂いた様子が、かえって周りの異性を引き付けた。律子自身そういった魅力を纏うことを理解すると、無理をして隠すことなく、神経の弱りを周囲に告げ、周りから心配がられたりして、それが心地よくもあった。

    律子の気持ちは徐々に明るくなった。周りに気を使いすぎることをやめ、或る程度開けて接してみると、こんなにも過ごしやすく、受け入れられることになるとは。彼女の気持ちは徐々に上向き、頭痛や体の重さも次第に感じなくなっていった。しかしその一方で、ある恐れが彼女の中に芽吹きだした。それは、易者に言われた、彼女に生えた花を枯らしてしまうことだった。彼女に宿ったのは鬱の花であった。美しいその花は、いつしか枯れて抜け落ちてしまう。その花が無くなれば、わたしの気持ちは上向いて、せっかく手に入れた魅力が無くなるのではないだろうか。わたしだけのあの花が、美しい花を持つことが、出来なくなってしまうのではないだろうか。彼女はそういった失う恐れを感じながら、毎晩鏡に自分の裸を映して、背中を覗いてみたりした。

    律子の恐れは的中して、徐々に彼女の体や心持は回復していった。体は軽くなり、律子は快活に異性と会話ができる彼女自身を感じて戸惑った。花は果たして枯れてしまったのか。わたしの元から無くなってしまったのだろうか。失いたくない。もう一度確認したい。もう一度見てほしい。律子は、鬱の花を枯らしてしまったのではないか、そんな不安と焦りを感じた。もう一度あの易者に会いたい。もう一度宿していると告げてほしい。律子はそんな衝動に駆られて、それから毎晩易者と出会った夜半に、祇園の街を捜し歩いた。しかし幾ら歩けど、あの夜に浮かぶ提灯を見つけることは出来なかった。それでも律子は諦めきれなかった。あの花だけが、彼女たらしめる唯一のものだと信じた。蔓は伸びる。不安は募って咲き開く。律子はいつしか容姿も疎かになって、靴擦れも気にせず毎晩毎晩祇園の街を、亡者のように彷徨った。

    しかしそれから一度も、律子は易者と出会うことは無かった。ただ、夜な夜な不気味に体を引きずる律子の目には、血走った眼球には、いつか図鑑でみた、美しい鬱の花が、夜闇の中、ありありとそこに咲いていた。