抽斗の釘

小説、散文、文章、短編

来世

 

 植物写真家・黒部の自宅庭は、それだけに多様な植物で溢れていた。目隠しのキンモクセイやツゲに広い庭を囲ませ、ユズリハモクレンサルスベリなどの高木、ボタン、ツツジマンリョウの低木、オリーブ、ギンバイカなどの鉢植え、ローズマリー、西洋イチゴ、スイセンプランターが隙間なく並ぶ。また、幾つかの大型の水鉢には、ウキクサの中にスイレンカキツバタなども季節に咲いた。一方で、やはり芸術家の故郷としての臭味も漂うようで、庭は和や洋の趣が雑多に混在しながらも、それでいて不思議な調和を保っていた。

 黒部の自宅を訪れるのは、佐々木にとって珍しいことではない。普段の写真原稿のやり取りはオンラインを活用するが、時節ごとに直接赴き、顔を合わすのも、編集者にとっては、原稿をつなぐ重要な仕事だった。しかしその時の黒部は、いつもの若年からくる生意気さや快活な様子は見えず、いやに静かな顔つきだった。

「いや、お久しぶりです。どうですか、作品の方は」

と、毎度のように庭の見える座敷に通された佐々木は、窓際の籐椅子に浅く座ると、当たり障りのない挨拶を投げかけた。しかし黒部は、苦いものを嚙むような顔で、いまいちすっきりとしない。

「最近はね、まあ一応」

と、なんとでも捉えられる言葉を返すだけだった。

「……おかげさまで先月号も順調でして。先生の出された『羊歯の森』、あの作品も、方々から好評をいただいていますよ。読者の便りもいくつか届いておりまして、ほら、」

と、佐々木は鞄から葉書の束を取り出し、黒部の前へ差し出した。しかし黒部は籐椅子に足を組み、ちらとその束を見ただけで、ふいと、興味なさげに目を反らすと、ぼんやりと庭の方へ目を遣った。佐々木は行く宛てのなくなった手紙の束を、そっと籐のガラス机へ置くと、黒部の後を追随し、春霞の灰に降られたような、薄緑に沈む庭を眺めた。

 春も進めば、鬱蒼と霞がかった庭も、楽園のように華やぐだろう。それだけに、今の眠たげな霞の季節は梅の花、それがより一層麗らかに花をつけ、冴えて見える。

 黒部の庭には、サクラと対をなすよう、中央付近に梅が置かれている。色づく時期が順に訪れる二株の樹は、季節の移り変わりを刻、刻と伝える緩やかな時報のようで、佐々木は春に黒部を訪れるたび、その趣に作家とその庭の感性を共にほめるのだった。

 と、今年もそのおべんちゃらをたくらみ、庭をついと見渡した。しかし、梅の木が見当たらない。一年に一度のことだから、見間違いだろうかと、再度首を伸ばして庭を見た。しかしやはり梅の木はない。

「あれ、梅は」

と、佐々木は何も考えないうちから声に出した。同時に黒部の顔を見る。

「まったく、参りますよ、佐々木さんには」

黒部は庭から顔を戻すと、実際参るらしく、増して苦々しい顔を見せて応えた。

 佐々木は疼いた。何かある、と、記者上がりの嗅覚が耳元で囁いた。

 踏み込んで聞けば、面白い話が聞けるかもしれない。それがすぐに佐々木の仕事で使えるものではなくとも、黒部ほどの注目される若手作家のことなら、後々使いようも出てくるだろう。また、そんな黒部との関係を続ける上で、ある程度踏み込むのは、利はあっても損はない。しかし黒部は参るという。実際参った話なのだろう。図々しく粘着して倦厭されては、それでは損だ。

 佐々木は逡巡しているうちにも、黒部へ勝馬を眺めるような笑みを向けていた。黒部のその参りますという言動から、自分への一握のへつらいや信用を、感じられなくはなかったのだ。

「へえ、参ったですか。それは、どうも……?」

そんな佐々木に、黒部は含み笑いを噛むようにして、すっと右手を差し出して見せた。

「あれ、どうしました」

佐々木は大仰に声を上げた。黒部の右手全体を覆うように、包帯がなされているのだ。

「怪我ですか。そりゃ。あれ。」

「ええ。どうしたものか、やってしまいましたよ」

まるで母親のように顔を歪める佐々木に対し、黒部は包帯を撫でながら、どこかさわやかに笑うのだった。

「なら作品は、カメラはどうなんです」

「いや、参りました」

首を振る黒部に、佐々木はしがみ付かないばかり、机へ手をついていた。

「しかしまあ、休暇のいい機会かと思って」

と、のんきそうに続ける若輩を前に、佐々木は腕を組み、籐椅子の背にもたれ、天上を仰ぎつつため息をついて見せた。叱ってみるのもまた、ひとつの編集者の仕事だった。が、それ以上に込められたのは、見通せつつある仕事を邪魔された率直な不機嫌だった。

「いけない。そりゃ駄目だよ黒部さん。写真家がそんなことあっちゃあ。商売道具なんだから。え、次の依頼はどうするんです、え」

業界を臭わせるそんな言い分も、黒部は対して堪えない様子で、なおも大事そうに右手を撫で、含み笑いを浮かべる次第だった。

「一体何をして、怪我なんかしてんですか。」

佐々木は焦れた。が、押して引くという技術も忘れていない。一転して優し気に問うのだった。

「切ってしまいまして。」

「梅の木を。」

黒部は含みを持たせながら、ゆっくりと、そう二言告げ、また怪しげに微笑むのだった。佐々木はその声が、どこか不思議に、背後から聞こえたようで、そっと片耳を抑えるのだった。

 疑問はいくつかあった。なぜ梅の木を切らなければいけなかったのか。なぜ自分で切ったのか。なぜ梅の木なのか。そして植物を専門とする黒部が、食い扶持であろう樹を切ることがあっていいのだろうか。

「切った、ですか。」

落胆ともとれる怪訝な表情を浮かべ、佐々木は首を傾げた。

「ええ、切ってやったんです」

話を促すつもりだったが、どうも黒部は要領を得ない。

「なぜ、切ったんですか。邪魔でしたかね」

焦れた佐々木は端的に切り出した。創作に対する、黒部なりの不満や葛藤の発露だろうか。そうならば、編集者たる自分がケアしなければいけない。しかし次に黒部が口にしたのは、

「親父をね、切り離してやったんだ」

という、不可解な言葉だった。

 

 黒部の父親といえば、確かこの年明けに三回忌を迎えたところであった。

 父親の通夜の時分、それはちょうど佐々木が黒部に目をかけ始めたぐらいで、その時の黒部は葬儀の席でも暗い影一つ見せず、むしろかえって平生よりも快活な様子だった。佐々木はそこにある種、妖力の片鱗を見出し、それが正解だったのか、結果、彼は現在の名声を手に入れている。臨終の間際でそうだったのだから、月日が流れた今、冷淡と思えた黒部の口から父親と聞こえたのは、佐々木にとってはいささか騙し討ちで、加えて追い出したと続けるのだから、その勿怪顔はなおさらである。

「お父様を、切り離した?」

佐々木はもはや、策略を打つ間もなく問い返した。

「ええ、そう言いました」

黒部は涼し気な顔をしている。自分がいかに妙なことを口にしているのか、それが分からない黒部ではない。しかしそうやって焦らすのは、黒部の妖の部分なのか。遊びに付き合うほど、佐々木もお人好しではない。

「……佐々木さんは、幽霊を信じる口でしたっけ」

佐々木が席を立つ口実を巡らしていると、ふいに黒部のほうから尋ねた。

「ははは、お父様がいらっしゃいましたか」

「いや実に、そうでして」

佐々木は呆気を越して心配になった。

「あの梅が、つぼみを付け始めた頃です」

黒部は佐々木に意を介さず話を続けた。佐々木はその話を、いつか原稿にできるだろうかと、メモ書き程度に残したのだった。

 

 あれは庭の梅がつぼみを付け始めた頃でした。僕は夜型の人間でしてね、その日も資料整理や次の取材の旅程を練っていました。確か、二時か三時のことだったと思います。いつもなら朝方まで書斎に籠りっぱなしなのですが、その日は妙な気配を感じましてね。もちろん独身ですから、この家も両親に先立たれ仕方なく引き受けただけ、他に誰もいるはずはありません。それに暖かくなり始めましたから、悪鬼を起こす者も増えるとも聞きました。気のせいだと思いながらも、気になり出すと止まらないのも、また僕ですからね。一応、家の中を見て回ることにしたんです。

 それはまあ杞憂でした。家の中には当然、風呂場も押入れも、誰も居はしませんでした。ほっと安心し、僕はコーヒーを淹れながら、気が付いたんです。庭を見ていないと。それで座敷までいって、襖をあけて庭を睨みました。するとそこに、いたんです。ちょうど、梅の木のそばに。やはり泥棒だと身構えましたが、どうも様子が違いました。泥棒なら、僕に見つかると分かれば、逃げるなり、襲うなり、何か動きがあってもいいはずです。しかしその人影は、身動き一つしませんでした。その上、全裸なのです。裸です。ぞっとしましたよ。泥棒よりなおさら怖い。全裸の者が、夜、ひとの庭に居るんですから。

 僕は威嚇の効果も期待して、座敷の電灯を点け、さらに手元の懐中電灯でそれを照らしてやりました。しかし驚いたことに、照らしたと思った瞬間、さっと人影は消えてしまったんです。逃げたと思い、周囲を照らしましたが、どこにも姿は見えませんでした。御覧の通り広い庭ですから、人の足ではそんなに素早く逃げることもできないでしょう。その時かろうじて見えたのは、その裸が男であるということだけで、あとは何もわかりませんでした。

 一人でひどく心細い気持ちでしたが、かといっていい大人が、心細いと言って騒ぐのもどうかと思い、僕はそれからもう寝ようと寝床に潜り込んだのです。朝がひどく待ち遠しい時間でしたね。

 で、布団でちょっと考えたんです。まあ、誰だってそんなことがあれば考えずにはいられないでしょう。あの瞬間、ライトに映った男の陰部、あれは、どうも親父のものに思えたんです。僕が子供の頃、一緒に風呂に入って眺めた、あの父親のもの。思い返すほどに、不思議とあれは父親だと僕は確信してしまったんです。

 それで、なぜ死んだ父親が、と、当然考えましてね。ご存じの通り、親父は死んでいますから、まずは幽霊だと思いました。でも馬鹿馬鹿しい。写真家が幽霊、見えないものを見たとすると、なんだが皮肉めいていますしね。でもまた一方で、写らないようなものを写すのも、僕らの仕事なんです。だから僕は布団の中で考えました。僕は何を見たんだろうって。

 朝方になってはっきりと分かった。あれは父親そのものに違いない。父親の、一部に違いないと。……佐々木さんは物質不滅の法則ってご存じですかね。ええ、質量保存則とも言います。元素は結合と分裂を繰り返しますが、消えはしない。つまり、死に焼かれた父の体や脳も、水素や炭素、酸素の元素に分裂し、細かくなって空中に飛散したのではないでしょうか。

 自我たる意識や記憶が脳を構成する神経や細胞に宿るなら、それらを構成する元素に宿っていても不思議ではない。元素は空中に流れ出ると、海に流れたり、土の中に降りたり、あちこちに行くでしょう。その数は膨大です。火葬場は最寄りの場所を使いましたから、この地域一面に親父であったものが広がったに違いありません。それはこの庭にだって例外ではないはずです。

 そのごく一部、一粒かもしれませんが、親父であった元素が、あの梅の木に入った。雨や地下水からか、それとも呼吸からか、ともかく親父は梅の木に入りました。

 しかしこれは特段珍しいことではないように思います。佐々木さんだって、ふと思いがけず遠い親戚を思ったり、旧友が夢に出てきたりすることはあるでしょう。僕らももちろん代謝し、体から水素や炭素などを吐き出している。遠い旧友の吐き出した数多の元素が、巡り巡ってほんの一粒、僕らの口に届くことがあってもおかしくはないと思うんです。そうやって有象無象の元素を僕らは取り込み、僕らの記憶と彼らの記憶が結びついたとき、それが肖像として僕らの脳裏に浮かぶ。しかし親父は僕の枕元には立たず、梅の木に現れた。それは、親父が梅の木に宿ったと考えていいかと思います。梅の木の記憶を通して、僕と父親が結びつき、肖像として現れた。

 御存知の通り梅の木も代謝しますが、活発なのは皮の周辺だけで、樹木は心材といって、樹の中心は死んだ細胞で固まっています。もし親父の粒が心材に取り込まれて居座るのなら、そして毎晩のように庭に出るのなら、これほど僕を苛立たせることはないでしょう。それが例えば、一年草多年草ならまだ我慢したかもしれません。が、梅の庭木は百年以上生きる。そりゃ第二の人生だ。つまり、親父の来世は梅の木になったんです。それが親父にとって不本意かどうかはわかりませんが、僕はいつまでも親父に監視されるのは御免です。

 ですから、あの梅の木は次の日に切ってしまいました。植えることはあっても切ることは珍しいですからね。慣れない作業に、この通り、自分の手まで切ってしまった。

親父の怒り? あはは、それはいかにも超自然的な思想ですね。元素にそんな力はないでしょうから。

 それからは、もちろん焼きましたよ。でなければ切った意味がありませんからね。これで親父であった元素はまた、空中に飛んでいったわけです。それからどこへ行ったのか。もしまた庭に戻ってきたのなら、やはり切って燃やしてやりますよ。

 自分が死んだらどんな来世を迎えたいか? 不毛なことを聞きますね。死ねば無限の僕が、無限の時間、気が狂うまで世界を漂うんだ。そうやって自失し、やがて意思の持たない単細胞に成り代わる。行きつくところは誰しも発狂です。それは地獄とでも天国とでも言える心地でしょうね。

 あれ、ひどい顔をされていますよ。その顔、一枚撮って差し上げましょうか。(了)