抽斗の釘

小説、散文、文章、短編

満開

 

 この日、四月一日は入社式で、美桜はその会場へと向かっていた。

東大路通りを北へ歩く。そして度々、苦々しい瞳を青空へ向けた。もたないと思っていた桜は、ちょうどこの時に絶頂を迎えていた。

美桜が桜を疎ましく思うのは、群衆を思うのに近かった。断りもなく頭上に咲き乱れるやかましさ。それは花見客の高揚した喧騒によく似合うものだった。

 東山五条の交差点では花見客が団子になり信号を待っていた。信号を渡り五条坂の方に折れ、道なりに進めば清水寺に続くらしい。群衆の浮き立つ背に幾分苛立ちを覚えながら、美桜もその後ろへと静かに足を揃えた。

 金曜日であるから今日をしのげば土日とふつか休み。気楽だと自分に言い聞かせるも、気休めは苛立ちになんの効力ももたらさない。

 これから会社でうまくやれるか。先輩には気に入られるか。友人はできるか。

 そんな不安がある。

 遅刻はしないか。会場にはたどり着けるか。日時を勘違いしていないか。

 加えて、いろいろな不安が次々と生まれる。

 そしてそれらの不安へ旗を振って扇動するのが春だった。新生活、というだけの漠然とした生命力が花のように開いて、不安を空に浮かせたまま落とさない。春の乾いた日和が喉を絞めた。

 目の前で談笑する信号待ちの花見客は、みな鮮やかなシャツを春風に膨らませていた。

 彼らを歓迎するように、交差点を渡ったすぐそば、大谷本廟の門桜が花を空に広げている。

 やがて信号は青になった。

 花見客たちは五条坂へ右手に折れる。美桜はひとりだけまっすぐ進んだ。すると花見客も桜も見えなくなって、そこでふうと一つ息を吐いた。

 

 指定された入社式の会場は、ビルの貸し会議室を使っていた。

 エレベーターで上階に上がると、すぐ目の前に、大部屋へ長机がぎっしりと並んでいるのが目に入った。定刻の三〇分前だった。すでに受付は開かれているようで、部屋の入口前に作られた簡易の受付には、社員だろう、髪の明るい女性が一組の長机に腰かけている。そして隣に座る男性と親し気に話しているところだった。そのキャラメルのような髪が、紺のスーツに鮮やかに映え揺れている。

 しかし美桜の姿が見えても、二人はなお話を切り上げそうにない。で、ひとつふたつやり取りを終えたうえ、そこでやっと二人は作為的に座りなおし、美桜の顔を一瞥した。女性はふっと微笑みを浮かべる。美桜は聞かれる前から名前を名乗った。

 女性は髪を耳に掛けながら、受付表の上にペン先さ迷わせ、やがて落とした。そしてさっと、美桜の名前を切るように線を引いた。その所作ひとつがずいぶん手早く、小慣れている。ただそれだけの動作だが、それがいかにも業務的で、美桜は社会に出たのだと妙な感銘を抱いた。

 女性は席に着いて待つよう促した。美桜はひな鳥のように幾度か頷き、席へと向かった。

 席は指定されていて、名前の書かれたA4の封筒が几帳面に机へ並べられている。美桜の席は後ろの方だった。自分より先に来ているのは数えるほど。おとなしく座っていると、次第に前の席もぽつりぽつりと埋まり始めた。

 美桜はその間どのように知り合いを作るか、想像により準備をした。初日にどれだけ知り合いを作るか。その重要さはこれまでの学生生活でいたく身に染みている。ひどいと半年は孤独な状況が続くものだ。それはまるで椅子取りゲームのようなもの。友人の数は限られているのだ。

 美桜はキョロキョロと瞳を動かした。まだ定刻まで時間はあるだろうから、周囲に座った者に声をかけてみようか。話題は何が適切だろう。それとも私語は厳禁だろうか。軽薄な行動は評価などに影響するのだろうか。

 しかし生憎、美桜の周囲に座ったものは男性ばかりだった。皆緊張している面持ちで、美桜とは目も合わせず、不機嫌そうに無言で席についた。

 ふと前に目を遣ると、運よく隣り合った女性同士が肩を寄せ、小声で何かやり取りをしているのが目に付いた。美桜は途端に焦りを感じた。自分もそうするべきだろうか。あそこまでいって話しかけてみようか。美桜のパンプスの底が、ひとつ外側へ床をこすった。そして美桜は落ち着かない様子で左右に目を凝らした。両脇の男性は無言を貫き、膝の上に静かに両手を並べている。美桜は唾液をひとつ飲むと、ゆっくりと膝を戻した。指定された席に居ろとの指示だ。無闇に立ち歩く勇気はない。

 美桜のこうべは徐々に下がった。やがて目に入るものは封筒に張られた印刷の名前だけだった。

「山崎美桜」二十二年付き合い、見知った名前だ。それは自分の名に違いない。それを眺め続けた。きっと美しい名前だった。その名を見た者はおそらく白く淡いピンクを思い浮かべるだろう。そして現れた現物と名前とを交互に見て少し笑うにちがいない。あの受付の女性だってそうだろう。きっと笑っただろう。

 美桜は机に置かれた自分の手の甲を見た。それは陸上選手のように黒い。また体毛も濃い。指の毛穴も目立つが、手首などは、シャツの袖から切れ切れに細毛が見えている。

 美桜はさらに机の下、スカートに隠れた太ももを見下ろした。生地は風船のように膨らんでいる。短く太い。体型や背の低さは母親譲りだが、その体に乗っかる頭の骨格は父のものだ。彫りが深くごつごつとしている。そこに太筆で引いたような眉が入る。力強い顔つき。美桜のうつむいた頭の両脇に、前髪がカーテンのように垂れていた。前髪で眉と輪郭が消えるように隠している。ごつごつとして、日陰に隠れるもの。それは桜だとしても、どちらかといえば幹の瘤だ。

 微かなさざめきに顔を上げた。幾分そうしていたのか、気が付けば会場はすっかりとリクルートスーツで埋まっていた。その様子を後ろから見渡せば、スーツの肩や黒髪の後頭部が密接に並び、黒土の地面のようにも見える。平坦に続く一面一色の地面。

 そこに受付をしていたあの女性がさっそうと現れた。そして青空が映る窓の前に立つと、艶のある声をマイクに響かせあいさつを述べた。スーツスカートから伸びた足は細く長く美しい。黒ばかりの景色でその白さが光るようだった。それがしっかりと床に刺さって伸びている。

 美桜はそれから入社式の間中、ぼうっとその白い足、薄ピンクの膝頭ばかりを目で追っていた。

 入社式は説明会を含め、昼までには終わった。結局誰にも声を掛けず、掛けられず、逃げるようにして会場を去った。幾組かの新しい交友は、昼飯を食いに行こう、などの声も聞こえた。花見をしよう、という大きな声も聞こえた。

 電車を乗り継ぎ、最寄り駅から自宅までの帰り道にも、桜の並木がある。閉校した小学校の桜だ。校庭を囲むようにして二十三十と樹木が続く。午後の桜。乾燥した風。やはりそこも満開であった。

 桜の樹の下には死体が埋まっている。美桜はそんな言葉を茫然と思い出していた。それはやはり目の前の桜の美しさが疑わしいからだった。なんの代価もなくあの善美を生むことはできない。できるはずがない。善美の影には何か汚らしいものが隠れているのが理だろう。合格者の影に落伍者がいるように。人気者の影に嫌われ者がいるように。富者の影に債務者がいるように。

 美桜は午後の日差しに頭頂部の熱を感じた。

 ならばあの女性社員の足下にも、きっと死体が埋まっているに違いなかった。それは幾体かの、男や女の死体だった。美桜は自然と、あの女性自身も、いつか裸体となり桜の木の根に絡まる様子を思い浮かべた。そしてしわがれ朽ちていく。

 花は醜悪の上に咲く。ならば美桜にも、自分の憂鬱の上にもそうだった。

 花見客が喜ぶのもそうだろう。花は日常の様々な醜悪を吸い昇華する。それは新生活の始まりに違いない。しかし足元の栄養は必ずしも彼ら自身の醜悪とは限らない。花は勝手に、美桜の醜悪を吸って咲く。それを知らない客が見る、花やぐ。

 美桜の瞳はいつしか潤んでいた。それでも彼女の頭上には、桜がなおも隆々と花を広げ、薄紅の瘴気を放ち続けていた。

 

 土日は彼女なりの遊惰をむさぼり、暴食した菓子が週明けの朝になってもまだ胃に残るようだった。ひたすら録りためたアニメや映画、動画は幾らか彼女をいやしたが、それもほんのひと時のことだった。

 すっきりしたかった。気持ちよくなりたかった。キラキラしたかった。が、的確な方法は思い浮かばない。春物の服を買いに行こうかとも思い立った。しかししばらくはリクルートスーツの生活。給与も一か月先である。新しい服を着る予定もない。そして美桜はベッドに横たわり、自分とは関わりのない世界の映像を眺め続けた。そうしてすぐに土日は終わった。画面を閉じて残ったのは日曜日の夕闇と、誰も気にしない美桜の体だけだった。

 月曜となる。美桜は出勤に重たい足を最寄り駅に向け歩いた。心は憂鬱なまま、週末となんら変わりはない。むしろこれからの週を思えばなおさら憂鬱だ。その憂鬱とは反するように、この日も晴天が続くらしい。幾分ましなのは、朝の微かな冷気がまだ周囲に漂うことだった。

 と、いつも通る住宅街のある家の前に、中年の女性が居るのが見えた。女性は自転車を表に出して、タイヤに空気を入れているらしい。玄関は開けられていて、おそらく中に息子がいるのだろう、子供の声が奥から聞こえた。

 普段、朝などは誰にも出会わない閑静な道だが、その時は母親の声が辺りに響いていた。明瞭には聞き取れないが、自転車の世話ぐらいできるようになれと息子に叱咤しているらしい。母親は固太りした体を丸めながら、熱心に体全体を使って、空気入れのポンプを動かしている。髪は寝起きのまま触っていないのだろう。茶色くそばだって膨れあがり、熊か大型の狸のように見える。薄紅のエプロンを付けたまま、薄緑と白のチェックのシャツを着ている。黒ぶちの大きな眼鏡がずり下がることも気にせず、息子の返答に大きな笑い声をあげていた。

 美桜は少し気まずくなった。その母親を見知っているわけではないが、近所の住人だから、自分のことを知っていてもおかしくない。けれど、知らないかもしれない。おはようございます、ぐらいの挨拶は自然かもしれないが、知らない他人から声を掛けられるのを不審に思うかもしれない。ましてやそんな起き抜けの格好を、他人に見られ不快に思われるかもしれない。

 美桜は一寸引き返そうとも思った。しかし相手が十分見える位置で引き返すのもずいぶん不自然で、それはそれでかえって不審に思うかもしれない。

 美桜はそんなことをふつふつと思いながら、足を止めることもできずにゆるゆると道を下った。と、美桜の足音に気が付いたのか、母親がふっと空気入れから顔を上げた。美桜はとっさに下を向く。瞬時に出た選択は気が付かないふりだった。そのままやり過ごそうと思った。お互いに気が付かないと分かれば、なんの問題も憂慮も起こらない。美桜は下を向きつつ足の歩みを速めた。そして自転車の後輪が目の端に映った時、美桜の耳に唐突な声が入った。

「いってらっしゃい」

美桜はその声に、遠慮がちに顔を向けた。母親は背を伸ばし、まっすぐに美桜を見ている。頬の肉が左右に推しあがるほど、口角を上げていた。美桜は咄嗟に歩みを緩めていた。玄関を見遣っても誰もいない。その挨拶は自分に向けられたのだと気が付いた。が、こんな時なんといえばよいのか準備がなかった。他人の母である。通常ならおはようございますだろう。美桜は目を丸くしたまま、微かに口を開いた。声は出ない。

「いってらっしゃい」

母親は再び言った。今度はまっすぐ、美桜と目が合ったまま。

「……いってきます」

美桜の返事は反射だった。考えた末の言葉ではない。そしてその返事が母親へ通ったかは分からないほど、小さな声が出た。しかし母親はもう一度、強く微笑み頷いた。

 美桜は幾分酔いに近い上気を感じたまま、道を進んだ。自転車が見えなくなった後ろにも、未だに息子と何か遣り合う、母親の大きな声が辺りに響いていた。

 美桜は駅に向かい歩いた。その間ずっと、上気する頭を朝の冷気がさすっていた。

道すがら、小学校の桜並木の下を通る。美桜はそれを見上げた。桜は満開の花を付けたままだが、花弁が朝風にふるい落とされ、美桜の頭や肩に優しく降り注いでいた。

 この時ばかりは、疎ましい気持ちなど起こりもしなかった。 了