抽斗の釘

小説、散文、文章、短編

ラブホテル・ブラザー

 

 潤う、ということにはひどく痛みを伴う。

 清太は唾液を飲み込みながらそんなことを思った。

 喉に垂れていった唾液が喉仏のあたりで染み、しわりと痛んだのだ。

 乾燥した春の空気は、喉の側面を荒廃の土地のようにヒビ割れさせている。

 そこに水が入り、肌は水を吸い、シュウシュウと音を立てる。細胞は膨らみ、その時痛みを伴うのだ。清太は車の中で両手を垂らしながら、自分の喉の内側に、そんなイメージを浮かべていた。

 エンジンを止め、キーを挿し口から抜き出した。同時にエアコンが止まり、フロントガラスから入る日差しだけの刺激が残る。車内はむっとする。

 清太は天日干しの虫のように外に這い出た。そして眩しそうに眼を細める。彼の黒いTシャツや伸び始めた坊主頭は、春の陽をよく取り込んだ。

 見渡せば、駐車場に影はなく、灰や白の反射光が夏の景色を黒い瞳に映し出した。

 気温は初夏に相当すると、午前のカーラジオは伝えていた。お出かけになる際はご注意ください。女の声が頭に残っている。駐車場はいつもより混んでいた。

 スーパーマーケットは住宅地から車で一〇分ほどの場所にある。そこは新しく開発されたごくごく小さな商業地だった。田畑をつぶして現れた背の低い大型スーパー。家電量販店。ドラッグストア。100円ショップ。そのだだっ広い駐車場。

 ラブホテルに向かう前に、必ずそのスーパーマーケットで飲み物と昼食を調達することにしていた。割安なのだ。

 清太は春の陽を頭に浴びながら、入り口に向かい駐車場を横切った。

 その時にある老夫婦とすれ違った。彼らは大型のビニール袋をいくつも抱えている。もし二人暮らしならば、到底それらすべては消費できないだろう。清太はそんな揶揄めいた瞳で彼らを盗み見た。しかし老夫婦はそんな外目を気にもせず、福寿の微笑みを互いに並べ、何か語り合っている。心嬉しいことがあるらしい。しかし清太の耳には、その物語の末梢でさえ、ラジオの混信のように何も掬い取ることができなかった。

 

 清太がラブホテル通いを始めたのは四月に入ってからのことだった。

 春の陽気の最中、世間では入学だの就職だの浮足立つところ、ふとひとりで部屋に居るのがいたたまれなくなった。

 さみしい。夜までただ妻の帰りを待つ生活はたださみしかった。そのさみしさは強く簡単な、肉体的な開放を求めた。

 しかし夜になって妻が帰っても、決して肉体的な触れ合いは行われなかった。

 妻を労い癒すための家事を進めるだけで、気が付けば就寝時間になる。そうなれば互いにそれ以上のことをする力も残っていない。

 かといって平日の昼間、自宅に見知らぬ女性を呼ぶのは、近所にも家の中にも具合が悪い。そこでラブホテルの休憩時間を利用して、女性を呼ぼうと思い至った。「おひとり様のラブホテルが快適」というネットの三文記事を見た影響でもある。

 だが、実際ホテルに一人で入ってみると、記事の通りか、その居心地の良さが春の誘惑に勝った。女性も誰も呼ばず、清太はただひとり、ホテルの一室で過ごすのである。窓のないラブホテルの部屋は、春の陽気も、世間も、家族さえも遮った。

 また、何かが起こりそうな期待感がホテルの部屋には強く漂っていた。考えるまでもなく、隣では何かが起こっているのである。それはどんな行為か。時間か。相手か。それを考えるだけで、実際に行為を行うよりも清太の好奇心は満足に達した。快感に至らないゆえの高揚が、一人の部屋にほどよく充満した。

 そうやって外界から一切遮断された空間で空想を楽しむ。それに清太は魅入られた。そしてその空想に抱かれながらいつしか眠りにつく。それは清太にとって安寧に他ならなかった。さらに、それから目が覚めた時の爽快感は格別だった。さみしさとはなんだ、欲求不満とはなんだ。これが本当の眠りなのだ。と、そう思うほどに、彼の心は、体は、活力を取り戻していた。

 かといってそれを毎日行うわけにもいかず、資金の限りもあるから、その遊戯を週に一回の楽しみとした。それがこの四月の下旬まで三度行われた。この日の四度目の遊戯は、少し慣れてきた清太にとって、一工夫の必要が案じられていた。実際三度目の遊戯は多少退屈を感じ始めていた。この日は次の段階に進む機会だった。

 

 スーパーマーケットの店内は食材を冷やす、特有の冷気に満たされていた。

 そしていつもより騒然としている。

 見慣れない黒の作業服が、幾人もうろうろしているのだ。

 一介の買い物客でしかない清太であるが、その光景を見受けると、何事だと、自分の有事のように落ち着かなかった。そして歩けば所々、商品棚の通路がバリケードで塞がれている。「作業中」との張り紙もぶら下がっている。そしてバリケードの中の作業員たちは、熱心に棚の商品を、床の青い箱へ移していた。

 清太の目には、彼らの商品への気遣いというものがまるで見えなかった。かえって外野の清太の方が、壊れるのではと心配してしまうほど、彼らは乱暴に商品を降ろしている。ガラス瓶がぶつかる、不穏な音が連続して店内に響いていた。

 隣の通路も、また隣の通路も。

 作業着の人々はスポーツ競技のように躍動していた。当然、手早く終わらせることに優位があるのだろう。

 こういう場合、店を休業にはしないのだろうかと清太は思った。ゆっくりやった方が間違いも起きにくいだろう。商品も傷つかない。なにより取りたい商品が取れない。清太は眉をしかめながら、店内を進んだ。

 幸い、総菜コーナーは作業の対象外らしかった。籠を腕にぶら下げ、冷麺とパックのオレンジジュースをいれた。そしてブドウのグミも追加した。

レジでは初老に見える、小さな女性が清算をしてくれた。

 この時清太はいつも「まさか目の前の客が今からラブホテルに向かおうなどとは思うまい」と、秘かに盗み笑いを浮かべるのだった。

 それが何の優位性を生み出すわけでもないことを、分からない清太ではないのだが、その秘かな、外見では他人に予想もつかない自分、というものが、清太には愉快だった。

「ねえ、お姉さん。僕は今から、どこに行くと思いますか」

つい、そんな質問をぶつけてみたくなる。清太はこらえるように唇を微笑みに結んだ。

「実はラブホテルなんですよ。こんな平日の昼間から」

その瞬間レジの女性がはっと顔を上げ、清太の顔を直視した。清太は女性と目が合ってから、自分がずっと女性を見つめていたことに気が付いた。女性は怪訝そうな顔を清太に向けている。少し口に隙間をつくり、しかし何も言わない。上下の前歯は唇に隠れている。それほど微かな口の隙間。その隙間はただ、真っ黒な暗闇だった。

 清太は少し色を失った。狼狽するように目を動かした。

 いったい、俺は、この人に何か口にしただろうか。

 自分がラブホテルに関して何か口に出してしまったような気がした。そして清太には、女性との間に弁解の必要があるように思えた。

 女性はひとつ険しい顔をしてふいと目を降ろすと、商品を清算籠に移し始めた。

「……失礼しました。実は僕、役者をやっていまして。小さな芝居小屋のしがない役者ですけれどね。儲からないですよ。そりゃ、いつも赤字です。でも少しでも腕を磨いて、お客さんには満足して帰ってほしいと常々心掛けているんです。

 よい演技のためには、まずセリフが完璧に頭に入っているのが大前提です。しかし演目は毎週のように変わりますからね。ひっきりなしに。そのたびに役作りが必要なんですが、これがまた大変なんです。毎度それまでの役を捨てて、新しい人格を頭に入れなければならない。大変ですよ。これは。先週は警察官、今週は夢遊病者。来週は哲学者で、その翌週には小学生になるんです。いや、これは実際大変です。頭の中に入れ替わり立ち代わり他人が踏み込んで来るようなもんですから。そして彼らは本来の僕の記憶を遠慮なしに動かすんです。棚の荷物を片付けるように。

 しかし僕は役者ですから、それを受け入れなければならない。それが仕事なんです。他人が頭の中に入って棚を荒らしても、さあどうぞ、と、それを許さなければいけない。

 だからちょっとした、こんな買い物中だって、セリフを常に唱えて覚えなくちゃいけないんです。セリフを間違えては、芝居が台無しになりますからね。ストーリーだって、その誤った一言で予期せぬ結末に転変してしまう可能性があります。つまり一度間違えれば修正不可能なんです。だから」

「……カード……ですか」

女性は清太の思考を遮ってつぶやいた。

「……はい? 何か」

「ポイントカードはお持ちですか。それとお箸は」

「……ああ、カードね。」

清太はポケットから財布を取り出し、その中を探って見せた。一度だけ使ったスタンプカードや、貯め込んだレシートなどが、ズボンの体温で張り付いている。それを恭しくピリリと剥がして念入りに探した。……何を?

「……ああ。そういえばカードは持っていないんですよ」

清太はふいと顔を上げてそう告げると、いかにも好人物のように笑ってみせた。

 

 清太はインテリアメーカーに勤めた会社員だった。照明部、商品開発課の在籍だった。

 六年ほど勤めていたが、半年前から強烈な眠気を感じるようになった。

加えて左右の二の腕が、筋肉へ麻酔を打たれたように力が入らなくなった。

 それで業務中はパソコンを触るのも億劫になって、自分のデスクで座りながらうつらうつらとうたた寝するか、昼飯や市場リサーチと理由を付けて、喫茶店で三時間も四時間も時間を潰した。喫茶店では寝るか、流れている昼間の陽気なテレビ番組を眺めて過ごした。

 無論商品会議などあろうものなら話にならない。周囲が熱心に商品コンセプトを練る間にも、こくりこくりと頭を上下させる始末だった。そこには表立って注意する上司はいなかった。しかし水面下での悪評は確実に蓄積されていった。

 与えられる仕事が徐々に減っていくと、また居心地も悪くなる。終業までの時間ばかりを持て余し、かといって仕事はないかと上司に尋ねる意欲もない。それでも危機感どころか、眠気ばかりが清太の時間の大半を占めていた。

 かといって、八時間いっぱい喫茶店で時間を潰したり、何の用事もないパソコンの前に座り続けたりするわけにもいかず、清太は一〇分ごとにトイレだとか、備品を補充するだとか言って席を立ち、トイレへと逃げ込む。そこで同僚に出くわそうものなら、便器に向かって出ない尿を出すそぶりや、入念に手を洗うなどしてやり過ごす。そして

「おつかれ」

と、さも忙しい最中、同僚をねぎらう社員のように声をかけ、彼らが出ていくのを見届ける。トイレに誰もいなくなると、鏡に現れる自分をただ見つめて過ごした。

 見つめて、何をするわけでもない。意識を向けるべき興味が他にないのだ。だから清太は自分の姿を見つめ続けた。自分ならば、見つめていたって文句を言わない。

 鏡の自分はまた、見つめる清太を静かに見つめ返した。親しみが込められた目線は、清太を唯一理解してくれる人間のように思えた。微笑むと彼も微笑む。ひょうきんな顔を作ると、また彼も自分を笑わせてくれる。

 そうやって、清太は鏡を前にやっとほっとするのだった。

 何かに虐げられているわけではない。ただ何となく何かが苦しい。鏡の中の自分は、そこに自分がいるのだと証明してくれる。また、それと同時に、彼はそれを理解したうえで、何も言わずそっとそばにいてくれた。

 そんな生活が数か月続き、あるとき会社に異動を打診された。開発課は人手が余るらしい。それで次の部署はと上司に尋ねると、業務円滑課だという。聞けばその課は清太ひとりで、業務は来客時、オフィスのドアの開け閉めや、備品の補充、植木の水やり、侵入害虫の駆除などだという。  

 馬鹿らしくなった。それですぐに辞表を提出した。

 

 清太には妻がいる。それからの生活は彼女ひとりに頼ることになった。体に力が入らないと訴えると、しばらく休んでと言ってくれた。その通りにした。幸い少しばかり貯金をしていた。退職金も少し出た。その金を、日々の弁当やラブホテル代に充てた。

「人生の節目なんだよ、きっと」

と、妻は言った。清太もその通りだとおもった。

 退職してから、清太にはふと、視界に隙間のようなものが度々見えるようになった。

 それは何の法則性もない。リビングでくつろいでいるとき。新聞に目を落としているとき。食器を洗っているとき。風呂上がりに体を拭いているとき。または、運転をしているとき、階段を上っているとき、商品棚をながめているとき。

 閉め忘れたドアのわずかな隙間のように、視界のごく端で、その時見ているはずの視界とは別に、光や色が細く映るときがある。

 そのたびに、清太はそのありかを探した。

 しかしその方に目を動かすと、その隙間はすっとどこかに消えてしまう。それがどこからかの由来かわからなくなる。

 それは例えば、何かの反射光のようだと思った。

 車が陽向を横切った時の咄嗟の輝き。

 鳥が空を裂いた瞬間に映る羽の色。

 黄金虫の離陸。

 格子柵から垣間見える奥景色が、角度の関係で色づく一瞬。

 しかしいくら目を凝らしても、自分の視界に入ったはずの隙間らしき色は見当たらない。

 錯覚か、何かの勘違いだと思い、それを誰か、例えば妻に言うようなことはしなかった。

 実際それぐらいに些細なことで、とりわけ言及したり調べたりする必要性は感じなかった。病的な危機感はそこにない。思い違いで、デジャブとか正夢のような、日常のひずみのようなものであると思われた。

 ただ、それがもし隙間であるなら、誰かがその隙間から覗いている可能性もある気がして、ならば清太の視線に気が付きさっとドアを閉めている気がして、それだけは少し不気味な心地だった。

 

 清太は車に戻り、ラブホテルへ向かった。

 県道を郊外の方に進み、脇道に分岐する細い道へ入る。そこに入れば車通りもほとんど消える。一変して両側が雑木林に囲まれる、避暑地のような場所を通る。ほどなくするとラブホテルが現れる。近辺ではこの一棟しかホテルはない。地中海の雰囲気を模した建物だ。車は木漏れ日を浴びながら、滑るようにして敷地へ入った。

 一階が駐車場で、外から見えない角度にロビーへの入口がある。

 ロビー内は冷房が効いて、清太の腕を冷やした。

 床は石敷、壁は洞窟の岩壁を模した漆喰。窓も他の客の姿もない。閉演間際の遊園地。そのアドベンチャーアトラクションに佇むようだった。ロビーの所々には大型の観葉植物が置かれている。遠くで水の落ちる音がする。加えて人工的な甘い香りがする。

 心持忍び足で奥に進んだ。すぐに大型のパネルが現れる。そこに使用可能な部屋の写真が並ぶ。三十ほど部屋数はあるが、使用中の部屋はぽつりぽつりと暗く表示されている。清太は手ごろな部屋を探した。部屋は一人で、少し寝るだけだから小さく安いものがいい。幸い一番安い部屋が空いていた。迷わずその脇のボタンを押し込んだ。

 ロビーを抜けると客室の、吹き抜けのフロアが広がった。中心に大きな噴水が置かれ、それを四方ぐるりと囲み、二階建ての客室が並ぶ。一見リゾート地のようだった。  

 一階は高値の大きな部屋が占めている。エレベーターは避け、フロア隅の階段を使い、二階へと回った。清太の部屋は階段を上がったすぐ横の部屋だった。

 重厚な扉を引くと、すぐ、妖艶な照明に浮く、大きなベッドが目に入った。 

 さて、と無闇に声を上げ、悠々と合成革の黒いソファに座り、冷麺とグミを食べ、オレンジジュースを一息に飲み切った。そしてそれらを乱暴にビニール袋に詰めてしまうと、ベッドへ倒れ込み、ゆっくりと目を閉じ、瞑想に入った。

 何も聞こえない。近隣で行われているはずの気配も感じない。静かな空間。……しかしやはり飽きがきているのか、集中力を欠いた。容易に遊戯の幻は、清太の元へやってこなかった。

 清太はすぐ目を開けると周囲を見渡した。ベッドの頭の壁に、蓮の花の絵が掛かっている。黒い背景に、薄ピンクと白が、細い花びらへグラデーションを織りなしている。暗闇の鏡へ強い光を当てたような意匠だった。

 清太は少し卑屈に笑った。肉体的な快感が、天竺の心地だとも言いたいのだろうか。それは所詮ラブホテルの絵画だった。高名な芸術家のものでも秀逸な作品でもあるまい。ましてや実物とも疑わしい。大方プリントした量販ものだろう。けれど、卑屈に思いながらも、清太には不思議とそれがひどく心に浸透するように思えた。そして量販物とはいえ、芸術品は幾らか清太に高尚な気持ちを与えた。

 また目を閉じ、高尚な心地が残るうちに、ゆっくりとした遊戯を味わおうと思った。しかしまた、なぜかいつものように幻想はうまく近づいてこない。

 近隣で行われている行為を強く思った。顔も分からない女性と自分を一心に重ねた。しかし空想の中での女性の体は、あぶくのように霧散して、形をとどめない。

 どうして集中できない。

 清太は目を閉じながら苦しそうに顔を歪めた。空想の部屋では形が形を成さなかった。それでいて、なぜかそこに妻の面影が動いた。それは決して艶めかしい幻想ではない。顔のない妻が、ちらちらと花に流れる水滴のように動く。そして妻はいつしか両親の面影へ変わった。両親は飼い猫に変わった。飼い猫は辞めた会社の社員たちに移り変わった。社員たちの背は幼いころの友人たちの姿を映した。幼い友人たちは清太の頭上の方へと駆けていった。

 清太は目を開けた。そして頭の上を見る。蓮の花が依然として清太を見下ろしていた。

「これのせいだ。これが気になって」

うまくいかないのだ。清太はそう直感すると、枕元のスイッチをひねり、部屋を真っ暗に消した。窓もない部屋は、一髪の明かりも許さなかった。

「これで誰からも、何も見えない。」

 清太はそう再び目を閉じる。

 すぐは、うまくいきそうだった。が、幻想中の今までにない、全身の力が抜け、重くなっていく感覚を覚えた。一方で脳は徐々に明瞭だった。

 ジジジ。と、こめかみの上で音がした。昔の古い四角いテレビを点けたような、不鮮明なラジオを合わせるような、微細な空気の振動を感じた。その振動が耳の奥に届いて器官を揺らした。ベッドがいくらか沈む気がした。ベッドの足元では、何か空気が動いたような気配がする。明瞭な意識の中で、清太はそれが気のせいだと知っていた。一人の密室で誰かが動くわけがない。ドアが開かれた音も聞こえなかった。ましてや誰かが入る道理などない。それが錯覚だと清太は分かっていた。デジャブや正夢のような日常のひずみだと知っていた。

 そこが夜の砂浜、波打ち際であるかのように、不安の波が清太の体に打ち寄せ始めた。

 波は清太の体に手を伸ばし、引き波に清太をどこかへ連れて行こうとしていた。

 嫌な気がした。生きていたくないという望みが内に沸いた。

 波の中に立つ足のように、清太の横になる体は濡れた砂に沈んでいった。

 清太は察した。誰かが上に乗っている。

 体の重みも、砂に沈む体も、誰かが自分に乗っているからだ。

 清太はそっと目だけを開けた。しかし自分の上には誰も乗っていない。暗室があるばかりである。

 それを確認すると、また目を閉じた。

 重みがよみがえる。やはり誰が乗っている。それはきっと真っ黒な影だった。

 その影が、まるでピザ職人が生地を伸ばすように、清太の上で前後に躍動している。

 清太はピザ生地だった。上からの圧力に、次第に薄く長く引き伸ばされている。

 清太は抵抗できなかった。ただ力なく、なすが儘に引き延ばされた。

 それが不思議と楽だった。このまま終わりまで付き合うと、どこかに飛んでいくような気がした。自分が自分でないところに到達する。その心地よさ。

 時間は遠のいていった。同時に苦しさや不安も和らいでいく。

 そうか、と清太は思った。

 自分が消えれば苦しみも消えるのは当然だった。

 もう少しだと思った。もう少しで喪失することができる。

 清太の上に追いかぶさる職人も、正念場だろうか、懸命に動きを増していた。

 もう少し、もう少し。

 清太の意識は次第に体と離れ揺れ、圧力に反転して上昇するようだった。

 ああ、これが、これが。

 と、清太の意識が薄く細く、糸ほどに研がれる間際、職人は突如唸りを上げて静止した。かと思えば力なく清太の上に倒れ込み、やがて重みは消えてしまった。

 清太ははっと目を開けた。そこには暗闇が広がるばかり。しかし体はずいぶん軽い心地。

 心は清涼になった。体は活力に満ちていた。

 清太は体を起こし、手探りで照明のスイッチを探し当てた。

 明るくなった部屋にはやはり清太一人だけだった。

 口の端で何かが疼いた。

 唾液が口から垂れている。それが落下にきらりと光った。清太は顔を枕に押し当て、それをぬぐった。

 頭上では、蓮の花が毫光のように散開していた。  了