抽斗の釘

小説、散文、文章、短編

安らぎの石

安らぎの石

 

 

 インターネット回線業者の営業職であった降矢は、給与の不満から独立を決意した。

同僚より成果を上げているにもかかわらず、それが正当な評価に反映されないのだ。

 降矢は自分のクリーンな営業を誇りとしていた。

 成績の水増しもしなければ顧客との癒着もしない。契約上のデメリットをあえて話さなかったり、顧客に過度な便宜を図ったり、夫人に色目や期待を使って懐に取り入ったりというのは、正当な需要供給の関係に悪影響を及ぼすとの信条だった。

 そのため、降矢は三十になるまで、地味でありながらも堅牢な実績を積み上げていた。内外の信頼も厚い。それも正当な商品説明や魅力を語る努力の賜物である。顧客に少しでも不利があればすぐに引いた。その誠実さが顧客に好かれた。

 しかしその一方で、自分と同じように出世していく同僚が鼻に付いた。彼らは決して能力が高いわけでも、分野に関する知識が豊富なわけでもない。ただ業務外での営業活動、ここでは浮気や賄賂に近い活動が行われていた。

 社内でそれが噂にならないこともないが、過程はどうであれ、一定の実績に評価と地位が与えられた。降矢はそれが不満だった。

 だからいっそ独立してしまう方が、自分の潔白な営業力を存分に発揮でき、その力を証明するとともに、相応の富を手にできると思ったのだ。

 ただ、降矢は特別な技術を持ち合わせているわけではない。入社後八年、ずっと営業をやってきた。そこで販売業に目を付けた。店を持つわけではなく、インターネットを使って商品を仕入れ、販売するのである。それならば、今ある技術で何とかなりそうだと思った。

 退職後、慣れない英語を使い、日本で受けそうな商品を海外から仕入れた。

 オーストラリアのマヌカハニー、台湾の桜エビ、中国の激安クッション、シンガポールのゴムベラなど、当たりそうだと思う品物には次々と手を出した。営業の仕事を思い出しながら、隅々、できるだけ丁寧に商品紹介などを行った。しかしどれも上手くいかなかった。ただ仕入れて売るだけでは何かが足りないのだ。

 そこで降矢は前職に使っていた手帳をめくり、営業訪問で懇意となった好人物らしい金満家の主人の連絡を探した。大きな屋敷の主人だ。

 営業訪問から契約まで、実際彼に会ったのは数度のことだが、不思議と互いに馬が合うのを感じた。営業をしていたらそういう経験がまれに起こる。言葉を交わしただけでこの人は信用に足ると直感するのだ。

 この主人はとりわけそうだった。話せば母親の故郷と同郷らしい。九州から身一つで上京し、苦労と努力を惜しまず糧にし、身を立てた大人物だ。

 降矢は純粋に主人を尊敬していた。また、主人も相当な身分であるはずなのに、いっぱしのサラリーマンである降矢を尊重してくれている。それが言動の端々から伝わるのである。

 主人に商売のコツを賜ろうと思った。

 彼ならきっと何か有益な金言を渡してくれるに違いない。また、そうでなくても、降矢は個人事業をする中で、どこか同じような境遇の人と何かしらのつながりを欲していたのかもしれない。それが先駆者であればなお心強かった。頭には、主人の皺の多い笑顔がちらついていた。

 連絡を入れた。緊張はあった。冷静に考えれば数度会っただけの若造。しかし契約後も小まめに連絡をいれておいたのが功を奏したのだろう。すぐに会う運びとなった。降矢は喜んで日取りを設定した。

 訪れてみると改めて主人の富を目の当たりに感じた。その屋敷をはじめ、玄関にある一枚板のついたて、ありがたそうな横物、本物か、三張並ぶ弓の置物。それらを見れば、富を一から築き始めた降矢にとって、改めて彼が相当な富の所有者だと実感する。

 主人は降矢が来る時間を予期していたように上がり框に腰かけ待ち受けていた。

 インターホンは鳴らさない決まりだった。誰が屋敷に訪問したのか近所に知られないためだと、主人は以前から降矢に釘を刺していた。

 簡単な挨拶を入れ、互いに変わりないことを喜んだ後、降矢は主人に正直に切り出した。

「実はこの度独立しまして。しかし方々手を出しましたが、どれも一向にうまくいかないんです。何か成功のコツというものを、ひとつご教授願えませんか」

主人の笑顔は健在だった。そして意味深く頷いたのち、

「実は、初めてお会いした時から、いつかあなたがそうなるのではと睨んでいたのですよ」

と、優しく微笑んだ。

 それから主人は降矢を座敷に通した。広縁は開け放たれ、初夏の風がさわやかに吹き込んでくる。庭は広壮だった。一面に白砂利がしかれ、大きな飛び石が打たれている。そこにとんとんと低木の植え込みが、石灯篭が、影石が、松の木が、適度な距離を保ったまま庭の景観をなしていた。居心地が良いのだろう、日向の砂利の上には雉鳩が二羽、とっぷりと腹を沈ませ休んでいる。外と中は筒抜けだが、不思議と虫一匹入っては来ないようだった。

 光沢のある唐木の大きな座卓の前で、主人は見事に膨らんだ腹を抱え依然と微笑んでいた。白いポロシャツが腹の形に伸びている。その下は野暮ったい灰色のスラックスだった。変わらないなと降矢は思った。記憶の通りの姿だ。おそらく、それだけ見れば街中の人は決して彼を金満家だと思わないだろう。主人はどこか、富が外に晒されるのを嫌う節があった。しかし、いざ座敷に飾られた品々に囲まれてみるとそれだけで、豊穣の富を司る木像のように有難くも見えてくる。

 降矢は息をのんだ。主人は豊かな微笑のまま、「家の者は生憎出ておりますから、お茶の一つも出ませんが」と断ったうえ、

「成功のコツ、ですか。正直、僕は何もコツなんてわかっていません。そう、運がよいだけで」

と口を割った。

「ただ、降矢さんとはどこか不思議なご縁を感じているんです。なんだか昔の自分を見ているようで。だから普段人に言わないことも話していいかと思ってしまう。」

そして微笑んだままひとつ床の間へ顔を向けた。

「あれをご覧ください。僕はあれらの石を持っている。僕がもし幸運であるとするならば、きっとあの石たちの力でしょう。だから僕が特別すごいのではないですよ。あの石たちがすごいんです」

主人の口から唐突に石と出て降矢は薄い嘲笑を隠せなかった。主人の謙遜だと思った。

「ご冗談を」と言いかけたが、しかしふと見た主人の微笑みが、まっすぐ床の間に並ぶ鉱石をとらえ、張り付いたように動かないことに気が付いた。その様子が妙な迫力を持っている。降矢は瞬時に主人が本当にそう信じていると察した。床の間の鉱石は主人の目に答えるように、陰る座敷の微かな光を吸って煌めいている。

 降矢はおとなしく話を促すほかなかった。

「……そう、ですか」

「いや、馬鹿馬鹿しく思われるのもわかりますが、実はこれが本当で。……石の力は必ず存在するんです。現に僕がここに居られるのも、きっとあの石たちのお陰だと、日々感謝している次第でして。」

どうも話がきな臭くなった。降矢は苦笑いを浮かべた。人の弱みに付け込んでくる輩の多いことは、これまでの営業でも幾度と経験してきた。このまま話に乗ると、石を買えだとか入信しろだとか、そういう話になるに違いない。降矢は毅然としろと自分に言い聞かせ、咳ばらいをひとつ入れた。

「いや、すみません。残念ですが、私はそういった分野にほとほと疎くて。実はあまり、スピリチュアルな話は得意ではないんです」

主人は日向のように笑った。

「僕も自分だけでやってきた身分ですからね、あなたのお気持ちは嫌でもわかります。怪しいなと、そうお思いでしょう。ははは、安心なさってください。買えなどとは言いませんよ。あくまで僕はそう思ってやってきた、というだけのお話ですから」

主人の明るんだ笑いに、降矢は息をついた。

「すみません、私はてっきり……」

「いやいや、構いません。……しかしいち友人として助言しますが、一人で事業をやっている限り、いつかとてつもない壁にぶつかることは必至でしょう。それはひどい疑心や不安を伴う。世間は鬼ばかり。それは真面目に、誠実に生きれば尚更……。そんな時にただ一つ助けになるのは、自分の心のありようです。僕が石を持つのは、要は願掛けみたいなものです。石の力とはつまり願うこと、それ自体に力がある。ほら、初詣なら誰だって足を運ぶでしょう」

「心のありよう、ですか。なるほど。確かに初詣なら誰だって……」

降矢は何度か頷いた。緊張は少し和らいだ。それを主人は察したか、本当の親族のように表情を柔らかにした。

「まあ、あくまでお守りのようなもんです。僕が何かお手伝いできるとしたら、こんな程度のことで……。しかし何度も言いますが、やるもやらないも心持ひとつで変わってくるものですよ。僕はそれに助けられた、というだけのこと。もし興味がおありでしたら、ひとつでもふたつでも、持って行ってもらって結構です。もちろん持って行かなくても……」

主人はそう言ってこくこくと頷いた。降矢も合わせるように頷き、ふたりは黙った。

 いざ選択を委ねられると不思議なもので、降矢の心は左右に揺れた。主人はくれると言う。それは単純に主人の好意に思えた。人の好意を無下にするのは苦手だった。懇意な中の好意だ。そこに打算は見えなかった。金をとる様子もない。

 それにもし万が一ひとつでも貰ったとして、それで自分に不利益は起こるだろうか。部屋の置き場所をとるぐらいのもので、他に困ることがあるだろうか。

 主人は考え込む降矢を見かねてか、丸々とした黒い指を折り、口を開いた。

「念のため申し上げますが、石はそれぞれ力が異なります。ざっと申し上げますと、招福、勝負運、財運、健康。厄払いや良縁結び、安産、長寿、学業成就。あとは継続力に、直感力、浄化作用。それに心の安らぎ、なども……。」

主人が挙げた効能は、どれも今の降矢にとって魅力的なものだった。同時に妙な引力も感じる。願いとは自力で生きようとする者にとって、これほど頼りたくなるものかと、効能を聞くうちにもまた強く心が動いた。

 降矢はしかし首を振った。

「いや、ご厚意はありがいのですが。やっぱりまずは自分の力だけでやってみようと思います。小細工なしにやると決めていましたから。」

それが降矢の答えだった。誘惑が強い分、かえって降矢の本質が強く出た。

 主人は微笑んだ。

「よろしい。それもひとつ、心のありようです。」

主人は満足そうにそう言うと、頑張れよ、と降矢を激励した。

 

 それから幾月かが過ぎていった。

 降矢の生活は努力むなしく悲壮をたどった。

 ここしばらくは、事業に挑戦する余裕すらなくなってしまい、日銭を日雇い労働で稼ぐ次第となっていた。

 いつしか希望や精力に満ちた目も曇っていく。それにつれ人相や生活も粗雑となった。

 しかしそれでも、最低限の誘惑や暴力には抗った。博打も打たない。女も買わない。苦しい中でも、周囲の人間にはできるだけ誠実に尽くした。金の無心だってしなかった。が、悲しくも、月日のごとに友人や恋人は彼の元を去っていった。

 また、それまでのマンションにも住めなくなり、とある河岸の近く、狭く湿った部屋に移り住んだ。生活資金の調達のため、部屋には家具も少なくなった。畳の縁が黴で青く広がるのをただ見つめて過ごした。

 降矢は困窮した。何もない部屋で時々思うことは、あの屋敷にあった石のことだった。あの床の間で怪しげに煌めく鉱石たち。もしあれをひとつでも貰い受けたなら、何か状況は変わっただろうか。好転したのだろうか。そんな憶測ばかりが浮かび消えない。

 降矢はやがて無気力になった。

 日長黴臭い借家の布団で過ごすことが多くなった。日雇いも休み勝ちになった。一度休めば思考は泥沼のように粘着した。休んだことに対する自責が、さらに体を布団に押さえつけた。

 売る家具も尽き、生活を続ける上で、事業のために分けておいた残り少ない資金にも手を付けた。それももう底が見え始めている。

 それでも心臓は動いていた。腹も減る。半額弁当の生活だった。食べ終えた容器に残るのは、いつも先行きの不安だった。

 ふいに不思議なほど不安に対する恐怖が奮って、体が動くときがあった。それで数日日雇いにでると、また少しばかりの金に甘えた。何も進まなくなった。不安ばかりが深くなっていった。

 まるで畳の下に、井戸でもできたような心地だった。

 それはどこまでも深く、底が見えない。

 ただ安心が欲しくなった。降矢はもう事業だの成功だのを考える力もなくなっていた。ただ安心したい。この行き詰った日々の生活に安心したい。

 降矢は湿った布団の中でできるだけ理想の未来を描いた。

 それは湖畔の小さな家だった。そこには慎ましやかな生活がある。木を伐り、椅子を作る生活だった。午後には小さな妻と幼い子供とを伴って釣りをするのだ。そして日暮れの水面を三人で眺める。淡い色彩がゆっくりと移ろった。幸福だねと三人で笑った。日が暮れてしまうと夕飯が待つ小さな家へ、手をつなぎ湖のほとりを歩いて帰った。そこで子供が声を上げる。地面に埋まっていた美しい鉱石を見つけ、それを手に取る。宝物だねと微笑み合う。

 気が付けば、夜の布団で泣いていた。明日にでも、主人の屋敷へ行こうと思った。

 

 玄関に入ると、主人は待ち伏せていたように奥の陰から姿を現した。この日も屋敷には相変わらず主人だけのようだった。

 降矢の突然の訪問にも、変わらずにこやかに迎えてくれた。そしてまたあの座敷へ、何も言わないうちから通してくれた。

 降矢は主人と座卓に対面するなり包み隠さず現状を訴えた。

「事業は結局うまくいきませんでした。それどころか、日雇い労働で生活を補う日々です。友人も、恋人も失いました。私はもうおしまいです」

主人は静かに頷いて話を聞き、なぜここに来たのか、その理由は尋ねなかった。

「何がいけなかったんでしょうか。私は事業のために真面目に働きました。友人や恋人にも、誠実に尽くしたつもりです。ただ金がないだけで、将来が不確定なだけで、それだけでこんな仕打ちを受けるのでしょうか。私はなにも悪いことなんかしていない」

主人は静かに口を開いた。

「事業は運もあります。どれだけ緻密にやっても、上手くいかないことがある。ご友人や恋人だって、何か事情があったにすぎません。人の心のことですから、彼らの人生を咎めることは誰にもできないのです。……しかしあなたは十分奮闘なされた。それだけでいいじゃありませんか」

「しかしあんまりです。私は何も悪くない。これまでだって、ズルのひとつもしないでやってきたんだ。これがその末路ですか。無慈悲だ、不条理だ。」

降矢はわめき、肩を震わせ俯いた。いま思いを主人に晒すことが、道理でないのは分かっていた。が、孤独になった今、目の前にある善意にその心をぶつけることしかできなかった。

「以前にも申し上げたが、生きていく者にとって、世間は苦しみで溢れています。それらはたとえどこかに属していたとしても。ただ、それも心のありようです。もしあのまま事業が進めば、もっと大きな借金を抱えたかもしれない。ご友人は遅かれあなたを見捨てるような者たちだった。恋人だっていずれ他の……」

「もう、いいんです。そのことは。ただ、不安だ、不安なんです。」

「不安、ですか。しかし不安というのは、人生の大事な……」

「いいから石を」

「……石?」

「石をください。私はただ人生に安らぎが欲しい。もう何もいらないから、安らぎだけでいいから。私に心のありようを。安らぎのありようを。確か、あったでしょう。安らぎの石が。」

主人は優し気に頬を緩めた。そこにそよ風が外から入る。雲が流れ日を隠したか、幾分主人の顔が青黒く変色したように陰った。

「あなたが以前におっしゃった、心のありようとはつまり梯子のようなものでしょう? 私は何かに捕まっていたい。しがみ付かなきゃ落ちてしまう。それがあの石の力でしょう?」

「ええ、その通りです。あなたもようやくお分かりになられたようだ。」

「それを、どうかいただけませんか。今にも落ちてしまいそうで私は、」

「安らぎの石なら、ここに」

主人はそう言って、懐から銀の鉱石を取り出した。それは刀のように細長く、黒光りしていた。

「ああ、それが。ずいぶん、他のと比べると小さいものだ」

「ええ、だから置石には適していません。これは、このように肌身にずっと抱えているものです」

主人はそう言いながら、座卓の足に隠していた工具箱から、木づちを一本引き抜いた。それをどうするかと考える間もなく、主人はその木づちを、座卓の鉱石の上にたたきつけたのである。それは存外、軽い音をして机の上に砕け散った。

「ああ。何を。」

降矢は身を引きながら声を上げた。主人はくれると言ったそばから石を破壊した。その一挙に困惑する降矢に介せず、主人は丸い指でその欠片を集め出した。そして数粒まとめると、降矢にそれを差し出した。

「これを、庭の鳩にやりなさい」

それは低く引力のある声だった。しかし笑みは絶やさずにいる。降矢は色を失いながらも、それが降矢を救う意味のある行動だとして抗えなかった。降矢は手を差し出してその粒を手のひらに受け取った。

「これを鳩に。いったい」

「いつも餌を撒いてやっていますから、奴らも慣れたものです。ほら、多少の音がしたって逃げもしません」

主人は彫刻のような微笑を湛えたままだった。その圧力に押されるように、降矢は座布団から腰を上げ、広縁へと出た。庭には主人の言うように、鳩が以前と変わらず白砂利の上に腹を休めている。そして降矢の影を見ると、鎌首を上げ二羽とも彼の足元に近づいてきた。

 降矢は主人に言われるまま、手のひらの小さな粒を庭先に放り投げた。あまりに小さく、ほとんど感触も重量もない。降矢は鳩が砂利に紛れた粒を見失うだろうと案じた。しかし二羽の鳩はそれぞれ、器用に砂利の間からその粒を探し出すと、とんとんと、そこにあるだけ平らげたように見えた。これも主人が日頃から調教してきた結果だろうか。

 降矢はしばらく鳩を見届けた後、頭を翻して主人を見た。主人は陰の座敷に、なぜかまっすぐ、奥の襖を見つめたままだった。

「やりましたが、これでいいのでしょうか」

降矢は問いかけた。

「やりましたか。確かに食いましたね」

「ええ、おそらく」

「ではそのまま鳩を見ていてください」

降矢は言われるがまま庭を見下ろした。鳩は餌の続きがないか、未だに辺りを模索している。と、次第に鳩の様子が妙になるのが分かった。首を前後に揺らしながら、胴がふらふらと揺れる。すぐ、足元もおぼつかなくなり、やがて尻と嘴から、血を噴き出してひっくり返った。

 降矢は声を上げた。鳩は二羽とも、目の前で吐血し死んだのだ。

「ご主人」

降矢は叫んだ。が、すぐにさっきの鉱石だと合点した。

「毒なんだ」

「輝安鉱と言います」

主人の声が後ろ背に聞こえた。

「キアンコウ。」

降矢は子供のように復唱しながら、鳩の亡骸から目を離せないでいた。が、一つ身を震わせると、一心不乱に両手をはたいた。

「どうして毒なんか。」

そう嘆きながら、降矢の心は激しく動揺した。

 俺がやったのか。俺のせいなのか。

 俺は悪くない。俺は殺してない。

 降矢の顔は険しく歪んだ。そしてその顔を座敷へ向けた。座敷の陰は答える。

「あなたが殺しました。……つまり、それが安らぎです」

降矢は一瞬間黙った。そして威嚇に似た笑い声をあげた。

「は、は、毒が安らぎですか。それはつまり死という、」

「いいえ」

座敷の声は打つように退けた。そして続ける。

「死ではなく、罪が僕らの安らぎです。悪が心の楔です」

降矢は何も言えず陰を見つめた。主人は続ける。

「どうですか。梯子が、あなたの井戸に掛かりましたか」

降矢はそんな囁きを耳にしながら、広縁に佇み、自分の両手と鳩の死骸とを交互に見つめた。知れず、両手に重みが生まれた。何か、得体の知れない手ごたえを感じた。

 雲が切れる。日が差して、座敷に主人の姿が見えなくなった。陰には大黒天の彫像が浮く。

 あんなものあったろうか。

 降矢は身震い、正気を求め、足でひとつ床を鳴らした。 (了)