抽斗の釘

小説、散文、文章、短編

閾(しきい)

 障子は青白い色をしていた。

 おそらく外の雲影は日を隠し、南向きの小さな庭へ冬の影を落としているのだろう。障子はただその陰りを透かし、過ぎた陰は中の座敷にまで及んでいた。それは畳に胡坐をかく杏平(きょうへい)や目の前の座布団、その上でうたた寝する赤子にまで手を伸ばしている。目を細めた赤子は赤くなく黄色だった。黄色は陰の青と混ざって緑に近く見えた。杏平はその緑色を黙って見下ろしていた。赤子も寝言一つ立てない。怒るときだけ叫び赤色になるのである。

——子育ては犬を飼うようにはいかない。

 そんな慎みに自ら気づきえたのは、杏平にとって満足なことであった。命は重たい。それが自分の子供であるなら尚更——。犬も猫も人も、全ての命は同等であるとは言ったものの、いざ目の前にすると、赤子というのは他に代えがたい人類の珠玉のようにも思える。果たしてそれを本当に自分が手に入れたのか、本当に自分のものなのだろうか、そんな実感を得るまでにはいまだ日も浅く至らないが、だからこそ先回りしそういった慎みを抱けたことに、杏平は誰へとなく優位を感じていた。宝を手に入れたということは、それを守る責任が伴うのである。それをこの段階で発見できる親は、それほどまでに誠実な親は、そうそういないように思えた。

 杏平は張り切っていた。宝を守るという責任の他に、自分がいっぱしの大人として、世間に倣うことができるという人生における充足の期待があった。さらに加えるならば「良夫賢父」とさえなりえる、これとない機会である。それは岐路と言っても差し支えない。もし踏み違えれば愚劣な旧世代の父親となり果て、もし正しく進めば常識の理想となる。それはあるいは学位や学歴のように引き返すことが容易にいかない。杏平はぜひその冠称を得たかった。だからともかくできるだけ赤子の世話を請け負い、妻にも世間にも認められるよう意気込んでいるのである。

 

 初子が生まれ二週間が経った。子は妻と共に出産から四日目には退院し、今杏平の目の前に静かに両手足を広げている。玄関すぐの座敷を、妻と子の部屋とした。家には室内飼いの犬がいる。そのため両者に気兼ねして母子の居場所はそことなった。しかし杏平だけは他人の寝息があると一睡もできないため、廊下を挟んだ向かいの別部屋へ寝床をとった。父の書斎にしていた小さな洋室である。父は杏平の結婚前に他界していた。そして杏平の母親はもともとの実家に祖母の介護のため移り住んでいた。

 この時も、産後の妻を休ませるため杏平は赤子の見張りを買って出ていた。赤子は乳を飲むと二、三時間は眠る。その間排泄すればおむつを変えてやるし、それに気が付かなくても赤子の方で怒って訴えてくる。あとは吐き戻しなどで喉が詰まらないよう監視する。それでも窒息などはそうそう起こりそうでもないから、杏平は暇に任せて欠伸をしたり、気まぐれに赤子の頬を突くなどしたりして遊んでいた。職場を思えばずいぶん簡単な仕事であった。育児休職を一か月ほど取っている。「藤井もようやく一人前の父親か。」そんな上司の揶揄いめいた激励がくすぐったかった。長い冬休みではない。あくまで育児のための休職。そんな戒めも単調な時間に薄れつつある。

 いつしか赤子と共に杏平もまどろみ、横になって目を閉じていた。すると襖の開く音がする。頭を起こせば、妻の瑞穂が眉を覗かせていた。

「……だいじょうぶ?」

杏平は横のまま、顎を首に埋めて微笑んだ。

「うん、問題ないよ。どう、ゆっくりできた?」

「ありがとう。おかげさまで」

「遊んでたの。チャムヘイと」

「ううん。お母さんと電話してた。でもそろそろお乳の時間なんじゃないって……」

「ああ、もう三時間?」

「まだ、一時間半。でも決まってるわけじゃないから。今はできるだけ飲ませることが大事だって」

「……そう」

里帰りも打診したものだが瑞穂の実家は遠方で、そのため瑞穂は何かと母親と電話連絡を使い育児を学んだ。母乳中心の育児方針は妻も義母も同じ意向だった。

 乳の時間は母子の時間であった。杏平は眉を開きながら赤子の後頭部に手を差し込んで持ち上げた。見た目より少し重たい。そして水袋のような柔らかさがある。どうかすれば緩んだ口から中身がこぼれ萎んでしまう様な頼りなさがある。杏平は赤子の中身が出ないようにしっかりと頭を支えた。赤子は布団から浮き上がると目を覚まし、ひとつ薄い眉を寄せたが泣きはしなかった。

 敷いたままの布団に瑞穂がぺたりと座った。そしてワンピースの胸元を大きく開け、下着をずらして自らの胸を揉み始めた。乳は産とともに肥大し、乳首は以前よりも腫れて黒ずんでいる。恩愛に満ちた妻の体の変化は、杏平に世間的な母親を思わせた。加えてそこに先行かれるような寂しさを含んだ。が、その光景が慎ましい家庭の一幕であるなどと諦観に努めてしまうと、寂しさもすぐ分からなくなった。さっと、妻の胸から目を逸らした。

 赤子は母の腕に抱かれると、乳の匂いを嗅ぎつけたのか目を見開き、ひな鳥のように一心に口を尖らせ乳首を探した。

「痛たた」

かぶりつく力が強いのだろう、瑞穂は赤子に乳首を含ませると、またすぐ引き離した。乳首が平たく変形している。しかし彼女は微笑むと眉間に痛みを隠しつつ、再び赤子の口へ胸を寄せ、そしてじっと目を瞑った。

 そこへ、外の雲が途切れたのか、ぱっと障子が黄色く光った。杏平は目を細めた。赤子も、妻も同じような表情をしていた。日が、座敷全体を包んでいた。

 

 その晩、赤子は泣き続け、夜半近くなっても眠らなかった。おむつを替えても機嫌は直らず、乳を差し出しても顔を背ける。服を捲くってみると腹が蛇腹提灯のように膨らんでいた。そこで綿棒を肛門に差し込み排便を促した。しかし屁や微かな便が出るだけで、赤子は尚も苦痛を訴えるように顔を歪め、目ぼしい効果は表れず安らがない。夫婦は座敷で眉をひそめ合った。

「浣腸、買っておけばよかったかな」

「でも浣腸は一日便がなかったらって、助産師さんが」

「でも泣き止まない。苦しそうだよ。なんとかできないかな」

「おっぱいを飲んだら普通はお腹も膨れるみたいだけれど」

「それは飲んですぐでしょ? もう一時間はぐずりっぱなしだよ」

「痛いのかな」

「苦しいのかも」

夜な夜な山羊の声で遠吠えを繰り返す狂った犬がいるなら、まさしく赤子はその様だった。家の壁や時間など気にせず、泣くと言うよりもむしろ鳴っていた。その丸い体そのものが大きな防犯サイレンであるかのように、音は耳を覆うように絶えず響き続ける。それも、五分十分なら笑って過ごせるものだが、原因も止め方も分からず続けばどうしようにも焦燥や苛立ちが先立ってしまう。何より赤子の体内で何か問題が起こっているのなら、いち早くそれを解決しなければならない。妻の額には暗色が滲んでいた。目の下は不眠も出ている。お互い知識も経験もないから、赤子に何が起こっているのか分からなかった。

「お母さんに聞いてみようか」

「いや、もう遅いよ。寝てると思う」

「でも泣き止まないんだから。何か病気かも……」

「いや、電話じゃどうせ伝わらないよ。僕が見ておくから、瑞穂は今のうちに少し寝な」

杏平は赤子を抱き上げると、座敷の中を歩き始めた。赤子に揺さぶりは禁物だが、ゆりかごのような微かな振動は心地よいらしい。そうやって抱えて歩けば眠ることもあった。

 妻は眉を寄せながら、そう……、と横になったものの、掛け布団から鼻を出し、座敷をぐるぐると歩き回るふたりを静かに見上げていた。赤子はしかしその間も落ち着く様子はなく、力一杯に丸まって声を絞ったり、かと思えば山羊の声を上げたりを繰り返していた。顔はいつまでも怒りで赤くなっている。

「場所が悪いのかもしれない。他の部屋を回ってみるよ」

そう、杏平は快活に微笑んで見せ、赤子を腕の上に乗せたまま座敷を出ようとした。が、「まって」と、妻の声が襟をつかんだ。

「ねえ、おむつが湿ってる」

言われて股を覗けば、確かにおむつの色が青く変色していた。

「本当だ。さっき変えたばかりなのに。だから怒っていたのかな」

杏平は赤子を布団へと置き支度を始めると、妻も起き上がり、杏平の手元をじっと眺め始めた。

 服の紐を外して、ボタンをひとつふたつ外して、あれ、ここははずしてよかったっけ。ああ、全部抜けた。はやく、まずは紐を閉めなおして、あれ、こっちは外側の紐か。まて、まず裾がずり上げって背中に埋もれて。尻へ手を突っ込んで、ああ、ごめん、爪が当たった。でも裾が戻らないと、先に、……。まごつく杏平に対し、赤子は顔を赤く潰して一層強く泣き上げた。

「ちがう、そっちじゃないよ」

そう、妻が口を挟む。

「そっち? そっちじゃ分からない」

「もっと優しくして。頭から下ろすんじゃなくて」

「でもこの体勢だと頭から下ろすしかないよ」

「腕はひっぱっちゃだめ。服の方を伸ばして」

「伸ばしてるよ。ほら、見て。」

「脱臼しちゃうよ。足を持つのはダメって助産師さんが」

「ちょっと持ち上げるぐらい大丈夫だよ。人間の骨格上、この方向なら」

「だめ。赤ちゃんは違うの。あ、ほら、おむつずれてるよ。しっかりつけないとまた隙間から漏れちゃう」

「これ以上締めると苦しいよ。ほら、指が入るぐらいには開けるんでしょ」

「それだと緩すぎるよ。」

「でも僕の指ではこれぐらいだって」

「男の人の指ってどこかに書いてあったの?」

「知らないよ。そんなことどうでも、」

「どうでもよくないよ。ちゃんと締めないと赤ちゃんだって」

「平気だよ。こんなの、漏れたらまた拭けばいいだけだって」

「……うん、わかった。杏くん、替わるよ。」

「え? なんで?」

「うん、もう、遅いから、寝て」

妻の言葉はぴしゃりと走り、杏平の手元を打った。

「……」

杏平は手を止め、衝動的に妻を睨んだ。が、妻の目は杏平と触れず、赤子にばかり注がれている。

「……うん。じゃあ頼むよ」

杏平は出た言葉の冷たさに瞬間焦ったものの、咄嗟に伺った妻の顔は、聞こえているのかどうか、黙々と赤子の股に注がれていた。杏平はそれを横目に座敷を出た。その際、何か妻からの言葉を期待したが、

「辛いね、うん、今替えてあげるからね。ほら、大丈夫だから……」

と、ただひたすらに甘い声が、サイレンの鳴りやまない座敷へ暖かく残るだけであった。

 

 翌朝、起き抜けに杏平が自室から廊下に出ると、微かに開けられている襖に目が留まった。隙間からはぐずぐずとした赤子の不機嫌な声と、あの妻の甘い声が抜けてくる。杏平はそっと中を覗き込んだ。そこには敷布団の上にぺたりと座り、乳を与えているであろう妻の背だけが見えた。冬晴れだろうか、庭の障子を透かす光はまっすぐに座敷に届き、部屋の中は暖かく蒸され乳の甘い香りで満たされていた。まさか一睡もせず世話をしたわけじゃあるまい。杏平はそう案じたが、どうにもその背に「おはよう」と掛けることもできず、音の出ないよう慎重に襖を閉めた。

 リビングへ顔を出すと薄暗く、老犬のチャムヘイが寝床に顔を上げているのが見えた。おそらく朝飯を期待している。杏平はまずキッチンに向かいコーヒーを淹れた。朝飯の支度をしようかと思うところへ、またあの山羊のような泣き声が、リビングにまで届いて響き始めた。杏平はひとつ眉をひそめながらキッチンを出て、空になった餌皿へ、ドッグフードを流し入れた。チャムヘイはその時にはすでに寝床から這い出て、皿の前に尻をつけて杏平の顔を見上げている。赤子が鳴く声も、犬にとって食事の前にはさほど気にならないようだった。

「オスワリ。マテ。」

と言ったものの、既にチャムヘイは座り待っている。しかし杏平は命令をあえて下した。

 いつもなら、この後すぐに「ヨシ」といって食事の号令をかける。しかし杏平は犬を前にして黙って見下ろしたままにした。犬は困ったように飼い主を見上げる。杏平は色の無い顔でそれを見下ろした。赤子の鳴き声は止まない。犬は皿と飼い主とを交互に見比べ、少し後ずさりをした。杏平もそれを見て少し後ずさりをする。そして犬が待ち続けると分かると、その場を離れ、キッチンへと戻った。そしてマグカップへコーヒーを注ぎ、老犬のお預けされる姿を眺めながら悠々とコーヒーに口をつける。犬は今までに無かった状況に戸惑いながら、それでも健気に首を伸ばして、飼い主の号令を待った。ふたりの間には絶えず泣き声が通っていた。

「……ヨシ」

号令が聞こえ犬は硬直を解いた。が、それでもまだ懸念があるのか、もしくは聞き違いだと思ったのだろう、皿に首を伸ばしかけて止め、上目使いに杏平を伺った。

「……ヨシだってば。いいよ、ほら、ヨシ」

尻を打つように促され、老犬はやっと朝食を始めた。赤子は泣き続けている。杏平は皿の鳴る音に耳を傾けながら、コーヒーの湯気を嗅ぎ静かに微笑むのだった。

 

 朝刊の見出しは容易に頭に入らなかった。赤子の鳴き声は止まず続き、それを瑞穂任せにしている状況も、時計を見れば五分と経っていないことに気が付く。妻の疲れた顔を思い浮かべると気分は安らぎ、幾らか勇気も湧いた。その勢いのままリビングから出て、襖を開け座敷へ踏み込んだ。

「あ、おはよう」

出会い頭に妻のか細い声を受けた。しかし背や顔は障子の方に向けられたまま、だからそれへ返事をする気にはなれない。杏平はふたりの前に回り込んで、泣く赤子の頭を拭うように撫でた。赤子は妻のあらわになった胸の前で嫌そうに頭を振ったが、そのしかめっ面が人間らしく見えつい微笑んだ。緩んだ杏平は、そこでやっと妻の顔を見ることができた。彼女の目はほとんど開かず、唇が乾燥し表面がささくれ立っている。疲れてはいるが、しかし想像よりも血の通った滑らかな顔をしていた。それは赤子と同じような顔だった。

「もういいの?」

次の妻の声は、赤子に向けられたものだった。どうやら朝の乳をあまり飲まなかったらしい。赤子は不器用な手を宙に動かし、乳を拒むような様子を見せた。妻は赤子を布団の上へ下ろした。すると赤子はすぐに口をとがらせ乳首を探し、再び顔を潰して泣き始めようとする。「……やっぱりいるの。」と、彼女は声を絞る。いる? いらない? きっとこんなやりとりが長く続いているのだろう。

「よし、お父さんに任せて」

杏平は寝巻の袖を捲くり、妻の胸の間に手を差し込んで赤子を持ち上げた。続いて昨晩のように座敷の中をのしのし歩いて回り始めた。しかしそれが乱暴だったのか、やはり赤子は気に食わないように、増して嫌がる声を強めた。杏平は焦れ、障子を開いて朝の庭を座敷へ広げた。小さな庭は万両の紅い実や柊の白い花、山茶花の蕾などが朝の日に映って暖かく彩っていた。朝日が鋭く縁側に立つ。赤子は辛そうに目を細めると、顔を赤くし、手足を伸ばして仰け反った。

「大丈夫?」

「平気だよ。瑞穂は休んで。僕がどうにかしてみせるよ」

そう言い杏平は逃げるように座敷を出た。当然、赤子の唸り声は腕の中へ着いてくる。廊下、リビング、キッチン、風呂場、母親の奥の間と、家中を歩き回ったが、赤子の抵抗は止まなかった。どころか、細かい切れ切れな単発の叫びを上げ機嫌は悪化するようだった。老犬も耳を塞ぐように丸くなって顔も上げない。杏平は家の中を一周回ってみて、結局戻ってくるしかやりようがなかった。しかし廊下に立つが座敷には入れず、そこで向かいの自室へと逃げ込んだ。

 そこは、寝起きからカーテンもまだ開けていない暗がりのままだった。

 杏平は部屋に赤子を連れ込むなりその場で静かに揺らし始めた。あるいは暗い場所なら、子宮を思い出して静かになるのではと図った。が、赤子はむしろ足を前後に動かしてそれを嫌がった。抱えている杏平の腕を蹴り上げ頭の方から逃れようとする。腕から抜ければもちろん床へ落下するしかない。杏平は腕の力を込めて静止させようとした。赤子の足を、ぐっと抑える。すると唸り声はぎいぎいと高まり、これから激発するであろう予兆を見せた。杏平は部屋の陰で黒色になった暴れる赤子を見下ろしながら、しかし意識を部屋の外へ向けていた。向かいの座敷にはすぐ先に妻がいる。叫び声なら容易に届く。すれば彼女は顔色を変えて駆けつける。それがひどく都合悪く思えた。その前にどうにか鎮めよう。杏平はその場で独楽のように回転したり、振り子のように赤子を強く揺さぶったりした。するとぎいぎいという声はやがて、はっはっはと過呼吸のように弾みだした。杏平はそれでも強く揺らし続けた。見下ろす暗闇の腕の中、赤子の大きな瞳が、穴のように漆黒となって杏平の目に映った。そしてすぐ、その底の闇から、サイレンの音が溢れるように高鳴った。

 杏平は瞬間、何もかも忘れ、反射的に胸で赤子の口を塞ぐと、その小さな水袋を力任せにぎゅっと締め上げた。

「黙る? 黙るか?」

赤子の声は止まった。するとその刹那に、算段も焦りも失われた。ただ裏返して現れるカードの絵柄のように、造作なく捲られたのは野生じみた反射反応だけであった。杏平はなおも淡々と赤子の体を締め続けた。こうすれば黙るという理屈すら無く、本能はただ腕の力に任すだけであった。そして、

「ぎい」

と、強い唸り声の後、赤子のほうも自身の本能に頬を打たれたように、今までにない強い叫びを上げた。

「あああ」

杏平はその声量にすぐさまたじろぎ、突発的に力を緩めた。赤子は期を逃さず、緩まった腕の隙間から空気を十分に小さな胸へ吸い上げて膨らみ、続けざまに泣き上げた。サイレンが鳴る。杏平はたまらず、赤子を抱えて部屋を出た。廊下には妻が、切迫した様子でこちらを伺う。

「……だめだ」

杏平は力なく笑ってみせた。

「……わたし、もらうよ」

妻の血色は流れるように落ち、青白くなった顔で言った。杏平は静かに頷くと、力なく赤子を妻へ引き渡した。母子は座敷へと帰っていく。泣き声は去る緊急車両のように、止まずに徐々に遠くなっていった。

 杏平はすぐに反転すると自室に入り、未だ止まぬ動揺に部屋の中へ立ちすくんだ。

 ふとその暗室に、何者か、自分の他に別の気配を感じた。杏平は急いでカーテンを開き、日光の元その姿を暴こうとした。

 しかし明るみに現れたのは変わらぬ自分の部屋であった。力なくベッドに座り、あらわになった部屋を改めて見渡す。本棚があり、机があり、その上にパソコンが置いてある。机の脚には出勤で使っていた鞄が立てかけられている。他にあるのは自分だけだった。

 すると杏平は自然に動揺も消え去ったように感じ、ただ部屋の隅を見つめていた。

 先ほど、自分は何をしようとしたのか。力任せに赤子を絞めれば起こること、それを茫然と考えた。同時にひとつの疑問が浮かぶ。

「赤子が叫ばなければどこまで行っていただろう」

その答えは分からなかった。すぐやめたかもしれない。赤子も泣かないわけがないだろう。しかし家に、自分の他に誰も居なければどうなったのか。例えば妻が用事なりで出かけていたなら。自分と赤子の二人きりだったならば? ……しかし杏平の顔は青くはならなかった。彼は漫然と窓に近付くと、静かにカーテンを閉め、再び暗室を作った。そして布団の中に潜り込むと、体を丸めて目を瞑った。

「自分には愛情というものがないのかもしれない」

杏平はふとそんなことを思った。それは赤子を苦しめたためだけではない。それは、いまだにひとつも罪悪を感じていない自分を見出したためであった。

 杏平は布団の中が徐々に温かさを取り戻していくのを感じた。ひとりでも温まることができる。その事実が寒々しかった。次第に息苦しさが起こった。

 杏平は息継ぎのように布団を素早く持ち上げると、臥したまま、開けられた部屋の扉を眺めた。そこには誰もいない陰った廊下が見える。廊下を挟んだ向かいの襖は、今度こそはぴたりと閉められていた。その先に、日光により黄色く輝く暖かい座敷を思い描いた。そこに仕切られたのは、日向に彩られた妻の後ろ姿と目を細める赤子のふたりだけ。

 座敷からは赤子の鳴き声はもう聞こえない。そこで何がなされているのか。それは耳を澄ませても分からなかった。

「……もしかすると妻だって、ひとりの部屋では愛情も裏目に返って、」

杏平のそんな着想は、しかしもう一度あの閾を跨げさせる勇気など与えてはくれなかった。ただここにあるのは自分の非道。そしてそれが逃れられない自分であるという事実だった。が、やはり杏平は顔色を変えなかった。裏目裏目、それを捲って世間に晒すことは容易ではない。たとえ幾百の親が赤子に非道を行っていても、それが子の一生涯に関わる影響を与えていたとしても、むしろそれが生命に関わる悪事だとしても、それは親本人と認知も定かでない赤子しか知らない。まさしく自分がそうであった。生命の閾。その色を知って尚も敷く紙一枚の向こうがわ。

 杏平は布団で口を隠し、茫然と廊下を眺め続けた。そこにはこれまでの生涯に出会った顔々が、陰って青く映るのだった。

「命の重さを、貴さを、誰が本当に知っていた? ……外に出れば俺だって、普通の顔で、」

業務鞄がぱたりと倒れた。彼がその鞄を携え玄関を出るその日まで、まだ二週間ほど猶予がある。それまでに父親らしい顔になれるか。それは容易に思えた。暴かなければ暴かれないのだ。(了)