抽斗の釘

小説、散文、文章、短編

もうやめて

 

 悪寒と共にくしゃみが出た。

 ひどいくしゃみで、痛みと共にティッシュには黒い血粒が付いた。

 翌日には発熱で、一日中布団にいた。

 その熱が少しだけ弱まったころ、これはいけないと総合病院に連絡をとり、熱が引いた翌日に検査、またその翌日には陰性という結果をもらった。

 そのまま最寄りの耳鼻科に電話をした。

 この時にはもう熱の上がることはなかったが、鼻や目の周りの重たさ、関節痛、悪寒、冷や汗は依然として残っていた。油断すればどうかするともうひと波、病としても火事場の馬鹿力か、灯滅せんとして光を増すか、ともかく彼らの報復が起こりそうな気配がある。

 幸い、耳鼻科はその日の診察時間を過ぎたところに、ひとつ席をとってくれた。ありがたかった。

 僕は車を運転し、耳鼻科へ向かった。雨が続いたあとの、少し冷える午後のことだった。

 

 その日は世間的に休日であったが混んではいなかった。診察時間を越えているためだろう。

 待合には大人が3人ほど、入ってきた僕に目も向けず、皆俯くなどして長椅子に掛けていた。

 受付を済ませると、僕も彼らと同様、空いていた一番後ろの席に座った。

 その背に窓があって、換気のために開けてあった。レースのカーテンが風にゆらゆらと動いている。僕はそれを首筋に受けながら、うっとうしいがじっと我慢した。その席が空いていたのはそのためだろう。

 数分と経たないうちに帰りたくなった。カーテンが絶えず僕にちょっかいを掛ける。

 布団が恋しい。やはり出てきたのは失敗だった。そう悔やむ自分の背へは、製氷のしずくを落とされるような作為的な寒気があった。窓風のせいかもしれない。僕はできるだけ背中を丸め、それ以上体熱が出ていかないよう努めた。

 診察は願うほどスムーズにはいかない。十数分と待っても、待合に動きは起きない。

 停頓したところ、やがて僕は待合の彼らすべてが子供連れであることに気がついた。

 パーテーションで区切られた4畳半ほどの玩具スペースがある。幼児がふたり、そこで遊んでいる。加えて小学生らしい女の子がトイレから出てきた。女の子は親らしい女性のそばに、僕から隠れるようにして座った。

 加えて数分もすると、あとからまた子連れが、3組も新しく訪れた。

 けっきょく待合に居る人々は、やはり僕以外すべてが親子だった。

 途端に騒がしくなった。増えた子供はそれぞれ、親にくっついてひそひそ話をしたり、玩具スペースに参入したりした。積み木の崩れる音が、絶えず続いていた。

 僕は首を伸ばした。受付の奥に治療室が筒抜けに見える。先生の眼鏡と、患者の後頭部が見える。診察は悠長なように思えた。

 僕の苦しむ顔が面白いのだろう。前の長椅子の背から、ひとりの男の子が僕を盗み見しているのと目が合った。そして合ったとわかるとさっと頭を隠した。

 好奇心の強い多くの子供がよくそうするように、散切り頭は再び背から覗き、僕を盗み見た。そして目が合うとまた引っ込め、また覗き見て、隠れて、見て、そして無邪気な微笑みを浮かべる、という様子だった。

 遊びだと分かると僕もやぶさかではないから、寒気も忘れて、手の甲や文庫本で顔を隠し、「いないいないばあ」の要領で付き合うと、数回もやらないうちに勝手に向こうが飽きて止めてしまう。だから僕は幾度か、ひょうきんにした顔を、なさけなくも受付の女性に晒すことになった。それも慣れたものなのか、受付の女性は冷淡にもすっと顔を下げ、作業を続けた。

 その冷淡な頭の後ろから、治療室の子供の叫び声が上がった。同時に母親や看護師、先生の笑い声が上がる。子供とっては辛いひと時だろう。見知らぬ白衣の老人から、意味もわからず鼻に管を入れられるのだ。そしてそれを笑われる。

 僕はいよいよ真剣に帰りたくなった。

 和やかなのは結構だが、笑い声に待っているのは煩わしい。子供などに遠慮せず、力づくにでもさっさと器具をその鼻に差し込んで処置を終えてしまえと思った。

 僕は苛々とした。どうも、自分の番まで長く掛かりそうなので帰りますと、幾度も申し出ようと思った。

 しかし背骨の寒気が、帰るにしてもそれ以上の活動を拒んでいた。程度を越えると、身体のどこかにある、ブレーカーのような開閉器が落ちてしまいそうな気がした。

 暑くはないのだが、汗で額が湿った。視界の中の様々な輪郭がゆるんだ。首筋にまで汗が垂れた。と思いそこに触れると、首筋はカサカサに乾燥していた。

 鼻の奥が重い。咽頭に濡れた鉛筆の削りカスを詰められたような心地だった。そこに苔だとか黴だとかが生えていそうな病的な異物感があった。

 一段と強い叫び声が上がった。

 治療は佳境を迎えているらしい。

 声の方にまた首を伸ばしてみれば、治療台に看護衣の後ろ肩が見えた。どうやら座る看護師の上に、叫び声の主が乗せられているらしい。看護師の肩から栗皮色の後頭部が揺れて見える。後ろから羽交い締めにされているらしい。僕の願いがいくらか通ったのだ。

 言葉にならない叫びが続いた。いかにも子供らしい危機への反応だった。

 そのなかで、ふと通るようにして、少なくとも僕には、院内に響くようにして彼の言葉が聞こえた。

「もうやめて。もうやめて。」

僕はそれを聞いて盗み笑いをせずにいられなかった。

 それは、おおよそ子供が使うような響きには聞こえなかった。簡単な単語、例えばイヤ、でも、ヤダ、でもない。

「もうやめて。」それが随分おとなびた調子で聞こえたのだ。

 もう、やめて。

 僕は頭の中でその言葉を反復した。

 もう、とつけるのは、真摯に、切に嫌なのだろう。それでも医者は止めないのだろう。

 僕は彼らの背を眺め続けた。母親は?

 母親らしき女性は、赤子を抱えて診察台のそばに、微笑みながら揺れていた。看護師はついに3人がかりで子供を取り押さえている。

 子供の声はすぐ、意味を持たない叫びに戻った。子供が必死なうちに用いた「もう」は通じなかったのだ。

 僕は「もう」という言葉を考えた。程度を越えた時の、それは言い得ない感情のうったえだ。続いてその「もう」を使う場面を考えた。やはり切迫し、懇願するときに使うだろうと思った。それはやはり言葉にならない感情の乞いなのだろう。もう限界です。もう歩けません。もう無理です。もうやめて。もう、もう、もう。

 

 やがて治療を終え、母親と子供は診察室から待合に戻ってきた。

 子供は随分ほっとした顔をしているのだろう。僕はそんな顔を期待して待っていた。しかし実際の彼の顔は、随分不機嫌そうなものだった。

 そうか、と僕は思った。終えてさっぱり安心するのではなく、怒るのか。僕はそんな意外な感動に彼の顔を眺め続けた。

 待合のしっかりした長椅子は患者で埋まっている。母親は柱に置かれた古い籐の椅子に座ると、膝がしらにその子と向き合った。

 男の子はというと母親を鋭い目で睨みあげ、じっとその場に立ち尽くしている。そして触れようと伸ばされる母の手を避け、身体を左右に振り回し不服を訴えた。

 そうか、と、僕は再度思った。

 彼は先生でも看護師でもなく、「もうやめて」と懇願しても助けなかった、母に怒ったのだ。

 男の子は母の腕を弾くと、その手で数回、母の膝をいかにも弱弱しく叩いて見せた。

 それでも母親は笑い、腕で彼の頭を引き寄せ包むと、その膝の間に彼を取り込んでしまった。

 男の子はそれから抵抗する様子もなく、なされるまま頭を母親の腹にこすりつけた。母親はその頭をゆっくりと撫でている。

 それから男の子はじっくりと母の腹を味わい、やがてうずめる顔を反転させ、抱かれながらその面を周囲に晒した。

 それは不機嫌なままの、鋭い顔だった。そして僕と目が合う。

 僕は例によって彼も笑わせるべく微笑んで見せた。しかし彼はさらに目をきっと細め、鋭く僕を睨み返した。

 そこには他の子供たちにあったような、大人に対する恐怖も、未知の者に対する羞恥も遠慮もない。隠れることも、止めることもしない。彼はただ僕を睨んだ。

 僕は彼の睨みを受けながらいろいろと考えた。

「僕は何も悪くないじゃないか」

そう諭しもしたい。しかし彼は耳も貸さないだろう。彼の「もう」は治療台で失われたのだ。かわりに世間への敵意が残ったのだ。彼にとって見知らぬ僕は、見知らぬ世間の悪意だった。しかし本当の彼の心はもうわからない。ただ彼の鋭い目が僕に注がれ続けた。

 次の患者が呼ばれた。僕の番はもっと後だろう。僕の治療はずっと後だろう。

 窓から風が吹いた。ひとりの背が冷える。背が寒い。 了

だれかれの恋

 

 寿賀子の恋愛話を、もう興味を持って聞く者はあまりいない。

 というのも、彼女の恋愛話は聞くたびに相手が変わるのだ。

 そしてそれらすべてが片思いだった。

 二十年来の付き合いがある謙慈が知るだけでも、この数年で相手は忙しなく変わった。

 大学院生、電気工事士、証券会社課長、家電量販店員、ピアノ調律師、水道局員、喫茶店のマスター……。

 また、彼女の学生のころからの相手を加えるときりがない。

 誰しも、寿賀子と会うたびに恋愛の相手が変わるものだから、もう聞くほうも真摯な姿勢で向き会うのが馬鹿馬鹿しくなる。アドバイスや共感をしたところで、次に会えばそれが徒労に終わるのだと分かっている。

そ して何より人々を呆れさせるのは、寿賀子が相手にとって、いわゆる都合の良い女になっているということだった。

 聞けば相手は大概が所帯持ち。彼らは寿賀子との長い関係を求めていない。

 数回のデートで音信不通は当たり前。一夜だけの都合が大多数。

 挙句の果てに浮気を相手の親友に相談し、その親友とも浮気が始まるという始末。

 寿賀子の話はいつもそんな具合で、いつまでもハッピーエンドには至らなかった。話を聞いた友人たちは、いつも茹で損ないのパスタを口にしたような苦い顔をする。

「それ、遊ばれているだけだよ。やめなよ」

とか、

「いいかげん、君を好きになってくれる人を探せば」

など、友人たちに叱られたと寿賀子はよく謙慈に笑ってみせた。

 そしていつも、微笑みは苦笑いに変わった。

「でも、私を好きになってくれる人なんて、一生現れないよ。私は幸せになれないんだ  よ」

 そんな寿賀子の被害者めいた結論は、いつ会っても変わらない。

 結局、毎回救いようのない話に終始し、それにより、何より寿賀子自身が幸福になろうなどと思っていないことが分かる。

 それが分かるから、いつからか寿賀子の恋愛話に心身を費やす人はほとんどいなくなった。寿賀子が自分の恋愛について、真剣ではないと彼らは合点する。

 また謙慈においても、その叱る友人というのがきっと男だと邪推するのだ。

 

 寿賀子は仕事の都合上、各地を転々としていた。

 昼間は化粧品や健康食品の販売をやっていると本人は言うが、謙慈は詳しい事情にはいつも踏み込まなかった。踏み込まないのが、寿賀子との関係の上で礼儀であると彼は信じていたのである。礼儀とは、彼にとって破綻の対義でもあった。

 寿賀子は自分の方から、彼女が半ばフリーランスの位置づけだと補足を加えた。場所の空いた百貨店やドラッグストアから依頼を受け、派遣会社から短い任期で赴任を言い渡される。ということらしい。

 ごくまれに、謙慈は寿賀子から、メッセージアプリを通して唐突な近況を受けることがある。内容はさして実のあるものではない。ある時はビーグルの仔犬を飼い始めたという知らせだった。

 謙慈は顔をほころばせた。犬を飼うとは、いよいよ腰を落ち着かせる心情になったかと感心した。生活拠点を雄琴にしたらしい。しかし感心もつかの間、数か月後には飛田、北新地、さらには金津園、そして数か月後には浅草だとかに移ると連絡が入った。それからは関東を絶え間なく渡っているらしい。謙慈はそのたびにふんふんと鼻を鳴らした。

 寿賀子はいつも、故郷としている京都に、「用事」ができればその数日前には帰ってきて、しばらくその「用事」までぶらぶらと遊んで過ごした。そのたびに大津に住む謙慈は呼び出され、お茶や酒の相手に付き合わされた。

 しかし謙慈はそれもまた苦でなかった。

 四十になって心安い友人もずいぶん減った。家族を優先し交流の減る友人たちの中で、寿賀子だけは謙慈にとっても数少ない同世代の付き合いだった。だから謙慈は寿賀子から連絡が来るたびに、嬉々として滋賀から電車を乗り継ぎ京都に出てくるのだ。

 長い付き合いの者と過ごす時間は、多少なりとも昔の時間を取り戻す機会だった。若い生気に満ちた時代がよみがえるのだ。

 

 五月の連休。寿賀子が姪の結婚式に呼ばれたと言って、東京から京都に帰ってきたときのことである。

 それが幾つの姪なのか。どんな血縁の姪なのか。例によって、呼び出された謙慈は彼女の事情には踏み込まない。ただ何も言わず静かに彼女の前に現れる。寿賀子はそんな謙慈を、微笑みをもって迎えるのだった。

 祇園のとある喫茶店に、そんな二人の姿があった。

 店内は穴倉のように薄暗く、表のドアだけが、春の白く暖かい日和に開け放たれている。

 中から見える祇園四条通は、八坂神社へ行き来するにぎやかな人通りで煩雑としていた。

 店内は外との間に透明な敷居を立てたように静かだった。

 テーブルにはご丁寧に「大声での会話はお控えください」との注意書きが置かれている。

 フロアの各所には艶やかな百合の大輪が、大きな植木篭に剥製のように首を垂らしている。それが室内の陰により香しく、鮮やかに映えるのだった。

 平時は仕事柄、暑い日でもスーツを着る謙慈であるが、この日は祝日、珍しくTシャツを選んでいた。体型は日頃スーツに矯正させているものだから、腹がベルトの上に餅のように乗っている。それが布の上からでもよく分かる。

 一方対面する寿賀子はすでにスーツケースをホテルに預けてしまったらしく、いかにも身軽そうな、ミモザの柄のワンピースでその細い体躯を包み、薄暗い照明に骨をよじらせていた。

 二人の会話は何げないそれぞれの近況から、いつものように恋愛の話へと移っていた。

 といっても一方的な寿賀子の話である。他の者なら苦い顔をする場面でも、謙慈はストローを噛みながら、至って面白そうに耳を傾けていた。

「……それでね。いつからか覚えてないけれど、彼氏なるものができてね」

嬉々とする声を、はにかみを、隠すように淡々としゃべる寿賀子に、謙慈はわざとらしく目を開き驚いて見せた。……今回の寿賀子の恋愛は、珍しく順調な話らしい。

「本当に? 良かったじゃない。……おめでとう」

しかし寿賀子は、そうことほぐ謙慈に対し神妙そうな顔を作った。

「そう? 本当に? 彼氏ができるって、そんなにおめでたいことなのかな」

「うん。そりゃあ。……でも寿ーちゃんはなんだか、嬉しそうじゃないね」

「だって月に一度も会わないし。実感もわかないよ」

「でも彼氏は彼氏でしょう。喜びなよ」

そういって謙慈は冷ややかにアイスカフェオレを吸い上げた。溶けた氷の黄土色が、口から謙慈の顔に浸透し、同じ色となる。寿賀子は目前の男にそんな空想を浮かべ、ふいと目を伏せた。

「……そうかなあ。これは喜ばしいことなのかな。なんだか全然……。」

「嬉しくないって?」

謙慈は口先でストローを遊びながら相槌を打った。寿賀子は目を伏せたまま、心持顎を突き出している。

「うん。なんというか。やっぱりいろいろ考えちゃうんだけどさ。私は彼氏彼女とか恋人とかよりも、私にとっての唯一無二の存在が欲しいみたい。彼氏って呼び方、なんだか軽いじゃない。私に必要なのはそんなんじゃなくてさ、あてはまる言葉がないような、確固たる関係というか……。」

「うん。寿ーちゃんの言いたいことも分かるけど。でもそのためには、やっぱり彼氏彼女からやっていくしかないじゃない」

謙慈はそう言うとグラスをテーブルに置き、無神経そうに店内を見渡した。古い町家を改装した店なのだろう。古家の趣が所々に残っている。と、天井の梁に二頭の動物らしい彫りがなされているのに気が付いた。それらは互いに向かい合い、ある距離を保ったまま硬直している。

「あれ。なんだろう」

「どれ」

と、寿賀子は謙慈の目が差す先を、首と体をひねって追った。

「犬だろうかな」

「ライオンじゃない?」

「どうしてだろう」

「何が?」

「……うん?」

謙慈は寿賀子の問いに曖昧にうなると、再びグラスを掴み一挙に残りを吸い上げた。

寿賀子も前を向きなおすと、何事もなかったかのように、再び床に目を落とした。

「まあ、とりあえずさ、今の赴任期間のあいだでも、東京でいろいろ楽しいことを共有できる相手ができたってことは、それはそれで嬉しいかな。どんな関係になるか。これからのあの人次第だね」

と、口の端を力なく引きのばして見せた。

「……寿ーちゃんはあんまり、その、彼のこと好きじゃないの」

「うん。そうね。付き合いたいっていうから、仕方なく了解しただけ。正直今の時点では、あの人と配偶者的な先はないと思ってるよ。でも、だからといって仲良くしないってことも違うだろうし。あの人はそれでもいいって……」

「……あの人あの人って、なんだか他人行儀な言い方だね」

謙慈は腕組みを腹の上に乗せながら、皮肉そうに薄笑いを浮かべた。寿賀子は少し虚を突かれたように顎を引くと、次いで中年には似つかわしくない口を尖らせる表情を作った。

「だって名前も知らないんだから。なんて呼んでいいのか分からないよ」

「彼氏なのに名前を知らない? そんなことある?」 

「だって、本当にずっとあの人に興味が沸かなくて。会うってなってからだって、全然」

「じゃあさ、その人とはどうやって知り合ったの。」

謙慈はそう言ってすぐ、あっと顔を降ろして後悔した。

 これは踏み込み過ぎたのではないだろうか。

 そう思うと、それから寿賀子の顔を見るのが途端に恐ろしくなった。ひとりでに目が惑った。視線は忙しなく机のグラスや灰皿をはい回り、瞬時に対面のワンピースに散らばるミモザに飛びつくと、そこでやっと踏みとどまれた。そこならなんとか会話の視線の許容だろう。

「……アプリだよ。婚活アプリ。」

ミモザの上から声がした。それは落ち着いた声だった。そして寿賀子は脚を組みなおしたのだろう、謙慈の視界にミモザが一斉に揺れた。声もつられて揺れた。

「ああ、アプリね。それなら偽名だって使えるからね」

「ふふ、でも私がやっているのは実名のやつだよ」

ため息のような微かな笑声に、謙慈はさっと唇だけを盗み見ることができた。微笑んでいた。寿賀子は微笑んでくれている。謙慈はぐっと息をのんだ。

「……でもさ、本当に名前を覚えられなくて。実際会ってから、お名前はなんでしたっけって、私聞いちゃった」

あはは、と唇は開き歯を見せた。謙慈はそれを見ると、咄嗟に餅腹を震わせて笑ってみせた。続く寿賀子の声は、子供のように明るんでいた。

「でもね、そしたら意地悪して教えてくれなくて。好きなように呼んでください、だって。だからずっと名前が分からないままなの」

そんなことはないだろう。メッセージのやり取りをしている、ということなら、嫌でも名前は表示されるはずだった。しかし謙慈はそうだろう、そうだろうと強く頷いた。寿賀子の声が明るいうちなら、今は十分それでよかった。

 そこで、謙慈はさらに寿賀子の恋愛話に花を添えるべく、

「でも、そうだとしても、会ってる時の会話が不便じゃない? そんなときはなんて呼んでるの」

と、名のない恋人の話を促した。寿賀子は対し、なおも少女のように顔を上げ、思い描くように答えた。

「あなた、かなあ。あなたは何を頼むのですか、とか、あなたは今日の晩御飯どうしますかとか、そんな感じで呼んでる。そういえば、」

寿賀子はそう言うと、その名のない恋人と、どれだけデートが盛り上がらないだとか、どう趣味が合わないだとか、そんなつまらないことをいかにも楽し気に話し続けた。

「あなた、ね」

その間謙慈はそう呟き頷きながら、今までの寿賀子の恋愛話の相手を、二十年来の幾人ものすべてを、できる限り思い出そうとしていた。

 大学院生、電気工事士、証券会社課長……。

 そこには名のある者がひとりでもいただろうか。

 謙慈は眉をしかめた。

 よしんばいたとして、それらが本当の名前だったのだろうか。

 謙慈の回想は、寿賀子と別れ、妻子の居る大津行きの電車でも長く続いた。

 しかしいくら考えても、寿賀子の恋愛話の中で、彼女がはっきりと本名を挙げた人物はひとりもいなかった。そしてそこには、謙慈自身も少なからず含まれていた。

「それに加えて、あなた、と来たか。もうネタ切れかな」

謙慈はそんなことを腹に呟き、今回の寿賀子の恋もきっとダメになるのだろうと、話の結末を予想した。そして安堵を覚えたか、いつしか夜景が映る座席の上に、餅腹を力なく落とし眠り始めてしまった。

 

 つい一年ほど日が経った。

 あれから寿賀子からの連絡もはたと途絶えていたが、日常の流れに浸る謙慈にとって、それに気をとめる勘は彼になかった。あるいはどこかで気が付いたとしても、脳裏に過るのは瞬間の美しい幻影だけで、危機感には及ばない。

 また、寿賀子の方で「用事」ができれば、いつものように連絡を寄越すだろうと、そんな怠惰に謙慈の日々は過ぎていた。

 そして例年どおり五月の連休がやって来た。

 謙慈が初日の夕刻までごろごろしていると、妻が子供の手を引きながら、おもむろに実家に里がえりすると言って荷物を抱えだした。

「あれ、そうだっけ」

と、謙慈は肌着のまま、部屋の敷居に立ちすくんだ。すくみながら、敷居の凹凸で足裏の筋を刺激するように足踏みをした。

「言ってたけどね」

と、妻は吐き捨てるようにして出ていった。

 ひとり残された謙慈は首をひねりながら、それでもやっと自由になった余暇を、どう過ごすか考え巡らした。

 そこに現れたのは、やはり寿賀子の幻影だった。

「たまにはこちらから遊びにいくのもいいかもしれない」

 彼女の影に湧くのは、やはり若い生気に満ちていた時代の香り。そうと決まればと、謙慈はスマートフォンを手に取った。翌日の朝から関東に赴けば一日遊べる。なんなら今日の夜からというのも感興をそそる。

 謙慈は頬に脂を光らせながら、画面を巡らした。

 寿賀子はどこだと、メッセージアプリの友人リストを手繰った。

 が、一巡したところで寿賀子の名前が見つからない。

 見落としたかと、再三リストを当たった。

 が、やはり寿賀子の名前はどこにもない。

「どうしたもんだ」

謙慈はスマートフォンを置いて、その場の床に座り込んだ。

 名前がないということは、彼女のアカウントに何か問題が起こったということだろうか。それは何かアプリの不具合によるものだろうか。もしくは通信が悪いために表示されないのだろうか。アプリを再度更新してみようか。問い合わせてみようか。

 謙慈はそうやっていろいろ考えながら、インターネットで「友達リスト 消えた」との検索も試みた。おおかたの答えは、相手方がアカウント自体を抹消したのだろうから、もう手は無いとのことだった。

 謙慈は硬直した。寿賀子との不通はどうやら取り返しの出来ない現実だった。

 謙慈はうなる。ならば寿賀子のあの恋は本当だったのだろうか。

 しかし同時に謙慈の心には、寿賀子が披露してきた数多の伽話もまた、ふたりの間の特別な現実として確かに残り続けている。

「あれ。嘘じゃなかったのか。まさか。」

 いつの間にか、窓から五月の西日が差し始めていた。

 謙慈はその中にひとり留まり、額へは脂汗が滲み始める。

 暑いかどうかも分からない。眩しさも感じない。

 脂汗はやがて頬を伝った。それを拭うことも忘れ。

 じきに夜が来る。それまでは、夕日が寿賀子の代わりに彼へ笑った。 了

 

ラブホテル・ブラザー

 

 潤う、ということにはひどく痛みを伴う。

 清太は唾液を飲み込みながらそんなことを思った。

 喉に垂れていった唾液が喉仏のあたりで染み、しわりと痛んだのだ。

 乾燥した春の空気は、喉の側面を荒廃の土地のようにヒビ割れさせている。

 そこに水が入り、肌は水を吸い、シュウシュウと音を立てる。細胞は膨らみ、その時痛みを伴うのだ。清太は車の中で両手を垂らしながら、自分の喉の内側に、そんなイメージを浮かべていた。

 エンジンを止め、キーを挿し口から抜き出した。同時にエアコンが止まり、フロントガラスから入る日差しだけの刺激が残る。車内はむっとする。

 清太は天日干しの虫のように外に這い出た。そして眩しそうに眼を細める。彼の黒いTシャツや伸び始めた坊主頭は、春の陽をよく取り込んだ。

 見渡せば、駐車場に影はなく、灰や白の反射光が夏の景色を黒い瞳に映し出した。

 気温は初夏に相当すると、午前のカーラジオは伝えていた。お出かけになる際はご注意ください。女の声が頭に残っている。駐車場はいつもより混んでいた。

 スーパーマーケットは住宅地から車で一〇分ほどの場所にある。そこは新しく開発されたごくごく小さな商業地だった。田畑をつぶして現れた背の低い大型スーパー。家電量販店。ドラッグストア。100円ショップ。そのだだっ広い駐車場。

 ラブホテルに向かう前に、必ずそのスーパーマーケットで飲み物と昼食を調達することにしていた。割安なのだ。

 清太は春の陽を頭に浴びながら、入り口に向かい駐車場を横切った。

 その時にある老夫婦とすれ違った。彼らは大型のビニール袋をいくつも抱えている。もし二人暮らしならば、到底それらすべては消費できないだろう。清太はそんな揶揄めいた瞳で彼らを盗み見た。しかし老夫婦はそんな外目を気にもせず、福寿の微笑みを互いに並べ、何か語り合っている。心嬉しいことがあるらしい。しかし清太の耳には、その物語の末梢でさえ、ラジオの混信のように何も掬い取ることができなかった。

 

 清太がラブホテル通いを始めたのは四月に入ってからのことだった。

 春の陽気の最中、世間では入学だの就職だの浮足立つところ、ふとひとりで部屋に居るのがいたたまれなくなった。

 さみしい。夜までただ妻の帰りを待つ生活はたださみしかった。そのさみしさは強く簡単な、肉体的な開放を求めた。

 しかし夜になって妻が帰っても、決して肉体的な触れ合いは行われなかった。

 妻を労い癒すための家事を進めるだけで、気が付けば就寝時間になる。そうなれば互いにそれ以上のことをする力も残っていない。

 かといって平日の昼間、自宅に見知らぬ女性を呼ぶのは、近所にも家の中にも具合が悪い。そこでラブホテルの休憩時間を利用して、女性を呼ぼうと思い至った。「おひとり様のラブホテルが快適」というネットの三文記事を見た影響でもある。

 だが、実際ホテルに一人で入ってみると、記事の通りか、その居心地の良さが春の誘惑に勝った。女性も誰も呼ばず、清太はただひとり、ホテルの一室で過ごすのである。窓のないラブホテルの部屋は、春の陽気も、世間も、家族さえも遮った。

 また、何かが起こりそうな期待感がホテルの部屋には強く漂っていた。考えるまでもなく、隣では何かが起こっているのである。それはどんな行為か。時間か。相手か。それを考えるだけで、実際に行為を行うよりも清太の好奇心は満足に達した。快感に至らないゆえの高揚が、一人の部屋にほどよく充満した。

 そうやって外界から一切遮断された空間で空想を楽しむ。それに清太は魅入られた。そしてその空想に抱かれながらいつしか眠りにつく。それは清太にとって安寧に他ならなかった。さらに、それから目が覚めた時の爽快感は格別だった。さみしさとはなんだ、欲求不満とはなんだ。これが本当の眠りなのだ。と、そう思うほどに、彼の心は、体は、活力を取り戻していた。

 かといってそれを毎日行うわけにもいかず、資金の限りもあるから、その遊戯を週に一回の楽しみとした。それがこの四月の下旬まで三度行われた。この日の四度目の遊戯は、少し慣れてきた清太にとって、一工夫の必要が案じられていた。実際三度目の遊戯は多少退屈を感じ始めていた。この日は次の段階に進む機会だった。

 

 スーパーマーケットの店内は食材を冷やす、特有の冷気に満たされていた。

 そしていつもより騒然としている。

 見慣れない黒の作業服が、幾人もうろうろしているのだ。

 一介の買い物客でしかない清太であるが、その光景を見受けると、何事だと、自分の有事のように落ち着かなかった。そして歩けば所々、商品棚の通路がバリケードで塞がれている。「作業中」との張り紙もぶら下がっている。そしてバリケードの中の作業員たちは、熱心に棚の商品を、床の青い箱へ移していた。

 清太の目には、彼らの商品への気遣いというものがまるで見えなかった。かえって外野の清太の方が、壊れるのではと心配してしまうほど、彼らは乱暴に商品を降ろしている。ガラス瓶がぶつかる、不穏な音が連続して店内に響いていた。

 隣の通路も、また隣の通路も。

 作業着の人々はスポーツ競技のように躍動していた。当然、手早く終わらせることに優位があるのだろう。

 こういう場合、店を休業にはしないのだろうかと清太は思った。ゆっくりやった方が間違いも起きにくいだろう。商品も傷つかない。なにより取りたい商品が取れない。清太は眉をしかめながら、店内を進んだ。

 幸い、総菜コーナーは作業の対象外らしかった。籠を腕にぶら下げ、冷麺とパックのオレンジジュースをいれた。そしてブドウのグミも追加した。

レジでは初老に見える、小さな女性が清算をしてくれた。

 この時清太はいつも「まさか目の前の客が今からラブホテルに向かおうなどとは思うまい」と、秘かに盗み笑いを浮かべるのだった。

 それが何の優位性を生み出すわけでもないことを、分からない清太ではないのだが、その秘かな、外見では他人に予想もつかない自分、というものが、清太には愉快だった。

「ねえ、お姉さん。僕は今から、どこに行くと思いますか」

つい、そんな質問をぶつけてみたくなる。清太はこらえるように唇を微笑みに結んだ。

「実はラブホテルなんですよ。こんな平日の昼間から」

その瞬間レジの女性がはっと顔を上げ、清太の顔を直視した。清太は女性と目が合ってから、自分がずっと女性を見つめていたことに気が付いた。女性は怪訝そうな顔を清太に向けている。少し口に隙間をつくり、しかし何も言わない。上下の前歯は唇に隠れている。それほど微かな口の隙間。その隙間はただ、真っ黒な暗闇だった。

 清太は少し色を失った。狼狽するように目を動かした。

 いったい、俺は、この人に何か口にしただろうか。

 自分がラブホテルに関して何か口に出してしまったような気がした。そして清太には、女性との間に弁解の必要があるように思えた。

 女性はひとつ険しい顔をしてふいと目を降ろすと、商品を清算籠に移し始めた。

「……失礼しました。実は僕、役者をやっていまして。小さな芝居小屋のしがない役者ですけれどね。儲からないですよ。そりゃ、いつも赤字です。でも少しでも腕を磨いて、お客さんには満足して帰ってほしいと常々心掛けているんです。

 よい演技のためには、まずセリフが完璧に頭に入っているのが大前提です。しかし演目は毎週のように変わりますからね。ひっきりなしに。そのたびに役作りが必要なんですが、これがまた大変なんです。毎度それまでの役を捨てて、新しい人格を頭に入れなければならない。大変ですよ。これは。先週は警察官、今週は夢遊病者。来週は哲学者で、その翌週には小学生になるんです。いや、これは実際大変です。頭の中に入れ替わり立ち代わり他人が踏み込んで来るようなもんですから。そして彼らは本来の僕の記憶を遠慮なしに動かすんです。棚の荷物を片付けるように。

 しかし僕は役者ですから、それを受け入れなければならない。それが仕事なんです。他人が頭の中に入って棚を荒らしても、さあどうぞ、と、それを許さなければいけない。

 だからちょっとした、こんな買い物中だって、セリフを常に唱えて覚えなくちゃいけないんです。セリフを間違えては、芝居が台無しになりますからね。ストーリーだって、その誤った一言で予期せぬ結末に転変してしまう可能性があります。つまり一度間違えれば修正不可能なんです。だから」

「……カード……ですか」

女性は清太の思考を遮ってつぶやいた。

「……はい? 何か」

「ポイントカードはお持ちですか。それとお箸は」

「……ああ、カードね。」

清太はポケットから財布を取り出し、その中を探って見せた。一度だけ使ったスタンプカードや、貯め込んだレシートなどが、ズボンの体温で張り付いている。それを恭しくピリリと剥がして念入りに探した。……何を?

「……ああ。そういえばカードは持っていないんですよ」

清太はふいと顔を上げてそう告げると、いかにも好人物のように笑ってみせた。

 

 清太はインテリアメーカーに勤めた会社員だった。照明部、商品開発課の在籍だった。

 六年ほど勤めていたが、半年前から強烈な眠気を感じるようになった。

加えて左右の二の腕が、筋肉へ麻酔を打たれたように力が入らなくなった。

 それで業務中はパソコンを触るのも億劫になって、自分のデスクで座りながらうつらうつらとうたた寝するか、昼飯や市場リサーチと理由を付けて、喫茶店で三時間も四時間も時間を潰した。喫茶店では寝るか、流れている昼間の陽気なテレビ番組を眺めて過ごした。

 無論商品会議などあろうものなら話にならない。周囲が熱心に商品コンセプトを練る間にも、こくりこくりと頭を上下させる始末だった。そこには表立って注意する上司はいなかった。しかし水面下での悪評は確実に蓄積されていった。

 与えられる仕事が徐々に減っていくと、また居心地も悪くなる。終業までの時間ばかりを持て余し、かといって仕事はないかと上司に尋ねる意欲もない。それでも危機感どころか、眠気ばかりが清太の時間の大半を占めていた。

 かといって、八時間いっぱい喫茶店で時間を潰したり、何の用事もないパソコンの前に座り続けたりするわけにもいかず、清太は一〇分ごとにトイレだとか、備品を補充するだとか言って席を立ち、トイレへと逃げ込む。そこで同僚に出くわそうものなら、便器に向かって出ない尿を出すそぶりや、入念に手を洗うなどしてやり過ごす。そして

「おつかれ」

と、さも忙しい最中、同僚をねぎらう社員のように声をかけ、彼らが出ていくのを見届ける。トイレに誰もいなくなると、鏡に現れる自分をただ見つめて過ごした。

 見つめて、何をするわけでもない。意識を向けるべき興味が他にないのだ。だから清太は自分の姿を見つめ続けた。自分ならば、見つめていたって文句を言わない。

 鏡の自分はまた、見つめる清太を静かに見つめ返した。親しみが込められた目線は、清太を唯一理解してくれる人間のように思えた。微笑むと彼も微笑む。ひょうきんな顔を作ると、また彼も自分を笑わせてくれる。

 そうやって、清太は鏡を前にやっとほっとするのだった。

 何かに虐げられているわけではない。ただ何となく何かが苦しい。鏡の中の自分は、そこに自分がいるのだと証明してくれる。また、それと同時に、彼はそれを理解したうえで、何も言わずそっとそばにいてくれた。

 そんな生活が数か月続き、あるとき会社に異動を打診された。開発課は人手が余るらしい。それで次の部署はと上司に尋ねると、業務円滑課だという。聞けばその課は清太ひとりで、業務は来客時、オフィスのドアの開け閉めや、備品の補充、植木の水やり、侵入害虫の駆除などだという。  

 馬鹿らしくなった。それですぐに辞表を提出した。

 

 清太には妻がいる。それからの生活は彼女ひとりに頼ることになった。体に力が入らないと訴えると、しばらく休んでと言ってくれた。その通りにした。幸い少しばかり貯金をしていた。退職金も少し出た。その金を、日々の弁当やラブホテル代に充てた。

「人生の節目なんだよ、きっと」

と、妻は言った。清太もその通りだとおもった。

 退職してから、清太にはふと、視界に隙間のようなものが度々見えるようになった。

 それは何の法則性もない。リビングでくつろいでいるとき。新聞に目を落としているとき。食器を洗っているとき。風呂上がりに体を拭いているとき。または、運転をしているとき、階段を上っているとき、商品棚をながめているとき。

 閉め忘れたドアのわずかな隙間のように、視界のごく端で、その時見ているはずの視界とは別に、光や色が細く映るときがある。

 そのたびに、清太はそのありかを探した。

 しかしその方に目を動かすと、その隙間はすっとどこかに消えてしまう。それがどこからかの由来かわからなくなる。

 それは例えば、何かの反射光のようだと思った。

 車が陽向を横切った時の咄嗟の輝き。

 鳥が空を裂いた瞬間に映る羽の色。

 黄金虫の離陸。

 格子柵から垣間見える奥景色が、角度の関係で色づく一瞬。

 しかしいくら目を凝らしても、自分の視界に入ったはずの隙間らしき色は見当たらない。

 錯覚か、何かの勘違いだと思い、それを誰か、例えば妻に言うようなことはしなかった。

 実際それぐらいに些細なことで、とりわけ言及したり調べたりする必要性は感じなかった。病的な危機感はそこにない。思い違いで、デジャブとか正夢のような、日常のひずみのようなものであると思われた。

 ただ、それがもし隙間であるなら、誰かがその隙間から覗いている可能性もある気がして、ならば清太の視線に気が付きさっとドアを閉めている気がして、それだけは少し不気味な心地だった。

 

 清太は車に戻り、ラブホテルへ向かった。

 県道を郊外の方に進み、脇道に分岐する細い道へ入る。そこに入れば車通りもほとんど消える。一変して両側が雑木林に囲まれる、避暑地のような場所を通る。ほどなくするとラブホテルが現れる。近辺ではこの一棟しかホテルはない。地中海の雰囲気を模した建物だ。車は木漏れ日を浴びながら、滑るようにして敷地へ入った。

 一階が駐車場で、外から見えない角度にロビーへの入口がある。

 ロビー内は冷房が効いて、清太の腕を冷やした。

 床は石敷、壁は洞窟の岩壁を模した漆喰。窓も他の客の姿もない。閉演間際の遊園地。そのアドベンチャーアトラクションに佇むようだった。ロビーの所々には大型の観葉植物が置かれている。遠くで水の落ちる音がする。加えて人工的な甘い香りがする。

 心持忍び足で奥に進んだ。すぐに大型のパネルが現れる。そこに使用可能な部屋の写真が並ぶ。三十ほど部屋数はあるが、使用中の部屋はぽつりぽつりと暗く表示されている。清太は手ごろな部屋を探した。部屋は一人で、少し寝るだけだから小さく安いものがいい。幸い一番安い部屋が空いていた。迷わずその脇のボタンを押し込んだ。

 ロビーを抜けると客室の、吹き抜けのフロアが広がった。中心に大きな噴水が置かれ、それを四方ぐるりと囲み、二階建ての客室が並ぶ。一見リゾート地のようだった。  

 一階は高値の大きな部屋が占めている。エレベーターは避け、フロア隅の階段を使い、二階へと回った。清太の部屋は階段を上がったすぐ横の部屋だった。

 重厚な扉を引くと、すぐ、妖艶な照明に浮く、大きなベッドが目に入った。 

 さて、と無闇に声を上げ、悠々と合成革の黒いソファに座り、冷麺とグミを食べ、オレンジジュースを一息に飲み切った。そしてそれらを乱暴にビニール袋に詰めてしまうと、ベッドへ倒れ込み、ゆっくりと目を閉じ、瞑想に入った。

 何も聞こえない。近隣で行われているはずの気配も感じない。静かな空間。……しかしやはり飽きがきているのか、集中力を欠いた。容易に遊戯の幻は、清太の元へやってこなかった。

 清太はすぐ目を開けると周囲を見渡した。ベッドの頭の壁に、蓮の花の絵が掛かっている。黒い背景に、薄ピンクと白が、細い花びらへグラデーションを織りなしている。暗闇の鏡へ強い光を当てたような意匠だった。

 清太は少し卑屈に笑った。肉体的な快感が、天竺の心地だとも言いたいのだろうか。それは所詮ラブホテルの絵画だった。高名な芸術家のものでも秀逸な作品でもあるまい。ましてや実物とも疑わしい。大方プリントした量販ものだろう。けれど、卑屈に思いながらも、清太には不思議とそれがひどく心に浸透するように思えた。そして量販物とはいえ、芸術品は幾らか清太に高尚な気持ちを与えた。

 また目を閉じ、高尚な心地が残るうちに、ゆっくりとした遊戯を味わおうと思った。しかしまた、なぜかいつものように幻想はうまく近づいてこない。

 近隣で行われている行為を強く思った。顔も分からない女性と自分を一心に重ねた。しかし空想の中での女性の体は、あぶくのように霧散して、形をとどめない。

 どうして集中できない。

 清太は目を閉じながら苦しそうに顔を歪めた。空想の部屋では形が形を成さなかった。それでいて、なぜかそこに妻の面影が動いた。それは決して艶めかしい幻想ではない。顔のない妻が、ちらちらと花に流れる水滴のように動く。そして妻はいつしか両親の面影へ変わった。両親は飼い猫に変わった。飼い猫は辞めた会社の社員たちに移り変わった。社員たちの背は幼いころの友人たちの姿を映した。幼い友人たちは清太の頭上の方へと駆けていった。

 清太は目を開けた。そして頭の上を見る。蓮の花が依然として清太を見下ろしていた。

「これのせいだ。これが気になって」

うまくいかないのだ。清太はそう直感すると、枕元のスイッチをひねり、部屋を真っ暗に消した。窓もない部屋は、一髪の明かりも許さなかった。

「これで誰からも、何も見えない。」

 清太はそう再び目を閉じる。

 すぐは、うまくいきそうだった。が、幻想中の今までにない、全身の力が抜け、重くなっていく感覚を覚えた。一方で脳は徐々に明瞭だった。

 ジジジ。と、こめかみの上で音がした。昔の古い四角いテレビを点けたような、不鮮明なラジオを合わせるような、微細な空気の振動を感じた。その振動が耳の奥に届いて器官を揺らした。ベッドがいくらか沈む気がした。ベッドの足元では、何か空気が動いたような気配がする。明瞭な意識の中で、清太はそれが気のせいだと知っていた。一人の密室で誰かが動くわけがない。ドアが開かれた音も聞こえなかった。ましてや誰かが入る道理などない。それが錯覚だと清太は分かっていた。デジャブや正夢のような日常のひずみだと知っていた。

 そこが夜の砂浜、波打ち際であるかのように、不安の波が清太の体に打ち寄せ始めた。

 波は清太の体に手を伸ばし、引き波に清太をどこかへ連れて行こうとしていた。

 嫌な気がした。生きていたくないという望みが内に沸いた。

 波の中に立つ足のように、清太の横になる体は濡れた砂に沈んでいった。

 清太は察した。誰かが上に乗っている。

 体の重みも、砂に沈む体も、誰かが自分に乗っているからだ。

 清太はそっと目だけを開けた。しかし自分の上には誰も乗っていない。暗室があるばかりである。

 それを確認すると、また目を閉じた。

 重みがよみがえる。やはり誰が乗っている。それはきっと真っ黒な影だった。

 その影が、まるでピザ職人が生地を伸ばすように、清太の上で前後に躍動している。

 清太はピザ生地だった。上からの圧力に、次第に薄く長く引き伸ばされている。

 清太は抵抗できなかった。ただ力なく、なすが儘に引き延ばされた。

 それが不思議と楽だった。このまま終わりまで付き合うと、どこかに飛んでいくような気がした。自分が自分でないところに到達する。その心地よさ。

 時間は遠のいていった。同時に苦しさや不安も和らいでいく。

 そうか、と清太は思った。

 自分が消えれば苦しみも消えるのは当然だった。

 もう少しだと思った。もう少しで喪失することができる。

 清太の上に追いかぶさる職人も、正念場だろうか、懸命に動きを増していた。

 もう少し、もう少し。

 清太の意識は次第に体と離れ揺れ、圧力に反転して上昇するようだった。

 ああ、これが、これが。

 と、清太の意識が薄く細く、糸ほどに研がれる間際、職人は突如唸りを上げて静止した。かと思えば力なく清太の上に倒れ込み、やがて重みは消えてしまった。

 清太ははっと目を開けた。そこには暗闇が広がるばかり。しかし体はずいぶん軽い心地。

 心は清涼になった。体は活力に満ちていた。

 清太は体を起こし、手探りで照明のスイッチを探し当てた。

 明るくなった部屋にはやはり清太一人だけだった。

 口の端で何かが疼いた。

 唾液が口から垂れている。それが落下にきらりと光った。清太は顔を枕に押し当て、それをぬぐった。

 頭上では、蓮の花が毫光のように散開していた。  了

満開

 

 この日、四月一日は入社式で、美桜はその会場へと向かっていた。

東大路通りを北へ歩く。そして度々、苦々しい瞳を青空へ向けた。もたないと思っていた桜は、ちょうどこの時に絶頂を迎えていた。

美桜が桜を疎ましく思うのは、群衆を思うのに近かった。断りもなく頭上に咲き乱れるやかましさ。それは花見客の高揚した喧騒によく似合うものだった。

 東山五条の交差点では花見客が団子になり信号を待っていた。信号を渡り五条坂の方に折れ、道なりに進めば清水寺に続くらしい。群衆の浮き立つ背に幾分苛立ちを覚えながら、美桜もその後ろへと静かに足を揃えた。

 金曜日であるから今日をしのげば土日とふつか休み。気楽だと自分に言い聞かせるも、気休めは苛立ちになんの効力ももたらさない。

 これから会社でうまくやれるか。先輩には気に入られるか。友人はできるか。

 そんな不安がある。

 遅刻はしないか。会場にはたどり着けるか。日時を勘違いしていないか。

 加えて、いろいろな不安が次々と生まれる。

 そしてそれらの不安へ旗を振って扇動するのが春だった。新生活、というだけの漠然とした生命力が花のように開いて、不安を空に浮かせたまま落とさない。春の乾いた日和が喉を絞めた。

 目の前で談笑する信号待ちの花見客は、みな鮮やかなシャツを春風に膨らませていた。

 彼らを歓迎するように、交差点を渡ったすぐそば、大谷本廟の門桜が花を空に広げている。

 やがて信号は青になった。

 花見客たちは五条坂へ右手に折れる。美桜はひとりだけまっすぐ進んだ。すると花見客も桜も見えなくなって、そこでふうと一つ息を吐いた。

 

 指定された入社式の会場は、ビルの貸し会議室を使っていた。

 エレベーターで上階に上がると、すぐ目の前に、大部屋へ長机がぎっしりと並んでいるのが目に入った。定刻の三〇分前だった。すでに受付は開かれているようで、部屋の入口前に作られた簡易の受付には、社員だろう、髪の明るい女性が一組の長机に腰かけている。そして隣に座る男性と親し気に話しているところだった。そのキャラメルのような髪が、紺のスーツに鮮やかに映え揺れている。

 しかし美桜の姿が見えても、二人はなお話を切り上げそうにない。で、ひとつふたつやり取りを終えたうえ、そこでやっと二人は作為的に座りなおし、美桜の顔を一瞥した。女性はふっと微笑みを浮かべる。美桜は聞かれる前から名前を名乗った。

 女性は髪を耳に掛けながら、受付表の上にペン先さ迷わせ、やがて落とした。そしてさっと、美桜の名前を切るように線を引いた。その所作ひとつがずいぶん手早く、小慣れている。ただそれだけの動作だが、それがいかにも業務的で、美桜は社会に出たのだと妙な感銘を抱いた。

 女性は席に着いて待つよう促した。美桜はひな鳥のように幾度か頷き、席へと向かった。

 席は指定されていて、名前の書かれたA4の封筒が几帳面に机へ並べられている。美桜の席は後ろの方だった。自分より先に来ているのは数えるほど。おとなしく座っていると、次第に前の席もぽつりぽつりと埋まり始めた。

 美桜はその間どのように知り合いを作るか、想像により準備をした。初日にどれだけ知り合いを作るか。その重要さはこれまでの学生生活でいたく身に染みている。ひどいと半年は孤独な状況が続くものだ。それはまるで椅子取りゲームのようなもの。友人の数は限られているのだ。

 美桜はキョロキョロと瞳を動かした。まだ定刻まで時間はあるだろうから、周囲に座った者に声をかけてみようか。話題は何が適切だろう。それとも私語は厳禁だろうか。軽薄な行動は評価などに影響するのだろうか。

 しかし生憎、美桜の周囲に座ったものは男性ばかりだった。皆緊張している面持ちで、美桜とは目も合わせず、不機嫌そうに無言で席についた。

 ふと前に目を遣ると、運よく隣り合った女性同士が肩を寄せ、小声で何かやり取りをしているのが目に付いた。美桜は途端に焦りを感じた。自分もそうするべきだろうか。あそこまでいって話しかけてみようか。美桜のパンプスの底が、ひとつ外側へ床をこすった。そして美桜は落ち着かない様子で左右に目を凝らした。両脇の男性は無言を貫き、膝の上に静かに両手を並べている。美桜は唾液をひとつ飲むと、ゆっくりと膝を戻した。指定された席に居ろとの指示だ。無闇に立ち歩く勇気はない。

 美桜のこうべは徐々に下がった。やがて目に入るものは封筒に張られた印刷の名前だけだった。

「山崎美桜」二十二年付き合い、見知った名前だ。それは自分の名に違いない。それを眺め続けた。きっと美しい名前だった。その名を見た者はおそらく白く淡いピンクを思い浮かべるだろう。そして現れた現物と名前とを交互に見て少し笑うにちがいない。あの受付の女性だってそうだろう。きっと笑っただろう。

 美桜は机に置かれた自分の手の甲を見た。それは陸上選手のように黒い。また体毛も濃い。指の毛穴も目立つが、手首などは、シャツの袖から切れ切れに細毛が見えている。

 美桜はさらに机の下、スカートに隠れた太ももを見下ろした。生地は風船のように膨らんでいる。短く太い。体型や背の低さは母親譲りだが、その体に乗っかる頭の骨格は父のものだ。彫りが深くごつごつとしている。そこに太筆で引いたような眉が入る。力強い顔つき。美桜のうつむいた頭の両脇に、前髪がカーテンのように垂れていた。前髪で眉と輪郭が消えるように隠している。ごつごつとして、日陰に隠れるもの。それは桜だとしても、どちらかといえば幹の瘤だ。

 微かなさざめきに顔を上げた。幾分そうしていたのか、気が付けば会場はすっかりとリクルートスーツで埋まっていた。その様子を後ろから見渡せば、スーツの肩や黒髪の後頭部が密接に並び、黒土の地面のようにも見える。平坦に続く一面一色の地面。

 そこに受付をしていたあの女性がさっそうと現れた。そして青空が映る窓の前に立つと、艶のある声をマイクに響かせあいさつを述べた。スーツスカートから伸びた足は細く長く美しい。黒ばかりの景色でその白さが光るようだった。それがしっかりと床に刺さって伸びている。

 美桜はそれから入社式の間中、ぼうっとその白い足、薄ピンクの膝頭ばかりを目で追っていた。

 入社式は説明会を含め、昼までには終わった。結局誰にも声を掛けず、掛けられず、逃げるようにして会場を去った。幾組かの新しい交友は、昼飯を食いに行こう、などの声も聞こえた。花見をしよう、という大きな声も聞こえた。

 電車を乗り継ぎ、最寄り駅から自宅までの帰り道にも、桜の並木がある。閉校した小学校の桜だ。校庭を囲むようにして二十三十と樹木が続く。午後の桜。乾燥した風。やはりそこも満開であった。

 桜の樹の下には死体が埋まっている。美桜はそんな言葉を茫然と思い出していた。それはやはり目の前の桜の美しさが疑わしいからだった。なんの代価もなくあの善美を生むことはできない。できるはずがない。善美の影には何か汚らしいものが隠れているのが理だろう。合格者の影に落伍者がいるように。人気者の影に嫌われ者がいるように。富者の影に債務者がいるように。

 美桜は午後の日差しに頭頂部の熱を感じた。

 ならばあの女性社員の足下にも、きっと死体が埋まっているに違いなかった。それは幾体かの、男や女の死体だった。美桜は自然と、あの女性自身も、いつか裸体となり桜の木の根に絡まる様子を思い浮かべた。そしてしわがれ朽ちていく。

 花は醜悪の上に咲く。ならば美桜にも、自分の憂鬱の上にもそうだった。

 花見客が喜ぶのもそうだろう。花は日常の様々な醜悪を吸い昇華する。それは新生活の始まりに違いない。しかし足元の栄養は必ずしも彼ら自身の醜悪とは限らない。花は勝手に、美桜の醜悪を吸って咲く。それを知らない客が見る、花やぐ。

 美桜の瞳はいつしか潤んでいた。それでも彼女の頭上には、桜がなおも隆々と花を広げ、薄紅の瘴気を放ち続けていた。

 

 土日は彼女なりの遊惰をむさぼり、暴食した菓子が週明けの朝になってもまだ胃に残るようだった。ひたすら録りためたアニメや映画、動画は幾らか彼女をいやしたが、それもほんのひと時のことだった。

 すっきりしたかった。気持ちよくなりたかった。キラキラしたかった。が、的確な方法は思い浮かばない。春物の服を買いに行こうかとも思い立った。しかししばらくはリクルートスーツの生活。給与も一か月先である。新しい服を着る予定もない。そして美桜はベッドに横たわり、自分とは関わりのない世界の映像を眺め続けた。そうしてすぐに土日は終わった。画面を閉じて残ったのは日曜日の夕闇と、誰も気にしない美桜の体だけだった。

 月曜となる。美桜は出勤に重たい足を最寄り駅に向け歩いた。心は憂鬱なまま、週末となんら変わりはない。むしろこれからの週を思えばなおさら憂鬱だ。その憂鬱とは反するように、この日も晴天が続くらしい。幾分ましなのは、朝の微かな冷気がまだ周囲に漂うことだった。

 と、いつも通る住宅街のある家の前に、中年の女性が居るのが見えた。女性は自転車を表に出して、タイヤに空気を入れているらしい。玄関は開けられていて、おそらく中に息子がいるのだろう、子供の声が奥から聞こえた。

 普段、朝などは誰にも出会わない閑静な道だが、その時は母親の声が辺りに響いていた。明瞭には聞き取れないが、自転車の世話ぐらいできるようになれと息子に叱咤しているらしい。母親は固太りした体を丸めながら、熱心に体全体を使って、空気入れのポンプを動かしている。髪は寝起きのまま触っていないのだろう。茶色くそばだって膨れあがり、熊か大型の狸のように見える。薄紅のエプロンを付けたまま、薄緑と白のチェックのシャツを着ている。黒ぶちの大きな眼鏡がずり下がることも気にせず、息子の返答に大きな笑い声をあげていた。

 美桜は少し気まずくなった。その母親を見知っているわけではないが、近所の住人だから、自分のことを知っていてもおかしくない。けれど、知らないかもしれない。おはようございます、ぐらいの挨拶は自然かもしれないが、知らない他人から声を掛けられるのを不審に思うかもしれない。ましてやそんな起き抜けの格好を、他人に見られ不快に思われるかもしれない。

 美桜は一寸引き返そうとも思った。しかし相手が十分見える位置で引き返すのもずいぶん不自然で、それはそれでかえって不審に思うかもしれない。

 美桜はそんなことをふつふつと思いながら、足を止めることもできずにゆるゆると道を下った。と、美桜の足音に気が付いたのか、母親がふっと空気入れから顔を上げた。美桜はとっさに下を向く。瞬時に出た選択は気が付かないふりだった。そのままやり過ごそうと思った。お互いに気が付かないと分かれば、なんの問題も憂慮も起こらない。美桜は下を向きつつ足の歩みを速めた。そして自転車の後輪が目の端に映った時、美桜の耳に唐突な声が入った。

「いってらっしゃい」

美桜はその声に、遠慮がちに顔を向けた。母親は背を伸ばし、まっすぐに美桜を見ている。頬の肉が左右に推しあがるほど、口角を上げていた。美桜は咄嗟に歩みを緩めていた。玄関を見遣っても誰もいない。その挨拶は自分に向けられたのだと気が付いた。が、こんな時なんといえばよいのか準備がなかった。他人の母である。通常ならおはようございますだろう。美桜は目を丸くしたまま、微かに口を開いた。声は出ない。

「いってらっしゃい」

母親は再び言った。今度はまっすぐ、美桜と目が合ったまま。

「……いってきます」

美桜の返事は反射だった。考えた末の言葉ではない。そしてその返事が母親へ通ったかは分からないほど、小さな声が出た。しかし母親はもう一度、強く微笑み頷いた。

 美桜は幾分酔いに近い上気を感じたまま、道を進んだ。自転車が見えなくなった後ろにも、未だに息子と何か遣り合う、母親の大きな声が辺りに響いていた。

 美桜は駅に向かい歩いた。その間ずっと、上気する頭を朝の冷気がさすっていた。

道すがら、小学校の桜並木の下を通る。美桜はそれを見上げた。桜は満開の花を付けたままだが、花弁が朝風にふるい落とされ、美桜の頭や肩に優しく降り注いでいた。

 この時ばかりは、疎ましい気持ちなど起こりもしなかった。 了

来世

 

 植物写真家・黒部の自宅庭は、それだけに多様な植物で溢れていた。目隠しのキンモクセイやツゲに広い庭を囲ませ、ユズリハモクレンサルスベリなどの高木、ボタン、ツツジマンリョウの低木、オリーブ、ギンバイカなどの鉢植え、ローズマリー、西洋イチゴ、スイセンプランターが隙間なく並ぶ。また、幾つかの大型の水鉢には、ウキクサの中にスイレンカキツバタなども季節に咲いた。一方で、やはり芸術家の故郷としての臭味も漂うようで、庭は和や洋の趣が雑多に混在しながらも、それでいて不思議な調和を保っていた。

 黒部の自宅を訪れるのは、佐々木にとって珍しいことではない。普段の写真原稿のやり取りはオンラインを活用するが、時節ごとに直接赴き、顔を合わすのも、編集者にとっては、原稿をつなぐ重要な仕事だった。しかしその時の黒部は、いつもの若年からくる生意気さや快活な様子は見えず、いやに静かな顔つきだった。

「いや、お久しぶりです。どうですか、作品の方は」

と、毎度のように庭の見える座敷に通された佐々木は、窓際の籐椅子に浅く座ると、当たり障りのない挨拶を投げかけた。しかし黒部は、苦いものを嚙むような顔で、いまいちすっきりとしない。

「最近はね、まあ一応」

と、なんとでも捉えられる言葉を返すだけだった。

「……おかげさまで先月号も順調でして。先生の出された『羊歯の森』、あの作品も、方々から好評をいただいていますよ。読者の便りもいくつか届いておりまして、ほら、」

と、佐々木は鞄から葉書の束を取り出し、黒部の前へ差し出した。しかし黒部は籐椅子に足を組み、ちらとその束を見ただけで、ふいと、興味なさげに目を反らすと、ぼんやりと庭の方へ目を遣った。佐々木は行く宛てのなくなった手紙の束を、そっと籐のガラス机へ置くと、黒部の後を追随し、春霞の灰に降られたような、薄緑に沈む庭を眺めた。

 春も進めば、鬱蒼と霞がかった庭も、楽園のように華やぐだろう。それだけに、今の眠たげな霞の季節は梅の花、それがより一層麗らかに花をつけ、冴えて見える。

 黒部の庭には、サクラと対をなすよう、中央付近に梅が置かれている。色づく時期が順に訪れる二株の樹は、季節の移り変わりを刻、刻と伝える緩やかな時報のようで、佐々木は春に黒部を訪れるたび、その趣に作家とその庭の感性を共にほめるのだった。

 と、今年もそのおべんちゃらをたくらみ、庭をついと見渡した。しかし、梅の木が見当たらない。一年に一度のことだから、見間違いだろうかと、再度首を伸ばして庭を見た。しかしやはり梅の木はない。

「あれ、梅は」

と、佐々木は何も考えないうちから声に出した。同時に黒部の顔を見る。

「まったく、参りますよ、佐々木さんには」

黒部は庭から顔を戻すと、実際参るらしく、増して苦々しい顔を見せて応えた。

 佐々木は疼いた。何かある、と、記者上がりの嗅覚が耳元で囁いた。

 踏み込んで聞けば、面白い話が聞けるかもしれない。それがすぐに佐々木の仕事で使えるものではなくとも、黒部ほどの注目される若手作家のことなら、後々使いようも出てくるだろう。また、そんな黒部との関係を続ける上で、ある程度踏み込むのは、利はあっても損はない。しかし黒部は参るという。実際参った話なのだろう。図々しく粘着して倦厭されては、それでは損だ。

 佐々木は逡巡しているうちにも、黒部へ勝馬を眺めるような笑みを向けていた。黒部のその参りますという言動から、自分への一握のへつらいや信用を、感じられなくはなかったのだ。

「へえ、参ったですか。それは、どうも……?」

そんな佐々木に、黒部は含み笑いを噛むようにして、すっと右手を差し出して見せた。

「あれ、どうしました」

佐々木は大仰に声を上げた。黒部の右手全体を覆うように、包帯がなされているのだ。

「怪我ですか。そりゃ。あれ。」

「ええ。どうしたものか、やってしまいましたよ」

まるで母親のように顔を歪める佐々木に対し、黒部は包帯を撫でながら、どこかさわやかに笑うのだった。

「なら作品は、カメラはどうなんです」

「いや、参りました」

首を振る黒部に、佐々木はしがみ付かないばかり、机へ手をついていた。

「しかしまあ、休暇のいい機会かと思って」

と、のんきそうに続ける若輩を前に、佐々木は腕を組み、籐椅子の背にもたれ、天上を仰ぎつつため息をついて見せた。叱ってみるのもまた、ひとつの編集者の仕事だった。が、それ以上に込められたのは、見通せつつある仕事を邪魔された率直な不機嫌だった。

「いけない。そりゃ駄目だよ黒部さん。写真家がそんなことあっちゃあ。商売道具なんだから。え、次の依頼はどうするんです、え」

業界を臭わせるそんな言い分も、黒部は対して堪えない様子で、なおも大事そうに右手を撫で、含み笑いを浮かべる次第だった。

「一体何をして、怪我なんかしてんですか。」

佐々木は焦れた。が、押して引くという技術も忘れていない。一転して優し気に問うのだった。

「切ってしまいまして。」

「梅の木を。」

黒部は含みを持たせながら、ゆっくりと、そう二言告げ、また怪しげに微笑むのだった。佐々木はその声が、どこか不思議に、背後から聞こえたようで、そっと片耳を抑えるのだった。

 疑問はいくつかあった。なぜ梅の木を切らなければいけなかったのか。なぜ自分で切ったのか。なぜ梅の木なのか。そして植物を専門とする黒部が、食い扶持であろう樹を切ることがあっていいのだろうか。

「切った、ですか。」

落胆ともとれる怪訝な表情を浮かべ、佐々木は首を傾げた。

「ええ、切ってやったんです」

話を促すつもりだったが、どうも黒部は要領を得ない。

「なぜ、切ったんですか。邪魔でしたかね」

焦れた佐々木は端的に切り出した。創作に対する、黒部なりの不満や葛藤の発露だろうか。そうならば、編集者たる自分がケアしなければいけない。しかし次に黒部が口にしたのは、

「親父をね、切り離してやったんだ」

という、不可解な言葉だった。

 

 黒部の父親といえば、確かこの年明けに三回忌を迎えたところであった。

 父親の通夜の時分、それはちょうど佐々木が黒部に目をかけ始めたぐらいで、その時の黒部は葬儀の席でも暗い影一つ見せず、むしろかえって平生よりも快活な様子だった。佐々木はそこにある種、妖力の片鱗を見出し、それが正解だったのか、結果、彼は現在の名声を手に入れている。臨終の間際でそうだったのだから、月日が流れた今、冷淡と思えた黒部の口から父親と聞こえたのは、佐々木にとってはいささか騙し討ちで、加えて追い出したと続けるのだから、その勿怪顔はなおさらである。

「お父様を、切り離した?」

佐々木はもはや、策略を打つ間もなく問い返した。

「ええ、そう言いました」

黒部は涼し気な顔をしている。自分がいかに妙なことを口にしているのか、それが分からない黒部ではない。しかしそうやって焦らすのは、黒部の妖の部分なのか。遊びに付き合うほど、佐々木もお人好しではない。

「……佐々木さんは、幽霊を信じる口でしたっけ」

佐々木が席を立つ口実を巡らしていると、ふいに黒部のほうから尋ねた。

「ははは、お父様がいらっしゃいましたか」

「いや実に、そうでして」

佐々木は呆気を越して心配になった。

「あの梅が、つぼみを付け始めた頃です」

黒部は佐々木に意を介さず話を続けた。佐々木はその話を、いつか原稿にできるだろうかと、メモ書き程度に残したのだった。

 

 あれは庭の梅がつぼみを付け始めた頃でした。僕は夜型の人間でしてね、その日も資料整理や次の取材の旅程を練っていました。確か、二時か三時のことだったと思います。いつもなら朝方まで書斎に籠りっぱなしなのですが、その日は妙な気配を感じましてね。もちろん独身ですから、この家も両親に先立たれ仕方なく引き受けただけ、他に誰もいるはずはありません。それに暖かくなり始めましたから、悪鬼を起こす者も増えるとも聞きました。気のせいだと思いながらも、気になり出すと止まらないのも、また僕ですからね。一応、家の中を見て回ることにしたんです。

 それはまあ杞憂でした。家の中には当然、風呂場も押入れも、誰も居はしませんでした。ほっと安心し、僕はコーヒーを淹れながら、気が付いたんです。庭を見ていないと。それで座敷までいって、襖をあけて庭を睨みました。するとそこに、いたんです。ちょうど、梅の木のそばに。やはり泥棒だと身構えましたが、どうも様子が違いました。泥棒なら、僕に見つかると分かれば、逃げるなり、襲うなり、何か動きがあってもいいはずです。しかしその人影は、身動き一つしませんでした。その上、全裸なのです。裸です。ぞっとしましたよ。泥棒よりなおさら怖い。全裸の者が、夜、ひとの庭に居るんですから。

 僕は威嚇の効果も期待して、座敷の電灯を点け、さらに手元の懐中電灯でそれを照らしてやりました。しかし驚いたことに、照らしたと思った瞬間、さっと人影は消えてしまったんです。逃げたと思い、周囲を照らしましたが、どこにも姿は見えませんでした。御覧の通り広い庭ですから、人の足ではそんなに素早く逃げることもできないでしょう。その時かろうじて見えたのは、その裸が男であるということだけで、あとは何もわかりませんでした。

 一人でひどく心細い気持ちでしたが、かといっていい大人が、心細いと言って騒ぐのもどうかと思い、僕はそれからもう寝ようと寝床に潜り込んだのです。朝がひどく待ち遠しい時間でしたね。

 で、布団でちょっと考えたんです。まあ、誰だってそんなことがあれば考えずにはいられないでしょう。あの瞬間、ライトに映った男の陰部、あれは、どうも親父のものに思えたんです。僕が子供の頃、一緒に風呂に入って眺めた、あの父親のもの。思い返すほどに、不思議とあれは父親だと僕は確信してしまったんです。

 それで、なぜ死んだ父親が、と、当然考えましてね。ご存じの通り、親父は死んでいますから、まずは幽霊だと思いました。でも馬鹿馬鹿しい。写真家が幽霊、見えないものを見たとすると、なんだが皮肉めいていますしね。でもまた一方で、写らないようなものを写すのも、僕らの仕事なんです。だから僕は布団の中で考えました。僕は何を見たんだろうって。

 朝方になってはっきりと分かった。あれは父親そのものに違いない。父親の、一部に違いないと。……佐々木さんは物質不滅の法則ってご存じですかね。ええ、質量保存則とも言います。元素は結合と分裂を繰り返しますが、消えはしない。つまり、死に焼かれた父の体や脳も、水素や炭素、酸素の元素に分裂し、細かくなって空中に飛散したのではないでしょうか。

 自我たる意識や記憶が脳を構成する神経や細胞に宿るなら、それらを構成する元素に宿っていても不思議ではない。元素は空中に流れ出ると、海に流れたり、土の中に降りたり、あちこちに行くでしょう。その数は膨大です。火葬場は最寄りの場所を使いましたから、この地域一面に親父であったものが広がったに違いありません。それはこの庭にだって例外ではないはずです。

 そのごく一部、一粒かもしれませんが、親父であった元素が、あの梅の木に入った。雨や地下水からか、それとも呼吸からか、ともかく親父は梅の木に入りました。

 しかしこれは特段珍しいことではないように思います。佐々木さんだって、ふと思いがけず遠い親戚を思ったり、旧友が夢に出てきたりすることはあるでしょう。僕らももちろん代謝し、体から水素や炭素などを吐き出している。遠い旧友の吐き出した数多の元素が、巡り巡ってほんの一粒、僕らの口に届くことがあってもおかしくはないと思うんです。そうやって有象無象の元素を僕らは取り込み、僕らの記憶と彼らの記憶が結びついたとき、それが肖像として僕らの脳裏に浮かぶ。しかし親父は僕の枕元には立たず、梅の木に現れた。それは、親父が梅の木に宿ったと考えていいかと思います。梅の木の記憶を通して、僕と父親が結びつき、肖像として現れた。

 御存知の通り梅の木も代謝しますが、活発なのは皮の周辺だけで、樹木は心材といって、樹の中心は死んだ細胞で固まっています。もし親父の粒が心材に取り込まれて居座るのなら、そして毎晩のように庭に出るのなら、これほど僕を苛立たせることはないでしょう。それが例えば、一年草多年草ならまだ我慢したかもしれません。が、梅の庭木は百年以上生きる。そりゃ第二の人生だ。つまり、親父の来世は梅の木になったんです。それが親父にとって不本意かどうかはわかりませんが、僕はいつまでも親父に監視されるのは御免です。

 ですから、あの梅の木は次の日に切ってしまいました。植えることはあっても切ることは珍しいですからね。慣れない作業に、この通り、自分の手まで切ってしまった。

親父の怒り? あはは、それはいかにも超自然的な思想ですね。元素にそんな力はないでしょうから。

 それからは、もちろん焼きましたよ。でなければ切った意味がありませんからね。これで親父であった元素はまた、空中に飛んでいったわけです。それからどこへ行ったのか。もしまた庭に戻ってきたのなら、やはり切って燃やしてやりますよ。

 自分が死んだらどんな来世を迎えたいか? 不毛なことを聞きますね。死ねば無限の僕が、無限の時間、気が狂うまで世界を漂うんだ。そうやって自失し、やがて意思の持たない単細胞に成り代わる。行きつくところは誰しも発狂です。それは地獄とでも天国とでも言える心地でしょうね。

 あれ、ひどい顔をされていますよ。その顔、一枚撮って差し上げましょうか。(了)

井守

 

 がらーん、がらーん。と、手持ち鐘の音が近づいてきた。

 ちりりん、ちりりん。と、風鈴の音も聞こえる。

くろーやき、くろおーやき。そこに力のない男の声が続いた。

 亜里砂は猫のようにクッションから飛び跳ねると、音もなく、ドアの覗き窓に目を入れた。

「こっちにきた。……早く帰れよ」

声には出さずつぶやいた。鐘や風鈴、そして男の声は、確かに亜里砂の部屋の方へ向かってきている。

 古いマンションのためか、覗き窓は魚眼レンズになっていない。視界はほんの周囲で、コンクリートの外廊下と、冬の晴天の空が広がるばかりだった。

 と、その狭い視界にふと影が差した。

 訝しい。白髪の小男が、紺の半纏にスーツといういで立ちで、荷車を引き、ドアの前を通過していく。

 小男が引く荷車には、風鈴のほかに「薬」「テトロドトキシン」と書かれた釣り旗がそれぞれ下がり、男の歩みか風かに合わせてゆらゆらと揺れている。荷車に積まれているのは大きな水槽で、中では黒や赤の色が点描のように乱れている。そこにはイモリが何十何百と詰められて、水の中でうじゃうじゃしているのだ。

男はやがて過ぎていった。

 亜里砂はのぞき窓から小男が去ったことを見届けるとふっと息を吐き、洗面台へ行き、鏡に自分の姿を映した。

 乱れたショートボブを手櫛で抑えた。赤に染めた髪は、先ほどの水槽に動くオレンジじみた色ではなく、紅や青の混じる深い赤であることを改めて確認した。携帯カイロを寝巻のポケットから取り出すと、それでまつ毛カーラーを挟んで暖め始めた。その間、ぼんやりと、鏡に映る自分の姿を眺めた。

 先ほどの男は薬売りと名乗り、ここしばらくマンションを徘徊している。オートロックマンションではないから、勝手に入ってくることができる。管理会社にも、未だ誰も連絡していないようだ。

 亜里砂は以前に一度その薬売りと遭遇した。自分の部屋を出たところで鉢合わせた。

 薬売りは亜里砂と目が合うと、白髪と皺の深い日焼けた顔で微笑み、時間はあるかと尋ねてきた。出かけるからと断ればよいものを、亜里砂は咄嗟に、素直にあると答えてしまった。

「要は富山の置き薬です。ご存じですか」

と、薬売りは聞いてきた。

 富山がどうかはわからないが、つまりは置き薬のセールスだと察した。置き薬なら実家でもやっていた。わかります、とだけ答えると、

「じゃあひとつ、おいて行ってください、後生ですから」

と、のっけから頼みこまれた。なんの薬かも、値段も言わない、強引なセールスだった。

 薬売りは体をひねると、自分の背に隠していた荷車の水槽から、ひとつかみ、数匹のイモリを出して見せた。

「今でしたら、水槽も無料でお付けいたしますが」

男の手の中で数匹のイモリが体をくねらせて悶えている。その中の一匹が指の間からすり抜けて、外廊下の床に落ちた。男はそれを慣れたように拾い上げながら、

疲労回復、精力増強。……ほかには惚れ薬なんて効果もありますがね。へへ」

と笑いをこぼし、その一匹を水槽に投げ入れた。

「置き薬ですから、最初の代金はいただきません。数か月に一度、ご訪問させていただきまして、使った分だけお代金をいただきます。」

と、薬売りは朗色を浮かべた。対して亜里砂は、

「それが、薬、なんですか」

と、心持ち体を引きながら尋ねた。

「ええ、じっくり黒焼きにして、召し上がっていただければ。それまでは水槽で飼育していただければ、観賞用にもなりますし、日持ちもします。十五年は生きますからね。ああ、しかし、間違っても生食はご遠慮ください。」

そう言って薬売りは朗笑し、続けて、「テトロドトキシン」の釣り旗を指でつまんで見せ、まっすぐ亜里砂に笑いかけた。

「微量ですがね。触った手で体の粘液に触れるようなこともご遠慮いただきたい。しかし良薬口に苦しとも言いますが。医療の場では活用の研究もなされておりまして……」

と、薬売りは脇に抱えた黒鞄から、チラシか説明書きの類を漁り始めた。

 その間にも薬売りの片手には、数匹のイモリが握られていたが、その時には体を反らし、腹の色を見せたまま、ぐったりと頭を垂らすだけであった。

「すみません、急ぎますので」

と、亜里砂は寒気を感じ、咄嗟に口から出た言葉のまま、その場から足早に抜け出した。

「そうですか、それはすみませんでした」

と、薬売りは尚も朗笑を上げ、またお願いします、と続ける声を聞かないよう、亜里砂は荷車の水槽の脇を通り、外階段へと逃げ去った。薬売りが水槽へイモリを投げ戻したのだろうか、後ろ背にばしゃりと水音が聞こえた。

 

 亜里砂は手早く化粧を済ませてしまうと、リビングに戻り、ベッドへ向け声を上げた。

「お前もいつまでいるんだよ! 早く帰れよ!」

 掛け布団が盛り上がったかと思うと、ついと男が顔を出した。行きずりの男だ。男は目を瞬きながら、自分のスマートフォンを見、起き上がり、ズボンを探した。

「ちんたらすんなよ、このダボが」

亜里砂は叫びながら男の背を蹴った。しかし男は反抗する様子もなく、うるさそうな顔を亜里砂に向けると、ジャケットを羽織り、

「じゃあ、また……」

と力ない笑みを浮かべながら手を挙げかけたところで、再度背を蹴られ、微笑みながらも靴を履いて出ていった。

 亜里砂は男が出ていくドアの隙間から、あの薬売りが戻ってきはしないだろうかと聞き耳を立てたが、その心配はないようだった。

 男が去っていくのを監視するように見届けると、亜里砂は素早く自分のスマートフォンを開いた。メッセージが届いている。

「では、十三時に京都駅で」

マッチングアプリは便利な代物だった。特に亜里砂のようなデートで生活費を稼ぐ者にとっては、客の選定や交渉に頭を使わないで済む。自己紹介欄で、デート目的であることと金額を示しておけば、自然と自分に合う需要を集めることができる。見知らぬ人と出会うのは心配も尽きないが、人目のある場所をデートに選べば、滅多なことはしてこない。いざとなれば走って逃げる。体力には自信があった。

 亜里砂は今のところ、動画サイトへのダンス投稿を生きがいにしていた。踊りを動画サイトに上げ、閲覧数やコメントを得ることに、何よりもやりがいを見出していた。

 一方で素顔をインターネットに晒して生きていくということは、安定的な定職を得るには不向きだった。理解を示す職場も増えてきているとはいえ、中の人間はそうそう変わらない。いくつかアルバイトを経験したが、遅かれ早かれ、いわゆる配信者であることが露呈する。いくら気にしないそぶりをとっても、職場の同僚はいやでも好奇の目を亜里砂に向ける。性根が悪いのも中にはいて、それで弱みを握ったつもりになって、いろいろ面倒な交渉を持ち掛けた輩もいたのだ。亜里砂にとって、どう安定した生活費を獲得し、そして配信の活動を続けるか、それがいつまでも悩みの種だった。

 そこでデートで生活費を稼ぐ方法を始めた。売春、出会い系、パパ活。世間ではそう呼ばれ、これも好奇の目で見られるわけだが、

「人の生き方に指図するな」

と、亜里砂は点けっぱなしになっていたワイドショーを消した。子供からの環境で、テレビを点けておく習慣が抜けない。テレビは面白くない。動画サイトを見る方が、亜里砂にとってはずいぶん有意義だった。

 十二時四五分には、待ち合わせの京都駅改札に着いた。時間をしっかり守るのも、親の教育のものだった。約束をしたのなら十五分前に集合する。それもなかなかやめられない。

 京都駅の改札前はいつも人通りが激しかった。とめどなく、どこからともなく人が溢れ流れていく。亜里砂はいつも通り、待ち合わせ前の時間で今日の相手を想像した。どんな人が来るのか。それは準備運動のようなものだった。

 想像はいつも、半分当たり、半分外した。人はそれぞれ個性を持っていて、カテゴライズするのは間違っている、と亜里砂は常々思うようにはしているのだが、しかしデートにお金を払ってやってくる人間は、だいたい似たような人物だった。誰しも生き続けると、いつしか年齢という肉付きのよいマスクを被ることになるのだろうか。と、そう思うほどに、来る客の外見はもとより、言動、背格好ですら、亜里砂には違いが分からなくなりつつあった。つまり、オジサン、と呼ばれる種別がいると思ってしまうほどに、また、呼ばれるにふさわしい人たちが、多くは亜里砂の相手だった。だからほんの個性や違いはあるにせよ、ほとんど予想通りの相手が現れるのである。

 亜里砂はそんな中でも自然体で接することを心掛けていた。自然体を心掛ける、そこにいくらか矛盾を感じないでもないし、心掛けるならばそれはやはり自然体ではないのかもしれない。

 食いぶちのためにできるだけ客には気に入られようとした時期もあった。しかし相手に合わせることを続けていると、代わる代わる迫りくるオジサンたちに、亜里砂は自分を見失いそうになった。自分もオジサンたちの世界に引っ張り込まれて抜け出せないような感覚になる。デートに来るオジサンたちは、残念ながらほとんど定型だった。薬売りの水槽にうごめくイモリのように、ほとんど区別がつかない同種の箱の世界のようだ。イモリたちに腕をつかまれ、水槽の中に引き込まれる。囲まれ、かわいがられ、イモリばかりを眺めているうちに、いつしか自分もイモリになるのではないだろうか。

 ともかく、亜里砂はできるだけ相手に合わせず、素直に、思うまま受け答えすることを心掛けた。嫌われたとして、どうせ一度の関係であるし、なにより自分を見失わない術だった。そしてそれがまた好評であると感じられた。亜里砂の素直な言動に、少なからずオジサンたちは心を突かれ、反応していた。どれだけ彼らが、普段、世の中に生き、そして同時に世から粗放に扱われていたとしても、亜里砂はそんな彼らの反応に、実は、いつも愛情を芽吹かせてしまっていた。これが、生活費の他に、いつまでも亜里砂がデート業を辞められない理由であった。

「人が好き」

亜里砂は就職活動の場で幾度かこの言葉を聞いた。そのたびに、なぜか苛々とし、自分の番になると、

「私は人が嫌いです」

と、衝動的に言いのけて、面接官の眉をゆがませた経験が何度もある。中には面白がって、どうして、と聞かれることもあったが、理由は言いたくありませんと、これも言いのけて、場は白けてしまう。亜里砂もそれを計画していたわけではないから、自己アピールにつながることは当然なく、その後はただしどろもどろになって終わる。もちろん就職活動はいつまでもうまくいかない。

 人が嫌いであるのに、オジサンは愛する。その歪さを感じながら、しかし亜里砂は愛情の根源も、自ら把握していた。それは求められ、かわいがられる喜びか。しかしそれは違った。

 亜里砂のオジサンたちへの愛情は、その人の死を、どうしても思ってしまうからであった。

 最初はどんなに汚く卑しいオジサンが現れても、「この人の先は長くない。もうすぐ死ぬ」と勝手に思って、それで愛おしくなる。その人との限られた時間を大切に過ごしたいと、その場限りは思うのであった。

 中にはそんな亜里砂の愛情を感じ取って、つけあがるオジサンや、最初から救いがないような低俗なオジサンもいるのだが、それはそれで、また愛おしく思い、素直にふるまい、結局オジサンたちを喜ばせてしまう。今日もそんな感じになるのだろうか、亜里砂は嫌気とも緊張ともつかない、落ち着かない心持だった。

 一三時を過ぎて、アプリにメッセージが入った。

「つきました。特徴、教えていただけますか」

亜里砂は手早く返信した。

「赤い髪の者です」

亜里砂は黒のキャスケットを頭から脱ぐと、さあっと周囲を見渡した。赤い髪をしている者は他にいない。

 どのオジサンか、と亜里砂はしばらく目を凝らした。いち早く姿をとらえることで、どのように半日過ごすか、イメージしやすい。それをできるだけ先手に行うことで、問題も避けることができるように思えた。

 が、亜里砂の前に立ったのは、オジサンでも青年でもオバサンでもなく、くりくり坊主頭のスカートを履いた子供だった。

 

「黒滝蓮です。よろしくお願いします」

と、その子供は名乗った。クロタキ、レン。クロタキと聞いて、マッチングアプリの相手だと亜里砂は思った。珍しい、今日の相手は子供かと思うも、子供がそんなアプリを使うはずはない。

「えっと」

と、亜里砂が言葉を失っていると、蓮と名乗る子供は、

「お父さんが、仕事なんです。だからお姉さんにお願いしたんです。」

と、説明を加えた。

「きゅうな、仕事だって」

と、訝しがる亜里砂に補足をする。

「お姉さんに遊んでもらいなって」

 子供が能弁そうなのが幾分安心だった。説明することにためらいはなく、また大人の顔色もよくみている。つまり、亜里砂は都合よくベビーシッター代わりにされたのだ。クロタキ自身が本当に仕事か、それとも遊びかはわからないが、ひどく無責任であることには違いなかった。見知らぬ人間に子供を預からせるのだ。

 亜里砂はアプリのメッセージ画面を再び開いた。相手は沈黙を続けている。それは任せたと言っているようだった。

 それから二人で水族館に足を運んだのは、蓮の希望だった。

「どこか行きたいところある?」

「えっと、水族館に行ってみたいです」

 水族館はデートとして最適だった。下心のある客は昼間ならドライブや温泉、夕方からならクラブやバーに連れて行こうとする。それらを避けるために亜里砂はよく京都駅集合、水族館に行くというコースをとった。水族館なら人目も多いし、家族連れも多い。そんな気分になりにくいし、何より観賞するものがあるというのが、間を埋めてくれるし、相手が誰であれ、いつでも楽しむことができるのだった。

「水族館ね、わかった。……それで、何時に帰るの」

「えーと、お父さんから電話がかかってくると思います」

「お父さんが迎えに来るの」

亜里砂はできるだけ、オジサンであろうクロタキには会いたくなかった。蓮は迎えの質問には何も答えられないようで、少し俯き、それから自分の住んでいるところの庭のことや、同級生が近くにいるが、あまり遊べないことなど、自分が話したいことを話した。亜里砂は蓮の境遇を察し、優しく頷くのだった。

 蓮は水族館のフロントの、青い照明に、眼鏡の奥にある二重の目を光らせていた。かわいいな、きっとこの子は大きくなったらそれなりに美形になるのだろう、亜里砂はそんなことを思った。

 オオサンショウウオ、アシカ、ゴマアザラシ、ペンギン、海水魚の大水槽……。水族館として種類が多いわけではないし、ジンベエザメホッキョクグマ、ラッコなどのスターがいるわけでもない。しかし二人は楽しんだ。蓮は積極的に声を上げて、水槽のガラスに張り付くような行動はしなかったが、それでも目は輝いていたし、驚くような、見とれるような、そんな様子でガラスを眺めた。それでも預かられているという意識があるのか、もともとそういう性格なのか、幾分ガラスからは離れて眺めることを守り、別の子供たちの集団が、力強く二人を押しのけて前に出ると、さっと体を引き、半ば隠れるように彼らを見るのだった。

 白や青のライトに照らされる、幻想的なクラゲの展示を抜けると、後はもうおしまいで、残りは売店と簡単な食事ができるスペースが残るばかりだった。

 その軽食スペースの脇には、壁沿いに小さな水槽が並べて展示されており、中にはドジョウやサワガニ、イシガメ、ゲンゴロウなど、淡水生物が並んでいた。環境破壊による、希少生物となった生きものたちの紹介らしい。ほかの展示に比べるとずいぶん地味で、展示場所も軽食のついでのような感じだから、先に売店のほうに行くか、引き返して出口の方に向かう客も多かった。

 二人は壁に沿って歩いた。小さな水槽はさながらマンション部屋のように、また小さな住人が、それぞれ姿をその中に潜めていた。迫力も動きも少ないから、亜里砂は流すように歩いた。蓮も一心に顔を水槽に向けながら、それでも亜里砂の歩みを追うように着いてくる。

 そして壁の一番端に、アカハライモリの展示水槽があった。亜里砂は少しぎょっとした。イモリを握った薬売りを思い出した。水槽にうごめく数十のイモリを思い出した。が、その水槽には、薬売りのものと違って、数匹しか入れられていない。そしてどれも、流木や石影に隠れているようだった。

 亜里砂が眉をしかめながら水槽を覗いていると、流木の下から一匹のイモリがはい出てきた。ゆっくりと、しかしまっすぐに、水流に抗い、小さな手足を左右交互に動かし、砂利を掴み、掻き、ガラス面のほう、亜里砂の方へと近づいてくる。

そして気が付けば、それに続いてどこからともなく二匹目、三匹目と、イモリは陰からはい出てきていた。どれもガラス面に向かい、亜里砂をめがけやってくるように思えた。

 亜里砂はイモリのどこか不気味な意思を感じ、そっとガラス面から離れた。十分遊んだ。もうそろそろ蓮の迎えが来るかもしれない。帰ろうと、蓮を促すため、その方を見るも、蓮は依然として、顧みることなくイモリの水槽に張り付いている。

怪獣とか恐竜に似ているから、きっと子供は気にいるんだろう。亜里砂はそう思い、ソフトクリームでも買ってやるかと、微笑み、売店へ向かった。売店は、壁展示のすぐ横に続く。

 売店の店員と金のやり取りをして、カップコーヒーとソフトクリームを両手に、再び水槽を見た。しかし蓮の姿は、その場所からいなくなっている。はて、と思い、幾つかテーブルが並ぶ軽食コーナー全体を見渡した。親子、カップル、友達同士。ちらほらと席は埋まっているが、どの席にも蓮の姿は見当たらない。気のつく子供だから、売店に並ぶ亜里砂を見つけて、よい場所でも探しに行ったか、と思い、外のテラスや、クラゲの水槽まで戻って探した。しかしどこに蓮はいない。

「迎えが来たのかな」

亜里砂はそう呟き、壁の水槽まで戻った。テーブルには依然として、数人同士のグループが集っている。そこにソフトクリームが垂れ、亜里砂の指先にヒヤリとした感触を与えた。亜里砂は驚いたようにそれを舐め、それで手に持ったまま帰るわけにもいかないから、隅の、四人掛けのテーブルに一人で座った。

 冷たいソフトクリームを舐め、また熱いコーヒーを交互に含み、手持無沙汰にイモリの水槽を眺めた。

「帰れた?」

人知れず、そう思った。イモリたちはまた流木の陰に隠れたのか、姿は見えない。

 

 数日後の昼過ぎ、亜里砂はまたクッションに体を任せていた。

 ベッドの掛け布団は今日も男の形に膨らんでいる。テレビは相変わらず点いたままだった。亜里砂はスマートフォンを片手に、次の投稿を思案している。曲は何を選ぼうか、今度は振り付けを自分で考えてみようか。

と、遠くから鐘の音が聞こえ始めた。

 がらーん、がらーん。

 ちりりん、ちりりん。

 亜里砂は猫のようにクッションから飛び跳ねると、バタバタと慌ただしく、扉の方へ駆けていった。 終

魑魅

 

 加賀慎矢と藤崎里留が逢引を始めたのは高校三年の初夏だった。

 私立の男子校の特進クラスだった二人は、帰りの電車が同じ方向ということから、いつしか遊ぶ仲になって、授業や膨大な宿題から逃避するように下車し、ファミリーレストランやカラオケ、ゲームセンターに通い始めた。しかし小遣いが限られる二人だから、ある山寺の、さらに奥に進んだ山中を屯場にすることが常になった。

 肩を並べ楠や楢の木の足元に腰かけているうち、それぞれの進学の悩みや家庭、学校の愚痴などをこぼし、話は回を重ねるごとに深まり、下の話や好きな女優を語り、写真や動画を一つの画面で見ているうちに、肩が触れ、手が触れ、頬が触れ、次第に制服のまま抱き合って、限られた放課後を過ごす仲となった。

 どちらからか、ということはなかった。二人で自然とそうなった。慎矢は思春期のひどいニキビ面だったが、里留にとってはそれすら魅力に覚えた。校則があるから二人とも襟足をきれいに刈り上げており、慎矢は終始その髪型を嫌ったが、彼は運動部で背が高く、その髪型が一番似合うと、里留は秘かに思っていた。

 山中で寄り添い眠るようになってから、里留はそれがどういう関係なのか、考えることが度々あった。友人なのか、恋人と言えるのか。答えは出ないが、ただ他では得られない魅力と温度である、ということだけは感じていた。そして慎矢が、その時間を互いに作り合う、特別な存在であることは、言うまでもなく自覚していた。

 そうと自覚すると、意図せず授業中でも彼の背中を見つめてしまう。休み時間になれば彼の動きを目で追ってしまう。彼と別の友人がじゃれていれば、いくらか嫉妬も覚えた。

 里留はいつしか、漠然と流れつく情報に、それが同性愛であるかもしれないと意識し始めた。同時に戸惑いもした。それと自覚して、さらに自発的に調べもした。

 自分はやはり同性愛者かもしれないと感づいてから、同性愛者である自身を意識するようになった。ことあるごとに、自分は同性愛者であるということが、脳裏によぎる。体育、健康診断、昼食、放課後。それまでのささやかな時間が、急に異なる鼓動を伴うようになった。

 胸に秘めたその自意識は、今までの生活には無く、様々を色づけた。それは怪しげで、危なげで、かつ温かく美しいものだった。それを秘める自分も同時に、尊く、特別で、他の誰も手にできない、煌びやかな宝珠を抱えるようだった。

 里留は次第に変化した。それと意識しだしてから、慎矢だけではなく、別の友人と話すときも、いやにどきまぎするようになった。それまでなら気にならなかったささやかな触れ合いや、友人のやさしさなどに、機敏に反応し、素直に応じられず、人知れず顔を赤らめるようになった。

 

 

 ある日、慎矢に核心を迫られた。

二人はいつものように、寺の奥の、山中の楢の木を目指していた。

「どうしたの、最近」

どうしたの、という質問に、里留はたじろいだ。ずるい質問だと思った。

「なにが」

「なんか、元気ない?」

「別に、普通」

里留は自分のそっけない声に自身でも気が付いて、余計に取り繕うのが気恥ずかしくなった。慎矢の目を避けるように顔を逸らす。

「なんか、変だと思って。本当に何もない?」

里留はふてくされたように頷いた。繋いだ慎矢との手が、先ほどからゆるみ、解けそうになっていた。人差し指と中指の先だけが、かすかに引っかかり、保っていた。

 慎矢とはそれまで、ふたりの関係を明確な言葉で示したことはなかった。ただ一緒に帰り、談笑のうちから、どちらからともなく電車を降り、山の中で触れ合い横になる。その行動だけが、二人の目的であり、確認作業でもあった。

 二人は目的の楢の木の足元で横になった。二人とも歳がら性の知識は十分あった。だから里留はなおさら落ち着かなかった。手をつなぎ、時に抱き合い横になる。それで満足する自分と、一方でそれ以上に湧き上がる、心臓の繁吹くような熱を抱えた。それが何とも快かった。

 自分は同性愛者だ、君たちに嫉妬を感じている。そんなことを言えば、この経験は、約束のない機会は、すぐに失われる心配があった。

「明日から、予備校に行くんだ」

里留が何も言い出せない先、慎矢が口を割った。里留は面食らったが、

「そうなんだ」

とだけ答えた。慎矢はそれ以上何も言わない。慎矢の言葉の真意が、里留はつかめず、じれったかった。

山中は静かだった。鳥の鳴き声や木の葉ずれの音が聞こえてもよかったが、風すら吹かない。ただ山の土や、シャツにしみた汗から立ち上る香りだけがしていた。

「帰ろうか」

幾時が経ったのか、日が傾き始めた頃、慎矢が唐突に立ち上がった。里留はほんの少しの間、仰向けのまま、斜陽に陰り、また所々光る、慎矢の横顔を眺めた。

 二人は並んで山道を降りた。暮れだすと暗がりは早かった。冷気も山頂から流れ漂う。それでも里留の歩みは遅く、慎矢の踵ばかりを見て歩いた。

そこで、道の中ほどに、小さな黒い塊が落ちているのを里留は見つけた。慎矢は気づかず跨いだが、それは小動物のように見えた。黒とグレーと茶色が混ざったような短い毛で覆われている。目は小さいのか、毛で隠れて位置はわからない。ピンクがかった小人のような手足、頭からは鼻だろうか、手足と同色の突起が突き出ている。外傷は見当たらない。行く道にはなかったから、きっと先ほど息絶えたのだ。

「なんだろう。ネズミかな」

モグラだよ、たぶん」

しゃがみこんだ里留の頭の上から、慎矢は言った。

「死んでるのかな」

「たぶん、死んでるね」

「どうする?」

どうするもこうするも、と、しかめ面を慎矢は見せ、進むそぶりを示したが、しゃがんだまま見上げる里留と、そして小動物とを交互に見たかと思うと、

「埋めてやろう」

と、ため息交じり、肩からずれた鞄紐を上げ直した。

 スコップなどは当然持ち合わせていなかった。素手で拾おうとする里留を慎也は強く止め、代わりに鞄から大学のパンフレットを取り出すと、そこに動物の体を器用に乗せた。

 楢の木に戻り、その足元に穴を掘った。初め朽ちた枝を使ったが、じれったくなって、二人は素手で穴を掻いた。できた穴に動物を放り込む。転がるさまは、くたくたとして力なく、やわで、それは生きていたんだなと、里留はとりとめなくそう思った。

 

 

 高校を卒業し、慎矢と里留は別々の大学へ進んだ。

 里留は入学早々、掲示板のポスターを眺め見たのち、性的マイノリティのコミュニティーサークルへ入会した。

 そこでは性的少数者と自覚する者や支援者など様々な学生が集まった。

 サークルの活動は主に、構内のコミュニティールームを定期的に借りて、交流や意見交換にとどまらず、理解を広めるセミナーの計画なども行った。だいたいは、前もって決められた発表者が、自身の体験や活動の発表を行い、意見を交換するという形で行われていた。

 里留は新参者であるから、最初の数か月はただ輪の一人として、皆の話を聞くだけにとどまった。差別、迫害、偏見、蔑視……。会は毎回悲傷な空気が漂った。同時に理知的な議論も行われた。そこでは皆が寛容だった。そして皆、思い思いの愛称を使った。アキ、ユウ、マコ、ユキ……。

 ただ、里留はそれらの輪の中に身を置きながら、どこか居心地悪く思う自分を感じていた。周囲が頷きながら共感を示す中で、里留だけは戸惑いに近い目を周囲に配っていた。

 ある日の会の帰り際、次の発表は里留がしてみないかという話を持ち掛けられた。吾妻という聡明そうな先輩だった。会の運営の一端も担っている。

 いかんせん、機微な内容を扱う活動だから、入会当初はなぜそこに足を運んだか、その理由を表立って尋ねようとしない、そんな配慮も流れていた。とりわけ里留は積極的に自分を語らない様子を示していたから、自然と会のメンバーは、里留の内面に対しての詮索を敬遠していたのだろう。

 しかし個人の吐露と共有、そして理解に理念を置く活動の継続もあるから、同じ者ばかりが話をしても発展は臨まれないという見解もあり、里留は声を掛けられたのだった。

「そろそろ慣れてきただろうから、藤崎さんの話もみんな聞きたい頃だろうと思って」

吾妻はそう言う。吾妻も藤崎も、愛称は苗字を使っていた。

 藤崎の煮え切らない様子を見て、吾妻は幾分眼鏡の奥の眉をひそませた。

「いや、当然、話したくないなら無理しなくていいよ。タイミングってあると思うし」

「でも、どこかで自分を出さないと、いつまでも苦しいままだよ。人間ってそんなに一人じゃ抱えきれないし、それに誰かを助けることにもなるんだ」

「最初は簡単でいいよ。自己紹介ぐらいでさ。新しい人たちと合わせて発表にすれば、それほど時間もかけずに済むだろうし」

「そうだ。今から少し時間あるかな。もしよかったら発表の原稿書くの、手伝うこともできるけど」

いろいろ言葉を掛けられた。里留は顔を強張らせながら了承した。

 

 

 里留は吾妻のアパートに誘われた。

 部屋はベッドとローテーブルが置かれたワンルームで、ゴミなどは見当たらなかったが、衣類やブランケット、毛布の類が部屋中に敷き詰められ、投げ出され、乱雑としていた。

 里留は毛布の隙間などを探して踏み入ると、

「気にしないで、踏んじゃっていいから」

と吾妻は笑う。

「部屋が埋まってると安心するんだ」

吾妻はそう言いながら冷蔵庫からペットボトルの茶を二本取り出し、テーブルに置いた。里留は勧められるままテーブルのそばに座り、間を埋めるように部屋を見渡した。乱雑な床とは別に何もない白い壁、参考書などが詰まる、床の隅に置かれたカラーボックス。ベッドのヘッドボードでは、加湿器が、吹き上げる白い湯気と共に妖艶な香りを漂わせていた。

「早速始めようか」

吾妻は茶に口をつけると、苦しそうな顔をして一口飲んだ。

「このサークルに来たってことは、少なからず自分が性的に少数派だと感じているから  だと思うんだけど。……ぶっちゃけ、藤崎さんはどうなの」

「俺、俺ですか」

里留は愛想のよい苦笑いを浮かべた。

「俺は、正直、すみません。よくわからないんです」

里留は茶には手を付けず、胡坐の上で手を組みながら嘆くように言った。

「ああ、じゃあQってこと?」

吾妻は再び茶を含みながら、慣れたように促した。

「Q、ですか」

Qと言われて、里留は少し顔を曇らせた。そうして俯いたままの里留に、どこか手ごたえを感じず、吾妻は再び尋ねた。

「どうしてわからないって、思うの」

吾妻の問いかけに、慎矢の姿がちらつく。里留は確かに慎矢を特別に思った過去を再認した。しかしそれで自分が性的少数派だとするのを、素直に容認できない自分もいた。だとしても、それをここで胡麻化してしまうのは、それはそれでいけない気がした。

「性的マイノリティってのは、一体なんなんでしょうね」

沈黙ののち、里留はそうこぼした。唇が震える。

「俺は、友達が好きでした。」

里留は絞り出すように続けた。そして意図せず涙が溢れた。吾妻はうん、うん、と言ってうなずいていた。

「でも、男性が好きなわけじゃないんです。……なんなんでしょうね。なんで少数派とか、アルファベットで、俺たちは呼ばれないといけないんでしょうかね」

それは世間の理解や、便宜上、云々と言おうとして、吾妻は口をつぐんだ。

「ここ数か月、俺は皆さんの話を聞いてきました。」

里留は沈黙する吾妻を前に、続けた。

「正直言うと、俺はどの話にも共感できなかったんです。じゃあ俺は、なんなんでしょうか」

里留の目から涙が幾筋か流れ落ちた。

「……もちろん、一言で自分のことを決めるのは難しいよ。誰だってはっきりと自分の指向や表現を分けることはできない。性指向はグラデーションでもあるし、指向がないことだってそれもひとつだ。共感できないのは辛いし孤独かもしれないけれど、それが君なら、それを尊重し合えるのが僕らの活動なんだよ」

「そう。……そうなんですか」

吾妻の優しくも確かな言葉に、里留は幾分安心したように顔を緩めた。

「うん、何もおかしなことはないよ。大丈夫、だから話して。君が好きだった人の、話の続きを」

吾妻の言葉に、里留は静かに顔を上げると、口を開きかけた。しかしそれをついぞ止めたかと思うと、緩んだ表情が見る見るうちに強張り、険しさを帯びた。そしてまっすぐ吾妻を見据えたまま、

「続き? 続きなんてないです。続きなんか」

と言いのけ、ゆっくりと首を振った。

 唐突な変化に、吾妻は面食らった。里留の言葉は、それまでとは変わり、妙な冷気をはらんでいた。

 続きはないと遮断され、吾妻はそうか、と微笑んだ。しかしすぐ、鋭い目を里留に向けた。

「でも、僕は君の力になりたいと思っているんだ。それに君が皆に話してくれれば、それで助かったと、思ってくれる人もいるはずなんだ」

吾妻は言葉に熱を込めて里留へ投げかけた。しかし里留はもう吾妻とは目を合わせず、横を向いたまま、もう柔和な表情を作っていた。

「すみません、今日はもうこれで、帰りますね」

と、にこやかに笑ったかと思うそば、里留は毛布の上に立ち上がった。そして吾妻が何も言えず、口を開けたまま唖然としているうち、里留はゆるゆると、音もなく部屋を出ていってしまった。

 外は月夜だった。春の月夜はうすら寒く、また冷気も夜気も里留に迫るようで、里留は慎矢と過ごした山を思い出していた。そしてまた、埋めた小動物のことを思った。もうすぐ一年経とうとしている。あの死骸は土に溶けただろうか。土に溶けたら、どこへ行くのだろうか。

 里留は吾妻の部屋を想像した。

 想像の部屋には先刻に続き、里留と吾妻が向かいに座っている。吾妻が先ほどと同じ言葉を繰り返した。しかし幻影の里留は、柔和にやり過ごした先ほどとは異なり、テーブルを叩かないばかりに体を起こし、声を上げていた。

「馬鹿な事言うなこのロクデナシが! お前らがでしゃばるから無くなったんだ! 返せ! この野郎!」

「お前それ、差別だぞ!」

吾妻と里留はつかみ合い、毛布の上を転げまわった。

 月夜の里留はとめどなく涙を流した。

「二度と口を利けなくしてやる! お前も埋めてやる!」

幻想の声と涙が流れ続けた。滴る涙は頬に、鼻に、口に流れ、そして幾つかはアスファルトに落ち、人知れず、月光と共に下へ下へと染み入った。

 

 

 大学を卒業後、里留はどこにも就職せず、またどこにも帰らなかった。

 バーテンダー、クラブボーイ、ホテルマン、シティサウナ……。一人暮らしの生活のため方々勤めるも、どれも長くは続かなかった。ゆえにか、どの職場でも、はっきりと里留を覚えているものはいない。

 里留はついに人と接する仕事は諦め、パソコンを使い日銭を稼ぐ生活に至っていた。商品記事の執筆、アンケート、転売、詐欺メール、アカウントの売買。

 そんな生活が続いたある日、里留は依頼を受けた男性用化粧水の記事を、たまには外で書こうと思いたち出かけた。

 喫茶店は昼前で混んでいた。里留は肩まで伸ばした髪で心持顔を隠しながら、通された奥の席に着いた。

 ホットコーヒーが席に届き、一息ついたところで初めて隣の席が訝しい雰囲気であることに気が付いた。二人連れで、一方は壮年の女性、向かいは若いスーツの男性だった。浮気かと耳を傾ければ、どうやら宗教の勧誘に聞こえる。いつか記事にする参考になればと、里留は悟られぬよう耳を澄ました。

「……でね、山の神様がウチの先祖らしいの。夏至を越えてから、どうやら本当にそうなんだって気づいちゃって。私の周りがどんどん変わっていって。愛の人に振り分けられるっていうか。引き寄せってあるでしょ、あんなもんじゃないわ。意識の集約、最適化、そんなフェーズに時代は移行しているのよ」

「ええ、僕も聞いたことあります。でも実際ちょっと遅れてるんでしょ?」

里留は前髪の隙間から横を盗み見た。聞き覚えのある声。スーツの男の横顔は、慎矢のものであった。

「そう、当初の計画よりも遅れてるみたい。だから、いま時代が計画に戻そうと急激に動いていて。やっぱり出会うべき人に出会うというか。めぐり合うべき人にはどうしたってめぐり合うのよ。どこに離れたってね。ほら、私ちょうど辰年でしょ。それでね、私の肩に白い蛇が見えるって。普賢菩薩の、あれの眷属がちょうど白い蛇らしくて……」

壮年の女性は上質な雰囲気を纏っていた。顎ほどの髪はきれいにウェーブし、夏物の黒いカーディガンに身を包んでいる。耳飾りはささやかで、ごく小さな真珠が幾つか並んで下がっていた。

「……あの映画、僕も見ましたよ。出てましたよね、富士山。」

慎矢は前髪を後ろにきれいにまとめ上げ、左右を刈り上げる髪型をしていた。

「そう。私も気づいちゃった。大山の神は大蛇らしくて。やっぱりメッセージを送ってるんだなって思うの。」

「マスコミは孤立させようとしますからね」

「でも真実が暴かれるわ。誰でも力は持っているのよ。けど人々の覚醒が恐ろしいから、マスコミは孤立させようとするの。私が第一覚醒者で……」

里留は頭が痛くなり、ものの十数分座るだけなのに、溶けるような妙な体の疲れを感じた。途切れることのない彼らの話は、一見繋がっているようでいて、終始支離滅裂だった。それにも関わらず、彼らは次々と話を繋げ、それはどうやら互いの理解と共鳴に向かっているようだった。壮年の女性も慎矢も、興奮と高揚に声が次第に上がっていった。

 山の神、精霊、シャーマン、仏、日本神話。話は様々な垣根を越え、混ざり、そして各個人に集約していった。

「……けれど山の神はもう力を失いつつあるんじゃないですかね。ほら、狩猟時代から農耕時代になって。現代では山を切り開いている」

慎矢はアイスコーヒーに手を付けず、熱心に会話を楽しんでいた。慎矢の口から山という言葉が聞こえるとは思わなかった。里留は二人で過ごした山を、そして二人で埋めた小動物に思いを巡らし、人知れず、突き抜けるような鼓動に打ちひしがれた。

「……でもね、私はやっぱり回り回っていくと思うの。質量保存の法則ってあるでしょ。切り開かれた山だって、消えることはないし、ほら、素材とか、私たちの周りに使われることだってあるじゃない」

「なるほど、山の神や魔物は姿を変えて、今、僕たちの周囲に再び集まってきているということですね」

慎矢は興奮気味に声を上げた。女性はその通り、というように、深く頷きながら、厚みのある唇をストローにつけた。

「でも、神は意識の集合だけど、魔物は個人の記憶よ」

慎矢がひとり感慨に微笑むところ、ストローから唇を離した女性が、刺すように言い放った。

「記憶、ですか」

「ええ、質量保存の法則よ。ほら、原子とか、分子は消えないじゃない。形を変えて移動してるだけ。かつて脳だった元素も消えることがないなら、記憶も消えずに移り漂うのよ。それが魔物」

へえ。と慎矢は頷いたが、その固い微笑には理解が見えなかった。

「気を付けた方がいいわ、魔物には。願いや祈りじゃなくて、思いで現れるもの」

慎矢は、女性の唇が薄ら笑うのと同時に、ひやっとした冷気を頬に感じ、咄嗟に横を見た。

 しかしどうしたのだろう、先ほど来たと思っていた隣の客の姿が、もう見えなくなっていた。慎矢はふとしかめ面を浮かべ、そして再び女性を顧みた。

「それでね……」

女性はそれに構わず話を続けた。肉付きの良い指が、ストローを撫でている。