抽斗の釘

小説、散文、文章、短編

飴の女

 今日も来た、と事務員の女は目を鋭く開いた。

 医院は白い陽に満たされていた。初夏の湿った涼風が窓をときおり通り、レースのカーテンが浮かび上がる。その窓の向こうには植木の、茶の葉のような濃い緑が見えていた。待合は静穏だった。

 その午前の待合を、熊のような黒い影がざっと横切ってくる。事務員はうっすらと皺のある目尻でそれを捉えた。同時に、長椅子に間を空けて並ぶ患者たちが一斉に目を上げるのも分かった。

 黒い影はカウンターの前で立ち止まった。待合の人々は、その黒い影を一瞥しそれがまず女であると確かめた。次に低い背や、固太りの体つきを見た。さらに日焼けした髪と肌を見た。服は、ストレッチの効いた量販の黒いワンピースに見えた。その裾からはたくましい膝やふくらはぎがのぞき、続いて黒ずんだ桃色のゴムの履物、その中の乾燥した踵までを見届けた。それから待合の人々は、誰もが再び目を下へ落とした。再び静穏の待合に戻ろうとした。しかしそれまで夢中でいた手元の文字や画像は、宙に揺れてしまいもう一向に進まなくなっていた。ふだんなら聞き流している体温センサーの勧告音さえ、妙にはっきり耳に届くようになった。

 その中で、カウンターから顔を出している事務員の女だけは、変わらず真っ直ぐな鋭い目で、女を見つめ続けていた。

「おはようございます」

 事務員の努めて緩やかな声が待合に通った。年寄りに話しかけるような調子でもあった。だが女は沈黙していた。待合の人々は、その沈黙に再びちらりちらりと視線を上げた。その女は立ち続けていた。そして何も答えず片手を差し出すのみだった。患者たちはまたあえて目を逸らしながらも、やはり意識までは外せないでいた。

 事務員は音のないため息をつき、カウンターの下に頭を潜らせた。事務員は、自分が隠れるこの瞬間に、いつも秘かに小さな愉快を感じるのだった。しかしその愉快は顔には現れなかった。マスクの下の口元も真横に結ばれている。そしてカウンター下の手つきは明瞭で素早かった。女に差し出すものは、もう決まっているのである。そしてそれが、善行に映ることも知っていた。また一方で、目の冴えた患者には見透かされないかというスリルもないではなかった。

 事務員は体を起こすと、女に小さなフィルムを差し出した。それに視線が集まるのも、見ずとも分かる。それは個包装の棒付きキャンディーだった。やはり待合の患者たちの幾人かは、それが何味かまで見届けていた。琥珀を思わせるオレンジ色だった。

 黒い女はそのキャンディーを掴み取ると、何も言わずにまた来た道を戻っていった。その横顔は険しかった。眉を眩しそうにしかめ、そのため瞼は細く、鼻は前方に突き出ている。口は物を語るためのものでないように、小さく力なく垂れていた。

 女が立ち去った後のカウンターの透明な仕切りには、

「アメがほしいおともだちは声をかけてね」

 という文言が貼られ続けていた。

 女が去り、医院内には再び白い陽の静穏が戻った。待合の人々の意識は再びそれぞれへと戻っていく。一人は本人も気付かない程度の安堵を奥歯に噛み、一人はマスクを外して鼻をかんだ。また一人は自分の腹の大きさに無意識に疲れ浅く座り直し、一人は長い待ち時間に膝を揺らしている。また一人はあくびをする。

 しばらくすると、また待合の人々の目が一斉に上がった。診察室に入っていた幼い兄妹が戻ってきたのだ。兄妹の青や紫といったTシャツの色が待合を乱した。その後ろには麻のシャツを羽織った母親が続いた。待合の人々は見るともなく、彼らの気配を把握していた。兄妹は互いにじゃれて小突き合いも見せていたが、それは小鳥の戯れのような程度で、今度は患者たちの視線を集めることはなかった。やがて兄妹の診察料の支払いが終わると、事務員は彼らに飴はいるかと尋ねた。二人はカウンターに両手を乗せながら、きょとんとした顔で事務員の顔を仰いでいた。

「何味がいいですか?」

 事務員の女は、ブドウ、イチゴ、オレンジがあることを教えた。

「ぶどう。」

「ぶどう。」

 兄妹は二人ともそう答えた。事務員はまたカウンターの下へ頭を隠すと、今度は時間をかけて指先で袋の中を漁った。そして目を細め、二本の紫色の飴を手渡した。

 待合の患者のうちの一人は、目を足元に落としながらも、三十年も前のことを思い出していた。自分の場合は姉弟であったが、この兄妹のような年頃のころも、やはり台所の戸棚には同じ袋入りの棒付きキャンディーが入れられていた。そして取り合いの末にブドウ味が一番先に無くなり、袋にはオレンジ色ばかり残った。その袋の中の色や光を思い出していた。可笑しくなる。赤や紫はもう無い。それでもどうしても食べたいという時があった。その時は仕方なくオレンジ味を取り出すのだ。個包装のフィルムに張り付く飴の感触さえ思い出された。

 

 オレンジ味は好きじゃなかった。でもしかたない。袋を剥がすときれいに飴が取り出せた。口に含む。お日様のようなまぶしさが広がった。好きじゃない。それから、緑色の味もした。まずい。お薬の味のようだ。私はブドウ味がよかった。それは紫色の花の味がする。次はどこへ行くのか。頭の中の路線図を見上げた。日差しが眩しかった。

 

 医院は耳鼻科だった。そのため翌々週には薬の切れた数人の患者が、また同じ時間に長椅子に並んでいた。そしてその日もかの女は現れた。やはりカウンターの前に立ち、何も発せず、ただ事務員からオレンジ色の飴を受け取ると、急ぐように去って行った。

 また別の週には、耳鼻科にいた患者の一人が、眼科の待合でも同じ女を見かけた。ここでも女は患者ではなかった。耳鼻科と同様真っ直ぐにカウンター傍のウォーターサーバーの前に来ると、ためらう様子もなく、紙コップに冷水を注ぎそれを一息に飲み干す。そして何も言わず立ち去って行く。

 薬局で見かけた者もいた。カウンター脇の「ご自由に」と書かれたカゴから、女は小袋のラムネを一袋だけ掴みとると、やはり背を見せて帰っていく。誰も声を掛けない。それは一種の現象であるように、職員も客もそれを見届け、そして言葉どころか、互いに目配せすら交わさなかった。

 

 今日も行く。この体は行く。今日もその内側で路線図を見上げる。

 毎日飽きない。疲れない。ただこの体は歩いてる。私は黙って風景や路線図をながめている。そして日が暮れ、眠りにつく。この人は何を考えているのだろう。この人はいつも急いでいて、何かを追いかけている。でも何かに追われているようでもある。そのくせ、何かが起こることもない。ただ巡回する。フードコート、スーパーマーケット、コーヒーショップに、クリニック、薬局。私は、同じ景色を眺めている。ただ一日中歩き、そして補給し、また次の補給所までいく。

 私には、この人の中の他に行くところがなかった。でもここには乗り合いバスのように色んな人が乗ってくる。そして地域をぐるぐる回るのだ。他の人は降りていくこともあった。でも私はどこで降りていいか分からなかった。えいと降りてしまってもいいかもしれないけど、そこは、私が知っているところではない。バスから勝手に降りてはいけないと、お母さんがよく言っていた。

 私は覚えている。社宅の大きなマンションの風景と、その近くのコンビニや、黄色いバスで行く幼稚園の園庭。もしくは新しい友達と小学校、お父さんと休みの日に行く競馬場や、家族で行くテーマパークや、おばあさんのところに行くための、夜じゅう乗っている車の中。

 弟と喧嘩した。弟の足が私に当たって、やめてと言ってもやめてくれない。私は弟を蹴った。そしたら弟も私を蹴った。弟は私が蹴ったとさわいだ。私はちがうと言った。

 車はパーキングエリアに入った。夜中のパーキングエリアはきらきらしていた。そのほかは真っ暗だった。お父さんが急に大きな声を出した。私は車を下ろされた。そんなのおかしい。でもお父さんの車は行ってしまった。それから色んな、知らない人が私の周りに来たり、行ってしまったりした。誰かが、お父さんを追いかけてあげるからおいでと言って私の手を握った。

 真っ暗になって、私は飛び出した。とにかく私は捕まってはいけないと、真っ暗な中をやみくもに逃げた。飛び降り、くぐりぬけ、開けて、飛び越えて、そして真っ暗な道に出た。それからどちらに行けば分からなかった。私がどこにもいけなくなったとき、この女の人が通りがかるのを、私は見つけた。私は、そうしてここにいる。そんなことを、私は誰かに言わなくちゃいけないのだけど、この女の人に言わなければならないけれど、と、私は何度も頭の中で繰り返している。

 その時をうかがいながら、私は勇気が出せない。この人の中の椅子は、かたくて座り心地が悪い。それでも私を乗せてくれている。この人は、私が乗っていることを知っているのでしょう。ときおりミラーを見るように、私をうかがう目線を感じる。でも私はオレンジの飴が好きじゃない。そのこともまだ言えていない。そうして今日も行く。この体は行く。ぐるぐると地域を回る。水や飴を頼りに巡回する。いつ終わる。たぶん壊れるまで止まらない。ここは頑丈で、きっとなかなか壊れない。だから大丈夫。どこまでも行く。まだ降りることはない。

 

 それから一ヶ月ほど経ったころ、女のことなど忘れていたある患者は、田畑が続く郊外の道で、再びその姿を見かけた。それは車を運転していたために一瞬の光景だった。

 夏日の光の下だった。女は影一つない畑道を、どこに向かうのかただまっすぐ歩き続けていた。日照りは容赦なく彼女に注ぎ続けている。日傘もない。帽子もない。女はじりじりと日に焼け出されるように歩いていた。目を細めながら、やはり黒い服をまとい、前を見据え、進み続けている。

 車は一瞬でその背を追い越した。反射的に、ミラーで女を捉えようとした。影はすでに小さくなっていた。どこに向かうのかは当然分からなかった。(了)

いきする砂々

 夜の砂丘に着いた。来たのは日の出を見るためだった。

 砂丘には灯り一つなく、そこにはただ黒色が広がるばかりだった。しかし闇の中とはいえ、足元は闇なりに明暗も見えそうだった。僕らはそんな暗がりをじゃりじゃりと踏みながら先へ歩いていった。闇は闇なりに、おそらく奥に行けば良いということも分かっていた。だから僕らは歩いた。

 闇だから先は見えないのだが、突き当りもしない。黒色が広がるというのも矛盾かもしれなかった。広がっているかどうかなど見えていない。しかし広がっていると思い込んでいたし、実際に広がっていた。闇ならば広狭などなさそうだが、実際には砂丘が広がっていた。

 何を見ても何も見えなかった。もしくは何かを見ていて、それが何かと分からないが、ただ見ているという目の働きがあった。確かに周囲はあった。それは肌や、砂を踏む音や感覚だった。目を瞑るのともまた違う。縛られてもいない。ただ光を感知するプラグだけが抜けていた。そのうえで僕らを含めたすべてが順当に動いていた。

 風の音がする。耳の中に海風が吹き込んでいる。海が近いのだ。髪は煽られて逆立ち、シャツの裾もたなびいて、何をしていてもどこか乱れささくれている、いつまでも薄ら寒い風邪気味な、5月の海辺だった。けれど僕は顔を上げていた。風に混じる砂をあびながら、広大な砂の丘陵を黒色の中に思い描くためだった。僕はどこまでも続く黄褐色の砂漠を見ていた。しかし想像は想像に過ぎなかった。どこかに穴や崖がある。もしくはもう既に大きな穴の中かもしれない。どちらにせよ黒色の中では気付かない。

 少し離れたところに君のいる気配がした。目を凝らせば、君の歩く影は周囲より一層濃い黒色をしていた。はて、と見上げれば、いつしか空は黒から群青に変わりつつあった。その群青を透かすように膝を折って屈むと、丘の、黒く巨大でなだらかな縁が見えた。日の出は5時頃のはずだった。それまでに一番高いところに登り着いていたかった。

 

 いつだったか、君の下宿で、スーパーファミコンの「MOTHER—2」を夜通しかけて攻略していた。部屋の電灯は消していた。テレビ画面だけが照っていた。そして君の青白い顔が暗闇に浮かんでいた。僕は画面とその横顔を交互に見ていた。

 画面は砂漠の中だった。僕らはそこで胡麻を見つけなければならなかった。広大な砂漠のどこかに、白胡麻と黒胡麻が落ちている。それはどこにあるのか、どんな表示をされているのか、もしくは表示すらされていないのか。僕らは、どうやらある、ということしか知らなかった。僕らは交代交代にコントローラを持ち砂漠を練り歩いた。胡麻は簡単には見つからなかった。あまりに見つからなかった。そのため画面の一マス一マスで立ち止まって調べていく方法をとった。僕らは砂漠の全マスを踏破した。それでも見つからなかった。もう一度。そしてもう一度。その作業は延々続いた。夜は更け、そして明けていった。

 

 砂丘の空は、すでに黄ばんだ水色に変わっていた。景色の、逆光の半島の頭からは、朱、黄、白の色の帯が左右に伸び、足元の黒い砂は薄明を吸って冷たい白茶色となっていた。僕らは荒い息を上げながら、丘の上からそれらの景色を一望できていた。砂は絶えず流され続け、それが砂紋を描くのも、もうしっかりと見ることができた。

 遠く陸の方からは、黒蟻のようにぽつぽつと人の影が続き始めたのが見えた。それらは一様にこちらへ向かっていた。僕らは急いで丘を降りることにした。

 丘からの下りは飛び降りる心地で走ると爽快だった。僕は悪ふざけで君の脇腹へ組み付いた。そして足元の不安定さを利用し、体ごと砂の上へと突き倒した。君は重力に袖を引きずられるように、一転二転、尻や笑顔を交互に見せながら下の方へ滑落していった。そして君は起き上がると砂も払わないままに坂を駆け上がり、正面から僕へ体当たりをした。僕は簡単に倒されてしまった。そして砂の上にひっくり返った僕を、君は写真に撮ろうとした。僕は立ち上がり、瞬時に君のスマートフォンを奪って、それから力いっぱい向こうへ投げた。

 白いスマートフォンが、水色の空を飛び立っていった。それがどこまで行ったのか、僕ははっきり見届け、そして覚えていた。それでも二人で追いかけると、そこにあるのは同じ砂の模様ばかりで、肝心のスマートフォンは消えてしまった。僕は確かに黒い画面が砂に突き刺さる光景を見ていた。それでも僕らがたどり着くほんの数分、数秒の間に、そして近付けば近づくほどに、風と砂はそれを丘の中へ取り込んでしまった。

 

 僕は公園の平坦で何もない砂場に、ある白い粒を見つけた。近付けば、それがぬいぐるみだと分かった。全身のほとんどが砂に埋まっていた。

 仕事を辞め、色々な生活の必要を放棄し続け、それでも残っていたのが、犬の散歩の日課だった。僕は日中に外を出歩けなくなっていた。だから散歩は決まって日が沈んだ直後の青暗い夕方の公園だった。

 僕は埋まっていたものを掘り起こした。犬のマスコットだった。長い鼻を持っていた。それは手の平に収まる大きさだった。僕はその姿や顔を見て不吉に感じた。土葬だと思えたのだ。外れかけた目のビーズ、曲がった鼻先、全身の土汚れ、それらを一目見るだけでこいつは愛されていないのだと分かった。棄てられたのだ。いや、使われたのだ。急に悪寒が走った。とはいえ再び埋め直すのも気が引けた。僕はその白い犬らしきものが穿く縞模様のズボンの端を摘まみ、雨が掛からなそうな木の虚の中へ座らせた。

 翌日同じ公園に来た。木の虚にマスコットの姿はなく、今度は滑り台の足元の土に、それは再び体を埋もれさせていた。僕はもう一度掘り起こし拾い上げると、再び木の虚の中へ座らせた。それから二度とそのマスコットは見かけなかった。マスコットはどこへ行ったのか。砂場のさらに深い地中へ埋められてしまったのか。それとも徹底的に処分されたのか。

 

 僕らは砂に消えたスマートフォンを探した。電話を鳴らすという常套手段も忘れるほど、夢中でそこら中を掘り返した。しかし掘るほどに僕らの気持ちは重くなっていった。砂の坂も容赦なく、絶えず僕らを下方へ崩していた。そしてどこを見ても同じ砂紋が何パターンも続いていた。とにかく掘った。どこにも無い。虱潰しに掘った。どこにも無い。やがて掘った所も分からなくなっていった。どこも、掘ったそばから崩れて埋もれてしまうのだ。君も、尻をこちらに向けて砂を掘っていた。しかし君が掘る位置は、僕にしてみればまったく見当違いのところだった。だがそれを指摘はできなかった。誰が間違っているのかも分からなくなっていた。広大な砂の丘の腹の上で、掘る位置が手のひら一枚分ズレるだけで、もうそれはおしいおしくないなど関係なく間違いだった。

 僕は体を起こして見渡した。これは、砂丘が動いているのだと思った。砂丘は、砂の腹を伸び縮みさせ脈動している。巨大な赤子のように少しずつ身を捩って眠っている。そうして位置を惑わせている。砂丘が体を伸ばせば伸ばすほど、砂に落ちたものは奥へ奥へと沈んでいき、そして縮こまれば縮こまるほどに、またさらに奥の方へと取り込まれていく。僕らはそうしてズレていく。

 

 かつて犬と散歩した公園の樹々は今もうすべて伐られ、株だけが地面に張り付いて残されていた。

 子供に命令されながら、そんな殺伐とした同じ公園の砂を、僕は鉄のスコップで掘っていた。春の熱い日の最中で、子供は日照りに頬を赤くしていた。僕も暑かった。しかし朝夕は寒い。その寒さを日中でも神経は覚えていて、暑くても体の芯は熱を貯めようとしていた。だから暑くてもどこか寒い。自分が生焼けの肉のようだった。そんな昼夜の交雑が、常に風邪をひいているような心地にさせていた。悪寒と微熱の季節だった。

 子供は憑りつかれたように僕を許さなかった。どこまでも深い穴を掘れと言う。そしてもう一つ穴を掘って繋げてトンネルにしろと言う。そのうえ山を作れと言う。川を作れという。道路と線路を作って町を作れと言う。店を建て、駐車場を設け、そこに三輪車を停めろと言う。

 汗も出ない。それなのに依然顔は熱くなるばかりだった。僕は掘った。砂場は砂丘のような砂ではなく、雨が溜まり掘るほどに硬い土を見せた。粘土も混じった。悪寒特有の甘味と日照りでくらくらとする中に、僕はついに人が立って埋まるほどの穴を掘った。僕は穴の底から見上げた。黄ばんだ水色の空が見えた。穴の中は陰ってひんやりとしていた。穴の入口の傍らには、日照りに押しつぶされながら黙々と土をいじる子供の頭と体があるはずだった。

 

 砂丘の一件からも、君と僕の仲はしばらく続いた。酒を飲みにもいったし、競艇にも、山登りにも出かけた。しかし時間と共に僕らは次第に疎遠になった。僕が仕事を辞めても、君は同じ仕事を続け、そして僕らはどちらも家庭を持ち、新しい家族も増やしてきた。やがて僕らは年始や誕生日の連絡のやり取りさえしなくなった。そして一度止めてしまうと、もう再開する機会も失ってしまった。確定したのだ。僕らは年に一度きりですら、僕ら自身の生活に、互いが必要ではなくなった。

 砂丘の下に飲み込まれて消えてしまったのだ。砂の坂に寝転んだまま眠り、一夜にして砂を被り続け、埋もれてその体内に取り込まれてしまったのだ。僕は僕らに、砂丘での思い出と共にそんな風な印象を持つようになっていた。僕らは、お互い見えていなくてもよくなった。そして君と僕のどちらがそうなっているのか、あるいはどちらもなのか、それはどうでも同じことだった。

 

 僕は急いで穴の底から這い上がった。這い上がるのは容易だった。砂丘と違い、土は硬い。這い出てみると、しかし穴の外には子供はおらず、それどころか公園ですらなく、僕は街の中に出ていた。正確には京都の、三条通りと御幸町通りが交差する辻沿いのコーヒーショップの席だった。

 ガラス窓から外の通りを眺め、また首を折って街路の細長い空を見上げると、それは瑠璃色のグラスのように深く透き通る青空だった。その青空の下では、店の内外問わず様々なものが行き交っていた。時代、地域、言語、思想、趣向。人々はすべてが異なり、まるで同じという人は一人もいなかった。そして彼らが持ち合わせている性質もまた別々だった。邪悪、愉悦、焦燥、優越、侮蔑。街角はその、すべて異なるという差異で満ちていた。僕はその光景に這い上がってみて、非常に不安で不快になった。これらの人々を、全て集めて同じ穴に放り込み、上から砂を掛けて埋めてやりたいと思った。

 僕は立ち上がると、次には街路を上空から見下ろしていた。精巧に作られた街は、足で払うとさらさらと崩れていった。傍らには大きな穴があった。誰が掘った穴だろうか。

 

 今はなぜかあまり見られなくなった。僕が子供の頃には、公園や学校の砂場には黒蟻がたくさん往来していた。子供の僕は穴を掘って、幾匹かの黒蟻をその穴に落として囲った。穴の壁を登って出ようとする蟻に、僕は壁を崩したり砂を掛けたりして底に落とした。水を流し込んで泳がせたりもした。そしてその遊びの終着方法は、いつも決まっていた。

 

 店内や往来の人々も、上空から見下ろせばそれぞれが一つ一つの砂粒だった。それらはやはり、すべて異なるという点で統一された砂々だった。僕はそんな砂を集めて砂の穴に放り込み、そして砂を掛けて埋めた。すると砂は砂に混じり、もうどの砂が着目すべきものか分からなくなった。やがて砂それぞれの服や髪や刺青は溶けだして滲み、砂が砂に分解され、なんてことのない汗や体液が染み出すのも、それも砂が砂を吸って、分かち合い、やはり砂は別々であっても同じ砂でしかなくなった。それが川や風に運ばれ、海で砕かれ、溜まり溜まって巨大な砂丘となっている。

 その、百穣の砂粒の中から君だけを見出すのはもう不可能に思えた。しかしいずれにせよ、砂丘の下にはそんな風に色々なものが今もなお埋まり続けているのだろうと僕はまた街角から砂丘を思い描いている。そしてその砂丘の下に、僕は男女問わず人間の死体もいくつか見つけることができた。確証はない。生きているものは砂粒で、死ねば死体という形を取り戻すのだろうか。ともかく、砂丘の下に、運よく見つからずに埋まり続けている死体が必ずあるという期待だけは、この通り、コーヒーショップの机の上に乗っかっていた。それが明るい電灯の下にありありと見える気になっているのも、実際に見えているのではなく、ここが夜の穴の中だからなのか、それとも想像だからなのか。(了)

マザー

 無能な記者め、とミカミは思った。何時間立っていても、何日立っていても女優は現れない。一晩中張り込みをさせられることも珍しくなかった。それで一度でも情報が正しかったことがあっただろうか。ミカミは重くなった太腿を左右交互に上げ、冷えに浮腫む自分の足を思った。血流が滞っている。動きたい。走り回りたい。空中をバタ足で泳いで飛んでいきたい。と、夜空を仰げば彼方がもう白み始めている。もうすぐ太陽がやってくる。
 朝焼けはいつ見ても不気味な感じがした。夜と朝が交代する。前の日と次の日が交代する。その狭間で、UMAだとか幽霊といった不気味なものに鉢合いそうな不穏な感じがする。空のひずみを見ていれば、どこぞの知らない女優よりもUFOでも探している方がまだ見つかる確率が高いかもしれない。ただいくらUFOを見つけたところで誰も金は与えてくれない。片や女優ならば記者は金をくれる。金をくれるからわたしは記者の言いなりだ。と、スマホが震えた。今日は引き上げていい、という記者からのメッセージだった。

 首なし女優。記者からの指令はその素顔を捉えろというものだった。
「首なし、ですか」
「あれ、知りませんか。〇〇って言うんですけど。結構いま人気で。首なしインフルエンサー。首なし女優。まあ要は顔出ししてない女優です。」
 記者の声は電話口でも張りがあった。少し離れたところへ発するような声だ。それでいて抑揚がない。
「なるほど。」
 その女優はどんなシーンでも首から上が画角で見切られているという。立っていても歩いていても首がない。笑っても泣いても首がない。そして食事も、キスの相手も、彼女の顔に近付くものはみな画面外に消えていく。ゆえに首なし。真面目に見ているとコントだろうかと笑ってしまいそうだが、徐々に世間に受け入れられたという。
「見たことないですか。お若いのに」
「すみません。テレビはあんまり。」
SNS出身ですよ。最初はギャグ路線でしたけど、最近ではシリアスなテレビドラマも務めました。これから来るでしょうね。演技の評判が良かったんですよ」
 顔が映らないのに何が演技なのか。そんな疑問も過るが、ミカミはそのことについて探求はしなかった。
「要はその女優の顔を撮ればいんですよね。スマホで」
「そう。そうです。それだけ。ちょっと立ち仕事になりますけどいけますか。撮れるまでは粘ってもらうと思いますが、もちろん残業分もお支払いしますし。」
 いけるもなにもお金だ。ミカミは了承した。記者は形式じみた礼を言った。
「僕一人が動くより効率的なんですよ。同時多発的に張り込めますからね」
 各週刊誌は手広くスポットワーカーを使い、人海戦術で女優の素顔を追っているらしい。ミカミもその一人だ。スキマバイトのアプリから参入。そして女優の素顔を捉えた者にはさらに報酬がある。世間に広まってしまえばもう価値が無い。だから出版社は早い者勝ちを競っているという。
「じゃあ僕から随時場所と時間を指定しますから、そこでターゲットが来るのを待ち構えてください。ではこれからよろしくお願いしますね。」
 ミカミは少しほっとした。これで少なくとも女優が見つかるまではわずかでも安定した収入を得られる。
 ただ実際に張り込んでみると記者から来る情報はどれもガセだった。どこへ行ってもどれだけ待っても、それらしい本物には出会えない。芸能事務所も対策をしているのだろうか。もしかするとあえて過酷な状況の情報を記者につかませ、消耗や諦めを狙っているのかもしれない。そんな風にミカミは勘ぐっていた。

 夜風が吹き抜けた。冷えが地面から来るのを感じる。朝方の道を帰りながら、ミカミは自分の下半身を意識し続けていた。下着すらしばらく買い替えられていない。伸びきって磨れた下着はもはや下着というより布きれだった。穿くというよりもジーンズとの間に当てているようなものだ。しかも張り込みのために吸水ナプキンを仕込んでいる。そんな風に下半身を思うと、かの女優が憎らしくも恨めしくも思えてきた。彼女ならどれぐらいで下着を替えるだろう、とか、歯磨き粉のチューブはどの位置で切るのだろうか、などと貧乏くさい勘定だってしてしまう。かの女優が女優業を続けるなら、どうせいつかは誰かに顔を暴かれるだろう。誰かが金を手にして恨まれるならば、その貧乏くじはわたしだっていいじゃないか。そんな気概はできている。さっさと姿を見せろよ。
 そこへ記者から再びメッセージが入った。
「マンション前 黒のアルファード
 瞬間、すぐそばの車道を黒のアルファードが走り抜け、マンションの前で停まろうとした。
 ミカミは振り返り走った。するとどこに隠れていたのか、マンション前にはスマホを構えた者たちが数人、車を遠巻きに囲っているのが見えた。やがて後部ドアが開き、女が降りてきた。まずい。先を越されている。これは当たりかもしれない。ミカミは走りながら、まだ遠いその女の姿を撮影し始めた。どう考えても他の撮影者に後れを取っている。女を見ればさっと顔を隠すようにマンションのエントランスへ入って行くところだ。すると撮影者たちはもう女には目もくれず、一斉にスマホへ俯いた。ミカミも同様だった。せめて彼らが撮影を失敗してくれていればいい。そう願いながら記者に動画を送る。ほどなくして記者から返信が来た。
「これは本人ではありません」
 ああこれで何度目だろうか。しかし分かっていた。当てもなく何度も盗撮を試みてきた。それが本当に彼女なのかいつも確信がない。きっと誰もがそうだった。それも当然だと思った。私たちは彼女の顔を知らない。知らなければ見つけられっこない。と、ミカミは半目になって明け方の青くなりつつある空を仰いだ。

 どれだけ奔走しても進展はなかった。初めは楽勝だと思っていた張り込みも、次第に辛さが勝つようになってきた。足の浮腫みは恒常化し、冷え性で便秘と下痢を繰り返した。不眠症で顎や頬に肌荒れもある。その間もアプリから規定の金は振り込まれるが、期待していたよりも預金残高は動かなかった。
ある夜、やはりミカミは張り込みをしていた。立ち続ける足は脂の塊になって地面に張り付き、外気の冷気で固く粘着を持っていた。記者がいつの間にか横に立っている。そしてさあ現れた現れたと興奮している。走れ、撮りに走れ。しかし足は重く動かない。女優は記者の騒ぎにこちらを振り向いた。その顔があらわになる。それは複数のベアリングで出来ていた。そして女優の顔は複雑に回転を始めた。ぎゅるぎゅると無機質な駆動音が、これから何か起こそうと高まっていく。心臓が止まりそうな瞬間の恐怖に襲われ、ミカミは大きく息を吸った。そこはベッドの上だった。息ができていなかった。朝方の、浅い切れ切れな夢に溺れそうなところだった。
 この仕事を続けていれば時間と共に自分が薄れていくような不安を感じた。ただ一つの場所に立ち続けるのは単純でも孤独に違いない。名前も呼ばれない。声も掛けられない。帰るオフィスも目を合わす同僚もない。ただただ夜闇に紛れて過ごしている。考え事もスマホの充電もすぐに尽き、ただ夜に抱かれ、夜にされるがまま時間が過ぎる。車と人と風が無関心に通っていく。
 どこかで限界がくると思った。その限界とは自分のエネルギー総量だろう。自分の体の形のペットボトルに、エナジードリンクのような黄色い液体が入っている。そのエネルギーを使い果たすとき、自分はもうこの世から見えなくなる。透明になる。どうにか自分の形を保たなければならない。しかし肉体や精神の欲求をいくら満たそうとしても、身近にある方法はどれも匿名で有料の消費に違いなかった。ああ減っていく。消えていく。いつかは辞めなければと思う。少なくとも休まなければならない。しかし休むためにも満足な金が必要だ。そして記者からの指令が届き続けた。いつもこれを最後にと、ミカミは外に立つのだった。

 この指令はいい加減無視して、もう飛んでしまおう。そう思いながらも、ミカミは指令のメッセージを開いていた。ところが今回の指令はいつもと様子が違った。電話の口頭で伝えるとある。既読が付くと、すぐに電話が掛かってきた。
「わたし、この仕事もう辞めようかと思います」
 開口一番ミカミは意を決しそう伝えたが、記者の反応は予想していたものと違った。
「ああ、丁度良かった」
「良かった?」
 指令の内容は自宅やテレビ局の張り込みではなく、テレビ局内に侵入せよといったものだった。
「それって大丈夫なんですか」
 とミカミは訊ねた。違法性はないかという意味だ。しかし記者は、
「その日にスタジオ撮影の一般観覧がある。その枠ひとつを手に入れたんです」
と、少々興奮した声色だった。
「観覧に乗じて局に入る。聞いてよ、その日は女優の仕事も入ってるんだ」
 だろうなとミカミは思った。そして記者いわくその侵入は男の自分より女の方がいいらしい。大きな体の男が不穏な動きをすれば目立つ。しかし小柄で貧相な女なら誰も気にしない。と、無礼で乱暴な説明をした。
「まあ男だろうが女だろうが、ヤバいやり方に変わりない。だからこれを受けるなら辞めてもらうけどいいかな。その代わり五万出す。もちろん成功報酬とは別。それで仕事を受けて欲しい」
「でもそういうのってかなり厳格に管理されませんか」
 テレビ局もミーハーな一般人に向けて対策をしているだろう。単独行動などの隙もないのではとミカミは訊ねた。
「そんなのトイレだとか言って席を立てばいい。セキュリティーが着くわけでもないし監視もない。迷ったと言えばどうとでもなる。それにあなたの容姿なら目立たないだろうからきっとうまくいくと思う。はまり役だ」
 記者の言いぶりにミカミは当然断る意向を強めた。しかしすみませんがと話し始めると、依頼料の金額は五万から十万、十万から二十万、やがて問答を繰り返す果てに七十五万まで跳ね上がった。
「七十五万。」
 ミカミは息を飲んだ。
「これが本当の限界だ。頼むよ。頼みます。」
「どうしてそこまで。」
「この件をものにしたいんだ。借金してでも支払うよ」
 ミカミはついに折れた。

 テレビ局に侵入し、トイレだと単独行動をするまではいやに簡単に進んだ。入るまでは厳重だが、入ってからは緩いものだと、ミカミは意外に思いながら用を済まし、観覧のスタジオではなく奥の通路へ、周囲を伺いながら潜って行った。
 局内に入ってしまうと、人目はあっても注意されることはなかった。記者からの入れ知恵で首から名札ホルダーを下げている。それが目くらましになるのか、それともミカミのラフな格好がスタッフに見えるのか、それは不明だがとにかく周囲にうまく溶け込めているようだった。それでもただぶらぶらしていると怪しまれるだろうから、ミカミは人目の多い低層フロアを抜け出すと上層のフロアへ移った。上層はがらんとしていた。廊下がずっと気の遠くなるほど伸び、建物の巨大さが測れた。
一人になり、ミカミは急に心細くなった。静かになったせいもある。一息ついて現状を実感しつつあるためもある。しかしそれよりも、巨大なテレビ局の体内にいることがまず不安を掻き立てていた。自分は招かれざる客だ。なのに誰もわたしを知らない。誰もここにわたしがいることを知らない。その状況が不安だった。いや、知っている人は一人いた。ミカミは現状を記者に伝えた。
「潜伏を続けて。どこかに身を隠して」
 ミカミは廊下を見通した。会議室か、倉庫か、楽屋か、何か分からないが部屋が規律だってずっと遠くまで続いている。どれも違いは無い。そして誰もいない。ただ煌々とするLEDのもとに廊下が伸びている。しんとしている。ミカミはぶるっと身震いをした。
ミカミは手短な部屋のドアを覗き中に入った。それは椅子と机が向かい合う質素な小部屋だった。ここが今から使われるのか、それは分かりようがない。それはどの部屋を選んでも同じだった。電灯は消したまま、部屋の隅に椅子を運んだ。そして息を殺して体を丸めた。記者からの指令を待つ。待つのは張り込みで慣れている。

 長い間考えていた。いつ連絡が来るか。どのような指令だろうか。どうやって女優の顔を捉えようか。そしてどのような顔をしているだろうか。それから報酬を得て自分はどうしようか。報酬金額は自分の生活ならしばらくだらだら過ごしても暮らしていけるものだ。まず下着を買い替える。そして着古したパーカーも買い替えて。それで。それから。
 ごうごうと低い音が天井の板の向こうで鳴っていた。巨大な建物には巨大な換気装置や空調が備えられているのだろう。きっとその音だ。人は廊下にもフロアにも来る気配がなかった。そしてやはり自分は誰からも知られず、世間の外れに取り残されている気がしてならない。この状況で記者から見放されたらどうしようとも思う。本当はこれは悪戯で、嫌がらせで、記者は自分を無闇に動かして遠くから笑っているだけだったらどうしようかと途方もない考えもめぐる。そうやって記者の事を思い返していると、ふと不自然な点に気が付いた。記者は言った。
「それにあなたの容姿なら目立たないだろうからきっとうまくいくと思う。」
 どうして記者はわたしの容姿を知っているのだろう。どうしてわたしが小柄で貧相な体型をしていると知っているのだろう。会ったこともないのに。自分はバイトアプリを通じて仕事を受けただけだ。面接もビデオ通話すらしていない。どこで見た。どこからわたしを見ていた。
 ミカミは椅子から立ち上がると、部屋の電灯を点けた。そして素早く天井に目を配る。
「あそこから?」
 天井の隅には、まるでUFOの円盤をひっくり返して取り付けたような、監視カメラが一つあった。
「見られてる。見られてる」
 ミカミは部屋から出た。そして廊下を見渡した。誰もいない。規則正しく円盤が天井にくっついている。
「見られてる? 本当に?」
 懐疑的だった。見られているはずがない。記者がわたしなどを貶めてもなんの利益もない。しかし七十五万の大金を自腹で払うという意気込みは、今こうして考えると不自然だった。記者はなぜわたしを局に侵入させたのか。わたしを生贄や囮のように使って、それで何の得があるというのだろうか。
 ミカミは行く宛てもなく混乱し、廊下を行ったり来たりしていた。すると廊下の先のほうで、部屋の扉が開き、誰かが廊下に出てくるのが見えた。それは黒い服をまとった人だった。そして服の型から女だと分かる。そんな風に眺めている間にも、黒い人影はゆっくりとこちらに向かって歩き出した。
それと同時にミカミの電話が鳴った。記者からだった。ミカミは電話口に出た。
「あのこれはいったい」
「女優が現れた」
 女優が現れた。ミカミは反射的に前方の人影と結びつけた。やはり記者は監視カメラでこちらを見ていたのだ。そしてわたしが逃げ出しそうになったので急に物事を動かし始めたに違いない。女優が現れるタイミングも、記者の電話も、都合がよすぎる。
「聞いてるか。場所は」
「分かってますよ。今目の前にいるんだから。」
ミカミは冷たく言い捨てた。何を図られているのだろう。わたしは指令通り彼女の顔を撮ればいいのだろうか。しかし記者は瞬間沈黙し、少し声を落とした。
「目の前に? どこにいる? 今あんたはどこにいる」
「○○階です。とぼけないでよ。見てるんでしょ」
「何を言ってる? 外だ。女優は外にいる。局の外に出てきたんだ。早く手分けして……」
 記者が声を張り上げたところで電話は途切れた。記者は何を言っている? 女優は目の前のあれではないのか。いや、ならば、目の前にいるのは一体誰なんだ。
 ミカミは混乱した。その間も黒い服の女はつかつかとこちらに近付いている。いや、つかつかという音もない。静かに、ゆっくりとした動作、に見えたが、時間が細切れになったように、女優の姿は途切れ途切れに向かってきていた。
 ミカミは瞬きすらできなかった。黒い女が近づくにつれ、その顔がこの目に捉えられてくる。いや、正しくは捉えられないでいた。女には、首がない。顎から上が、千切れるでもなく、崩れるでもなく、ゆらゆらと陽炎のように、透明な炎のように消えている。
 しかしミカミはスマホをかざそうとした。それがミカミの出来る、唯一の対応手段だった。なかば反射的に、なかば自動的に。が、上げかけたミカミの腕はゆっくりと下ろされた。重い、スマホが重い。
 女は近づくにつれて背を伸ばした。いや背だけではない。体全部が大きくなっている。遠近法を越えている。それ以上に縮尺が大きくなってきている。女は天井から覆いかぶさるように接近した。ミカミの口は首の角度と共に開いていった。やがて女は体を屈めると、ゆっくりと頭の位置をミカミの頭に近付け重ねた。それはキスをするような速度だった。
ミカミの頭が画角から消えていた。
「マザー。」
声が響いた。それはミカミ自身の声だった。しかし自分は声を発していない。自分の声が勝手に自分に語り掛けている。そして状況を伝えている。地の文のように読み上げている。今まさに。これがそうだ。これがその声。そうか。これは初めから。この物語は初めから、自分の声で読み上げている。
「マザー。」
 強く呼びかける自分の声がする。口元より上が吹き飛ぶような光と嵐が起こった。下半身を温かいものが巡るのを感じた。

 首なし女優の素顔が週刊誌によって暴かれた。しかしその記事はほとんど世間の注目を得られなかった。編集の時点で編集部もこれは売れないと見切ったのだろう。写真は週刊誌には載らず、ネットの三文記事で消費された。
 首なしであった女優はどこに行ったのか。もう誰も追わないし興味も示さない。
 代わりに新しい女優が売れ始めていた。当然彼女も首なしだった。記者は懲りずに彼女を追うのか。追わずにはいられない。仰がずには終われない。

 

死出の旅

 いい加減、金儲けをしようと思う。いろいろ方法を考えてみて、死出の旅はどうかと思い至った。これならやっている代理店もないだろう。競争も競合もない。無論、死を助けるのは法に触れるし倫理的にも良くない。何より自分の良心が痛む。しかし死を助けるのではなく、死んでからを助けるのであればそれはむしろ親切であり良心である。人が恐れるものは何より死だろう。それは誰にも死の先が分からないからだ。そこで人が死の末、どこへ行き何をするのかを旅程のごとく提案できれば、人はいくらか安心して永い眠りに、そして死出の旅に向かうことができる。これは案外いい発明だと思った。仏教的であるとすら思う。献身的ですらある。社会貢献的ですらある。

 早速私は死出の旅程を組むべく図書館へ赴いた。現地の資料を集めるのだ。何十という書架を前にして、私は勝ちを確信した。あの世や地獄といった類の本はびっしりと並んでいて隙間がない。つまり借りる者はなく、つまりまだ誰もこの発明に気が付いていないととれる。私は関係のありそうな本をごっそりと持ち帰り、ちゃぶ台の上に広げた。現地視察をしよう。とはいえ実際に私が死んでしまったら本末転倒だ。そのため空想で現地に赴くことにする。幸い借りた本の中に三途の河のカラーイラストがあった。子供向けの挿絵であったが、死後の人々がどれだけ苦しむのかが手に取るように分かるものだった。賽の河原では子供が獄卒に見張られ、対岸には懸衣翁と奪衣婆とされる鬼の老夫婦がいる。他には橋を渡る人や河を泳ぐ人、河原で石積みの塔を前にする少女などいろいろ注釈もあるが、とにかく自ら見てみないことには始まらない。

 近所の墓地の六地蔵に供えてあった線香の、まだ燃えていないものを数本集めて拝借してきた。線香は湿気ていて燃えにくかったが、根気よく火にあぶっているとやがて一筋の煙を上げ始めた。私はその煙を掴むように鼻の孔へ吸い込みながら、ゆっくりと目を瞑った。懐かしい感じがする。墓参りをする祖母の面影が過った。もうかなり以前に他界している。

 それから、今しがた眺めていた挿絵へ降りていく情景を思い浮かべる。容易に三途の河や賽の河原を見下ろす景色が広がった。そして私は降下していった。次第に河原が近づいてくる。しかし様子がおかしい。河原の人々は挿絵のような神妙な様子ではない。戦場か火事場のように恐々としている。私の下降はもう止まらなかった。流星のようだ。私の視点は、石積みの塔を前に座り込んでいる少女に向かっていた。ぶつかると思った瞬間、はっと彼女がこちらを振り向いた。

 

 目の前に、石を積んだ塔がある。手には平たい石が握られていた。それが今から積もうとしていた石なのか、それとも塔から下ろした石なのか、はっきりしなかった。石塔の石は十五を数え、そして十六、十七になろうとしていた。しかしあるいは十六、十五の石塔へと刻刻と崩しているところなのかもしれない。

 その塔の向こうからごり、ごりっと石の音を立て、小鬼のような少年が陽炎の中を走ってきた。日によく焼けたその黒い肌が、光の揺らぎの中を翻った。そして石塔が音を立てて崩れた。少年が一息に蹴り崩したのだ。塔は崩れて元の石の山となり、少年は何も言わずに立ち去った。それは私が作った塔だった。十七の石塔は、零の石塔になった。

 緊張と集中が途切れ、周囲の景色が一度によみがえった。音、色、光などが一斉に動き始め、目の前に巨大な河が現れる。そして白銀の河原、うだるような晴天、雲が流れた。

 眩しく、暑く、河原の全ては陽炎を立て、輪郭を揺らす。ただ色彩がある。人の肌の黄や白、黒や青といった色が、ゆらゆらと亡霊のように河原の上を動いている。

 河の音が戻り、しかし河原にはその音の他に二重三重とこだまする子供の泣き声が聞こえた。それにくわえて怒号や罵倒、悲鳴と嬌声が重なってくる。私は気にせず、すぐに一つの石から石塔を作り始めた。また狂騒が始まっている。しかしそんなこと、どうでもよかった。

 この河原に来るまで、道の無い藪を歩き歩いた。やがて藪が途切れて河原が広がり、周りの人が賽の河原だと言うのを聞いた。それは死んだ人が来るところだと思った。大きな河が流れていた。あれが三途の河だと言う人がいた。ならば河の向こう岸があの世で、地獄となるのだろうか。河には橋が架かる。みなわざわざ地獄に向かうのか。しかし見渡せば、こちらの河原もすでに地獄じみていた。暴力と盗み、欺瞞と貪欲で溢れている。

 河原では男の人が女の人を襲った。どこを見てもそうだった。

 すぐそばでも、知らない男が知らない女を押し倒している。女は拳ほどの石を握っていた。そしてその石で男の頭を打った。酷い音が鳴った。男は頭を押さえながら石の上を転げまわった。痛い痛いと叫んでいた。

 しかし男の頭の肉は割れていなかった。骨も窪んでいなかった。ここの住人はもう死んでいるのだ。だから体は傷つかないのだと分かった。

 男が苦しんでいる間に、女はそこから逃げようとした。しかしすぐに別から来た男に組み伏せられてしまった。今度は両手を封じられていた。うつ伏せの女と目が合った。私はとっさに足元の石を持ち上げようとした。しかし石は思うよりも重たく、指先はその硬い表面を滑るだけだった。私の手は小さく、腕は細い。こんな腕では、男を倒せるような石は持ち上がらない。いわんや持ち上がったとしても、正確に扱うのは不可能だった。

 私は彼らが見えなくなるところまで逃げた。河は永遠に続いて見えた。遠いところまで来た。しかし河の音はいつまでも続いた。流水の深みが両手で耳を覆うようだった。それから二度とその女と会うことはなかった。

 運よく石塔を買い取ってもらった少年を見たことがある。奇跡的に石塔を積み上げ、奇跡的に商人に出くわしたのだ。河原には石塔を買う商人が時たまうろついている。河原の商人に目が留まると、塔はだいたい橋銭ぐらいのお金に換えてもらえた。橋は橋銭がなければ渡れない。橋のたもとには、牛の頭をした人と馬の頭をした人が立っていた。獄卒だと人が言っていた。その獄卒たちにお金を渡す。すると通してくれる。

 しかし少年が商人からお金を受け取ると、すぐに男の人が近づいていった。男は石を握っていた。何か話し、少年は黙ってそのお金を差し出した。橋銭は奪われたのだ。しかし商人や獄卒たちは何も言わない。目の前で起こる盗みや暴力には無頓着だった。

 河原で起こるのはそういった略奪ばかりではない。男の人たちは、少年たちを脅かして自分の代わりに石塔を作らせたり、他の人のお金を盗ませたり、塔を壊して回らせたりした。そうして男の人が橋を渡って河原からいなくなると、次に男の子や女の人も子供を使ってそんな真似をした。自分で積み上げるよりも奪ったり盗んだりする方が早かったのだ。

 多くの人が橋を渡って行って、残されるのは小さな子供や、私みたいな女の子と、あとはどうしてもうまく石を積めず、そして子供たちを脅かせないような人たちだった。おじいさんやおばあさん。体が上手く動かせない人たち。商人に買ってもらえる塔はそれなりに大きさが必要で、大きな塔には大きな石が必要だった。残された人たちには、大きな石を運べる人は少なかった。

 残された人たちの多くは橋を諦め、河を渡ろうとした。橋の足に掴まって行くらしい。しかしうまく渡れる人と川下へ流されてしまう人がいた。それは半ば運だめしだった。流されたら、流れに身を任せていけばいいと言って笑って行ったおじいさんは、本当に深いところまで流され見えなくなってしまった。名前も知らないおじいさんだった。

 子供の足は例え浅瀬でも川底に届かない。だから石を積むしかない。そうして賽の河原にはいつも子供だけが残った。河原には強い風も吹く。雨も降る。小さな子供たちは石の擦れと暑さ寒さでいつも泣いていた。それでも子供なりに塔を作り上げようとした。小さな塔は簡単に崩れた。そのたびに、固い河原にうずくまって泣きはらした。河原にはお母さんお母さんといつも泣き声が聞こえていた。そのすぐ横で、体を重ねあう人たちがいる。殴り合う大人がいる。薄い石を積み上げながら、そんなことを思い出している。

 からからと、河原の風車が回転する。強い風が吹き始めた。風の尻尾を目で追うと、風は藪へ吹き抜けていった。

藪の雑木が揺れていた。枝葉は手を振るように左右へ動いた。葉は強く吹きすさばれても落ちなかった。振り子のように同じ動きを繰り返している。そこで私はふと些細なことが気になった。

 あの枝葉は左から揺れ始めたのか、右から揺れ始めたのか。

 しかし実際、左か右かなどはどうでもいいことだった。私が気になったのは分からないという点だった。枝葉がどちらからか動き始めたのか、それは今となっては分かりようがない。揺れ始めを見ていなければ分からない。でもそうやって分からない左右を無理に考えていると、右から左に動くことが、左から右に動くのとそう変わりがないことのように思えた。つまり右から左に動くということは、それ以前に左から右に動いていたという前提がある。そう思うと、右から左に動くという動作には、左から右に動く動作が含まれているように思えた。そして左から右に動けば、すぐ先の未来には右から左に動く動作が約束されている。そうなると左から右に動く前後には必ず右から左があり、さらにその前後には左から右が存在する。どちらが始まりなのかは今となっては分かりようがない。その分からなさが、いまあてもなく河原にいる自分にとって、なぜかほっとするのだった。

 いやな気配がして顔を上げた。河原の背の藪から、人影がぞくぞくと虫のように這い出てくるのが見えた。また河原に大人が溢れる。また狂騒が生まれる。石の塔は崩される。

 人影の中から、いくつかの影が飛び出した。そしてそれらは猟犬のように河原を走り始める。やがて河原の女の人たちが次々と捕まった。私は石を積む手を止め、空を見上げた。

 河原の一日はひどく曖昧だった。太陽は時に絵のように空に張り付き、時にシャボン玉のようにふんわりと空を横切っていく。長い夜もあれば、まだ空の片隅が紅いうちに白み始めるときもある。時間はきまぐれで測れなかった。

 すぐそばで、人の揉み合う、湿った音が始まり出した。そして河原の石と石がきしむ音、悲しい声が聞こえ始める。

 私は空を見上げ続けた。雲が流れる。風が吹いている。

 かたわらで飛沫が上がった。体液の透明な飛沫だった。それが私の頬にかかり、手の甲にかかり、見れば樹液のように丸い形でとどまっていた。小さな飛沫の粒は、太陽の光を得て丸く光っていた。その粒の光は、この場で見上げる太陽と同じ大きさをしていた。物の大小がひどく曖昧に感じた。自分が巨人のように大きくなったり、寄生虫のように体が縮んだりする錯覚を覚えた。そのどちらもが同時に私であるという意識に眩暈がした。

 空を流れる雲が黒くなり、やがて雨が降り始めた。河原は雨さらしだった。しかし人々は気にしない。それどころではないのだ。私も構わず石を積み始めた。

 雨は本降りになった。頭や肩に打ち付ける雨粒の感覚は、体の中で恒常的に響いた。長くその刺激を受けていると、やがてそれが普通になった。普通になると、感覚や考えている頭はひとつ体の内側へ縮小する感じがする。他人ごとのようだ。まるで段ボールの中で雨音を聞いているように、雨は粒の刺激ではなくなり、ただ頭上で起こる音の反復になった。

 点が、段ボールの上で上下に跳ねている。ひとつとして同じ雨粒はないはずだが、しかしその音と振動はどれも同じだった。途切れることのない頭上からの刺激は、私の感覚や思考をより内側へ内側へと縮小させていった。段ボールの中にまた新たな段ボールが生まれる。そしてまたより小さな段ボールへ。段ボールの中の、段ボールの中の、段ボールの中の、段ボールの中へ。

 縮小は下降にも近い感覚だった。それは動いているようにも感じる。しかし実際は縮むだけで自分の立ち位置は変わらない。ただその場で一歩も動かず、連続する刺激に押しつぶされていく。

 やがて河原の景色が上昇していく。私は河原の土の中へと押し込まれていく。

 私は下りながら、つまらないなと思った。死出の旅など、生きているうちと何も変わらない。死んでしまっても何もない河原で、ただ地獄に行くためだけに石を積む。生活と同じだ。周囲を見渡しても生前の醜さや汚らわしさは引き継がれ、無垢な雨風といった自然も、美しくなどなくただ無情なだけだった。どこにも発展や進歩といった時間の矢印は存在せず、静止した今に、瞬きを繰り返すだけだ。

 そう気が付いてしまうと、私は縮んでいった反動により浮力を得て急上昇した。私は再び河原に浮き上がり、視点はそのまま上空へと浮遊した。

 

 抜け出した。目の前には、開いた本に三途の河図がある。目を移せば、ちゃぶ台と一部屋の風景がある。私はその挿絵から抜け出したのだ。

 両手を見た。指の節はごつごつと太く、その背には黒い毛が生えている。これは少女の手ではない。男の、美しくない手だった。

 私は再び目を落とし、三途の河図のなかに、かの少女を探した。それはすぐに見つけることができた。群衆から離れ、やはり一人石塔を前にしている。前髪の短い、眉毛の無い少女だった。

 少女はまだ背の低い石塔に手を伸ばしたままだった。その手には丸く平らな石が握られている。

 果たして、この少女は石塔を作るところなのか、それとも崩しているところなのか。

 静止している絵では前後がない。そのため絵の中のストーリーは空想するしかない。

 もちろん少女は石を積むのに違いなかった。積めば橋銭になって地獄へ行ける。それが正しい話の向きだった。

 しかし絵は動かない。それは鑑賞者の特権だった。神や仏のごとく、少女を救うも堕ちさせるも、空想の中では意のままである。

 もし絵が動くなら、終わりがある。しかし空想は永遠に未完だった。絵が永遠に停止するからである。まだ少女を地獄へなど行かせない。少女は絵の中で抗い続ける。私は何度でも空想する。私は何度でも降り立つ。金儲けのことなど忘れた。そんなことよりも、永遠に絵の中で石塔と戯れ続ける少女と共に居たいと思った。塔は永劫完成しない。その牢屋のような運命に私は惹かれた。行き着く果てが今と変わらないのならば、私はこのつまらなさに少女をどこまでも道連れにして遊ぼうと思った。

 私は残りの線香すべてに火を点けると、それらを構わずちゃぶ台の上に放り出して目を瞑った。鼻から煙を大きく吸う。濃くつんとした感覚を得て、私は再び飛び立った。

 

 名もなき少女は今も白銀の河原で石を積んでいた。

 石積みの速度は初めて積んだ時からは格段に上がり、もう積みあがるまでの適切な位置や角度を掴めている。

 しかしそれでも、いつか陽炎のなかから小鬼のような少年が駆けてきて、石塔を蹴り崩してしまうだろう。

 少女は平たい石を掴んだまま、その手をはたと止めた。

 今この手に持っている石は、積もうとしていたものか、下ろすところのものなのか。分からなくなった。

 石塔の石は十五を数え、そして十六、十七になろうとしている。あるいは十六、十五の石塔へと刻刻と生まれ変わっていく。完成したはずの石塔はもうここに、この世に無い。また、一つから始まった石塔の姿などはもうとうに忘れて消えている。

 自分がなぜ死に、どのようにして藪を歩いてきたのか。それは大した問題ではなかった。それはもう消えてしまっているからだった。もしくはもとから何も無かったのかもしれない。どちらにせよそれを確かめる方法はどこにもない。

 河原は依然として暴力と盗み、欺瞞と貪欲で満ちている。しかしなぜか、その狂騒は自分に関係がなかった。いや、もし関与したとしても、崩れた石塔のように自分はきっと忘れてしまっているのだろう。

 ごり、ごりっと音が聞こえる。

 やはり陽炎の中から小鬼のような少年が駆けてきて、積みかけの石塔を蹴り崩していった。そして十七の石塔は零の石塔になった。また、河が流れ始める。河原が現れる。雲が流れる。どちらに流れるのかは、曖昧だった。

 すぐ、少女は何食わぬ顔で一つの石塔から石を置き始めた。また次の狂騒が迫ってきている。しかしそんなこと、どうでもよかった。(了)

藤や夢

 春霞が渦巻いた。やがてそれは縮こまり、その中心から人ならざるものが現れた。妖怪である。名前は銀貨と言った。かつて彼を買った主人にそう呼ばれ、変える必要もないためそのまま今にいたるのである。

 銀貨は砂の上に立っていた。それは公園の砂場だった。そしてそこは公団住宅の公園だった。砂場の縁には鼻水を垂らした少年が一人、突然現れた銀貨をぽかりと見上げていた。

「あ、砂かけ婆だ」

 そう思われても仕方なかった。砂地にいれば砂かけ婆、風にたなびけば一反木綿だ。しかし、と銀貨は空を見上げた。公団の白い居住棟が天を塞ぐように建ち並び眩暈がしそうだ。

 銀貨はにやりと笑って少年を見た。

「ぼくの家はどこ? お邪魔してもいいかな」

 少年は走り去っていった。後は追わなかった。無礼で粗雑な子供と同居するなど御免だった。

 他人の家に上がり込み、住人となる。銀貨にはそんな目的があった。砂場で砂を撒き散らす生活も、あてもなく空中を漂う生き様も自分にはそぐわない。そんなものになるよりも、やはり雨風がしのげる家の中で、誰かに生活を任せ悠々と過ごしたい。

 銀貨は手近な棟から始めた。戸口の前に立ちインターフォンを鳴らす。時代に連れて人々の生活様相は変わった。昼間でも留守が多く施錠もされている。夕刻のどさくさに紛れて勝手に宅に上がるなどという手口は難しくなった。

 できれば、年寄りの家だと御しやすい。点検だの管理だの口から出まかせに言って、それでいったん家の中に入ってしまえば後は容易に崩していける。まずは数時間。時間を過ごせば情が湧く。情を湧かせられれば追い出しにくくなる。くわえて掃除だの買い出しなどをしてやるといい。昔話をきいてやれば懐に入れる。厄介な役所手続きなどしてやれば家族と言い出す。以前に取り入った一人暮らしの老婆などはそうしてだらだらと数年同棲してしまった。葬式まで面倒を見た。遺族には感謝までされた。調子に乗って遺産の処分まで請け負った。古屋敷の買い手がなんとか見つかると、再び住む場所を探す身となった。

 次の宿り木に公団を求めたのは、屋敷住まいから離れたいためだった。年寄りや古い家と暮らすと自分も老け込んでしまう。妖怪の姿は見る者の心によって変化する。先の婆さんなどは銀貨へ先立った夫の姿をあてがったようで、年寄りのうつり気な認知が度々青年期の夫を銀貨に写した。そんな時、婆さんは恥ずかしがって押入れに隠れたものだった。しかし姿もそうだが、婆さんと暮らす数年の生活は銀貨の心も老いさせた。昼夜変わりのない暮らしぶりとそのだだっ広い屋敷は、切り離された時間の陰に婆さんと二人閉じ込められたようで鬱屈とした。彼女が死んだ今でもその骨と皮の腕が自分の裾を掴んでいるような気さえする。だから次の住処はこじんまりとして、未来のある家が良かった。時間と風が良く通る場所が良かった。

 居住棟を一階から六階まで上り上って留守が大半、一戸二戸は在宅だがインターフォン越しに断られて終わった。次の棟へ足を運ぶ。三棟四棟と足を棒にし、五棟目で不用心にも顔を出した住人にあたった。一番上階の六階だった。

「はあい」

 出て来たのは、眼鏡の奥に澄んだ目をした女だった。歳は学生かもしくはそれに近い大人だろう。髪は耳が隠れるぐらいのくせ毛だった。

「誰だろう」

 という目をしていた。自分の姿はどう彼女に見えているのだろうか。老人か若者か、男か女か。女は、銀貨が何を言うのか待っていた。この初めの接触が重要だった。できるだけ警戒は解きたい。数少ないチャンスを逃したくはない。

「突然すみません。ハウスキーパーのご提案で訪問させていただいている者ですが」

 これはあらかじめ用意していた誘い文句だった。清掃業者のセールスである。これならどんな年恰好でもまず違和感がない。

 銀貨は胸の名札を摘まみ上げる仕草を見せた。とはいえ名札などは作っていない。重要なのはそのように思わせるということだった。すると女は銀貨の胸元に目を遣り、そして頷く仕草を見せた。銀貨は目を細めた。女が信じ始めているのが分かる。女には清掃業者の訪問だと見え始めているのだ。

ハウスキーパー、ですか。」

「ええ、この度お掃除キャンペーンをいたしておりまして。お宅の気になる場所、どこでも一か所、無料でお掃除させていただきます」

「そうですか。ああ、掃除屋さんのことか。」

「ええ、無料でお好きなところをピカピカにさせていただきます」

「そうなんですか」

 唐突な訪問にも、女はからりとしていた。

「もちろん今回はお試しでして。それでもしお気に召されましたら、必要な時に呼んでいただければいつでも掃除に伺います。ですから御用がなければ二度と伺いませんし、こちらから今後セールスすることもありませんよ」

「なるほど、なるほど。」

 女は何度か頷いて見せた。髪が揺れ、ほのかだが薄紫を思わせる香りがした。

「お時間はそんなにかかりません。どこでもお好きなところを。お風呂でも天井でも、舐め上げるように綺麗にして差し上げますよ」

「そうですか。じゃあ、ぜひ。どうぞ中へ。お願いします」

と、女はつむじを見せた。少し、不自然に感じた。こうも簡単に入らせるものか。しかし銀貨は促されるまま、ドアの中へと足を入れた。

 ちぐはぐに転がった靴の数を数えると、どうやら女は一人暮らしのようだった。

 ひとまず中には入れた。しかし銀貨は身構えていた。女の警戒心が薄すぎる。これはとんだ厄介者か、もしくはゴミ屋敷に当たってしまったのではないだろうか、と勘ぐった。

 しかし家の中を見てみると、乱雑さはあるものの不潔というほどでもなかった。家具などは量販店で集めたのか統一感はなく、家電はどれも小ぶりで安価なもののように見える。折り畳みの背の低いテーブルには電子タバコの機具やキャラクターのマグカップ、灰色の大型のノートパソコンとひ弱そうな卓上ライトや加湿器が窮屈そうに置かれている。また床には衣類や鞄が直に投げ出され、部屋の角にはプラスチックの収納ケースと合板の本棚。本棚には背表紙の剥げた古本や古雑誌が並ぶが、そこからはみ出したものが手前の床に直に積まれ、読みかけ、というよりは収納を怠っている様子である。本棚の上にはシリコン製の眼鏡ケースや鋳鉄の置物、もしくはぬいぐるみや木製の工芸品がごちゃごちゃと置かれている。またその端には両手で包めるほどの大きさの植木鉢が、空の状態で倒されていた。壁際にはアルミ製の細いベッドが寄せられ、マットや布団のカバーにはどことなく幼い配色のものがちぐはぐに使われていた。ベッドにはまだ人が寝ていた皺が、繭のような形を残していた。銀貨はまだ飲食類が散らかっていないことには安堵した。一人暮らしなら綺麗なほうかもしれない。ゆっくりと鼻から空気を吸った。湿気と、人の肌のような甘い匂いが充満していた。

 女は室内を見られても特段気まずい様子を見せず、銀貨の傍でぼんやりと突っ立っていた。掃除する気などさらさらないが、するふりはしなくてはならない。家内に居続けるためには必要な方便である。銀貨は話を進めた。

「では、どこをお掃除しましょう」

「そうですね。そうだな。」

 女は判然としなかった。おそらく風呂やトイレは避けたいだろう。こちらも嫌だった。台所も、生ごみや頑固な油汚れがあるだろうからできればやめてほしい。換気扇や排水溝も取り扱いが面倒だ。女はまだ答えない。銀貨は手ごろな場所を探した。

「窓などいかがですか」

「窓ですか」

 女の目が少し明るくなった。窓掃除なら生活にさほど踏み込まず抵抗も少ないだろう。

「窓がきれいになれば日が良く入ります。網戸を拭けば風が良く通ります」

「そうですよね。窓なら。窓、じゃあお願いします」

「ではさっそく。お水、お借りしますね」

 銀貨は存在しない鞄から空想の雑巾とバケツ、洗剤を取り出すと、洗面所に立った。その際鏡に自分の姿が写った。それは眼鏡をかけた柔和そうな青年だった。この部屋の女をそのまま男にしたような、ぱっとしない、表情の少ない男である。

「恋人だろうか」

 銀貨は反射的にそう思った。自分の姿は住人の心模様で変化する。この男が誰であろうが、女がこの男を想っていることは確かだった。頬に触れてみる。浅黒いが乾燥肌ではない。また痩せてはいるが筋肉質でもない。薄い皮の中にはまだ若く柔らかい脂肪を感じた。

 鏡は水垢と埃で霞がかかるようだった。歯ブラシは一本だけだった。落ちた髪の毛が水受けに張り付き、排水回りは薄紅に色づいている。洗顔やハンドソープの類は区分なく並べられ、その足元は所々黄色い石鹸の垢が付着していた。何の薬か、棚の薬包には名前が印刷されている。おそらく女のものだろう。銀貨は蛇口を捻り、水を汲むふりをした。

 そこへ女が頭を出した。

「あっ」

 女はきょとんとした顔で声を上げた。

「どうされましたか」

「あ、はい。えっと、なんだっけな」

「お気になさらず、ご自由にしていてくださいね」

 女は戸枠から首だけ浮かせた状態で、洗面台の奥の洗濯機を見つめていた。彼女の唇が思いのほか厚いことに気が付いた。特に上唇が、開いた貝殻のようにぷっくりと上向いている。見ていると、その唇に触れたくなった。どこからか、甘い香りが強く漂う。空腹を感じた。

「あの、洗濯物、干してていいですか」

「もちろん、結構ですよ」

 女はにこりともせず顔を引っ込めた。銀貨は再び鏡に映った青年の姿を眺めた。

 この家の住人に手を出せば、ここに住み付くことは難しくなる。危険、異物、部外者とはっきり認識させてしまっては住むことができない。追い出されてしまう。が、住人が自分に好意を抱き、そして深い関係を結べたなら、自分が長居できる大きな理由にはなる。それは先の婆さんでもそうだった。

 今のところ、家に何か不穏な点は見当たらなかった。自分を安易に引き入れたのは、女がただの無防備でお人好しなだけだったからか。

「いや、本当にそれだけだろうか。」

 女の唇への衝動はどこから湧いたのか。春の酔いか。この青年が抱く欲動か。この青年はこの衝動を押し殺して彼女と過ごすのか。それとももうぶつけてしまっているのだろうか。

「外側から、始めますね」

 甘い香りが鼻に付く。銀貨は頭を冷やそうと、小さく狭いベランダに出た。

 ベランダには風がよく通っていた。銀貨は強風が吹くのに任せ、一度体を霞に戻して霧散させた。意識だけはそこに残した。頭がすっきりとする。

 家の中で、女が洗濯物を抱えて窓の傍にやってくるのが見えた。背の低い物干しを足元に置く。それがぱっと、低い枝木のように開いた。その枝木が日向にさらされた。

 女は洗濯物を広げ干し始めた。その際女は、霧散した窓の外の銀貨を忘れたように、ひとり歌を口ずさみ始めた。甘く、幼く、それでいてよく透る歌声だった。

 銀貨はガラス越しに思わず見とれた。聞きほれた。動けず、彼女から目が離せない。それは知らない歌で、無伴奏である分、次の音が予想できず、聞くことは透明な道を歩くように心もとない。が、その心もとなさがかえって幻想を掻き立てた。透明な道は光を映してきらめいている。そのように、彼女の歌声もきらめいていた。

 女の歌は息継ぎでさえ甘い音を響かせた。耳の奥まで届く、そんな音域があるのなら、彼女の歌声はまさしく銀貨の耳の奥やそれに通じる脳幹に達していた。それは煙草や酒の毒のように、彼女そのものもが無くてはならないと感じる恋にも近い心酔の力があった。

 歌が終り、銀貨はベランダから外を振り返った。眼下には午前の風景だけが残った。長閑な公団の景色だった。ほど遠いところからは鳥の声が聞こえる。あぶくのように食器の洗う音やテレビの声がする。日向の、土埃が焼けるパチパチとした微細な音でさえ聞こえるようだった。銀貨は女が物干しを終えるまで、しばらくそんな風景を楽しんだ。

 恋に似た高揚は、すぐに独占の欲を掻き立てていた。長年生きて来た銀貨にとって物欲も恋欲も飽き尽きていたが、それによりむしろ何か特別なものを渇望していた。命。それも老婆のように過去に囚われた枯れ木のような命では足らない。弾けないばかりに未来と可能性を秘めた、早熟の果実のような命がいい。それを自分の手中にできれば、どんな幸福に浸れるだろうか。そしてそんな至福と絶頂を得た瞬間にこの世から消えたいとすら願った。それで終わりでいい。それからは地獄でもいい。そして地獄に抱えていくものとして、この彼女の歌声も悪くないと思う。そうしてしばらくは、ここに住もうと決めたのだった。

 それから女の家へ住み着くのにさほど苦労はなかった。姿は女の心次第で自在に変わっていく。例の青年でもいいし、親戚や友人のひとりでもいい。なんなら動物でも虫でも構わない。ただ家の中に居るという姿勢を守り続けさえすれば、それで勝手に彼女の中で日常の風景へ置き換わっていく。たまに女の不思議そうな視線がこぼれる時もあったが、次第に乱雑した部屋の物のひとつとして銀貨は生活に取り込まれていった。

 そこにはもちろん銀貨の方の工夫もないではなかった。例えば風呂やトイレには一緒に入らない。消灯すれば視界の外にいるようにする。そうやって必要なプライベートは守りつつ、くわえて彼女が料理をする際には食器を二人分出しておいたり、自分用の座布団を調達して定位置に置いておいたりと、自分が住人である主張は随所に散らばせておく。また、生活が進むにつれて彼女がいくぶんそそっかしい人物だと分かってきた。滅多にない外出でも忘れ物をするし、失念や勘違い、思い込みは常時見られる。使った物は元の場所に戻さず、むしろなぜそこにと言う様な所に物が片付けられていることも多い。

 玄関では財布やハンカチ、リップクリームなどを手渡した。時期が来れば医療機関への受診を知らせ、税務署や職業安定所からの封筒が届けば捨てずに開けるよう伝えた。ピアスを雑誌の隙間から見つけ、スマートフォンを鍋の中から見つけ、靴下を冷凍庫の中から見つけ出した。女が柔軟剤ばかり買うので、銀貨が洗剤の方を用意した。掃除は同じところばかり拭き、物を動かしてはかえって部屋が乱れるのでやはり銀貨が片付けた。銀貨は度々台所にも立った。傷みかけた牛乳は料理に使い、もやしは水に浸けて保存し、キノコ類は細かく切って冷凍した。女は洗濯だけは得意なようで、下着の関係もあるから、銀貨はいっさい手を出さなかった。

 彼女は歌った。洗濯物を干すとき、たまに湯船に浸かるとき、何もしない夜。もう幾度となく聴いて歌声の道は透明では無くなったものの、無伴奏ゆえの空白や足取りのおぼつかなさはまだあった。その欠けている部分、知り得ない奥行きの隙間には風が通るようだった。そこに彼女の未知の果実が生るようで、切なく奥ゆかしかった。いつしか彼女の全てを知り尽くし、この生活を味わい尽くしたうえで、彼女を地獄への旅路へ道連れにする結末を、銀貨は思い描いたりした。

 しかしある曇り空の日だった。来客があった。事前に知る由もない銀貨は面食らった。というのもこれまでこの家に訪れる者など誰もなかった。すっかり彼女との生活に浸かり切って油断していた。

 客は男であった。それも、今の銀貨によく似た姿の男だった。

「やはり恋人だろうか」

 来客の男へ、銀貨は再びそう思った。しかし驚いたとはいえそれは不自然ではない。むしろ予期していたことだった。

 男は大きなケースを担いでいた。彼が家の中に上がる際、銀貨と目があった。しかし挨拶どころか目礼もない。ふいと、男はそのまま窓際に座り込んだ。すると女も駆け寄りその傍に寄りそう。いつもそうしていたように。

 男はケースから電子ピアノを取り出した。彼の細長い指が鍵盤に触れる。薄日にその指先と鍵盤がぼんやりと輝いていた。

 硬直をほぐすように、調べのない音が続く。それから、軽やかに流れが生まれる。音が旋律になる。その旋律に合わせて、女が頭を微かに揺らし始めた。逆光に、くせ毛は光の膜を纏うようだった。

 やがて女は歌い始めた。それはあの、いつも聞いていた透明な道の歌だった。

 歌は伴奏が付き、曲となり立体となった。それは同じ曲でありながら、銀貨の知らない歌になった。男が奏でる楽器は確かな道を描いていた。始まりと終わりが確かにあるそれは音楽であった。

 銀貨は自分の座布団の上で静かに二人の姿を眺めた。

 二人の世界。まさしくそのように、二人は時に見つめ合い、時に互いの音に耳を傾けながら、顔を寄せ、踊るように曲の道を歩んだ。互いに拙いところもある。時にそのつまづきに微笑み、時にその至妙さに善がり、曲が終わるとその有終に、二人は果てたようにぼうっと酔い痴れた。

 銀貨は実に冷めた心地で二人を眺めていた。二人の歌は、二人の間で完成していた。誰一人観客を必要としていなかった。立ち入る余地はない。

「それは、なんていう曲なの?」

 しかし銀貨は割って入るようにそう二人に問いかけた。男はまだ余韻に浸るように俯いたまま鍵盤を鳴らしていた。代わりに女が顔を上げ、何かミュージシャンや曲の名前を教えてくれた。

「なんだ、人の曲を歌ってただけなの」

 銀貨はつまらなそうに文句をつけた。

「君が、君たちが作った歌だと思ってた」

 そう続ける不躾な銀貨よそに、女はまだ余韻を抱えるのか、違うよ、と幸福そうに首を振った。くせ毛が光の中で揺れた。

「泥棒みたいだな。」

 銀貨はつい、幸福そうな二人へ難癖をつけた。女はこちらを振り向き、男は鍵盤の手を止めた。

 男が眼鏡の中から少し睨む表情を見せた。

「ちょっと、洗濯物。」

 女は少し不機嫌そうに立ち上がると、洗面所へと姿を隠した。

 銀貨は卑屈そうに笑った。男は鍵盤を鳴らし続けた。

「泥棒」という自分の言葉を耳の中で復唱し、銀貨は噛み締めた。それは他人が作った歌を二人の遊戯にしているという意味でもあるし、自分のものにしようとしていた彼女を盗られたような心情でもある。どちらにせよ言いがかりには違いない。それに男から見ればまだ銀貨の方が泥棒であった。

 鍵盤の音が止んだ。目を遣れば、男が立ち上がっていた。と思えば、そのまま振り返ると、真っ直ぐに窓に突き進んだ。ぶつかる。と思う間もなく、男は窓ガラスをすり抜け、ベランダの手すりを乗り越えると下へ落ち消えていった。

 歌声が聞こえた。女が洗濯物を抱えて現れた。そして何事もなかったように窓辺に物干しを開くと、いつものように洗濯物を干し始めた。

 男が消えたのに女は何一つ反応を示さない。まるでそれが日常のことのようだった。

 銀貨は直感した。

「ああ、人が棲む家ではなかったか」

 さて、それでもこの家に居座り続けるか、と銀貨は迷った。今のところ自分に害は及ばない。しかしこれ以降害がないかどうかは分からない。そのように座布団の上で考え込んでいると、再び玄関が開き、また同じ男がケースを携えて入ってきた。そして窓際に座り込み、すると女が駆け寄り、歌が始まる。男が飛び降りる。女の日常が始まる。女が洗濯をする。男とすれ違う。女が出かける。男が鍵盤を弾く。男が飛び降りる。女は洗濯物を畳む。二人は時に影のようにすれ違い、時に交錯しては歌を歌う。無作為と永劫の回帰。何重にも重なる二人の影の導線が、家中に網のように入り組んだ。

 それは誰かの夢を覗くような光景だった。女か男か、どちらの思念がここに残り、うつし世の続きを見ている。

 銀貨は顎を落とし、静かにその幻影を眺めた。そこはやはりいわくつきの家であった。男か女か、いやもしかするとどちらも死んでいるのかもしれない。

 銀貨としては、ここに住める分にはそれでも構わなかった。夢であれ、まだ女の歌声を聞ける。そう思えばむしろ住み続けたくも思う。しかしそれだけではあまり意味がなかった。この家にはもう自分が求めるような命はない。ただの抜け殻である。ここには、未来が詰まるような命の果実はない。

「別の家をまた探すか」

 そう思った。が、捨てようと思えばやはり惜しいのは彼女の歌声だった。彼女自身はいなくても、その歌声だけは連れ去って行きたい。

「仕方ない、見つけるか」

 銀貨は部屋を顧みた。銀貨が整頓した部屋はいつのまにか乱雑に戻っている。いまの家の主は、そうやって部屋を復元し、身を隠しているらしい。

 布団を剥がし床に投げ捨てた。ベッドをひっくり返しマットを破く。本棚を倒し、空の植木鉢が割れた。男の弾く、鍵盤の旋律が激しくなった。物を壊すごとにぶちぶちと乾いた音がした。その度に、床には髪の毛の束のようなものが落ちた。

「これは、蔓だ」

 そこに袖を引かれるような感触が起こった。見れば、銀貨の腕に、足に、首に、黒い蔓の手が伸び絡まりついている。

 銀貨は首や四肢の蔓を引きちぎると、古本を隈なく開き、机の脚を折り、マグカップを割った。女の歌声は、叫びのように高らかに響き始めた。冷蔵庫の中をすべて掻き出し、洗面台の棚を壊し、鏡を割り、風呂の蓋を蹴破った。そこにもいない。浴槽には代わりに蔓が鳥巣のようにこんもりと敷き詰められていた。

 蔓を引き寄せて辿った。それは洗濯機に繋がっていた。

 銀貨は洗濯機の蓋を開けると眉をひそめた。そこに彼女がいた。彼女は体を丸め、植物の苗木を抱きしめる形でこと切れていた。

「なんでまた洗濯機なんかに」

 銀貨は顔を歪めながら、彼女の胸から苗木を引き上げた。根が、彼女の骸に繋がり張っていた。ぐっと力を込めて引きはがす。赤い、百足のような根が抜けた。目の高さまで持ち上げて眺めると、若枝の先に薄紫の花序がひと房、小さく垂れて揺れていた。藤の花だった。銀貨は思わず頬を緩めた。

「見つけた。」

 遠くで女の歌声と鍵盤の音色が聞こえる。黒い蔓が、若枝から噴水のように伸び出した。壁や天井に張り付き、その微かな音色にすがるよう這って行った。

 銀貨は口を顔じゅうに開け、一息に藤の苗を丸呑みし、外にはみ出る蔓を噛みちぎった。甘い、透き通った香りが鼻から抜けた。しかしそれも喉の奥に落としてしまうと、一切の名残もなく消えていってしまった。

 銀貨はゆっくりと洗面所から顔を出した。部屋は時間を失ったように動きが無い。男も、鍵盤も、彼女も、歌声も、いなくなった。

 ただその一瞬間、天井から垂れ下がる一面の黒い藤棚を見た。蔓がはびこり、葉が隙間を埋め、垂れた無数の花序が死の裾のようにどこまでも続いて行く。しかしそれも幻想に違いない。瞬きと同時に消えてしまった。

 銀貨は誰も居なくなった部屋を渡り、ベランダに出た。

 二人がなぜ死んだのか。それを知る由もなくまた必要もない。ただこの家の藤だけはそれを知り、二人の至福の時間だけを訪れる者に残し続けていた。伝えようとしたのか。銀貨はそう思いめぐらすも、それもやはり答えはない。ただ見る者がいるという事実があるのみである。来訪者に見せるのは、おごりか、うぬぼれか、だとしてもそれは命の一つであった。

 腹が痛み始めるのを感じた。しかしそれは、人を食ったときほどではなかった。

 ベランダの手すりから下を覗いた。死ねばみな地獄に行くと相場は決まっている。死者は地獄で手を取り合って生きるのだ。

 銀貨は眼下に広がる公団の景色を見渡した。歌声は聞こえない。それでもまだここに残るか迷った。(了)

金曜の水牛

 

 父親が死に、ツツミに寄り付く男はいなくなった。なぜだろうか、彼女の方から誘いをかけても男たちは乗って来ない。またある程度感触の良い関係になっても、父の死を話すと男たちは逃げるように去ってしまう。そうしてツツミは退屈が続いた。苦痛だった。彼女には恋愛が必要だった。
 就職して三年、新人の堅苦しさや従順さはとっくに抜け、代わりにあるのは愚痴や冷笑ばかりになった。それだけでは過重な頭脳労働の見返りは得られない。酒、煙草、いくらかの遊戯を経て、幸福感を得るための総合的かつ効率的な方法は恋愛へと帰結していた。
 男を漁り、脳に火花を散らせる。そのためにはまったく知らない男ではだめだった。日常に関わりのある、例えば職場の同僚や昔の同級生など、身の上の認知と、恋愛に至るまでの過程がないと火花は散らない。そしてそれが上司、既婚者、友人の恋人など、世間的にタブーであればあるほど火花は綺麗に映る。
 そんなある金曜日のことだった。ツツミは一つ歳上の、マキという先輩に呑みに誘われた。もちろん、快くそれに乗った。
 彼は外回りの営業で、よく日焼けした精悍な男だった。年齢が近いこともあり、マキはツツミにとって一番身近な先輩だった。
 これまでは彼との恋愛はなかった。ツツミが仕掛ける日常的かつ無差別な誘惑にも、彼だけは近寄ってこなかった。彼はあくまで同僚という線引きを越えず、かすかな可能性すら匂わせなかった。ツツミの方も無理に動くよりは他の男を引っ掛けた方が早い。結局マキとは同じ営業職の同志戦友として落ち着いていた。
 その戦友として二人で飲みに行くこともままあった。「優秀な後輩」「飲み友達」「敬語は使わなくていい」マキはいつもツツミにそう言ったし、彼女もそれが心地よかった。気にせず煙草が吸い合える相手というのも、お互い貴重だった。二人はいつも浅く酔うだけ、それであっさりと別れて帰るのだった。
 酒の席での話題はたいてい金欠や仕事のことだった。しかしこの日は違った。
「奥さんがやられちゃったよ」
 マキはそう言った。ツツミは半ば笑いながらも、すぐに冗談ではないと察した。続きを聞けば、どうやら奥さんに不貞を働かれたらしい。正確には、手籠めにされたということだった。彼は新婚だった。
「どういうことです?」
「奥さんがさ、友達と二人で海外旅行に行ったんだよ。その旅行先のバーで二人組の男と呑んだらしい。でも飲まされ過ぎて、それで」
「やられちゃったと。」
 マキは苦々しく頷いた。旅行先はスペインだったらしい。ツツミは連想的に闘牛を思い描いた。現地在来のたけだけしい闘牛。隆々とする筋肉の塊。鼻息荒く、血走った目で動く逞しい外国人。しかし話を聞いていると、どうやら相手の男たちは外国人ではなかったらしい。旅行か留学か、ともかく奥さんたちと同じように遊びに来ていた、若い日本人らしいとのことだった。
 奥さんから聞き出せた情報はそれだけだったらしい。相手の特定は難しく、復讐のしようがない。また奥さんも泣きながらそれを打ち明け後悔と反省を示した。だから犯人捜しはもういいんだとマキは言った。
「泣かれるともう問い詰められない。泣きたいのはこっちだけど」
 そんな彼に同情しながら、ツツミの頭の傍らでは透明な火花が泳いだ。異国の地での火遊び。放漫の自由さ。ツツミはむしろ男も奥さんも、同じ火花を求めに行っていたのだと想像していた。
「そしたらさ。どうするんですか」
 ツツミは冷酒を口に含み、喉が微かに焼けるのを遊びながら曖昧に投げかけた。マキは少し不思議そうな顔をし、どうするもこうもと卑屈そうに笑った。
ツツミはお猪口を両手で包んだ。
「先輩はしないんすか。浮気。」
「ああ、仕返しに?」
 マキは意外にも素早くツツミの文脈を拾った。
「そう。夫婦なのに片方だけが悪いの、気持ち悪いじゃないすか」
「すれば、すっきりするかな。もやもやして鬱陶しいんだ」
 彼は胸の辺りで手を仰いでみせた。指に挟んだ煙草の煙が渦を巻く。
「ですよね。でも相手以上に悪いことしたら、きっと気にもならなくなりますよ」
 そう言われ、彼は鼻から煙を漏らしながら目尻に皺を作った。
「でも今さら相手を探すのもめんどくさいや。そんな気分にもなれないし」
「そうですか」
 話が途切れ、ツツミの意識は瞬間周囲へほどけた。店内には少し前に流行ったラブソングが流れている。その他には、男の低く響く笑い声と、はやし立てるような拍手が鳴るのが聞こえた。
「まあとりあえず今日は呑みますか」
 ツツミはお猪口を空けた。マキは眉をしかめながら注文のベルをひとつ鳴らした。
 彼ははじめ酔いづらそうだった。が、その分急激に顔を赤らめた。次第に目が座り、くだをまきはじめる。ツツミも同調し、できるだけ先輩に味方しながら、またできるだけ奥さんの過失を抑えるよう努めた。
「よくあることっすよ。先輩が悪いわけじゃなくて。誰も悪くなくて。こんなの、よくあることなんす」
 ツツミは絶やさず酒を注文した。グラスが空く前から二人分ずつ頼んだ。
 マキは程なくして潰れた。生地の薄いスーツを縒らせ、机に突っ伏してしまった。すると彼の後襟があらわになった。微かに雲脂が乗っている。中の白いシャツは内側が黒ずんでいた。襟足には濃い体毛が、じょりじょりと首の根元まで続いているのが見えた。
 ツツミはその毛の生え様を見通すと、急にみすぼらしさを感じた。
 机の上も、店内の様子も、目新しいものは何一つない。飲みかけの安い酒に、食い散らかしている塩気ばかりの食事。汚れた皿に、尻が痛くなり何度も座りなおしている椅子。底冷えする店内と酒が及ぼす火照り。そこに、妻を取られた男と対峙しながら、一人で酒を飲む自分。実にあさましい感じがした。しかしそれは何も食事や店や先輩の事だけではなかった。
 金曜日だった。この金曜日の、このありようが惨めだった。二五数年生きて来た最前列がいまここで、人生の集大成がこの金曜日ならば、私の人生とはいったい、と、そんな虚しさを感じる。
 しかしだからといって、今さらこの場で何か変えられるような運命もない。現象は素直だった。ツツミは我慢していた尿意に席を立った。
「久しぶりに遅くまで呑んだな」
 終電が近づいていた。店内のひと気はまずまずまばらになりつつあった。ツツミはトイレまでに連なる各ボックス席を、秘かに覗きながら行った。木製の格子から見える場景は、どこも似たようなものだった。誰も彼も酒に人間味を失っている。うわの面を擦り落して露出した、赤黒い顔ばかりだ。それを横目に手洗いの前を通っていった。
「まるで牛だ」
 久しぶりにそんなことを思った。ツツミは目の端に嫌な影を感じながら、トイレの扉へ滑り込んだ。
 やがてツツミは便座にまたがると、つい酒の浮動を感じ、それが去るまでの少しの間、静かに目を瞑っていることにした。

 

 この世のどこかには強大な魔神がいる。子供のころにはそんな漠然とした畏怖があった。
 魔神は例えばビル群の上の雲の向こうだとか、地下鉄の隠し通路を抜けた洞くつの中だとか、そういった見えない所に潜みながら、度々地上へ下りてきて、悪の種を産み落としていく。産まれた悪は影を伸ばして人々を手先へと変え、悪に染まった人間は魔神に従いさらにその悪を広げていく。
 初めそれはどこか、遠い都会のことだと思っていた。でもそれは、どうもけっこう近く、案外身近にいるのだと気が付いた。
 転校生はまだ慣れない校内を一人で移動していた。その時、三階廊下の窓の前に一人で佇む少年に出くわした。少年は片手で一組の靴を携えている。やがてそれを窓の外へと突き出すと、ごく普遍的な動作で手を開いた。靴は音もなく、窓の枠外へ消えていった。と、少年と目が合う。彼は照れくさそうにはにかみながら、「内緒にしてね」と走り去っていった。
 初め彼が何をしていたのか分からなかった。けれどその日のホームルームでクラスメイトの靴が無くなったからみんなで探そうということになった。クラス中の目が、まぎれた異種を警戒するように、ざわめき立って錯綜した。その中で、かの少年と目が合った。彼だけは呆けたように動かずこちらを見つめていた。教室には多様な声が飛び交う。転校生は次第に事の重さを理解した。悪の片棒を担ぐような恐れすらあった。転校生は足を震わせながら手を挙げ、自分だけが唯一知っている、小さな悪の事実をその明るみに晒上げた。
 特別な目線と、特別な賛辞。ふわふわとした幼い教室の空気のなか、どんよりと明るいグラウンドの曇り空が見えていた。そこに、ただ一人ピリピリと毒のようにしびれる緊張がいつまでも残っていた。
 その後、少年の顔はみるみる表情を取り戻し、なぜか一番の被害者のように大きな声を上げて泣いていた。転校生は驚いた。少年は先ほどとはまるで別人のようになってしまった。きっと、悪は見つけ出されると逃げだしてしまうのだ。
 ならば逃げ出した悪はどこへ行ったのか。奴らは度々その痕跡を見せた。奴らは漫画のように分かりやすい見た目をしていなかった。同級生を騙して電車賃をせびる塾生や、満点のテスト用紙を破り捨てる親友。プレゼントした蛍光ペンを、別の女の子に贈る初恋の男の子。
 成長に伴い、魔神への畏怖はいつしか消えていた。想像に過ぎないのだと分かっていった。それでも悪はいた。奴らは人と人とを瞬時に渡り歩き、鵜の目鷹の目をすり抜けていった。いつしかその悪を追う、自分の目が肥えていった。カンニングしても案外ばれないこと。万引きの子供と目が合ってもやり過ごしたこと。恋の応援をしながらそれを奪えること。
 悪の目が肥え、一度慣れてしまうと、さらにもっと外へ、別の悪を探した。
 未成年の飲酒、喫煙、淫行。大学生活は友人や恋人の下宿にたむろし、牛のように堕落した。けれど酩酊し、体をいくら汚しても、ぐっすりと眠って湯に浸かれば嘘のように浄化された。不真面目、非効率、無意味、それらは全部悪であるが、しかし同時に心強い味方でもあった。そのためさらに他の悪を探した。悪とは自分と異なるところに必ずその痕跡を残すものだった。
 ひとしきり成長の過程に身を汚したとき、はじめて悪のその姿を捉えることができた。それはやはり日常に、身近に潜んでいた。
 水牛が河から這い上がる。その様に、光沢がある濃紺の分厚いスーツが、夜の影を滴らせながら上がり框へのし上がってくる。
 父が帰宅するとき、そんな光景を見た。父は毎週金曜日には決まって酒を飲んで帰った。そして、それを出迎えなければ父は怒った。
「おかえりなさい」
 その日焼けと酒気で赤黒くなった皮膚は、同時に酔いと闘争の疲れで青色が混ざり不健康な色をしていた。その皮膚が真っ白な襟から伸びて首、頬、そして短く刈り上げた襟足から頭部の地肌まで続いていく。酒の甘い香りと埃っぽい外気が混ざり、室内で強い異臭を放った。ぎょろぎょろとした黄色い目は、疲れた瞼に押し潰され、黒目勝ちな表情のないものになっていた。それが、ぐっとこちらに向けられた。
 その瞬間、左右に伸びた巨大な角の影が見えた。両目は左右に垂れて離れ、鼻と口は力なく前方へ突出している。その鼻が地に押しつけたように正面で潰れ、口は言葉を忘れたように真横へ結んである。
 正気ではない。それが一目で分かった。激高しきり、そして疲弊して呆けた水牛が家へ上がりこんでくる。泥浴びしたように、世間の汚れや病を厚い皮のように纏いながら。
 しかし悪は、見えるだけで他に何も悪事を働かなかった。悪も酒に酔い危機感が薄れるのか、例え見つけ出されても居心地が良さそうにそこから逃げようとしない。それは不浄だった。しかし追い出す方法もなければ、離れようもなかった。
 時が経ち就職して社会へ出ると、やがて他の悪を探す暇も無くなっていった。
 過酷な頭脳労働の見返りに夜や休日を欲望に溶かし、享楽に一度染まれば生活はすぐに堕落した。カフェイン、ニコチン、アルコール。エンドルフィン、ドーパミンオキシトシン。それらを得て失い、また得るために失う生活の繰り返しは、いつしか効率的な方法に帰結し、乱雑に恋愛を追い続けた。純愛でも浮気でも一夜でも構わず請け負った。
 男らが酒を飲み、そして服を脱ぐ。それらの体はどれも汚いものだった。しかし、自分の体も似たようなものになっていた。学生の時の浄化の能力も、もう追いつかない。
 汚らしいと忌避するよりも、むしろ同じ泥水に飛び込み、すすり、笑い転げることの方がどれだけ幸福か。
 そうやって享楽に自分を見失っていたときに、父は急死した。胃癌だった。酒と煙草と大食からくる過剰な胃酸が自らを破壊した。あの大きな体躯には皮肉な、内側からの自滅だった。父に見つけ、留まっていた悪は、彼の死と共に消えてなくなってしまった。


 ツツミは目を開けた。酔いの浮動は治まり、肌寒さだけが残っていた。便座から尻を引きはがし、出たところの洗面台で手を洗った。鏡には彼女の姿が映った。目が充血している。彼女は微かに口角へ力を入れた。しかし左右へは上がらず、ただ真横へ線を結んだ。
 ツツミは席に戻ると、机に突っ伏したままのマキを見下ろして言った。
「マキさん起きて。つぎ、いける?」
 彼は顔を上げた。そして
「死にたいぐらい気持ち悪い」
 と、苦しそうにはにかみながら舌を出した。
 連れ合って外に出ると、人々の様々な思惑がそこら中に広がっていた。女の腕を引く男。男の背をさする女。何か口論をする男たち。ツツミは目を忙しなく動かしながら、しかし迷いのない歩みで繁華街を進んだ。
「ねえ、こんなこと聞いて悪いんだけどさ」
 足並みをそろえて歩いていたマキが、出し抜けに口を利いた。
「はい?」
「お父さん、亡くなったじゃん」
「あ、お通夜、ありがとうございました。忘れてました」
「いや……。それで、すごく失礼なこと聞くけどさ」
「はい」
「亡くなる時って、やっぱり苦しいのかな。苦しそうにしてた?」
 ツツミはマキの顔を盗み見た。言葉とは裏腹に、彼は涼しそうな顔をして歩いている。確かに夜風が気持ち良かった。ツツミは死が近づく、父の寝室や病室を思いだした。そこは過剰な加湿と、涼しく陰った部屋だった。
「病気っすから。かなり苦しそうでしたよ。ずっと何かに怒り続けてるぐらい」
「そうだよなあ、やっぱ」
「でも苦しさより、死にたくないって気持ちの方が感じましたね。痩せた……」
 痩せた体は筋肉が落ち切り、浅黒い皮と骨ばかりでもう何も残っていないことが良く見て取れた。しかし目だけは、その力を失っていなかった。ともすれば誰かの袖に噛み付き、床に引き倒してしまいそうな迫力がある。そこにはただ運命を受け入れるような優しさや賢さはない。それは執着だった。まだ生きていて、これからも生きるというあまりにも愚直な生き物のあるべき姿だった。
「牛みたいに、起き上がれなくなっても。」
「ふうん、そうか。牛?」
「なんでそんなこと聞くんすか」
 ツツミが再びマキの顔を見ようとしたその時、不意に正面から来ていた若者の集団と鉢合い、すれ違いざまに飲み込まれた。二人の足並みは交錯する体に一度前後して乱れた。左右で上ずった男女の声が行きかい、二人の会話も途切れる。街灯が彼らの首から上を夜の街に浮かび上がらせた。全く知らない、これから出会うこともない、ただの首たちが浮遊する群れだった。それは今だけは過去や未来を忘れ、今だけを笑う人たちだった。
 ツツミはその瞬間、つまらなそうに足元を眺めた。しかし集団が行ってしまうと、自分の脇へマキの手が差し込まれ、それに思わず微笑んだ。その時漏れた彼女の微かな呟きは誰にも聞こえなかった。
「牛だ」
 二人は繁華街を抜けた。そこは南北に横切る真っ黒な河の前だった。河を渡った向こうの並びに一棟だけ、深夜にもネオンを掲げる背の高い建物がある。そのネオンが川面に映って光の船が停まっているようだった。二人は河を臨んで足を止めた。
「あそこでいいですか」
「……ん。そうだね」
 これから生まれる悪は、マキの奥さんの働き以上でなければならない。でなければ、意味がない。惨めさを拭えない。惨めさとは、悪の喰い合いに負けた現象だった。
 身近な悪が父の命と共に消えたのなら、悪を呼び戻すのはその逆なのだろう。悪が、産み落とされる。金曜日の行為の果てに、水牛の子が産み落とされる。
「ねえ先輩。浮気以上の悪ってなんだと思います?」
 マキは一度不思議そうな顔をし、そして思い出したように口を開けたが、答えを聞く前にツツミは言った。
「私は、命の重さだと思う。」
 ツツミは言い捨てるとそのまま川沿いに歩いた。マキは何も言わず後に続く。歩みはやがて、河の橋の上に差し掛かった。
「ねえ、コンビニ寄らないと」
 橋の上は往来が途切れていた。そのためマキの声は橋の最中まで届いた。
「寄らなくていいですよ」
 ツツミは歩みを止めずに声を上げて応えた。
「え?」
 マキは自然と上空を仰いでいた。
 橋の上へ、何か巨大なものが舞い降りている。
 それには姿が無かった。が、欄干の足元に連なる照明の光には、その影だけが現れていた。影だけが橋と、その上のツツミに覆いかぶさっていた。
 ツツミもそれを見上げていた。マキは彼女のそんな様子を橋の入口から眺めていた。
 上空を見上げるツツミの顔も同様に陰っていた。が、その彼女の目線は上空から徐々に降下し、足元、橋の上へ留まった。そして橋の上の巨大な影が一度形を変え、翻ったかと思うと、ツツミの髪を巻き上げ、また上空へと飛び立っていった。
 静寂は続いた。ツツミは橋の中央を見つめたまま、やがてそれに近付いた。そこにはやはり何も見えない。しかしツツミにだけはそれが居ると捉えられているようだった。
 ツツミはそれのそばにしゃがみ込み、そして両手を広げると、その何かを抱え上げた。ちょうど犬か、いや、もっと大きな動物を抱え上げる様な仕草だった。少し暴れるのか、ツツミは両腕を左右に動かしながら、欄干のそばへ近づいた。
 大きさの割にその重量はあまりないのかもしれない。ツツミは抱えたそれを頭の位置まで持ち上げると欄干の外へと降ろした。手すりを脇に挟み、続いて上半身を河面へ垂らす。
 そして彼女は微かに体を跳ねさせると、欄干の外に垂らし折り曲げていた両手を一息に開いた。続いて夜の河の音が戻り、その少し後で河面が重たく弾ける音がした。
 マキはいつの間にか姿を消していた。逃げたのだろう。しかしツツミはそれに気づかない。彼女はしぶきの残った白い河面ばかりを眺めている。実に興味深そうに、しばらくは我を忘れて。(了)

 

 

僕らの内臓

 アラカシさんがしゃっくりをしたんです。かわいかった。

 それは彼女が書類を持って来てくれた時でした。書類を僕に渡して、それで

「ひっく」

 としゃっくりをしたんです。

 意外だったのは彼女が少しも恥ずかしそうにしなかったことです。それどころか彼女は僕の横に立ったまま、しゃっくりをして、そしてにやりと笑ってみせました。

 彼女は普段クールというわけでもないし、愛想も悪いわけじゃない。でもなかなか腹を見せないところがありました。職場では常に体のいい他人行儀というか、人間臭いところを見せないんです。表情もあまり変わらないし、大口を開けて笑ったり大声を出したりするところも見たことがない。だからしゃっくりは、そんな彼女の珍しくも人間臭い一面でした。僕は嬉しかった。彼女の素の部分が垣間見えたようで。

 僕はアラカシさんにしゃっくりの治め方を教えました。

 彼女は僕の言う通りに息を止めました。いや、息を止めるというか、内臓を抑える感じです。みぞおちに手をあてて、内臓をぐっと縮こめるイメージをするんです。そうするとしゃっくりが治まる。

 彼女は僕のデスクの横に立ったまま、僕の言う通りにみぞおちのところに手をあてて、目をうっすらと閉じました。腹に意識を向けるためか、呼吸の動きだけがあります。それが祈りの姿のようで、祈りもまた彼女の素の部分のようで貴重な光景に感じました。

 彼女はひどく無防備な状態でした。彼女の意識はきっと、内臓のイメージの中にあったはずです。僕はそれを眺め、彼女の内臓が透けて見えてくるような気がしました。華奢で、小さな、内臓です。

 彼女の呼吸は次第に伸び、そしてしゃっくりは目に見えて頻度を落としました。音も、小さくなっていく。

 ともすると、それは僕の仕業でしょう。跳躍すると、僕の両手で彼女の内臓を優しく抑えていたような感じです。

 僕はその時はっきりと分かりました。彼女のことが愛おしい。

 しかし彼女は既婚者で、しかも僕は、彼女が毎日夫の送迎で通勤していることを知っています。通勤補助で定期代を貰っているはずだから、こっそりです。

 何度かその場を見たことがあります。職場の建物の裏手側、朝のひと気がない細い道、黒い車が停まり、助手席から彼女が降りる。まず見えるのは黒い厚手のタイツに白いスニーカー。職場では制服に着替えるから、その恰好が一番通勤に適しているんでしょう。それも僕は愛おしく思います。黒の防寒生地に白のスニーカー。スニーカーの内側の柔らかい布地が、彼女の足を包みます。まるで僕が両手で覆うように、足の感覚も靴の方の感覚もありありと僕には想像できる。その柔らかい感触が彼女の生活を包み込んでいるようで、また自分を大事にできるという彼女の人柄が垣間見えるようで。彼女は取り繕った職場の裏側で、彼女自身とその生活を優しく過ごしている。僕はそれも愛おしいんです。

 それで、愛おしいという気持ちを、どうにか消化しなければなりません。

 なぜなら彼女は既婚者で、そのため、僕は彼女にこの愛情を向けることができない。持て余してしまうんです。

 行方の無い愛情はひどく窮屈で、息苦しい。今のところ僕はしゃっくりの止め方を教えることぐらいしかできない。書類を回し合って不備が無いか確かめることしかできない。僕は彼女の足を包むこともできないし、彼女のために荷物を持ったり、健康的な食事を作ったりすることも許されない。もっと、僕は彼女の生活の音を確かめていたい。眺めていたい。

 そんな叶わない期待と希望が、僕を急かすのです。しかしいくら急いたところで、できることも行ける場所もありません。ケージに入れられたネズミのように、僕の心は狭いところで動き回り、ぴったりと落ち着く場所を求めてそこらじゅうを引っ掻きまわします。

 ……神様は、ただ諦めろとおっしゃるでしょう。そして別の相手を探せとおっしゃるでしょう。しかし僕は、彼女の内臓を抑える感触、その喜びを知ってしまった。

 僕はもっと、彼女の人生に影響したい。

 なんなら彼女の内臓として機能し、働き、一生をかけて彼女と彼女の人生に添い遂げたい。それが叶えば、どれだけ楽に息ができることでしょう。

 でもどうか、方法を間違えるとアラカシさんを傷つけてしまいそうで、僕はどうしたらいいか分かりません。素直に自分の欲求を言ってしまうと、僕はこの愛おしい苦しみの出口として、死にたいと思うのです。死ぬしかないんです。死んで、彼女の内臓に生まれ変わりたい。

 神様、どうかお願いです。

 

 

 夕作という名の男は、ざっとそのような願い事をした。

 しかし我々は願いを叶えることなどできないし、生き死にや、まして生まれ変わりの力もない。我々ができることは、ごくごく限られている。

 我々は、溢れかえるほど多くの生き物の目と耳を借り、彼らの生活を視聴している。

 人間をはじめとする動物や植物、そして微生物や黴、ウイルス、細菌に至るまで、我々の目が届かないところはほとんどない。我々は見たいと望めば、どこへでも侵入する。彼らの感覚器官を借り、どこまでも追跡することができる。それゆえの神々である。

 我々はただ、生き物たちが感覚と知覚を駆使して捉える「人生の放送」を視聴し、そして勝手にささやき、神々同士の意見応酬に興じるのみだ。

 そして我々の好き勝手なささやきは、聞く聞かないにかかわらずときに人にも届く。

 さて、初めて来た、新しい神たちにも分かるように、さらに説明を加える。

 この夕作という男は機械である。

 人工の皮膚、人工の肉、人工の骨。その造りは精巧で、構造も機能も生身の人間とそん色ない。彼はいつからか人間社会に生み落とされ、そしてうまく溶け込み生活している。

 ちなみに、人型の機械ならアンドロイドやサイボーグ、ヒューマノイドや人造人間など呼び方は種々ある。しかし夕作は自分を機械と呼んでいた。家電のようで気安く、しっくりくるからだそうだ。

 通常なら機械の生放送などに人気はない。が、この夕作という機械は別だった。それは彼が人間じみているからだ。

 もともと人間の放送は他の生き物より人気が高い。

 それは彼らが知性を持ちながらも実に愚かで、それが滑稽だからだ。

 弱肉強食の結末はお決まりなのだが、そのプロセスが複雑で飽きさせない。彼らは欲のために動く。その動きは単調ではない。頭脳を駆使する。しかし欲が邪魔をする。賢明にはなりきれない。結果、多くの人間が愚かな石につまずき、転落の道をたどる。その様は期待通り我々の笑いを誘う。苦しみ、もがき、嘆く彼らの姿は、いつ、だれを見てもたいては面白い。

 特筆すべきは、欲深い善人に限ってよく葛藤し、そしてよく神に祈るということだ。

 葛藤とは説明だ。葛藤すればするほど我々は理解する。

 祈りとは対話だ。我々は、彼らに話しかけられるのが面白い。

 葛藤と祈りによって我々の目は引かれる。ささやきも増える。議論もはかどる。つまり盛り上がるのだ。

 さて、夕作に話を戻すと、彼には人工の脳も与えられている。つまり彼は自分で考え勝手に動く機械だ。しかし彼の放送がいつ、どこで始まったのか。それを知る神は少ない。溢れかえる情報の海にその起源は呑まれてしまっている。

 それでも放送当初は低迷していた。決まった時間に起き、決まった職場にでかけ、きまった時刻に帰ってきて眠りに就く。休みの日には家事をかたづけ、暇になるとたいてい庭を眺めて過ごした。そんな放送のどこが面白い? 決まった動きを眺めるだけなら、冷蔵庫や洗濯機と変わりはない。

 視聴が増え始めたのは、彼が恋し、祈り、我々のささやきに耳を傾け始めてからだった。つまり、我々神々を意識してからだ。我々を意識するのは、善と悪、罪と徳の葛藤が彼に生まれてこそなのだろう。

 しかし我々のささやきには正しさも間違いもない。先に述べたように身勝手なヤジに過ぎない。導こうとする神もいれば、陥れようとする神もいる。その導きが結果的に不幸を呼ぶこともあれば、転落への手引きがかえって好転に向かうこともある。

 我々神々はただ面白がってささやく。生まれ変わりなどないのに、死んで生まれ変わればいいとささやく。夕作は、そんな無責任な神のささやきを閃きにとらえて信じ、そして願った。思い通りに夕作が動き、一部の神々は意地悪く笑った。

生物はしばしば神々に笑われるために存在するのだろう。そして同時に、彼らの人生は終わりがあることが約束されている。その約束があるからこそ我々も安心して観ることができる。

 では、夕作の放送に終わりはあるのだろうか。

 果たして機械を結末に向かわせることができるのだろうか。

 我々の興味はその部分にも向けられていた。くわえて、いっそ転落させて終わらせたいという心づもりもある。ささやきは常に残酷な方向へ誘う。我々は、ただ彼が葛藤の後に死ぬことだけをいつも望んでいる。

 

 

 週末に風邪を引いた。重たい風邪だった。医者に掛かるとろくすっぽ調べずに季節の風邪だと言われた。寝て治せばいいと言われた。

 一日寝たきりで、翌日の夕方に起き上がれるようになった。これで土日が丸々潰れた。

 起き上がると庭を眺めた。それだけがやっとできることだった。

 高熱を通り抜けるとなんだか別人になったようだった。目が新鮮な感じがする。そのためか庭は思っていたよりも小さく見えた。庭の両隣との境界はアルミ製のセパレートで区切られ、正面はアパートの敷地のブロック塀で塞がれている。狭い袋小路。息が詰まりそうだった。

 夕暮れだった。四角い庭は、赤く染まった雑草で覆われていた。

 実はちょっと、死ねるかもと思っていた。でも風邪はただの風邪だった。神様への願いは都合よくいかない。自分で踏み出さなければ、やはり死ぬことなどできない。

 方法は知っている。

 不要になった家電の回収トラックが、この町にも回る。それに乗せてもらう。電話一本で引き取りに来てくれる。

 一度、トラックの荷台に運ばれる男を見たことがある。男は一点を見据え、三角座りのまま町角に消えていった。自分もそのようになる。あれは同胞だったんだろう。

 庭の雑草は、脛ほどの高さに茂っていた。早く抜かなければならない。

 隣人は、庭に段ボールを遺棄していたため退去を迫られたらしい。虫の住処となったんだろう。そんな通知を受けるとやはり雑草は抜かなければいけない。草むらも虫の住処となりうる。

 立っているのが億劫で、床に尻を付ける。庭の草むらがまた背を伸ばしたように見えた。植物は刻々と、注いだビールの泡のように膨らんでいく。抜いたって際限がない。だから、生物は鬱陶しい。こちらにはその気がないのに、いつだって侵略を仕掛けてくる。いつだって命がけで迫ってくる。こちらの場所も限りがある。正常な生活が脅かされるなら、排除しなければならない。雑草は抜かなければならない。

 壁時計を見た。じきに夜が来る。すると、じきに朝になる。明日になる。

 雑草だけではない。支払い、復旧、返却、修理。生活している限り、生活の雑草は付いて回る。迫ってくる。まるで生活そのものが生き物のように。

 そしてそれらは何度でもやってくる。風邪もそうだ。治してもまたすぐに風邪をひく。同じウイルスか別のウイルスかも分からない。免疫などあてにならない。歳を食えば食うほど重くなる。時間が経つほど風邪に負かされる。迫られて侵されていく。逃げ道もなく、ただ呑まれていく。体は風邪の住処となる。

 夕日が傾き、庭の草むらがその光を吸い、黄金に輝いていた。それは、赤みを帯びた人体の色をしている。

「手のひらを太陽に」という童謡を連想した。歌詞の「血潮」という部分だけが妙に浮いていた。花畑に死体が転がり、そこに生まれた窪みのような歌に感じた。その死体にも夕日が差している。やがて朝が来る。しかしまた、その一つ多く夕暮れが来る。

 人工の皮膚、人工の肉、人工の骨。いくら時間をかけても、自分の体が土に還ることはない。劣化はするが、分解はされない。花を倒し、花畑に窪みを作ったまま、栄養にもならずただ虫の住処となる。

 機械には適切な廃棄処分が必要で、そのためには人の手を借りなければならない。人の都合で世に生み落とされたまま、消滅までも人の手に依らなければならない。自分一人では、野で自然に消滅することすらできない。

 そんなことを巡らしていると、脳が熱を帯びる。問題と解決の存在しない思考方法は自分には適していない。入口があって出口がある考え方のほうが得意だ。ただそこに、あるゆえにある、という起因無き考え方は、自分には難しい。

 しかし、ただ堂々巡りする想像の中に、アラカシさんが思い浮かんだ。

 行き止まりの庭で、ぐるぐると太陽が回る下で、雑草の中に、そこに芽吹く花畑の中に、アラカシさんが立っている。そんな思い付きが、起因無くある。

 死にたいのが先なのか、彼女への思いが先なのか。起因が無いなら、思い付きというのは神様からのヒントだろう。

 神様に祈った。

 僕は分かっています。僕はただ死んでも、再利用されてまた機械に戻る。彼女には繋がれない。神様。

 

 我々神々は口々に、できうる残酷なささやきを彼へ投げかけた。

 夕作が叶わぬ願いに自失し、乱心して暴走するように。

 アラカシを傷つけ、アラカシの周囲も傷つけ、手あたり次第を巻き込み、引きずり、絡まりながら、ゴミ屑のように地獄の縁へ転がっていくように。

 我々はそのような結末を期待している。

 しかし我々の思惑は外れた。夕作は床の上で目を瞑り、静かに我々のささやきへ耳を傾けていた。しかし暗がりの中で突如目を開けると、おびえたように回収業者へと連絡を入れた。我々の残酷なささやきを、自らが起こしうる悪行として覚え、恐怖し、対策をとったのだろう。

 どうやら次の木曜日の朝に業者が来るらしい。目処が立つと、夕作は安心したように眠りに就いた。

 神々は荒れた。愚図、ポンコツ、不良品、スクラップに成っちまえなどの暴言が飛び交った。同時に興ざめもする。夕作は転落しない。ただ四日後、静かにトラックの荷台に乗って運ばれていく。この放送は盛り上がりを見せずただ結末に向かう。視聴数は目に見えて下がった。

 しかしその一方で、我々のようなもの好きな神々は残った。結末はおおかた知れてしまったが、それでも夕作を見届けてやろうという執着がある。地獄のような結末は迎えられないが、終わりが近いことは大きかった。期待値が低い分、気楽でもある。

 我々の目的は、おおむね夕作とアラカシを不倫させる方向で整っていた。もちろんそれは不幸な結末に違いない。が、それは限られた時間で満足を得る有効な道筋だった。愛情に苦しむ夕作においてもその方向なら動かしやすい。不倫とは、外野にとってはごく手軽な娯楽なのだ。

 つまり我々の働きは、夕作のためにと言いながら、その実我々のためにあった。夕作の目と体を借りて、我々の渇きを満たしたいだけだった。

 我々は、眠る夕作へ執拗にささやいた。アラカシの体、アラカシの心、そのすべてを追い求めるような、甘いささやきに力を尽くした。

 

 夢にアラカシさんが何度も出て来た。宮殿を彷徨う夢で、彼女は服を着ていない。裸だ。けれど本物を見たことはない。だから裸はマネキンのように何もなかった。彼女の前から何度立ち去っても、宮殿の行くところ行くところでアラカシさんの裸は現れた。エントランス、食堂、遊戯室、内庭の花園。

 目が覚めると、妙な高揚が体中に残った。熱せられて冷めないままのオイルが、常に体を巡り続けるようだった。

「本当はどうなっているのだろう」

 アラカシさんの裸を見たいと思った。

 隠れている部分の色、形、大きさ。それらを知りたい。

「なぜ?」

 なぜだろう。知ったとて愛情を注げられるわけじゃない。わけじゃないが、アラカシさんの見たこともない笑顔や、嬉しそうにはしゃぐ姿、一喜一憂する様々な夢の場面が思い浮かんだ。それらに常に寄り添うのは、やはり彼女の内臓だけである。内臓は血色良く、快活に彼女の生活を支える。粘液がきらきらときらめいて、彼女と同時に微笑みながら働き続ける。

 それらをただ知りたい。その場に居合わせたい。

 彼女の裸を見るということは、少なからずその宮殿に近付くための必要条件のように思われた。

 壁時計を見上げた。いつも通りの起床時間だった。いつも通り出社することにした。

 現実の彼女に会うのは心苦しい気がした。昨晩のように非道な想像が起きそうだから、できれば会うべきではないのだろう。けれど会わなければ会わないで、胸の中でネズミがそこらじゅうを引っ掻き回す。入口があり出口が必要なら、アラカシさんに正直に思いを話し、きっぱりと拒絶される方がいいと思った。それができれば、いくらかすっきりと終われそうだった。自分の思いを伝え、はっきりと断られる。それで出口にたどり着く。

「あなたの裸が見たいです。少しでも多く、あなたの事実を知っておきたい」

 気持ちを言葉で伝えればこうでしょうか。そう考えながら、いつも通りに業務に取り掛かった。

 書類を処理し、アラカシさんに回す。アラカシさんから回ってきた書類を確認し、上司に送信する。上司からまた次の書類が降りてくる。作業し、それをアラカシさんに回す。

 業務のほとんどは、名簿に載る顧客データの抹消だった。電子商取引会社の子会社に属する、電子ポイントを管理する部署では、顧客の名簿も管理している。ポイントは買い物をしなくても、会員登録していれば還元として毎年少しだけ発生する。放置していればポイントだけが無限に膨れていくのだ。

 そのため、取引の見込みが無くなった顧客を精査して消去しなければならない。顧客の方から消してくれと進言されることは少ないから、放置していたら名簿もポイントも増えていく一方になる。二重登録だって散見される。誰かが消さなければならない。それが、この会社でアラカシさんと二人きりで行う作業だった。簡単な作業だ。誰でもできる。自分が消えても、かわりはすぐに見つかる。

死に神みたいだ」

 温度の無い顔で書類を回す姿や、姿勢よく淡々と作業する彼女の姿を見るとそのように思う。

 粛々と世の中の名簿を眺め、有無を言わさず消去していく。死に神の作業もきっと同じようなことのように思う。人生との取引の見込みが無くなった先。命の資産が無くなり、切ってしまっても差しさわりない先。死を望む自分も、すれば死に神に選ばれたということでしょうか。神様。

 お願いです。どうかアラカシさんだけは選ばないでください。

 と、祈る先の神様と、名簿をなぞる死に神が並存し、論理が破綻しているような気がして、思考の遊泳は途端に覚めてしまった。

 やはり、起点の無い思考は得意ではない。しかし死に神という着想は悪くなかった。ただ言えることは、真実をアラカシさんに話し、そして拒絶されることで、彼女が自分の死に神に成り得るということだ。自分の告白と彼女の拒絶によって、僕の死はきれいに片付く。それが彼女のような死に神の仕事の一環なら、美しく愛のある選定だと思える。

 壁時計を見上げた。終業が待ち遠しかった。

 

「それ、すごい迷惑。」

 アラカシは言った。表情にはさして色が無い。そのため怒るのか困るのか、もしくは茶化しているのか、我々にも分からなかった。

 そこは職場の裏通りだった。ビル風が強く吹いていた。

 夕作は終業後、夫の迎えを待つアラカシに声を掛けた。

 同僚の不意な接近に、アラカシはひとつ、微かな驚きを眉に浮かべた。しかし夕作は気に留めず、前置きもなく心のあらましを打ち明けた。自分が機械であること、アラカシに愛情を抱いていること、アラカシの真実が知りたいこと、そしてそれらが胸の内で帰結し、木曜日に死の予約を取ったということ。

「だから、死ぬ前にあなたの裸を見せて欲しいんです」

 こういう場合、彼が機械であるのは具合がよかった。下手な賢明さを出さず、例えこじつけでもまず結論を打ち明けることができる。さながら壊れれば説明なしにエラーコードを表示するように。つまり、蛇行なく放送が進むのだ。

 しかし、というか当然、アラカシは拒絶を示した。それで、迷惑だと彼を一蹴したのだった。

「迷惑ですか」

 夕作も同様に真顔で返した。

「というか普通に嫌なんだけどさ。でも断ったら私が殺したみたいになるでしょ。だから迷惑ってこと。」

「そうですかね? 僕が死ぬことはどう転んでも決まっていますが」

「そこに私を巻き込まないでよ」

「できるだけアラカシさんのことを知ってから死にたいんです。知るだけでいいんです」

「気持ち悪いなあ。別に知られたくないし、守るべきプライバシーってのがあるでしょ。死ぬからってそれを免れるわけじゃない。見られるってことは記憶されるってことでしょ。嫌。」

 確かに。と夕作は頷いた。

 確かに、こちらの要求ばかり押し付け、彼女の心情は顧みていなかった。

 彼女の言う通り、見られる方は記憶されるということだ。記憶が続く限り、それは永遠に消されない。写真のように、記憶の金庫にその瞬間が囚われる。ならば裸とは、守るべき情報か。自分の設計図のようなものか。宮殿の設計図。ならば守るべきプライバシーとは、宮殿の宝物のようなものか。

 神様。僕は彼女のことを思いながら、実際はひとつも彼女のためを考えられていなかった。僕は愚かでした。

 我々はまずいと思った。このままでは、夕作の意志がアラカシの体から離れて行く。それでは不倫にたどり着けない。夕作はただ死を待つだけの機械になり下がってしまう。我々に悲観的な感嘆が飛び交った。

 しかし夕作には我々のささやきに耳を貸す様子がなかった。ただ真っ直ぐアラカシと向き合っていた。

「分かりました。お時間いただきありがとうございます。これはこれで、僕は心置きなく始末できます」

「待って。だからそれも嫌。私の拒絶ですっきりするって、なんか嫌。」

「じゃあ、どのようにすれば」

「死ななかったらいいよ。その、回収? を断れば。やっぱり生きたいですって」

 我々にすればこれもまずかった。つまらない結末どころか放送の終わりすら延期となると、炎上も必至である。我々は力の限りささやいた。夕作の理性を鈍らせるように、放送画面一面を醜猥な言葉で埋め尽くした。

 夕作は眩暈するように顔を振るうと、絞り出すように言った。

「いや、僕は死にたいんだ」

 アラカシはため息を吐いた。

「じゃあさ、一旦断って、私の目の届かないところに引っ越してから自由にすれば。このままじゃどうしたって私が巻き込まれるじゃん」

「そんな、引っ越しなんて面倒ですよ。僕は一日も早く片付けなくちゃいけないんです」

「面倒なのはこっち。勝手に妄想こじらせてさ。それ危ないよ。……というか、機械ってなに? 何かの例え?」

「えっと、機械は機械で」

「その設定からおかしいよ。裸見たいからって、嘘にもならないじゃん」

「嘘はついてないです」

「どこが機械なの?」

「えっと、全体的に。」

「腕とか外れんの」

「腕は外れません」

「証明してよ」

「証明ですか」

「そ。だってどう見たって人間の男じゃん」

「それは、つまりアラカシさんが機械相手なら裸を見せられるってことですか」

「なんでそうなるの。機械でも嫌だって」

「でも、洗濯機と同じだと思えば。」

「洗濯機? ああ、まあ」

 と、アラカシは上空に目線を上げた。

「洗濯機なら、いつも裸を見ているはずです」

「いや、駄目だよ。洗濯機は洗濯機だし、難波君は難波君じゃん。その体で自由に動いて考えて記憶してるんだから、どっちにしろ嫌だよ」

「そうですか。いや、失礼しました。」

 夕作がどれだけ理屈をこねても、アラカシの意思は折れそうになかった。

「今のところ僕はアラカシさんに迷惑をかける選択肢しか用意していませんでした。これは僕の準備不足です。なので延期も含め、一度再検討しようかと思います」

「そう」

 と、アラカシは表情を変えず、微かな鼻息を漏らした。

「なんにせよ思い留まってくれるなら良かった。言っとくけど、死ぬって選択肢は今後も用意しないでよ。聞いちゃった手前どうしたっていなくなったら後味が悪いよ。できればさ、死なずにこのままここで働こうよ。機械って言うくらいならできるでしょ」

「はい、そうですね。」

「こんな楽な仕事、他にないんだから」

「そうですね」

 頼むよ? と言って、アラカシはにやりと笑った。夕作も二三度頷いた。続けて、夕作は人差し指を立てた。

「あの、すみません。気づいていたんですが、話の途中だったんで。その、お迎え。来てます」

 夕作はアラカシの背の先を指さした。

 少し前から、路肩に黒い車が停車していた。

 アラカシが振り向き、手を挙げ、夕作のもとを離れ、小走りで車に向かう。

 数メートルに近づいたところで、黒い車は急速に音を上げて発進した。

 アラカシの体は容易く飛んだ。助走は短い。それは軽い衝突に見えた。子供が、友達を突き倒すような軽さだった。それならば、その次に起こるのは天を突くような泣き声である。

 が、アラカシの体は倒れてから身動き一つなかった。

 運転席から男が降りた。そしてアラカシのもとに駆け寄る。しかし少しの間彼女を眺めると、それから体を返して小走りに立ち去った。車とアラカシを残したまま、男は路地の中へと消えていった。

 夕作はアラカシに近付いた。血は出ていない。目は見開かれたままだったが、やがてゆっくりと閉じられるのを見た。

 路地を覗き込んだ。男の姿はもうない。車を顧みた。どうしたらいいだろう。このままでは通行の妨げになる。アラカシの体もそうだった。人が通れば騒ぎになる。

 路肩に雑草が伸びる。これを抜かなければならない。

 夕作は屈んで、地面に両手を伸ばした。

 重たい。が、重たいと知ってしまえばさほど無理なこともない。アラカシの体を引きずって、後部座席に押し込んだ。

 この状況の起因はなんだろう。自分が話しかけたからだろうか。しかし轢かれるなんて、逃げるなんて、正常ではない。エラーだ。

 いまここに自分が居合わせた理由はなんだろう。しかし、片付けなければならない。さらに雑草が伸び、蔓に絡まり、正常な生活を奪われる前に。

 これは罰でしょうか。それともお導きでしょうか。神様。

 

 夕方のラッシュアワーだった。道路には車の赤い尾灯が百足のように連なる。夕暮れは鼓動のたびに深まった。

 車内もほんのわずかな隙に暗闇に呑まれていた。バックミラーで後部座席を見る。シートには彼女の体があるはずだが、静かな暗がりに覆われて見えない。

 脈は、息はあったのだろうか。逃げ出すばかりで確認を忘れていた。体はまだ温かかったように思う。サイドミラーを見る。後方には後列の前照灯が切れることなく続いていた。そのすべての目が、前を行く自分の動向を厳しく監視しているようだった。ここで隊列を乱すような動きをすれば、すぐにでもけたたましい警告を浴びる。路肩に停めようものなら非難の目にさらされる。彼女の意識など後でいいかと思った。焦っても事実は変わらない。緩慢な渋滞は諦めの形で心を鎮めてくれた。思考が優位になる。

 

 我々は少々荒れた。

 もちろん、アラカシにもアラカシの夫にも視聴する神々が着いていた。彼らには彼らの思惑があった。つまり、彼らには彼らの期待する不幸の筋書きがあり、そのためこちらの放送にも支障が出る結果となった。同時に夕作とアラカシを不倫させるという結末も潰えてしまった。

 我々は思いあぐねた。アラカシらの視聴者へ苦情を入れに行ったりもした。しかしそれも無為である。

 いま、夕作の手元にあるのは盗んだ車とアラカシの体だけである。

 これからどうやって彼を不幸に導き、死へ誘うのか。

 いわんやこの状況、アラカシの裸体を見るという夕作の目的は簡単に達成できるだろう。

 しかし簡単ではだめなのだ。

 夕作にはできるだけ困難で苦しい道を選んだのちに転落して生涯を終えてほしい。その一方で、意識のない彼女の体をただ弄ぶような、卑小な行動は避けてほしいとも願う。ここまで付き合っておきながら、ただ趣味の悪い放送として終わるのは御免だった。

 

 自分は車とアラカシを盗んだ形になっているのだろうか。

 しかし男、おそらくアラカシの夫は、明確にこれらを捨てた。

 もしアラカシが死んだのなら、アラカシの体は誰のものになるのだろうか。

 死体なら遺族のものだが、廃棄物なら回収業者のものだ。

 とすれば、今のところアラカシの体は、拾い上げた自分のものである。

 あえてそこまで考えてみて、少しも動かない自分の胸を認めた。死に土産ほどに求めていたアラカシの体だ。服を脱がす想像などをしてみる。が、見たいという気持ちは起こらない。むしろ、見たくないという気持ちの方が強いように感じる。

 自分が求めていたのはなんだ。

「証明してよ」

 アラカシの言葉が過った。先ほどは咄嗟に話を逸らしたが、アラカシが言うように自分が機械であるという証明方法はあるのだろうか。

 自分は自分が機械であると自認している。人間が自らを人間だと疑わないように、自分もまた自分を機械だと疑わず生きてきた。

「君は自分を機械だと言うが、何か証明できることはあるのか?」

 アラカシと同じことを、学生時代に聞かれたことがある。酒場の熱い友情の輪の中で、生まれて初めて自分を打ち明けた。が、ぐっと熱のこもった輪の中に冷笑が起こった。そして機械という子供じみた空想を打ち砕くべく、安易な議論をしかけられた。

「何か証明できるのか。」

 そう言う冷笑は勝ちを確信していた。頭に血が上る感じがした。これは勝ち負けなんかじゃないだろう。同時に胸は冷えるような気がした。

「君は自分が人間だと証明できるか。腹を裂いて内臓でも見せ合おうか。」

 と、結局そんな具合にくってかかってしまい、友人は苦笑いを最後の返事として、また別の話題を始めた。

 あの時どう証明できただろうか。生まれ持った意識について、それを言葉にする以外にその証明は難しいと思う。だってそうなのだから、信じてもらう他にない。

 機械ながら、自分にはそのように過去の記憶もある。思い出すことができる。両親の顔も、独り立ちした実家の風景も覚えている。

 しかし庭をぼんやりと眺めていて、ふと、その記憶が作り物であると気が付いた。

 自分の記憶は誰かの創作である。

 しかも特段ひねりもない、取って付けたようなはりぼての過去である。

 その証拠に、それらの記憶は切れ切れだった。飛び石のように点々としている。いくら思い出そうとしても、その石と石の間を埋める時間が無い。繋がりが無い。まるでアニメやゲームのキャラクター設定のように、記憶は箇条書きで出来ていた。

 それでは記憶でなく情報に等しい。自分の過去には連続する時間が無いのだ。

 ともすれば先の友人とのやりとりも、誰かの創作に思えてくる。

 どうも可笑しいと思った。友人の顔が思い出せない。それに酒場の情景も、思い出そうにも無機質な一枚絵で動きがない。これはアイデンティティの軋轢に苦しんだという、いかにも人間らしさを演出する創作されたただの情報なのだ。そこに自分の脳が補正をかけている。

 すると昨年の記憶も、昨日の記憶にも、そこに自分がいたという実感がひどく欠落してくる気がする。人から聞いた物語のように、電車のつり革も、玄関のドアノブも、自分の手が触れていた気がしない。むしろ朝目覚めた瞬間から以前は、すべて別の誰かに用意され情報なのかもしれない。

 脳は案外落ち着いていた。熱くなる様子もない。車列はゆっくりと進む。車はやがて混みあっていた交差点を抜けた。

 自分が機械であるという証明は、結論難しそうだった。医者の問診ではせいぜい喉を診たり音を聞いたりするぐらいで腹を開くわけもなし、MRIなら金属の持ち込みはご法度である。だいたい医者にかかったとしても、どの医者もきっと思うだろう。「生きていて問題がなければ、わざわざ調べる必要もない。」そして検査は断られる。その通りだ。他にやるべきことがある。命の危険がなければ、他人の真実が何であるかなど、正確に知る暇も、余裕も、必要も、誰もない。

 後部座席のアラカシの体を思うと、これが大切なものなのか、そうでないのかすら、分からなくなってくる。もし彼女が死んでいて、自らをアラカシだと言葉にできないなら、これほど厄介な荷物は無い。

 主人のいない宮殿。手入れのされない内庭。

 死ねば命の代謝は止まり、宮殿は朽ちていくのみだ。

 生きているからこそ愛おしかった。狂おしかった。

 不意にクラクションが鳴る。反射的にハンドルを切る。車体はマンホールか何かを踏んで、ひとつ上下に揺れた。

 反射的にバックミラーを覗いた。小さな交差点を過ぎていくのが見える。どうやら反対車線まで踏み込みかけたらしい。そのまま、ミラーを通して後部座席を見た。街灯の線が差して瞬間彼女の顔が光った。伏し目がちな、祈るような姿を思った。

 そこには過去があった。しゃっくりをして、にやりと笑った過去がある。それを見た、自分の過去もある。まだ、これらを失いたくないと思った。

 宮殿の宝物とは、過去なのだろうか。忘れれば、過去も無くなるのだろうか。

 液晶の時計を見た。病院を探そうと思う。急患なら持ち込みも可能だろうか。

 

 夕作がアラカシを病院に連れて行き、彼女の意識は回復する。奇跡的に軽い脳震盪だけで、外傷も後遺症も見られなかった。アラカシは復活し、自らを傷つけた夫から離れ、夕作のもとに身を寄せる。やがて互いに信頼を築き、二人は共生し、夕作も死を取りやめてアラカシと永く暮らす。

 そんな筋書きを、我々は忌避した。しかし夕作の動きを察して視聴数はまた下がる。もはや放送を観ているのは、私とあなたがた少数しかいないのではないだろうか。

 もう我々の声は小さくなった。我々には彼を不幸の道筋へ誘う力もないだろう。私などはもうあきらめておいとまし、そろそろ別の放送に移ろうと思う。

 私は冒頭の方で説明した。我々は生き物の目を借りて視聴している。

 聡明な神々ならばおわかりだろう。ならば機械であるはずの、夕作の目からの放送があるのはそれでは合点がいかない。彼が生き物のわけがないから、この放送は彼の体表に棲む虫たちの視点だろうか。黴や、微細なバクテリアの知覚だろうか。人の胃腸には一〇〇兆もの細菌が巣食うらしい。それだけの目がある。内臓は我々の目で溢れるのだ。ではいま我々はどこから観ているのか。ここはどこだろう。天空を見上げれば血潮走る内壁が見えなくもない。

 さあ真相は分かりかねるが、私はもう興味もなくなった。我々が何者であるかなど。

 まだこの放送に残る、もの好きな神様がた。あとは粛々と残りの、消化放送を眺めるだけだろう。

 さて、そろそろ私は行きます。

 またいずれ、どこかで、神様たち。

 

 

 夜に掛かる橋のように薄暗い舗装道路を行く。両脇は暗闇の田畑が敷かれている。道なりの先に、緑のネオンが光っていた。病院の文字が見える。

 ガラス張りの一階は巨大なランタンに見える。自動ドアの向こうには電灯の消えた幅広の受付と、その奥にぽかりと事務所の明かりが漏れている。親指ほどの大きさの蛾が、ガラス窓に張り付いていた。

 夜間通路を抜け、受付の前で怒ったような声を上げると、やがて人が集まり、担架が運ばれ、アラカシの体が乗せられた。

 症状とその成り行きを手短に伝え、彼女の鞄と財布を当直の看護師に押し付けた。人目を潜り抜け、車に戻り、エンジンを掛ける。やがて事件だと発覚することを考えれば長居はしていられない。

 カーナビに触れる。ぱっと車内が明るむ。目的地が要る。登録された項目に、自宅の表記を見た。まずはこの大きな荷物を正常な位置に返そうと思う。

 車が動くと、後部座席は無人で、タイヤは軽い。

 彼女を手放した。動いているほうがいい。動いている内臓が愛おしいのだ。そして動く限り、自分はささやかでも彼女の過去となれる。

 駐車場のバーが開く。夜道を行く。ナビは来た道と逆を示した。すぐに町の明かりが広がる。

 彼女の伏し目がちな頭部。そしてそれに続く内臓。規律だった街灯の夜空とフロントガラスに、そんな想像の彼女が巨大な蛾のように張り付いていた。実物は見たことが無い。そのためそれはポップなトイブロックの色形をしていた。

 ラッシュアワーはとうに過ぎ、空いた道はまるで夜空の滑空だった。

 町を抜ける。山を越える。また町に出る。どれほど来たのか。ナビが終りを告げた。複製を繰り返したかのように並ぶ住宅だった。

 カーテン越しに電気がついている。駐車場に停めた。インターホンを鳴らした。

「誰ですか」

「車を届けに来ました」

「それはどうも、ありがとうございます。失礼ですがあなたは?」

「……アラカシさんの同僚です。」

「警察ではなく?」

「警察ではないです」

「どうぞ、中に」

 玄関の鍵は開いていた。しかし明かりは点いていない。廊下が伸び、突き当りの扉が少し開いて光が漏れている。手招かれるようにそちらに進む。

 男がいた。アラカシの夫だ。そこは寝室だった。無機質な白昼灯で眩しい。

 ベッドには女の裸体が寝かされていた。アラカシに見えた。が、アラカシではない。よく似た女に思う。しかしどこが似ているのか分からない。

「あれ、妻は?」

 男の不躾な声がした。

「はい。病院に届けました。意識が無かったので」

「そうですか。それはどうも。いや、はやとちりでね。もう代わりを用意してしまった」

 ベッドで横になる女は、腹の部分が観音開きに開かれていた。その穴は天井を向いていて、中は死角で見えない。

「それで、いつ戻ってくるんです?」

 夫は床に散乱した段ボールや梱包材を足で除けながら言った。

「さあ、分からない。もう生きているのかどうかも」

「なに? 確認は?」

「僕のじゃないから。君も、捨てたんだろ。」

「まあ、そうか。」

 夫は散乱の中から黒いビニール袋を摘まみ上げると、その中に手を突っ込んだ。そして、慎重そうに中の物を抜き出した。

 その毛深い手中に、黄金に光るものが見えた。そして、彼はこれ見よがしにそれを開いて見せた。黄金の、懐中時計である。

「これが肝でね」

 夫は懐中時計を女の腹の中にゆっくりと下ろすと、指先で何かを摘まみ、くるくると動かした。そしてそれが終わると手を抜き出し、パタンと腹の扉を閉めた。

「さて、迎えに行かなくちゃいけないな。病院はどこだ」

「カーナビに履歴を残している」

「なるほどね。まあ世話になった。帰るまで好きにしてくれ。この家も自由に使え」

 夫はベッドの上に女を座らせ、奥の壁に背をもたれさせると、家から出て行った。

雨が降り始めた。

 夜の間じゅう、壁にもたれながら眠り続けるアラカシに似た女を、向かいの壁から眺めて過ごした。裸だった。それは初めて見る造りをしていた。

 やがて朝になった。アラームが鳴り、女は目を覚ました。そしてまるで今まで生きてきたかのように、実に人間らしい表情と動作を始めた。女は眠たそうに、それでいて快活に発話した。

「あれ。難波君。何してるの」

「僕が分かるのか」

「え? ふざけてるの?」

 女はそう言い捨てながら、ベッドに置かれていた下着を機械的に身に着けた

「あのさ、もしかして不倫?」

 不倫はしていない。そのうえ昨晩あなたの夫に会っている。と説明した。

「そう。じゃあ会社にいかなくちゃ」

 女はそう続けると、迷いもなくクローゼットから服を抜き出した。そして腕を通す。脚を入れる。これも機械的だが、同時に世帯じみた動作だった。

 こちこちと律動的な音がしていた。見回すが、どこからの音か分からない。鼓動のような速さで朝が来ていた。カーテンの隙間がもう明るい。と思えば、女が一息にカーテンを開いた。清潔そうな青空も見える。ひどく不安になった。眠っていない。服も着替えていない。自分だけが昨晩に取り残されている。

 夫はもう帰らないらしいと、出まかせに言った。

 女はこちらを向き、かすかに眉をひそめ、少し黙り、それから吐き捨てるように言った。

「じゃあ難波君でいいよ」

 それでいいのかと聞く。女はそれでいいと答えた。

 女の支度を待ち、彼女の運転で自分のアパートに戻った。顔を洗い、着替えをして、そして二人で会社に向かった。

 この日は火曜日だった。いつも通り出社し、いつも通りの時間に終えた。女はまるでアラカシのように美しく働いた。

 帰りは女の運転で、今度は一軒家に戻った。どうやら夫はまだ帰らないようだった。

 夜は女と同じベッドで眠った。他に寝具が無かった。昨日の疲れもあってぐっすりと眠った。

 朝が来て、水曜日となり、また会社に行く。

 この日はアパートに帰った。翌朝に予定がある。アパートの小さな布団でまた女と眠った。

 木曜日の朝になった。音量の大きいアナウンスを鳴らしながら、回収業者がインターホンを押した。

 玄関を開け、作業服の男と目が合った。男は言った。

「引き取りですが」

 これです。と、女の手を引き寄せ、背中を押して玄関の外に出した。が、男は眉をしかめた。そして大きな声で言う。

「違いますね。予約は男のはずです。困りますよ」

 女が押し戻され、それと入れ違いに腕を掴まれた。何も言うことは無かった。続けて上の服を脱がされた。みぞおちの辺りを抑えられ、確かに。と、男が言った。

 荷台には自分で上がり、やがて軽トラックは発進した。

 何気なく、荷台の上から女を見つめた。小さくなっていく。女は手を振っていた。

 朝に都合がつくのは、すっきりしそうだった。

 女はこれからどうするだろうと思った。いつかは居場所もなくなる。そのいつかはやがてすぐ来るだろう。女はひとりで暮らすのか。ならば夕方などは庭を眺めて過ごせばいい。何もないが、だいたいの仕組みはそこにある。

 早抜けは気兼ねした。もう少し話せばよかったと思った。これじゃあ思い出してもくれない。

 急に吐き気を催した。緊張のせいだろうか。鎮めるため、二度ばかり拳で腹を殴った。

 ぺん、ぺんと、肌の音がした。(了)