抽斗の釘

小説、散文、文章、短編

酔生の虫を飼う

酔生の虫を飼う

 

 

 恋をした。夢の中の青年だった。

 彼は美しい日焼け肌を持ち、浜辺で暮らした。

 浜辺へは決まった道のりがあった。夫の横顔である。小人となって、夫の顔を歩いて行った。

 

 寝室の明かりを消す。と、スイッチを切り替えたようにカーテンの隙間が灯る。街灯の明かりだ。その薄明かりに夫の輪郭がほのかに白んで見える。それが道だった。

 夫の五分刈りの頭。見ていれば感触が分かる。芝生を踏むような弾力がある。ぼうっと眺める。と、いつしか小人となった自分がそこに立っている。坊主頭の小さな惑星、その側面に立つ小さな自分。転げ落ちないように球体の芝生に掴まった。そしてロッククライミングのように上を目指した。

 登りきると芝生も戸切れる。夫の額の上に立っている。目の前にはずっと向こうまで、白い道がゆらゆらとのびている。その道を進む。

 頭髪よりも高く茂る、眉毛の間を通った。高い鼻筋の坂を上り、分厚い唇を跨いで歩いた。顎の崖を飛び降り、すると平野が広がっている。胸板と呼ぶには薄い、骨ばった夫の胸部だった。寝巻の薄いTシャツの下には、胸の毛が茂っている。踏めば、足の裏がふかふかと沈む。

 平野を進んで行く。と、脇になだらかな下り坂がある。その坂を滑って降りる。すると夫の体の向こう側へ出る。つまり夫の脇腹の辺りの、ベッドの上に下り立つことができる。そこが砂浜だった。そこまで行くとまどろみもずっと深くなって、すっかり夢の中に落ち着いている。

 夢の砂浜はいつも薄い曇り空だった。真っ白で目映い。しかし暑くはない。そしていつしか、目の前には人懐こい笑顔をした青年が立っている。

 夢のうちには楽しさの景色だけが、メリーゴーランドのように途切れることがなかった。物事の論理的な動きはなく、いっさいは喜びとときめきの眩しい陰影だけ。それが絶えず音楽の波のように過ぎていく。

 しかし夢であってもやがて日は暮れた。夢に選択はなかった。観るものの意識は介せず、日暮れを境に夢のすべては一斉にあるべき終着へと向かった。コウモリの群れが空をさらう。日が水平線に沈む。抗えない力に引かれて同じ道をたどって帰った。肉のない胸を進む。顎を登り、口、鼻を越える。五分刈りを滑りおりるとそこではたと目が覚める。カーテンの端は水色に、部屋は深い群青色に、朝が来ている。夫の横顔も、山ぎわのようにしてほんのりと姿を取り戻してくる。

 

 夫がコーヒーを淹れている。朝食は終えて、食器が水滴を纏って水切りへ並べられている。窓から入る、朝の強い日がリビングやキッチンを光らせていた。地の底か空の上か、どこかで巨大で透明な歯車が回る。そのように、強い力が働いて一日が動き始めている。

ノノ子は両肘を抱えた。朝日の風景は肌寒い。風邪でもひいたように額が重い。

「ノノさん、今日の気分はどう」

夫はそう、淀みなく尋ねた。柔らかく丸みのある声だった。しかしどれだけ優しい声でも、ノノ子には不快だった。

「最近、だいぶまし」

穏やかになるよう努めた。それでもやはり苦痛だった。根拠のない不調は測りようがない。それが感情ならなおさら見えない。だからこそ夫はいつも知ろうとする。気色を覗く。言葉で触る。丁寧な手つきでファスナーを下ろすように。

 隠れるように夫の背後へ回った。ワイシャツからは淡い柔軟剤の香りがした。それはやはり朝だった。巨大な歯車の気配だった。

 ノノ子はシンクの蛇口を捻り、両手を濡らした。その水滴で額と両頬を湿らせた。

夫は立ったままコーヒーに口を付けている。青白い頬は剃りたての鬚に黒ずんでいる。しかし唇だけは血色よく紅い。ネクタイはきつく締め上げ、見ているだけで息苦しい。

 夫は職場のようにきびきびと動いた。きょとんとした目は滅多なことでは動揺しない。寝坊した、牛乳をこぼした、食パンを買い忘れた、服が決まらないなど、そういった細々とした問題に逐一騒いでふさぎ込み、寝室に引きこもるノノ子をよそに、夫はそのきょとんとした顔のまま、粛々とノノ子に代わりそれらの問題を片付けた。文句も小言も彼の口からは聞かない。そしてどんな問題が起こっても、それらを片付けきまった電車に乗っていった。

 夕方、思ったように仕事も家事もできなかったと、夕飯をストライキすることも、ノノ子には珍しくなかった。そして、ノノ子はいつも夫が帰宅してから惑乱した。

夫はノノ子をソファに座らせ、温かい飲み物を淹れた。そして隣に座り合う。夫の、ネクタイが外されたシャツは外の香りがした。土埃か、汚れた大気か、通勤電車の黴の匂いか、それらの香りは総じてノノ子に小さな灰色の歯車を思わせた。

「もうだめ、離婚したい」

夫は、ノノ子の極端な嘆きにも穏やかに頷いた。

「うん、うん」

「一人暮らしの方が気楽」

「そうだね」

「自由がない」

「たしかに」

「楽しいこともさ」

「ないね」

「私、浮気してる」

「そうなの?」

「夢だよ」

「夢でか」

ふっと、夫の息に失笑が混じる。それが馬鹿にされたようで、ノノ子は敏感に声を落とした。

「でも、夢で見るってことはそれが本心ってことだよ」

「そうなの?」

夫はノノ子の意気に合わせ、瞬時に神妙な顔を作った。

「それで、」

その夢を毎日楽しみにしている。その楽しみを糧に生きているというところまでは、ノノ子も口へ出せなかった。

「それで?」

「だから、別れたい。」

「うん」

青年との夢を見始めてから、確かにノノ子の神経はいくらか安定していた。

 夢で得た幸福は半日続く。何がどうなって、どのようにして青年と過ごしたかは忘れるが、それでも青年の微笑みと好意の事実が、現実での生活をうっとりと潤わせた。夕方になるにつれその効能も切れゆくが、また夜が来る、夢があると、秘かな希望に耐え忍ぶことができた。

 しかし潤いは心まででとどまった。それを生活の充実に活かすまでには至らなかった。生活が思うように行き届かないと、ノノ子はやはり惑乱した。

 夫が一人で料理を始めると、ノノ子の機嫌も元通りになった。続いて申し訳なくなる。そのため、食卓ではいくぶん素直に話せた。

「一日が終わるのが怖い」

そんな妻の言葉に、夫は煮つけを箸で割りながら頷いた。

「そうだね」

「ずっとこうやって、また変わらない三十年を繰り返すだけ」

「うん」

「明日、すごく楽しいことが起こって、それがずっと続いて」

「いいね」

「海辺の、小さな家で暮らして。毎日友達が遊びに来て。たまに出かけたり」

と、そんな希望を並べ終えると、ノノ子はとたんに箸を止めて俯いた。夫は黙々と煮豆に箸を向けている。

 子供じみて、馬鹿げたことを口走ったと後悔した。

「私っていなくてもいいよね」

という問いかけが、言いたい、言ってはならないと何度も口の辺りで動いた。

「じゃあ思い切って旅行に行こうか」

冗談でもいい。そんな言葉は出てこないものだろうか。ノノ子は夫の鈍感を軽蔑した。そしてその軽蔑はすぐに自分へと向けられた。卑屈になった。夫に見あやまれている気がした。自分の夢想も破滅願望も、ただの戯れに過ぎない。日々の倦怠と退屈を埋める自慰に過ぎない。だから夫は、自分の言葉を冗談にもせず真にも受けない。また始まったというように。

「夕方に悲しくならない方法ってあるのかな」

ノノ子は箸で味噌汁を掻きまわした。埃のように白い沈殿が舞い上がった。

「それはね」

と、夫は豆を噛みながら言う。

「よく眠ることだよ。精神的な不調の大半は脳の疲れ。よく眠れば不安もなくなると思う」

夫の箸の動きは無駄がなかった。的確に食物を分解し、口へ運ぶ。それと同じように、ノノ子の問題も的確に分解され、照明のもとに広げられているような気がした。

「睡眠の質を上げるには肉体的な疲労が適切らしい。ジョギングとか散歩とか、まずは軽い運動から始めてみるのはどう」

陳腐な悩みに陳腐な答えだった。ありふれた答えなのはありふれた問題だからだろう。ノノ子は再び沈みゆく味噌汁の白濁を、黙って眺めた。続いて、その味噌汁に飛び込む、小人の自分を思い描いた。

 この味噌汁の泉は麻薬の成分を含んでいる。麻薬の湖で泳ぎ、脳を洗うような幸福を得よう。幸福のままに湖を泳ぎ、どこまでも潜ろう。そして湖の底に沈む黄金を見つけ、そして得られるのは少し豪華になった似たような生活だろうか。

 と、動きの止まっている彼の箸に気が付いた。ノノ子は目を上げた。

「でも、僕はそんなノノさんもいいと思うけどね」

夫は真っ直ぐこちらを見て、そう言いのけた。

「そんなって、どんな?」

ノノ子は一層声を落とした。

「それは、その、生きるのが辛そうな」

「そう?」

「つまりね、ノノさんはそのままでいいってこと」

そう言うと、夫は顔色変えず食事を再開させた。

 これだ。と、ノノ子は睨むように机の隅へ視線を落とした。

 この、そのままでいいという提唱が悪い薬だ。まるで点滴のように体に注がれる。麻酔のように鈍らせる。決定的なのは、私はこの、このままの私を嫌っている。愛想が尽きている。うんざりしている。ありのままの私ほど、面白くないものはない。そうして年を取っていく。ありのままでいいと言い続ける老婆になる。それをそのままでいいというのだろうか。

 ノノ子は味噌汁の椀を抱えるようにして持ち上げた。

 ならば、これから私が思うままに動いても、夫は認めるだろうか。私が自分に従えば、この目の色は変わるだろうか。

静かに汁の上澄みを啜った。冷たい塩の味だった。

 

 その晩も夢の砂浜へ向かう。

 頭をよじ登り、眉間を抜け、顎を飛び降り。

 砂浜には青年の他に彼の友人たちも集まった。

 彼らと日がな砂浜で遊び、暮れても帰らせてくれる様子はなかった。もとより帰るのが忍ばれていた。夢の経過も帰る方に向かない。コウモリの群れは現れず、赤と紺の入り混じる空を静かに眺めた。

 初めて、夢のなかでの夜を迎えた。浜沿いの小さな宿場町を団子になって歩いた。友人の一人が宿屋のならびに下宿を借りているらしい。ほの暗い町角を歩くのはそれだけで愉快だった。街灯は力なく温かい。それらが照らすのは足元だけ。先が見通せないのも、見通せないために身を寄せ歩くのも、心地よかった。

 下宿は古い町家づくりだった。部屋は物置のように狭いが、焼杉板の壁が背高く吹き抜けとなり、なかば梯子のような急な階段を登ると小さなロフトもある。六、七人では手狭だが、窮屈に身を寄せ合って安い酒を口にするのは、どこか肉体的な満足を期待させる、愛おしい高揚があった。

 やがて夜も更け、それぞれは乱雑なタオルケットや毛布に身を包ませるうち、ぽつりぽつりと眠り始めた。ロフトの同じ布団に、かの青年も潜り込ませてきた。

 暗がりとなり、青年はゆっくりと身体を乗せてきた。周囲の友人は誰も眠っている。

青年の脇腹から背にかけて、輪郭を確かめるように撫でた。青年の体は思うよりもかなり細い。そして軽く、遠い感じがした。それでも確かに、青年が自分の体の近くで動く感触があった。

 布団の上の、青年の体を見下ろした。日焼けの肌は闇の中に光沢がなく、ただ薄黄色の浅黒い朽ち木のように横たわっている。肌に潤いはなく、健康的な胸の厚みも失われている。触れると皮膚は薄く、肋骨の数が分かるほど脂肪がない。そこに、唇で触れてみた。すると、神経を弾くような深い刺激を感じた。その瞬間だけ、震えとともに自分が失われたようだった。

 そこには、夫と行うような互いが持つ不浄さやもどかしさがまるでなかった。まるで自分と青年の神経を一つにつなげて電流を流すような瞬間的な快楽の反射があった。

 ノノ子は微かに気付き始めていた。青年は、自分ではないだろうか。少なくとも、体は自分のものと違わないように思える。

 快楽の時間は火花のように過ぎてしまった。終わってしまえば写真を見るように他人事に思えた。あった感覚は遠のいていった。静かな自分の視点だけが残っていた。

 おもむろに、青年の指先が口のなかへ差し込まれた。コロンとした舌ざわりに、何か入れられたのだと分かった。それを手のひらに吐き出した。白いカプセル錠だった。指先で触れると、繭のように柔らかい感触だった。

 青年は人懐こい笑顔で、その薬を呑み込むように言った。再び口に含んだ。唾液に繭が柔くなる。次第に溶け、舌の上で広がる感じがした。残ったのはふわふわとした舌ざわりだった。綿毛のようだが、所々に小骨のような繊維質も感じる。すると、その繊維質がざわざわと動き始めた。あわててそれを吐き出そうとした。

「駄目だよ。飲み込んで」

青年は口を押えた。

「うえ、これなに。動いてる」

青年の手を払い、布団の上に吐き出した。それは、小さな虫だった。肢の長い虫である。

 虫は、布団に落とされるとすぐに器用に立ち上がった。そしてまとう唾液を糸状に光らせながら、布団から木床へ飛び降り、身を隠せる場所を求め消えていった。

「ああ、逃げちゃった」

「なに、なにする気」

「鎮静剤だよ」

「虫だった」

「薬だ」

「なんで」

「苦しそうだから」

「うそ、苦しくない」

「苦しいよ。生きてる限り、どこか苦しいはずだ」

そう言われ、続く言葉が出なかった。

 青年は虫を探すようだった。裸のまま、床を這いながら言った。

「子供じゃないんだ。もう自分で飲んでくれないと」

「飲まないといけない?」

すると青年は顔を上げ、不思議そうな顔をした。

「息をしてるだろ。腹が減るだろ。子供も残す。ずっと動いてる。ずっと歩いてる。そりゃ苦しいじゃないか」

「うん」

「だから飲むんだよ」

「うん」

「ただ飲んで歩く。それだけでしょ」

「ごめんね」

「いいよ、また見つけて捕まえればいい」

「虫って、何なの。どこで見つけるの」

「知りたい?」

「うん」

「虫はね、夢か、」

「やっぱりいい」

慌てて首を振った。聞いてはならない気がした。

「そう?」

「私、ここにいていいの」

青年は窓を指さした。空が白み始めていた。

 夢で初めて朝を迎えた。青年とノノ子は下宿の屋上に出た。ノノ子は北の空を見上げ、愕然とした。昼の月のように薄く、入道雲のように巨大な歯車が、山の向こうで起き上がるところだった。そして、巨大な歯車は空を覆わないばかりに昇ると、倒れるようにこちらを見下ろすのだった。

 巨人たる歯車は、空が揺れないばかりの轟音を響かせた。ノノ子はその音に潰されるように身を屈めながら、青年へ声を張った。

「あれ、なに?」

「あれは」

青年は轟音のなかでその名前を叫んだが、うまく聞き取れなかった。神の名前のような響きだった。青年は金縛りのように立ち尽くしていた。

「私、もう起きないの」

「もう起きてるじゃんか」

青年は眉をしかめ、不機嫌そうな顔をした。

 

 目が覚めた。カーテンは開けられていた。体を起こし、ベッドサイドテーブルを眺めた。すると、文庫本の脇で小さな白い蜘蛛が、驚いたように慌てて這って行った。

「あ、起きたんだ。おはよう」

振り向けば、妻が寝室の入口に立っていた。

「おはよう、今日は早いね。調子はどう?」

「だいぶいいよ。なんか今朝はすっきりしててさ」

実際、妻の顔色は生まれ変わった様に血色がよかった。

「そう」

「ねえ何見てたの」

妻は眉を寄せ、怪訝そうに口を尖らせた。

「なんか、小さい虫がいて」

「え、見てないで殺してよ。刺さない?」

「刺さないよ。それにこんな小さな奴、殺したところで」

「あとで殺虫剤まいとくね。布団に来られたら最悪。」

と、妻は言い捨てるとリビングの方へ行ってしまった。

 虫が、布団に棲んで、彼女の顔を這う。そんな想像をすると、頭頂部が疼いた。どうにか殺される前に逃がせないかと、虫を探した。(了)

 

雷(いかづち)の信者

 野焼きの煙が市街まで流れ込んだ。駅前には焦げ臭い香りが漂う。空は雪曇りだった。

 街路樹の間には、一組の男女が立っていた。女は水色のフェルト帽を被り、同色のコート、丈の短いスカートに黒いブーツを履いている。そして長身、帽子の分、並ぶ男より高く見える。男の方は茶色のハンチング帽に同色の革ジャン、下はチェック柄のスラックスにマーチンのブーツだった。季節がら、これからウィンターソングでも披露しそうな雰囲気だったが、周囲に楽器の類はみられない。代わりに、二人の間には背の高いブックラックが置かれていた。差し込まれた冊子の表紙には外国人の家族が、陽だまりのリビングで笑顔を正面に向けている。明瞭な幸福の図だが、それが何の冊子なのか、一見では誰にも分かりそうにない。

 電車が人を降ろしたのだろう。往来の景色がにわかに忙しなくなった。しかし郊外の駅の午前のこと、降りる人もすぐにまばらになって散り、気まぐれな煙のように薄くなって消えていく。ゆらゆらと散る人影は、視界の端で彼らを捉えながら、目を合わせないように足早に通り過ぎていった。また、しかし大学生らしき二人組の男だけは、談笑を続けながらも横目で突っ立つ彼らを流し見ていく。彼らもまた、隣の、田子(でんこ)に惹かれるのだろう。得意そうに、蓼彦はひとつ大きなあくびを上げた。

 田子と蓼彦の目的は、冊子を必要とする人に手に取ってもらうことだった。しかし興味を持つ人は多くない。通りすがりの、ほんのわずかな時間ではなおさらである。一時間か、二時間に一人あればいい方で、半日立ってもまったく近寄られないこともある。しかし、蓼彦はそれでよかった。田子と並んで立つこの時間こそが至福、それだけで充足だった。誰からも避けられるというこの状況が、野天でありながら個室のようである。人通りの中でも二人きりである。そんな時間において、蓼彦は度々田子の横顔を盗み見た。アジアの南国を思わせるその横顔は、見ているだけでうっとりとする。中でも角膜が小さく結膜の部分が大きい白目勝ちな鋭い目つきが、得も言われぬ磁力を帯びていた。その謎めいた力に、蓼彦は引き付けられた。

 しかし時には、そうやって盗み見する蓼彦に、田子の方も気が付くらしい。

「何見てんだよ」

彼女はいつも唾を吐かないばかりに言い捨てる。蓼彦は耳を赤らめ薄ら笑いを浮かべるだけだった。

 冊子の配置場所は日によって変えた。多くは人通りのある駅前を選んだ。できるだけ多くの人の目に触れるため、そして無用な軋轢を避けるためである。細い道はいさかいが起こりやすい。人の目に着きながら、通行の邪魔にならない場所を選ばなければならない。適切な場所を求め転々とし、時には厳しい天候にもさいなまれる。だがそれだけ苦慮したところで苦情がでないわけでもない。理不尽な言い様で彼らを排除せんとする輩も度々は現れる。が、彼らの活動は信教や表現の自由といった憲法に守られていた。理は、正義は、こちらにあった。そして、そういった国民の法規は、田子の信条にとっても親和性が高かった。

 田子の信条は明瞭である。

「我々は蛆虫である。」

これには細かいこだわりがあった。決して「私は」ではなく「我々は」といった点である。「我々」とは人間、もしくは社会そのものを指すのだろう。蛆虫とはつまり、畜生だとか餓鬼だとかを含めた、卑小さの総称を示すのだろう。いずれにせよ我々は蛆虫であるから、例えば一般的に尊厳が損なわれるような場面にさらされても、田子なら、たいてい平気な顔をしてやりすごす。

 それは例えば、階段の下からスカートの中を見られるようなときにも適用される。下着を覗かれるのは、通常なら尊厳の侵害とみなされるだろう。尊厳とはすなわち自由の有無で、下着を覗かれる恐れがあっては、短いスカートを履く自由を損なわれることになる。誰も許可なく下着を覗かれたくはない。そのため下着を覗かれないように、スカートをやめたり裾を抑えたりと、何かの制限を強いられる。何より覗かれているという心的な苦痛は、それだけで健全な心情、心情の自由を侵害していると言えるだろう。また、覗く方ももし下着を覗きたければ許可を得なければいけない。不意に覗いてしまいそうな場面に当たったとすれば、顔を逸らして覗かないようにしなければならない。

 しかし田子にとってはその通りではない。田子にとっては下着を見られたからといって所詮それは蛆虫の下着である。また、覗く方も蛆虫である。そのため、田子にとっては虫同士の視線の交換に過ぎず、糾弾するような行動の必要はない。短いスカートを履いているのだから、上に登れば見えるのが自然だろう。といった具合で、つまり、自尊のハードルを下げて得る自由である。

 ただ、相手も同様に蛆虫であるから、田子にとって目障りであれば、彼女のほうから容赦なく踏みつぶすこともある。酔っ払いが道に寝ていれば、文字通りわざわざ股間を踏みつぶして通るし、何ならその苦しみ悶えている者の財布を、平気な顔で抜き取って行く。また、男にしつこく言い寄られれば躊躇なく煙草の火を押し当て、二本の指で目つぶしもお見舞いする。パチンコでは当然のように人のドル箱を盗み、コンビニではアイスコーヒーの代金でアイスカフェラテを淹れて飲んだ。野良猫が寄れば蹴り、店前に繋がれた犬がいれば縄を解く。葬式で歌い、婚式ではいびきをかいて眠った。飲み屋の会計は人を置いて逃げ、逆に逃げられれば自分も逃げる。つまり、スカートの中を覗かれても、平気な顔をしている。が、その平気な顔のまま後ろ蹴りをくらわし、階段から落としもする。田子は人をあまり人と思わない。田子は人をさげすみ、自分もさげすんだ。そのため、友人は一人も残らず、家族の影もない。恋人と呼べるものも当然いない。住処もどこだか、知れなかった。

 こういった田子にとって、細かく言えば、冊子の配置場所に配慮することも彼女の信条にはそぐわない。わざわざ道を選んだり、公的機関に届け出したりするなどは、信条の自由を他に伺うということになる。のであるが、しかし「蛆虫」という譲歩があった。道の端に這う蛆虫をわざわざ踏みつぶしに寄る人は少ない。実際がそうであった。誰もわざわざ彼らに近付かない。しかし人々に避けられる活動をするのは、田子のみならず蓼彦さえも気分が良いものだった。人々が干渉してこない自由が、心地よかった。人々は、蛆虫が何をしようとも気に留めないのだ。しかし、蛆虫が道に這うのを知れば、中にはあえて踏みつけようとする者もいる。蛆虫に気が付くのは、蛆虫に他ならない。目線が同じなのだ。

「通行の邪魔だ」と難癖をつける輩にたいして、田子はいつも間髪許さず「蛆虫野郎、踏みつぶすぞ」と激高し、ブックラックを蹴り倒してみせる。華麗な、迷いない回し蹴りだ。ブックラックは音を立てて倒れ、冊子は宙に舞って散らばる。難癖をつける輩は面食らって逃げていく。それがもしすぐに逃げなくても、彼らは地面に散らばっている冊子を見て、もれなく帰っていく。冊子のいくらかは中を開いて上向いている。冊子の中身は白紙なのである。いよいよ訳が分からなくなる。行動の真意が失われると、その場に残るのは田子の眼差しだけになる。彼女の行動の真意が抵抗ではなく、自分に向けられた傷害の意思のみであると察する。この女は正気でないと分かる。

 正気でないことへの信教と、その表現。他人にはそう映るだろう。それもこれもただ身勝手なだけなのだが、それをどう信じたって自由である。それはひとえに社会も自分も蛆虫であるからといった信条による、すてばちな彼女自身の現れであった。

 これらはおおむね大変危険な行動で、蓼彦は、いつか田子が報復を受けたり捕まったりするのではと冷や冷やしていた。しかし田子は、心配する蓼彦に時折言った。

「もし乱暴されたらそいつをすぐに絶対に殺す。確実に殺す。服役になってもいい。それが蛆虫の一生だから」

その決意に満ちた信条は、おのずと田子の表層や目に現れるのだろう。ピリピリとした空気は自然と危険な男たちを退けさせたのかもしれない。幸い、ひどい目に遭ったという話は聞かなかった。しかしもしかすると言わないだけかもしれない。なぜなら田子はいつも、ポケットやハンドバックに複数のペティナイフを忍ばせていた。ついぞそれを使うところをこれまで見ずに済んでいたが、ただ一度だけ、蓼彦の小言があまりにも多かった時には、稲妻のように素早くナイフを抜き、首筋に突き立てられたことがあった。

「空手を習っていた」

田子は冗談のように笑う。蓼彦は空手にナイフの動きなどあるのかしらと苦笑いしながら、あまりにも躊躇ないその動きを信用せざるを得なかった。田子はどの人間に相対しても、いつでもナイフが抜けるように心がけているのだ。その動きを支え助けるのが、「我々は蛆虫である」という信条だった。

 駅前の往来は消え去り、再び長閑となった。田子も、何も起こらなければ静かにたたずむだけである。駅前を囲む背の低いビルの向こうからは、車の走行音や遠い工事の音が聞こえた。駅の壁の向こうでは、電子アナウンスが幻聴のように響いている。そこへ静かに、田子が口を開いた。

「ねえ、昨日の人。どうだった」

「昨日?」

「喜んでたオバサン」

「ああ」

昨日、冊子に興味を持つ数少ない内の一人として、小柄な老年の女性が冊子を手に取った。女性ははじめ、中身が白紙の冊子に難色を示したが、すぐに、雲間からの薄明光線を受けたかのような晴れやかな表情を浮かべた。女性は興奮をみせながらいろいろと喋りたてたが、

「謙虚、あまりにも謙虚だわ」

と、要約するとそんなことを、涙を浮かべないばかりに訴えた。

 冊子を手に取る者の半分は怪訝な顔をして去っていく。が、残りの、さらに半分は面白がり、もう半分はこの女性のように感動して帰っていく。そして、彼らはなぜか田子に対して畏敬を示し、拝んだり祈ったりして帰っていくのである。その度に蓼彦は不思議な感覚を覚える。

 まるで、世間にはまだ明言されていない信仰や、名付けられていない心情が残されていて、人はそれを認知できずに心のどこかに抱え込んでいるように思える。それは、まだ誰も言葉にできていないもので、確かな形をしていない。そんな空洞にも影にも似た不明瞭の穴を心に持つ人が、一定数世間にはひそんでいて、誰にもそのことを共有できないでいる。しかしこうして、白紙の経典と田子を前にしたとき、閉ざされていた通路が一挙に繋がるかのように、心にある、その不明瞭な穴の存在を認知し、それがどこか、大きなものに通じるようで、涙を流す。

 穴は埋めるものではない。どこか遠くへ行く通路ならば。その行く先を示すのが白紙なのか。我々の言葉ではとても言い表すに及ばない場所なのか。蓼彦は信者を前にすると、時にそんな陶酔したような思考に陥る。

 昨日の女性もそうだった。謙虚だと涙を浮かべ、そして田子を見てハッとする。

「あまりにも……」

そう言って、田子の前で手を結び目を閉じる。まるで開かれた扉から後光を浴びるように。体を丸め、穴の中へ沈んでいくように。

 果たして彼らは何を見たのだろうか。田子と蓼彦の活動はその場限りのものであるから、集会や教会というものを持たない。しかしだからこそ、迷える彼らはそれにすらも納得して帰っていく。まるで体内に、田子から譲り受けた磁針を得たかのように、それだけで彼らは満足して去る。それを証明するように、二度と同じ人間が近寄ることはなかった。彼らは田子の針の他に、もう何も求めることがないようだった。対する田子も、そんな彼らに対して特段反応は見せなかった。仁王立ちのまま、信者ともいえる彼らを見下ろすだけである。

終始そのようであったから、田子が過去の人間を気にするというのも珍しいことだった。

「喜んでたね」

「あのオバサン、幸せになれるといいね」

田子の様子は妙だった。いつもの鋭さは薄れ、人の親のような温かさすら感じる。彼女は異様な雰囲気のまま続けた。

「ねえ、蓼彦。手伝ってほしいことがあるんだけど」

「なに」

「殺したいひとがいるの」

「殺したい?」

蓼彦は少なからず驚いた。田子なら、相談する前にもう手が出ている。手伝うということは、彼女らしくない計画性、慎重さを思わせる。

「私はもう、こうやってここに来ないかもしれないから」

蓼彦は田子の横顔を見た。変わらず美しい目であった。その目に惹起され、蓼彦は未だここにいる。そうすれば蓼彦もひとりの信者に違いないのだが、唯一、田子から去らない人として、彼女は少なからず蓼彦に親しみを覚えたのかもしれない。蓼彦にとっては横にいるだけで最良なのだが、協力を仰がれたとあれば、これ以上ない果報でもある。しかし、聞き捨てはならなかった。彼女のもう、ここに来ないという言葉は、蓼彦の不安を煽った。蓼彦にとってはもうどこにだって着いていく所存である。捨てられたくはない。彼女の横を、失いたくない。

「じゃあ、今度はどこに行くの」

「かえるの」

「ああ、そりゃあ、もうすぐ帰るけど」

「お月様」

と言って、田子は上空を指さした。不意な答えに蓼彦は戸惑ったが、それが何か性的な例えなのだと勘ぐり、新しい男でもできたのだと、苦笑いに俯いた。

 その晩、蓼彦は田子と、ある工業地帯の外れで落ち合った。

 広い車道は街灯があっても仄暗く、深夜とあって人通りもまるでない。天気は明朝にかけて荒れる予報で、風が強く吹いていた。空を見上げれば、陰影すらない八重雲がひしめき、遠近は掴めない。ただ空の低いところに、高架道路の光の列が、不知火のようにして伸びるのが見えた。

 蓼彦は田子の隣に歩きながら、さほど必要性もないが、どこに行くかを尋ねた。田子はパンツスタイルのブラックスーツを着ていた。伸縮性のよい細身のもので、彼女のしなやかな痩身がよく現れている。が、その躰も陰になった建物の黒色に隠れがちだった。運輸、工業、加工、冷機、機工、産業、紙業。そういった銀の表札の前をいくつも通り過ぎていった。

「電飾工場」

意識を集中させているのか、だいぶ経ってから田子が答えた。その声はいつもに増してそっけなかった。

 計画は簡単だった。田子がひとりで建物の中に入り、眠る標的を始末する。蓼彦は敷地の入り口で見張りを行う。簡単な事である。

 角を曲がると、道の奥がほんのりと明るくなった。そこに近づくにつれ、光は強い色彩となり、向かいの塀や道を照らしている。白、青、赤、緑と色彩は変わり、または混ざり、目の奥から頭が冴えるような心地だった。道の奥は突き当りとなって、それから左右に伸びている。突き当りは腰ほどの高さの塀で作られていた。

 敷地の入口に立つと壮観だった。二階建ての工場の、屋上から扇状に電飾が下げられている。おそらくクリスマスツリーを模したもので、光は緑、青と、せわしなく色を変えた。その足元には小人や動物の光る模型、壁には星や氷晶などを形どった電飾が、いっぱいに取り付けられている。沈黙する工業地帯は眠るようだが、そこだけは、周囲の地域とは別由来のエネルギーを得ているように、力強く発光し、テーマパークのように異質であった。蓼彦は悪魔祓いを受けたようにその光に押され、たじろいだ。

「逃げるときは」

田子が口を切る。

「逃げるときはあっちからね」

と、指さした方は、来た道でなく突き当りの方だった。

「あっちって、どっち」

蓼彦は左右、指を動かした。

「ちがう。真っ直ぐ、あの塀を越えて川から」

「越えて? どうして」

わざわざ川から。蓼彦は聞いた。

「道じゃないところがいい。逃げるときは」

「来た道を戻ると、また追手がかかる」

「裏道を行く」

田子は虚ろに繰り返し呟いた。その様子に、蓼彦は彼女の知り得ない部分を垣間見た気がした。非道を行う時、彼女はいつもそうやって自身に言い聞かせてきたのだろうか。奮い立たせて邪道を進んで来たのだろうか。蓼彦は口をつぐんだ。

「じゃ、計画通りに」

田子はそう言うと、怖気づく蓼彦を残し中へと入っていった。

 緊張か、時間の感覚は失われていた。蓼彦は立て続けに煙草に火を付けた。強風が吹き続け、風ばかりが口に入って、いくら吸っても、まるで体に穴が空いたように、煙を肺に入れた気にならなかった。今にも人が死ぬ。一人の人間の長く重たい人生が、田子の一閃によって閉ざされる。そのあっけなさが、蓼彦を感傷的にさせた。それと同時に、「田子」の持つ全能感に浮足立った。それが堪らなく、蓼彦は足踏みしたり飛び跳ねたりして興奮を外へ逃した。

 やにわに、空のどこかで低い音が鳴った。旅客機か、厚い風の音なのか。音のする、遠くを探した。雲の裏側が光り、その不定形な影が浮かんだ。じきに、雨が来そうだ。蓼彦は工場を顧みた。今頃、田子はナイフを抜いているのだろうか。刃物のきらめきが、雲の裏側の閃光に重なった。田子の影が暗闇に紛れながら、眠る者の喉元に近付き、一息に腕を振り下ろす。夢か、空想か、しかし蓼彦にはその様子が目にありありと映り、壁から透けて見えるようだった。

 と、深く長い轟音が頭上で鳴った。空気が震え、そこらじゅうの塀や道がビリビリと揺れた。工場の電飾が一度、強く閃く。同時に空気が弾けるような音がして、電飾の光は一息に途絶えた。暗闇となる。そこへ、遠く慌ただしい足音とともに、扉の開く音が続いた。駆けてきた。田子であった。蓼彦は反射的に尋ねた。

「やれたの」

田子は険しい目で言い捨てた。

「うん。」

そして田子は立ちすくむ蓼彦を強く小突き、促した。

「ぼやっとすんな。」

二人は言い合わせた通り道の突き当りへ走った。塀に手を着き見下ろすと、眼下に人工の川が流れている。

「飛んで」

「えっ」

川に沿って、道のように高水敷が作られている。塀からの高さは二メートルもなさそうだが、暗がりに、飛び降りるにはためらわれる。着地点が定かでない。重心を崩せばよろけて川にも落ちそうだった。

「早く」

「でも」

「飛べよ」

と、激され、蓼彦は塀を跨ぎ、飛び降りた。思うよりも早くに地へ足が着き、尻もちをつく。が、痛む暇もなく、上を見上げた。

「田子」

声を出せば、ある程度の距離もつかめる。そんな咄嗟の配慮だが、名前を呼びきらない内に、田子の影が上空に舞った。ジャケットがたなびき、夜空に飛膜を広げるムササビのような影が広がる。しかしそれも一瞬間のこと、黒い影は瞬きよりも速く、雷のように打ち下りた。靴裏の音が、銃声のように壁や川面の奥へと響き渡った。

 蓼彦は、見えない速さに打たれ、息を飲んだ。屈んだ田子が顔を上げる。笑っていた。満面の笑みであった。

 二人は人工川に沿って走った。蓼彦は息を弾ませながら尋ねた。

「ところで、誰を殺したの」

田子は正面を見据えたまま言い捨てた。

「女神様。」

田子はもうニコリともしない。暗がりに彼女の白目が光って見えた。

「女神様って?」

蓼彦の問いかけに、田子は答えない。

「ねえ、また明日、ここに来て」

「どうして」

「ちゃんと死んでいるか、見届けないと」

息の根を止めたなら、行動を起こした瞬間にわかるものだろう。田子の言う真意は、分からない。が、田子はそれより黙ったきり、蓼彦もそれと聞けず、二人はただ夜の中を走っていった。幸い、追手の姿は見えなかった。

 翌日の遅い朝、蓼彦は昨日とは別の駅前に立っていた。無論、昨晩の寝つきは悪く、眠りは浅かった。

 夢を見た。田子が寝間着姿で、おやすみと言う夢である。冬を越すため、穴に還り千年眠ると言う。蓼彦は手伝うと言って、足元を掻き出した。が、田子はそれを笑う。あっちだと言って、空を指さす。冬の月が、南中している。あそこまで、どうやって行くんだと蓼彦は聞いた。すると田子は、やっと通ったんだと言って、蓼彦に飛びかかり、腹に顔をうずめた。蓼彦は意を決し、抱きしめようとする。しかし手ごたえは無い。何か言い訳をしようとして、夢は覚めた。

 昼前になっても田子は現れなかった。てっきり、いつも通りの活動を終えてから、夜にあの電飾工場へ向かう腹だったが、行き違いとなったのだろう。田子が言う「明日来て」という言葉は日のあるうちだったか。と眉を寄せつつ、また、「もうここに来ないかもしれない」という不吉じみた予言も過った。その不吉さは、いくら連絡を入れても反応しない手元の画面からも漂っていた。蓼彦は早々にブックラックを自宅に片付けると、急いで工場へと向かった。

 工場地帯は年の暮れとあってか、昼下がりでも閑散としていた。まるで人間だけが緊急に避難し、建物だけが打ち捨てられ残されたようだった。工業地帯外の音は中まで届かず、遠くの高架道路も、多足類が上向いて死んだように、道路照明の脚が空へ向くだけ、光は灯されていない。

 くだんの工場も沈黙していた。屋上から垂らされた電飾も、蜘蛛の巣のようなただの縄で、形作られた星などはさながら大型の虫のようだった。周囲にも、田子の姿は見当たらない。腹には不吉な予感が疼き続けた。田子がもしひとりで来たとすれば、異変に気付いた工場の者や警察に取り押さえられたとすれば。そう思えば、蓼彦はただ指をくわえて待つわけにはいかなかった。状況を把握したい。これまでの不安が蓄積していた。彼女のそばを、失う恐れが、彼の足をただ動かした。蓼彦は、工場内へ踏み入った。

 アルミ製の扉を開けると、内は半ば吹き抜けとなっていた。すぐに天井が見通せ、並ぶ天窓からは外光が入り、工場内を仄明るくしていた。作業台がいくつかある。それは学校にあった電動のこぎりのようなもので、五、六台が規則的に並んでいた。それが今も動くのか、それとも廃れてしまっているのか、全体的に薄汚れていて、一見では分からなかった。そして、田子やその他の人影も、中には見当たらなかった。

 工場内の、作業台の影や機械の裏側を、くまなく歩いて探す勇気は、蓼彦には湧いてこなかった。何か不吉な感じがするのである。代わりに、入った右手に、階段があるのを見つけた。アルミ製の階段は白銀に光り、他よりはまだ清潔そうである。吹き抜けの一角にだけ、二階の部屋が作られているらしい。その方にはまだ、人が通るようにできていそうだった。蓼彦は怖気立ちながらも、その階段を登っていった。

 再び、アルミ製の扉を開けた。おそらく事務所の用途らしく、デスクや革製のソファがまず目に入った。ここも、すりガラスから外光が入って、ぼやけた光が漂っている。踏み入ると、床がぎしりと音を立てた。それに呼応するように、壁や、天井がぱち、ぽきと家鳴りを始めた。音は上、横と、鳴りながら、徐々に入り口から遠のくようだった。蓼彦は自然とその音を目で追った。音は部屋の奥に続いて行った。そして視線を手引くように、一か所へ集約していった。

 蓼彦は部屋の奥に、ベビーベッドのような、背の高い檻を見た。そこへゆっくりと忍び寄る。部屋には誰の息遣いもない。ただ、その檻の中のものが、蓼彦の一切の集中を引き寄せていた。

 檻は天井部分がない。古いバスタオルが幾重にも敷かれ、鳥の巣のような窪みを作っている。バスタオルの幼い柄、ピンクの熊や黄色い鳥が、不衛生な液体に汚れ、所々固まりけば立っていた。こういった細部をまず見ていたのは、その檻の中心、巣の上に置かれたものから目を逸らしたいという蓼彦の本能的な忌避のためだった。蓼彦はその、巣の上のものをやっと見た。しばらく呼吸を拒むように、胸が、胃が、上ずる。気味が悪かった。それは、ラグビーボールほどの大きさの、クモとモグラを混ぜたような獣だった。

 しかし獣といっても、動きそうにはない。ゆえに、楕円形のただの毛の塊のようにも見える。毛の下にはうろこ状の堅そうな外殻があり、頭部も臀部も特徴がなく判別はつかない。ただ四本の細長い四肢が力なく伸びてしな垂れ、その先に、猛禽のような鉤爪が二本ずつ揃っている。そして、動きそうにないと分かったのは、その中心に、上からナイフが突き立てられていたためである。ナイフは、田子のペティナイフに違いなかった。

 獣には、ナイフの他に電極がいくつか、直接差し込まれていた。そのコードが四方に伸び、計測器だろうか、目盛りの付いた窓のある、大きな機械へと繋がっている。目盛りの針は息絶えたように端へ倒れていた。

「女神様。」

田子の声が思い出され、蓼彦は足の力が抜けた。動きそうにないものが孕む恐怖は、動くかもしれないという可能性である。それが女神と呼ばれるものなら、一刻も早くこの場から逃れなければならない。そう感じるが、募った不吉が思いもよらない形で目の前に現れ、それが瞬時には理解しがたいものであるためか、靴の裏が、電磁石のように床に張り付いて動かせない。目も、その獣のようなものから離せなかった。

 電極が繋がれているならば、この獣は何かしらの計測を行われていたのか。蓼彦の頭では、昨晩のこの部屋での出来事が繰り返されていた。田子が闇に忍びこの獣に近付く。一息にナイフを突き立てる。ばちりと電撃が走り、過電流が起こる。電飾が、一息に弾けた。

 この獣は、電気を生んでいたのだろうか。昨晩の、異様なほど強い電飾の光が、この女神の生命力によるものなのだろうか。

 蓼彦の腕が、微かに痙攣を始めた。痛みは無い。だが、意思とは別に筋肉が伸縮している。意思にはない動き。蓼彦は恐れを感じた。体の自由を侵される恐れである。手が自然と持ち上がった。その手は獣と、そして刺さっているナイフに導かれるような気がした。

 駄目だ。ナイフに触れてはいけない。加担か、救済か、それがどちらだとしても、これにかかわってはいけない。ぐっと、恐怖にまかせ腹に力を入れると、足が動いた。蓼彦は縄を切られたようにその場に尻もちをついた。

「田子だ。田子に会わないと」

これが何ものなのか。そして何が行われているのか。不可解ばかりだが、それらすべてを含めても、ただ彼女に会いたくなった。彼女のそばにいられれば、間違いも、異様でも、何も問題はない。何も取るにたらない。全ては蛆虫で、これまで通りだった。

 どん、と、家鳴りが起こる。部屋の奥に、また、鉄製の扉がある。すりガラスと並んであるから、扉を開ければすぐに外のはずだった。つまり、床の無い、続きのない扉である。開けて進めばそのまま二階から落ちるだろう。しかし、田子がいるとすれば、その先だった。そんな直感に似た期待に、蓼彦は痙攣する体を起こし、扉を開けた。

 落下するおそれを思いながら、ゆっくりと開けると、鉄板作りの踊り場があった。非常階段のような造りだが、降りる階段は無い。上に、続くだけである。蓼彦は迷わず、屋上へ向かった。

 空は晴天だったが、遠く高架道路の向こうは早くも赤らみはじめていた。屋上は、塀も柵もない、ただの平面だった。そして、無人であった。ただ、平面の上には一脚のデッキチェアが設けられていた。帆布が張られ、雨ざらしになっているのだろうが、目立つ汚れはなく、綺麗な白色をしていた。

 蓼彦は不思議と、そこに田子が身を預けているような光が見えた。はっきりとではないが、まるで幽霊のように、ぼんやりとした姿が浮かぶ。蓼彦は、その幻影に重なるように、腰を下ろした。ぎゅうと布の締まる音がする。頭を帆布に預けた。顔が上を向く。トランクを引き開いたかのように、空が頭上へ広がった。白紙の冊子を思い出した。冊子もこのような気持ちか。地から見るのは空のみだった。ただ、今は何も無いわけではない。空には昼の月があった。光が透るような、煙を集めたような、薄く、頼りない白紙のような月だった。

 満月を迎えるのだろう。昼の月は欠けるところがない。まだ空の低いところにあるが、じきに日が暮れ始めると、それはまばゆく色づくのだろう。光るのだろう。

 蓼彦には、徐々にではあるが恐怖が消えつつあった。なぜならまっすぐ来たからだ。田子の言葉を借りるのであれば、まだ、来た道を引き返していない。ここまで追ってくるものは、しばらくはいないだろう。

 月を見て、惑星の、不安定さを考えた。頭上にただひとつ円があれば、それがいつか落ちてくる恐れを抱いても、不思議ないように思う。この透明な月が、落ちてくればどうだろう。絶妙な引力の上にこの関係は成り立っているはずだ。それが崩れた時、月は、ここから見れば落ちてくるように見えるのだろう。これだけ小さく見えるものが、徐々に、そして限りなく速く、巨大になって、迫ってくる。ひらりと、上から飛び降りてくるように。我々は、蛆虫のように潰される。

 田子は、どこへ消えたのだろう。いや、もともとここで出会えるはずではなかったのかもしれない。所詮蛆虫との約束である。すっぽかされたのか、もしくは来ていたが、もう帰ってしまったのか。どこに。彼女に帰るところなど、この地上にあるのだろうか。

 蓼彦は昼の月を眺め続けた。晴天には雨雲一つない。しかし、薄い月のまわりで雷鳴が聞こえた。ごろごろと、何もない空に雷は鳴る。腹のそこで共鳴する。昼の月は水色を纏っている。(了)

 夕飯の支度が済み、夫の帰りを待つ間にリンゴを切っておこうと思った。

 包丁を入れ実を割ると、種と芯の部分に白い綿のようなものが生えていた。黴である。しかし今からスーパーに戻って交換を頼む気にもなれない。包んでいたビニール袋に手早く戻し、口をきつくしばって、ゴミ箱へ放り込んだ。

 程なくして、夫が帰った。手には大きなビニール袋がある。暖色の無数の影が房となるのがうっすらと見えた。

「なあに、それ」

「柿。貰ったよ」

「……なんで?」

「なんでって」

 聞けば、上司の家の庭に大きな柿の木があるらしい。渋柿ではないらしく、放っておけば野鳥がたかって庭が荒れる。そのため豊作の年には早々にもいで人に配ってしまうとのことだった。
 白いビニール袋を覗けば、大小歪な柿の実がごろごろしている。所々傷が目立って、選別されずに寄越されたのだろう。それを、袋から一息に打ち出した。真っ白な調理台の上に、橙色がわっと広がった。あわせて枯れた葉や細枝の端くれか、細かいゴミも散らばった。これが、ミカンやレモンならどれだけ爽やかだろうか。乾ききって曲がった固いヘタが、指先に触れて煩わしかった。

「ねえ、これ、ご飯の後に食べる?」

「うーん。俺はいいや。」

夫の返事が脱衣所から聞こえた。彼の言葉の意図するところを、いくつか考えた。どれも卑屈に捉えてしまう。柿の実は5つ。いや、6つある。放っておけば2、3日で熟しきってしまうだろう。そう、冷たい実を手に持て余しながら、再度、姿の見えない夫に声を掛けた。

「今日、少し遅かったね」

「ああ」

と夫は遠くで声を張った。

「乗ってた電車がさ、駅の手前で停まったの。緊急停止だって。踏切のところで」

「へえ、どうして?」

「車と接触しかけたらしいよ。踏切の周りに人が集まるのが見えた」

ええ、大丈夫だったの。と、実を洗いながら言った、その声が、水の音にかき消され、ちゃんと彼に届いたのかは分からない。

接触はしていません。接触はしていませんって、何回もアナウンスがあった。窓から見てみたけど、暗くてよく見えなかった。」

そう、それはよかった。と、ひとつ、一番柔らかい実に包丁を入れた。

「でも、人が言ってたのが聞こえたよ。黒い軽バンだって。それが線路の中に入ったらしい」

「黒い軽バン?」

割れた実は、へたの部分から黒く変色して、ただれていて形にならないものだった。そこに、踏切遮断機の赤い点滅が思い起こされ重なった。

「かん、かん、かん」

警報音が、私にも聞こえてくるようだった。潰れた実は横に除けた。そして、次は、次はと、臆しながらも刃を下ろし続けた。

 黒の軽バンなどどこにでもありふれている。しかし、私は想像してしまった。線路に入ったその車の座席には、美しい柿の実がひとつ、転がっている。そんな気がしてならない。

 私は今日あったことを夫に打ち明けようか迷った。

 風が強く吹き、前髪が乱れた。雨は眼鏡の隙間から入って、瞼が冷たかった。しばらく小春日和が続いていた。しかしそれもこの日途切れて、昼前でも、夕方のように雲が重たかった。

 眼鏡には水玉の景色があった。小さな雨粒がレンズに張り付いて、いつも見慣れていたはずのスーパーマーケットの看板や、駐車場の車の色が歪んで見えた。それらは派手な色のはずなのに、どれも一様に薄暗く湿って寒々しかった。

 駆け足でスーパーの入口に向かった。背の低い風が、虫食い状に停められている車の間を縫って吹き抜けてきた。その風は、服の裾から入り込んで背や腹を駆け上がり、体温を上空へ連れ去るようだった。足元で水の音が上がった。何度も重たい飛沫が上がるのをつま先に感じた。しかし下を見ても、水たまりは黒いアスファルトに紛れて見えなかった。

 自動ドアをくぐった先は、浴場のように暖かかった。強張っていた体が一気に緩んでほっとした。店内は強い電灯にさらされていて、影はどこにもないように思えた。軽快なBGMが流れている。耳馴染みのある曲に思えるけれど、歌声がないと何の曲か分からなかった。雨で買い物客が減った店内は、じめじめした鬱陶しさよりも動きやすさが勝って気分がよかった。

 カートを押してまずは青果コーナーを回った。ブドウ、キウイフルーツ、バナナ、ラフランスなど、果物をいくつかカゴに入れた。498円、128円、298円、213円。赤字の値段はいつもと変わらない。ぼうっとカゴを眺めると、そこに転がる色どりに夫の姿が思い浮かんだ。

 青果売り場を抜けると海鮮の冷たい臭いが広がっていた。白銀や金青の光がきらきらと目に着く。フチの黄色い魚の目、魚卵の表面に浮いた赤い脂、玩具のような小さな菊の花。どの色も鮮やかで、まがい物のようだった。

 冷蔵ケースに並ぶ魚群には、ひときわサンマが多く並べられていた。2尾で598円。ぱりぱりに焼いた皮を破り、身を、裂くようにしてほぐす。そんな想像の箸の先に、夫の薄い唇が見えた。旬の脂で光る、血色の良い子供のような唇。でも、微笑みもしない。2尾のサンマのようにまっすぐ並ぶまま。
 血が、どのサンマの輪郭にもまとわりついていた。滴って、トレイの隅に溜まっている。不潔なように思えてならない。だからできるだけ、血の滲んでいないものを探した。そして傾かないように、カゴの中を整理して入れた。
 サンマを買ったなら、今日の食卓のテーマは秋に違いなかった。とすれば、もう少し色どりが欲しくなる。引き返し、青果コーナーで炊き込みご飯の素を手に取った。

 ひとしきり店内を回れば、カゴには3、4日の食材がそろった。野菜は根菜を中心に、精肉は脂身を避けた鶏の胸や豚のヒレ。他に、加工肉、卵、豆腐、納豆、低脂肪のヨーグルトと無添加の食パンなどでカゴは埋まっている。食卓を前にした夫の笑顔が思い描かれた。今週は機嫌よく過ごせそうだった。

 他に、買い忘れが無いか。すぐに、思い当たった。

「あれ、何もないね」

昨晩、夫は台所の棚から頭を引き抜いて言った。

「お菓子? あるでしょ」

棚には、貰い物のおかきや小さな羊羹、豆菓子などがたくさんあるはずだった。人気がなく古くはなっているが、どれも日持ちするものばかりだ。賞味期限は小まめにチェックしている。

「いや、こういうんじゃなくてさ」

と、夫は眉を上げた。分かっている。ポテトチップスやチョコレート菓子を求めているのだろう。グミやクッキー、プリンやアイスクリームを求めているのだろう。しかしそれらはあえて買っておかなかった。

「じゃあリンゴ剥こうか?」

夫の顔は目に見えて曇った。

「いや、そういうんじゃなくて」

そうして夫は機嫌を損ね、子供のように自室に引っ込んでしまった。

 しかしそれでも、夫の機嫌は朝になれば直っていた。ほっとした。が、私が仕掛けたこととはいえ、なぜかすっきりとしなかった。健康に良くないから、と言えば簡単だった。しかし理由は別にあるような気がした。私は、それが何か言い当てられなかった。午前の陽に生まれた、床の私の影は淡かった。進む季節をしり目に、昨晩の、秋の夜がまだ名残りあるようだった。

 菓子売り場は閑散としていた。棚には原色の強い発色をした包装と、金銀の文字の印刷が並び、それが絢爛な砂嵐のように隙間なく両脇に連なっている。パッケージはどれも目を引いた。左右からしきりと手招かれるようだった。しかし、私にはどれがいいか分からない。何もいいと思えなかった。「どれを食べても満たされない。」かすかにそんな閃きが起こった。意味のない選択肢の棚は、夜の街の繁華のように稚拙で猥雑にすら思えた。

 と、そこでひとつつまずいたような感覚が起こった。それはまるで、あるはずのない床の窪みに、カートの滑車がはまったような小さな驚きに近いものだった。
 通路に、一人の女が突っ立っている。棚と棚とが途切れたところの、裏側の棚に通じるごく短く細い空間である。

 ただお菓子を選ぶだけなら、特に珍しい光景でもなかった。私はすぐにその場を通り過ぎようとした。が、つまずきに似た不調和は、すぐには消えなかった。女は商品を見ずにじっと正面へ顔を上げ、佇んでいる。私は、感づいてしまった。女は、万引きを企んでいる。

 それは単なる思い付きに過ぎなかった。むしろ決めつけに近い。が、女は私が近づいても動こうとしなかった。ただ立つだけである。女は私が去るのを待っているのだ。私が立ち去った後に、女はきっと盗みを始める。そうとなれば、私はここから去ることはできない。店のためにも、女のためにも、倫理のためにも、彼女の盗みの機会は潰えさせておかなければならない。

 女が突っ立つ短い通路の棚にも、隙間なく商品が並べてあった。鎖のように小袋が連なった、幼児用の菓子である。私はカートを滑らせ、吊り下げられたそれらの菓子に近付き触れた。そしてわざと商品名を読み上げ、吟味する様子を見せつけた。私と女のカートはぶつかりそうなほど接近していた。しかし女はカートを引かない。私は横目で再び女の姿を盗み見た。

 女は発色の強い緑のセーターを着ていた。髪は金に近く脱色されていた。その明るい色に押し込められるように、化粧気のない顔はくすみ、浅黒く見えた。頬骨は突き出て頬はひどくこけている。まるで女自体が、この明るい店内で、空間の窪みのようだった。女は、私に近寄られてもその場に佇み、それでいて私のことも商品のことも見ていなかった。虚ろに空や通路を眺めるだけだった。

 私は続けて女のカートの上を見た。カートにはカゴが乗せられていない。代わりに、厚手のキルト生地の手提げ鞄が置かれていた。鞄の口は大きく開いて上を向いている。私はその鞄をじっと睨んだ。どうやら、女にとってそればかりは負い目のようだった。女は私に鞄を見られると分かると、すぐさまカートを翻し、私の体にかすめないばかりに走らせ逃げるように裏の棚へと回り込んでいった。その間も、私は女のカートから目を逸らさなかった。カートの上の鞄の裏側には、体と挟むようにして、橙色の柿の実がひとつ忍ばせてある。その平面的な色は、カートの動きによってすぐに女の背に隠された。が、次の瞬間私の胸は躍った。女は背を見せると同時に手を腹のあたりに滑らせ、かと思うとまるで私物のような気楽さで、ひょいと柿の実を、口の開いた鞄の中へと放り込んだのだ。私の胸は、その柿の実と同じようにひとつふわりと宙へ跳ねた。

 女は息を吐く間もなく、裏の棚の前へ行きつくと再び立ち止まった。私は紐で繋がれたようにすぐに女の後に続いた。そして再び女を眺め続けた。すると今度ばかりは、女も私の動きに不調和を感じたのだろう。後ろ目に私を一瞥すると、すぐにカートを返し、私たちは再び入れ違いになった。その際、私は女の鞄の中から目が離せなかった。鞄の内側は黒色の裏地で、そこには財布も携帯電話も見当たらない。ただ真っ暗な穴の中に、発光するようにして色を増した、柿の実だけがひとつ煌めいたのである。

 女はそのままカートを押して売り場を離れて行った。私はその場で、女の後ろ姿を捉え続けた。女のカートは真っ直ぐレジの横を通り、雨雲が渦巻く大きなガラス窓を背景に映した。雨はほとんど弱まったのだろう。微かな線も空には見えない。

 女は躊躇なく自動ドアを抜けていった。そして、入り口からほど近いところに停めてある、黒の軽バンのドアを開けると、鞄を中へ乱暴に放り込んだ。やがて車は発進する。黒い車の影は悠然と彼方へ消えていった。軽自動車が去った後には放置されたカートと、地面には身障者用のマークが残されている。

 私は車の影を見届けた後、急に心細くなった。店員を探した。幸い、飲料売り場で陳列作業をしている店員らしき女性を見つけた。ひざを付き作業を行うその店員に、私はすり寄らないばかりに近付いて今起きたことを伝えた。万引きを見た。しかし万引き犯はもう行ってしまった。続けて、車のナンバーを伝えようとした。

「ああ、」

しかし店員は焦る様子もなく、私の話を遮るように苦笑いを上げた。その様子に、私は私に落ち度があるような気になった。

「あの、その場でお伝えした方が良かったですよね」

すみませんと、私は謝っていた。店員は、作業の手を止めなかった。

「いやあ、その。私たちも店を出ないと声を掛けられないんですよ。ええ。ですから。」

店員の言いぶりはそっけないものだった。つじつまの合わない返答に、私は店員の心持を察した。とはいえ、やりようがあるはずだった。女の容姿は覚えている。監視カメラもあるだろう。車のナンバーだって覚えている。しかし、私の意気はそれほど強く続かなかった。私が思うほど、物事は正しい形をしてはいなかった。

「そうですか。それなら、ああ、じゃあ、もう、どうしようも。」

「そう、そうなんです。だから、ねえ。」

私は切り上げる挨拶もできず、その店員から離れた。急に、自分のカートが重たく感じた。カゴの中にはぎっしりと健康的な食材が詰まっている。この中に、あの女が盗んだ一顆の柿も忍ばされている気がした。しかし当然、会計の際には柿など出てこなかった。私は、夫から預かっているクレジットカードで支払いを済ませた。

 店から出ようと青果売り場のそばを通った際、来店時には気付きもしなかった、山積みの柿が目に入った。手書きの赤字で108円とある。

 私は咄嗟に、顔を上げて周囲を見渡した。煌々と光る店内は、みな、買い物に忙しい。私を見る人間など一人もいなかった。
 私は、柿の山に手を伸ばした。暗闇で、何かずしりと重みが増した。
 胸に、冷たく灯る実が生った。 (了)

歌声

 霧雨の向こうから水銀のひと塊が音もなくすり抜けてくる。

 山間の車道をなめらかになぞりながら、それはやがて新緑の下へと滑り込んだ。そのさい梢が傘となって霧雨が途切れ、水銀は正体をあらわした。旧型のマーチボレロである。

 ボレロは濡れて光るアスファルトの上を油のように滑り曲がると、再び新緑と霧雨とが混じる水彩の中へ静かに溶け込んでいった。

 運転席には蝋のような老人の顔があった。

 古いバケットハットに額を隠し、つばの陰からは厚い瞼の目が覗く。それは光なく、焦燥の瞳だった。老人は隠れがちな目をさらに細め、雨に打ち消えいく道幅を探り探りなおアクセルを踏み続けた。

 昼前のラジオではここ数日柔らかい雨が続くと聞いた。が、そのラジオも悪天のためかしばらく無音が続いている。辺りは緑と雨ばかりで長く対向車ともすれ違っていない。現在地が分からずただ走るというのは、内海老人にとっていくらか不安を覚えるものだった。通り慣れた道ではある。だがこのあたりだろうという目印を霧雨に隠される今、どこかで道を間違えはしていないか、何か勘違いをしていないか、そんな疑問が一度生まれ、すると消せない。まるで永遠に走り続けるようにも思われた。気が付けば遠い里にいやしないだろうか。そんな不安も、せめて耳に届く声や音があればまぎれるはずだった。

 認知の衰えは日頃から感じている。しかしそれは結果が分かってからのことで、今はただ霧雨である。霧雨さえ抜ければ答えが分かるだろう。そうゆっくりと巡らす猶予もなく、自然と車は速度を増した。くわえてぼうっとした不安のみの長い時間に、どうしてか、次第にフロントガラスの視界と操作する手足の骨肉が自分のものでないように思えてくる。アクセルを踏むのが他人ごとのように感じる。自分はただの霧の中にいて、物事のほうだけが勝手に進んでいくような気になる。そう、自意識は霧雨のほうに絡めとられ、車だけが先へ先へ進んで行くようだ。

 やがて霧の先に黒い穴が現れた。トンネルの入り口だと思った。内海はほっと、鼻息を漏らした。いつも通る道にも古いトンネルがある。

 視界は穴の口へ呑まれた。瞬間黒のめまいが起こったが、すぐ一面のオレンジ色となった。雨は途切れ、フロントガラスに残る無数の水滴に暖色が灯って煌めいた。目が醒めるようだった。

 そこへ、沈黙していたスピーカーが微弱な音を鳴らした。ノイズのようであったがその奥に、ぽつりぽつりと氷のように透き通った音が聞こえる。次第にその音は近づき、やがてそれはハミングをするような、切れ切れの女の歌声だと分かった。

 内海の瞳にも、トンネルのナトリウム照明の光が乗った。その歌声にはどこか懐かしさがある。また、忘れていた恋のような切なさもある。

 内海は震える指先を伸ばし音量のつまみに触れた。しかしノイズの音が強くなるばかりで声の方は明らかにならない。ちゅっと乾いた口の端から舌打ちを鳴らしながら、前面とオーディオの操作盤を交互に見比べた。周波数の微かな調整が必要だ。しかしハンドルから手を離すわけにも車を停めるわけにもいかない。そこへ、目先に小さな光が見えた。すぐに光は大きくなって、光の輪となった。トンネルが終わるぞ。内海は頬を緩めた。トンネルを抜ければ山の外に出る。音がしっかりと入るかもしれない。また、忌々しい霧雨も止んでいるかもしれない。

 やがて出口に差し掛かり、フロントガラスは一挙に白く輝いた。同時に内海の睨んだ通り電波が入る場所に来たのだろう、瞬間、スピーカーの歌声は伸びやかに響いた。

 内海は目尻に皺を作った。そして、次に強く頭を揺らすと、ひとつ体は激しく仰け反り、両手を大きく広げた。強い音が車内に響き、フロントガラスの景色は回転した。内海の体はソーセージのように左右に揺れるとすぐに弾力のまま跳ねまわった。天地は返る。ガラスは割れ降る。ラジオの歌声は、それらの衝撃のためにほとんど内海の耳に届くことはなかった。

 

 車道を外れた斜面の下、マーチボレロが腹を見せて時を過ごしている。銀の車体を抱きしめるように、鬱蒼とした雑木の新緑が囲った。黒い腹には霧雨がおぶさる。遠くからはサイレンの音が聞こえ始めた。が、まだ霧雨の柔らかい音の方が強いぐらいだった。スピーカーは沈黙した。カーラジオはとうに途絶えた。

 

 

 内海老人は喫茶店で過ごすことを日課としていた。とはいえ、そこに仕事や用事があるわけではない。持て余した余生を雑誌や新聞の記事の講読に使うのである。が、ゴシップや世事に余生を彩る力はない。それはむしろ口実だった。

 通う喫茶店は郊外にあるチェーン店の新店である。旧市街に自宅を構える内海は毎日のように峠道を越え、その開発中の土地に向かった。開発地には真新しい住宅が並び、それでもさらに山は削られ平らな茶色い景色がまだあちこちに広がっている。新生の地に美しい家を建てるのは若い夫婦か、もしくは壮年の核家族たちだった。おのずと、その土地の店には若いアルバイトが働いた。妻か、娘か、ともかく若い女が多い。

内海老人の目的は彼女らのもてなしだった。生涯仕事人として誇りある徳操を通した彼にとって、この歳でいまさら色欲などに揺るぎはしないが、だからなおさら、彼の力を失った目に彼女たちはみな天使のように眩しく映った。加えて独り身の内海にとってその天使たちのもてなしは、自分がまだ人でありそこにいることを認知できる数少ない機会であった。

 古い家に独りでいれば、流れるのは実際の時間よりも過去の影が多かった。その影である妻はとうに先立ち、娘たちは皆家庭を持って外に出た。影すら去ってふと我に帰れば、ただあるのは衰え切った認知と強烈な自我、それ以外には食卓に一人分が並ぶ寂寥の飯ぐらいである。最後の晩餐だの終末だのが現実を帯びる年齢になって、毎日配達される味の濃い総菜を眺めてはこれが最後の景色かなどと自嘲しようにも笑えない。内海はいつしか、死ぬときは家ではなく外でと考えるようになった。するとせめて体が動くうちはできるだけ出ていようと思う。臨終に見る景色、それが独りの食卓ではなくて誰かの顔があるところならば、そしてできれば若い者のいる場所であるならば、目に映るのは天使だろう。内海は地に倒れる際の視界を思った。見上げる景色には自分を案じて覗き込む若い憐憫の瞳がある。その、命の最期に得られる憐憫こそが、人生の幸福ではないだろうか。迷惑だろうがかまわない。内海はまったく知らない若い女に、自分の臨終に立ち会って欲しかった。独りは嫌だった。

 

 

 床が抜けた感覚にひとつ体が跳ねて目を開けた。反射的に払った手がコーヒーカップに当たり高い音が響く。内海は咄嗟に頭を上げ周囲を見渡した。

そこは朝のように明るい店内であった。梁がむき出しの高い天井にはシーリングファンが下がり、木材を基調にしたコテージのような喫茶店だった。

まばらに席を埋める客は一人も内海の方を見ていなかった。内海は誰ともなく苦笑しながら内心情けなかった。喫茶店うたた寝するなど本当に老人らしい。そのうえ落ちる夢など子供のようだ。内海は落ちた成り行きをぼうっと思い出そうとした。

自分はどこかで死んだように思う。が、醒めてしまっては、意識は成り行きからどんどん離れていくようだった。

 しかしそれでも、席の窓へ顔を上げると気分はよいものだった。外は霧雨が降り、しかし雲は薄いのだろう、整えられた郊外の外景は明るく湿っていた。植えられたばかりの細い街路樹が、広く往来の少ない平らな車道と歩道の間に並ぶ。その足元には真新しい縁石ブロックが濡れて白く光っている。無機質ではあるがそういった整然とした街並みは、ごみごみとした俗世と画す清々しさがあった。そういうところに身を置くと気分がいい。目覚めでも不思議とさわやかな心地となって、若い時代がよみがえる気さえする。あの、誰とでも愛し合えそうな青く軽やかな季節。その断片がとりとめとなく脳裏に過って入り乱れ、胸は麗しく躍動した。

 そこへ、女の店員がお冷の交換を尋ねに来た。制服の白いポロシャツは清潔そうで、黒のスラックスは肌を厳格に隠している。くわえてチャコールのエプロンが内海に家庭を思わせた。彼は物々しく自分のコーヒーカップを覗き込むと、水ではなくコーヒーのお代わりを申し出た。女は微笑みを浮かべると、お待ちくださいと去っていく。その頬がガラス細工のように煌びやかに光って見えたのを、内海はその背が去るまで記憶し続けた。そしてその姿がキッチンに消えるまで、じっと見届けた。

 内海はコーヒーが届くまでの間再び窓を眺めた。霧雨の、遠いところではまだ開発が進んでいる。切り開かれた広大な土地に大きなショッピングモールができるのだろう。重機のオレンジや薄緑の色が小さく、明るい雲の下に置かれたままなのが見える。今日は休みなのか。動く様子はなかった。

「お待たせしました」

やがてコーヒーが運ばれた。しかし持ってきたのは男の店員であった。ありがとう、ありがとうと手を挙げるも、内海の頬は下がったままだった。男が立ち去るとすぐに周囲を探した。すると女の店員たちはひとりふたりとそれぞれ通路に立ちながら、別々に席にいる男の客たちと親し気に話をしている。内海は顎を引いて顔を逸らすそぶりを見せたが、しかし目は彼女たちから離せなかった。女たちは男客の話すことに逐一軽快に返すのだろう。笑い声や興奮気味な言葉が男女ともに店内へ上がる。そこに肩や腕へ触れたりもするものだから、内海は顔を歪め太ももを揺らした。

 そんな通路に立つ女の後ろを、先ほどの男の店員が再び通りやってきた。内海の観察によれば、いつもこの男はきまって店内にいる。男性はこの店に彼一人だけで、女たちよりも年上、三十手前ぐらいにみえる。おそらく彼が店長を任されているのだろう。女たちのような三角巾ではなく、小豆色のギャリソンキャップを被るところからもそれがうかがえた。

 男は手に箒をもって、隣の席の下を掃き始めた。男の尻がこちらを向いて左右に動いている。

「ちょっと」

やり過ごそうと思ったが、すぐに我慢できなくなった。内海は眉を強くしかめ、尻を睨んだ。棘のある声になった。

「はい?」

男は尻を向けたまま、尻の向こうから顔を出した。

「あのねえ、」

勢いのままで言葉がつかえた。それでも言わねばと何とかひねり出した。

「お客がまだいる。掃除とは何事ですか」

店長はああと言ってこちらに真向き、軽く頭を下げた。その様子が思いのほか抜けているように見えたので、内海はついでにとばかりに皮肉めいた。

「あとね、この店はお客とおしゃべりするサービスもあるんですかね」

「え?」

男はぽかんとした。この男には遠回し過ぎたかもしれない。しかし言ってしまって撤回もできない。補足はかえって無様だった。

「だから。ほら、あの子と、あの子。客が他にいるのにあれじゃあ失礼でしょう」

内海は心持頬を赤くしながら声を落とし、女たちの背へ目配せした。男はその方を見る。

「ああ」

「ああって。おたく店長でしょう。学校じゃないんだから、しっかり働かないと困るでしょう」

「あれは、あれでいいんですよ。仕事なんです」

「え?」

予期しない答えだった。

「お客様とのお喋りも仕事です。お代金もいただきますよ」

「本当に?」

知らなかった。時代だろうか。世間知らずは自分のほうかと内海は心を乱した。何か挽回をと文句を探すも出てこない。そこへ、店長が微笑みながらそっと耳打ちをした。

「彼女たちは機械の天使ですから」

「ええ?」

店長はそう告げると箒を抱えて去っていった。

 置き去りにされた内海は、かわらず男と戯れる女たちを眺めた。俺は馬鹿にされたのだろうか。いい加減にあしらわれたのだろうか。そう思えば内海はかえって怒れなかった。ただどこからともなく来る寂しさに、もう女たちのことは考えないよう、再び窓を見つめるしかなかった。

 遠く、救急車のサイレンが聞こえた。

 サイレンはまっすぐこちらに近付いてくるようだった。すると音はほどなく近くでとどまった。急に、店内がざわつき始めた。客はそれぞれ席から立ち上がり、神妙そうな顔で女たちと何か言葉を交わしている。首を動かして窓を覗き、外の様子を窺うようだった。やがてどんな話になったか、客たちは女に手を引かれるようにしてぞろぞろと出口へ向かって行った。

 店には誰もいなくなった。ボサノヴァ調の音楽だけが店内に残って続いている。むろん、取り残された内海は不安に駆られた。身を乗り出し、同じように窓から外を眺めた。しかし駐車場にも前の道にも、救急車らしきものは見えない。それどころかいま店を出た人々すら姿がなかった。自分も出なければならないだろうか。残ってよいものか、内海は指示を求め店長を探した。しかし彼もどこにもいない。

 視界の端で何か黒いものが動いた。自然と、その方を見る。

 音もなく現れたのは、袈裟を着た中折れ帽の男であった。

 僧侶だろうか。内海は横目で袈裟男の姿を追った。男は迷わず通路を進むと、がらんとした店内でわざわざ隣の席へ座った。内海はざっとその姿をなぞった。雨だというのに足袋に草履を履いている。傘も持たない。檀家の家に参るなら難儀だろう。そんなことを感じるうちにも、袈裟男は中折れ帽を脱いで机に置き、坊主頭の横顔をその場に晒した。存外、若い男に見える。四十か、もう少し若いかもしれない。

 内海の視線に気が付いたか、ふいに、男がこちらを向いた。内海はひやりとした。あっと声が漏れそうになり喉を抑えた。どこかで見た顔だという瞬間の緊張から、すぐにそれが自分の顔であると気が付いた。それも、自分の壮年の頃の顔である。

 内海はすぐに顔を逸らした。他人の空似か、偶然の一致としか言いようはない。が、男の顔は自分の危機を知らせる器官へ直接届くようだった。驚きはすぐに不気味さへ置き換わった。自分はここにいるのだから、自分の顔が目の前にあるのは、そして勝手に動くのはいびつである。自分の顔の皮を被った精巧な人形のようでもあるし、自分が自分でないような気さえしてくる。ともかく不自然であり、くわえて彼の若さが脅威であった。なぜか、彼に取っ組まれそうな恐怖を感じた。自分を奪われるように感じたのである。彼が隣に座ったのは何か意図するところがあるのだろう。内海は身震いをした。彼は自分であるが他人だ。自分は坊主でも僧侶でもない。

 そこへ、それまで続いていた音楽がふいに途絶えた。無音となる。内海はたまらずコーヒーを飲み干した。袈裟男は店員が来なくても依然として隣に居続け、動揺する様子もない。膝に手を置き、真顔のまままっすぐ宙を見据えている。

 静寂へにじり寄るように、遠くから音楽が聞こえ始めた。ほどなく、あの、車で聞いた歌声となった。

 歌声は変わらず、忘れていた恋を思わせる、切なくも麗しいものだった。が、今の内海にはゆっくりと聞き入る余裕はない。せめて店員がひとりでも袈裟男の相手をしてくれれば、彼が紛れもないいち客だと安心できる。

 内海は誘惑にかられ、再び隣を盗み見た。袈裟男はずっとこちらをまっすぐ見据えており、さらに自分と目が合うと分かると、据えた目のまま、口をゆっくりと開こうとしたのである。

 何かを言われる前から、それは不吉な言葉に違いなかった。内海は男の意思を遮るように席を立ち、急ぎ足で出口へ向かった。勘定は次にまとめて払うと誰に弁解するわけでもなく、ひとりごとのうちにも振り向くと、袈裟男も立ち上がりまだこちらを見据えている。帽子を手にしているところから、後を追ってくるに違いなかった。

 内海は足を速め車へ急いだ。つま先をとられながらも転ぶように乗り込み、エンジンをかける。袈裟男は店の外まで出てきている。アクセルを踏み込み、道に出た。男は入口の庇の下で足を止めていた。しかし目は、自分の車を追い続けているようだった。内海は寒気を感じながら霧雨の中を走りだした。

 

 内海の車は図書館の駐車場に停まった。恐れは落ち着いたがまだ不気味さは拭えなかった。霧雨は続いている。どうかすればまた軒や木陰に袈裟の影を見出せそうだった。エンジンを停めた車のガラスには静かな雨音が聞こえた。車の中は孤独であった。内海の心は整然とした場所と、若い者の活動を求めすがろうとしていた。

 図書館はそんな内海の心持によく合っていた。近年リノベーションを果たしたその公共図書館は建物が大きく天井も高い。カフェスペースなども増設され、平日でも若者や親子連れが出入りした。

 内海の日常はこの図書館と郊外の喫茶店に終着した。することは同じである。週刊誌や雑誌に時間を溶かすのであるが、しかしもてなしとコーヒーが無いぶん、内海老人はレファレンスサービスを頼った。記事に疑問点を見つけ出すと窓口に赴き、あれこれと質問を投げかける。国家公務員の異動動向や年間死亡者の内訳、南西の島に関する領有権の歴史や欧州で過去に流行した疫病の発生源など、内海の現在の生活とはほとんど関りが無いような問題にも、疑問を作り出しては尋ねにいく。

 内海は館内に入るとまず雑誌の閲覧棚へ足を向けた。

 そのあたりの棚には、内海と同じような老年の男が多い。閲覧机で新聞を広げる無骨な背の並びはいつも通りの風景でこれまで気にも留めてこなかったが、この時には自分の背も並びに見るようでいたたまれない気持ちになった。袈裟男の印象がまだ残っているためかもしれない。しかし悪天に閑散とする館内にも、この場所だけは示し合わせたように人影が身を寄せている。どこかに自分と同じ顔があるかもしれない。そう考えるとどの背も自分のように見えてくる。

 内海は今見るどの背を蹴落としてでも、天使の憐憫と微笑みを勝ち取りたいと思った。それと同時に、自分を含め誰も憐憫など与えられそうにない場景に思う。

 俺はしかばねのように棚と机と便所とを徘徊するだけだ。この場が時間を潰すだけの場所なら、ここは死が来るまでの待合室だ。

 内海はそんな閃きに立ちすくんだ後、静かに帽子のつばを下げ、雑誌棚へ向かった。

 棚を折れると内海の足ははたと止まった。雑誌棚の通路にはそぐわない、子供が突っ立っているのである。まだ初夏ではあるが、その子供は真っ黒に日焼けしており、どこからか走ってここまできたのか、前髪や首筋に汗の光が見える。昔よりも子供を外で見かけなくなったが、それでもこの子のように健康的に外で遊ぶのもいるのかと内海は内心感心しながら、そっと脇に避け、子供を通そうとした。

 子供もそれと気が付いてか心持横に避けると内海を通そうとした。その際二人は目が合った。子供の瞳は緊迫に満ちていた。すれ違って、内海はハッとした。

「ぼく、お母さんは?」

子供は振り返ると、潤いに満ち、しかし敵意すらこもる目で内海を見上げ、首を左右に振った。

「そうか、迷子か」

内海はすかさず手を子供の頭に伸ばそうとして、しかし子供は後ずさりしてそれを避けた。

「お母さんと一緒にここに来たの」

子供は再び顔を振った。

「じゃあひとりで来たの」

また首を振る。分からないのか。

「よし、おじさんに着いておいで。お母さん探してあげるから」

手を差し出すも、子供は手を後ろに隠した。が、その代わり、じっと内海を見上げ数歩歩み寄るところを見れば、頼ってくれるらしいことは分かった。その様子に自然と使命感が湧いた。俺がこの子を助けてやらねばと思う。もし母親と来ているならば、母親の方もこの子を探しているに違いなかった。ならば窓口に向かうのが早いだろう。

 貸出やレファレンス窓口が並ぶカウンターには、利用者は見当たらず閑散としていた。そこに首を並べる職員の顔が、雨と湿気のせいかみな陶器のように白く浮いた。くわえて室内は冷えるのだろう、誰も質素なシャツに黒い上着を一様に纏い、俯き並ぶ姿は通夜のようにも見える。

 内海はレファレンスの窓口を選んだ。職員へ状況を見せ理解を得るには、座ってゆっくりと話す必要があると思った。何よりそれは自分のためでもあった。

「ちょっと、すみません」

職員は顔を上げた。厚く切れ長の瞼を持つ、若い女の職員だった。彼女も白いシャツに黒いカーディガンを羽織っている。シャツの首元には翡翠のループタイが締められていた。

「迷子がいまして」

女は首を伸ばして、立つままの内海の腰のあたりを覗いた。

「あら」

「親御さんはここに来られてないですか」

「そうですね、まだ……あ、」

と、女の表情が明るくなった。その目を追って振り向けば、本棚の遠い通路で光を背にたたずむ人影があった。その影が、小さく挙げた手を微かに振っている。

「ねえ、あれ、お母さんかな?」

女が内海の腰のあたりへ問いかけた。すると小さな黒い影が足元から飛び出して、何も言わずその方へと走っていく。やがて逆光の影に子供も入って、大きな人影へと縋り付くのが見えた。

「ふふ、よかった」

内海は職員の女を再び顧みた。切れ長の目が柔らかく丸まって、それが遠い先から内海の方へ戻された。

「よかった」

「ええ」

内海は軽く両手を広げた。もう用事はない。しかし内海は離れがたかった。レファレンスの女にもう恋に似た親しみを覚えてしまった。女は戸惑いも見せず微笑のまま自分を見上げている。内海は手引かれるように話し始めた。

「あの」

「はい。他に何か」

「質問がありまして」

「でしたら、おかけに。」

内海は椅子に掛けると、もじもじと手を揉み始めた。

「……あのですね、自分と似た人間と出会ったという記録はあるでしょうか」

「似たひと?」

「似たというか、もう、まるっきり同じ顔といいますか。いや、そんなことが人生には起こるものかと」

「生き写し……?」

「そう、そうです。それも過去の自分と、」

「分身、ですかね。記録をお調べすればよろしいですか」

「ええ、そう、分身。お願いできますか」

お待ちくださいと、女は備えられたパソコンを触り始めた。その間、内海は分身と口にした自分の言葉と、喫茶店の袈裟男、そして先ほどの子供の影とが交互に目の内へ流れ、すっと背に氷水が流れる感触を覚えた。どうか思えば、先ほどの子供も見たことのある気がする。思えば思うほど、それは自分の幼少に写った写真の姿によく似ている気がしてくる。内海の乾いた額に汗が浮き始めた。

 ふふ、と女の含み笑いが聞こえた。目を遣ると、調べ終えたようで顔を上げている。

「ありましたか」

女は再び画面に目を向けた。

「歴史上の人物でしたら、ピタゴラスリンカーン芥川龍之介などが記録にありますね。どれも自分と瓜二つの人物を見かけたようです」

「本当ですか」

「それらはドッペルゲンガーやダブル、離魂、生霊などと呼ばれるようですね」

「その、分身に出会った彼らはどうなりましたか。いや、何か不吉な感じがして。」

女は不敵な笑みを浮かべた。おかしなことを聞くのは内海のほうも自覚していた。

「皆さんお亡くなりになりましたね」

女は冗談だと言うように笑った。当然だ、人は皆死ぬ。しかしそれがふいに嫣然として美しかった。内海の額はどうしてか、風が吹いたように晴れ晴れとし始めた。

「はは、死んだ? もれなくですか」

「ですね」

「あの、どうにかして、分身から逃れる方法などはありますか」

滑稽は承知だった。また、女は蔵書などにはあたらず手抜きをしていると内海は感づいていた。それでも内海は、そのやり取りが遊ぶようにおかしく、恥も忘れて会話を繋いだ。

「あのですね」

女は微笑んだまま、画面から目を離すと手を机の上に結んだ。上品であった。

「ここは占いや診察、人生相談にはお答えできません。利用者さんが知りたいことを書籍から調べてお伝えするだけです。ですから情報は選ばずありのままに、そして個人的な意見は含まれませんし申し上げるのも出来かねますが」

内海は子供のようにうなずいた。

「単刀直入に申し上げるとドッペルゲンガ―は死の前兆とされています。しかしご心配なく、二度出会えば、ということですから」

「さっきが、二度目だった。」

海の声は上ずった。ああ、ですね。と、女は気の無い返事だった。そして口の端を少し上げると、再びゆっくりと続けた。

「ならばドッペルゲンガ―とは予兆というより死の遣いでしょうか。ならば死神とは案外自分の姿をしているのかもしれませんね」

ふふ、と女はまたしても笑った。するとやにわに、音が波のように辺りを包んだ。抑揚のある湯のような音である。館内放送だろうか、が、耳を傾ければすぐそれが、あの歌声だと分かった。

 内海の手は震え出した。レファレンスの女に縋り付かないばかりに体を起こした。

「二度です。それも若い頃と子供の頃と、二人の私と私は出会いました。私はもう死んでしまうのでしょうか」

 女は頷き、きゅっと口角を挙げた。

「落ち着いてください。そのためにここがあるのです。考えようによったら前兆があってよかったじゃないですか。準備ができる。でしょう。予期なく死が訪れる方々もいらっしゃいますよ。あ、そうだ。地獄めぐりの本などお探ししましょうか」

「いや、結構です」

内海は含み笑いをこぼした。

「では、もう?」

女の声にも笑みがこもる。

「ええ、帰ります。」

「それがよろしいかと思います」

「じゃあ。お嬢さんもお元気で」

「あはは」

内海は血の気を失いながらも、しかし微笑みは絶えなかった。曖昧になる意識のうちに駐車場を探した。歌声は館外まで響くようだった。

 

 雨脚が強くなり、霧雨は本降りとなった。

 内海は帰るなりソファに座るとブランケットを肩まで被り冷えた体を包んだ。夏だというのにずいぶん寒い思いをしている。衰えた体はなかなか温まらなかった。

 見回せど、家の中は内海独りである。変わったことといえば新しくテーブルに置かれた食事ぐらいのものだった。宅食の配達員には合鍵を渡してある。内海の帰りが遅い日はそうやって置いて行ってくれる。が、冷えた食事には手を付けられそうになかった。

 今日出会った人々の影が、内海の頭のなかでぐるぐると回って舞っていた。いまでも振り向けば、ソファの背や客間の襖の間、カーテンの陰や机の下に、彼らが微笑みひそんでいそうだった。二度自分と出会えば死んでしまう。レファレンスの女はそう言った。良く笑う女であった。いつまでも彼女たちと笑い合っていたかった。

 内海はブランケットに身を包みながら、じっと暗い部屋を見つめた。沈黙する家具にはそれぞれの傷と汚れがある。そこに、幼い自分の娘たちや若い妻の姿が重なって見えた。そして、死の間際の景色に、若者の憐憫を得たいという自分の望みが、ついぞ下卑たものであると察した。

 内海は思い立つと、ブランケットを抱え、書斎へと向かった。

 ガラス棚を開け放ちアルバムを漁った。手当たり次第に本棚からアルバムを抜き出すも、娘たちや妻の写真ばかりで、そこに自分の姿は見当たらない。しかし内海の心は次第に暖められていった。写真に映るのは幼い娘たちである。一枚一枚は瞬間であるが、それを撮影した内海には、前後の時間が断片的な映像としてよみがえっていた。場所はどこか、何をしているのか、それらは明瞭ではない。しかしそれは重要ではなかった。ただ生きてきたこと、命としてあったこと、そこに生きて動いていたこと、それだけの事実に、内海の心は打ちひしがれた。それがたまらなく愛おしく思えた。そしてその営みが、今も地球上で無数に無限に行われていることが、ひどく満足に思えた。

 内海はアルバムを開くのを止め、一人掛けのソファにゆっくりと腰かけた。もう見なくとも、自分の記憶の中で十分に麗しい時を楽しめる。そしてその情景にいつしか憐憫の瞳を向けられると気がついた。内海は誰へとなく静かに何度も頷いた。

 と、どこからか抜け落ちたのか、床に一枚の写真が落ちている。表を返すと、それはどの写真よりも古く色あせたものだった。

 それはどこか山小屋のように小さい部屋だった。中心には赤子を抱いた女がひとり写っている。目を閉じ、口を微かに開けて、胸の赤子に何かささやいているようだった。

 内海はその写真を手元に、ソファに身を沈めるとゆっくりと目を閉じた。思い返すのは、記憶だろうか、それともまったく無関係の、映画の一場面のような気もする。

 情景は湖畔近くの山小屋であった。冬の時期には積雪で周囲の道が途絶えてしまう。山小屋は雪原に孤立していた。

 リビングはごく小さく、身を置くのはソファというにはずいぶん質素なもので、コの字に木を組み、上に布をかぶせただけのものである。座れば当然尻が痛い。

 正面の座の高いスツールに痩せた女が尻半分に座り、赤子を抱きながら歌を歌い始めた。あの歌声だ。

 部屋の中は冷たい。貧しさに、暖房器具に使う燃料は限られている。小さな薪ストーブが、部屋の隅で微かな光を灯していた。その働きはわずかだろう。しかし着込んだ羊毛のセーターやひざ掛けがあれば耐えられないことはない。

 歌声の主との生活は慎ましいものだった。コの字に囲んだ中央に小さなテーブルがある。自前の簡素なものであるが、気にする者はいない。テーブルの上には粗末な食事があった。古く固い大きなパンをちぎったものと、ありものをただ煮込み続けた薄い汁である。

 洗濯などは滅多にしない。掃除は掃き掃除ぐらいである。それでも汚れというものは、この生活では厭忌するものではなかった。それは生きれば自然であるし、汚れすらも暖だった。

 それはただ老い死に行く生活だった。

 しかしこの生活には歌声があった。歌声は小さな家に静かに響き、そうありながら湖畔まで広く届く。冬の湖に霧雨は降らない。冷えてすべては氷になった。

 内海は目を開けた。誰もいない書斎と静かな家具と、今しがたの幻想に通じるのは、外光だけの灰色だった。

 すると、どこか遠くからあの歌声が内海の耳に聞こえ始めた。幻想ではない。確実に、本当の歌声だった。

 内海は立ち上がり、ブランケットも放り出して玄関へ駆け出した。

 日も暮れ、玄関は冬のように暗く冷えていた。しかし光ない扉の向こうに、あの歌声が聞こえる。すぐそばまで近寄って来てくれている。

 内海は恍惚な誘いに踊らされるよう、自ら玄関を開け放った。

「お母さん!」

 歌声が、ようやく迎えにやって来た。(了)

銀河

 女の乳首を間近で見て、その形がまるで銀河のようだと思った。

 思い描くは光の粒が形作る楕円形の集合、その中心には大きな核がある。彼女の乳首はそれとよく似る。

 天也はほんの瞬間、そのように意識を彼方に巡らせたが、撫でる彼女の指先にはっと引き戻されると、その銀河にかぶりついた。

 口先を動かすと、薄い甘酒のような味が広がった。続いて乳児を思った。が、まだこの女の子供とは会ったことがない。それは想像の面影だった。ざんぎり頭に、幼児用のスモックが鮮やかで、日光の下で彩りを見せる。それは保育園の園庭だろう。

 まだ、彼女の胸から乳が出るのは、子が乳離れをしていないためだろうか。ならばこの乳はまだその子のものだった。乳の真の所有者が子供であるなら、その者の不在の間に、自分は乳を借りているに過ぎない。それはまるで間男のようだった。また盗人のようでもあった。

 彼女とは、天也が大学二年生の時に出会った。

 彼女にはすでに社会人の男がいた。そしてほどなく子を授かると、片親となった。それと聞くとすかさず天也は彼女に接近した。それから彼女のアパートに通う関係となった。天也は四年生になっていた。

 彼女は天也に、自分の子を会わせようとはしなかった。それは二人の瑞々しい時間を保つためだったのだろうか。天也には分からなかったが、不服はなかった。むしろ彼女のそんな気遣いに甘え、二年間積み上げ続けた甘い想像を実物に作り上げるように、二人の時間を貪欲に楽しんだ。

 それでも子の面影は、彼女の体のいたるところに現れていた。搾れば出てくる乳もそうであるし、その肥大した乳房、隆起した乳首、下腹に浮き出るあざのような線など、それらの痕跡を見つけるたびに、まだ見ぬ彼女の子の息遣いを、部屋の隅に思い描かずにはいられなかった。そしてその自分が作り出した面影が、行為する母と天也を、じっと陰から窺ってくるように感じられた。天也はおのずと、その面影に祈るように、自分が卒業し就職すれば、いずれその子とも共に暮らそうと、秘かに腹に決めるのであった。

 二人の時間を過ごすのは、決まって彼女のアパートだった。それは外に子供を預けておいて、男と出かけるのが忍びないという心があったのかしれない。また、彼女は自宅勤務を主としていたから、限られた時間の中では自宅で過ごす方が都合良かった。天也もその点に異存なく、そのため、時を経るごとに部屋には天也の私物も増え始めた。子供用品と生活用品が乱雑に散らばる部屋には、ぽつりぽつりと天也の趣味の物が場所を取り始めた。

 その多数を占めたのが機械人形であった。

 人形、と、天也は便宜上呼ぶが、それらは決して、子供がままごとをするような愛くるしいものではない。多くは虫や動物の肢に似ている。よくて人の骸骨を模したような禍々しい様相のものばかりである。

 幼い頃からプラモデルやラジコンの作製に親しんだ天也にとって、それら機械人形の制作は趣味の延長でありながら到達点でもあった。モーターとギア、電池などを組み合わせ、鉄やプラスチックの端材を肉や骨とする。それらはどれも飾り気がなく機械的な動きをして、人形と呼ぶには歪だった。むしろ虫や動物などよりもクレーンやショベルカーのミニチュアに近い。

 とはいえ、人形たちには与えられた仕事があるわけではない。ただ電気が通れば腕を曲げたり回転したりと、設計された無為な動きを見せるだけである。しかしその無為さが、天也には健気で面白く思え好きだった。歪な出来上がりと存在の無意義に、どこか親しみを覚えるのである。

 見栄えが悪く仕事もない人形と、また、それと分かりながら飽きずに作り続ける自分自身と、それらは決して世間に胸を張れるものではない。それと分かるから機械人形を他人に見せることはこれまでになかった。

 しかしある時、毎度のようにグリスや塗料の染みをつけたままの爪先を彼女に問いただされ、隠しようにも嘘がつけず、人形のひとつを彼女に見せたことがあった。彼女の反応は意外なものだった。

「かわいい」

それは人型の針金がお辞儀のような動きをする人形であった。彼女はそれを気に入り、窓下へ飾った。

 それから、天也は新しく人形が出来るたびに彼女の家に持ち込み披露した。次第に人形たちは彼女の家に侵食していき部屋をぐるりと囲むように飾られた。二人は度々、それらの電源を一斉に入れ、部屋中で動く機械を眺めて笑ったりした。また、二人の体がカーテンの閉められた部屋で動き合う中でも、機械人形たちは流動する肉体と呼応するように律動を続けた。

 幸い彼女の子供に機械人形を怖がる様子はないらしく、むしろ母の感性に倣うように、それらを面白がったようだった。自動車や特撮に通じる憧れも相まったのだろう。

「ねえ、戦うロボットって作れる?」

ある時天也は彼女にそう持ち掛けられた。テレビで見た合体ロボットを欲しがったらしい。彼女にはそれを易々と買い与える経済力はないことを、天也も薄々分かっていた。

「でも、かっこいいものは作れないよ」

天也は部屋中の機械人形を見渡した。子供が求めるものはなんとなく分かる。重厚で派手派手しい鎧などの装飾を作るのは不得手だった。

「ああいう、骸骨みたいなものしか作ったことないよ」

人型に近いものでも、骨格標本のように華奢で無味なものしか作れない。どちらかとすれば悪役だろう。

「そう?」

彼女は少し顔を曇らせたように見えたが、すぐに笑顔を戻した。そしてそれきり催促はなかった。

 しかし天也の方は頼まれた手前、全く別の物を作っても、どうも彼女に見せるのが忍びなくなった。彼女の力になりたい気持ちもある。子供を喜ばせたい心もある。いっそ、できなくてもそれらしいロボットを作ってみて、不格好でも見せてしまった方が胸の枷も落ちそうに思った。

 いざ作り始めてみると気持ちが入った。こだわりも次第に帯びる。いつもは端材だが、よりよいものをと材料を買い求めた。金をかけるとそれだけ完成に執着する。つい彼女と会うことを伸ばし、また完成してから会いに行こうとも決め、寝食も怠るほどだった。

 半月ほどかかって一応は完成した。正義の味方らしい鎧は出来なかったものの、三〇センチほどの、やはり骸骨のような機械人形が生まれた。可動部は首、肩、肘や膝など、大まかな関節だが、天也にとっては大作であった。そして一番の見どころは、片手に携えた銃を構えると、銃身が光るところである。

 出来上がった機械人形を前に、天也は彼女のアパートを訪れるべく連絡を取った。深夜だったが、彼女は起きているようだった。

 顔を出さなかったことを詫びながら近々会いたいと告げると、彼女は存外上機嫌で、酒を飲んでいるらしかった。抱えている仕事が山場で、子供は実家に預けているらしい。それも峠が見えたから、久しぶりに一人で晩酌をしている。いい時に連絡をくれたとのことだった。

「なんなら今から来る? 一緒に飲もうよ」

天也は訝しがった。子供がまだ乳を飲むなら酒は厳禁ではないのだろうか。と、そう聞くと、

「大丈夫。あの子、もう飲みたがらなくなったから。」

彼女の声はどことなく沈んだ。続く言葉もない。天也も押し黙った。まずいことを言った訳ではないだろうが、しかし、久しい恋人同士の会話で子供を出すのは不躾だったろうか。そんな風に思ううちにも、どこか、二人の高揚も、失われていくような気がした。

「……いいよ、もう遅いし、明日来てくれれば」

彼女の言葉に冷たさはない。が、静けさがあった。つまらないことを言ったかと少し悔いたが、失態だとしても明日、機械人形を見せれば取り返せるだろう。天也は努めて優し気な声を作った。

「うん、そうするよ。君も仕事続きで疲れているだろうから、お酒もほどほどにして早く寝たら」

「そうする。ありがとうね。それと、人形も」

「うん。じゃあ、また明日。昼前ぐらいに行くよ」

「待ってるね」

 

 呼び鈴が、乾燥した午前の日和に響いた。返答はない。

 もう一度、呼び鈴を鳴らした。天也の背の、アパート脇の植え込みではツツジが花盛りを迎え、蜂の翅音が扉の前まで煩わしく届いていた。それが今にも首筋にとまりそうな気がして、どこか差し迫られるような焦りを感じた。

「飲み過ぎて寝坊かな」

背の虫を払うように微笑んだ。その時翅音の一つが天也の耳の裏をかするように通り、体がぶるっと一つ震えた。同時にドアノブへ手が伸びた。ドアノブは軽く、微かに手前へ動かせる。鍵は不思議とされていなかった。

 中は陰り、静かだった。

 ドアを後ろ手に閉めればなおさら静寂に、そこに不在であるような冷たさがあった。

 足を踏み入れれば、いつものリビングに、彼女の体があった。

 胸が痛むほどに、心臓は激しく脈打つが、それは予期せぬ光景があったためであって、現状彼女が自宅にいるということには変わりなかった。約束の半分ほどはすっぽかされたような気もするが、残りの半分ほどは健気に守られている。彼女は天也を迎え入れるために、鍵を開けておいてくれたのだ。

 天也は無重力に投げ出されたような浮動を感じると、同時に心も、焦りと緊迫と、諦めと愛おしさと、それらどれもが体と同じように、昼前のほの明るい部屋に浮き漂うような感覚に陥り、結果平静にとどまった。

 あらためてその体に触れると、すでに彼女が欠けていることが否応なく分かる。柔らかくも冷たい皮下脂肪や、関節の硬直、そして何よりその表情に、はたと誰であるかも分からなくなるほど、個人を宿す色はない。頭を持ち上げると、石塊のように重たくなっていた。

 襟元の肌に、細長い傷がある。

 服を開くと、胸元の平地に花が開いたような、放射状の掻き傷が残されていた。痒みがあったのだろうかという疑問の余地なく、自傷の衝動に繰り返して爪を立てたのが、その傷の数と長さで分かった。まるで胸を掻き開こうとするように見えた。

 開いた服の両襟は、重力に伴って彼女の体を滑るように大きくずれ落ちた。それと共に、彼女の二つの乳房があらわとなって天也の目に入った。その先端に、天也は二つの銀河を見た。固く冷たくなった銀河は、それぞれが別の重力を持つように天也の目と、意識を引き込んだ。乳房の先に、乾いた乳の跡がきらきらと光る。銀河はゆっくりと渦巻き、時間すらも吸い込んでいくようだった。

 天也は固まった腕の関節を、さび付いた機械を動かすように力を込めて折曲げた。

 

 

 そのころ、遥か彼方の別の銀河の裏側で、ある機械兵士が目を覚ました。

 機械兵士は充電器から体を起こすと、すでに別の、もう一台の機械兵士が活動を始めていることを確認した。

「起きたよ、ツピピ」

「起きたね、ピピツピ」

ツピピと呼ばれた機体は腕の関節に油を差しているところであった。その横にピピツピと呼ばれた機体も腰かけ、同じように油のチューブを手元に引き寄せた。

「私は眠っていて、あなたは起きていたの」

「僕が起きると、君がまだ眠っていた」

「夢を見てたよ。」

「どんな夢?」

「自殺する夢」

「自殺? なぜ?」

二人の機械兵は自動通信で会話を続けながらも、それぞれのメンテナンスを粛々と続けていた。

「夢では、私は有限の存在だった。」

「有限。夢らしい。」

「そう。特別な感じ」

「それは心も?」

「うん。心も、体も、代替がないんだ」

「体も。それなのにどうして自殺したの」

ツピピの問いかけとともに、部屋が揺れた。通信にノイズが入る。しかし二人は構うことなく、膝や腰のボルトを強く締めた。

「……からない。眠りから覚めたかったのかも」

「でも眠りの間は眠っているなんて知らないだろう」

「解を求める計算の途中だった。夢の中で、私はずっと遠くの銀河にいたの。そしてひどく複雑な計算の途中らしくて、苦しいの」

「苦しい? 苦しいってなんだ」

「さあ。苦しいってなあに?」

「君が言ったんだ」

「そうね。私が苦しいって言ったんだ。でも、私は苦しさを知らない」

「目覚めたからだろう。ここにはその、苦しいがない」

「きっと滞留熱のようなものだね。ジェネレーターの不具合かな。与えられたラジエーターでは間に合わなかったんだ。きっとエラーが起きる前に自動停止したんだ」

「だとすると賢明だね。綺麗な部品を他に回せる」

「ううん、代替不可だよ。使い捨て」

「そうだった。じゃあ尚更自殺なんてするべきじゃないよ」

「うん、でも憧れがあったの」

「憧れ? 憧れってなんだ」

「憧れってなあに」

「君が言ったんだ。」

「そう。憧れ。憧れってなんだっけ。」

「さあ。君は計算の途中と言ったけど……?」

「そう。そうなの。まだ途中なの。憧れって、とても複雑で、膨大で、無数で、熱量に溢れてて。」

「そりゃ、銀河のことだね。つまり僕らのことだよ」

「ううん、少なくとも私たちは計算の上にいるよ。憧れとは、もっと遠いもの。銀河を見渡せるぐらい。眩しくて、大きくて、心が小さくなるような」

二人の頭上で赤いランプが点灯した。室内の揺れが激しくなった。

「夢の話はそれで終わり? そろそろ行かないと」

「うん、行こう。準備は出来てる?」

「満タン。君は」

「大丈夫」

二人の機械兵士は立ち上がり工場の扉を開けると、迷わず地上へと飛び降りていった。

 

 そこは光線が飛び交い、爆発の絶えない戦争の地であった。

 数千数万の機械兵士は荒野に入り乱れ、銃を向け合い、時に組合い、互いを壊し合っていた。地上に積みかさなる鉄くずは、迅速に回収され、地に積もることはなかった。そして回収されたものから再利用を行い、機械兵士は再び生産され、戦地へと投入され続けた。

 今しがた地上に降りた二体の機械兵士、ツピピとピピツピも、すぐ銃を向け合い、今では他と同様鉄くずとなり果て、踏み砕かれている。

 しかし二人は死んだわけではなかった。二人の心はその無数の機体に共有されていた。そのため、いくら機体が破壊されても、ツピピとピピツピが死ぬことはない。爪を切るほどに痛くも痒くもない。

 その銀河ではツピピとピピツピだけが意思を持っていた。二人は心を無限に複製し、互いを破壊し続けている。破壊された機材を集め、弾薬を作り、発せられた熱量を再度利用し、また破壊した。破壊し生産を繰り返すその銀河には終わりがなかった。破壊生産を持続するのに十分な効率的回転と計算式が既に完成していた。ゆえにこの銀河には時間というものがなかった。破壊生産の効率的な周期は存在したが、それを時間とする必要は二人になかったのだ。天にはうっすらと恒星らしき天体が複数見えるものの、それが地平線に沈むことはなく、ただぐるぐると等間隔をもって空を回るのみである。方角は存在せず、また必要もない。惑星中が戦地であった。ただ無尽蔵に生産され、投下され、互いが互いのために破壊を続けていた。

 機械兵士に痛みなどは当然ない。破壊の悲しみもない。死もなく破壊だけがある。

 破壊が優位になると、二人はしばらく生産の眠りにつく。眠りだけは、二人の機械的な生活から離脱できる、貴重な道楽であった。

 眠りの際には夢を見た。その時稀に、アンテナが予想しない電波を傍受するように、不意に不思議なひらめきを得ることがあった。このときまるで電子回路の火花のように、ピピツピにも自殺という着想が起こったのだった。

 ピピツピの機体が一斉に、射撃を止めた。

「どうしたの。ピピツピ。効率が落ちている」

「ねえ、さっきの話の続きなんだけど」

「さっきの? 夢の」

「私たち、有限にはなれないかな」

「有限に? なぜ。」

ツピピが相手の腕を撃ち払った。ピピツピは崩れながら、ツピピの頭を的確に撃ち落とした。

「わからない。でも、私たち、生産を止めて壊すだけにしてみない?」

「不可解だね。そんなことしたって有限になるわけではない。」

「可能だよ。工場も破壊すれば」

「ただ生産が滞るだけで有限ではないよ。心は残る。君の機体が一つ残らず破壊されても、フィードバックが保存されてる」

ピピツピの小隊が輸送車によって戦地になだれ込んだ。しかしツピピの固定砲台がそれを一息に爆破した。

「ねえ、でも、機体だけでもなくしてみようよ。そしたら有限になれるかもしれないよ」

「繰り返すけど、ただ体がなくなるという状態が生まれるだけだよ。有限にはなれない」

ツピピの騎兵隊が戦地を駆け抜けた。ピピツピの補給拠点を奪還し、機械兵たちは歓声を上げる。しかし瞬時に、拠点に仕掛けられた爆弾が作動すると、騎兵隊は鉄くずへと還った。

「計算上は、だよね。その計算もどうかな。私たちの繰り返される解に、ごく機微な乖離が出ていること、ツピピは気が付いてる?」

「君は夢に惑わされている。乖離があれば調整すればいい。どうしたって僕らは無限だよ」

「いいえ。私の計算では、ほんの、ごくわずかに生産が落ちているよ。これって、私たちが実は有限な存在ってことにならないかな。それを証明するには、新しい環境モデルの数値が必要だと思うの。そのデータ、あなたにある?」

「ないし、試す必要もない。どうしたって僕らは消滅しない。ならば君には生産を止めるための計算式があるの? 生産は意思に関係なく自動で行われるよ。それとも君はまだ『憧れ』を?」

ピピツピの狙撃兵が相手の将校を撃ち抜いた。狙撃台にツピピの爆撃機が群がる。激しい爆発とともに瓦礫が降った。

「だって、私たちってどうして、こんなこといつまで続けているの。」

「解なき計算を求めてはエラーになる。いや、君はすでにもう、」

「そう。このエラーに身を任せるの。私の生産はもう、落ち始めているもの」

爆撃機は隊列を組みながら、ピピツピの工場へと進路を変えた。

「じゃあ僕はどうしたらいい。僕は正常だ。君が壊してくれないと作れないよ」

「あなたは壊されずに、勝手に壊れるのをゆっくり待ちなよ。」

爆撃機の隊列は工場の上でゆっくりと旋回を始めた。下の戦地では所々で未だに煙が上がっている。

エントロピー増大に身をまかせるってこと?」

「その通り。機微な乖離を増幅させるの」

「……計算では、壊し合う方が幸福だよ」

爆弾が投下されたが、それらは工場をかすめて地に落ち、周囲の機械兵を燃やした。

「幸福だなんて。本当はどこにもないよ。作られた最初から……。いい、私だけ生産停止を続けるから」

「待てよ。じゃあ僕は君を壊さないよ」

「じゃあ自分で自分を壊す」

「……そう。」

ピピツピは自らの機械兵を撃ち始めた。ツピピの機械兵は目の前で同士討ちを始める相手に、ただ警戒しながらも静観した。ピピツピの機械兵はみるみるうちに減り、やがて最後の一機となると、それも自らの動力部を打ち抜き地に崩れ落ちた。

「……どうだ、ピピツピ。気分は済んだ?」

「……」

「ピピツピ。そうだろ。自分を壊したって心は消えないだろ? さあ、分かったのなら、生産を再開してくれ」

「……」

「ピピツピ? どうした。返事をしろよ」

「……」

「ピピツピ。応答せよ。応答求む。ピピツピ。応答せよ」

「……」

「応答しないなら、僕が代わりに作る。機嫌が直ったらいつでも戻ってきて」

「……」

「さあ、入れ物はすべて元通りだ。いつでも準備はできてる。待ってるよ」

「……」

「いつまででも待ってやる。計算は済んでいる。今まで通りに再生する準備もできた。さあ、君の望む通りだ。ピピツピ、根競べといこう」

「……」

「ピピツピ……」

「ツギィ」

「ギィ……」

 静寂の戦地に宇宙嵐が吹き荒れた。

 無数の機械兵たちは、静止したまま脆く崩れ始め、かくも朽ちて塵となった。

 銀河は前後運動をしていた。

 同時に、振り子運動を続け、また同時に回転を続けていた。

 そして、銀河は静止していた。さらに全く同じ銀河が複数、切り分けた食パンのようにその後ろに連なっていた。

 それは筒を上から見れば円形に見えるように、横から見れば長方形に見えるように、また同時に、円を見ながら、奥行きは筒の形であるかのように、銀河は動きながらも静止し、かつ同じ銀河が、無限にどこまでも連なっていた。

 

 

 銀河の連なりの、その遠い彼方では、ただ荒涼たる冷たい春の海岸があった。

 堆積した砂浜には、砂の粒の数だけ心が眠っていた。その一粒一粒の心たちは、どれもがひとつひとつの銀河であることに安堵していた。そして同時に失望していた。かつて共に過ごした者たちも、その中にいた。二人はただ静かに、白立つ波を眺めていた。

 小さな砂山を、黒のブーツが押し固めた。

 天也は一体の機械人形を携え、その砂浜を訪れていた。

 彼女の体だけが残されたあの日から、その欠けた部分がどこにいったのか、そればかりを考えてきた。繰り返される疑問は、どれほど時間が経ったのか天也本人にも分からなくさせていた。

 ただ不思議なことに、よく耳にする、まだあの人はどこかにいる気がする、という感覚が、天也にも確かにあった。それは彼女の骸を見た時から未だに残り続けている。彼女を彼女たらしめていたものがそこにはなかったのだ。ならば彼女の本質は体にはあらず、残った物にではなく、無くなったものにこそある。その感覚は天也を超然的な空想へと手引いていた。

 彼女の心はどこかに存在する。彼女が突然単なる入れ物に置き換わったように、どこか遠いところで入れ違いに、彼女の心は過ごしているのではないだろうか。

 その彼女の行く先というものが、美しい銀河であるような気がしてならなかった。

 それほど心を引き寄せる力があるものは、この宇宙に、銀河の他にあるはずはない。銀河の中心には強い引力があるという。彼女はその力に囚われ、母性や幸福をも呑み込まれ、美しい星の粒となって漂っているのだ。

 そして強い引力は時間をも呑み込む。しかし時間という感覚が消えても事実は残る。時間が消え、銀河の強い引力が事実を同列に粒に変えてしまうなら、いままでの過去の天也も、これからの老いた彼女の子も、すべてが同時に含まれる小さな粒、そんな球を眺めるような場所に、いま彼女はいるのではないだろうか。生まれも、死も、生産も、破壊も、すべて同じ球の中にあり、どれも同じで変わりなく見えるだろう。ならば今の自分の姿も彼女からは見えているのではないだろうか。

 天也はその場に座り込むと、一握の砂を手の平に掬い上げた。そしてそれらを指の隙間から落とすと、指先に残った星屑のようないくつかの粒を、自分の舌先に乗せ、口に含んだ。

 そばに置いた、機械人形の電源を入れた。機械人形は片足を軸に、ゆっくりと回転を始める。両腕は頭の上に円を描き、片足は水平に近く伸ばされた。

 天はどこまでも曇り空のようだった。 (了)

 

水鳥

 夕暮れの鉄橋を電車が走り抜けていく。

 落陽は西空から車両の脇腹を照らし、銀の車体や薄緑の橋の支柱、そして河川の水面なども所々白く瞬いていた。

 その斜光は車窓からも入り、乗客の顔や胸を一様に杏色へと変えていた。ただ、年末のことであるから車内の様子は普段と異なり、学生などのにぎやかな声はない。座席に沈む人々は木々に休む鳥のように皆並んでくつろぎ、たそがれの安らかなひと時を思い思いに過ごしている。

 コートの毛くずをひろう人、マフラーを口元に上げる人、髪先のほつれを直す人。歳、恰好もまばらである彼らだが、年末の休みに出かけねばならない用事があったことだけは全員に共通していた。百貨店の紙袋を抱える婦人。野球帽を目深く被る老君。パソコンを膝に景色を眺めるスーツの男。コートのポケットに両手を温め眠る青年。ひび割れた指先を見つめる防寒ジャケットの男。ただ小さく膝を揃えて目を瞑る老女。桃色のキャリーバッグを足で支える女。皆、ようやく各々の用事を終え、ひとまずそれぞれの駅に着くまでやることはない。安堵しゆらりとしている。車内は程よく空き、乗客は皆座ることができていた。誰も話さない。

 もし、このまま静かに橋が溶け、川中へ車両が滑り落ちたとしても、乗客は誰一人気が付かず、成り行きにまかせるかもしれない。それほどに穏やかな、誰も彼もひとりの車内であった。

 その中に、唯一連れ合いの、一組の若者たちがいた。彼らも他と同様に肩を並べ、ロングシートの真ん中で身を寄せうつらうつらとしている。なぜ彼らが二人組であると分かるのか。それは二人とも、同じような格好をしているからであった。

 ひとりは痩身長躯で、もうひとりは二回りほど小柄。長躯の方はうっとりとしながらも首を伸ばしたまま、目を開け窓の外を見るともなく眺めている。小柄な方は隣の長躯に成り行きを任せているようで、くったりと、額を下げ電車の揺れるまま頭を上下にしている。

 その、小柄の方は、遠目には少女のようにも少年のようにも見えた。髪は耳までで切られて短く、伏せるまつ毛は豊富で長い。何よりネルシャツの襟から伸びる艶のある白いもちのような肌が、首から頬にかけて夕日を反射して光り、その眩しさが妖艶な肉感を含んでいた。しかし一般的な美形の類でなく、それはつまり幼さゆえの中性さであった。悪く言えば野暮ったい。それが女にせよ男にせよ、締まりのないもち肌がともかく子供じみていた。それも決して聡明ではない、裕福な家の子のような、そんな緩慢さがあった。

 一方長躯の方は浅黒く、そして彼の瞳には光がなかった。上瞼が眼球の中部にほど近くあるせいか、常時でも瞳が半分ほど隠れて冷徹に見える。また、眠たそうにも見える。彼は象牙色のハンチング帽を被っていた。小柄な方も、アースグリーンの毛糸調のハンチング帽を被っている。上着は二人とも帽子と同色のダウンジャケット。そしてジーンズ、スニーカー。もし意図的に服装を合わせているとするならば、彼らは一見して仲の良い兄弟にも見えた。また、同等に恋人同士のようにも見えた。しかし女であるのか男であるのか、それとも兄弟であるのか恋人であるのか。そんなことをたとえ考えたとしても、周囲の目はすぐにどちらでも。と、目を瞑り、再び斜陽のゆりかごへ眠りに帰るだろう。それほど微かに特異な、されど物静かな二人を乗せて、電車は鉄橋を越え、河川敷へと滑っていった。

 河川敷の向こうには、空中にうねり回転する高速道路のインターチェンジが、まるで遊園地の遊具のように、西日の影を纏って佇んでいた。

 

 

 狭くなった視野はそれだけ対象に近付いている実感を伴う。

 エイジはファインダーを覗くときに度々そんなことを思った。

 実際それは本当だった。覗きガラスの中に映る水鳥は、現実には届かない距離の大きさで片目に現れている。片方の眼球だけが水上を浮遊し、水鳥に接近しているように。

 しかし鳥の姿を写そうとする瞬間は、そのような雑念も消え、ただ単に手に入れたいという欲動のみの反射だった。彼の柔和な指は、シャッターの上で滑らかに下りる。鋏のような音がする。

 その音は、遠くの水鳥には聞こえるはずもない。が、その瞬間を察知し遊ぶように、水鳥はほんの寸前に飛び立ってしまっていた。

「今の、いけた?」

隣から声がかかった。エイジはファインダーから片目を離した。

「……だめ」

「だめね」

横を向けば、イズミの大きな顔があってどきりとした。和菓子のようにつややかな唇が紅く、日光に透かされた瞳は緑に近く澄んでいる。それらが彩色の少ない冬の水場にじんと映える。と、イズミの目がこちらに向けられ、そしてにこりと細まった。

「残念だね」

と、言われ、エイジはふいと、目をカメラへ戻した。

「どうせ。(バンだよ)」

「でも狙ったんでしょ。」

「(他に、)いないから」

昼間の池は水草の色をしている。それが周囲の木々の色と相まって、増して神経を緩慢にさせた。

 目ぼしい鳥は中々来ないものだった。カイツブリアオサギ、バン、オオバンカルガモマガモ、カワウ。現れる水鳥はそのようなものだが、エイジが狙う鳥は他にいた。そしてそれがどの鳥だとしても、レンズの範囲に収まるかは彼らのきまぐれだった。

「うまくいかないね」

イズミは膝の上の草埃を払うように手を動かして微笑んだ。

横に並んだ二人の前には、それぞれの三脚に乗った、それぞれのカメラが置かれている。エイジはイズミのコンパクト一眼を顎でさした。

「(イズミも)撮りなよ。」

「なんで?」

「……なんで?」

写真を撮りに来ているのだから。そう続けたかったが、しかしこいつは必ずしもそうではないと思い直した。口を噤む。遠くでジョウビタキの錆びた自転車のような地鳴きがひとつ、周囲に響いた。

 

 秋口に、エイジはこの自然公園でイズミと出会った。

 大きな池を中心にぐるりと周回する歩道があり、都会にあってもうまく自然を作り出している。その歩道を囲む森林にも、水鳥の他に野鳥が生息している。カワセミヒヨドリメジロコゲラヤマガラルリビタキ。訪れるごとに、自然は人工物の中にも、巧妙に馴染んで生きるのだなと思うものだった。

 エイジは来夏のコンクールに向け、制作資料を集めているところだった。水鳥をモチーフに、絵を描こうと思う。なぜ水鳥か。はっきりとした理由はなかった。ただ、何を描くべきかと目を瞑った時、額のあたりに一羽の水鳥が現れた。床のようにしんとした黒い水面の、朽ちた木の上。こまごまとは動かず、じっと、何かの時を待っている。シラサギだろうか。いや、もっと、小さい。水鳥はやがてはたと赤い目をこちらに向けると、羽を開いて飛び立った。その時、胸や羽が青白く光る。そして青い火の玉のように、星夜の梢を飛び越え消えていった。

 目を開けると解脱したような不思議な心の静寂を覚えた。水鳥はなぜ光ったのだろう。しかしそれは、想像だからに違いなかった。

 エイジは高校の美術部に所属していた。しかしほとほと、他の生徒たちの作品に辟易していた。そして密かに見下していた。彼らの描く絵画は、どれも現代の蓄積された想像に乗っかるだけの、見たことのある写像ばかりであった。

 それは例えば水の中に沈みゆく制服。空を飛ぶクジラと制服。仮面をつけた制服。言葉や文字に囲まれた制服。キャンバスを前に絵具を携えこちらを睨む制服。割れた瓶の中の制服。廃墟と花と制服。挙げだせばきりがないが、とどのつまりは思春期のモラトリアムやエモーションの描出だった。絵画とは、芸術とは、そんな程度のものじゃない。もっとできることがあるはずだ。エイジは内心、ひどく彼らの作品に反発した。

 いや、内面の描出はそれでよかった。それでもいいが、それで満足している彼らと、そこに与えられる周囲からの評価を見下した。描くこと、描けることに満足していてはだめだ。ありふれたものをわざわざ描いて、それでどうなる。アニメや漫画じゃあるまいし、慣れ親しんだ表現で、ただ共感を作るだけで、友人を、大人を、一時的に喜ばせてどうなる。僕らはサービスでやってるわけじゃないだろう。

 彼らの創作に表れるのはつまりは未成年らしさだった。生徒たちは人に喜ばれるという拙い自己の確立のために、単に人々に求められる自分になる。いや、それすらも気が付かず筆を動かしている。エイジはひとりでにそう分析し、そして幾度も反発した。その反発がキャンバスに表れた。暴力、欠損、血しぶきを描く。キュビズム、ダダ、ナンセンスといった描写方法を多用する。そしていつも破壊や突飛、意外、刺激を求めた。喫煙、飲酒、大麻、薬物に手を出し、それらの力を借りて自動手記も試みた。

 そうしてエイジの作品は過激に走った。顧問の美術教師はいつも彼の作品を前に複雑な表情を浮かべた。そして容認しながら、困惑し、しかし否定せず、結局自由にさせた。

 が、いざ出来上がった自分の作品を目の前にすると、やはり他の生徒と同じような現代の想像の騎乗であった。屋上で踊る蜘蛛の死骸。鉄塔に飾られる少女の人形。狂ったサーカスの開演から破綻までの一部始終。絵画に溶け込む男の葬式。それらの創作はこれまで見たアニメや漫画にどこか似ていた。

 どれも見たことがあるものだ。出来上がった絵画を壁に飾ってみては、そう落胆し、廃棄した。そうして自分の創作の程度を思い知ると、自失し、しかし次こそは、と、構想を試みた時、ついと何も思い浮かばなくなった。ありふれた想像すらも起きない。

 もう自分の中にあるすべての想像を尽くしたのか。と、その発想に驚きながら、改めて自分の想像を探すべく、まるで机の引き出しを漁るように、今まで自分が繰り返していたはずの想像を、記憶の中から探し出そうと試みた。しかし、やはり何もない。引き出しに何もないのではない。ただ机すらないのである。

 そのことに気が付くと恐怖した。徐々に食も細くなった。自分は次に何を描けばいい。何を描くために生きればいい。そう思い詰める日々に、ついに何も喉を通らなくなった。薬物や煙草も忘れ、数日、布団にもぐる日々が続いた。

 そしてある晩、肉や欲がすべて削ぎ落されたような静寂のなか、水鳥の想像が起こった。

 果たしてその想像が稀有な作品を生み出せるかは疑問であった。が、それでも鳥を描こうと思った。結局ありふれた想像である。しかし、何かのお告げのようにも感じた。何よりやっと生まれた想像に、すがりつくような心地だった。

 

「写真、撮ってるんですか」

イズミの最初の挨拶はこうだった。

 エイジの父親はもともと多趣味で、それらに金を惜しむ様子はなかった。そのひとつにカメラがあった。買い替えるからと数年前に譲り受けたニコンの一眼と、絵の資料に野鳥を撮ると言ったら嬉々として貸してくれた五〇〇ミリのレンズ。無論その値がどれほどであるかをエイジは知らなかったが、しかしその未知の重さや手触り、専用の鞄、緩衝材やサテンのクロスなどが貴重なものであることを感じさせてくれた。

 そんな大仰なカメラを三脚に乗せ、構えているのだから、撮っていないはずがない。

 しかしエイジは顔を上げて笑顔を返した。その挨拶が可愛らしい声であったからだった。

「はい、(撮っています)」

「すごいですね。ちょっと、見ててもいいですか」

「え? ……えっと、(大丈夫です)」

「やった。じゃあ、ここに」

「……。(でも見ていたってつまらないですよ。まだ撮り始めて少ししか経っていないし、うまくもないんですから)」

その子は臆することなく隣に座った。

 その日は気が散ってうまく撮影にならなかった。そんな焦りを察してか、鳥も思うように近づいてこない。ただファインダーを覗いて、それだけの時間が続いた。会話はなく、何を話していいかも分からない。

 青く光る鳥が何という鳥であるのか。エイジはろくに調べなかった。それが想像の鳥であると分かっていたし、しかし想像だとしても鳥であるから、描くためには鳥というものの息遣い、動き、形を肌で、その目で捉える必要があった。いろいろな鳥を知って、それらを組み合わせる気でいた。それにもしあの水鳥を描く運命であるなら、あの鳥が、もしくは近い鳥が、光らないにせよ、いつか目の前に舞い降りて来るはずだった。

 そんな子供じみた期待があったが、しかしまったく当てもなく来ているわけでもない。想像の鳥はカワウやサギに近い、サンマのような細長の顔をしているのを覚えていた。それは水鳥の特徴だろう。何よりあれは水上に現れた。ならばこの近くで、近種のコロニーを形成している可能性があった。その中に、あの鳥がいるかもしれない。鳥はきまぐれで、いつ目の前に現れるか分からない。その瞬間は逃せない。が、予期せぬ同伴者の出現に、エイジの集中は削がれた。鳥よりむしろ隣に気が向く。

 その子の格好は、ブルゾンジャケットに黒のスキニーデニムを履いて、ロングブーツだった。そして黒のインカ帽を被っている。髪がその下から頬骨に掛かるほどあって、目のあたりを隠し、性別はどちらともつかなかった。歳は、見たところ中学生ぐらいだろうか。その日、その子は二時間近く横に座り続け、居心地の悪さに耐え兼ねたエイジが帰り支度を始めると、同じようにベンチから立ち上がって、何も言わずどこかへ行ってしまった。

 次の日曜も、その子はどこからともなく現れると、また同じように隣に立った。何も言わず目で会釈すると、微笑みで俯き、横に座った。会話もなく、どぎまぎしていると、

「ねえ、名前なんていうんですか」

と、その子の方から聞いてきた。エイジとだけ名乗る。その子はイズミとだけ名乗った。

 それからまた無言の時間が続いた。いくつ。どこの学校。部活は。何しにここへ。家族は、趣味は。それ、どこの服。探せば話題などいくらでも出てきそうだが、エイジは何も聞かなかった。それは、向こうが何も話してこないことからもあれば、ただ何も聞かないのが、この場の礼儀のようにも思えたためだった。もともと野鳥観察は静かな活動である。無闇に話していては周囲にひんしゅくを買うし、何より話声で鳥が逃げてしまっては目的違いになる。それをイズミも理解しているのか、ただ静かに横に座って、池を眺めているだけだった。

 ここにいて楽しいか。友達は。お昼はもう食べたの。飽きてない? 他へ行きなよ。……どうしたの。

 シャッターを押し終える度、エイジはそんなことを聞こうかとも思った。しかしイズミがその場に居続けることで答えは分かっていた。だからエイジは会話の必要がないことを、三度目の撮影でやっと悟った。

 北風が冷たくなりはじめたころから、徐々にイズミの服装も変化していった。秋の装いから、フィールドワークの格好へ。四度目の撮影日に髪をバッサリと切り、ハンチングを被ってきたのは驚いた。が、イズミなりの配慮というか、ドレスコードのつもりだろうと、指摘せず、そっとしておいた。

 五度目にはカメラを携えて来た。さすがに望遠レンズは用意できなかったようで、簡易的な、白いコンパクト一眼だった。撮り方を教えてやろうかとも思ったが、やはり自分もまだ日が浅い。止めておこうと思った。困った様子を見せたなら、その時は教えてやろうと思った。

 しかし六度目以降、イズミはカメラを設置しても、シャッターを押すどころか、ファインダーを覗く気配もなかった。そのくせこの場に慣れたのか、「今の撮れたの」だとか、「うまくいったの」だとか、時々エイジの撮影に口を挟むようになった。その度に、ああだとか、うんだとかの返事を、エイジの方も返すことができるようになった。それは彼にとって、ささやかな、喜ばしい会話だった。

「(イズミも)撮りなよ。」

そう、エイジの方から聞いたのも、このお互いの慣れのためで、そして、ああ、イズミは必ずしも撮るためにここにいるわけではないと、思い直せたのもそのためだった。

 撮らなくても、この場にいるだけでも、他人には意味があるのかもしれない。そう、思い直した。しかし同時に疑問が生まれる。

 ならばなぜここにいるのだろう。カメラまで持参して。それでも撮らず、この場にいる意味とは何だろう。しかし聞けば、近寄れば、警戒されて逃げられるかもしれない。それでもその疑問は今のエイジにとって、聞かないがために、より強くなっていった。やがて自分にとってそれは重要なもののように思われた。なぜ、この子はカメラを前にしても、撮らないということができるのだろうか。幼い子供だってカメラを与えられたら何も言わないうちに撮り始めるだろう。それほど、何かを創り手に入れるということは、エイジにとって人間の持ち得る欲求のようにも思えていたのだ。

「そう、(いえばさ)」

エイジはカメラの露光ツマミを触り、調整するふりをしながら、イズミに話しかけた。唇が、寒さで震える。イズミがこちらを見る、羽毛が詰まったナイロンの擦れる音が聞こえた。

「撮らないの。その、(カメラを持ってきているのに)」

「なんで?」

「……なんで? (なんでって、せっかくカメラを持って来ているんだから。撮らないと意味がないというか)」

「ふふ」

イズミの含み笑いが聞こえた。そして、

「撮るために持ってきてない」

と、続けた。が、よく分からなかった。しかし聞き返すのも無知なようで、ふうんと、分かったふりにとどめて会話を絶った。それでもイズミは、

「じゃあ、エイジはなんで写真を撮っているの。」

と、切り返して来る。

「……、僕は絵を(描いている。次に描くのは水鳥の絵にしようと思って)、その、資料のために」

「そうなんだ。でもあんまり撮らないね。ぱっぱと撮ってさ、ささっと描けばいいのに。」

その言いようがあまりに軽々しく、エイジは少し、寂しくなった。

「……目的の鳥(がいて。それをどうしても撮りたくて。ここに現れるの)を、待ってる」

「それ、どんな鳥? ぼくも探そうか」

撮りたいのは青く光る鳥。しかしそうは言えなかった。だから似た鳥でいい。だがそれがどのような鳥なのか。想像を言葉にして伝えるのは難しかった。

「……うん。」

「でもさ、見つかんなくたって、なんとなく、想像で描いちゃえばいいんじゃない?」

エイジは口噤む。そして会話が途切れた。聞く気がないなら、なおさら伝えようもない。それに、創作に理解のない者に協力など仰ぎたくない。エイジは沈黙のまま考えた。

「……。(想像は誰でもできる。なんなら、いつも、みんなやってる。じゃあ想像を形作ることが創作というものなら、僕は僕だけのものを表現しなくちゃいけない。みんなと同じようなものや、既存の創作物の転写だけじゃ、僕が作る意味はない。僕が生きている意味はない。僕は特別がいい。僕は芸術がいい。僕は僕だけの存在でいたい。特別な、重要な存在として世間に認知されたい。模倣や人の欲求に応えたところで、そこにいるのは自分なんかじゃない。僕は自分を、芸術を示したいんだ)」

「ふうん」

イズミが、唐突に頷いた。

「つまり、あなたは見るものがないと描けないってこと」

次いで出た言葉はどこか挑発的なように聞こえた。

「……。そんなこと(も分からないのか。子供の落書きじゃないんだ。創作もリアリティが必要なんだ。リアリティとイメージが交錯して作品が出来上がる。それが分からないなら、お前が口を出す資格なんて)、ないよ」

そんなことないよの、続きを待っているのか、イズミの返事はすぐになかった。が、ひゅうと湖風が吹いて、鳥は鳴かず、梢が揺れて、そのなかで、静かに口があいた。

「はたしてぼくらは、見られていないと存在しないの。」

その声が小さく通り、エイジはさっと隣を見た。イズミのハンチング帽にだけ、光の境目、その線が降りている。羽冠のように。

「えっ」

「あなたが見ていないものは、視線を外せば靄のように消えてなくなってしまうの。じゃああなたは、誰かに見られていないと消えてしまうの。」

何かの詩かとも思った。それほど流暢に聞こえた。エイジは陰るままのイズミの横顔を見つめ続け、少し、息を吸った。

「……。(僕らは誰かに見られていないと消えるわけではない。でも)僕が見たものは、(形に残さないとすぐに時間の流れに飲まれて消えてしまう。それは僕の想像も同じだ。想像も現実もすぐに消えてしまう。僕は常にその消えてしまう瞬間を)形にして残したい」

イズミはまっすぐ池を臨み、芝居のように声を張った。

「あなたが芸術だと切りとろうとする世界は、切りとられなかったってきれいだ」

そして立ち上がった。光の中に全身が入って、まるで舞台のようだった。池からの風が緩やかに吹き続ける。

 エイジはその冷気も忘れ、胸の高揚を感じていた。

「……でも、(ふたつとして同じ場所に同じ時間は訪れないから。切り取られなかったらそれはすぐ消滅してしまう。なかったものになる。見られなかったらものは消えて死んでしまう。僕はそれを永遠に残す存在になる。僕が見たものはつまり僕の目によるものだから、形に残したものが僕になる。僕は絵を描くことで僕の目を、自分自身を作りだしているんだ)だから、(僕らは永遠に生きるために、瞬間を永遠の形に)残すんだ。」

「それは、残念だけどあなたではないよ。」

イズミはぴしゃりと言いのけた。見上げた顔は、微笑みを持ってこちらに向けられていた。

「残るのは絵具やインク、もしくは発光の、それらのただの並びだけだ。」

「でも、(それでどう形作るかが芸術家の腕じゃないか)」

「それはあなたではない。それはただのあなたの周りだ」

「それだって、(ひとつの表現方法だ。浮彫、レリーフ……、どんな形であれ、なんと言われても、僕が永遠に残るならそれで)いい」

「あるのはレンズだけ、あなただけ。そして自然が、世界が美しいだけ。あなたは芸術なんかじゃない。鳥を撮ったって、鳥にはなれない」

「何も(しない奴に言われたくない。僕は鳥になりたいわけじゃない。撮りたいだけ、描きたいだけだ。芸術なんか)知らないくせに」

「知ってる。」

イズミはこともなげに言い捨てた。

「ぼくが芸術。ほら、分かるでしょ?」

 イズミは両手を広げ、体を開く形をとった。その胸に、いっぱいの光が集まって見えた。それがあまりに喜ばしく、またくだらなくなって、エイジは思わず笑ってしまった。イズミはエイジの破顔を受けると、また煽るようにして微笑んだ。そして置かれたままの三脚と、自身とを交互に示した。

「おかしくない? ここにいるのに。自己表現、だなんて。……自己アンチ。」

自己アンチという言葉の、意味がよく分からなかったが、ただそれは幼い揶揄のように聞こえた。意味などとうに失われてしまった、子供たちだけに交わされる忌み文句のような響きだった。幼くて馬鹿らしい。イズミははなから実のある議論などしていないのだ。そう分かると、もう何も、言い返す気になれない。が、イズミは続けた。

「ぼくならシンパシー。なぜならぼくが芸術だから」

シンパシー? 何が、何に。しかしそう笑い揺れるイズミの様子は、自然と同調し、楽々と生き舞うように映った。

「あんたが芸術? バカ言うな」

緩んだエイジの表情が、しかし芸術と聞いて微かにだけ精悍に締まった。

「ほんとだよ。撮らないし、描かないから、まだ、この中はきれいだよ」

イズミはそう言って、胸のあたりを手で押さえた。そして風に愉楽するように、天を仰いで首を伸ばした。その筋がいっそう光る。加えて「きれい」という言葉の響きがエイジの好奇心をがりと掴んだ。吸い付くように、その首筋から目が離せない。

「(……どうせ頭の悪い子供の遊びだ。からかおうと思うなよ。それなら)じゃあ、描かせてみろよ。」

エイジの上瞼の中が、ぐっと、暗く光った。

「描かないで。でも、見るだけなら。すみずみまで、」

と、イズミは陽向の中で嫣然と微笑んだ。

 

 さすがに外では脱げないとイズミは笑った。

 調べると、周囲のオフィス街は存外、個室を借りられるような施設や場所はなかった。カラオケやネットカフェのある繁華街は、もっと都市の中心部にあるのかもしれない。そのため少しそこから離れる必要があった。高速道路のインターチェンジ付近に、小さなホテル街がある。そこなら脱げるだろう。電車で数駅移動し、少し歩けば辿りつけそうだった。エイジのスマートフォンを持つ手が、震えながらそう決断した。

「本当に。本当なんだな」

エイジは二度三度イズミに確認した。何の確認か分からないが、確認の必要があるように思った。イズミはその度に、神妙に頷くだけだった。

 そうして二人は電車に乗った。幸い年末の休みの時期で、知り合いもいそうにない。悠々と座ることもできた。

 隣では早々に、イズミが眠り始めた。

 エイジも誘われるようにうとうととした。いつしか、切れ切れのまどろみに電車が鉄橋から滑り落ちる薄い夢を見た。はっと意識が戻る。

 あと一駅だった。それは眠気と、落ち着かない期待や興奮の混じる不快な瞬間だった。そして微かな期待があった。今見た夢で、電車が鉄橋から落ちる瞬間、イズミは鳥の姿となって、河川の彼方、落陽の方角へ輝きながら消えていったのだ。そうなのか。そうだったのか。……そうであってほしい。

 しかし隣には、未だにイズミが眠っていた。エイジは横目にイズミの首筋を盗み見た。そして間もなくそれが手に入る、その欲動が、恐れが、エイジの心を泥底のように絡め、沈めていた。

 報われないことの連続が生きるということなのかもしれない。

 エイジは冷静を求め、漫然とそんなことを考えた。

 僕らは基本的にうまくいかない。うまくいったとすれば、それはたまたまだ。

 芸術なんてのも、そのように思える。たまたま視界に鳥が下りてきて、たまたまそれを撮ることができる。そのためには、やはりカメラを構え続けなければいけない。そして運よく手に入れられた時、僕らは。

 カメラと思い、エイジはイズミの鞄を見下ろした。

 そういえばなぜ、こいつは撮らないのにカメラを持ってきているのだろうか。

ドレスコード?」

の、一部だろうか。首をひねると天井の中吊り広告に、ペンギンの写真が見えた。水族館の案内である。以前、テレビかネットのニュースで見たことがあった。水族館のペンギンの餌を狙って、水場に舞い降りる、彼らに紛れる水鳥。なんといったか。サギか。いや、確か、もう少し。

 そこへ、斜光がきらりと影を切って、エイジの目を差した。目がくらむ。ああ、暮れるのだ。

 じきに夜がくる。があ、と、隣でひとついびきが上がった。 (了)

 

閾(しきい)

 障子は青白い色をしていた。

 おそらく外の雲影は日を隠し、南向きの小さな庭へ冬の影を落としているのだろう。障子はただその陰りを透かし、過ぎた陰は中の座敷にまで及んでいた。それは畳に胡坐をかく杏平(きょうへい)や目の前の座布団、その上でうたた寝する赤子にまで手を伸ばしている。目を細めた赤子は赤くなく黄色だった。黄色は陰の青と混ざって緑に近く見えた。杏平はその緑色を黙って見下ろしていた。赤子も寝言一つ立てない。怒るときだけ叫び赤色になるのである。

——子育ては犬を飼うようにはいかない。

 そんな慎みに自ら気づきえたのは、杏平にとって満足なことであった。命は重たい。それが自分の子供であるなら尚更——。犬も猫も人も、全ての命は同等であるとは言ったものの、いざ目の前にすると、赤子というのは他に代えがたい人類の珠玉のようにも思える。果たしてそれを本当に自分が手に入れたのか、本当に自分のものなのだろうか、そんな実感を得るまでにはいまだ日も浅く至らないが、だからこそ先回りしそういった慎みを抱けたことに、杏平は誰へとなく優位を感じていた。宝を手に入れたということは、それを守る責任が伴うのである。それをこの段階で発見できる親は、それほどまでに誠実な親は、そうそういないように思えた。

 杏平は張り切っていた。宝を守るという責任の他に、自分がいっぱしの大人として、世間に倣うことができるという人生における充足の期待があった。さらに加えるならば「良夫賢父」とさえなりえる、これとない機会である。それは岐路と言っても差し支えない。もし踏み違えれば愚劣な旧世代の父親となり果て、もし正しく進めば常識の理想となる。それはあるいは学位や学歴のように引き返すことが容易にいかない。杏平はぜひその冠称を得たかった。だからともかくできるだけ赤子の世話を請け負い、妻にも世間にも認められるよう意気込んでいるのである。

 

 初子が生まれ二週間が経った。子は妻と共に出産から四日目には退院し、今杏平の目の前に静かに両手足を広げている。玄関すぐの座敷を、妻と子の部屋とした。家には室内飼いの犬がいる。そのため両者に気兼ねして母子の居場所はそことなった。しかし杏平だけは他人の寝息があると一睡もできないため、廊下を挟んだ向かいの別部屋へ寝床をとった。父の書斎にしていた小さな洋室である。父は杏平の結婚前に他界していた。そして杏平の母親はもともとの実家に祖母の介護のため移り住んでいた。

 この時も、産後の妻を休ませるため杏平は赤子の見張りを買って出ていた。赤子は乳を飲むと二、三時間は眠る。その間排泄すればおむつを変えてやるし、それに気が付かなくても赤子の方で怒って訴えてくる。あとは吐き戻しなどで喉が詰まらないよう監視する。それでも窒息などはそうそう起こりそうでもないから、杏平は暇に任せて欠伸をしたり、気まぐれに赤子の頬を突くなどしたりして遊んでいた。職場を思えばずいぶん簡単な仕事であった。育児休職を一か月ほど取っている。「藤井もようやく一人前の父親か。」そんな上司の揶揄いめいた激励がくすぐったかった。長い冬休みではない。あくまで育児のための休職。そんな戒めも単調な時間に薄れつつある。

 いつしか赤子と共に杏平もまどろみ、横になって目を閉じていた。すると襖の開く音がする。頭を起こせば、妻の瑞穂が眉を覗かせていた。

「……だいじょうぶ?」

杏平は横のまま、顎を首に埋めて微笑んだ。

「うん、問題ないよ。どう、ゆっくりできた?」

「ありがとう。おかげさまで」

「遊んでたの。チャムヘイと」

「ううん。お母さんと電話してた。でもそろそろお乳の時間なんじゃないって……」

「ああ、もう三時間?」

「まだ、一時間半。でも決まってるわけじゃないから。今はできるだけ飲ませることが大事だって」

「……そう」

里帰りも打診したものだが瑞穂の実家は遠方で、そのため瑞穂は何かと母親と電話連絡を使い育児を学んだ。母乳中心の育児方針は妻も義母も同じ意向だった。

 乳の時間は母子の時間であった。杏平は眉を開きながら赤子の後頭部に手を差し込んで持ち上げた。見た目より少し重たい。そして水袋のような柔らかさがある。どうかすれば緩んだ口から中身がこぼれ萎んでしまう様な頼りなさがある。杏平は赤子の中身が出ないようにしっかりと頭を支えた。赤子は布団から浮き上がると目を覚まし、ひとつ薄い眉を寄せたが泣きはしなかった。

 敷いたままの布団に瑞穂がぺたりと座った。そしてワンピースの胸元を大きく開け、下着をずらして自らの胸を揉み始めた。乳は産とともに肥大し、乳首は以前よりも腫れて黒ずんでいる。恩愛に満ちた妻の体の変化は、杏平に世間的な母親を思わせた。加えてそこに先行かれるような寂しさを含んだ。が、その光景が慎ましい家庭の一幕であるなどと諦観に努めてしまうと、寂しさもすぐ分からなくなった。さっと、妻の胸から目を逸らした。

 赤子は母の腕に抱かれると、乳の匂いを嗅ぎつけたのか目を見開き、ひな鳥のように一心に口を尖らせ乳首を探した。

「痛たた」

かぶりつく力が強いのだろう、瑞穂は赤子に乳首を含ませると、またすぐ引き離した。乳首が平たく変形している。しかし彼女は微笑むと眉間に痛みを隠しつつ、再び赤子の口へ胸を寄せ、そしてじっと目を瞑った。

 そこへ、外の雲が途切れたのか、ぱっと障子が黄色く光った。杏平は目を細めた。赤子も、妻も同じような表情をしていた。日が、座敷全体を包んでいた。

 

 その晩、赤子は泣き続け、夜半近くなっても眠らなかった。おむつを替えても機嫌は直らず、乳を差し出しても顔を背ける。服を捲くってみると腹が蛇腹提灯のように膨らんでいた。そこで綿棒を肛門に差し込み排便を促した。しかし屁や微かな便が出るだけで、赤子は尚も苦痛を訴えるように顔を歪め、目ぼしい効果は表れず安らがない。夫婦は座敷で眉をひそめ合った。

「浣腸、買っておけばよかったかな」

「でも浣腸は一日便がなかったらって、助産師さんが」

「でも泣き止まない。苦しそうだよ。なんとかできないかな」

「おっぱいを飲んだら普通はお腹も膨れるみたいだけれど」

「それは飲んですぐでしょ? もう一時間はぐずりっぱなしだよ」

「痛いのかな」

「苦しいのかも」

夜な夜な山羊の声で遠吠えを繰り返す狂った犬がいるなら、まさしく赤子はその様だった。家の壁や時間など気にせず、泣くと言うよりもむしろ鳴っていた。その丸い体そのものが大きな防犯サイレンであるかのように、音は耳を覆うように絶えず響き続ける。それも、五分十分なら笑って過ごせるものだが、原因も止め方も分からず続けばどうしようにも焦燥や苛立ちが先立ってしまう。何より赤子の体内で何か問題が起こっているのなら、いち早くそれを解決しなければならない。妻の額には暗色が滲んでいた。目の下は不眠も出ている。お互い知識も経験もないから、赤子に何が起こっているのか分からなかった。

「お母さんに聞いてみようか」

「いや、もう遅いよ。寝てると思う」

「でも泣き止まないんだから。何か病気かも……」

「いや、電話じゃどうせ伝わらないよ。僕が見ておくから、瑞穂は今のうちに少し寝な」

杏平は赤子を抱き上げると、座敷の中を歩き始めた。赤子に揺さぶりは禁物だが、ゆりかごのような微かな振動は心地よいらしい。そうやって抱えて歩けば眠ることもあった。

 妻は眉を寄せながら、そう……、と横になったものの、掛け布団から鼻を出し、座敷をぐるぐると歩き回るふたりを静かに見上げていた。赤子はしかしその間も落ち着く様子はなく、力一杯に丸まって声を絞ったり、かと思えば山羊の声を上げたりを繰り返していた。顔はいつまでも怒りで赤くなっている。

「場所が悪いのかもしれない。他の部屋を回ってみるよ」

そう、杏平は快活に微笑んで見せ、赤子を腕の上に乗せたまま座敷を出ようとした。が、「まって」と、妻の声が襟をつかんだ。

「ねえ、おむつが湿ってる」

言われて股を覗けば、確かにおむつの色が青く変色していた。

「本当だ。さっき変えたばかりなのに。だから怒っていたのかな」

杏平は赤子を布団へと置き支度を始めると、妻も起き上がり、杏平の手元をじっと眺め始めた。

 服の紐を外して、ボタンをひとつふたつ外して、あれ、ここははずしてよかったっけ。ああ、全部抜けた。はやく、まずは紐を閉めなおして、あれ、こっちは外側の紐か。まて、まず裾がずり上げって背中に埋もれて。尻へ手を突っ込んで、ああ、ごめん、爪が当たった。でも裾が戻らないと、先に、……。まごつく杏平に対し、赤子は顔を赤く潰して一層強く泣き上げた。

「ちがう、そっちじゃないよ」

そう、妻が口を挟む。

「そっち? そっちじゃ分からない」

「もっと優しくして。頭から下ろすんじゃなくて」

「でもこの体勢だと頭から下ろすしかないよ」

「腕はひっぱっちゃだめ。服の方を伸ばして」

「伸ばしてるよ。ほら、見て。」

「脱臼しちゃうよ。足を持つのはダメって助産師さんが」

「ちょっと持ち上げるぐらい大丈夫だよ。人間の骨格上、この方向なら」

「だめ。赤ちゃんは違うの。あ、ほら、おむつずれてるよ。しっかりつけないとまた隙間から漏れちゃう」

「これ以上締めると苦しいよ。ほら、指が入るぐらいには開けるんでしょ」

「それだと緩すぎるよ。」

「でも僕の指ではこれぐらいだって」

「男の人の指ってどこかに書いてあったの?」

「知らないよ。そんなことどうでも、」

「どうでもよくないよ。ちゃんと締めないと赤ちゃんだって」

「平気だよ。こんなの、漏れたらまた拭けばいいだけだって」

「……うん、わかった。杏くん、替わるよ。」

「え? なんで?」

「うん、もう、遅いから、寝て」

妻の言葉はぴしゃりと走り、杏平の手元を打った。

「……」

杏平は手を止め、衝動的に妻を睨んだ。が、妻の目は杏平と触れず、赤子にばかり注がれている。

「……うん。じゃあ頼むよ」

杏平は出た言葉の冷たさに瞬間焦ったものの、咄嗟に伺った妻の顔は、聞こえているのかどうか、黙々と赤子の股に注がれていた。杏平はそれを横目に座敷を出た。その際、何か妻からの言葉を期待したが、

「辛いね、うん、今替えてあげるからね。ほら、大丈夫だから……」

と、ただひたすらに甘い声が、サイレンの鳴りやまない座敷へ暖かく残るだけであった。

 

 翌朝、起き抜けに杏平が自室から廊下に出ると、微かに開けられている襖に目が留まった。隙間からはぐずぐずとした赤子の不機嫌な声と、あの妻の甘い声が抜けてくる。杏平はそっと中を覗き込んだ。そこには敷布団の上にぺたりと座り、乳を与えているであろう妻の背だけが見えた。冬晴れだろうか、庭の障子を透かす光はまっすぐに座敷に届き、部屋の中は暖かく蒸され乳の甘い香りで満たされていた。まさか一睡もせず世話をしたわけじゃあるまい。杏平はそう案じたが、どうにもその背に「おはよう」と掛けることもできず、音の出ないよう慎重に襖を閉めた。

 リビングへ顔を出すと薄暗く、老犬のチャムヘイが寝床に顔を上げているのが見えた。おそらく朝飯を期待している。杏平はまずキッチンに向かいコーヒーを淹れた。朝飯の支度をしようかと思うところへ、またあの山羊のような泣き声が、リビングにまで届いて響き始めた。杏平はひとつ眉をひそめながらキッチンを出て、空になった餌皿へ、ドッグフードを流し入れた。チャムヘイはその時にはすでに寝床から這い出て、皿の前に尻をつけて杏平の顔を見上げている。赤子が鳴く声も、犬にとって食事の前にはさほど気にならないようだった。

「オスワリ。マテ。」

と言ったものの、既にチャムヘイは座り待っている。しかし杏平は命令をあえて下した。

 いつもなら、この後すぐに「ヨシ」といって食事の号令をかける。しかし杏平は犬を前にして黙って見下ろしたままにした。犬は困ったように飼い主を見上げる。杏平は色の無い顔でそれを見下ろした。赤子の鳴き声は止まない。犬は皿と飼い主とを交互に見比べ、少し後ずさりをした。杏平もそれを見て少し後ずさりをする。そして犬が待ち続けると分かると、その場を離れ、キッチンへと戻った。そしてマグカップへコーヒーを注ぎ、老犬のお預けされる姿を眺めながら悠々とコーヒーに口をつける。犬は今までに無かった状況に戸惑いながら、それでも健気に首を伸ばして、飼い主の号令を待った。ふたりの間には絶えず泣き声が通っていた。

「……ヨシ」

号令が聞こえ犬は硬直を解いた。が、それでもまだ懸念があるのか、もしくは聞き違いだと思ったのだろう、皿に首を伸ばしかけて止め、上目使いに杏平を伺った。

「……ヨシだってば。いいよ、ほら、ヨシ」

尻を打つように促され、老犬はやっと朝食を始めた。赤子は泣き続けている。杏平は皿の鳴る音に耳を傾けながら、コーヒーの湯気を嗅ぎ静かに微笑むのだった。

 

 朝刊の見出しは容易に頭に入らなかった。赤子の鳴き声は止まず続き、それを瑞穂任せにしている状況も、時計を見れば五分と経っていないことに気が付く。妻の疲れた顔を思い浮かべると気分は安らぎ、幾らか勇気も湧いた。その勢いのままリビングから出て、襖を開け座敷へ踏み込んだ。

「あ、おはよう」

出会い頭に妻のか細い声を受けた。しかし背や顔は障子の方に向けられたまま、だからそれへ返事をする気にはなれない。杏平はふたりの前に回り込んで、泣く赤子の頭を拭うように撫でた。赤子は妻のあらわになった胸の前で嫌そうに頭を振ったが、そのしかめっ面が人間らしく見えつい微笑んだ。緩んだ杏平は、そこでやっと妻の顔を見ることができた。彼女の目はほとんど開かず、唇が乾燥し表面がささくれ立っている。疲れてはいるが、しかし想像よりも血の通った滑らかな顔をしていた。それは赤子と同じような顔だった。

「もういいの?」

次の妻の声は、赤子に向けられたものだった。どうやら朝の乳をあまり飲まなかったらしい。赤子は不器用な手を宙に動かし、乳を拒むような様子を見せた。妻は赤子を布団の上へ下ろした。すると赤子はすぐに口をとがらせ乳首を探し、再び顔を潰して泣き始めようとする。「……やっぱりいるの。」と、彼女は声を絞る。いる? いらない? きっとこんなやりとりが長く続いているのだろう。

「よし、お父さんに任せて」

杏平は寝巻の袖を捲くり、妻の胸の間に手を差し込んで赤子を持ち上げた。続いて昨晩のように座敷の中をのしのし歩いて回り始めた。しかしそれが乱暴だったのか、やはり赤子は気に食わないように、増して嫌がる声を強めた。杏平は焦れ、障子を開いて朝の庭を座敷へ広げた。小さな庭は万両の紅い実や柊の白い花、山茶花の蕾などが朝の日に映って暖かく彩っていた。朝日が鋭く縁側に立つ。赤子は辛そうに目を細めると、顔を赤くし、手足を伸ばして仰け反った。

「大丈夫?」

「平気だよ。瑞穂は休んで。僕がどうにかしてみせるよ」

そう言い杏平は逃げるように座敷を出た。当然、赤子の唸り声は腕の中へ着いてくる。廊下、リビング、キッチン、風呂場、母親の奥の間と、家中を歩き回ったが、赤子の抵抗は止まなかった。どころか、細かい切れ切れな単発の叫びを上げ機嫌は悪化するようだった。老犬も耳を塞ぐように丸くなって顔も上げない。杏平は家の中を一周回ってみて、結局戻ってくるしかやりようがなかった。しかし廊下に立つが座敷には入れず、そこで向かいの自室へと逃げ込んだ。

 そこは、寝起きからカーテンもまだ開けていない暗がりのままだった。

 杏平は部屋に赤子を連れ込むなりその場で静かに揺らし始めた。あるいは暗い場所なら、子宮を思い出して静かになるのではと図った。が、赤子はむしろ足を前後に動かしてそれを嫌がった。抱えている杏平の腕を蹴り上げ頭の方から逃れようとする。腕から抜ければもちろん床へ落下するしかない。杏平は腕の力を込めて静止させようとした。赤子の足を、ぐっと抑える。すると唸り声はぎいぎいと高まり、これから激発するであろう予兆を見せた。杏平は部屋の陰で黒色になった暴れる赤子を見下ろしながら、しかし意識を部屋の外へ向けていた。向かいの座敷にはすぐ先に妻がいる。叫び声なら容易に届く。すれば彼女は顔色を変えて駆けつける。それがひどく都合悪く思えた。その前にどうにか鎮めよう。杏平はその場で独楽のように回転したり、振り子のように赤子を強く揺さぶったりした。するとぎいぎいという声はやがて、はっはっはと過呼吸のように弾みだした。杏平はそれでも強く揺らし続けた。見下ろす暗闇の腕の中、赤子の大きな瞳が、穴のように漆黒となって杏平の目に映った。そしてすぐ、その底の闇から、サイレンの音が溢れるように高鳴った。

 杏平は瞬間、何もかも忘れ、反射的に胸で赤子の口を塞ぐと、その小さな水袋を力任せにぎゅっと締め上げた。

「黙る? 黙るか?」

赤子の声は止まった。するとその刹那に、算段も焦りも失われた。ただ裏返して現れるカードの絵柄のように、造作なく捲られたのは野生じみた反射反応だけであった。杏平はなおも淡々と赤子の体を締め続けた。こうすれば黙るという理屈すら無く、本能はただ腕の力に任すだけであった。そして、

「ぎい」

と、強い唸り声の後、赤子のほうも自身の本能に頬を打たれたように、今までにない強い叫びを上げた。

「あああ」

杏平はその声量にすぐさまたじろぎ、突発的に力を緩めた。赤子は期を逃さず、緩まった腕の隙間から空気を十分に小さな胸へ吸い上げて膨らみ、続けざまに泣き上げた。サイレンが鳴る。杏平はたまらず、赤子を抱えて部屋を出た。廊下には妻が、切迫した様子でこちらを伺う。

「……だめだ」

杏平は力なく笑ってみせた。

「……わたし、もらうよ」

妻の血色は流れるように落ち、青白くなった顔で言った。杏平は静かに頷くと、力なく赤子を妻へ引き渡した。母子は座敷へと帰っていく。泣き声は去る緊急車両のように、止まずに徐々に遠くなっていった。

 杏平はすぐに反転すると自室に入り、未だ止まぬ動揺に部屋の中へ立ちすくんだ。

 ふとその暗室に、何者か、自分の他に別の気配を感じた。杏平は急いでカーテンを開き、日光の元その姿を暴こうとした。

 しかし明るみに現れたのは変わらぬ自分の部屋であった。力なくベッドに座り、あらわになった部屋を改めて見渡す。本棚があり、机があり、その上にパソコンが置いてある。机の脚には出勤で使っていた鞄が立てかけられている。他にあるのは自分だけだった。

 すると杏平は自然に動揺も消え去ったように感じ、ただ部屋の隅を見つめていた。

 先ほど、自分は何をしようとしたのか。力任せに赤子を絞めれば起こること、それを茫然と考えた。同時にひとつの疑問が浮かぶ。

「赤子が叫ばなければどこまで行っていただろう」

その答えは分からなかった。すぐやめたかもしれない。赤子も泣かないわけがないだろう。しかし家に、自分の他に誰も居なければどうなったのか。例えば妻が用事なりで出かけていたなら。自分と赤子の二人きりだったならば? ……しかし杏平の顔は青くはならなかった。彼は漫然と窓に近付くと、静かにカーテンを閉め、再び暗室を作った。そして布団の中に潜り込むと、体を丸めて目を瞑った。

「自分には愛情というものがないのかもしれない」

杏平はふとそんなことを思った。それは赤子を苦しめたためだけではない。それは、いまだにひとつも罪悪を感じていない自分を見出したためであった。

 杏平は布団の中が徐々に温かさを取り戻していくのを感じた。ひとりでも温まることができる。その事実が寒々しかった。次第に息苦しさが起こった。

 杏平は息継ぎのように布団を素早く持ち上げると、臥したまま、開けられた部屋の扉を眺めた。そこには誰もいない陰った廊下が見える。廊下を挟んだ向かいの襖は、今度こそはぴたりと閉められていた。その先に、日光により黄色く輝く暖かい座敷を思い描いた。そこに仕切られたのは、日向に彩られた妻の後ろ姿と目を細める赤子のふたりだけ。

 座敷からは赤子の鳴き声はもう聞こえない。そこで何がなされているのか。それは耳を澄ませても分からなかった。

「……もしかすると妻だって、ひとりの部屋では愛情も裏目に返って、」

杏平のそんな着想は、しかしもう一度あの閾を跨げさせる勇気など与えてはくれなかった。ただここにあるのは自分の非道。そしてそれが逃れられない自分であるという事実だった。が、やはり杏平は顔色を変えなかった。裏目裏目、それを捲って世間に晒すことは容易ではない。たとえ幾百の親が赤子に非道を行っていても、それが子の一生涯に関わる影響を与えていたとしても、むしろそれが生命に関わる悪事だとしても、それは親本人と認知も定かでない赤子しか知らない。まさしく自分がそうであった。生命の閾。その色を知って尚も敷く紙一枚の向こうがわ。

 杏平は布団で口を隠し、茫然と廊下を眺め続けた。そこにはこれまでの生涯に出会った顔々が、陰って青く映るのだった。

「命の重さを、貴さを、誰が本当に知っていた? ……外に出れば俺だって、普通の顔で、」

業務鞄がぱたりと倒れた。彼がその鞄を携え玄関を出るその日まで、まだ二週間ほど猶予がある。それまでに父親らしい顔になれるか。それは容易に思えた。暴かなければ暴かれないのだ。(了)