抽斗の釘

小説、散文、文章、短編

僕らの内臓

 アラカシさんがしゃっくりをしたんです。かわいかった。

 それは彼女が書類を持って来てくれた時でした。書類を僕に渡して、それで

「ひっく」

 としゃっくりをしたんです。

 意外だったのは彼女が少しも恥ずかしそうにしなかったことです。それどころか彼女は僕の横に立ったまま、しゃっくりをして、そしてにやりと笑ってみせました。

 彼女は普段クールというわけでもないし、愛想も悪いわけじゃない。でもなかなか腹を見せないところがありました。職場では常に体のいい他人行儀というか、人間臭いところを見せないんです。表情もあまり変わらないし、大口を開けて笑ったり大声を出したりするところも見たことがない。だからしゃっくりは、そんな彼女の珍しくも人間臭い一面でした。僕は嬉しかった。彼女の素の部分が垣間見えたようで。

 僕はアラカシさんにしゃっくりの治め方を教えました。

 彼女は僕の言う通りに息を止めました。いや、息を止めるというか、内臓を抑える感じです。みぞおちに手をあてて、内臓をぐっと縮こめるイメージをするんです。そうするとしゃっくりが治まる。

 彼女は僕のデスクの横に立ったまま、僕の言う通りにみぞおちのところに手をあてて、目をうっすらと閉じました。腹に意識を向けるためか、呼吸の動きだけがあります。それが祈りの姿のようで、祈りもまた彼女の素の部分のようで貴重な光景に感じました。

 彼女はひどく無防備な状態でした。彼女の意識はきっと、内臓のイメージの中にあったはずです。僕はそれを眺め、彼女の内臓が透けて見えてくるような気がしました。華奢で、小さな、内臓です。

 彼女の呼吸は次第に伸び、そしてしゃっくりは目に見えて頻度を落としました。音も、小さくなっていく。

 ともすると、それは僕の仕業でしょう。跳躍すると、僕の両手で彼女の内臓を優しく抑えていたような感じです。

 僕はその時はっきりと分かりました。彼女のことが愛おしい。

 しかし彼女は既婚者で、しかも僕は、彼女が毎日夫の送迎で通勤していることを知っています。通勤補助で定期代を貰っているはずだから、こっそりです。

 何度かその場を見たことがあります。職場の建物の裏手側、朝のひと気がない細い道、黒い車が停まり、助手席から彼女が降りる。まず見えるのは黒い厚手のタイツに白いスニーカー。職場では制服に着替えるから、その恰好が一番通勤に適しているんでしょう。それも僕は愛おしく思います。黒の防寒生地に白のスニーカー。スニーカーの内側の柔らかい布地が、彼女の足を包みます。まるで僕が両手で覆うように、足の感覚も靴の方の感覚もありありと僕には想像できる。その柔らかい感触が彼女の生活を包み込んでいるようで、また自分を大事にできるという彼女の人柄が垣間見えるようで。彼女は取り繕った職場の裏側で、彼女自身とその生活を優しく過ごしている。僕はそれも愛おしいんです。

 それで、愛おしいという気持ちを、どうにか消化しなければなりません。

 なぜなら彼女は既婚者で、そのため、僕は彼女にこの愛情を向けることができない。持て余してしまうんです。

 行方の無い愛情はひどく窮屈で、息苦しい。今のところ僕はしゃっくりの止め方を教えることぐらいしかできない。書類を回し合って不備が無いか確かめることしかできない。僕は彼女の足を包むこともできないし、彼女のために荷物を持ったり、健康的な食事を作ったりすることも許されない。もっと、僕は彼女の生活の音を確かめていたい。眺めていたい。

 そんな叶わない期待と希望が、僕を急かすのです。しかしいくら急いたところで、できることも行ける場所もありません。ケージに入れられたネズミのように、僕の心は狭いところで動き回り、ぴったりと落ち着く場所を求めてそこらじゅうを引っ掻きまわします。

 ……神様は、ただ諦めろとおっしゃるでしょう。そして別の相手を探せとおっしゃるでしょう。しかし僕は、彼女の内臓を抑える感触、その喜びを知ってしまった。

 僕はもっと、彼女の人生に影響したい。

 なんなら彼女の内臓として機能し、働き、一生をかけて彼女と彼女の人生に添い遂げたい。それが叶えば、どれだけ楽に息ができることでしょう。

 でもどうか、方法を間違えるとアラカシさんを傷つけてしまいそうで、僕はどうしたらいいか分かりません。素直に自分の欲求を言ってしまうと、僕はこの愛おしい苦しみの出口として、死にたいと思うのです。死ぬしかないんです。死んで、彼女の内臓に生まれ変わりたい。

 神様、どうかお願いです。

 

 

 夕作という名の男は、ざっとそのような願い事をした。

 しかし我々は願いを叶えることなどできないし、生き死にや、まして生まれ変わりの力もない。我々ができることは、ごくごく限られている。

 我々は、溢れかえるほど多くの生き物の目と耳を借り、彼らの生活を視聴している。

 人間をはじめとする動物や植物、そして微生物や黴、ウイルス、細菌に至るまで、我々の目が届かないところはほとんどない。我々は見たいと望めば、どこへでも侵入する。彼らの感覚器官を借り、どこまでも追跡することができる。それゆえの神々である。

 我々はただ、生き物たちが感覚と知覚を駆使して捉える「人生の放送」を視聴し、そして勝手にささやき、神々同士の意見応酬に興じるのみだ。

 そして我々の好き勝手なささやきは、聞く聞かないにかかわらずときに人にも届く。

 さて、初めて来た、新しい神たちにも分かるように、さらに説明を加える。

 この夕作という男は機械である。

 人工の皮膚、人工の肉、人工の骨。その造りは精巧で、構造も機能も生身の人間とそん色ない。彼はいつからか人間社会に生み落とされ、そしてうまく溶け込み生活している。

 ちなみに、人型の機械ならアンドロイドやサイボーグ、ヒューマノイドや人造人間など呼び方は種々ある。しかし夕作は自分を機械と呼んでいた。家電のようで気安く、しっくりくるからだそうだ。

 通常なら機械の生放送などに人気はない。が、この夕作という機械は別だった。それは彼が人間じみているからだ。

 もともと人間の放送は他の生き物より人気が高い。

 それは彼らが知性を持ちながらも実に愚かで、それが滑稽だからだ。

 弱肉強食の結末はお決まりなのだが、そのプロセスが複雑で飽きさせない。彼らは欲のために動く。その動きは単調ではない。頭脳を駆使する。しかし欲が邪魔をする。賢明にはなりきれない。結果、多くの人間が愚かな石につまずき、転落の道をたどる。その様は期待通り我々の笑いを誘う。苦しみ、もがき、嘆く彼らの姿は、いつ、だれを見てもたいては面白い。

 特筆すべきは、欲深い善人に限ってよく葛藤し、そしてよく神に祈るということだ。

 葛藤とは説明だ。葛藤すればするほど我々は理解する。

 祈りとは対話だ。我々は、彼らに話しかけられるのが面白い。

 葛藤と祈りによって我々の目は引かれる。ささやきも増える。議論もはかどる。つまり盛り上がるのだ。

 さて、夕作に話を戻すと、彼には人工の脳も与えられている。つまり彼は自分で考え勝手に動く機械だ。しかし彼の放送がいつ、どこで始まったのか。それを知る神は少ない。溢れかえる情報の海にその起源は呑まれてしまっている。

 それでも放送当初は低迷していた。決まった時間に起き、決まった職場にでかけ、きまった時刻に帰ってきて眠りに就く。休みの日には家事をかたづけ、暇になるとたいてい庭を眺めて過ごした。そんな放送のどこが面白い? 決まった動きを眺めるだけなら、冷蔵庫や洗濯機と変わりはない。

 視聴が増え始めたのは、彼が恋し、祈り、我々のささやきに耳を傾け始めてからだった。つまり、我々神々を意識してからだ。我々を意識するのは、善と悪、罪と徳の葛藤が彼に生まれてこそなのだろう。

 しかし我々のささやきには正しさも間違いもない。先に述べたように身勝手なヤジに過ぎない。導こうとする神もいれば、陥れようとする神もいる。その導きが結果的に不幸を呼ぶこともあれば、転落への手引きがかえって好転に向かうこともある。

 我々神々はただ面白がってささやく。生まれ変わりなどないのに、死んで生まれ変わればいいとささやく。夕作は、そんな無責任な神のささやきを閃きにとらえて信じ、そして願った。思い通りに夕作が動き、一部の神々は意地悪く笑った。

生物はしばしば神々に笑われるために存在するのだろう。そして同時に、彼らの人生は終わりがあることが約束されている。その約束があるからこそ我々も安心して観ることができる。

 では、夕作の放送に終わりはあるのだろうか。

 果たして機械を結末に向かわせることができるのだろうか。

 我々の興味はその部分にも向けられていた。くわえて、いっそ転落させて終わらせたいという心づもりもある。ささやきは常に残酷な方向へ誘う。我々は、ただ彼が葛藤の後に死ぬことだけをいつも望んでいる。

 

 

 週末に風邪を引いた。重たい風邪だった。医者に掛かるとろくすっぽ調べずに季節の風邪だと言われた。寝て治せばいいと言われた。

 一日寝たきりで、翌日の夕方に起き上がれるようになった。これで土日が丸々潰れた。

 起き上がると庭を眺めた。それだけがやっとできることだった。

 高熱を通り抜けるとなんだか別人になったようだった。目が新鮮な感じがする。そのためか庭は思っていたよりも小さく見えた。庭の両隣との境界はアルミ製のセパレートで区切られ、正面はアパートの敷地のブロック塀で塞がれている。狭い袋小路。息が詰まりそうだった。

 夕暮れだった。四角い庭は、赤く染まった雑草で覆われていた。

 実はちょっと、死ねるかもと思っていた。でも風邪はただの風邪だった。神様への願いは都合よくいかない。自分で踏み出さなければ、やはり死ぬことなどできない。

 方法は知っている。

 不要になった家電の回収トラックが、この町にも回る。それに乗せてもらう。電話一本で引き取りに来てくれる。

 一度、トラックの荷台に運ばれる男を見たことがある。男は一点を見据え、三角座りのまま町角に消えていった。自分もそのようになる。あれは同胞だったんだろう。

 庭の雑草は、脛ほどの高さに茂っていた。早く抜かなければならない。

 隣人は、庭に段ボールを遺棄していたため退去を迫られたらしい。虫の住処となったんだろう。そんな通知を受けるとやはり雑草は抜かなければいけない。草むらも虫の住処となりうる。

 立っているのが億劫で、床に尻を付ける。庭の草むらがまた背を伸ばしたように見えた。植物は刻々と、注いだビールの泡のように膨らんでいく。抜いたって際限がない。だから、生物は鬱陶しい。こちらにはその気がないのに、いつだって侵略を仕掛けてくる。いつだって命がけで迫ってくる。こちらの場所も限りがある。正常な生活が脅かされるなら、排除しなければならない。雑草は抜かなければならない。

 壁時計を見た。じきに夜が来る。すると、じきに朝になる。明日になる。

 雑草だけではない。支払い、復旧、返却、修理。生活している限り、生活の雑草は付いて回る。迫ってくる。まるで生活そのものが生き物のように。

 そしてそれらは何度でもやってくる。風邪もそうだ。治してもまたすぐに風邪をひく。同じウイルスか別のウイルスかも分からない。免疫などあてにならない。歳を食えば食うほど重くなる。時間が経つほど風邪に負かされる。迫られて侵されていく。逃げ道もなく、ただ呑まれていく。体は風邪の住処となる。

 夕日が傾き、庭の草むらがその光を吸い、黄金に輝いていた。それは、赤みを帯びた人体の色をしている。

「手のひらを太陽に」という童謡を連想した。歌詞の「血潮」という部分だけが妙に浮いていた。花畑に死体が転がり、そこに生まれた窪みのような歌に感じた。その死体にも夕日が差している。やがて朝が来る。しかしまた、その一つ多く夕暮れが来る。

 人工の皮膚、人工の肉、人工の骨。いくら時間をかけても、自分の体が土に還ることはない。劣化はするが、分解はされない。花を倒し、花畑に窪みを作ったまま、栄養にもならずただ虫の住処となる。

 機械には適切な廃棄処分が必要で、そのためには人の手を借りなければならない。人の都合で世に生み落とされたまま、消滅までも人の手に依らなければならない。自分一人では、野で自然に消滅することすらできない。

 そんなことを巡らしていると、脳が熱を帯びる。問題と解決の存在しない思考方法は自分には適していない。入口があって出口がある考え方のほうが得意だ。ただそこに、あるゆえにある、という起因無き考え方は、自分には難しい。

 しかし、ただ堂々巡りする想像の中に、アラカシさんが思い浮かんだ。

 行き止まりの庭で、ぐるぐると太陽が回る下で、雑草の中に、そこに芽吹く花畑の中に、アラカシさんが立っている。そんな思い付きが、起因無くある。

 死にたいのが先なのか、彼女への思いが先なのか。起因が無いなら、思い付きというのは神様からのヒントだろう。

 神様に祈った。

 僕は分かっています。僕はただ死んでも、再利用されてまた機械に戻る。彼女には繋がれない。神様。

 

 我々神々は口々に、できうる残酷なささやきを彼へ投げかけた。

 夕作が叶わぬ願いに自失し、乱心して暴走するように。

 アラカシを傷つけ、アラカシの周囲も傷つけ、手あたり次第を巻き込み、引きずり、絡まりながら、ゴミ屑のように地獄の縁へ転がっていくように。

 我々はそのような結末を期待している。

 しかし我々の思惑は外れた。夕作は床の上で目を瞑り、静かに我々のささやきへ耳を傾けていた。しかし暗がりの中で突如目を開けると、おびえたように回収業者へと連絡を入れた。我々の残酷なささやきを、自らが起こしうる悪行として覚え、恐怖し、対策をとったのだろう。

 どうやら次の木曜日の朝に業者が来るらしい。目処が立つと、夕作は安心したように眠りに就いた。

 神々は荒れた。愚図、ポンコツ、不良品、スクラップに成っちまえなどの暴言が飛び交った。同時に興ざめもする。夕作は転落しない。ただ四日後、静かにトラックの荷台に乗って運ばれていく。この放送は盛り上がりを見せずただ結末に向かう。視聴数は目に見えて下がった。

 しかしその一方で、我々のようなもの好きな神々は残った。結末はおおかた知れてしまったが、それでも夕作を見届けてやろうという執着がある。地獄のような結末は迎えられないが、終わりが近いことは大きかった。期待値が低い分、気楽でもある。

 我々の目的は、おおむね夕作とアラカシを不倫させる方向で整っていた。もちろんそれは不幸な結末に違いない。が、それは限られた時間で満足を得る有効な道筋だった。愛情に苦しむ夕作においてもその方向なら動かしやすい。不倫とは、外野にとってはごく手軽な娯楽なのだ。

 つまり我々の働きは、夕作のためにと言いながら、その実我々のためにあった。夕作の目と体を借りて、我々の渇きを満たしたいだけだった。

 我々は、眠る夕作へ執拗にささやいた。アラカシの体、アラカシの心、そのすべてを追い求めるような、甘いささやきに力を尽くした。

 

 夢にアラカシさんが何度も出て来た。宮殿を彷徨う夢で、彼女は服を着ていない。裸だ。けれど本物を見たことはない。だから裸はマネキンのように何もなかった。彼女の前から何度立ち去っても、宮殿の行くところ行くところでアラカシさんの裸は現れた。エントランス、食堂、遊戯室、内庭の花園。

 目が覚めると、妙な高揚が体中に残った。熱せられて冷めないままのオイルが、常に体を巡り続けるようだった。

「本当はどうなっているのだろう」

 アラカシさんの裸を見たいと思った。

 隠れている部分の色、形、大きさ。それらを知りたい。

「なぜ?」

 なぜだろう。知ったとて愛情を注げられるわけじゃない。わけじゃないが、アラカシさんの見たこともない笑顔や、嬉しそうにはしゃぐ姿、一喜一憂する様々な夢の場面が思い浮かんだ。それらに常に寄り添うのは、やはり彼女の内臓だけである。内臓は血色良く、快活に彼女の生活を支える。粘液がきらきらときらめいて、彼女と同時に微笑みながら働き続ける。

 それらをただ知りたい。その場に居合わせたい。

 彼女の裸を見るということは、少なからずその宮殿に近付くための必要条件のように思われた。

 壁時計を見上げた。いつも通りの起床時間だった。いつも通り出社することにした。

 現実の彼女に会うのは心苦しい気がした。昨晩のように非道な想像が起きそうだから、できれば会うべきではないのだろう。けれど会わなければ会わないで、胸の中でネズミがそこらじゅうを引っ掻き回す。入口があり出口が必要なら、アラカシさんに正直に思いを話し、きっぱりと拒絶される方がいいと思った。それができれば、いくらかすっきりと終われそうだった。自分の思いを伝え、はっきりと断られる。それで出口にたどり着く。

「あなたの裸が見たいです。少しでも多く、あなたの事実を知っておきたい」

 気持ちを言葉で伝えればこうでしょうか。そう考えながら、いつも通りに業務に取り掛かった。

 書類を処理し、アラカシさんに回す。アラカシさんから回ってきた書類を確認し、上司に送信する。上司からまた次の書類が降りてくる。作業し、それをアラカシさんに回す。

 業務のほとんどは、名簿に載る顧客データの抹消だった。電子商取引会社の子会社に属する、電子ポイントを管理する部署では、顧客の名簿も管理している。ポイントは買い物をしなくても、会員登録していれば還元として毎年少しだけ発生する。放置していればポイントだけが無限に膨れていくのだ。

 そのため、取引の見込みが無くなった顧客を精査して消去しなければならない。顧客の方から消してくれと進言されることは少ないから、放置していたら名簿もポイントも増えていく一方になる。二重登録だって散見される。誰かが消さなければならない。それが、この会社でアラカシさんと二人きりで行う作業だった。簡単な作業だ。誰でもできる。自分が消えても、かわりはすぐに見つかる。

死に神みたいだ」

 温度の無い顔で書類を回す姿や、姿勢よく淡々と作業する彼女の姿を見るとそのように思う。

 粛々と世の中の名簿を眺め、有無を言わさず消去していく。死に神の作業もきっと同じようなことのように思う。人生との取引の見込みが無くなった先。命の資産が無くなり、切ってしまっても差しさわりない先。死を望む自分も、すれば死に神に選ばれたということでしょうか。神様。

 お願いです。どうかアラカシさんだけは選ばないでください。

 と、祈る先の神様と、名簿をなぞる死に神が並存し、論理が破綻しているような気がして、思考の遊泳は途端に覚めてしまった。

 やはり、起点の無い思考は得意ではない。しかし死に神という着想は悪くなかった。ただ言えることは、真実をアラカシさんに話し、そして拒絶されることで、彼女が自分の死に神に成り得るということだ。自分の告白と彼女の拒絶によって、僕の死はきれいに片付く。それが彼女のような死に神の仕事の一環なら、美しく愛のある選定だと思える。

 壁時計を見上げた。終業が待ち遠しかった。

 

「それ、すごい迷惑。」

 アラカシは言った。表情にはさして色が無い。そのため怒るのか困るのか、もしくは茶化しているのか、我々にも分からなかった。

 そこは職場の裏通りだった。ビル風が強く吹いていた。

 夕作は終業後、夫の迎えを待つアラカシに声を掛けた。

 同僚の不意な接近に、アラカシはひとつ、微かな驚きを眉に浮かべた。しかし夕作は気に留めず、前置きもなく心のあらましを打ち明けた。自分が機械であること、アラカシに愛情を抱いていること、アラカシの真実が知りたいこと、そしてそれらが胸の内で帰結し、木曜日に死の予約を取ったということ。

「だから、死ぬ前にあなたの裸を見せて欲しいんです」

 こういう場合、彼が機械であるのは具合がよかった。下手な賢明さを出さず、例えこじつけでもまず結論を打ち明けることができる。さながら壊れれば説明なしにエラーコードを表示するように。つまり、蛇行なく放送が進むのだ。

 しかし、というか当然、アラカシは拒絶を示した。それで、迷惑だと彼を一蹴したのだった。

「迷惑ですか」

 夕作も同様に真顔で返した。

「というか普通に嫌なんだけどさ。でも断ったら私が殺したみたいになるでしょ。だから迷惑ってこと。」

「そうですかね? 僕が死ぬことはどう転んでも決まっていますが」

「そこに私を巻き込まないでよ」

「できるだけアラカシさんのことを知ってから死にたいんです。知るだけでいいんです」

「気持ち悪いなあ。別に知られたくないし、守るべきプライバシーってのがあるでしょ。死ぬからってそれを免れるわけじゃない。見られるってことは記憶されるってことでしょ。嫌。」

 確かに。と夕作は頷いた。

 確かに、こちらの要求ばかり押し付け、彼女の心情は顧みていなかった。

 彼女の言う通り、見られる方は記憶されるということだ。記憶が続く限り、それは永遠に消されない。写真のように、記憶の金庫にその瞬間が囚われる。ならば裸とは、守るべき情報か。自分の設計図のようなものか。宮殿の設計図。ならば守るべきプライバシーとは、宮殿の宝物のようなものか。

 神様。僕は彼女のことを思いながら、実際はひとつも彼女のためを考えられていなかった。僕は愚かでした。

 我々はまずいと思った。このままでは、夕作の意志がアラカシの体から離れて行く。それでは不倫にたどり着けない。夕作はただ死を待つだけの機械になり下がってしまう。我々に悲観的な感嘆が飛び交った。

 しかし夕作には我々のささやきに耳を貸す様子がなかった。ただ真っ直ぐアラカシと向き合っていた。

「分かりました。お時間いただきありがとうございます。これはこれで、僕は心置きなく始末できます」

「待って。だからそれも嫌。私の拒絶ですっきりするって、なんか嫌。」

「じゃあ、どのようにすれば」

「死ななかったらいいよ。その、回収? を断れば。やっぱり生きたいですって」

 我々にすればこれもまずかった。つまらない結末どころか放送の終わりすら延期となると、炎上も必至である。我々は力の限りささやいた。夕作の理性を鈍らせるように、放送画面一面を醜猥な言葉で埋め尽くした。

 夕作は眩暈するように顔を振るうと、絞り出すように言った。

「いや、僕は死にたいんだ」

 アラカシはため息を吐いた。

「じゃあさ、一旦断って、私の目の届かないところに引っ越してから自由にすれば。このままじゃどうしたって私が巻き込まれるじゃん」

「そんな、引っ越しなんて面倒ですよ。僕は一日も早く片付けなくちゃいけないんです」

「面倒なのはこっち。勝手に妄想こじらせてさ。それ危ないよ。……というか、機械ってなに? 何かの例え?」

「えっと、機械は機械で」

「その設定からおかしいよ。裸見たいからって、嘘にもならないじゃん」

「嘘はついてないです」

「どこが機械なの?」

「えっと、全体的に。」

「腕とか外れんの」

「腕は外れません」

「証明してよ」

「証明ですか」

「そ。だってどう見たって人間の男じゃん」

「それは、つまりアラカシさんが機械相手なら裸を見せられるってことですか」

「なんでそうなるの。機械でも嫌だって」

「でも、洗濯機と同じだと思えば。」

「洗濯機? ああ、まあ」

 と、アラカシは上空に目線を上げた。

「洗濯機なら、いつも裸を見ているはずです」

「いや、駄目だよ。洗濯機は洗濯機だし、難波君は難波君じゃん。その体で自由に動いて考えて記憶してるんだから、どっちにしろ嫌だよ」

「そうですか。いや、失礼しました。」

 夕作がどれだけ理屈をこねても、アラカシの意思は折れそうになかった。

「今のところ僕はアラカシさんに迷惑をかける選択肢しか用意していませんでした。これは僕の準備不足です。なので延期も含め、一度再検討しようかと思います」

「そう」

 と、アラカシは表情を変えず、微かな鼻息を漏らした。

「なんにせよ思い留まってくれるなら良かった。言っとくけど、死ぬって選択肢は今後も用意しないでよ。聞いちゃった手前どうしたっていなくなったら後味が悪いよ。できればさ、死なずにこのままここで働こうよ。機械って言うくらいならできるでしょ」

「はい、そうですね。」

「こんな楽な仕事、他にないんだから」

「そうですね」

 頼むよ? と言って、アラカシはにやりと笑った。夕作も二三度頷いた。続けて、夕作は人差し指を立てた。

「あの、すみません。気づいていたんですが、話の途中だったんで。その、お迎え。来てます」

 夕作はアラカシの背の先を指さした。

 少し前から、路肩に黒い車が停車していた。

 アラカシが振り向き、手を挙げ、夕作のもとを離れ、小走りで車に向かう。

 数メートルに近づいたところで、黒い車は急速に音を上げて発進した。

 アラカシの体は容易く飛んだ。助走は短い。それは軽い衝突に見えた。子供が、友達を突き倒すような軽さだった。それならば、その次に起こるのは天を突くような泣き声である。

 が、アラカシの体は倒れてから身動き一つなかった。

 運転席から男が降りた。そしてアラカシのもとに駆け寄る。しかし少しの間彼女を眺めると、それから体を返して小走りに立ち去った。車とアラカシを残したまま、男は路地の中へと消えていった。

 夕作はアラカシに近付いた。血は出ていない。目は見開かれたままだったが、やがてゆっくりと閉じられるのを見た。

 路地を覗き込んだ。男の姿はもうない。車を顧みた。どうしたらいいだろう。このままでは通行の妨げになる。アラカシの体もそうだった。人が通れば騒ぎになる。

 路肩に雑草が伸びる。これを抜かなければならない。

 夕作は屈んで、地面に両手を伸ばした。

 重たい。が、重たいと知ってしまえばさほど無理なこともない。アラカシの体を引きずって、後部座席に押し込んだ。

 この状況の起因はなんだろう。自分が話しかけたからだろうか。しかし轢かれるなんて、逃げるなんて、正常ではない。エラーだ。

 いまここに自分が居合わせた理由はなんだろう。しかし、片付けなければならない。さらに雑草が伸び、蔓に絡まり、正常な生活を奪われる前に。

 これは罰でしょうか。それともお導きでしょうか。神様。

 

 夕方のラッシュアワーだった。道路には車の赤い尾灯が百足のように連なる。夕暮れは鼓動のたびに深まった。

 車内もほんのわずかな隙に暗闇に呑まれていた。バックミラーで後部座席を見る。シートには彼女の体があるはずだが、静かな暗がりに覆われて見えない。

 脈は、息はあったのだろうか。逃げ出すばかりで確認を忘れていた。体はまだ温かかったように思う。サイドミラーを見る。後方には後列の前照灯が切れることなく続いていた。そのすべての目が、前を行く自分の動向を厳しく監視しているようだった。ここで隊列を乱すような動きをすれば、すぐにでもけたたましい警告を浴びる。路肩に停めようものなら非難の目にさらされる。彼女の意識など後でいいかと思った。焦っても事実は変わらない。緩慢な渋滞は諦めの形で心を鎮めてくれた。思考が優位になる。

 

 我々は少々荒れた。

 もちろん、アラカシにもアラカシの夫にも視聴する神々が着いていた。彼らには彼らの思惑があった。つまり、彼らには彼らの期待する不幸の筋書きがあり、そのためこちらの放送にも支障が出る結果となった。同時に夕作とアラカシを不倫させるという結末も潰えてしまった。

 我々は思いあぐねた。アラカシらの視聴者へ苦情を入れに行ったりもした。しかしそれも無為である。

 いま、夕作の手元にあるのは盗んだ車とアラカシの体だけである。

 これからどうやって彼を不幸に導き、死へ誘うのか。

 いわんやこの状況、アラカシの裸体を見るという夕作の目的は簡単に達成できるだろう。

 しかし簡単ではだめなのだ。

 夕作にはできるだけ困難で苦しい道を選んだのちに転落して生涯を終えてほしい。その一方で、意識のない彼女の体をただ弄ぶような、卑小な行動は避けてほしいとも願う。ここまで付き合っておきながら、ただ趣味の悪い放送として終わるのは御免だった。

 

 自分は車とアラカシを盗んだ形になっているのだろうか。

 しかし男、おそらくアラカシの夫は、明確にこれらを捨てた。

 もしアラカシが死んだのなら、アラカシの体は誰のものになるのだろうか。

 死体なら遺族のものだが、廃棄物なら回収業者のものだ。

 とすれば、今のところアラカシの体は、拾い上げた自分のものである。

 あえてそこまで考えてみて、少しも動かない自分の胸を認めた。死に土産ほどに求めていたアラカシの体だ。服を脱がす想像などをしてみる。が、見たいという気持ちは起こらない。むしろ、見たくないという気持ちの方が強いように感じる。

 自分が求めていたのはなんだ。

「証明してよ」

 アラカシの言葉が過った。先ほどは咄嗟に話を逸らしたが、アラカシが言うように自分が機械であるという証明方法はあるのだろうか。

 自分は自分が機械であると自認している。人間が自らを人間だと疑わないように、自分もまた自分を機械だと疑わず生きてきた。

「君は自分を機械だと言うが、何か証明できることはあるのか?」

 アラカシと同じことを、学生時代に聞かれたことがある。酒場の熱い友情の輪の中で、生まれて初めて自分を打ち明けた。が、ぐっと熱のこもった輪の中に冷笑が起こった。そして機械という子供じみた空想を打ち砕くべく、安易な議論をしかけられた。

「何か証明できるのか。」

 そう言う冷笑は勝ちを確信していた。頭に血が上る感じがした。これは勝ち負けなんかじゃないだろう。同時に胸は冷えるような気がした。

「君は自分が人間だと証明できるか。腹を裂いて内臓でも見せ合おうか。」

 と、結局そんな具合にくってかかってしまい、友人は苦笑いを最後の返事として、また別の話題を始めた。

 あの時どう証明できただろうか。生まれ持った意識について、それを言葉にする以外にその証明は難しいと思う。だってそうなのだから、信じてもらう他にない。

 機械ながら、自分にはそのように過去の記憶もある。思い出すことができる。両親の顔も、独り立ちした実家の風景も覚えている。

 しかし庭をぼんやりと眺めていて、ふと、その記憶が作り物であると気が付いた。

 自分の記憶は誰かの創作である。

 しかも特段ひねりもない、取って付けたようなはりぼての過去である。

 その証拠に、それらの記憶は切れ切れだった。飛び石のように点々としている。いくら思い出そうとしても、その石と石の間を埋める時間が無い。繋がりが無い。まるでアニメやゲームのキャラクター設定のように、記憶は箇条書きで出来ていた。

 それでは記憶でなく情報に等しい。自分の過去には連続する時間が無いのだ。

 ともすれば先の友人とのやりとりも、誰かの創作に思えてくる。

 どうも可笑しいと思った。友人の顔が思い出せない。それに酒場の情景も、思い出そうにも無機質な一枚絵で動きがない。これはアイデンティティの軋轢に苦しんだという、いかにも人間らしさを演出する創作されたただの情報なのだ。そこに自分の脳が補正をかけている。

 すると昨年の記憶も、昨日の記憶にも、そこに自分がいたという実感がひどく欠落してくる気がする。人から聞いた物語のように、電車のつり革も、玄関のドアノブも、自分の手が触れていた気がしない。むしろ朝目覚めた瞬間から以前は、すべて別の誰かに用意され情報なのかもしれない。

 脳は案外落ち着いていた。熱くなる様子もない。車列はゆっくりと進む。車はやがて混みあっていた交差点を抜けた。

 自分が機械であるという証明は、結論難しそうだった。医者の問診ではせいぜい喉を診たり音を聞いたりするぐらいで腹を開くわけもなし、MRIなら金属の持ち込みはご法度である。だいたい医者にかかったとしても、どの医者もきっと思うだろう。「生きていて問題がなければ、わざわざ調べる必要もない。」そして検査は断られる。その通りだ。他にやるべきことがある。命の危険がなければ、他人の真実が何であるかなど、正確に知る暇も、余裕も、必要も、誰もない。

 後部座席のアラカシの体を思うと、これが大切なものなのか、そうでないのかすら、分からなくなってくる。もし彼女が死んでいて、自らをアラカシだと言葉にできないなら、これほど厄介な荷物は無い。

 主人のいない宮殿。手入れのされない内庭。

 死ねば命の代謝は止まり、宮殿は朽ちていくのみだ。

 生きているからこそ愛おしかった。狂おしかった。

 不意にクラクションが鳴る。反射的にハンドルを切る。車体はマンホールか何かを踏んで、ひとつ上下に揺れた。

 反射的にバックミラーを覗いた。小さな交差点を過ぎていくのが見える。どうやら反対車線まで踏み込みかけたらしい。そのまま、ミラーを通して後部座席を見た。街灯の線が差して瞬間彼女の顔が光った。伏し目がちな、祈るような姿を思った。

 そこには過去があった。しゃっくりをして、にやりと笑った過去がある。それを見た、自分の過去もある。まだ、これらを失いたくないと思った。

 宮殿の宝物とは、過去なのだろうか。忘れれば、過去も無くなるのだろうか。

 液晶の時計を見た。病院を探そうと思う。急患なら持ち込みも可能だろうか。

 

 夕作がアラカシを病院に連れて行き、彼女の意識は回復する。奇跡的に軽い脳震盪だけで、外傷も後遺症も見られなかった。アラカシは復活し、自らを傷つけた夫から離れ、夕作のもとに身を寄せる。やがて互いに信頼を築き、二人は共生し、夕作も死を取りやめてアラカシと永く暮らす。

 そんな筋書きを、我々は忌避した。しかし夕作の動きを察して視聴数はまた下がる。もはや放送を観ているのは、私とあなたがた少数しかいないのではないだろうか。

 もう我々の声は小さくなった。我々には彼を不幸の道筋へ誘う力もないだろう。私などはもうあきらめておいとまし、そろそろ別の放送に移ろうと思う。

 私は冒頭の方で説明した。我々は生き物の目を借りて視聴している。

 聡明な神々ならばおわかりだろう。ならば機械であるはずの、夕作の目からの放送があるのはそれでは合点がいかない。彼が生き物のわけがないから、この放送は彼の体表に棲む虫たちの視点だろうか。黴や、微細なバクテリアの知覚だろうか。人の胃腸には一〇〇兆もの細菌が巣食うらしい。それだけの目がある。内臓は我々の目で溢れるのだ。ではいま我々はどこから観ているのか。ここはどこだろう。天空を見上げれば血潮走る内壁が見えなくもない。

 さあ真相は分かりかねるが、私はもう興味もなくなった。我々が何者であるかなど。

 まだこの放送に残る、もの好きな神様がた。あとは粛々と残りの、消化放送を眺めるだけだろう。

 さて、そろそろ私は行きます。

 またいずれ、どこかで、神様たち。

 

 

 夜に掛かる橋のように薄暗い舗装道路を行く。両脇は暗闇の田畑が敷かれている。道なりの先に、緑のネオンが光っていた。病院の文字が見える。

 ガラス張りの一階は巨大なランタンに見える。自動ドアの向こうには電灯の消えた幅広の受付と、その奥にぽかりと事務所の明かりが漏れている。親指ほどの大きさの蛾が、ガラス窓に張り付いていた。

 夜間通路を抜け、受付の前で怒ったような声を上げると、やがて人が集まり、担架が運ばれ、アラカシの体が乗せられた。

 症状とその成り行きを手短に伝え、彼女の鞄と財布を当直の看護師に押し付けた。人目を潜り抜け、車に戻り、エンジンを掛ける。やがて事件だと発覚することを考えれば長居はしていられない。

 カーナビに触れる。ぱっと車内が明るむ。目的地が要る。登録された項目に、自宅の表記を見た。まずはこの大きな荷物を正常な位置に返そうと思う。

 車が動くと、後部座席は無人で、タイヤは軽い。

 彼女を手放した。動いているほうがいい。動いている内臓が愛おしいのだ。そして動く限り、自分はささやかでも彼女の過去となれる。

 駐車場のバーが開く。夜道を行く。ナビは来た道と逆を示した。すぐに町の明かりが広がる。

 彼女の伏し目がちな頭部。そしてそれに続く内臓。規律だった街灯の夜空とフロントガラスに、そんな想像の彼女が巨大な蛾のように張り付いていた。実物は見たことが無い。そのためそれはポップなトイブロックの色形をしていた。

 ラッシュアワーはとうに過ぎ、空いた道はまるで夜空の滑空だった。

 町を抜ける。山を越える。また町に出る。どれほど来たのか。ナビが終りを告げた。複製を繰り返したかのように並ぶ住宅だった。

 カーテン越しに電気がついている。駐車場に停めた。インターホンを鳴らした。

「誰ですか」

「車を届けに来ました」

「それはどうも、ありがとうございます。失礼ですがあなたは?」

「……アラカシさんの同僚です。」

「警察ではなく?」

「警察ではないです」

「どうぞ、中に」

 玄関の鍵は開いていた。しかし明かりは点いていない。廊下が伸び、突き当りの扉が少し開いて光が漏れている。手招かれるようにそちらに進む。

 男がいた。アラカシの夫だ。そこは寝室だった。無機質な白昼灯で眩しい。

 ベッドには女の裸体が寝かされていた。アラカシに見えた。が、アラカシではない。よく似た女に思う。しかしどこが似ているのか分からない。

「あれ、妻は?」

 男の不躾な声がした。

「はい。病院に届けました。意識が無かったので」

「そうですか。それはどうも。いや、はやとちりでね。もう代わりを用意してしまった」

 ベッドで横になる女は、腹の部分が観音開きに開かれていた。その穴は天井を向いていて、中は死角で見えない。

「それで、いつ戻ってくるんです?」

 夫は床に散乱した段ボールや梱包材を足で除けながら言った。

「さあ、分からない。もう生きているのかどうかも」

「なに? 確認は?」

「僕のじゃないから。君も、捨てたんだろ。」

「まあ、そうか。」

 夫は散乱の中から黒いビニール袋を摘まみ上げると、その中に手を突っ込んだ。そして、慎重そうに中の物を抜き出した。

 その毛深い手中に、黄金に光るものが見えた。そして、彼はこれ見よがしにそれを開いて見せた。黄金の、懐中時計である。

「これが肝でね」

 夫は懐中時計を女の腹の中にゆっくりと下ろすと、指先で何かを摘まみ、くるくると動かした。そしてそれが終わると手を抜き出し、パタンと腹の扉を閉めた。

「さて、迎えに行かなくちゃいけないな。病院はどこだ」

「カーナビに履歴を残している」

「なるほどね。まあ世話になった。帰るまで好きにしてくれ。この家も自由に使え」

 夫はベッドの上に女を座らせ、奥の壁に背をもたれさせると、家から出て行った。

雨が降り始めた。

 夜の間じゅう、壁にもたれながら眠り続けるアラカシに似た女を、向かいの壁から眺めて過ごした。裸だった。それは初めて見る造りをしていた。

 やがて朝になった。アラームが鳴り、女は目を覚ました。そしてまるで今まで生きてきたかのように、実に人間らしい表情と動作を始めた。女は眠たそうに、それでいて快活に発話した。

「あれ。難波君。何してるの」

「僕が分かるのか」

「え? ふざけてるの?」

 女はそう言い捨てながら、ベッドに置かれていた下着を機械的に身に着けた

「あのさ、もしかして不倫?」

 不倫はしていない。そのうえ昨晩あなたの夫に会っている。と説明した。

「そう。じゃあ会社にいかなくちゃ」

 女はそう続けると、迷いもなくクローゼットから服を抜き出した。そして腕を通す。脚を入れる。これも機械的だが、同時に世帯じみた動作だった。

 こちこちと律動的な音がしていた。見回すが、どこからの音か分からない。鼓動のような速さで朝が来ていた。カーテンの隙間がもう明るい。と思えば、女が一息にカーテンを開いた。清潔そうな青空も見える。ひどく不安になった。眠っていない。服も着替えていない。自分だけが昨晩に取り残されている。

 夫はもう帰らないらしいと、出まかせに言った。

 女はこちらを向き、かすかに眉をひそめ、少し黙り、それから吐き捨てるように言った。

「じゃあ難波君でいいよ」

 それでいいのかと聞く。女はそれでいいと答えた。

 女の支度を待ち、彼女の運転で自分のアパートに戻った。顔を洗い、着替えをして、そして二人で会社に向かった。

 この日は火曜日だった。いつも通り出社し、いつも通りの時間に終えた。女はまるでアラカシのように美しく働いた。

 帰りは女の運転で、今度は一軒家に戻った。どうやら夫はまだ帰らないようだった。

 夜は女と同じベッドで眠った。他に寝具が無かった。昨日の疲れもあってぐっすりと眠った。

 朝が来て、水曜日となり、また会社に行く。

 この日はアパートに帰った。翌朝に予定がある。アパートの小さな布団でまた女と眠った。

 木曜日の朝になった。音量の大きいアナウンスを鳴らしながら、回収業者がインターホンを押した。

 玄関を開け、作業服の男と目が合った。男は言った。

「引き取りですが」

 これです。と、女の手を引き寄せ、背中を押して玄関の外に出した。が、男は眉をしかめた。そして大きな声で言う。

「違いますね。予約は男のはずです。困りますよ」

 女が押し戻され、それと入れ違いに腕を掴まれた。何も言うことは無かった。続けて上の服を脱がされた。みぞおちの辺りを抑えられ、確かに。と、男が言った。

 荷台には自分で上がり、やがて軽トラックは発進した。

 何気なく、荷台の上から女を見つめた。小さくなっていく。女は手を振っていた。

 朝に都合がつくのは、すっきりしそうだった。

 女はこれからどうするだろうと思った。いつかは居場所もなくなる。そのいつかはやがてすぐ来るだろう。女はひとりで暮らすのか。ならば夕方などは庭を眺めて過ごせばいい。何もないが、だいたいの仕組みはそこにある。

 早抜けは気兼ねした。もう少し話せばよかったと思った。これじゃあ思い出してもくれない。

 急に吐き気を催した。緊張のせいだろうか。鎮めるため、二度ばかり拳で腹を殴った。

 ぺん、ぺんと、肌の音がした。(了)