抽斗の釘

小説、散文、文章、短編

月か花

気持ちのよい夜であった。 一日分の熱に夜気が注いで、街は足し水のようにほんわりとしている。 居酒屋のエアコンに凍えた体は、生ぬるい夜の風に浸かって生き返ったところ。 火照ったり冷えたりを繰り返した夜に、脳はぼんやりとした夢心地に緩んだまま。 …

浮気者

金曜日は私も早引けになるのだから、一緒に夕飯でも作り一週間の労働を共に労い合いたい。 有里子はそんな風に苛立ちながら、冷えた夏野菜を叩き切っていた。 結婚して三年になる。夫の倖一は今日も外に遊びに出ていた。 しかしそれを特段悪いとは思わない。…

生命の時報

彼は疲れていた。 平日は週末の為と思い、週末は平日の為と思う。それが死ぬまで続くのか。その間も若い時間はみるみる過ぎていく。 なんのための命だろうか。 生活費に同額と消える給与。得て失うその繰り返し。知らない他人のための業務も繰り返し生まれ消…

安らぎの石

安らぎの石 インターネット回線業者の営業職であった降矢は、給与の不満から独立を決意した。 同僚より成果を上げているにもかかわらず、それが正当な評価に反映されないのだ。 降矢は自分のクリーンな営業を誇りとしていた。 成績の水増しもしなければ顧客…

蜂の飛行高度

蜂が背から、耳の縁を通っていく。 そのたびに僕は首を縮めて、目の横に映った黒い影が遠くへ行くのを見届ける。 その間ひと時暑さを忘れ、そして次第に彼らを憎む。 それは毎年のように経験することだった。 ──虫の飛行する音が今でも苦手だ。 とりわけ甲虫…

もうやめて

悪寒と共にくしゃみが出た。 ひどいくしゃみで、痛みと共にティッシュには黒い血粒が付いた。 翌日には発熱で、一日中布団にいた。 その熱が少しだけ弱まったころ、これはいけないと総合病院に連絡をとり、熱が引いた翌日に検査、またその翌日には陰性という…

だれかれの恋

寿賀子の恋愛話を、もう興味を持って聞く者はあまりいない。 というのも、彼女の恋愛話は聞くたびに相手が変わるのだ。 そしてそれらすべてが片思いだった。 二十年来の付き合いがある謙慈が知るだけでも、この数年で相手は忙しなく変わった。 大学院生、電…

ラブホテル・ブラザー

潤う、ということにはひどく痛みを伴う。 清太は唾液を飲み込みながらそんなことを思った。 喉に垂れていった唾液が喉仏のあたりで染み、しわりと痛んだのだ。 乾燥した春の空気は、喉の側面を荒廃の土地のようにヒビ割れさせている。 そこに水が入り、肌は…

満開

この日、四月一日は入社式で、美桜はその会場へと向かっていた。 東大路通りを北へ歩く。そして度々、苦々しい瞳を青空へ向けた。もたないと思っていた桜は、ちょうどこの時に絶頂を迎えていた。 美桜が桜を疎ましく思うのは、群衆を思うのに近かった。断り…

来世

植物写真家・黒部の自宅庭は、それだけに多様な植物で溢れていた。目隠しのキンモクセイやツゲに広い庭を囲ませ、ユズリハ、モクレン、サルスベリなどの高木、ボタン、ツツジ、マンリョウの低木、オリーブ、ギンバイカなどの鉢植え、ローズマリー、西洋イチ…

井守

がらーん、がらーん。と、手持ち鐘の音が近づいてきた。 ちりりん、ちりりん。と、風鈴の音も聞こえる。 くろーやき、くろおーやき。そこに力のない男の声が続いた。 亜里砂は猫のようにクッションから飛び跳ねると、音もなく、ドアの覗き窓に目を入れた。 …

魑魅

加賀慎矢と藤崎里留が逢引を始めたのは高校三年の初夏だった。 私立の男子校の特進クラスだった二人は、帰りの電車が同じ方向ということから、いつしか遊ぶ仲になって、授業や膨大な宿題から逃避するように下車し、ファミリーレストランやカラオケ、ゲームセ…

加密列

金がなく飢え死にしそうになれば、私も生ごみを漁り、犯罪を選ぶのだろうか。 いや、何もせず、死んでいくほうがよいと、点けっぱなしの報道を横目に薫は思った。 家賃が払えず、光熱費も払えない。ただ床に寝そべって、払え払えと急き立てられ、それでも寝…

万年茸

日が暮れるのが早くなった。 絢菜はふた吸いばかり吸った煙草を灰皿へ落とし込み、駆け足のところを早々、赤信号に止められた。それで手持無沙汰に、そんなことをあらためて思った。 目の前の交差点では帰宅時間とも相まって、乗用車やバス、タクシーなどの…

蟷螂

亮平は大学に向かうべく地下鉄に乗り込んだ。 昼前の時間であるのに、車内はまずまず混んでいて、席は座れないほど埋まっていた。そこには彼と同じような学生をはじめ、他は仕事だろうか、スーツ姿の大人もちらほらと姿が見える。彼はふわりと車両内を見渡し…

小綱の呪い

目を覚ますと砂の上に居た。それも、薄紅色の砂だった。ここはどこだろうと辺りを見回すが、薄紅の砂浜と、それに沿って深い青の海が広がり、海の反対側には浜に並行して深そうな森が伸びているのが分かるだけだった。記憶のある風景では無かった。空からは…

鬱の花

祇園の街は夜半を過ぎて、昼間の賑わいや夜の街のきらめきは夢のように消えていた。それは何も喧噪だけではなく、大抵の店灯りはもう消されてしまって、暗闇を引き立てるぼんやりとした街燈と、時折空車のタクシーが、ゆっくりと黄色いライトを揺らして通夜…

獅子

一 南中した太陽の光線は、直線下にその交差点を白く照らした。日の熱を避け、町の人々は陰に退いて姿を見せない。かげろうの揺れるその界隈には、濃い線香の香りが眼に見えずとも漂っていた。 幹線道路にもなる街道は御陵に続く参道と交わって細い交差点を…

若葉

アオはキッチンで佇んだ。 午後の街中の日影が、締め切った窓ガラスとレースカーテンをすり抜けて、薄っすらと部屋に注いでいる。ダイニングには、灰色の球体がプカプカと浮いていた。 「日曜日は嫌い。」 アオは言う。ふたりはソファに座りながら寝る前に紅…

夜のどんどん

虎の天使が腕を組んで見下ろしてきます。わたしは眠れない体をごろごろ動かしながら、時計のコチコチを聞いています。目を閉じると、黒鬼が、どろどろ動きます。腕が、足が固まってきました。さあ、夜のどんどんです。 わたしは家族と、白のハイエースに乗っ…

楠木の森

……背の高い楠木が、さわさわと木々の上で葉を揺らした。 ……或る森の、或る木々の隙間に彼女は立っている。 日常で、自分の言葉を探すのは難しい。 ここは深い深い、茂った木々の中で、葉や枝の隙間から、午前のさわやかで活き活きとした日がさしている。わた…

春の風

梅の花の匂いが、春の日和に暖まって香る。花は満開から少し過ぎ、細く歪な枝の間で熟しては、色あせて垂れ始めている。垂れた梅花の間を、羽虫が衝動にまかせ、日和に漂っている。平日の穏やかな中、一人の青年が住宅街を歩いていた。冬物のコートは幾分暑…

シュガーアンドバター

自分の性格や趣向を人に伝えるのは難しい。自分は繊細だから勘弁して欲しいという甘えと、自分は強靭だから尊重してほしいという甘えが同居している。いざ人に伝えようとすると、どちらも前に出ては退き、モゴモゴと口が閉じる。指針も指針で、わたしの理想…

わたしには、訪れた記憶はないけれど、懐かしくなる情景があった。時々思い描いては、何処だろうかと、首を傾げる次第である。 それは、真っ青の部屋だった。 床一面は紺色のカーペットで、窓は一方だけに、群青のカーテンから、外の日光が差している。午前…

眠りの国

先輩は仕事中に時々眠っています。キーボードに手を置きながら、こくこくと。 先輩は会議中でも眠ってしまいます。腕を組んで、目をつむって考えるふりをして、そのまま、こくこくと。 ある日、わたしは通勤の電車で先輩と乗り合わせました。座席に隣り合っ…

相合傘

パタパタと、傘を鳴らす雨の音が続く。傘のなか、わたしの横には、夜の街に映える彼女の白く整った顔があった。相合傘。‥その白い顔に映える濃いめの化粧。口紅。美人だな、とわたしは思う。小さな折り畳み傘からは、彼女の黒革の上着がはみ出ており、雨に肩…

仰向けの世界

彼は勤めの帰路の電車、乗合せた同僚と鬱病について話した。 彼も同僚も然る病の治療中で、服用する薬や副作用について和やかに話した。 車両は動き出し、二人は肩を並べ座席に着いた。ゴトゴトと鈍行は夕刻の街を抜けて行く。 話すと二人の治療薬は異なった…

熱帯魚

夏に金魚を死なせ、次の冬には熱帯魚を眺めていた。夏祭りで掬ったものであったが、6尾は月日を追うごとに減り、次の夏に最後の1尾が浮いた。6尾とも庭の同じ所に埋め、線香を上げた。その度に、土に溶け、骨の様を思い描いた。 黒の壁紙に、青の背景を施し…