抽斗の釘

小説、散文、文章、短編

2022-01-01から1年間の記事一覧

閾(しきい)

障子は青白い色をしていた。 おそらく外の雲影は日を隠し、南向きの小さな庭へ冬の影を落としているのだろう。障子はただその陰りを透かし、過ぎた陰は中の座敷にまで及んでいた。それは畳に胡坐をかく杏平(きょうへい)や目の前の座布団、その上でうたた寝す…

月か花

気持ちのよい夜であった。 一日分の熱に夜気が注いで、街は足し水のようにほんわりとしている。 居酒屋のエアコンに凍えた体は、生ぬるい夜の風に浸かって生き返ったところ。 火照ったり冷えたりを繰り返した夜に、脳はぼんやりとした夢心地に緩んだまま。 …

浮気者

金曜日は私も早引けになるのだから、一緒に夕飯でも作り一週間の労働を共に労い合いたい。 有里子はそんな風に苛立ちながら、冷えた夏野菜を叩き切っていた。 結婚して三年になる。夫の倖一は今日も外に遊びに出ていた。 しかしそれを特段悪いとは思わない。…

生命の時報

彼は疲れていた。 平日は週末の為と思い、週末は平日の為と思う。それが死ぬまで続くのか。その間も若い時間はみるみる過ぎていく。 なんのための命だろうか。 生活費に同額と消える給与。得て失うその繰り返し。知らない他人のための業務も繰り返し生まれ消…

安らぎの石

安らぎの石 インターネット回線業者の営業職であった降矢は、給与の不満から独立を決意した。 同僚より成果を上げているにもかかわらず、それが正当な評価に反映されないのだ。 降矢は自分のクリーンな営業を誇りとしていた。 成績の水増しもしなければ顧客…

蜂の飛行高度

蜂が背から、耳の縁を通っていく。 そのたびに僕は首を縮めて、目の横に映った黒い影が遠くへ行くのを見届ける。 その間ひと時暑さを忘れ、そして次第に彼らを憎む。 それは毎年のように経験することだった。 ──虫の飛行する音が今でも苦手だ。 とりわけ甲虫…

もうやめて

悪寒と共にくしゃみが出た。 ひどいくしゃみで、痛みと共にティッシュには黒い血粒が付いた。 翌日には発熱で、一日中布団にいた。 その熱が少しだけ弱まったころ、これはいけないと総合病院に連絡をとり、熱が引いた翌日に検査、またその翌日には陰性という…

だれかれの恋

寿賀子の恋愛話を、もう興味を持って聞く者はあまりいない。 というのも、彼女の恋愛話は聞くたびに相手が変わるのだ。 そしてそれらすべてが片思いだった。 二十年来の付き合いがある謙慈が知るだけでも、この数年で相手は忙しなく変わった。 大学院生、電…

ラブホテル・ブラザー

潤う、ということにはひどく痛みを伴う。 清太は唾液を飲み込みながらそんなことを思った。 喉に垂れていった唾液が喉仏のあたりで染み、しわりと痛んだのだ。 乾燥した春の空気は、喉の側面を荒廃の土地のようにヒビ割れさせている。 そこに水が入り、肌は…

満開

この日、四月一日は入社式で、美桜はその会場へと向かっていた。 東大路通りを北へ歩く。そして度々、苦々しい瞳を青空へ向けた。もたないと思っていた桜は、ちょうどこの時に絶頂を迎えていた。 美桜が桜を疎ましく思うのは、群衆を思うのに近かった。断り…

来世

植物写真家・黒部の自宅庭は、それだけに多様な植物で溢れていた。目隠しのキンモクセイやツゲに広い庭を囲ませ、ユズリハ、モクレン、サルスベリなどの高木、ボタン、ツツジ、マンリョウの低木、オリーブ、ギンバイカなどの鉢植え、ローズマリー、西洋イチ…

井守

がらーん、がらーん。と、手持ち鐘の音が近づいてきた。 ちりりん、ちりりん。と、風鈴の音も聞こえる。 くろーやき、くろおーやき。そこに力のない男の声が続いた。 亜里砂は猫のようにクッションから飛び跳ねると、音もなく、ドアの覗き窓に目を入れた。 …

魑魅

加賀慎矢と藤崎里留が逢引を始めたのは高校三年の初夏だった。 私立の男子校の特進クラスだった二人は、帰りの電車が同じ方向ということから、いつしか遊ぶ仲になって、授業や膨大な宿題から逃避するように下車し、ファミリーレストランやカラオケ、ゲームセ…

加密列

金がなく飢え死にしそうになれば、私も生ごみを漁り、犯罪を選ぶのだろうか。 いや、何もせず、死んでいくほうがよいと、点けっぱなしの報道を横目に薫は思った。 家賃が払えず、光熱費も払えない。ただ床に寝そべって、払え払えと急き立てられ、それでも寝…

万年茸

日が暮れるのが早くなった。 絢菜はふた吸いばかり吸った煙草を灰皿へ落とし込み、駆け足のところを早々、赤信号に止められた。それで手持無沙汰に、そんなことをあらためて思った。 目の前の交差点では帰宅時間とも相まって、乗用車やバス、タクシーなどの…

蟷螂

亮平は大学に向かうべく地下鉄に乗り込んだ。 昼前の時間であるのに、車内はまずまず混んでいて、席は座れないほど埋まっていた。そこには彼と同じような学生をはじめ、他は仕事だろうか、スーツ姿の大人もちらほらと姿が見える。彼はふわりと車両内を見渡し…