真っ暗ではない。濃紺だ。その濃紺が、夜明けか夕暮れかは分からない。それでも本棚や勉強机、今いるベッド、仄明るいカーテンの隙間が、ゆらゆらと形を取り戻していく。口が開いている。エアコンの口も、自分の口も。舌が動き出し、寝起きの味がする。コーンフレークを食べたい。すっきりしない。むしろ不快で、不機嫌で、どこか遠くでいらいらしている。深いところではどきどきしている。頭は枕に戻ろうとして、実際に重たい。
目覚めはときおり恐怖だ。それは眠りの間に、両目とも見えなくなってしまうという恐怖だ。しかし毎回思い過ごしで、夢から魚のように引き上げられ、息苦しく、ずんと恐怖し、それでも寝起きの視覚が徐々に冴えてきて、ああ見えている、と分かると、ほっとする。またそれと同時に、見えていない方の目が、やはり見えていないのだと、分からされる。夢の中ではいつも、両目だの片目だの気にすることはない。
片目はいたって正常だ。しかしもう片方の、視野にあるのは輝度のみだ。それはチャコールグレーの薄いカーテンのような景色だ。そのカーテンの裏で、ライトが揺れるように光だけが見える。光が見えるということは瞼が開いているわけで、だから光があると分かると、開いたままの瞼を意図的に閉じ、それでやっと両瞼が閉じる。幼い頃から訓練をした。今では自然と両目で瞬けるようになった。それでも他のことに気を取られたりしていると、無意識のうちに片目だけ開いたままになる。とくに、性的な快感を得ている時には忘れがちで、もし相手がいると、驚かれるかもしれない。だから気を付けなければいけない。お腹が冷える感じがした。触ると裾がめくれておへそが出ている。寝る前のまましまいわすれたか。それを整えた。
まだ曖昧なまま、濃紺の部屋の壁に掛けてある学生服を眺めた。そして今日は土曜日だと自分に確かめる。夜ではなく朝だということも、徐々にわかってくる。胸の動悸も、不安感も、やがて鎮まっていく。今日は大丈夫だ。今日は、私は正常である。と、心が、心から語るように、明るい気持ちが、正しくなってくる。なぜなら、今日は約束があった。
恋人がいる。そしてそれがかなり年上であることも、親はもとより、友人にもまだ言えていない。それでも泊まりの約束をしてしまった以上、今日ばかりは、母親には伝えなければならない。
ナギサは、まず着替えるか迷ったあげく、いったん寝巻のままリビングに出て行くことにした。
母親が、キッチンテーブルで事務仕事をしていた。貯まった封筒をハサミで切り開け、いる、いらないを分け、必要な事項や数字があればノートに書きとめる。その、洋椅子の足下には生後数か月の赤ん坊が、自由に遊んでいいと床に置かれた、プラスチックの空き容器や積み木などを、代わる代わる口に運んで遊んでいる。
その、ふとした弾みだった。母親の肘が、机の上の洋ハサミにこつんと当たった。押された洋ハサミは机の上を滑り、そのまま端から落ちた。どうしてそんなことが起こったのか。ナギサはそう何度も思い続けてきたが、大人となった今では、もう誰も責めようがないと結論を出している。
落下したハサミが、刃を下に向け垂直に落ちる確率はどれほどあるだろう。ハサミの重心は柄の方にあるように思う。それでも、刃が下になることもあるのだろう。そして、さらにそれが、垂直に、一番刺さってはならない部分に立つように突き刺さるのは、どれほどの確率で起こることなのだろう。
それからナギサの片目は、明暗だけの視野になった。やがて両親は、結局その出来事を克服できないまま、離婚してしまった。
まだ明るくなりきらないうちに、母はもう起きてキッチンテーブルに着いていた。テーブルには新聞紙が広げられている。インスタントコーヒーの香りがした。母はこれから仕事に行く。土曜だろうが早起きして、新聞を読み、身の回りを整えて出かけていく。
ナギサは音もなくリビングの戸に立った。母がすぐその気配を察して顔を上げた。老眼鏡が目と鼻の間に下がっている。
「なあに、早いね」
ナギサは寝起きの顔のまま戸の枠に肩をもたれさせた。
「ねえ、今日から出かけるんだけど」
「どこに?」
と、母は特に表情も変えず娘を見据えた。
「伊東」
「伊東? 伊東って伊東?」
「恋人。泊まりで」
「へえ。」
「いい?」
「どちらさん?」
「年上の人。」
母は一度新聞紙に目を落とし、そして失笑した。
「お母さんさ、20代の時に、40代の人と付き合ってた。」
「そう」
「お父さんじゃない人ね」
「……ねえいってきていい」
ナギサは、無意識に腕を組んでいることに気が付き、それを直した。
「いいよ。大丈夫な人?」
「わかんない」
と、ナギサが言うと、二人は互いに目を合わせ、そして小さく細めた。口角もあがる。
「いいけど、殺されるなんて、やめてよね。……気を付けてね。人間、死ななかったなら、なんとでもなるんだから。それ以外は好きに、ね」
「大丈夫。個人情報、お母さんに教えてるって言ってあるから」
「正しい情報?」
「うん。ちゃんと免許証見せてもらった」
「見せてきたの?」
「うん」
「あやしい。」
「逆にね。」
母娘はまた、小さく噴き出して微笑み合った。
部屋に戻り、着替えながら、母が何を思うのか、ナギサは思い巡らしていた。以前、同級生の恋人ができたとき、母は、あなたは背も高くて大人に見えるだろうけど、中身は子供なのだから気をつけてと言った。街ともいえない街に出て、買い物をするだけのデートだった。それから彼とは続き、ショッピングモールに行き、水族館に行き、動物園に行き、お祭りに行き、ホテルにも行った。そこまで至ると、彼は一層子供っぽく変貌した。クールさは抜け、甘え、わがままを言い、もたれかかったり、のしかかってきたり、粗暴になっていった。とくに性行為に関わる反応は見ていられないものだった。断るとすぐに不機嫌になる。愛していないのか。好きじゃないのか。感情は飛躍し、挙句の果てに口を利かず無視をする。無言で鞄を投げる。服を掴む。そういったことが続き、恋人同士でいることをやめた。そしてその次の相手も、結局は似たような道のりを辿った。
泊まりは今回が初めてだった。そしてひと回り年上も初めてだった。相手が大人だから、母は小言を言わずに許したのだろうか。けれど大人だから安心というわけでもない。ナギサはそう巡らしながら、過去の恋人たちとの付き合いによって新しくなった、数組の下着を見下ろした。そうか、と眉をしかめた。これにも、母は触れているはずだ。それが少し、居心地悪かった。
着替えが終わり、洗面台に行って、コンタクトをそれぞれの目に入れる。リビングに戻ると、朝食を作る母が、母も母で思い巡らしていたように、質問を加えた。
「ねえ、その人ってもしかして既婚者?」
「うん」
「……じゃあ、大丈夫ね」
「そう?」
「優しいんでしょ? コーヒー飲む?」
「うん」
普段はコーヒーなど飲まない。飲んでも市販の甘いものだった。母も普段はナギサには淹れない。少し気恥ずかしかった。それでも母に従った。牛乳が多めに入った温かいカフェオレだった。喉に流すと、内臓が動きだす感じがした。
※
ユウゴがナギサを初めて見つけたのは、ある観光地の美術館のなかだった。
彼が美術館を巡るのは、取材と銘打った仕事のためではあったが、その一方で女漁りも目的としていた。厳密に言えば、女の体の観覧である。だが女なら誰彼構わずというわけでもない。美術館に来る、美しい四肢の女が良かった。それも、とくに夏がいい。夏は裾から腕や脚が見える。美術品に囲まれた美しい女の手足を眺めていると、彼はぼうっとした恍惚に浸れた。それは木造の滑らかな菩薩を見上げる心地に近く、冷たい石像の女神を前にする心境にも近い。プールやビーチは最良ではなかった。太陽光にさらされた体は、露出が多すぎで、かえって美しくは見えない。額縁のように、体の見せるべき部分だけを切り取った服を着て、野外ではなく室内で、室内でも美術館でこそ、体は最大限に魅力を発揮する。それは照明なのか。室温なのか。ともかく、観るという行為のために徹底的に管理された場所でこそ、体は最善の光をたたえる。ユウゴはそう結論付けながら、観光地の美術館を転々とした。観光地を選ぶ理由もあった。身なりに気をつけている女の割合が高い。そしてもし視線に気づかれても、いくらでも逃げようがあるという、あさましい理由だった。
ユウゴは鑑賞室から出ると、次の展示に続く、ガラス張りの廊下に出た。それは敷地内の園庭に面した場所だった。それまでの鑑賞室の暗がりが唐突に途切れ、急に表に出たような明るさになった。それでいて屋根の中であるから陰り、また空調も効き、それはすっきりと冷えた明るさだった。その廊下の中央に置かれた、背もたれのないソファに、4、5羽の小鳥の群れのように固まる学生服のグループがいた。
本来ユウゴは学生には興味を持たないようにしていた。野暮ったく見えるからだった。服から覗く腕や脚も、身内の子供のように無邪気なものとしか感じられない。それでもユウゴの目は、悪癖から自然と少女らの腕や脚を追っていた。その癖を頭のどこかで疎みながら、壊れた監視カメラのように視線を巡らしていた。
一面の大判ガラスは、庭園の植物の緑をそのまま中へ透過させていた。彼女らの夏服の白や紺が、その透過した緑の中に、夏の白い花のように映った。ユウゴは日陰に咲く蜜柑の花を思い出していた。初夏に見た花である。可愛らしいなと見惚れていた。
花が風に揺れるような、少女たちがくすくす笑い合うそんな瞬間に、彼女らの一人だけがふと顔を上げた。その黒曜石のような二つの瞳が、こちらの視線と重なった。ユウゴは見られた、と、はっとし、小石が喉に落ちる錯覚を覚えた。その間も彼女の視線は、友人らの頭越しにまっすぐこちらに向け続けられていた。
普通ならばどちらかが先に目を逸らす。しかしユウゴは目を逸らせなかった。ナギサもまた警戒か、好奇心か、彼を見返し続けていた。心拍数があがる。興奮か高揚か、分からないまま胸が高まり、舌と舌で触れ合うような刺激さえ、目の奥に覚えた。それが数秒続き、やがてユウゴの方から視線を外した。それからユウゴはナギサの髪を見て、顔全体を見て、彼女はテリー犬のようだと思った。聡明で素直そうな、顔と潤った目をしていた。
30代になったばかりのユウゴにとって、高校生と恋愛をすることは、世間に顔向けできるようなことではなかった。空想やそんな類の創作物さえ、ユウゴ自身耐え難い羞恥を覚える。しかしいざ自分がそのシチュエーションに陥ってみると、なんてことはない、醜いことだと心に留めながら、パチパチとした眩しい脳の刺激が、ゆうに彼の自制を失わせた。
ユウゴの目から見れば、ナギサはそれから、あえて美術館での一人行動を始めたように捉えられた。その行動に息を合わせるように、ユウゴも彼女に近付き声を掛けた。あの、すみません。ナギサは何も答えず、漆黒の瞳を、ユウゴの顔の左右に動かした。友人たちの目に触れてはいけない。それが言われずとも二人は通じ合うようで、さっと連絡先だけ交換し、美術館を後にすると、それからこっそりメッセージを送り合った。画面の中になれば、もう年齢や背格好は関係が無くなった。年代を介さない軽快なメッセージのやり取りは、ナギサの聡明さを明確に示し、そしてその聡明さは、ユウゴの自意識の年齢を歪ませた。ユウゴは青年に戻った。ナギサは数年ばかり歳を越えていた。
※
片目であると、物事を立体的に捉えられない。そういう話を見聞きして、立体的とはどういうことだろうかと思う。実際、生活には困っていない。例えばコップを倒すこともないし、駅の改札もすっと通れる。ただそうだと言われたなら、両目の世界とはどのようなものだろうかとも思う。立体的に見えるということは、今見えている世界よりも、もっと自分の周りがはっきりしているのだろうか。例えばもっと明るいのだろうか。もっと軽いのだろうか。もっと気持ちがいいものなのだろうか。目が半分なら、その分、今の人生は半分なのだろうか。嬉しさも悲しさも、幸福も不幸も、長さも密度も奥行きも、全部半分なのだろうか。
平面的、ということは、漫画みたいなことだろうか。世界を、漫画を読むみたいにしか捉えられないから、自分のことまで人ごとのように思ってしまうのだろうか。だから誰とでも、深く考えずに、すぐに了承してしまうのだろうか。恋人となって構わないと思ってしまうのだろうか。
10も年上の人と付き合うのは、確かに間違いだと思う。常識は分かっている。でも悠長にしてはいられない。
ユウゴを初めて見た時、この人なら丁度いいかもしれないと思った。若くもない。タイプでもない。でも悪そうでも、やかましそうでもない。動作は遅い。声が丸い。背は少し高く、柔らかいシャツを着て、色素は薄い。そのせいか、いつも不自然にライトが当たっている感じがする。それでいて存在感が薄い。いや、薄いというより立体感がない。平面的、と、片目で言うのは間違いかもしれないが、それこそ漫画の中、というか、ボール紙の等身大パネルが、美術館の廊下に置かれているような印象、というのが適切かもしれない。それのどこが丁度いいのだろうか。なんとなく、力勝負になれば勝てる感じがする。力いっぱい押せば、へなへなと曲がってしまいそうな感じがする。
ねえ、ナギサはどう。と友人の声に、廊下に突っ立つ彼から目を離した。友人と、恋の話をしている。なにも美術館に来てまでする話ではないように思うが、友人たちはいつどこに行っても、恋の話を持ち出す。ナギサは受験しないんでしょ。そう、受験はしない。クラスには専門学校に行く子も多い。就職する子もいる。しかし何もしないと決めている子は自分の他にいない。そんな進路の話にしたって、いつの間にか恋の話に繋がっていく。それは何も実物の男ばかりではない。次元を超え、距離を越え、彼女たちは恋をする。それはほとんど空想だ。しかし空想といっても、本気だった。いや、もしかすると本気ではないかもしれない。しかしそれでも、自分よりはいくらか本気だ。
悠長にいられないと思うのは、いつか、もう片方の目が見えなくなったとき、自分が知らない世界があってはいけないと思うからだ。真っ暗な世界に閉じ込められたとき、思い出せるものはできるだけ多い方がいい。記憶は平面的だ。写真のように並ぶだけだ。だから友人らが時間をかけて手にするものを、自分だけが取りこぼすのは、虫食いのアルバムを見つめるようでなんだか寂しい。同じ経験にしたって、半分しか得られないなら、その事実からどうしたって逃れられないのに、どうにかならないかとも思ってしまう。逃げてしまいたくなる。でも逃げられない。だから残された時間が惜しい。今はできるだけ多くの事を、口に入れ、手で触れ、頭に仕舞い込まなければならない。自分の、もう片方の目も見えなくなってしまう確率は、他の彼女たちよりも、高いように思う。一度、ハサミの落下を受けるというカードを引いてしまった以上、それはもう一度起こりうることなのだと、理屈抜きに、感触として分かる。
だからユウゴを見た時、丁度いいと思ったのかもしれない。彼は、押せば倒れてしまうぐらい薄っぺらい。自分も同様、男子のむせるような気持ちに応えられるほど、猶予も余裕もない。同級生のような、湿った、ぷりっとした肉感には耐えられない。もし彼女らの誰かが、ユウゴと付き合えば、彼は瞬く間に湿ってへなへなになってしまうだろう。だから丁度いいのだろう。自分なら彼を、薄く、浅いままに扱える。甘えたり寄りかかったりもしない。そんな薄っぺらい恋が、たくさんしたい。私たちは紙にだって恋ができるのだ。
※
伊東の古いクラシックホテルを選んだのは、生活圏から外れ、人目を避けやすかったからだった。ホテルは海辺の人里離れた場所にあり、館内だけで滞在がほぼ完結するように造られている。客の多くは併設のゴルフ場を目当てにした中高年で、真夏にはその数も減る。広い館内は散歩に向き、籠っていても飽きにくい。そしてなにより、照明が少なく、陰が濃かった。それは美術館に似ていた。美術館で脱がせるわけにもいかないだろう。その陰の中に置かれるナギサの姿を、ユウゴは見てみたいと思った。
彼女の四肢は特段目を見張る点があるわけではなかった。身長はあり、腕は長い。しかしその割に脚は短い。手足の肉付きは薄く、そのため骨の形ばかりで、肉体が描く滑らかな流線型は見られない。それでも、暴けるものなら暴いて見たかった。野外の日光の下ではなく、室内の薄明かりのもとで、美術館の観覧だけでは到達のできない、まだ知らぬ仏像や女神像の腹の中が、そこにあるのかもしれない。
通された部屋は、ランクが高くないためほとんどベッドが占めていた。こげ茶色の建具を基調として、電灯を点けなければ部屋全体がよく陰る。そしてレースカーテンの向こうの庭園がよく明るんでいる。その明るみにベッドのシーツが発光して見えた。
チェックイン後、ウェルカムサービスのケーキと飲み物を選びに、ユウゴはナギサをラウンジへ連れていった。
ガラス張りのラウンジは、日光にさらされていた。黄色く輝くゴルフコースの芝と、その先の海が見える。海は絵のようだった。景色と景色の間の、空白を埋めるためだけに置かれた絵具のようだ。ユウゴはメニュー表を見ながら、ナギサが口にできそうなものをいくつか挙げた。彼女はフルーツロールケーキとオレンジジュースを選んだ。ユウゴはコーラだけを注文した。ナギサがケーキを食べる間、彼は景色を見るしかなかった。窓の脇にはプールも見える。誰も泳いではいない。ふと店内が騒がしくなり、ポロシャツ姿の老年の男たちが、ぞろぞろと現れてくつろぎ始めた。
※
ケーキを食べて、甘いものが脳をめぐり、心臓をめぐり、幸福なのに、また遠くでいらいらしている。このいらいらのために、家に帰りたくなった。少なくとも同じ場所には留まりたくなくなった。強い風に吹かれてみたい。もしくは熱いシャワーでも浴びてみたい。ユウゴのコーラを少しもらって飲んだ。氷に薄まった、冷たい味がした。それからユウゴが部屋に戻ろうと席を立った。やはり、そう来るかと思った。
部屋はベッドが二つだけで、それ以外にほとんど何もない。ベッドの足元に座って、それから窓の外を見た。いつのまにか分厚いひつじ雲が流れてきて、太陽の光が隠れたり現れたりしている。見える景色は青や黄色に光るのと、くすんだ白とが交互だった。その空の手前に、これぞリゾート、と言わないばかりの、背の高い植物が植えられている。部屋の中はクーラーが効いて、これは夏の景色なのか冬の景色なのかと、とりとめのないことを思った。冬でもそのリゾート調の樹はあるはずだった。
ユウゴは何もせず、壁に背を寄せて立っていた。ベッドの足元と壁との、通るだけでいっぱいな、中途半端な空間だ。それは、いつでもベッドに倒れ込むことができる、そんな位置だった。彼の考えていることが分かる。ただホテルに来て、食事をして眠るだけではない。それは自分も分かって、ここに来ている。薄っぺらくていいのだ。ただ、見せかけだろうがリゾートのようなところに来て、した、という事実だけを作ればいい。
自分の服を見下ろした。白と水色の、細いストライプのワンピースを着てきた。街で着るには浮きそうだった。それでもいちおう、ホテルのイメージに合わせてきたつもりだった。実際、宿泊客のほとんどは、地味で実用的な服を着ていた。やはり浮いている。それでも似合っていた。ホテルの、エントランスの鏡に映したときに、自分は光って見えた。お嬢様のようだ。それも、いい育ち過ぎない、清潔で、いかにも無垢で、若いというだけの意味のお嬢様だ。これは今、今日しか着れない服だと思う。その裾を、片足だけたくし上げて見せた。白い膝とその上まで見える。自分でも綺麗だと思う。いらいらが強くなる。近付いてくる。ここでやめて帰りたくなった。何もかも止めたくなった。唾を吐いて、ガラスを割って、崖から海に飛び込みたくなった。上げた裾から、白い靴下とローファーまでが見えた。このローファーはユウゴに買ってもらったものだった。ユウゴは壁に背を預けたまま、たくし上げられた足を見下ろしている。なぜ来てしまったのだろう。そう思うと同時に、投げやりな欲求がある。それは経験や思い出以前に、もっと生身で、もっと昔に経験した、何かの感覚への欲求だった。
ユウゴはたくし上げられた片足を見て、率直にその奥を見てみたいと疼いた。今すぐにでも彼女に飛びつき、覆いかぶさってしまいたいという、別の欲求を覚えながら、それと同時に彼女の行動が、意のままにしていいという了承と捉え、欲求を抑えながら、静かに、彼女へ服を脱ぐよう言葉で頼んだ。その間、ユウゴは決して脱衣を手伝わないよう努めた。
下着を外すところまで見届け、続けてベッドに仰向けに横たわるよう指示をした。そうして彼女の体が白いシーツの上に置かれると、電灯の点けない部屋の中に、曇天の薄明かりから、彼女の体は、シーツと取って代わり、みるみる発光を始めた。
ユウゴの目には、彼女の体が一瞬、透明な空き瓶と重なって映った。目を凝らす。体は華奢で乳白色でありながら、全体にくすんだ黄みが掛かっている。髪から肩の輪郭を辿り下ると、唇と同じ色の乳首があり、さらに下ると、皮膚から浮き出て形の分かる骨盤があり、その中央には陰毛も見える。空き瓶を連想したのは、凹凸が少なく痩せた男のような体だからだろうか。色があるのに透明だと思ったのは、体の向こうに、外の景色が見えたからだった。ユウゴの目には、仰向けのナギサの裸体の先に、夏の景色が透けて見えていた。
ナギサの体の向こうにある夏の景色は、ただただ萌える緑だった。きらきらとした日差しを透かし、眩しく揺れている梢だった。ユウゴはその梢を潜っていくように、瞬間的な空想に落ちた。
ユウゴはゆっくりとその梢の中を滑空していた。やがて梢を抜けると、下には白い石畳の歩道が見え、続けて日差しにさらされた街灯やベンチなども見渡せた。彼は一度べちゃりと石畳に落下すると、弱った蝉のように、いまその梢を抜けて来たであろう一本の街路樹を仰向けに見上げた。それは枝葉を大きく広げた立派な樹だった。ユウゴは目を動かし周囲を見渡した。すると街路の先に黒い建物が見えた。美術館だと思った。ユウゴは幼児のようにおぼつかない手つきで起き上がると、やがて脊髄の感触を得て、真っ直ぐにたたずんだ。先に見える美術館は、現代の冷蔵庫のような外観をしていた。シックな色合いに艶消しの塗装。突起や凹凸は極力削られ、必要があれば表面のどこかが光り音を発する。足はそちらへ向かって動き出した。
ユウゴはナギサの体を見下ろし続けていた。体は依然として室内の陰にあり、同時にカーテンを通した室内の光の恩恵を受けている。それは美術館のような作為的な照明ではない。天然の明かりだ。しかし窓と陰を通すと、ガラスでラッピングしたかのように、彼女は空気や菌の浸食から隔離されている。観ていればいるほど、命の息吹がその体から切り払われ、残された光や形のみが、無慈悲なほど表に出ていた。その光が、彼女のどこから来るのだろう。ユウゴは息を飲み、皮膚を剥がさないばかりに、見つめ続けていた。
「来ないの」
と、静寂のうちに、ナギサの囁き声が聞こえた。ユウゴは視線を体からナギサの顔へ移した。その唇は力なく結ばれたままだった。一瞬、今のは、本当にナギサの声なのかと疑問が浮かんだ。それは彼女の声に違いなかった。しかし自分の背から発せられた音にも聞こえた。
ユウゴはそれから、どうしようかも分からず、ただ立ち尽くした。訳もなく冷や汗が出る。視界の陰が強まり、閉ざされていくような錯覚を覚えた。黒いガラス越しに横たわるような女の体を、少年のように、ただ見つめているしかなかった。
ナギサは裸のまま、ただ天井を仰いでいた。時間ばかりが過ぎている。間を埋めるように、窓に目を向けたい誘惑もあった。でも、見ても一緒だ。あいかわらずあの樹があるだけだ。そうしていると、やがて、ああ、何も起こらないのだと、わかってしまった。すると、あの近づいていたいらいらも、いつの間にか遠のき、眠る前のような静けさと安らぎが、ただ体を休めさせているようだった。いや、それはむしろ毎日の眠りよりも、随分心地が良かった。ただ見られている。なぜか落ち着く。ナギサはひとり、目を瞑った。
瞼の裏には、今いる部屋と同じ、陰の天井が見えた。そしてその天井には、銀色の鋏が浮いているのが見えた。それは刃を下にして、横たわるこちらへ向けられていた。釣り糸を柄に結び、吊り下げているような場景だった。
赤ん坊のころの記憶など、もうとうにない。それでもナギサは自分の片目を貫いた鋏の刃の感触を、まだ覚えているような気がした。どこかに残っているのだ。それは冷たく、鋭く、揺らぎない物質の感触だろう。自分はそれを知っている。その確かさを知っている。それに比べれば、今あるものなど、輪郭も重さも、足りないものだ。
いつのまにか、片目だけが開いていた。そこにあるのは頼りない光景だった。しかし光だった。