抽斗の釘

小説、散文、文章、短編

雷(いかづち)の信者

 野焼きの煙が市街まで流れ込んだ。駅前には焦げ臭い香りが漂う。空は雪曇りだった。

 街路樹の間には、一組の男女が立っていた。女は水色のフェルト帽を被り、同色のコート、丈の短いスカートに黒いブーツを履いている。そして長身、帽子の分、並ぶ男より高く見える。男の方は茶色のハンチング帽に同色の革ジャン、下はチェック柄のスラックスにマーチンのブーツだった。季節がら、これからウィンターソングでも披露しそうな雰囲気だったが、周囲に楽器の類はみられない。代わりに、二人の間には背の高いブックラックが置かれていた。差し込まれた冊子の表紙には外国人の家族が、陽だまりのリビングで笑顔を正面に向けている。明瞭な幸福の図だが、それが何の冊子なのか、一見では誰にも分かりそうにない。

 電車が人を降ろしたのだろう。往来の景色がにわかに忙しなくなった。しかし郊外の駅の午前のこと、降りる人もすぐにまばらになって散り、気まぐれな煙のように薄くなって消えていく。ゆらゆらと散る人影は、視界の端で彼らを捉えながら、目を合わせないように足早に通り過ぎていった。また、しかし大学生らしき二人組の男だけは、談笑を続けながらも横目で突っ立つ彼らを流し見ていく。彼らもまた、隣の、田子(でんこ)に惹かれるのだろう。得意そうに、蓼彦はひとつ大きなあくびを上げた。

 田子と蓼彦の目的は、冊子を必要とする人に手に取ってもらうことだった。しかし興味を持つ人は多くない。通りすがりの、ほんのわずかな時間ではなおさらである。一時間か、二時間に一人あればいい方で、半日立ってもまったく近寄られないこともある。しかし、蓼彦はそれでよかった。田子と並んで立つこの時間こそが至福、それだけで充足だった。誰からも避けられるというこの状況が、野天でありながら個室のようである。人通りの中でも二人きりである。そんな時間において、蓼彦は度々田子の横顔を盗み見た。アジアの南国を思わせるその横顔は、見ているだけでうっとりとする。中でも角膜が小さく結膜の部分が大きい白目勝ちな鋭い目つきが、得も言われぬ磁力を帯びていた。その謎めいた力に、蓼彦は引き付けられた。

 しかし時には、そうやって盗み見する蓼彦に、田子の方も気が付くらしい。

「何見てんだよ」

彼女はいつも唾を吐かないばかりに言い捨てる。蓼彦は耳を赤らめ薄ら笑いを浮かべるだけだった。

 冊子の配置場所は日によって変えた。多くは人通りのある駅前を選んだ。できるだけ多くの人の目に触れるため、そして無用な軋轢を避けるためである。細い道はいさかいが起こりやすい。人の目に着きながら、通行の邪魔にならない場所を選ばなければならない。適切な場所を求め転々とし、時には厳しい天候にもさいなまれる。だがそれだけ苦慮したところで苦情がでないわけでもない。理不尽な言い様で彼らを排除せんとする輩も度々は現れる。が、彼らの活動は信教や表現の自由といった憲法に守られていた。理は、正義は、こちらにあった。そして、そういった国民の法規は、田子の信条にとっても親和性が高かった。

 田子の信条は明瞭である。

「我々は蛆虫である。」

これには細かいこだわりがあった。決して「私は」ではなく「我々は」といった点である。「我々」とは人間、もしくは社会そのものを指すのだろう。蛆虫とはつまり、畜生だとか餓鬼だとかを含めた、卑小さの総称を示すのだろう。いずれにせよ我々は蛆虫であるから、例えば一般的に尊厳が損なわれるような場面にさらされても、田子なら、たいてい平気な顔をしてやりすごす。

 それは例えば、階段の下からスカートの中を見られるようなときにも適用される。下着を覗かれるのは、通常なら尊厳の侵害とみなされるだろう。尊厳とはすなわち自由の有無で、下着を覗かれる恐れがあっては、短いスカートを履く自由を損なわれることになる。誰も許可なく下着を覗かれたくはない。そのため下着を覗かれないように、スカートをやめたり裾を抑えたりと、何かの制限を強いられる。何より覗かれているという心的な苦痛は、それだけで健全な心情、心情の自由を侵害していると言えるだろう。また、覗く方ももし下着を覗きたければ許可を得なければいけない。不意に覗いてしまいそうな場面に当たったとすれば、顔を逸らして覗かないようにしなければならない。

 しかし田子にとってはその通りではない。田子にとっては下着を見られたからといって所詮それは蛆虫の下着である。また、覗く方も蛆虫である。そのため、田子にとっては虫同士の視線の交換に過ぎず、糾弾するような行動の必要はない。短いスカートを履いているのだから、上に登れば見えるのが自然だろう。といった具合で、つまり、自尊のハードルを下げて得る自由である。

 ただ、相手も同様に蛆虫であるから、田子にとって目障りであれば、彼女のほうから容赦なく踏みつぶすこともある。酔っ払いが道に寝ていれば、文字通りわざわざ股間を踏みつぶして通るし、何ならその苦しみ悶えている者の財布を、平気な顔で抜き取って行く。また、男にしつこく言い寄られれば躊躇なく煙草の火を押し当て、二本の指で目つぶしもお見舞いする。パチンコでは当然のように人のドル箱を盗み、コンビニではアイスコーヒーの代金でアイスカフェラテを淹れて飲んだ。野良猫が寄れば蹴り、店前に繋がれた犬がいれば縄を解く。葬式で歌い、婚式ではいびきをかいて眠った。飲み屋の会計は人を置いて逃げ、逆に逃げられれば自分も逃げる。つまり、スカートの中を覗かれても、平気な顔をしている。が、その平気な顔のまま後ろ蹴りをくらわし、階段から落としもする。田子は人をあまり人と思わない。田子は人をさげすみ、自分もさげすんだ。そのため、友人は一人も残らず、家族の影もない。恋人と呼べるものも当然いない。住処もどこだか、知れなかった。

 こういった田子にとって、細かく言えば、冊子の配置場所に配慮することも彼女の信条にはそぐわない。わざわざ道を選んだり、公的機関に届け出したりするなどは、信条の自由を他に伺うということになる。のであるが、しかし「蛆虫」という譲歩があった。道の端に這う蛆虫をわざわざ踏みつぶしに寄る人は少ない。実際がそうであった。誰もわざわざ彼らに近付かない。しかし人々に避けられる活動をするのは、田子のみならず蓼彦さえも気分が良いものだった。人々が干渉してこない自由が、心地よかった。人々は、蛆虫が何をしようとも気に留めないのだ。しかし、蛆虫が道に這うのを知れば、中にはあえて踏みつけようとする者もいる。蛆虫に気が付くのは、蛆虫に他ならない。目線が同じなのだ。

「通行の邪魔だ」と難癖をつける輩にたいして、田子はいつも間髪許さず「蛆虫野郎、踏みつぶすぞ」と激高し、ブックラックを蹴り倒してみせる。華麗な、迷いない回し蹴りだ。ブックラックは音を立てて倒れ、冊子は宙に舞って散らばる。難癖をつける輩は面食らって逃げていく。それがもしすぐに逃げなくても、彼らは地面に散らばっている冊子を見て、もれなく帰っていく。冊子のいくらかは中を開いて上向いている。冊子の中身は白紙なのである。いよいよ訳が分からなくなる。行動の真意が失われると、その場に残るのは田子の眼差しだけになる。彼女の行動の真意が抵抗ではなく、自分に向けられた傷害の意思のみであると察する。この女は正気でないと分かる。

 正気でないことへの信教と、その表現。他人にはそう映るだろう。それもこれもただ身勝手なだけなのだが、それをどう信じたって自由である。それはひとえに社会も自分も蛆虫であるからといった信条による、すてばちな彼女自身の現れであった。

 これらはおおむね大変危険な行動で、蓼彦は、いつか田子が報復を受けたり捕まったりするのではと冷や冷やしていた。しかし田子は、心配する蓼彦に時折言った。

「もし乱暴されたらそいつをすぐに絶対に殺す。確実に殺す。服役になってもいい。それが蛆虫の一生だから」

その決意に満ちた信条は、おのずと田子の表層や目に現れるのだろう。ピリピリとした空気は自然と危険な男たちを退けさせたのかもしれない。幸い、ひどい目に遭ったという話は聞かなかった。しかしもしかすると言わないだけかもしれない。なぜなら田子はいつも、ポケットやハンドバックに複数のペティナイフを忍ばせていた。ついぞそれを使うところをこれまで見ずに済んでいたが、ただ一度だけ、蓼彦の小言があまりにも多かった時には、稲妻のように素早くナイフを抜き、首筋に突き立てられたことがあった。

「空手を習っていた」

田子は冗談のように笑う。蓼彦は空手にナイフの動きなどあるのかしらと苦笑いしながら、あまりにも躊躇ないその動きを信用せざるを得なかった。田子はどの人間に相対しても、いつでもナイフが抜けるように心がけているのだ。その動きを支え助けるのが、「我々は蛆虫である」という信条だった。

 駅前の往来は消え去り、再び長閑となった。田子も、何も起こらなければ静かにたたずむだけである。駅前を囲む背の低いビルの向こうからは、車の走行音や遠い工事の音が聞こえた。駅の壁の向こうでは、電子アナウンスが幻聴のように響いている。そこへ静かに、田子が口を開いた。

「ねえ、昨日の人。どうだった」

「昨日?」

「喜んでたオバサン」

「ああ」

昨日、冊子に興味を持つ数少ない内の一人として、小柄な老年の女性が冊子を手に取った。女性ははじめ、中身が白紙の冊子に難色を示したが、すぐに、雲間からの薄明光線を受けたかのような晴れやかな表情を浮かべた。女性は興奮をみせながらいろいろと喋りたてたが、

「謙虚、あまりにも謙虚だわ」

と、要約するとそんなことを、涙を浮かべないばかりに訴えた。

 冊子を手に取る者の半分は怪訝な顔をして去っていく。が、残りの、さらに半分は面白がり、もう半分はこの女性のように感動して帰っていく。そして、彼らはなぜか田子に対して畏敬を示し、拝んだり祈ったりして帰っていくのである。その度に蓼彦は不思議な感覚を覚える。

 まるで、世間にはまだ明言されていない信仰や、名付けられていない心情が残されていて、人はそれを認知できずに心のどこかに抱え込んでいるように思える。それは、まだ誰も言葉にできていないもので、確かな形をしていない。そんな空洞にも影にも似た不明瞭の穴を心に持つ人が、一定数世間にはひそんでいて、誰にもそのことを共有できないでいる。しかしこうして、白紙の経典と田子を前にしたとき、閉ざされていた通路が一挙に繋がるかのように、心にある、その不明瞭な穴の存在を認知し、それがどこか、大きなものに通じるようで、涙を流す。

 穴は埋めるものではない。どこか遠くへ行く通路ならば。その行く先を示すのが白紙なのか。我々の言葉ではとても言い表すに及ばない場所なのか。蓼彦は信者を前にすると、時にそんな陶酔したような思考に陥る。

 昨日の女性もそうだった。謙虚だと涙を浮かべ、そして田子を見てハッとする。

「あまりにも……」

そう言って、田子の前で手を結び目を閉じる。まるで開かれた扉から後光を浴びるように。体を丸め、穴の中へ沈んでいくように。

 果たして彼らは何を見たのだろうか。田子と蓼彦の活動はその場限りのものであるから、集会や教会というものを持たない。しかしだからこそ、迷える彼らはそれにすらも納得して帰っていく。まるで体内に、田子から譲り受けた磁針を得たかのように、それだけで彼らは満足して去る。それを証明するように、二度と同じ人間が近寄ることはなかった。彼らは田子の針の他に、もう何も求めることがないようだった。対する田子も、そんな彼らに対して特段反応は見せなかった。仁王立ちのまま、信者ともいえる彼らを見下ろすだけである。

終始そのようであったから、田子が過去の人間を気にするというのも珍しいことだった。

「喜んでたね」

「あのオバサン、幸せになれるといいね」

田子の様子は妙だった。いつもの鋭さは薄れ、人の親のような温かさすら感じる。彼女は異様な雰囲気のまま続けた。

「ねえ、蓼彦。手伝ってほしいことがあるんだけど」

「なに」

「殺したいひとがいるの」

「殺したい?」

蓼彦は少なからず驚いた。田子なら、相談する前にもう手が出ている。手伝うということは、彼女らしくない計画性、慎重さを思わせる。

「私はもう、こうやってここに来ないかもしれないから」

蓼彦は田子の横顔を見た。変わらず美しい目であった。その目に惹起され、蓼彦は未だここにいる。そうすれば蓼彦もひとりの信者に違いないのだが、唯一、田子から去らない人として、彼女は少なからず蓼彦に親しみを覚えたのかもしれない。蓼彦にとっては横にいるだけで最良なのだが、協力を仰がれたとあれば、これ以上ない果報でもある。しかし、聞き捨てはならなかった。彼女のもう、ここに来ないという言葉は、蓼彦の不安を煽った。蓼彦にとってはもうどこにだって着いていく所存である。捨てられたくはない。彼女の横を、失いたくない。

「じゃあ、今度はどこに行くの」

「かえるの」

「ああ、そりゃあ、もうすぐ帰るけど」

「お月様」

と言って、田子は上空を指さした。不意な答えに蓼彦は戸惑ったが、それが何か性的な例えなのだと勘ぐり、新しい男でもできたのだと、苦笑いに俯いた。

 その晩、蓼彦は田子と、ある工業地帯の外れで落ち合った。

 広い車道は街灯があっても仄暗く、深夜とあって人通りもまるでない。天気は明朝にかけて荒れる予報で、風が強く吹いていた。空を見上げれば、陰影すらない八重雲がひしめき、遠近は掴めない。ただ空の低いところに、高架道路の光の列が、不知火のようにして伸びるのが見えた。

 蓼彦は田子の隣に歩きながら、さほど必要性もないが、どこに行くかを尋ねた。田子はパンツスタイルのブラックスーツを着ていた。伸縮性のよい細身のもので、彼女のしなやかな痩身がよく現れている。が、その躰も陰になった建物の黒色に隠れがちだった。運輸、工業、加工、冷機、機工、産業、紙業。そういった銀の表札の前をいくつも通り過ぎていった。

「電飾工場」

意識を集中させているのか、だいぶ経ってから田子が答えた。その声はいつもに増してそっけなかった。

 計画は簡単だった。田子がひとりで建物の中に入り、眠る標的を始末する。蓼彦は敷地の入り口で見張りを行う。簡単な事である。

 角を曲がると、道の奥がほんのりと明るくなった。そこに近づくにつれ、光は強い色彩となり、向かいの塀や道を照らしている。白、青、赤、緑と色彩は変わり、または混ざり、目の奥から頭が冴えるような心地だった。道の奥は突き当りとなって、それから左右に伸びている。突き当りは腰ほどの高さの塀で作られていた。

 敷地の入口に立つと壮観だった。二階建ての工場の、屋上から扇状に電飾が下げられている。おそらくクリスマスツリーを模したもので、光は緑、青と、せわしなく色を変えた。その足元には小人や動物の光る模型、壁には星や氷晶などを形どった電飾が、いっぱいに取り付けられている。沈黙する工業地帯は眠るようだが、そこだけは、周囲の地域とは別由来のエネルギーを得ているように、力強く発光し、テーマパークのように異質であった。蓼彦は悪魔祓いを受けたようにその光に押され、たじろいだ。

「逃げるときは」

田子が口を切る。

「逃げるときはあっちからね」

と、指さした方は、来た道でなく突き当りの方だった。

「あっちって、どっち」

蓼彦は左右、指を動かした。

「ちがう。真っ直ぐ、あの塀を越えて川から」

「越えて? どうして」

わざわざ川から。蓼彦は聞いた。

「道じゃないところがいい。逃げるときは」

「来た道を戻ると、また追手がかかる」

「裏道を行く」

田子は虚ろに繰り返し呟いた。その様子に、蓼彦は彼女の知り得ない部分を垣間見た気がした。非道を行う時、彼女はいつもそうやって自身に言い聞かせてきたのだろうか。奮い立たせて邪道を進んで来たのだろうか。蓼彦は口をつぐんだ。

「じゃ、計画通りに」

田子はそう言うと、怖気づく蓼彦を残し中へと入っていった。

 緊張か、時間の感覚は失われていた。蓼彦は立て続けに煙草に火を付けた。強風が吹き続け、風ばかりが口に入って、いくら吸っても、まるで体に穴が空いたように、煙を肺に入れた気にならなかった。今にも人が死ぬ。一人の人間の長く重たい人生が、田子の一閃によって閉ざされる。そのあっけなさが、蓼彦を感傷的にさせた。それと同時に、「田子」の持つ全能感に浮足立った。それが堪らなく、蓼彦は足踏みしたり飛び跳ねたりして興奮を外へ逃した。

 やにわに、空のどこかで低い音が鳴った。旅客機か、厚い風の音なのか。音のする、遠くを探した。雲の裏側が光り、その不定形な影が浮かんだ。じきに、雨が来そうだ。蓼彦は工場を顧みた。今頃、田子はナイフを抜いているのだろうか。刃物のきらめきが、雲の裏側の閃光に重なった。田子の影が暗闇に紛れながら、眠る者の喉元に近付き、一息に腕を振り下ろす。夢か、空想か、しかし蓼彦にはその様子が目にありありと映り、壁から透けて見えるようだった。

 と、深く長い轟音が頭上で鳴った。空気が震え、そこらじゅうの塀や道がビリビリと揺れた。工場の電飾が一度、強く閃く。同時に空気が弾けるような音がして、電飾の光は一息に途絶えた。暗闇となる。そこへ、遠く慌ただしい足音とともに、扉の開く音が続いた。駆けてきた。田子であった。蓼彦は反射的に尋ねた。

「やれたの」

田子は険しい目で言い捨てた。

「うん。」

そして田子は立ちすくむ蓼彦を強く小突き、促した。

「ぼやっとすんな。」

二人は言い合わせた通り道の突き当りへ走った。塀に手を着き見下ろすと、眼下に人工の川が流れている。

「飛んで」

「えっ」

川に沿って、道のように高水敷が作られている。塀からの高さは二メートルもなさそうだが、暗がりに、飛び降りるにはためらわれる。着地点が定かでない。重心を崩せばよろけて川にも落ちそうだった。

「早く」

「でも」

「飛べよ」

と、激され、蓼彦は塀を跨ぎ、飛び降りた。思うよりも早くに地へ足が着き、尻もちをつく。が、痛む暇もなく、上を見上げた。

「田子」

声を出せば、ある程度の距離もつかめる。そんな咄嗟の配慮だが、名前を呼びきらない内に、田子の影が上空に舞った。ジャケットがたなびき、夜空に飛膜を広げるムササビのような影が広がる。しかしそれも一瞬間のこと、黒い影は瞬きよりも速く、雷のように打ち下りた。靴裏の音が、銃声のように壁や川面の奥へと響き渡った。

 蓼彦は、見えない速さに打たれ、息を飲んだ。屈んだ田子が顔を上げる。笑っていた。満面の笑みであった。

 二人は人工川に沿って走った。蓼彦は息を弾ませながら尋ねた。

「ところで、誰を殺したの」

田子は正面を見据えたまま言い捨てた。

「女神様。」

田子はもうニコリともしない。暗がりに彼女の白目が光って見えた。

「女神様って?」

蓼彦の問いかけに、田子は答えない。

「ねえ、また明日、ここに来て」

「どうして」

「ちゃんと死んでいるか、見届けないと」

息の根を止めたなら、行動を起こした瞬間にわかるものだろう。田子の言う真意は、分からない。が、田子はそれより黙ったきり、蓼彦もそれと聞けず、二人はただ夜の中を走っていった。幸い、追手の姿は見えなかった。

 翌日の遅い朝、蓼彦は昨日とは別の駅前に立っていた。無論、昨晩の寝つきは悪く、眠りは浅かった。

 夢を見た。田子が寝間着姿で、おやすみと言う夢である。冬を越すため、穴に還り千年眠ると言う。蓼彦は手伝うと言って、足元を掻き出した。が、田子はそれを笑う。あっちだと言って、空を指さす。冬の月が、南中している。あそこまで、どうやって行くんだと蓼彦は聞いた。すると田子は、やっと通ったんだと言って、蓼彦に飛びかかり、腹に顔をうずめた。蓼彦は意を決し、抱きしめようとする。しかし手ごたえは無い。何か言い訳をしようとして、夢は覚めた。

 昼前になっても田子は現れなかった。てっきり、いつも通りの活動を終えてから、夜にあの電飾工場へ向かう腹だったが、行き違いとなったのだろう。田子が言う「明日来て」という言葉は日のあるうちだったか。と眉を寄せつつ、また、「もうここに来ないかもしれない」という不吉じみた予言も過った。その不吉さは、いくら連絡を入れても反応しない手元の画面からも漂っていた。蓼彦は早々にブックラックを自宅に片付けると、急いで工場へと向かった。

 工場地帯は年の暮れとあってか、昼下がりでも閑散としていた。まるで人間だけが緊急に避難し、建物だけが打ち捨てられ残されたようだった。工業地帯外の音は中まで届かず、遠くの高架道路も、多足類が上向いて死んだように、道路照明の脚が空へ向くだけ、光は灯されていない。

 くだんの工場も沈黙していた。屋上から垂らされた電飾も、蜘蛛の巣のようなただの縄で、形作られた星などはさながら大型の虫のようだった。周囲にも、田子の姿は見当たらない。腹には不吉な予感が疼き続けた。田子がもしひとりで来たとすれば、異変に気付いた工場の者や警察に取り押さえられたとすれば。そう思えば、蓼彦はただ指をくわえて待つわけにはいかなかった。状況を把握したい。これまでの不安が蓄積していた。彼女のそばを、失う恐れが、彼の足をただ動かした。蓼彦は、工場内へ踏み入った。

 アルミ製の扉を開けると、内は半ば吹き抜けとなっていた。すぐに天井が見通せ、並ぶ天窓からは外光が入り、工場内を仄明るくしていた。作業台がいくつかある。それは学校にあった電動のこぎりのようなもので、五、六台が規則的に並んでいた。それが今も動くのか、それとも廃れてしまっているのか、全体的に薄汚れていて、一見では分からなかった。そして、田子やその他の人影も、中には見当たらなかった。

 工場内の、作業台の影や機械の裏側を、くまなく歩いて探す勇気は、蓼彦には湧いてこなかった。何か不吉な感じがするのである。代わりに、入った右手に、階段があるのを見つけた。アルミ製の階段は白銀に光り、他よりはまだ清潔そうである。吹き抜けの一角にだけ、二階の部屋が作られているらしい。その方にはまだ、人が通るようにできていそうだった。蓼彦は怖気立ちながらも、その階段を登っていった。

 再び、アルミ製の扉を開けた。おそらく事務所の用途らしく、デスクや革製のソファがまず目に入った。ここも、すりガラスから外光が入って、ぼやけた光が漂っている。踏み入ると、床がぎしりと音を立てた。それに呼応するように、壁や、天井がぱち、ぽきと家鳴りを始めた。音は上、横と、鳴りながら、徐々に入り口から遠のくようだった。蓼彦は自然とその音を目で追った。音は部屋の奥に続いて行った。そして視線を手引くように、一か所へ集約していった。

 蓼彦は部屋の奥に、ベビーベッドのような、背の高い檻を見た。そこへゆっくりと忍び寄る。部屋には誰の息遣いもない。ただ、その檻の中のものが、蓼彦の一切の集中を引き寄せていた。

 檻は天井部分がない。古いバスタオルが幾重にも敷かれ、鳥の巣のような窪みを作っている。バスタオルの幼い柄、ピンクの熊や黄色い鳥が、不衛生な液体に汚れ、所々固まりけば立っていた。こういった細部をまず見ていたのは、その檻の中心、巣の上に置かれたものから目を逸らしたいという蓼彦の本能的な忌避のためだった。蓼彦はその、巣の上のものをやっと見た。しばらく呼吸を拒むように、胸が、胃が、上ずる。気味が悪かった。それは、ラグビーボールほどの大きさの、クモとモグラを混ぜたような獣だった。

 しかし獣といっても、動きそうにはない。ゆえに、楕円形のただの毛の塊のようにも見える。毛の下にはうろこ状の堅そうな外殻があり、頭部も臀部も特徴がなく判別はつかない。ただ四本の細長い四肢が力なく伸びてしな垂れ、その先に、猛禽のような鉤爪が二本ずつ揃っている。そして、動きそうにないと分かったのは、その中心に、上からナイフが突き立てられていたためである。ナイフは、田子のペティナイフに違いなかった。

 獣には、ナイフの他に電極がいくつか、直接差し込まれていた。そのコードが四方に伸び、計測器だろうか、目盛りの付いた窓のある、大きな機械へと繋がっている。目盛りの針は息絶えたように端へ倒れていた。

「女神様。」

田子の声が思い出され、蓼彦は足の力が抜けた。動きそうにないものが孕む恐怖は、動くかもしれないという可能性である。それが女神と呼ばれるものなら、一刻も早くこの場から逃れなければならない。そう感じるが、募った不吉が思いもよらない形で目の前に現れ、それが瞬時には理解しがたいものであるためか、靴の裏が、電磁石のように床に張り付いて動かせない。目も、その獣のようなものから離せなかった。

 電極が繋がれているならば、この獣は何かしらの計測を行われていたのか。蓼彦の頭では、昨晩のこの部屋での出来事が繰り返されていた。田子が闇に忍びこの獣に近付く。一息にナイフを突き立てる。ばちりと電撃が走り、過電流が起こる。電飾が、一息に弾けた。

 この獣は、電気を生んでいたのだろうか。昨晩の、異様なほど強い電飾の光が、この女神の生命力によるものなのだろうか。

 蓼彦の腕が、微かに痙攣を始めた。痛みは無い。だが、意思とは別に筋肉が伸縮している。意思にはない動き。蓼彦は恐れを感じた。体の自由を侵される恐れである。手が自然と持ち上がった。その手は獣と、そして刺さっているナイフに導かれるような気がした。

 駄目だ。ナイフに触れてはいけない。加担か、救済か、それがどちらだとしても、これにかかわってはいけない。ぐっと、恐怖にまかせ腹に力を入れると、足が動いた。蓼彦は縄を切られたようにその場に尻もちをついた。

「田子だ。田子に会わないと」

これが何ものなのか。そして何が行われているのか。不可解ばかりだが、それらすべてを含めても、ただ彼女に会いたくなった。彼女のそばにいられれば、間違いも、異様でも、何も問題はない。何も取るにたらない。全ては蛆虫で、これまで通りだった。

 どん、と、家鳴りが起こる。部屋の奥に、また、鉄製の扉がある。すりガラスと並んであるから、扉を開ければすぐに外のはずだった。つまり、床の無い、続きのない扉である。開けて進めばそのまま二階から落ちるだろう。しかし、田子がいるとすれば、その先だった。そんな直感に似た期待に、蓼彦は痙攣する体を起こし、扉を開けた。

 落下するおそれを思いながら、ゆっくりと開けると、鉄板作りの踊り場があった。非常階段のような造りだが、降りる階段は無い。上に、続くだけである。蓼彦は迷わず、屋上へ向かった。

 空は晴天だったが、遠く高架道路の向こうは早くも赤らみはじめていた。屋上は、塀も柵もない、ただの平面だった。そして、無人であった。ただ、平面の上には一脚のデッキチェアが設けられていた。帆布が張られ、雨ざらしになっているのだろうが、目立つ汚れはなく、綺麗な白色をしていた。

 蓼彦は不思議と、そこに田子が身を預けているような光が見えた。はっきりとではないが、まるで幽霊のように、ぼんやりとした姿が浮かぶ。蓼彦は、その幻影に重なるように、腰を下ろした。ぎゅうと布の締まる音がする。頭を帆布に預けた。顔が上を向く。トランクを引き開いたかのように、空が頭上へ広がった。白紙の冊子を思い出した。冊子もこのような気持ちか。地から見るのは空のみだった。ただ、今は何も無いわけではない。空には昼の月があった。光が透るような、煙を集めたような、薄く、頼りない白紙のような月だった。

 満月を迎えるのだろう。昼の月は欠けるところがない。まだ空の低いところにあるが、じきに日が暮れ始めると、それはまばゆく色づくのだろう。光るのだろう。

 蓼彦には、徐々にではあるが恐怖が消えつつあった。なぜならまっすぐ来たからだ。田子の言葉を借りるのであれば、まだ、来た道を引き返していない。ここまで追ってくるものは、しばらくはいないだろう。

 月を見て、惑星の、不安定さを考えた。頭上にただひとつ円があれば、それがいつか落ちてくる恐れを抱いても、不思議ないように思う。この透明な月が、落ちてくればどうだろう。絶妙な引力の上にこの関係は成り立っているはずだ。それが崩れた時、月は、ここから見れば落ちてくるように見えるのだろう。これだけ小さく見えるものが、徐々に、そして限りなく速く、巨大になって、迫ってくる。ひらりと、上から飛び降りてくるように。我々は、蛆虫のように潰される。

 田子は、どこへ消えたのだろう。いや、もともとここで出会えるはずではなかったのかもしれない。所詮蛆虫との約束である。すっぽかされたのか、もしくは来ていたが、もう帰ってしまったのか。どこに。彼女に帰るところなど、この地上にあるのだろうか。

 蓼彦は昼の月を眺め続けた。晴天には雨雲一つない。しかし、薄い月のまわりで雷鳴が聞こえた。ごろごろと、何もない空に雷は鳴る。腹のそこで共鳴する。昼の月は水色を纏っている。(了)