抽斗の釘

小説、散文、文章、短編

蟷螂

 

 亮平は大学に向かうべく地下鉄に乗り込んだ。

 昼前の時間であるのに、車内はまずまず混んでいて、席は座れないほど埋まっていた。そこには彼と同じような学生をはじめ、他は仕事だろうか、スーツ姿の大人もちらほらと姿が見える。彼はふわりと車両内を見渡したのち、同い年ぐらいに見える白いダウンコートの女性を端の座席に見つけると、その前のつり革に漫然とぶら下がった。

 電車はホームを抜けると、すぐに車両の窓へトンネルの内部を映し出した。重ねてその黒い車窓に、車両内の風景、そして亮平自身の姿を重ね映した。映る自分は、自分が思っていたよりも野暮ったく見えて、さっと、目をそらした。

 すぐに電車は次の駅へ停車し、また幾人かの乗客が車両へと入ってきた。座席同様、新規の乗客たちにつり革も埋まり始めた。亮平は人の波に押され、ダウンコートの女性の前から、閉じている方の扉へと避難した。

 再び電車は動き出した。亮平は扉の窓に背をつけ、混みつつある車両内を眺めた。乗客はみな連れ合いがいない様子で、誰しも顔を合わせて会話することなく、ただ手元の携帯電話や文庫本などに目を落としている。みな示し合わせたようにきれいにつり革につかまり、通路を開け並んでいる。

「……なお、車内での通話はご遠慮ください……」

亮平は退屈そうに眼を細めると、窓に背をつけたまま体を横に滑らし、扉の脇の手すりへと肩を預けようとした。

「あっ」

するとつり革の方で声が上がった。反射的に顔を向けると、見知らぬスーツの男が腕を亮平に伸ばしていた。そのまま男の腕は亮平の腕をつかんだ。亮平は反射的に手すりにもたれるのを止め、腕をつかむ男の手を見た。

何をされたのだろうか。と、思う間に、男の手を見る同じ視界、腕の脇の銀の手すりに、薄緑が映った。それは小さな蟷螂だった。蟷螂が手すりに付いている。それは、なめらかな鉄の上、滑り落ちることもなく、下方に向かい垂直に動いていた。

亮平の腕をつかむ男の手はすぐにほどかれた。亮平は咄嗟に男の顔を見る。スーツの男は少し申し訳なさそうな顔をしながら、目も合わせず、小さくお辞儀をした。

「あ、」

と、亮平もこぼして、小さくお辞儀を返した。助けたのだと思った。しかし男は何も言わず、下を向くばかりだった。亮平はちょっと体を揺らしたのち、くるりと体を返すと扉窓に張り付き、地下道の黒い壁を、見るともなく眺め続けた。

 

それから何事もなかったかのように、車両内は車輪の音だけが鳴る静けさへと戻った。そしてガタガタと大きな音を立てたかと思うと、風景は一息に、河を渡る鉄橋の上へと駆け上がった。秋口の水彩のような青空と、青銅に似たなめらかな大河の水面と、その両岸には黄色がかった枯草の河原が伸びている。それらは数秒ののち流れると、すぐに都会の風景へと移り変わり始めた。

 亮平は過ぎ行く河原を眺めながら、小学生のころを思い出していた。

 汚れるのも、寒さも気にせず、友人とともに雑木に立ち入り蟷螂を探した。蟷螂は少し歩けば容易に見つかった。そして容易にそれを素手でつかみ、捕まえた。

 捕まえたものの大きさを比べ競った。亮平が一等になることは、ついになかった。大きくて力強いのは雌だった。区別などの知識はないから、大きければ雌だと決めつけ、友人たちは仲間の目を集めた。雌は同じ蟷螂でも雄を食うと噂しあった。知っていても、何度もそれを口にした。亮平は小さくてか細い雄しか、捕まえることができなかった。亮平はそれからを覚えていない。捕まえて、すぐに逃がしたのだろうか。大きな雌を捕まえた友人たちは、それからどうしたのだろうか。

 

 電車は速度を緩めた。直に次の駅に停まるらしい。亮平は思い出したかのように、自分のすぐ脇の手すりを見た。しかし蟷螂の姿は消えていた。自然と目は、車両内に蟷螂の薄緑を探した。と、車内の床、通路の中央に、小さく、てこてこと歩いているのを見つけた。

 電車は駅に到着した。扉が開くと、車内の人々がホームに向かい動き始めた。

 亮平は顔を上げて周囲を見た。蟷螂に気付き避ける人もいたが、半ばは気づかず足を動かしているらしい。亮平は無意識に、先ほど自分の腕をつかんだスーツの男を見た。男もその駅で降りるらしい。体を出口に向け、降りる集団へ体を預けようとしている。男のすぐ前には白いダウンコートの女性もいる。

 男は蟷螂を見ていた。当然、踏まれるかもしれない危険にも気が付いているだろう。が、男は蟷螂を一瞥すると顔を正面へ向け、出口へと向かう女の後に続いた。

 蟷螂は雑踏に埋もれて見えなくなった。亮平は蟷螂のつぶれる姿を想像した。いやな様子だと思った。

 亮平は扉窓にもたれた体を返し、再び車窓の外を見た。耳には人々が入れ替わる気配が伝わっていた。ホームのベルが鳴る。閉まる音がする。亮平の目に映るのは、向かいのホームにたたずむ、人々の流れる姿だけだった。彼はそこに知り合いの姿を探した。