夕暮れの鉄橋を電車が走り抜けていく。
落陽は西空から車両の脇腹を照らし、銀の車体や薄緑の橋の支柱、そして河川の水面なども所々白く瞬いていた。
その斜光は車窓からも入り、乗客の顔や胸を一様に杏色へと変えていた。ただ、年末のことであるから車内の様子は普段と異なり、学生などのにぎやかな声はない。座席に沈む人々は木々に休む鳥のように皆並んでくつろぎ、たそがれの安らかなひと時を思い思いに過ごしている。
コートの毛くずをひろう人、マフラーを口元に上げる人、髪先のほつれを直す人。歳、恰好もまばらである彼らだが、年末の休みに出かけねばならない用事があったことだけは全員に共通していた。百貨店の紙袋を抱える婦人。野球帽を目深く被る老君。パソコンを膝に景色を眺めるスーツの男。コートのポケットに両手を温め眠る青年。ひび割れた指先を見つめる防寒ジャケットの男。ただ小さく膝を揃えて目を瞑る老女。桃色のキャリーバッグを足で支える女。皆、ようやく各々の用事を終え、ひとまずそれぞれの駅に着くまでやることはない。安堵しゆらりとしている。車内は程よく空き、乗客は皆座ることができていた。誰も話さない。
もし、このまま静かに橋が溶け、川中へ車両が滑り落ちたとしても、乗客は誰一人気が付かず、成り行きにまかせるかもしれない。それほどに穏やかな、誰も彼もひとりの車内であった。
その中に、唯一連れ合いの、一組の若者たちがいた。彼らも他と同様に肩を並べ、ロングシートの真ん中で身を寄せうつらうつらとしている。なぜ彼らが二人組であると分かるのか。それは二人とも、同じような格好をしているからであった。
ひとりは痩身長躯で、もうひとりは二回りほど小柄。長躯の方はうっとりとしながらも首を伸ばしたまま、目を開け窓の外を見るともなく眺めている。小柄な方は隣の長躯に成り行きを任せているようで、くったりと、額を下げ電車の揺れるまま頭を上下にしている。
その、小柄の方は、遠目には少女のようにも少年のようにも見えた。髪は耳までで切られて短く、伏せるまつ毛は豊富で長い。何よりネルシャツの襟から伸びる艶のある白いもちのような肌が、首から頬にかけて夕日を反射して光り、その眩しさが妖艶な肉感を含んでいた。しかし一般的な美形の類でなく、それはつまり幼さゆえの中性さであった。悪く言えば野暮ったい。それが女にせよ男にせよ、締まりのないもち肌がともかく子供じみていた。それも決して聡明ではない、裕福な家の子のような、そんな緩慢さがあった。
一方長躯の方は浅黒く、そして彼の瞳には光がなかった。上瞼が眼球の中部にほど近くあるせいか、常時でも瞳が半分ほど隠れて冷徹に見える。また、眠たそうにも見える。彼は象牙色のハンチング帽を被っていた。小柄な方も、アースグリーンの毛糸調のハンチング帽を被っている。上着は二人とも帽子と同色のダウンジャケット。そしてジーンズ、スニーカー。もし意図的に服装を合わせているとするならば、彼らは一見して仲の良い兄弟にも見えた。また、同等に恋人同士のようにも見えた。しかし女であるのか男であるのか、それとも兄弟であるのか恋人であるのか。そんなことをたとえ考えたとしても、周囲の目はすぐにどちらでも。と、目を瞑り、再び斜陽のゆりかごへ眠りに帰るだろう。それほど微かに特異な、されど物静かな二人を乗せて、電車は鉄橋を越え、河川敷へと滑っていった。
河川敷の向こうには、空中にうねり回転する高速道路のインターチェンジが、まるで遊園地の遊具のように、西日の影を纏って佇んでいた。
狭くなった視野はそれだけ対象に近付いている実感を伴う。
エイジはファインダーを覗くときに度々そんなことを思った。
実際それは本当だった。覗きガラスの中に映る水鳥は、現実には届かない距離の大きさで片目に現れている。片方の眼球だけが水上を浮遊し、水鳥に接近しているように。
しかし鳥の姿を写そうとする瞬間は、そのような雑念も消え、ただ単に手に入れたいという欲動のみの反射だった。彼の柔和な指は、シャッターの上で滑らかに下りる。鋏のような音がする。
その音は、遠くの水鳥には聞こえるはずもない。が、その瞬間を察知し遊ぶように、水鳥はほんの寸前に飛び立ってしまっていた。
「今の、いけた?」
隣から声がかかった。エイジはファインダーから片目を離した。
「……だめ」
「だめね」
横を向けば、イズミの大きな顔があってどきりとした。和菓子のようにつややかな唇が紅く、日光に透かされた瞳は緑に近く澄んでいる。それらが彩色の少ない冬の水場にじんと映える。と、イズミの目がこちらに向けられ、そしてにこりと細まった。
「残念だね」
と、言われ、エイジはふいと、目をカメラへ戻した。
「どうせ。(バンだよ)」
「でも狙ったんでしょ。」
「(他に、)いないから」
昼間の池は水草の色をしている。それが周囲の木々の色と相まって、増して神経を緩慢にさせた。
目ぼしい鳥は中々来ないものだった。カイツブリ、アオサギ、バン、オオバン、カルガモ、マガモ、カワウ。現れる水鳥はそのようなものだが、エイジが狙う鳥は他にいた。そしてそれがどの鳥だとしても、レンズの範囲に収まるかは彼らのきまぐれだった。
「うまくいかないね」
イズミは膝の上の草埃を払うように手を動かして微笑んだ。
横に並んだ二人の前には、それぞれの三脚に乗った、それぞれのカメラが置かれている。エイジはイズミのコンパクト一眼を顎でさした。
「(イズミも)撮りなよ。」
「なんで?」
「……なんで?」
写真を撮りに来ているのだから。そう続けたかったが、しかしこいつは必ずしもそうではないと思い直した。口を噤む。遠くでジョウビタキの錆びた自転車のような地鳴きがひとつ、周囲に響いた。
秋口に、エイジはこの自然公園でイズミと出会った。
大きな池を中心にぐるりと周回する歩道があり、都会にあってもうまく自然を作り出している。その歩道を囲む森林にも、水鳥の他に野鳥が生息している。カワセミ、ヒヨドリ、メジロ、コゲラ、ヤマガラ、ルリビタキ。訪れるごとに、自然は人工物の中にも、巧妙に馴染んで生きるのだなと思うものだった。
エイジは来夏のコンクールに向け、制作資料を集めているところだった。水鳥をモチーフに、絵を描こうと思う。なぜ水鳥か。はっきりとした理由はなかった。ただ、何を描くべきかと目を瞑った時、額のあたりに一羽の水鳥が現れた。床のようにしんとした黒い水面の、朽ちた木の上。こまごまとは動かず、じっと、何かの時を待っている。シラサギだろうか。いや、もっと、小さい。水鳥はやがてはたと赤い目をこちらに向けると、羽を開いて飛び立った。その時、胸や羽が青白く光る。そして青い火の玉のように、星夜の梢を飛び越え消えていった。
目を開けると解脱したような不思議な心の静寂を覚えた。水鳥はなぜ光ったのだろう。しかしそれは、想像だからに違いなかった。
エイジは高校の美術部に所属していた。しかしほとほと、他の生徒たちの作品に辟易していた。そして密かに見下していた。彼らの描く絵画は、どれも現代の蓄積された想像に乗っかるだけの、見たことのある写像ばかりであった。
それは例えば水の中に沈みゆく制服。空を飛ぶクジラと制服。仮面をつけた制服。言葉や文字に囲まれた制服。キャンバスを前に絵具を携えこちらを睨む制服。割れた瓶の中の制服。廃墟と花と制服。挙げだせばきりがないが、とどのつまりは思春期のモラトリアムやエモーションの描出だった。絵画とは、芸術とは、そんな程度のものじゃない。もっとできることがあるはずだ。エイジは内心、ひどく彼らの作品に反発した。
いや、内面の描出はそれでよかった。それでもいいが、それで満足している彼らと、そこに与えられる周囲からの評価を見下した。描くこと、描けることに満足していてはだめだ。ありふれたものをわざわざ描いて、それでどうなる。アニメや漫画じゃあるまいし、慣れ親しんだ表現で、ただ共感を作るだけで、友人を、大人を、一時的に喜ばせてどうなる。僕らはサービスでやってるわけじゃないだろう。
彼らの創作に表れるのはつまりは未成年らしさだった。生徒たちは人に喜ばれるという拙い自己の確立のために、単に人々に求められる自分になる。いや、それすらも気が付かず筆を動かしている。エイジはひとりでにそう分析し、そして幾度も反発した。その反発がキャンバスに表れた。暴力、欠損、血しぶきを描く。キュビズム、ダダ、ナンセンスといった描写方法を多用する。そしていつも破壊や突飛、意外、刺激を求めた。喫煙、飲酒、大麻、薬物に手を出し、それらの力を借りて自動手記も試みた。
そうしてエイジの作品は過激に走った。顧問の美術教師はいつも彼の作品を前に複雑な表情を浮かべた。そして容認しながら、困惑し、しかし否定せず、結局自由にさせた。
が、いざ出来上がった自分の作品を目の前にすると、やはり他の生徒と同じような現代の想像の騎乗であった。屋上で踊る蜘蛛の死骸。鉄塔に飾られる少女の人形。狂ったサーカスの開演から破綻までの一部始終。絵画に溶け込む男の葬式。それらの創作はこれまで見たアニメや漫画にどこか似ていた。
どれも見たことがあるものだ。出来上がった絵画を壁に飾ってみては、そう落胆し、廃棄した。そうして自分の創作の程度を思い知ると、自失し、しかし次こそは、と、構想を試みた時、ついと何も思い浮かばなくなった。ありふれた想像すらも起きない。
もう自分の中にあるすべての想像を尽くしたのか。と、その発想に驚きながら、改めて自分の想像を探すべく、まるで机の引き出しを漁るように、今まで自分が繰り返していたはずの想像を、記憶の中から探し出そうと試みた。しかし、やはり何もない。引き出しに何もないのではない。ただ机すらないのである。
そのことに気が付くと恐怖した。徐々に食も細くなった。自分は次に何を描けばいい。何を描くために生きればいい。そう思い詰める日々に、ついに何も喉を通らなくなった。薬物や煙草も忘れ、数日、布団にもぐる日々が続いた。
そしてある晩、肉や欲がすべて削ぎ落されたような静寂のなか、水鳥の想像が起こった。
果たしてその想像が稀有な作品を生み出せるかは疑問であった。が、それでも鳥を描こうと思った。結局ありふれた想像である。しかし、何かのお告げのようにも感じた。何よりやっと生まれた想像に、すがりつくような心地だった。
「写真、撮ってるんですか」
イズミの最初の挨拶はこうだった。
エイジの父親はもともと多趣味で、それらに金を惜しむ様子はなかった。そのひとつにカメラがあった。買い替えるからと数年前に譲り受けたニコンの一眼と、絵の資料に野鳥を撮ると言ったら嬉々として貸してくれた五〇〇ミリのレンズ。無論その値がどれほどであるかをエイジは知らなかったが、しかしその未知の重さや手触り、専用の鞄、緩衝材やサテンのクロスなどが貴重なものであることを感じさせてくれた。
そんな大仰なカメラを三脚に乗せ、構えているのだから、撮っていないはずがない。
しかしエイジは顔を上げて笑顔を返した。その挨拶が可愛らしい声であったからだった。
「はい、(撮っています)」
「すごいですね。ちょっと、見ててもいいですか」
「え? ……えっと、(大丈夫です)」
「やった。じゃあ、ここに」
「……。(でも見ていたってつまらないですよ。まだ撮り始めて少ししか経っていないし、うまくもないんですから)」
その子は臆することなく隣に座った。
その日は気が散ってうまく撮影にならなかった。そんな焦りを察してか、鳥も思うように近づいてこない。ただファインダーを覗いて、それだけの時間が続いた。会話はなく、何を話していいかも分からない。
青く光る鳥が何という鳥であるのか。エイジはろくに調べなかった。それが想像の鳥であると分かっていたし、しかし想像だとしても鳥であるから、描くためには鳥というものの息遣い、動き、形を肌で、その目で捉える必要があった。いろいろな鳥を知って、それらを組み合わせる気でいた。それにもしあの水鳥を描く運命であるなら、あの鳥が、もしくは近い鳥が、光らないにせよ、いつか目の前に舞い降りて来るはずだった。
そんな子供じみた期待があったが、しかしまったく当てもなく来ているわけでもない。想像の鳥はカワウやサギに近い、サンマのような細長の顔をしているのを覚えていた。それは水鳥の特徴だろう。何よりあれは水上に現れた。ならばこの近くで、近種のコロニーを形成している可能性があった。その中に、あの鳥がいるかもしれない。鳥はきまぐれで、いつ目の前に現れるか分からない。その瞬間は逃せない。が、予期せぬ同伴者の出現に、エイジの集中は削がれた。鳥よりむしろ隣に気が向く。
その子の格好は、ブルゾンジャケットに黒のスキニーデニムを履いて、ロングブーツだった。そして黒のインカ帽を被っている。髪がその下から頬骨に掛かるほどあって、目のあたりを隠し、性別はどちらともつかなかった。歳は、見たところ中学生ぐらいだろうか。その日、その子は二時間近く横に座り続け、居心地の悪さに耐え兼ねたエイジが帰り支度を始めると、同じようにベンチから立ち上がって、何も言わずどこかへ行ってしまった。
次の日曜も、その子はどこからともなく現れると、また同じように隣に立った。何も言わず目で会釈すると、微笑みで俯き、横に座った。会話もなく、どぎまぎしていると、
「ねえ、名前なんていうんですか」
と、その子の方から聞いてきた。エイジとだけ名乗る。その子はイズミとだけ名乗った。
それからまた無言の時間が続いた。いくつ。どこの学校。部活は。何しにここへ。家族は、趣味は。それ、どこの服。探せば話題などいくらでも出てきそうだが、エイジは何も聞かなかった。それは、向こうが何も話してこないことからもあれば、ただ何も聞かないのが、この場の礼儀のようにも思えたためだった。もともと野鳥観察は静かな活動である。無闇に話していては周囲にひんしゅくを買うし、何より話声で鳥が逃げてしまっては目的違いになる。それをイズミも理解しているのか、ただ静かに横に座って、池を眺めているだけだった。
ここにいて楽しいか。友達は。お昼はもう食べたの。飽きてない? 他へ行きなよ。……どうしたの。
シャッターを押し終える度、エイジはそんなことを聞こうかとも思った。しかしイズミがその場に居続けることで答えは分かっていた。だからエイジは会話の必要がないことを、三度目の撮影でやっと悟った。
北風が冷たくなりはじめたころから、徐々にイズミの服装も変化していった。秋の装いから、フィールドワークの格好へ。四度目の撮影日に髪をバッサリと切り、ハンチングを被ってきたのは驚いた。が、イズミなりの配慮というか、ドレスコードのつもりだろうと、指摘せず、そっとしておいた。
五度目にはカメラを携えて来た。さすがに望遠レンズは用意できなかったようで、簡易的な、白いコンパクト一眼だった。撮り方を教えてやろうかとも思ったが、やはり自分もまだ日が浅い。止めておこうと思った。困った様子を見せたなら、その時は教えてやろうと思った。
しかし六度目以降、イズミはカメラを設置しても、シャッターを押すどころか、ファインダーを覗く気配もなかった。そのくせこの場に慣れたのか、「今の撮れたの」だとか、「うまくいったの」だとか、時々エイジの撮影に口を挟むようになった。その度に、ああだとか、うんだとかの返事を、エイジの方も返すことができるようになった。それは彼にとって、ささやかな、喜ばしい会話だった。
「(イズミも)撮りなよ。」
そう、エイジの方から聞いたのも、このお互いの慣れのためで、そして、ああ、イズミは必ずしも撮るためにここにいるわけではないと、思い直せたのもそのためだった。
撮らなくても、この場にいるだけでも、他人には意味があるのかもしれない。そう、思い直した。しかし同時に疑問が生まれる。
ならばなぜここにいるのだろう。カメラまで持参して。それでも撮らず、この場にいる意味とは何だろう。しかし聞けば、近寄れば、警戒されて逃げられるかもしれない。それでもその疑問は今のエイジにとって、聞かないがために、より強くなっていった。やがて自分にとってそれは重要なもののように思われた。なぜ、この子はカメラを前にしても、撮らないということができるのだろうか。幼い子供だってカメラを与えられたら何も言わないうちに撮り始めるだろう。それほど、何かを創り手に入れるということは、エイジにとって人間の持ち得る欲求のようにも思えていたのだ。
「そう、(いえばさ)」
エイジはカメラの露光ツマミを触り、調整するふりをしながら、イズミに話しかけた。唇が、寒さで震える。イズミがこちらを見る、羽毛が詰まったナイロンの擦れる音が聞こえた。
「撮らないの。その、(カメラを持ってきているのに)」
「なんで?」
「……なんで? (なんでって、せっかくカメラを持って来ているんだから。撮らないと意味がないというか)」
「ふふ」
イズミの含み笑いが聞こえた。そして、
「撮るために持ってきてない」
と、続けた。が、よく分からなかった。しかし聞き返すのも無知なようで、ふうんと、分かったふりにとどめて会話を絶った。それでもイズミは、
「じゃあ、エイジはなんで写真を撮っているの。」
と、切り返して来る。
「……、僕は絵を(描いている。次に描くのは水鳥の絵にしようと思って)、その、資料のために」
「そうなんだ。でもあんまり撮らないね。ぱっぱと撮ってさ、ささっと描けばいいのに。」
その言いようがあまりに軽々しく、エイジは少し、寂しくなった。
「……目的の鳥(がいて。それをどうしても撮りたくて。ここに現れるの)を、待ってる」
「それ、どんな鳥? ぼくも探そうか」
撮りたいのは青く光る鳥。しかしそうは言えなかった。だから似た鳥でいい。だがそれがどのような鳥なのか。想像を言葉にして伝えるのは難しかった。
「……うん。」
「でもさ、見つかんなくたって、なんとなく、想像で描いちゃえばいいんじゃない?」
エイジは口噤む。そして会話が途切れた。聞く気がないなら、なおさら伝えようもない。それに、創作に理解のない者に協力など仰ぎたくない。エイジは沈黙のまま考えた。
「……。(想像は誰でもできる。なんなら、いつも、みんなやってる。じゃあ想像を形作ることが創作というものなら、僕は僕だけのものを表現しなくちゃいけない。みんなと同じようなものや、既存の創作物の転写だけじゃ、僕が作る意味はない。僕が生きている意味はない。僕は特別がいい。僕は芸術がいい。僕は僕だけの存在でいたい。特別な、重要な存在として世間に認知されたい。模倣や人の欲求に応えたところで、そこにいるのは自分なんかじゃない。僕は自分を、芸術を示したいんだ)」
「ふうん」
イズミが、唐突に頷いた。
「つまり、あなたは見るものがないと描けないってこと」
次いで出た言葉はどこか挑発的なように聞こえた。
「……。そんなこと(も分からないのか。子供の落書きじゃないんだ。創作もリアリティが必要なんだ。リアリティとイメージが交錯して作品が出来上がる。それが分からないなら、お前が口を出す資格なんて)、ないよ」
そんなことないよの、続きを待っているのか、イズミの返事はすぐになかった。が、ひゅうと湖風が吹いて、鳥は鳴かず、梢が揺れて、そのなかで、静かに口があいた。
「はたしてぼくらは、見られていないと存在しないの。」
その声が小さく通り、エイジはさっと隣を見た。イズミのハンチング帽にだけ、光の境目、その線が降りている。羽冠のように。
「えっ」
「あなたが見ていないものは、視線を外せば靄のように消えてなくなってしまうの。じゃああなたは、誰かに見られていないと消えてしまうの。」
何かの詩かとも思った。それほど流暢に聞こえた。エイジは陰るままのイズミの横顔を見つめ続け、少し、息を吸った。
「……。(僕らは誰かに見られていないと消えるわけではない。でも)僕が見たものは、(形に残さないとすぐに時間の流れに飲まれて消えてしまう。それは僕の想像も同じだ。想像も現実もすぐに消えてしまう。僕は常にその消えてしまう瞬間を)形にして残したい」
イズミはまっすぐ池を臨み、芝居のように声を張った。
「あなたが芸術だと切りとろうとする世界は、切りとられなかったってきれいだ」
そして立ち上がった。光の中に全身が入って、まるで舞台のようだった。池からの風が緩やかに吹き続ける。
エイジはその冷気も忘れ、胸の高揚を感じていた。
「……でも、(ふたつとして同じ場所に同じ時間は訪れないから。切り取られなかったらそれはすぐ消滅してしまう。なかったものになる。見られなかったらものは消えて死んでしまう。僕はそれを永遠に残す存在になる。僕が見たものはつまり僕の目によるものだから、形に残したものが僕になる。僕は絵を描くことで僕の目を、自分自身を作りだしているんだ)だから、(僕らは永遠に生きるために、瞬間を永遠の形に)残すんだ。」
「それは、残念だけどあなたではないよ。」
イズミはぴしゃりと言いのけた。見上げた顔は、微笑みを持ってこちらに向けられていた。
「残るのは絵具やインク、もしくは発光の、それらのただの並びだけだ。」
「でも、(それでどう形作るかが芸術家の腕じゃないか)」
「それはあなたではない。それはただのあなたの周りだ」
「それだって、(ひとつの表現方法だ。浮彫、レリーフ……、どんな形であれ、なんと言われても、僕が永遠に残るならそれで)いい」
「あるのはレンズだけ、あなただけ。そして自然が、世界が美しいだけ。あなたは芸術なんかじゃない。鳥を撮ったって、鳥にはなれない」
「何も(しない奴に言われたくない。僕は鳥になりたいわけじゃない。撮りたいだけ、描きたいだけだ。芸術なんか)知らないくせに」
「知ってる。」
イズミはこともなげに言い捨てた。
「ぼくが芸術。ほら、分かるでしょ?」
イズミは両手を広げ、体を開く形をとった。その胸に、いっぱいの光が集まって見えた。それがあまりに喜ばしく、またくだらなくなって、エイジは思わず笑ってしまった。イズミはエイジの破顔を受けると、また煽るようにして微笑んだ。そして置かれたままの三脚と、自身とを交互に示した。
「おかしくない? ここにいるのに。自己表現、だなんて。……自己アンチ。」
自己アンチという言葉の、意味がよく分からなかったが、ただそれは幼い揶揄のように聞こえた。意味などとうに失われてしまった、子供たちだけに交わされる忌み文句のような響きだった。幼くて馬鹿らしい。イズミははなから実のある議論などしていないのだ。そう分かると、もう何も、言い返す気になれない。が、イズミは続けた。
「ぼくならシンパシー。なぜならぼくが芸術だから」
シンパシー? 何が、何に。しかしそう笑い揺れるイズミの様子は、自然と同調し、楽々と生き舞うように映った。
「あんたが芸術? バカ言うな」
緩んだエイジの表情が、しかし芸術と聞いて微かにだけ精悍に締まった。
「ほんとだよ。撮らないし、描かないから、まだ、この中はきれいだよ」
イズミはそう言って、胸のあたりを手で押さえた。そして風に愉楽するように、天を仰いで首を伸ばした。その筋がいっそう光る。加えて「きれい」という言葉の響きがエイジの好奇心をがりと掴んだ。吸い付くように、その首筋から目が離せない。
「(……どうせ頭の悪い子供の遊びだ。からかおうと思うなよ。それなら)じゃあ、描かせてみろよ。」
エイジの上瞼の中が、ぐっと、暗く光った。
「描かないで。でも、見るだけなら。すみずみまで、」
と、イズミは陽向の中で嫣然と微笑んだ。
さすがに外では脱げないとイズミは笑った。
調べると、周囲のオフィス街は存外、個室を借りられるような施設や場所はなかった。カラオケやネットカフェのある繁華街は、もっと都市の中心部にあるのかもしれない。そのため少しそこから離れる必要があった。高速道路のインターチェンジ付近に、小さなホテル街がある。そこなら脱げるだろう。電車で数駅移動し、少し歩けば辿りつけそうだった。エイジのスマートフォンを持つ手が、震えながらそう決断した。
「本当に。本当なんだな」
エイジは二度三度イズミに確認した。何の確認か分からないが、確認の必要があるように思った。イズミはその度に、神妙に頷くだけだった。
そうして二人は電車に乗った。幸い年末の休みの時期で、知り合いもいそうにない。悠々と座ることもできた。
隣では早々に、イズミが眠り始めた。
エイジも誘われるようにうとうととした。いつしか、切れ切れのまどろみに電車が鉄橋から滑り落ちる薄い夢を見た。はっと意識が戻る。
あと一駅だった。それは眠気と、落ち着かない期待や興奮の混じる不快な瞬間だった。そして微かな期待があった。今見た夢で、電車が鉄橋から落ちる瞬間、イズミは鳥の姿となって、河川の彼方、落陽の方角へ輝きながら消えていったのだ。そうなのか。そうだったのか。……そうであってほしい。
しかし隣には、未だにイズミが眠っていた。エイジは横目にイズミの首筋を盗み見た。そして間もなくそれが手に入る、その欲動が、恐れが、エイジの心を泥底のように絡め、沈めていた。
報われないことの連続が生きるということなのかもしれない。
エイジは冷静を求め、漫然とそんなことを考えた。
僕らは基本的にうまくいかない。うまくいったとすれば、それはたまたまだ。
芸術なんてのも、そのように思える。たまたま視界に鳥が下りてきて、たまたまそれを撮ることができる。そのためには、やはりカメラを構え続けなければいけない。そして運よく手に入れられた時、僕らは。
カメラと思い、エイジはイズミの鞄を見下ろした。
そういえばなぜ、こいつは撮らないのにカメラを持ってきているのだろうか。
「ドレスコード?」
の、一部だろうか。首をひねると天井の中吊り広告に、ペンギンの写真が見えた。水族館の案内である。以前、テレビかネットのニュースで見たことがあった。水族館のペンギンの餌を狙って、水場に舞い降りる、彼らに紛れる水鳥。なんといったか。サギか。いや、確か、もう少し。
そこへ、斜光がきらりと影を切って、エイジの目を差した。目がくらむ。ああ、暮れるのだ。
じきに夜がくる。があ、と、隣でひとついびきが上がった。 (了)