抽斗の釘

小説、散文、文章、短編

万年茸

 

 日が暮れるのが早くなった。

 絢菜はふた吸いばかり吸った煙草を灰皿へ落とし込み、駆け足のところを早々、赤信号に止められた。それで手持無沙汰に、そんなことをあらためて思った。

 目の前の交差点では帰宅時間とも相まって、乗用車やバス、タクシーなどの前照灯が、信号機に合わせ、多様なエンジン音と共に目まぐるしく行き交った。また、正面に見える郵便局では、しきりに郵便の赤いバイクが出入りしている。

郵便局の道なりに行き当たる踏切は、警音を鳴らし続けていた。その向こうでは夜空が、まだ微かに紅色を残している。冷たく強い風が吹いた。絢菜は紫のマフラーを襟もとで強く抑えた。

 交差点の先、踏切までの道には、郵便局に続き片側の道に連なっていくつか小店が並んでいる。古本、理髪、額縁、酒屋、学生服。どの店も時代に置き忘れられたように、小さな店構えはどれも一様に古びている。いくつかはシャッターが開いたところも見たことがない。その古めかしい並びに、暖簾も出さない小さな飲み屋があった。いわゆる隠れた名店ということらしく、上司の小東は好んでそこに通っているらしい。今日は絢菜も誘われた、というよりも絢菜のほうから誘ったに近いかもしれない。信号が青に変わった。絢菜は駆け足に交差点を渡った。

 絢菜は入社三年目で、職場では未だ若手という位置づけだった。一方上司の小東は春先に都市部の支店より転勤してきて、職場の中では日が浅い方であった。絢菜とは課も異なるから業務上の関りはあまりないが、年齢も二回り近く離れているのに、不思議と馬が合うというか、たとえ絢菜が何をしてもきっと彼は怒らないだろうし、彼は絢菜が怒るようなこともしないだろうといった、不思議な直感の安心を絢菜は抱いていた。きっとそれを小東も感じているだろうと、これもまた直感のようなものを内心いだき、日ごろから何かと声を掛け合う仲になっていた。ある時ふと小東がこの店に通っていることを聞きつけて、もともと入りにくい店構えでもあったから、興味や経験というところで、この日はちょっとだけ飲みに行こう、という話になった。

 絢菜は店の前に来ると、古木枠のガラス戸をそっと引いた。むわっと室内の暖気と、湯気が広がったように見えた。

 小東は先に、入り口にほど近いカウンターの隅の席に座っていた。テーブルにはビールのジョッキが置いてあり、半分ほど減っている。小東はすぐに顔を上げた。

「お待たせしました」

「おつかれ」

「やっと終わりましたよ」

「大変だったね。定時間際に」

絢菜は大仰に肩を落として見せた。職場では、金曜は定時で終業、という決まりがあるものの、定時間際に絢菜のほうの課で問題が起こった。

「解決したの」

「ええ、一応。残りは週明けにやることになりました。ああ、疲れた」

「ビール、に、する?」

小東はお品書きを片手に差し出したが、絢菜は受け取らず、マフラーやコートを脱ぎながら頷いた。

おやっさん、ビール、ひとつ」

 すぐにビールが出され、続いて通しの小鉢が二つ並べられた。鳥皮のポン酢と、魚の端材の生姜煮だった。

「おつかれさまです」

二人はグラスを擦り合わせるように重ねた。

 

 

 酔いもいくらか回った。二人の会話は他愛のない、職場の話が主だった。

 小東は仕事ができる上司だった。聡明で、冷静で、声を荒げたことも、今まで一度もない。部下などが問題を起こしても、咎めることはせず、また難色も示さず、ただ淡々と問題解決に向かい動いた。それができる知識と経験と、そして頭の回転を持っていた。

 また、同僚に聞いた話では、通勤時には必ず文庫本を開いているらしい。推理小説かなにかだろうか。それに加え、学生の頃には陸上でどこぞの選抜にも出たという。近年まで地元の小学生をボランティアで教えているような話も聞いた。それでルックスさえもう少しシャッキリとしていたなら、異性からの人気も高かったに違いない。小東は顔も体もぬっとしていて、さらにいつも一回り大きい背広を着用しているものだから、古木のような野暮ったさを纏っていた。今の業種よりも、考古学や歴史の研究家のほうが似合っていそうだった。

 パート従業員の昼飯時の愚痴がひどい、という絢菜の話が終わったころ、小東は微笑みながらおもむろにカバンから銀の小包装を取り出すと、さっと口に流した。絢菜は頭上でさらさらと鳴る顆粒の音を聞き、それを眺めた。わざわざ目の前で飲んで見せるのだから、詮索しても問題はないように思えた。

「なんです、それ」

「これね」

丸めた包みを開くと、そこに霊芝と書かれている。銀の包装に薄い緑や茶色で色付けされてある、市販の漢方のように見えた。

「れいしば」

「レイシ、ね。万年茸のことだよ」

マンネンタケ、といわれ、キノコだと分かった。そんなキノコは知らなかった。

「漢方ですか」

小東は口を洗うようにビールを飲みながら頷いた。

「お酒で飲んでいいんですか」

絢菜は少々大げさに眉をしかめて見せた。

「昼飯、今日、いけなかったから」

小東は苦笑いを浮かべながら、ぼそりと弁解した。

絢菜は相槌も半ば梅酒の残りに口を付けた。小東も間を埋めるように、ジョッキをなめるように口を付けた。絢菜は横目で小東を覗きながら、

「なんの薬なんですか」

と切り出してみた。

「うん、いろいろ効能はあるみたいだよ」

絢菜は小東の籠り声に瞬間、苦悩、と聞こえ、ひやりとしたが、すぐさま空耳と理解し、頷いた。

「不眠と、食欲改善と、記憶の向上、疲労の改善、あと神経衰弱にも……」

小東はメモを読み上げるように宙を見て述べたのち、ぱたりと止め再びビールを口にした。続くかと思えばそのまま言葉はなく、ちらりと絢菜のグラスを見た。

「次、何か頼む?」

「いえ、もう……」

「そう? じゃあ俺はもう一杯だけ……」

それから半時ほど小東は飲み続けた。いくらか饒舌になったらしく、いつも飲んで帰ってから、さらに焼酎を飲むだとか、妻にインスタントラーメンを作ってもらいながら、食べずにソファで眠ってしまうだとか、つまらない話を小東は面白そうに語り続けた。絢菜はただそうですか、と、空になったグラスを時々見つめながら、半ば目をつむり頷いていた。

 

 

 店を出ると雪が散らついていた。通りの交通量はずいぶん減っている。後から、会計を済ませた小東も出てきた。

「ああ、雪だね」

「ごちそうさまでした」

小東は適当な返事をしたまま、絢菜に預けていた自分のマフラーと鞄を受け取った。それを巻きながら、

「帰るか」

とつぶやくと、駅の方へのそのそ歩きだした。数件の店並みの先に、踏切があり、そのすぐそばはもう駅となっている。だから踏切の周辺は同時に駅前にもなり、植木などが整備される簡単な広場だが、街灯が少なく夜は薄らさみしい。

 夜景に小東の後ろ背を改めて見ると、やはり古木のようにぬっと高い。それが膝をあまり曲げずに足を擦るように歩くから、どこか静的というか、夜の森を意思持つ樹木が人知れず徘徊しているような、児童劇の世界を垣間見ているような、懐かしい気持ちになる。絢菜はそんな後ろ姿に、やはり着ぐるみに対する子供のように、とびかかったり、ひっかいてやったり、黒いマフラーを締め上げたいような衝動を感じた。

 踏切でさよならだった。絢菜は手前の改札で、小東は逆の方向、踏切を渡って向かいの改札にいかなければならない。

 横断歩道で小東は立ち止まり、絢菜を振り返った。

「じゃあ……」

と、小東が心持手を挙げたところで、絢菜は笑みを浮かべ遮った。

「改札までお見送りします。こっち、まだ来ませんから」

「いいよ、そんなの」

と渋る小東の背中を押した。小東のコートは厚い羽毛で、温かくも冷たくもなかった。うっすら思いがけない贅肉の感触と、その下の硬さは背骨を感じるようだった。

「ほら、奢ってもらったし、それぐらい……」

と、絢菜の言葉に重ねて踏切の警音が鳴った。絢菜は咄嗟に小東の背から手を離した。小東は後ろを見ないまま足を止める。遮断機がゆっくりと下降を始めた。赤い電灯が交互に光った。目に残る強い赤光は、繊維のように軽く降り続く薄い雪と、それが付着する白髪交じりの頭髪と、そして黒いコートの縁とを律動的に赤色に表した。

 絢菜はその光景を後ろからぼんやりと眺めた。光は鼓動のようだった。

「生きてる」

絢菜はそう口にしたのか、心に思っただけか、自身でも分からなかった。ちょうど回送電車が踏切を通過し、轟音に辺りが覆われたためだった。

 しかし小東は振り向いた。振り向き、絢菜を見下ろした。枠なしの眼鏡が、その表面の手垢とともに赤く光っていた。眼鏡の下には立派な鼻と、そして一筋の鼻血が、流れ、そしてマフラーに擦れて伸びたところだった。

 絢菜はその一瞬間に目を見開き、そして次には目を細め、首をかしげて見せた。

 遮断機が上がり、二人は連れ立って踏切を渡った。小東は改札を抜け、今度こそ大きく手を挙げて、別れを告げた。

 それからしばらくして、絢菜は自分の電車へ乗り、車窓を眺めながら帰った。小東の鼻血が気になった。今もなお、鼻血の跡を口元につけたまま、電車で居眠りをしたりしているのだろうか。

 電車は明かりのない田園地帯の中を走っていた。町と町との間の道だ。絢菜は夜道に、朝に見る枯れた田園風景を思い重ねた。

 と、前方の窓に青い光が見えた。それは一息に車両の横を通っていった。踏切だった。人気のない、田園の間にある踏切。自殺防止の青い電灯。それと踏切の赤い電灯とが混ざって、絢菜が顔を覗かせる車窓の、前を通過するその瞬間、いかにも人工的な紫色に変わり光っていた。

 絢菜はそれが見えなくなるまで目で追い続けた。まだ残る酔いのせいか、とてもそれが、美しく、特別な体験のように感じられた。それが彼方に消えてしまうと、唐突に小東の死を思った。小東の葬式を想像した。あのぬっとした背も、棺に納められるのだろう。死んでも変わらないすまし顔で、そうですか、といった風に、蝋を塗ったような蒼白顔で朽ちていくのだろう。

 絢菜は少し泣きたいような気持になった。しかし涙は出なかった。ふるふると唇が震え、それでだけで涙は引っ込んでいく。

 絢菜の度々崩れかける顔を、黄色い車窓に映しながら、明かりのない田園の中を、電車は抜けていった。

 

 

 小東が鼻血を流しながら職場で倒れたのは、それからひと月近く経った年末間際のことだった。幸いにか、すぐに正月休みとなるので、そのまま小東は休職を申し出たらしい。療養に充てるとのことで、年明けか、二月になってからか、体調次第ですぐ顔を出すだろう、との噂だった。

 絢菜は年末に、亡き祖父の古家の片づけを手伝っていた。数年前に故人となってから、祖母は叔父の家で同居することとなり、しばらく古家は放置されていた。年末が好い機会だからと、親族でかわるがわる遺品の片づけや掃除に訪れることとなった。

 絢菜は座敷の押入れを片付けていた。そこには床飾りが主に詰め込まれていた。掛け軸、瀬戸物、茶器、干支の木彫り。どれも大事そうに桐の箱に仕舞われていたが、奥にひときわ大きな木箱を見つけた。

 開けてみると、床飾りにしてはいくぶん大きな枯れ木に、手のひらほどの大きさの、ひだのようなものが、幾重にも並び生えているものだった。ひだはキャラメルのような深い茶褐色で、陶器のように硬く、指でたたけば軽い音がした。

「おばあちゃん、これなに」

絢菜は座敷の押入れに頭を入れた祖母を振り返り、尋ねた。

「霊芝さね」

祖母は押入れから頭を出すと、何事もないように言った。

「レイシ、ね」

「何がいいのか、さっぱりね。縁起物だろうけど」

そうか、これが万年茸かと、絢菜は一人感心していた。床飾りもなるのだろうか。

「これ、食べれるの」

「そんなもん、食べたなら腹こわすよ」

食べられるものなら、と祖母は笑った。

 絢菜はふうん、と言ったまま、大きな霊芝の飾りを両手に抱え、冷えた台所へと向かった。ダイニングテーブルに霊芝を置くと、代わりに置いていたスマートフォンを取り上げ、霊芝について調べた。

 霊芝はやはり万年茸という説明で、うまく乾燥して保管すれば万年は形を崩さないとある。漢方として昔から重宝されているようだが、医学的根拠はいまだ乏しいらしい。祖父の持つもののように、飾りとして利用されることが多い。食用には適さないとある。

 絢菜はスマートフォンを置いたのち、心持背を伸ばして祖母のいる座敷を顧みた。そして気配のないことを確認すると、霊芝の傘の部分をさっと指でぬぐい、そっと口をつけ、それから犬歯を立てた。かり、と軽い音がして、欠片が絢菜の舌の上に落ちた。クイニーアマンをかじった時のようだった。

「うえ」

すぐに異物感が口に広がり、反射的に指先へ欠片を吐き出した。それは鉱石のように、紫色の輝きを見せていた。