抽斗の釘

小説、散文、文章、短編

 夕飯の支度が済み、夫の帰りを待つ間にリンゴを切っておこうと思った。

 包丁を入れ実を割ると、種と芯の部分に白い綿のようなものが生えていた。黴である。しかし今からスーパーに戻って交換を頼む気にもなれない。包んでいたビニール袋に手早く戻し、口をきつくしばって、ゴミ箱へ放り込んだ。

 程なくして、夫が帰った。手には大きなビニール袋がある。暖色の無数の影が房となるのがうっすらと見えた。

「なあに、それ」

「柿。貰ったよ」

「……なんで?」

「なんでって」

 聞けば、上司の家の庭に大きな柿の木があるらしい。渋柿ではないらしく、放っておけば野鳥がたかって庭が荒れる。そのため豊作の年には早々にもいで人に配ってしまうとのことだった。
 白いビニール袋を覗けば、大小歪な柿の実がごろごろしている。所々傷が目立って、選別されずに寄越されたのだろう。それを、袋から一息に打ち出した。真っ白な調理台の上に、橙色がわっと広がった。あわせて枯れた葉や細枝の端くれか、細かいゴミも散らばった。これが、ミカンやレモンならどれだけ爽やかだろうか。乾ききって曲がった固いヘタが、指先に触れて煩わしかった。

「ねえ、これ、ご飯の後に食べる?」

「うーん。俺はいいや。」

夫の返事が脱衣所から聞こえた。彼の言葉の意図するところを、いくつか考えた。どれも卑屈に捉えてしまう。柿の実は5つ。いや、6つある。放っておけば2、3日で熟しきってしまうだろう。そう、冷たい実を手に持て余しながら、再度、姿の見えない夫に声を掛けた。

「今日、少し遅かったね」

「ああ」

と夫は遠くで声を張った。

「乗ってた電車がさ、駅の手前で停まったの。緊急停止だって。踏切のところで」

「へえ、どうして?」

「車と接触しかけたらしいよ。踏切の周りに人が集まるのが見えた」

ええ、大丈夫だったの。と、実を洗いながら言った、その声が、水の音にかき消され、ちゃんと彼に届いたのかは分からない。

接触はしていません。接触はしていませんって、何回もアナウンスがあった。窓から見てみたけど、暗くてよく見えなかった。」

そう、それはよかった。と、ひとつ、一番柔らかい実に包丁を入れた。

「でも、人が言ってたのが聞こえたよ。黒い軽バンだって。それが線路の中に入ったらしい」

「黒い軽バン?」

割れた実は、へたの部分から黒く変色して、ただれていて形にならないものだった。そこに、踏切遮断機の赤い点滅が思い起こされ重なった。

「かん、かん、かん」

警報音が、私にも聞こえてくるようだった。潰れた実は横に除けた。そして、次は、次はと、臆しながらも刃を下ろし続けた。

 黒の軽バンなどどこにでもありふれている。しかし、私は想像してしまった。線路に入ったその車の座席には、美しい柿の実がひとつ、転がっている。そんな気がしてならない。

 私は今日あったことを夫に打ち明けようか迷った。

 風が強く吹き、前髪が乱れた。雨は眼鏡の隙間から入って、瞼が冷たかった。しばらく小春日和が続いていた。しかしそれもこの日途切れて、昼前でも、夕方のように雲が重たかった。

 眼鏡には水玉の景色があった。小さな雨粒がレンズに張り付いて、いつも見慣れていたはずのスーパーマーケットの看板や、駐車場の車の色が歪んで見えた。それらは派手な色のはずなのに、どれも一様に薄暗く湿って寒々しかった。

 駆け足でスーパーの入口に向かった。背の低い風が、虫食い状に停められている車の間を縫って吹き抜けてきた。その風は、服の裾から入り込んで背や腹を駆け上がり、体温を上空へ連れ去るようだった。足元で水の音が上がった。何度も重たい飛沫が上がるのをつま先に感じた。しかし下を見ても、水たまりは黒いアスファルトに紛れて見えなかった。

 自動ドアをくぐった先は、浴場のように暖かかった。強張っていた体が一気に緩んでほっとした。店内は強い電灯にさらされていて、影はどこにもないように思えた。軽快なBGMが流れている。耳馴染みのある曲に思えるけれど、歌声がないと何の曲か分からなかった。雨で買い物客が減った店内は、じめじめした鬱陶しさよりも動きやすさが勝って気分がよかった。

 カートを押してまずは青果コーナーを回った。ブドウ、キウイフルーツ、バナナ、ラフランスなど、果物をいくつかカゴに入れた。498円、128円、298円、213円。赤字の値段はいつもと変わらない。ぼうっとカゴを眺めると、そこに転がる色どりに夫の姿が思い浮かんだ。

 青果売り場を抜けると海鮮の冷たい臭いが広がっていた。白銀や金青の光がきらきらと目に着く。フチの黄色い魚の目、魚卵の表面に浮いた赤い脂、玩具のような小さな菊の花。どの色も鮮やかで、まがい物のようだった。

 冷蔵ケースに並ぶ魚群には、ひときわサンマが多く並べられていた。2尾で598円。ぱりぱりに焼いた皮を破り、身を、裂くようにしてほぐす。そんな想像の箸の先に、夫の薄い唇が見えた。旬の脂で光る、血色の良い子供のような唇。でも、微笑みもしない。2尾のサンマのようにまっすぐ並ぶまま。
 血が、どのサンマの輪郭にもまとわりついていた。滴って、トレイの隅に溜まっている。不潔なように思えてならない。だからできるだけ、血の滲んでいないものを探した。そして傾かないように、カゴの中を整理して入れた。
 サンマを買ったなら、今日の食卓のテーマは秋に違いなかった。とすれば、もう少し色どりが欲しくなる。引き返し、青果コーナーで炊き込みご飯の素を手に取った。

 ひとしきり店内を回れば、カゴには3、4日の食材がそろった。野菜は根菜を中心に、精肉は脂身を避けた鶏の胸や豚のヒレ。他に、加工肉、卵、豆腐、納豆、低脂肪のヨーグルトと無添加の食パンなどでカゴは埋まっている。食卓を前にした夫の笑顔が思い描かれた。今週は機嫌よく過ごせそうだった。

 他に、買い忘れが無いか。すぐに、思い当たった。

「あれ、何もないね」

昨晩、夫は台所の棚から頭を引き抜いて言った。

「お菓子? あるでしょ」

棚には、貰い物のおかきや小さな羊羹、豆菓子などがたくさんあるはずだった。人気がなく古くはなっているが、どれも日持ちするものばかりだ。賞味期限は小まめにチェックしている。

「いや、こういうんじゃなくてさ」

と、夫は眉を上げた。分かっている。ポテトチップスやチョコレート菓子を求めているのだろう。グミやクッキー、プリンやアイスクリームを求めているのだろう。しかしそれらはあえて買っておかなかった。

「じゃあリンゴ剥こうか?」

夫の顔は目に見えて曇った。

「いや、そういうんじゃなくて」

そうして夫は機嫌を損ね、子供のように自室に引っ込んでしまった。

 しかしそれでも、夫の機嫌は朝になれば直っていた。ほっとした。が、私が仕掛けたこととはいえ、なぜかすっきりとしなかった。健康に良くないから、と言えば簡単だった。しかし理由は別にあるような気がした。私は、それが何か言い当てられなかった。午前の陽に生まれた、床の私の影は淡かった。進む季節をしり目に、昨晩の、秋の夜がまだ名残りあるようだった。

 菓子売り場は閑散としていた。棚には原色の強い発色をした包装と、金銀の文字の印刷が並び、それが絢爛な砂嵐のように隙間なく両脇に連なっている。パッケージはどれも目を引いた。左右からしきりと手招かれるようだった。しかし、私にはどれがいいか分からない。何もいいと思えなかった。「どれを食べても満たされない。」かすかにそんな閃きが起こった。意味のない選択肢の棚は、夜の街の繁華のように稚拙で猥雑にすら思えた。

 と、そこでひとつつまずいたような感覚が起こった。それはまるで、あるはずのない床の窪みに、カートの滑車がはまったような小さな驚きに近いものだった。
 通路に、一人の女が突っ立っている。棚と棚とが途切れたところの、裏側の棚に通じるごく短く細い空間である。

 ただお菓子を選ぶだけなら、特に珍しい光景でもなかった。私はすぐにその場を通り過ぎようとした。が、つまずきに似た不調和は、すぐには消えなかった。女は商品を見ずにじっと正面へ顔を上げ、佇んでいる。私は、感づいてしまった。女は、万引きを企んでいる。

 それは単なる思い付きに過ぎなかった。むしろ決めつけに近い。が、女は私が近づいても動こうとしなかった。ただ立つだけである。女は私が去るのを待っているのだ。私が立ち去った後に、女はきっと盗みを始める。そうとなれば、私はここから去ることはできない。店のためにも、女のためにも、倫理のためにも、彼女の盗みの機会は潰えさせておかなければならない。

 女が突っ立つ短い通路の棚にも、隙間なく商品が並べてあった。鎖のように小袋が連なった、幼児用の菓子である。私はカートを滑らせ、吊り下げられたそれらの菓子に近付き触れた。そしてわざと商品名を読み上げ、吟味する様子を見せつけた。私と女のカートはぶつかりそうなほど接近していた。しかし女はカートを引かない。私は横目で再び女の姿を盗み見た。

 女は発色の強い緑のセーターを着ていた。髪は金に近く脱色されていた。その明るい色に押し込められるように、化粧気のない顔はくすみ、浅黒く見えた。頬骨は突き出て頬はひどくこけている。まるで女自体が、この明るい店内で、空間の窪みのようだった。女は、私に近寄られてもその場に佇み、それでいて私のことも商品のことも見ていなかった。虚ろに空や通路を眺めるだけだった。

 私は続けて女のカートの上を見た。カートにはカゴが乗せられていない。代わりに、厚手のキルト生地の手提げ鞄が置かれていた。鞄の口は大きく開いて上を向いている。私はその鞄をじっと睨んだ。どうやら、女にとってそればかりは負い目のようだった。女は私に鞄を見られると分かると、すぐさまカートを翻し、私の体にかすめないばかりに走らせ逃げるように裏の棚へと回り込んでいった。その間も、私は女のカートから目を逸らさなかった。カートの上の鞄の裏側には、体と挟むようにして、橙色の柿の実がひとつ忍ばせてある。その平面的な色は、カートの動きによってすぐに女の背に隠された。が、次の瞬間私の胸は躍った。女は背を見せると同時に手を腹のあたりに滑らせ、かと思うとまるで私物のような気楽さで、ひょいと柿の実を、口の開いた鞄の中へと放り込んだのだ。私の胸は、その柿の実と同じようにひとつふわりと宙へ跳ねた。

 女は息を吐く間もなく、裏の棚の前へ行きつくと再び立ち止まった。私は紐で繋がれたようにすぐに女の後に続いた。そして再び女を眺め続けた。すると今度ばかりは、女も私の動きに不調和を感じたのだろう。後ろ目に私を一瞥すると、すぐにカートを返し、私たちは再び入れ違いになった。その際、私は女の鞄の中から目が離せなかった。鞄の内側は黒色の裏地で、そこには財布も携帯電話も見当たらない。ただ真っ暗な穴の中に、発光するようにして色を増した、柿の実だけがひとつ煌めいたのである。

 女はそのままカートを押して売り場を離れて行った。私はその場で、女の後ろ姿を捉え続けた。女のカートは真っ直ぐレジの横を通り、雨雲が渦巻く大きなガラス窓を背景に映した。雨はほとんど弱まったのだろう。微かな線も空には見えない。

 女は躊躇なく自動ドアを抜けていった。そして、入り口からほど近いところに停めてある、黒の軽バンのドアを開けると、鞄を中へ乱暴に放り込んだ。やがて車は発進する。黒い車の影は悠然と彼方へ消えていった。軽自動車が去った後には放置されたカートと、地面には身障者用のマークが残されている。

 私は車の影を見届けた後、急に心細くなった。店員を探した。幸い、飲料売り場で陳列作業をしている店員らしき女性を見つけた。ひざを付き作業を行うその店員に、私はすり寄らないばかりに近付いて今起きたことを伝えた。万引きを見た。しかし万引き犯はもう行ってしまった。続けて、車のナンバーを伝えようとした。

「ああ、」

しかし店員は焦る様子もなく、私の話を遮るように苦笑いを上げた。その様子に、私は私に落ち度があるような気になった。

「あの、その場でお伝えした方が良かったですよね」

すみませんと、私は謝っていた。店員は、作業の手を止めなかった。

「いやあ、その。私たちも店を出ないと声を掛けられないんですよ。ええ。ですから。」

店員の言いぶりはそっけないものだった。つじつまの合わない返答に、私は店員の心持を察した。とはいえ、やりようがあるはずだった。女の容姿は覚えている。監視カメラもあるだろう。車のナンバーだって覚えている。しかし、私の意気はそれほど強く続かなかった。私が思うほど、物事は正しい形をしてはいなかった。

「そうですか。それなら、ああ、じゃあ、もう、どうしようも。」

「そう、そうなんです。だから、ねえ。」

私は切り上げる挨拶もできず、その店員から離れた。急に、自分のカートが重たく感じた。カゴの中にはぎっしりと健康的な食材が詰まっている。この中に、あの女が盗んだ一顆の柿も忍ばされている気がした。しかし当然、会計の際には柿など出てこなかった。私は、夫から預かっているクレジットカードで支払いを済ませた。

 店から出ようと青果売り場のそばを通った際、来店時には気付きもしなかった、山積みの柿が目に入った。手書きの赤字で108円とある。

 私は咄嗟に、顔を上げて周囲を見渡した。煌々と光る店内は、みな、買い物に忙しい。私を見る人間など一人もいなかった。
 私は、柿の山に手を伸ばした。暗闇で、何かずしりと重みが増した。
 胸に、冷たく灯る実が生った。 (了)