抽斗の釘

小説、散文、文章、短編

歌声

 霧雨の向こうから水銀のひと塊が音もなくすり抜けてくる。

 山間の車道をなめらかになぞりながら、それはやがて新緑の下へと滑り込んだ。そのさい梢が傘となって霧雨が途切れ、水銀は正体をあらわした。旧型のマーチボレロである。

 ボレロは濡れて光るアスファルトの上を油のように滑り曲がると、再び新緑と霧雨とが混じる水彩の中へ静かに溶け込んでいった。

 運転席には蝋のような老人の顔があった。

 古いバケットハットに額を隠し、つばの陰からは厚い瞼の目が覗く。それは光なく、焦燥の瞳だった。老人は隠れがちな目をさらに細め、雨に打ち消えいく道幅を探り探りなおアクセルを踏み続けた。

 昼前のラジオではここ数日柔らかい雨が続くと聞いた。が、そのラジオも悪天のためかしばらく無音が続いている。辺りは緑と雨ばかりで長く対向車ともすれ違っていない。現在地が分からずただ走るというのは、内海老人にとっていくらか不安を覚えるものだった。通り慣れた道ではある。だがこのあたりだろうという目印を霧雨に隠される今、どこかで道を間違えはしていないか、何か勘違いをしていないか、そんな疑問が一度生まれ、すると消せない。まるで永遠に走り続けるようにも思われた。気が付けば遠い里にいやしないだろうか。そんな不安も、せめて耳に届く声や音があればまぎれるはずだった。

 認知の衰えは日頃から感じている。しかしそれは結果が分かってからのことで、今はただ霧雨である。霧雨さえ抜ければ答えが分かるだろう。そうゆっくりと巡らす猶予もなく、自然と車は速度を増した。くわえてぼうっとした不安のみの長い時間に、どうしてか、次第にフロントガラスの視界と操作する手足の骨肉が自分のものでないように思えてくる。アクセルを踏むのが他人ごとのように感じる。自分はただの霧の中にいて、物事のほうだけが勝手に進んでいくような気になる。そう、自意識は霧雨のほうに絡めとられ、車だけが先へ先へ進んで行くようだ。

 やがて霧の先に黒い穴が現れた。トンネルの入り口だと思った。内海はほっと、鼻息を漏らした。いつも通る道にも古いトンネルがある。

 視界は穴の口へ呑まれた。瞬間黒のめまいが起こったが、すぐ一面のオレンジ色となった。雨は途切れ、フロントガラスに残る無数の水滴に暖色が灯って煌めいた。目が醒めるようだった。

 そこへ、沈黙していたスピーカーが微弱な音を鳴らした。ノイズのようであったがその奥に、ぽつりぽつりと氷のように透き通った音が聞こえる。次第にその音は近づき、やがてそれはハミングをするような、切れ切れの女の歌声だと分かった。

 内海の瞳にも、トンネルのナトリウム照明の光が乗った。その歌声にはどこか懐かしさがある。また、忘れていた恋のような切なさもある。

 内海は震える指先を伸ばし音量のつまみに触れた。しかしノイズの音が強くなるばかりで声の方は明らかにならない。ちゅっと乾いた口の端から舌打ちを鳴らしながら、前面とオーディオの操作盤を交互に見比べた。周波数の微かな調整が必要だ。しかしハンドルから手を離すわけにも車を停めるわけにもいかない。そこへ、目先に小さな光が見えた。すぐに光は大きくなって、光の輪となった。トンネルが終わるぞ。内海は頬を緩めた。トンネルを抜ければ山の外に出る。音がしっかりと入るかもしれない。また、忌々しい霧雨も止んでいるかもしれない。

 やがて出口に差し掛かり、フロントガラスは一挙に白く輝いた。同時に内海の睨んだ通り電波が入る場所に来たのだろう、瞬間、スピーカーの歌声は伸びやかに響いた。

 内海は目尻に皺を作った。そして、次に強く頭を揺らすと、ひとつ体は激しく仰け反り、両手を大きく広げた。強い音が車内に響き、フロントガラスの景色は回転した。内海の体はソーセージのように左右に揺れるとすぐに弾力のまま跳ねまわった。天地は返る。ガラスは割れ降る。ラジオの歌声は、それらの衝撃のためにほとんど内海の耳に届くことはなかった。

 

 車道を外れた斜面の下、マーチボレロが腹を見せて時を過ごしている。銀の車体を抱きしめるように、鬱蒼とした雑木の新緑が囲った。黒い腹には霧雨がおぶさる。遠くからはサイレンの音が聞こえ始めた。が、まだ霧雨の柔らかい音の方が強いぐらいだった。スピーカーは沈黙した。カーラジオはとうに途絶えた。

 

 

 内海老人は喫茶店で過ごすことを日課としていた。とはいえ、そこに仕事や用事があるわけではない。持て余した余生を雑誌や新聞の記事の講読に使うのである。が、ゴシップや世事に余生を彩る力はない。それはむしろ口実だった。

 通う喫茶店は郊外にあるチェーン店の新店である。旧市街に自宅を構える内海は毎日のように峠道を越え、その開発中の土地に向かった。開発地には真新しい住宅が並び、それでもさらに山は削られ平らな茶色い景色がまだあちこちに広がっている。新生の地に美しい家を建てるのは若い夫婦か、もしくは壮年の核家族たちだった。おのずと、その土地の店には若いアルバイトが働いた。妻か、娘か、ともかく若い女が多い。

内海老人の目的は彼女らのもてなしだった。生涯仕事人として誇りある徳操を通した彼にとって、この歳でいまさら色欲などに揺るぎはしないが、だからなおさら、彼の力を失った目に彼女たちはみな天使のように眩しく映った。加えて独り身の内海にとってその天使たちのもてなしは、自分がまだ人でありそこにいることを認知できる数少ない機会であった。

 古い家に独りでいれば、流れるのは実際の時間よりも過去の影が多かった。その影である妻はとうに先立ち、娘たちは皆家庭を持って外に出た。影すら去ってふと我に帰れば、ただあるのは衰え切った認知と強烈な自我、それ以外には食卓に一人分が並ぶ寂寥の飯ぐらいである。最後の晩餐だの終末だのが現実を帯びる年齢になって、毎日配達される味の濃い総菜を眺めてはこれが最後の景色かなどと自嘲しようにも笑えない。内海はいつしか、死ぬときは家ではなく外でと考えるようになった。するとせめて体が動くうちはできるだけ出ていようと思う。臨終に見る景色、それが独りの食卓ではなくて誰かの顔があるところならば、そしてできれば若い者のいる場所であるならば、目に映るのは天使だろう。内海は地に倒れる際の視界を思った。見上げる景色には自分を案じて覗き込む若い憐憫の瞳がある。その、命の最期に得られる憐憫こそが、人生の幸福ではないだろうか。迷惑だろうがかまわない。内海はまったく知らない若い女に、自分の臨終に立ち会って欲しかった。独りは嫌だった。

 

 

 床が抜けた感覚にひとつ体が跳ねて目を開けた。反射的に払った手がコーヒーカップに当たり高い音が響く。内海は咄嗟に頭を上げ周囲を見渡した。

そこは朝のように明るい店内であった。梁がむき出しの高い天井にはシーリングファンが下がり、木材を基調にしたコテージのような喫茶店だった。

まばらに席を埋める客は一人も内海の方を見ていなかった。内海は誰ともなく苦笑しながら内心情けなかった。喫茶店うたた寝するなど本当に老人らしい。そのうえ落ちる夢など子供のようだ。内海は落ちた成り行きをぼうっと思い出そうとした。

自分はどこかで死んだように思う。が、醒めてしまっては、意識は成り行きからどんどん離れていくようだった。

 しかしそれでも、席の窓へ顔を上げると気分はよいものだった。外は霧雨が降り、しかし雲は薄いのだろう、整えられた郊外の外景は明るく湿っていた。植えられたばかりの細い街路樹が、広く往来の少ない平らな車道と歩道の間に並ぶ。その足元には真新しい縁石ブロックが濡れて白く光っている。無機質ではあるがそういった整然とした街並みは、ごみごみとした俗世と画す清々しさがあった。そういうところに身を置くと気分がいい。目覚めでも不思議とさわやかな心地となって、若い時代がよみがえる気さえする。あの、誰とでも愛し合えそうな青く軽やかな季節。その断片がとりとめとなく脳裏に過って入り乱れ、胸は麗しく躍動した。

 そこへ、女の店員がお冷の交換を尋ねに来た。制服の白いポロシャツは清潔そうで、黒のスラックスは肌を厳格に隠している。くわえてチャコールのエプロンが内海に家庭を思わせた。彼は物々しく自分のコーヒーカップを覗き込むと、水ではなくコーヒーのお代わりを申し出た。女は微笑みを浮かべると、お待ちくださいと去っていく。その頬がガラス細工のように煌びやかに光って見えたのを、内海はその背が去るまで記憶し続けた。そしてその姿がキッチンに消えるまで、じっと見届けた。

 内海はコーヒーが届くまでの間再び窓を眺めた。霧雨の、遠いところではまだ開発が進んでいる。切り開かれた広大な土地に大きなショッピングモールができるのだろう。重機のオレンジや薄緑の色が小さく、明るい雲の下に置かれたままなのが見える。今日は休みなのか。動く様子はなかった。

「お待たせしました」

やがてコーヒーが運ばれた。しかし持ってきたのは男の店員であった。ありがとう、ありがとうと手を挙げるも、内海の頬は下がったままだった。男が立ち去るとすぐに周囲を探した。すると女の店員たちはひとりふたりとそれぞれ通路に立ちながら、別々に席にいる男の客たちと親し気に話をしている。内海は顎を引いて顔を逸らすそぶりを見せたが、しかし目は彼女たちから離せなかった。女たちは男客の話すことに逐一軽快に返すのだろう。笑い声や興奮気味な言葉が男女ともに店内へ上がる。そこに肩や腕へ触れたりもするものだから、内海は顔を歪め太ももを揺らした。

 そんな通路に立つ女の後ろを、先ほどの男の店員が再び通りやってきた。内海の観察によれば、いつもこの男はきまって店内にいる。男性はこの店に彼一人だけで、女たちよりも年上、三十手前ぐらいにみえる。おそらく彼が店長を任されているのだろう。女たちのような三角巾ではなく、小豆色のギャリソンキャップを被るところからもそれがうかがえた。

 男は手に箒をもって、隣の席の下を掃き始めた。男の尻がこちらを向いて左右に動いている。

「ちょっと」

やり過ごそうと思ったが、すぐに我慢できなくなった。内海は眉を強くしかめ、尻を睨んだ。棘のある声になった。

「はい?」

男は尻を向けたまま、尻の向こうから顔を出した。

「あのねえ、」

勢いのままで言葉がつかえた。それでも言わねばと何とかひねり出した。

「お客がまだいる。掃除とは何事ですか」

店長はああと言ってこちらに真向き、軽く頭を下げた。その様子が思いのほか抜けているように見えたので、内海はついでにとばかりに皮肉めいた。

「あとね、この店はお客とおしゃべりするサービスもあるんですかね」

「え?」

男はぽかんとした。この男には遠回し過ぎたかもしれない。しかし言ってしまって撤回もできない。補足はかえって無様だった。

「だから。ほら、あの子と、あの子。客が他にいるのにあれじゃあ失礼でしょう」

内海は心持頬を赤くしながら声を落とし、女たちの背へ目配せした。男はその方を見る。

「ああ」

「ああって。おたく店長でしょう。学校じゃないんだから、しっかり働かないと困るでしょう」

「あれは、あれでいいんですよ。仕事なんです」

「え?」

予期しない答えだった。

「お客様とのお喋りも仕事です。お代金もいただきますよ」

「本当に?」

知らなかった。時代だろうか。世間知らずは自分のほうかと内海は心を乱した。何か挽回をと文句を探すも出てこない。そこへ、店長が微笑みながらそっと耳打ちをした。

「彼女たちは機械の天使ですから」

「ええ?」

店長はそう告げると箒を抱えて去っていった。

 置き去りにされた内海は、かわらず男と戯れる女たちを眺めた。俺は馬鹿にされたのだろうか。いい加減にあしらわれたのだろうか。そう思えば内海はかえって怒れなかった。ただどこからともなく来る寂しさに、もう女たちのことは考えないよう、再び窓を見つめるしかなかった。

 遠く、救急車のサイレンが聞こえた。

 サイレンはまっすぐこちらに近付いてくるようだった。すると音はほどなく近くでとどまった。急に、店内がざわつき始めた。客はそれぞれ席から立ち上がり、神妙そうな顔で女たちと何か言葉を交わしている。首を動かして窓を覗き、外の様子を窺うようだった。やがてどんな話になったか、客たちは女に手を引かれるようにしてぞろぞろと出口へ向かって行った。

 店には誰もいなくなった。ボサノヴァ調の音楽だけが店内に残って続いている。むろん、取り残された内海は不安に駆られた。身を乗り出し、同じように窓から外を眺めた。しかし駐車場にも前の道にも、救急車らしきものは見えない。それどころかいま店を出た人々すら姿がなかった。自分も出なければならないだろうか。残ってよいものか、内海は指示を求め店長を探した。しかし彼もどこにもいない。

 視界の端で何か黒いものが動いた。自然と、その方を見る。

 音もなく現れたのは、袈裟を着た中折れ帽の男であった。

 僧侶だろうか。内海は横目で袈裟男の姿を追った。男は迷わず通路を進むと、がらんとした店内でわざわざ隣の席へ座った。内海はざっとその姿をなぞった。雨だというのに足袋に草履を履いている。傘も持たない。檀家の家に参るなら難儀だろう。そんなことを感じるうちにも、袈裟男は中折れ帽を脱いで机に置き、坊主頭の横顔をその場に晒した。存外、若い男に見える。四十か、もう少し若いかもしれない。

 内海の視線に気が付いたか、ふいに、男がこちらを向いた。内海はひやりとした。あっと声が漏れそうになり喉を抑えた。どこかで見た顔だという瞬間の緊張から、すぐにそれが自分の顔であると気が付いた。それも、自分の壮年の頃の顔である。

 内海はすぐに顔を逸らした。他人の空似か、偶然の一致としか言いようはない。が、男の顔は自分の危機を知らせる器官へ直接届くようだった。驚きはすぐに不気味さへ置き換わった。自分はここにいるのだから、自分の顔が目の前にあるのは、そして勝手に動くのはいびつである。自分の顔の皮を被った精巧な人形のようでもあるし、自分が自分でないような気さえしてくる。ともかく不自然であり、くわえて彼の若さが脅威であった。なぜか、彼に取っ組まれそうな恐怖を感じた。自分を奪われるように感じたのである。彼が隣に座ったのは何か意図するところがあるのだろう。内海は身震いをした。彼は自分であるが他人だ。自分は坊主でも僧侶でもない。

 そこへ、それまで続いていた音楽がふいに途絶えた。無音となる。内海はたまらずコーヒーを飲み干した。袈裟男は店員が来なくても依然として隣に居続け、動揺する様子もない。膝に手を置き、真顔のまままっすぐ宙を見据えている。

 静寂へにじり寄るように、遠くから音楽が聞こえ始めた。ほどなく、あの、車で聞いた歌声となった。

 歌声は変わらず、忘れていた恋を思わせる、切なくも麗しいものだった。が、今の内海にはゆっくりと聞き入る余裕はない。せめて店員がひとりでも袈裟男の相手をしてくれれば、彼が紛れもないいち客だと安心できる。

 内海は誘惑にかられ、再び隣を盗み見た。袈裟男はずっとこちらをまっすぐ見据えており、さらに自分と目が合うと分かると、据えた目のまま、口をゆっくりと開こうとしたのである。

 何かを言われる前から、それは不吉な言葉に違いなかった。内海は男の意思を遮るように席を立ち、急ぎ足で出口へ向かった。勘定は次にまとめて払うと誰に弁解するわけでもなく、ひとりごとのうちにも振り向くと、袈裟男も立ち上がりまだこちらを見据えている。帽子を手にしているところから、後を追ってくるに違いなかった。

 内海は足を速め車へ急いだ。つま先をとられながらも転ぶように乗り込み、エンジンをかける。袈裟男は店の外まで出てきている。アクセルを踏み込み、道に出た。男は入口の庇の下で足を止めていた。しかし目は、自分の車を追い続けているようだった。内海は寒気を感じながら霧雨の中を走りだした。

 

 内海の車は図書館の駐車場に停まった。恐れは落ち着いたがまだ不気味さは拭えなかった。霧雨は続いている。どうかすればまた軒や木陰に袈裟の影を見出せそうだった。エンジンを停めた車のガラスには静かな雨音が聞こえた。車の中は孤独であった。内海の心は整然とした場所と、若い者の活動を求めすがろうとしていた。

 図書館はそんな内海の心持によく合っていた。近年リノベーションを果たしたその公共図書館は建物が大きく天井も高い。カフェスペースなども増設され、平日でも若者や親子連れが出入りした。

 内海の日常はこの図書館と郊外の喫茶店に終着した。することは同じである。週刊誌や雑誌に時間を溶かすのであるが、しかしもてなしとコーヒーが無いぶん、内海老人はレファレンスサービスを頼った。記事に疑問点を見つけ出すと窓口に赴き、あれこれと質問を投げかける。国家公務員の異動動向や年間死亡者の内訳、南西の島に関する領有権の歴史や欧州で過去に流行した疫病の発生源など、内海の現在の生活とはほとんど関りが無いような問題にも、疑問を作り出しては尋ねにいく。

 内海は館内に入るとまず雑誌の閲覧棚へ足を向けた。

 そのあたりの棚には、内海と同じような老年の男が多い。閲覧机で新聞を広げる無骨な背の並びはいつも通りの風景でこれまで気にも留めてこなかったが、この時には自分の背も並びに見るようでいたたまれない気持ちになった。袈裟男の印象がまだ残っているためかもしれない。しかし悪天に閑散とする館内にも、この場所だけは示し合わせたように人影が身を寄せている。どこかに自分と同じ顔があるかもしれない。そう考えるとどの背も自分のように見えてくる。

 内海は今見るどの背を蹴落としてでも、天使の憐憫と微笑みを勝ち取りたいと思った。それと同時に、自分を含め誰も憐憫など与えられそうにない場景に思う。

 俺はしかばねのように棚と机と便所とを徘徊するだけだ。この場が時間を潰すだけの場所なら、ここは死が来るまでの待合室だ。

 内海はそんな閃きに立ちすくんだ後、静かに帽子のつばを下げ、雑誌棚へ向かった。

 棚を折れると内海の足ははたと止まった。雑誌棚の通路にはそぐわない、子供が突っ立っているのである。まだ初夏ではあるが、その子供は真っ黒に日焼けしており、どこからか走ってここまできたのか、前髪や首筋に汗の光が見える。昔よりも子供を外で見かけなくなったが、それでもこの子のように健康的に外で遊ぶのもいるのかと内海は内心感心しながら、そっと脇に避け、子供を通そうとした。

 子供もそれと気が付いてか心持横に避けると内海を通そうとした。その際二人は目が合った。子供の瞳は緊迫に満ちていた。すれ違って、内海はハッとした。

「ぼく、お母さんは?」

子供は振り返ると、潤いに満ち、しかし敵意すらこもる目で内海を見上げ、首を左右に振った。

「そうか、迷子か」

内海はすかさず手を子供の頭に伸ばそうとして、しかし子供は後ずさりしてそれを避けた。

「お母さんと一緒にここに来たの」

子供は再び顔を振った。

「じゃあひとりで来たの」

また首を振る。分からないのか。

「よし、おじさんに着いておいで。お母さん探してあげるから」

手を差し出すも、子供は手を後ろに隠した。が、その代わり、じっと内海を見上げ数歩歩み寄るところを見れば、頼ってくれるらしいことは分かった。その様子に自然と使命感が湧いた。俺がこの子を助けてやらねばと思う。もし母親と来ているならば、母親の方もこの子を探しているに違いなかった。ならば窓口に向かうのが早いだろう。

 貸出やレファレンス窓口が並ぶカウンターには、利用者は見当たらず閑散としていた。そこに首を並べる職員の顔が、雨と湿気のせいかみな陶器のように白く浮いた。くわえて室内は冷えるのだろう、誰も質素なシャツに黒い上着を一様に纏い、俯き並ぶ姿は通夜のようにも見える。

 内海はレファレンスの窓口を選んだ。職員へ状況を見せ理解を得るには、座ってゆっくりと話す必要があると思った。何よりそれは自分のためでもあった。

「ちょっと、すみません」

職員は顔を上げた。厚く切れ長の瞼を持つ、若い女の職員だった。彼女も白いシャツに黒いカーディガンを羽織っている。シャツの首元には翡翠のループタイが締められていた。

「迷子がいまして」

女は首を伸ばして、立つままの内海の腰のあたりを覗いた。

「あら」

「親御さんはここに来られてないですか」

「そうですね、まだ……あ、」

と、女の表情が明るくなった。その目を追って振り向けば、本棚の遠い通路で光を背にたたずむ人影があった。その影が、小さく挙げた手を微かに振っている。

「ねえ、あれ、お母さんかな?」

女が内海の腰のあたりへ問いかけた。すると小さな黒い影が足元から飛び出して、何も言わずその方へと走っていく。やがて逆光の影に子供も入って、大きな人影へと縋り付くのが見えた。

「ふふ、よかった」

内海は職員の女を再び顧みた。切れ長の目が柔らかく丸まって、それが遠い先から内海の方へ戻された。

「よかった」

「ええ」

内海は軽く両手を広げた。もう用事はない。しかし内海は離れがたかった。レファレンスの女にもう恋に似た親しみを覚えてしまった。女は戸惑いも見せず微笑のまま自分を見上げている。内海は手引かれるように話し始めた。

「あの」

「はい。他に何か」

「質問がありまして」

「でしたら、おかけに。」

内海は椅子に掛けると、もじもじと手を揉み始めた。

「……あのですね、自分と似た人間と出会ったという記録はあるでしょうか」

「似たひと?」

「似たというか、もう、まるっきり同じ顔といいますか。いや、そんなことが人生には起こるものかと」

「生き写し……?」

「そう、そうです。それも過去の自分と、」

「分身、ですかね。記録をお調べすればよろしいですか」

「ええ、そう、分身。お願いできますか」

お待ちくださいと、女は備えられたパソコンを触り始めた。その間、内海は分身と口にした自分の言葉と、喫茶店の袈裟男、そして先ほどの子供の影とが交互に目の内へ流れ、すっと背に氷水が流れる感触を覚えた。どうか思えば、先ほどの子供も見たことのある気がする。思えば思うほど、それは自分の幼少に写った写真の姿によく似ている気がしてくる。内海の乾いた額に汗が浮き始めた。

 ふふ、と女の含み笑いが聞こえた。目を遣ると、調べ終えたようで顔を上げている。

「ありましたか」

女は再び画面に目を向けた。

「歴史上の人物でしたら、ピタゴラスリンカーン芥川龍之介などが記録にありますね。どれも自分と瓜二つの人物を見かけたようです」

「本当ですか」

「それらはドッペルゲンガーやダブル、離魂、生霊などと呼ばれるようですね」

「その、分身に出会った彼らはどうなりましたか。いや、何か不吉な感じがして。」

女は不敵な笑みを浮かべた。おかしなことを聞くのは内海のほうも自覚していた。

「皆さんお亡くなりになりましたね」

女は冗談だと言うように笑った。当然だ、人は皆死ぬ。しかしそれがふいに嫣然として美しかった。内海の額はどうしてか、風が吹いたように晴れ晴れとし始めた。

「はは、死んだ? もれなくですか」

「ですね」

「あの、どうにかして、分身から逃れる方法などはありますか」

滑稽は承知だった。また、女は蔵書などにはあたらず手抜きをしていると内海は感づいていた。それでも内海は、そのやり取りが遊ぶようにおかしく、恥も忘れて会話を繋いだ。

「あのですね」

女は微笑んだまま、画面から目を離すと手を机の上に結んだ。上品であった。

「ここは占いや診察、人生相談にはお答えできません。利用者さんが知りたいことを書籍から調べてお伝えするだけです。ですから情報は選ばずありのままに、そして個人的な意見は含まれませんし申し上げるのも出来かねますが」

内海は子供のようにうなずいた。

「単刀直入に申し上げるとドッペルゲンガ―は死の前兆とされています。しかしご心配なく、二度出会えば、ということですから」

「さっきが、二度目だった。」

海の声は上ずった。ああ、ですね。と、女は気の無い返事だった。そして口の端を少し上げると、再びゆっくりと続けた。

「ならばドッペルゲンガ―とは予兆というより死の遣いでしょうか。ならば死神とは案外自分の姿をしているのかもしれませんね」

ふふ、と女はまたしても笑った。するとやにわに、音が波のように辺りを包んだ。抑揚のある湯のような音である。館内放送だろうか、が、耳を傾ければすぐそれが、あの歌声だと分かった。

 内海の手は震え出した。レファレンスの女に縋り付かないばかりに体を起こした。

「二度です。それも若い頃と子供の頃と、二人の私と私は出会いました。私はもう死んでしまうのでしょうか」

 女は頷き、きゅっと口角を挙げた。

「落ち着いてください。そのためにここがあるのです。考えようによったら前兆があってよかったじゃないですか。準備ができる。でしょう。予期なく死が訪れる方々もいらっしゃいますよ。あ、そうだ。地獄めぐりの本などお探ししましょうか」

「いや、結構です」

内海は含み笑いをこぼした。

「では、もう?」

女の声にも笑みがこもる。

「ええ、帰ります。」

「それがよろしいかと思います」

「じゃあ。お嬢さんもお元気で」

「あはは」

内海は血の気を失いながらも、しかし微笑みは絶えなかった。曖昧になる意識のうちに駐車場を探した。歌声は館外まで響くようだった。

 

 雨脚が強くなり、霧雨は本降りとなった。

 内海は帰るなりソファに座るとブランケットを肩まで被り冷えた体を包んだ。夏だというのにずいぶん寒い思いをしている。衰えた体はなかなか温まらなかった。

 見回せど、家の中は内海独りである。変わったことといえば新しくテーブルに置かれた食事ぐらいのものだった。宅食の配達員には合鍵を渡してある。内海の帰りが遅い日はそうやって置いて行ってくれる。が、冷えた食事には手を付けられそうになかった。

 今日出会った人々の影が、内海の頭のなかでぐるぐると回って舞っていた。いまでも振り向けば、ソファの背や客間の襖の間、カーテンの陰や机の下に、彼らが微笑みひそんでいそうだった。二度自分と出会えば死んでしまう。レファレンスの女はそう言った。良く笑う女であった。いつまでも彼女たちと笑い合っていたかった。

 内海はブランケットに身を包みながら、じっと暗い部屋を見つめた。沈黙する家具にはそれぞれの傷と汚れがある。そこに、幼い自分の娘たちや若い妻の姿が重なって見えた。そして、死の間際の景色に、若者の憐憫を得たいという自分の望みが、ついぞ下卑たものであると察した。

 内海は思い立つと、ブランケットを抱え、書斎へと向かった。

 ガラス棚を開け放ちアルバムを漁った。手当たり次第に本棚からアルバムを抜き出すも、娘たちや妻の写真ばかりで、そこに自分の姿は見当たらない。しかし内海の心は次第に暖められていった。写真に映るのは幼い娘たちである。一枚一枚は瞬間であるが、それを撮影した内海には、前後の時間が断片的な映像としてよみがえっていた。場所はどこか、何をしているのか、それらは明瞭ではない。しかしそれは重要ではなかった。ただ生きてきたこと、命としてあったこと、そこに生きて動いていたこと、それだけの事実に、内海の心は打ちひしがれた。それがたまらなく愛おしく思えた。そしてその営みが、今も地球上で無数に無限に行われていることが、ひどく満足に思えた。

 内海はアルバムを開くのを止め、一人掛けのソファにゆっくりと腰かけた。もう見なくとも、自分の記憶の中で十分に麗しい時を楽しめる。そしてその情景にいつしか憐憫の瞳を向けられると気がついた。内海は誰へとなく静かに何度も頷いた。

 と、どこからか抜け落ちたのか、床に一枚の写真が落ちている。表を返すと、それはどの写真よりも古く色あせたものだった。

 それはどこか山小屋のように小さい部屋だった。中心には赤子を抱いた女がひとり写っている。目を閉じ、口を微かに開けて、胸の赤子に何かささやいているようだった。

 内海はその写真を手元に、ソファに身を沈めるとゆっくりと目を閉じた。思い返すのは、記憶だろうか、それともまったく無関係の、映画の一場面のような気もする。

 情景は湖畔近くの山小屋であった。冬の時期には積雪で周囲の道が途絶えてしまう。山小屋は雪原に孤立していた。

 リビングはごく小さく、身を置くのはソファというにはずいぶん質素なもので、コの字に木を組み、上に布をかぶせただけのものである。座れば当然尻が痛い。

 正面の座の高いスツールに痩せた女が尻半分に座り、赤子を抱きながら歌を歌い始めた。あの歌声だ。

 部屋の中は冷たい。貧しさに、暖房器具に使う燃料は限られている。小さな薪ストーブが、部屋の隅で微かな光を灯していた。その働きはわずかだろう。しかし着込んだ羊毛のセーターやひざ掛けがあれば耐えられないことはない。

 歌声の主との生活は慎ましいものだった。コの字に囲んだ中央に小さなテーブルがある。自前の簡素なものであるが、気にする者はいない。テーブルの上には粗末な食事があった。古く固い大きなパンをちぎったものと、ありものをただ煮込み続けた薄い汁である。

 洗濯などは滅多にしない。掃除は掃き掃除ぐらいである。それでも汚れというものは、この生活では厭忌するものではなかった。それは生きれば自然であるし、汚れすらも暖だった。

 それはただ老い死に行く生活だった。

 しかしこの生活には歌声があった。歌声は小さな家に静かに響き、そうありながら湖畔まで広く届く。冬の湖に霧雨は降らない。冷えてすべては氷になった。

 内海は目を開けた。誰もいない書斎と静かな家具と、今しがたの幻想に通じるのは、外光だけの灰色だった。

 すると、どこか遠くからあの歌声が内海の耳に聞こえ始めた。幻想ではない。確実に、本当の歌声だった。

 内海は立ち上がり、ブランケットも放り出して玄関へ駆け出した。

 日も暮れ、玄関は冬のように暗く冷えていた。しかし光ない扉の向こうに、あの歌声が聞こえる。すぐそばまで近寄って来てくれている。

 内海は恍惚な誘いに踊らされるよう、自ら玄関を開け放った。

「お母さん!」

 歌声が、ようやく迎えにやって来た。(了)