抽斗の釘

小説、散文、文章、短編

小綱の呪い

 目を覚ますと砂の上に居た。それも、薄紅色の砂だった。ここはどこだろうと辺りを見回すが、薄紅の砂浜と、それに沿って深い青の海が広がり、海の反対側には浜に並行して深そうな森が伸びているのが分かるだけだった。記憶のある風景では無かった。空からは霧雨が降っていて、体中濡れていたけれど、冷たくも寒くもなかった。空を見上げると、雲も薄紅色をしていた。なんとも気味の悪い風景のなか、僕は朦朧としていて、それまでのことは思い出そうとしてうまくいかない。僕は眠っていたようだった。暫くぼんやりとそのまま、静かに寄せる波を眺めていた。もう一度寝てしまおうかとも思った。しかしそうしていても仕方なく、歩こうと思った。歩いて、ここがどういう所なのか確かめようと思った。シャツもズボンも砂まみれで、叩いてもなかなか落ちない。砂まみれのままで、雨に湿る砂に足跡を付けながら、海岸に沿って歩くことにした。辺りは静かで、波の寄せる音と、砂が水分を吸い込む、シュワシュワとした音だけが鳴っていた。

  しばらく進んで砂の小山を越えると、土地の子供だろうか、ひとりの男の子が、波打ち際でパチャパチャと遊んでいるのを見つけた。学校帰りだろうか、麻の手提げ鞄を砂の上に放り出して、波だとか、砂だとかを蹴り上げている。僕は他に頼りもないので、その男の子に話しかけることにした。

「こんにちは。ひとりで遊んでいると危ないぞ」

男の子は僕に話しかけられて、一寸まごまごとしていた。何をしていると尋ねると、

「海をみてる」

 とのことだった。

「海たって、ここらの子だろ? 珍しいものでもなしに」

「うん、何もないよ。……あなたは誰? 村の人?」

「いや、村の人間ではないよ。たぶん違うところから来たんだ」

「……ふうん。遠くなら山の向こうに行ったことあるよ。あなたはそこの人?」

「どうだろう? いや、もっと遠く。たぶん君の知らないところ」

「じゃあ、遊覧船に乗ったの?」

「遊覧船? 歩いてきたのだと思うけど。よく覚えていないんだよ」

「ふうん、変だね。……遊覧船なら島のそばを通るんだよ」

「島? そう……。ここはなんていう所? その村まで連れて行って欲しいんだけど」

「ううん。いいけど。……でもぼくはやめたほうがいいと思う」

「どうして? 僕は帰りたいんだよ」

「……ねえ、こつなって知ってる?」

「こつな? いや、知らないな。こつな?」

「鬼の子だよ。御爺様がね、島にいるんだって」

男の子は伏せた目のまま、相変わらず足で砂をいじっていた。僕は島と聞いて、自然と海のほうを見た。水平線は靄でぼやけていたが、そこに薄っすらと青い輪郭が見えた。その方に陸地があるようだった。

「あの島? あの島に鬼が住んでいるの?」

「知らないよ。でも御爺様がそうだって」

「怖い鬼?」

「そんなの怖くないよ!」

 男の子は一転、弾ける様にケラケラと笑った。何が面白いのか僕は分からなかったが、僕の反応が曖昧なので、俯いていた男の子は、はっと顔を上げて、僕の瞳をじっと見つめた。そしてまた俯いて、砂をいじりながら口を開いた。

「こつなは鬼の子供なんだよ」

「鬼? どんな……?」

「知らないの? みんな知ってるよ」

「僕は知らないんだ。みんなお爺さんに聞いたの?」

「御爺様はもういないよ。でもぼくはこの前御爺様に聞いたんだ」

「そう? ……、それよりも村に連れて行って欲しいんだけど」

男の子は尚も俯いたまま、足で砂の小山を左右に動かしている。

「ねえ。じゃあ、おおつなは知ってる? ……」

「おおつな? いや、それも知らない」

「じゃあ教えてあげるよ」

それから男の子は、ゆっくりと、しかし徐々に速度を上げて、大綱の話を始めた。男の子の祖父から聞いた話か、それともどこかの本を暗記したのか。宙を見ながら淡々と語るその話しぶりは、彼の幼さの分、なんだか何かが憑いたように狂気じみて、僕は気押されそうになりながらも、男の子の話にじっと耳を傾けた。男の子が満足すれば、きっと村へ連れて行ってくれるだろう。僕は今にも動きたい気持ちを我慢することにした。その間も、霧雨は僕らの体を静かに湿らせていった。

 


「そのむかし、国には方々鬼が棲んでいた。中でも西の大綱は有名で、体は大きく力持ち、手の付けられない無法者。十人かかる引き網を、ひとりで軽々上げるその様は、やはり鬼そのもので、いつしか者共彼を大綱と呼ぶ。夜な夜な海を渡って村に現れ、米と宝を奪っていった。者共困り、ある日娘を差し出した。娘はサヨと呼ばれる器量者、村一番の娘であった。娘は老いた親を持ち、当然彼のらは泣いて拒んだ。しかしそれもこれも村のため、鬼が退くならそれも命と、身を捨て鬼へと攫われた。悲しんだのは老いた親。露を飲んでは娘を思い、無事であれと願わぬ日は無い。募る思いは瓶を溢れ、次の新月闇夜に紛れ、翁はひとり海に出た。

   鬼の島は美しく、冷泉嘆美で獣も眠る。翁は鬼の寝床へ忍び込む。中を覗けば鬼は留守。翁と娘は泣いて喜ぶ。翁は娘を誘い出す。しかし赤子が居るから逃げ出せぬ。置いて行けと翁は言うが、娘は一向首を振る。そこへ鬼が戻り来て、逃しはせぬと怒りに燃えた。翁と娘は赤子を抱え、風のように船へ飛び乗る。鬼の足に地面は揺れて、赤子は激しく泣き出した。鬼の怒りに海は荒れ、容易に船は進まない。そこへ娘は大きく手を振る。鬼への別れを告げるため、力いっぱい手を振った。鬼はひとたびそれを見遣ると、嵐は去るように静まった。怒りは消えて、波は止む。船は進んで島を離れ、鬼の姿は闇に巻き、ついぞ見えなくなってしまった。

彼らは村まで辿り着き、赤子は小綱と名付けられ、村ですくすく育っていった。しかし小綱は鬼の血を引く。者共からは鬼の子だとはやし立てられ、ついに村には住めなくなった。気に病む小綱は、山の柴に火をつけて、そこへ飛び込み、身体を焼いて死んでしまった。小綱の体は灰になって空に飛び散り、いつしか消えて無くなった。それからというもの、鬼は村に現れない」

 


  僕と男の子はいつしか砂浜に腰を下ろして海を眺めていた。男の子は話が終わると、ふいと濡れた髪を揺らして僕の顔を見上げた。

「これは学校で習うやつだよ」

「学校? お爺さんじゃなくて?」

「御爺様のはこつなの話だよ」

「ふうん? それじゃあこつなは村人からいじめら   れて、死んでしまったわけだ」

そう聞くと、男の子は放っていた手提げ鞄を手繰り寄せ、中から紙の束を取り出した。それは古い紐で綴じられた藁半紙の束で、表には、「○○地区片子伝承に関する覚書」と記されていた。きっと男の子の祖父のものであろう著作名が記されている。男の子は僕にそれを差し出した。

「これはお爺さんが書いたの?」

「家にあったんだ」

男の子は少し固い笑顔を浮かべながら、三角座りの膝の裏へ、両手を抱え込んで揺れていた。人文学か、風土歴史の研究書かだと思いパラパラと中を開けると、記録書にしては情緒的で、物語的な内容であった。前半は男の子が話したような内容とほぼ同様であったが、後半は鬼の子、小綱がどのような半生を遂げたのか、作者の創作で描かれていた。きっと彼の祖父の趣味か娯楽で書かれた他愛のない散文だろうと、僕は一寸面倒くさくもあったが、男の子の手前、砂の湿りを尻に感じながら、波の音を耳に、その物語を読み始めた。

 


……暗がりの部屋の中、パチパチと囲炉裏の薪が心細く弾けている。その白い薪を瓦釘で突きながら、海水に濡れた体を暖める翁は、やはりそうやっていても不安を紛らわせそうには無かった。無事に島から抜け出せたのは良かった。しかし海水に濡れた赤子の包み布団を剥いだ時、翁と刀自は驚いた。赤子は両腕を縮みながら、すやすやと眠っていたが、その肌の色、青い痣が斑点状に、全身に黴のように生えていた。

「こりゃあ……」

 翁は言葉にならず、刀自は小さく悲鳴のような声を 上げると、おろおろと取り乱している。

「可愛いでしょう? あなたの孫(ムマゴ)ですよ」

サヨは目を細めて赤子を抱いている。

「こりゃあ、どうしたんかね? 鬼の子だろう、この肌は。どうしたことだ」

「どうもありませんやね。……名は、小綱です。ほら、こんなに小さな手々で。見てやってくださいな」

「こりゃあ、どうしたもんだね。だからあの時捨てろと……。いや、しやあねえ。しやあねえがしかし……」

翁は大きく開いていた目を、力なく緩めた。サヨはそんな父の様子を気にも留めず、体を揺らして赤子をあやしている。赤子は眠たいのか、閉じられた瞼の上に、薄く細い眉をしかめ、長い夜に唸るだけであった。

  只でさえ、鬼に攫われ姿を消していた娘が、或る晩突然戻ってきたのである。当然村の人々は不振の目で翁の家族の様子を窺った。そして娘は見知らぬ子供を抱えている。しかもその子というのが、人には見えぬ肌の色を持っていた。彼らはすぐに妖の気配を感じ取った。鬼の気配というだけで村人からは敬遠されるが、しかし実際のところ、本当に鬼の子供かどうかは定かではない。問題は経緯と結果であった。サヨと翁は何処の者か分からない、外の血を村に引き入れたのである。その特異性、特殊性が、村の人々の本能的な保身を脅かした。半分はサヨの血であるとはいえ、それも村人からしたらどうだか知れない。何せ村人は小綱の産場を目撃していない。ともかくそういった経緯があって、結果として、現れたのが尋常ではない肌の色の子だ。村人は警戒し、嫌忌せずにはいられなかった。

  小綱がそんな生まれで、また肌をもっていたため、彼は当然のように村人から疎外を受ける対象になった。村人からは鬼の子だと気味悪がられて、誰も集まりに加えようとはしない。こそこそと噂をし、こつなの痣をしかめ面で厭った。

「鬼の子だ。今に人を喰うぜ」

「あの痣に触れると痣が移ると聞いた。あの家のモンは鬼が化けてるらしい」

「なにせ鬼に寝取られたんだ。卑しい娘よ、あれは」

そういった会話が、晴れの日も雨の日も、村の軒では交わされた。話題や退屈を持て余す村人にとって、それは恰好の材料だった。

  翁夫婦も、サヨには見せぬが、小綱には鬼の血が流れていると密かに恐れた。サヨ自身すら、鬼と自分の子だと言うし、しつこく口を出した日には、「誰が親でも関係ない。」とサヨは怒るのである。そうやって、サヨは小綱の生まれや見た目を人目から気にする様子を出さず、ひとりの母親として優しく小綱を愛した。そんなサヨの様子もあって、翁夫婦は、他の村人からすると、幾分嫌忌を面に出さず、通常の祖父母のように小綱を可愛がるように見えた。しかしやはり、村の者と話す会話の端々には、小綱が普通に生まれた子であるならばと、何処か肩身の狭い思いをしない時は無かった。家の子はああだからと、つい口癖のように言ってしまい、その口癖に何の作為も混じらないものだから、祖父母からの子孫への劣等感は消えることが無かったのだろう。そして何より、翁の一族の血を汚したと、残念に思ったこと、しいては村中からそう思われることが、翁にとって無念であり、情けなくもあった。

  小綱が七つの頃になれば青い痣は絵の具を垂らしたように広く濃く伸びた。ある夜から、それはとても痛みだした。痛い痛いと小綱は幼い口でサヨへ訴え、布団の上を転がり、容易に寝付けそうにない。サヨはどうにかして痛みを癒してやろうと、湯を沸かして布で痣に当ててやった。しかしそれでも駄目だった。癒えるどころか、痛みが走ると見えて、小綱はぎゃあと大声で泣きだす仕舞いだった。どうしようもなく、あれやこれやとサヨはなだめ、鎮めて、それでも小綱は転げまわり、床を掻いて、そうやっていつしか疲れ切って眠ってしまうのだった。

そういった日が続いて、これはいけないと、サヨは小綱を、村の薬師へ連れて行った。薬師は眠たげな目に茶けた半纏を羽織った気難し気な老人で、手の甲や額には大きな瘤が幾つもあった。

「これはどうだろう、草や虫のかぶれでは無くて、生まれつきのように見えるね」

薬師はごわごわとした手で小綱の肌を撫で、指先で突いた。ちょっと黙り込んで、そして手の甲の瘤をサヨと小綱に見せて言った。

「これを見てくれ、これも生まれつきのものでね。後から後から増えて腫れてくるんだ。残念ながらこれも薬が無くってね。かぶれや解熱、鎮静、消毒、いろいろ薬を作ってみたが駄目だった。あんたも恐らくその類だよ。つまり、薬が無いんだ。治し方が分からない。うつりはしないと思うがね」

「そんな、何か方法は……」

 サヨは食い下がろうとしたが、どうしようもないことをすぐに悟った。次の言葉も出てこず、静かに黙り込んでしまった。

「……では、治してくれとはもう言いません、せめて痛みを和らげる方法は無いんでしょうか?」

「ううむ。肌を清潔に、毎晩湯で洗ってあげるしか無いね……、これ以上ひどくならないようにね」

「しかし湯も痛むと泣くのです」

「そうか。ならば湯が痛いというのなら、これを渡すから、これで暖めてあげなさい。魚から絞った油だ。少しは肌が柔くなって、痛みもましになるかもしれない」

 


  村人の中には、小綱の特異性を受け入れてくれる、賢明で分別のある大人も居ないではなかった。医者も移るものでは無いと言ったことから、それを信じ、小綱と遊んでやったり、声をかけてやったり、サヨの代わりに面倒を見てやったりした。しかし小綱自身、そんな大人たちの目から、憐れみや蔑みといった感情を、子供ながらに汲み取っていた。そういった鋭さ、敏感さという小綱の特性は、或る種の、鬼の妖気に近いものがあったのかもしれない。ともかく小綱や周りの子供が幼い頃は、まだそれでも、その、世間から向けられたものが、なんだか分からずに生活していた。分からないながらも、自分の存在の祝福されていないこと、自分は厭わしいもの、そういった、何処か肩身の狭い思いをしなければならない運命を、漠然と抱えて生きていたのだった。

  月日は流れ小綱は十になった。彼は口下手でもじもじと控えめな子になった。背は他の子より一回りも大きく、力も強い。そして大きくなるにつれて段々と、自分の見た目と境遇と、周囲の目とを意識するようになった。その世間から向けられているもの、肩身の狭い思い、自分が世間から祝福されないもの、視覚的にも、厭われているものという自覚が、心の中に形のあるものとして蓄積し始めた。村人の目、子供たちの言動、さらに言うと家族にも迷惑をかけているのではないかといった疑心、それらは逐一小綱の心にぐさりと刺さり続けた。暑い日でも大きな布を纏って、出来るだけ肌を隠すようにした。蒸れて痣の痛みは増し、母親には布を取るよう注意されたが、それでも人目を汚す思いをさせるよりは良いと頑なに外さなかった。今更痣の痛みを訴えても仕方なく、その痛みはすでに彼の日常として当たり前のものになっていた。

  周囲の子共は、大人を真似て残酷だった。そして彼らの純粋な好奇も、小綱にとっては残酷だった。子供たちは大人と同じように小綱の体や親が鬼であることを面白がって、こそこそと噂をし、理由を付けて遊びの輪へ誘うことを避けた。そんな時、小綱は勇気を出して子供たちに声をかけることが出来なかった。自分が子供たちに受け入れられるとは、到底思わなかったし、自分などが遊びに加わるなんて迷惑だと思った。友達を悪い気分にさせたくない、そう思ったのだった。そう思いながら、それ以上に、もしまた断られたらと、自分が否定される恐怖のほうが強かった。小綱はそんな時、上手い対処というのをまだ知ることが無かった。村の隅の影に隠れて、ただ日が暮れるのを待ったのである。家に居れば家族に心配をかける。ひとりぼっちの所に、通り掛けの大人に声を掛けられても、力なく笑って、その時が過ぎるのを待つしかなかった。また次第に、小綱が反撃をしないと分かると、子供たちは直接小綱へ攻撃の手を向けた。小綱があまりにもその境遇を受け入れすぎたのだった。

「よう、なんでそんな色をしてるんだ」

「小綱、お前が何を気にしているのか知ってるぜ、その痣だろう」

「鬼がおとうだったのは本当か? みんな言ってるぜ」

「カビが生えているみたいだ。洗って落とさないのかよ」

「ちょっと触らせてみろよ」

「やめとけ、触るとうつるぜ、痒くなって鬼になる」

みんなで小綱を囲って、木の枝などで痣を突いては、悲鳴を上げて逃げ回った。また、体中に魚の油を塗っているものだから、小綱からは生臭さがにじみ出ている。魚の死骸だと馬鹿にされ、おとなしい子供からも避けられた。それでも、やはり大人びたというか、人を傷つけることは良くないと知っている子共たちも少しは居て、その者からは助けてもらったり、かばってもらったりもした。小綱はそんな優しさを嬉しく思った。優しさに人知れず涙を流したりした。しかしそれ以上に、情けない気持ちでいっぱいになった。そしてそんな子供たちからも憐れみのようなものを感じて、やるせなくなったのだった。小綱はただ、他の子と同じように、対等に暮らしたかった。もちろん子供たちはそんな難しいことを一々考えない。しかしこれまで人の目にさらされ続けた小綱にとっては、人の目を色々考えてしまう癖がついていた。人々を不快な思いにさせたくない、ただ純粋に、自分の感じたこと、考えていることを伝えたいと願ったのだった。

  小綱はある日、思い切って母親のサヨに相談をした。

「お母さん、なぜ僕はこんな見た目なんでしょうか。この肌はどうしたら治すことが出来るんでしょうか」

小綱の湿った瞳から、小綱がその脆弱な勇気をひねって言葉を出していることが、サヨにはよく分かった。普段あまり不満を口にしない小綱であったので、サヨはそれにも驚いた。

「……ああ小綱、確かにお前は他とは違う見た目で、生まれも特別です。でも、誰もそんなこと気にしないわよ。誰かに何か言われたって、そんなこと気にするもんじゃないわ。元気に声をかけてみなさいよ。仲間にいれてって言うだけだわ、簡単なことよ」

サヨは小綱の状況をある程度は察していた。だから余計に、気丈に振舞うことが必要だと考えていたのだった。それは、小綱に対するサヨ自身の態度でも、そうやって見せることが息子への教育だと考えた。その考えは、世を渡るうえで一部では正解だった。村人や、特に子供たちからの、好奇の目や特異性に注目する心理は、村という小さな集団を成り立たせるうえで当然の機能だった。そしてその特異性は一時的なもので、例えば小綱の方から勇気を出して輪に入っていったり、周囲の子供らと同等か、それ以上の力で向かっていたりすれば、自然にその特異性というものは慣れてしまって、厭わしささえ残るものの、攻撃を向けられることは無くなっていたに違いない。誰しもある程度の特異性は抱えているものだ。みなそれを隠したり、押し殺したりして人々の輪に入る。また、時にはそれを武器に人々を導く。しかし小綱はまだ世間ずれしていない子供だった。そして、そういうことが出来ない心を持っていた。そんな難しい考え方は出来ずに、ただ目に入る自分の痣と痛みを恨めしく思った。小綱はそんな風に母親に説得され、なんとも悲しい気持ちのまま、わかりましたと話を切り上げた。

  小綱はその夜、布団の中で考えた。母親の言うように、勇気を出そうかとも思った。しかしそう思うとまた、なんとも悲しい気持ちに襲われた。自分が世界で一人ぼっちのような気持になった。痣が無くなりさえすれば、すべてはうまくいくのだと、そう思った。小綱はただ、みなと同じように、心配なく遊びたいだけであった。みなに、他の子たちと同じように、何の心配もなくお喋りをしたいだけだった。

小綱はそうやっていつからか、みんなと仲良く出来ないのはこの痣のせいだと自分の体を呪うようになった。そしてなぜ生まれてきたのかとその境遇を呪った。小綱の心の弱さは段々ひどくなって、些細なことですぐに傷つき、のけ者になれば、自分なんて生まれなければよかったと、ひとり涙を流した。誰にでも訪れる孤独をうまく処理できず、それが自分だけなのか、みんな持つものなのかをも知らず、どうしたら良いのか分からなくなって、そして、その溢れる、ドロドロとした気持ちの処理の方法として、その矛先として、自分が生まれるきっかけとなった、自分の父親を呪うようになった。なぜ父親が鬼なのか、なぜ僕をこんな目に合わすのか。なぜ母を傷つけ、みなと同じような体にしてくれなかったのか。そして一向に姿を現さず、僕を守ってくれもしない。姿も見たことがない父親が、自分に向けて薄ら笑いを浮かべているような、小綱の頭には、そんな憎らしい想像がこびりつくのだった。そしてその憎らしい想像は、小綱の最大の敵として小綱の前に立ちはだかった、

 さて、母親のサヨは、そんな相談を受けてから弱々しい小綱を、どうにか強い大人に育てようと色々と工夫を行った。小綱を、その生い立ちからくる弱く繊細な子供だと分析して、この辛い世の中に、ひとりでも生き抜いていくことができるよう、父親のように力強く生きていけるよう、よくよく勉強させ、運動をさせ、出来るだけ他の子供と関わらせて、立派な大人になることを願った。それでもうまくいかず、ぐずぐずする小綱をけしかけては、体の痣など、人との違いなどは取るにならないことだと、ことあるごとに小綱を叱り教えた。

 そんな母親の教えもあって、小綱はのけ者にされながらも勉強に励み、仲間の輪に入ろうと努めた。周りの子供も成長するにつれ、小綱をのけ者にせずに、受け入れる場面も生まれるようになった。しかしそういう場面が増えるほどに、ふいに訪れる、痣や生まれを気味悪がられる瞬間が、余計に小綱を苦しめた。希望を抱くほどに、失望は色濃くなり、その性質は、彼へ呪いのようにまとわりついた。

 日ごとに、小綱の体は目に見えて変わっていった。痣は薄くなるどころか更に濃くなり、もう彼の体に青い所が無い程に染まっていった。また、額の上には突起のような瘤が生え、それを発見した小綱は、まるで角のようだと余計にふさぎ込んだ。そうなると、もういよいよ人目に出ることが耐えられず、彼は家に籠るようになった。毎晩自分の突起を触っては、涙を流し、しかしそれでも母親は、人と異なることを嘆かぬよう、前向きに努力することを諦めさせず、明るい声をかけ続けた。そんな日々を過ごすうちに、小綱は暗い家の中、ついに村で生きていくことが耐えられないと思い立った。何をしていても息苦しく、意識があるうちは常にどこか辛い。食事も味が無くなって、睡眠の中では化け物に追われた。昼間の長閑な村の声も、家の影で小さくなる小綱にとっては耳障りであった。耳を自分で引っ張り血が滲んだ。不眠に目は落ちくぼんで妙な眼力を持った。苦しさを紛らわすために、小綱はある日、衝動に襲われて、自分の腕に噛みついた。それは行き場のない気持ちの排出だった。噛み口からは血が溢れて、口の中へと広がった。血の味は、不思議と彼の心を優しく静めるものだった。そうやって一人で色々と暴れたり、自分を壊したりすることで、やっと一息つくことが出来るのだった。

 満月が浮かぶ、村の祭りの日だった。小綱は相変わらず、暗闇の家に一人で布団にくるまってやり過ごそうとしていた。その日もひとしきり自分を傷つけて、やっとウトウトしながら、そこである夢をみたのだった。小綱は夜の砂浜で焚火をしていて、辺りは暗く、周囲の砂だけが灯りに紅い色をしているのが印象的だった。そこには小綱の父親、大綱がいた。夢で見た大綱は、村の人々が言うような怖いものでは無かった。小綱はそこで、大綱と一緒に餅を焼いて食べた。それは小綱が捏ねて作った祭りの餅で、熱々のそれを息を掛けながらふたりで分けたのだった。大綱はその餅を食べて、美味いと言って笑ってくれた。小綱はそれがとても嬉しかった。

  ドンドンドンと太鼓の音が腹に響いた。盛り上がる祭りの音で小綱は目を覚ました。村の祭りはいよいよ佳境だった。祭りばやしが夜空に響いて、村人の賑やかな笑い声や、皆が息を合わせる力強い掛け声や歌が、地面から沸ように響いていた。小綱はもぞもぞと布団からでると、窓から祭りの様子をこっそりと覗いた。村は燈火に炎々と沸いて、みな楽しそうだった。賑やかにお酒を飲んだり餅を食べたり、汗をかいて踊ったりしていた。小綱はそんな村人たちの活気や匂いがとても厭わしく感じて、そこから離れたい、どこか遠くへ行きたいと強く思った。そこで小綱は、このまま誰も知らないうちに、ひとりでこっそりと村を抜け出そうと考えた。

「村にはもう、僕の居場所なんてありはしないんだ。村を抜け出そう。僕が消えてもきっと誰も悲しまない。僕は居なくなってもいいんだ」

しかし何処へ行こう。小綱が思いついたのは、あの大綱の島へ行くことだった。あれほど恨んでいた大綱だったが、しかし夢で出会った大綱が、本当のように思えたのだった。あの大綱に会ってみたい。あの大綱なら、僕を受け入れてくれるだろう、小綱にはそんな思いが芽生えていた。思い出こそ無いものの、その時の小綱は、大綱に呼ばれているとさえ思ったのだった。幸い村の人々は祭りに集まって、小綱のことなど気にかける様子はない。家族でさえ、小綱を置いて祭りの仕事に参加していた。抜け出すにはこの時しかなかった。小綱は祭りが終わらないうちに、暗闇の海岸へ、一直線に走り抜けた。

 


 夜の海は満潮で、平生よりも水嵩が増えていたが、満月の明りで遠くまでよく見えた。小綱は翁の櫓船を、力いっぱい浜辺から押し、静かに揺れる水面へ出した。そこへひょいと飛び乗ると、櫓船はよく揺れて、それで小綱はちょっと怖くなったが、しかし櫓船はもう引潮に乗ってしまって、小綱の意思なくどんどん沖へと進んでいった。小綱は縁に掴まりながら遠くを見た。満月は海を照らして、波はキラキラと輝いている。またその月明かりが、一直線に島へと伸びていた。小綱は誰も居ない海の広さに、彼自身の高鳴る心臓の鼓動を感じた。帰れなくなる不安もあった。しかし村を出ると決した手前や、なによりひとりで冒険をするといった沸々した気持ちのほうが勝っていた。そしてそれ以前に、船を返して戻る方法が分からなかった。

 船を漕いでいくことは、小綱が思っていたより力のいるものだった。休もうと櫂の手を少し止めれば、すぐに船首は思わぬ方向を向いてしまう。月明りの道を逸れぬように、小綱は息を切らしながら櫂を必死で動かした。それでも、時折海風が抜けると爽やかで、小綱は手を動かし続けながらも夜の海を見渡し、満月を何度も見上げたのだった。櫂を動かせばそれだけ進む、そういった手ごたえを小綱は少なからず喜ばしく感じていた。彼はただ櫂を動かすことだけに集中した。動かし続けなければ、何処かに流されてしまうし、波に呑まれて沈んでしまうかもしれない。ただ夜海の上、月の道を逸れぬことだけ意識する。遠くには月明かりに島の姿が見えている。このままだ、もう少しだ、そう思い続けると、その間は不思議と、自分の痣や、村でのお祭りを忘れることが出来たのだった。

  幾時過ぎたのか、小綱には分からなかった。かなりの間、小綱は櫂を動かし続けた。月は傾き、とっくに海の道は消えてしまって、それでも向こうの岸は見えていた。命辛々、そう思うほど小綱は憔悴して、ついに船底が砂を捉えると、彼は息もつかず、船から浅瀬に滑り落ちた。海水は冷たく、熱く燃えた彼の体をさっと冷やした。小綱は気持ちよさそうに浅瀬に横たわりながら息も絶え絶え目を閉じた。海水の浮力と揺らぎが、硬くなった彼の体を和らげる。やっとの思いで島に着いた。小綱はその心地の良い疲れをしばらくそうやって楽しんだ。島は静かなもので、ただ波の寄せる音がするだけだった。腕や全身がゆっくりと伸びるのを感じる。

  体がすっかり冷えてしまうと、小綱はようやく起き上がって、島の様子を改めて確かめた。月明かりに青く光る砂浜と、それに並行して鬱蒼とした黒い森が広がっている。と、浜辺から森の中のほうへ、草木の薄くなっている、道のような跡が奥へ伸びているところを見つけた。遠い昔の道のようで、そこはもう雑草が生えてしまって、小石もゴロゴロあって、とても歩きにくいものだった。しかし他に足掛かりは見当たらない。小綱は櫓船を浜にあげてしまうと、導かれるように、そのまま道を辿って森の中へ入っていった。

  森の中はいっそう静かなものだった。けものや虫の気配もない。小綱は暗闇におびえながら、茫々と伸びた草を掻き分けて進んでいった。枝や草葉が、小綱には煩わしく感じた。それらは彼の腕や頬を撫で、引っ掻き、たくさんの細かい傷や、障害をもたらした。小綱は苛々とそれらを薙ぎ払って道を作った。頭上には、茂る木々の隙間から月明かりが薄っすらと抜け降りて、それだけが小綱の心の支えだった。どれだけ進んだことだろうか。先が見えず、出口も分からない不安に、小綱が泣きそうになったころ、突然森が拓けて、月明かりに白く浮いている洞窟が現れたのだった。

 森の広場に、洞窟はその白い石灰の肌を夜闇にぼんやりと光らせていた。風は無くしんとして、小綱はその不思議な様子に、背中の汗が流れるのを感じた。小綱の足は自然と洞窟へと向いて行った。洞窟の中は暗いもので、中の様子は外からはよく分からなかった。恐る恐るちょっと中に入ってみると、目が慣れてか、それとも月明かりを反射してか、手もとの視界だけは薄っすらと見えてくる。彼の息の他、なにものの気配もなかった。小綱はそろそろと、引き込まれるように中へと進んで行くのだった。

 洞窟の中をいくら進んだのか、小綱には長く歩いた気もするが、案外そうでもないような気もした。洞窟の中はジメジメとしていて黴臭い。足元も悪く、滑りやすかった。小綱はそうやって、ぼそぼそとひとりで歩いている内に、実は出口がもう閉じていて、後ろから壁が迫ってきていて、自分のほんの周りだけが、土の中にぽっかりと開いているようなそんな想像に襲われた。それでも、小綱は進むしか無かった。夢で出会った父親を見つける、そういう希望は、もう根拠のない、確信じみた願いに変わっていた。足取りは早くなって、またどきどきと鼓動が強くなる。汗が額に滲んで息は浅い。後ろを振り返るのが怖かった。小綱が耐え切れず、ついに走り出してしまうと、そこで突然壁に当たった。小綱は息を切らしながら、グッタリと落ち込んだ。結局誰にも出会わず、誰かが暮らしている痕跡も見つけることが出来なかった。ハアハアと小綱の息遣いだけが壁に反射する。もうここには何も無いと分かると、小綱はすぐにでも引き返して、洞窟から抜け出し、恐怖から解放されたくなった。しかし折角そこまで、やっとの思いでたどり着いたのだ。何か足掛かりを見つけたかった。逃げ出したい気持ちを抑え、ひとつ大きく息を吸って、目を閉じた。小綱は変わらない心臓の高い鼓動を感じた。壁があること、そこが終わりであることを改めて見つめると、小綱には不思議な安堵が生まれた。これ以上は進まなくて良いのだ。そしてそっと、行き止まりの壁を手でなぞった。壁は冷たく、しっとりとして、そして艶やかだった。そこは暗く、孤独だが、さっぱりとした心地よさがあった。小綱は一寸そこで休んでいこうと、壁にもたれながらその場に座り込んだ。

「痛っ」

 途端に小綱の尻に何かが刺さった。顔をさげると、何か、尻の下に小石とは違うものを見つけた。何か白い、消し炭のようなものが散らばっているのだった。小綱はじっと注意深くそれを眺めた。それは何かの骨のように見えた。小綱はすぐに、それがもしかすると父親のものかもしれないと思った。小綱は確証を探した。何か父親たる、もしくは父親が残した痕跡を求めた。しかし暗がりの中、探せど頭の骨が見当たらない。その骨はなにものかが荒らしたようで、きれいには整っておらず、割れたり砕けたりしいて、それが父親のものだと確信は出来なかった。

 小綱はその散らばる骨の傍に力なく座り込んだ。これが父親のものだと、信じるものがなく、それに、それ以前に全然異なる動物のものかもしれない。小綱は肩を落とした。行きついた先がこれだと分かって、力なく項垂れてしまった。散々歩いてきた疲れと、なにかの亡骸を目の前にした、ぽっかりとした気持ちに沈んだ。小綱は洞窟の壁にもたれて、ぼんやりと暗闇を眺めた。そして時々骨を眺めた。そうしている内に、なんだか、憎んだり、会いたくなったりした父親が、なんてことは無いような気になった。それは力ない骸を目の前にしたからかもしれない。自分に流れている鬼の血が、不思議と、それほど大したものでは無かったと、そういう考えが生まれだした。彼が呪うように強く思ったその矛先が、どこにも無くなって、その思いは行く宛もなく、霧のように彼の頭上へ、もやもやと浮かび続けるのだった。

 この気持ちはなんだろうか。小綱はもやもやとした気持ちを浮かべたまま、その骨を埋めてやろうと思いついた。もう目的が何もなく、他を探す宛ても気力もない。疲れてはいたが、どうにか、体を動かしたかった。小綱は羽織っていた布を脱いで、何のものかもはっきりしないその骨を、そこに集めた。脆く崩れるそれを、ひとつひとつ指先で摘まんで布へ入れていく。全て納めるのには、そう時間は掛からなかった。布に全てを包んでしまうと、次には穴を掘ろうと考えた。しかし洞窟の地面は脆いが固く、こつなはフウフウと息を吐きながら、両手で一生懸命地面を掻いた。しかしちょっと小石が剥がれるだけで、布が埋まるほどの穴は到底出来そうにない。ついに小石の先で指を切ってしまって、それで小綱は洞窟に骨を埋めることは諦めた。そっと、指先に滲む血を舐めると、落ち着いて、ほっとした。そこで小綱は布を脇に抱えて、洞窟を抜けることにした。帰りは来た道をまっすぐ戻るだけだ。出口があることが分かっているし、血をなめた落ち着きもあって、小綱はずいずいと、すぐに洞窟を抜けることが出来たのだった。

 洞窟を出ると、変わらず静かな夜が広がっていた。帰り道は分かっていた。急ぎ足に森を抜け、小綱は砂浜に飛び出した。砂浜の土は掘りやすいと思いついたのだった。満月は随分傾いていたが、まだ砂浜を青く照らしていた。見渡すと、遠く東の空が、少しずつ明るくなるのが見えた。小綱は何も言わず、何も考えず、ただ手で砂をかき分け穴を掘った。暗い洞窟では気が付かなかったが、月明かりに両腕が照れされて、自分の青い痣を思い出したのだった。しかしこの時は、痣を呪う気持ちや、醜いと思う気持ちは、不思議と彼の心には起こらなかった。小綱は自身でそのことに驚いた。結局は、痣が厭わしいのでは無くて、それを見る人々が、そして彼らから向けられる嫌悪の目が、彼に辛い思いをさせていたことに気が付いたのだった。小綱は穴を掘りながら尚も考えを巡らした。何が辛かったのか、何が憎らしかったのか。彼にはよく分からなくなった。彼はふと、母親のサヨを思い出した。すると涙がぽろぽろと溢れてくる。サヨの、痣や生まれは気にすることじゃないといった言葉が耳に響く。小綱を説く、サヨの真剣な顔が思い浮かんだ。心がぎゅっと縮んだ。

「ちがう」

小綱は呟いた。涙はさらに溢れる。抑えきれず声が漏れる。

「ちがう、痣も、お父さんも、あるものなんだ」

小綱の涙はぽたぽたと落ちて、彼が掘り続ける穴の底を濡らしていった。

「気にしないなんて、できるわけないじゃないか。それが僕なんだから」

砂浜の穴はいよいよ深くなり、海水が染みるところまでたどり着いた。小綱はその、染み沸く海水を見つけると、彼の心からは何もかも溢れてしまって、その場にうずくまり、穴に向かってわんわんと泣き上げた。声は砂浜に、夜に、空に響いていく。その声を聴くものはどこにもいない。ただ月がゆっくりと傾いて、波が静かに揺れて、東の空が白んでいった。

 


 村の岸までの船は気安いものだった。もう空はすっかり朝になって、村の岸は良く見えた。布で包んだ骨は、すっぽりと砂浜の穴に収まった。しっかりと砂をかけて、そして埋めた場所が分かるように、乾いた流木を深く刺して立てた。小綱には、船が沖まで進んでも、骨をどこに埋めたのか良く分かった。朝の白い砂浜に、黒くその流木がよく見えた。まるで、そこに誰かが立っているようだった。穏やかな朝の水面は、鏡のような白金色をしていた。

 小綱が村に辿り着くと、家族が大切に迎えてくれた。心配したと叱られもした。しかし小綱はひどく眠たくて、返事もほどほどに、食事もせず、布団へと包まった。祭りの後の村の朝は、まだ人や燈火の匂いが強く残っている。しかし小綱には、不思議とそれほど嫌な気持ちは湧かなかった。彼は布団のなかでウトウトとしながら、それでも妙に目が冴えてしまって、眠たいが、うまく眠ることが出来なかった。小綱は布団の中で、一夜の冒険のことを思い巡らした。海のこと、砂浜のこと、森のこと、様々な場面を行ったり来たりして、心が休まらない。そして洞窟のことを思い出した。布団に包まっていると、またあの洞窟に入り込んだ気持ちになった。そして小綱は骨のことを思い出した。小綱が浮かべていた、もやもやとしたものはどこへ行ったのか、彼はそれを探そうとした。しかし小綱の心には、もうどこにも、もやもやとした気持ちを見つけることは出来なかった。彼の心の中は、あの洞窟のように、ぽっかりと暗く、手探りしても何も掴めないようだった。すると、途端に小綱は不安に襲われた。もやもやした気持ち、大綱を憎んでいた気持ち、サヨが教えた言葉、自分の痣、そしてそれらを呪う気持ち、それらはこれまでの小綱の全てだった。今までの小綱を作り上げていた全てのものだった。小綱は気が付いた。小綱が抱えた鬱々とした気持ち、そしてその呪いは母親のサヨが小綱にかけたもの、そして小綱が掛けた、彼自身のためのものであった。それを心から失ったことに、彼は気が付いた。小綱は布団の中で、地面がぐらぐらとゆれ、底が崩れ落ちていくような感覚に襲われた。

「僕は何のために生きてきたのだろう? 僕は何のために生きていくのだろう?」

洞窟の暗闇は、小綱の心を襲う。そして同時に、彼の体も、闇に混じらせ溶けていく。

「……僕は本当に、ここに居るのだろうか?」 

小綱は頭がおかしくなったように飛び起き、取り乱し、母親を大声で探しまわった。家の者は驚いて母親を連れてくる。

「お母さん、僕はもうだめです! 僕をどうか殺してください!」

小綱はサヨの裾を掴んでそう訴えた。サヨは驚いて、小綱を一生懸命抱きしめた。それでも小綱は母親の腕の中で、殺してくれと幾度も叫び、暴れ、叫び、頼み続けた。それを見ていた村人は、いよいよ小綱が鬼に成ったと恐れ震えた。鬼の血が目覚めたと、村人がそう思うほど、その様子は人間のものとは思えない、鬼気を帯びているものだった。目は血走り、髪は逆立ち、肌は血の気無く、それまで以上に真っ青に染め上がった。錯乱する心を抑えきれず、小綱はどうしようもなく、母親の腕へと噛みついた。翁はその時、小綱の口から牙まで伸びているのを見つけた。村の者で寄りたかって小綱を引き離すと、サヨの腕からはしたしたと血が流れ落ち、地面に染みて、しばらく残り続けたのだった。

 


 村の人々は、小綱を村には居させられないとして、あの大綱の島へと追い出した。それからは小綱の姿を見たという人はいない。恐らく、彼は洞窟に住み着いたか、あるいは島を抜け出して遠くの国へ行ってしまったのだろう。それでもサヨは、たまには村のものが食べたいだろうと、祭りの日には海を渡ってあの島の砂浜へ、砂に刺さる流木の傍へ、餅をお供えに行った。サヨは毎年、餅が無くなっていることを喜んだ。果たして誰が餅を食べたのか。それを知る術はどこにも、誰にもありはしない。

 


「それで、あの島には小綱がまだ住んでるの?」

僕はその紙の束を読み終えると、男の子へと話しかけた。男の子はこくりとうなずいた。

「……まさか、君が小綱じゃないだろうね?」

男の子はにこにこと笑って答えた。

「ぼくはあなたがこつなだと思ったよ」

霧雨はいつの間にか止んでいた。靄も晴れて、向こうの岸までよく見える。僕は小綱が出て来やしないか、じっと、注意深く向こう岸を見つめた。

「いのちがはな、いのちがはな」

「ん?」

「御爺様がね、よく言ってた」

「ふうん」

「ぼくはね、こつなにもし出会えたら。こつなにそう言ってやりたいんだよ」

「会えるといいけどね。……さあ、そろそろ村に連れて行ってよ」

「いいよ」

僕らは尻の砂を払って立ち上がった。そこで僕は気が付いた。僕らが尻に敷いていたのは倒れた黒い流木だった。後ろの茂みが微かに揺れた。振り向くと、何か青いものが、森の奥へ逃げていくように見えた気がした。