抽斗の釘

小説、散文、文章、短編

魑魅

 

 加賀慎矢と藤崎里留が逢引を始めたのは高校三年の初夏だった。

 私立の男子校の特進クラスだった二人は、帰りの電車が同じ方向ということから、いつしか遊ぶ仲になって、授業や膨大な宿題から逃避するように下車し、ファミリーレストランやカラオケ、ゲームセンターに通い始めた。しかし小遣いが限られる二人だから、ある山寺の、さらに奥に進んだ山中を屯場にすることが常になった。

 肩を並べ楠や楢の木の足元に腰かけているうち、それぞれの進学の悩みや家庭、学校の愚痴などをこぼし、話は回を重ねるごとに深まり、下の話や好きな女優を語り、写真や動画を一つの画面で見ているうちに、肩が触れ、手が触れ、頬が触れ、次第に制服のまま抱き合って、限られた放課後を過ごす仲となった。

 どちらからか、ということはなかった。二人で自然とそうなった。慎矢は思春期のひどいニキビ面だったが、里留にとってはそれすら魅力に覚えた。校則があるから二人とも襟足をきれいに刈り上げており、慎矢は終始その髪型を嫌ったが、彼は運動部で背が高く、その髪型が一番似合うと、里留は秘かに思っていた。

 山中で寄り添い眠るようになってから、里留はそれがどういう関係なのか、考えることが度々あった。友人なのか、恋人と言えるのか。答えは出ないが、ただ他では得られない魅力と温度である、ということだけは感じていた。そして慎矢が、その時間を互いに作り合う、特別な存在であることは、言うまでもなく自覚していた。

 そうと自覚すると、意図せず授業中でも彼の背中を見つめてしまう。休み時間になれば彼の動きを目で追ってしまう。彼と別の友人がじゃれていれば、いくらか嫉妬も覚えた。

 里留はいつしか、漠然と流れつく情報に、それが同性愛であるかもしれないと意識し始めた。同時に戸惑いもした。それと自覚して、さらに自発的に調べもした。

 自分はやはり同性愛者かもしれないと感づいてから、同性愛者である自身を意識するようになった。ことあるごとに、自分は同性愛者であるということが、脳裏によぎる。体育、健康診断、昼食、放課後。それまでのささやかな時間が、急に異なる鼓動を伴うようになった。

 胸に秘めたその自意識は、今までの生活には無く、様々を色づけた。それは怪しげで、危なげで、かつ温かく美しいものだった。それを秘める自分も同時に、尊く、特別で、他の誰も手にできない、煌びやかな宝珠を抱えるようだった。

 里留は次第に変化した。それと意識しだしてから、慎矢だけではなく、別の友人と話すときも、いやにどきまぎするようになった。それまでなら気にならなかったささやかな触れ合いや、友人のやさしさなどに、機敏に反応し、素直に応じられず、人知れず顔を赤らめるようになった。

 

 

 ある日、慎矢に核心を迫られた。

二人はいつものように、寺の奥の、山中の楢の木を目指していた。

「どうしたの、最近」

どうしたの、という質問に、里留はたじろいだ。ずるい質問だと思った。

「なにが」

「なんか、元気ない?」

「別に、普通」

里留は自分のそっけない声に自身でも気が付いて、余計に取り繕うのが気恥ずかしくなった。慎矢の目を避けるように顔を逸らす。

「なんか、変だと思って。本当に何もない?」

里留はふてくされたように頷いた。繋いだ慎矢との手が、先ほどからゆるみ、解けそうになっていた。人差し指と中指の先だけが、かすかに引っかかり、保っていた。

 慎矢とはそれまで、ふたりの関係を明確な言葉で示したことはなかった。ただ一緒に帰り、談笑のうちから、どちらからともなく電車を降り、山の中で触れ合い横になる。その行動だけが、二人の目的であり、確認作業でもあった。

 二人は目的の楢の木の足元で横になった。二人とも歳がら性の知識は十分あった。だから里留はなおさら落ち着かなかった。手をつなぎ、時に抱き合い横になる。それで満足する自分と、一方でそれ以上に湧き上がる、心臓の繁吹くような熱を抱えた。それが何とも快かった。

 自分は同性愛者だ、君たちに嫉妬を感じている。そんなことを言えば、この経験は、約束のない機会は、すぐに失われる心配があった。

「明日から、予備校に行くんだ」

里留が何も言い出せない先、慎矢が口を割った。里留は面食らったが、

「そうなんだ」

とだけ答えた。慎矢はそれ以上何も言わない。慎矢の言葉の真意が、里留はつかめず、じれったかった。

山中は静かだった。鳥の鳴き声や木の葉ずれの音が聞こえてもよかったが、風すら吹かない。ただ山の土や、シャツにしみた汗から立ち上る香りだけがしていた。

「帰ろうか」

幾時が経ったのか、日が傾き始めた頃、慎矢が唐突に立ち上がった。里留はほんの少しの間、仰向けのまま、斜陽に陰り、また所々光る、慎矢の横顔を眺めた。

 二人は並んで山道を降りた。暮れだすと暗がりは早かった。冷気も山頂から流れ漂う。それでも里留の歩みは遅く、慎矢の踵ばかりを見て歩いた。

そこで、道の中ほどに、小さな黒い塊が落ちているのを里留は見つけた。慎矢は気づかず跨いだが、それは小動物のように見えた。黒とグレーと茶色が混ざったような短い毛で覆われている。目は小さいのか、毛で隠れて位置はわからない。ピンクがかった小人のような手足、頭からは鼻だろうか、手足と同色の突起が突き出ている。外傷は見当たらない。行く道にはなかったから、きっと先ほど息絶えたのだ。

「なんだろう。ネズミかな」

モグラだよ、たぶん」

しゃがみこんだ里留の頭の上から、慎矢は言った。

「死んでるのかな」

「たぶん、死んでるね」

「どうする?」

どうするもこうするも、と、しかめ面を慎矢は見せ、進むそぶりを示したが、しゃがんだまま見上げる里留と、そして小動物とを交互に見たかと思うと、

「埋めてやろう」

と、ため息交じり、肩からずれた鞄紐を上げ直した。

 スコップなどは当然持ち合わせていなかった。素手で拾おうとする里留を慎也は強く止め、代わりに鞄から大学のパンフレットを取り出すと、そこに動物の体を器用に乗せた。

 楢の木に戻り、その足元に穴を掘った。初め朽ちた枝を使ったが、じれったくなって、二人は素手で穴を掻いた。できた穴に動物を放り込む。転がるさまは、くたくたとして力なく、やわで、それは生きていたんだなと、里留はとりとめなくそう思った。

 

 

 高校を卒業し、慎矢と里留は別々の大学へ進んだ。

 里留は入学早々、掲示板のポスターを眺め見たのち、性的マイノリティのコミュニティーサークルへ入会した。

 そこでは性的少数者と自覚する者や支援者など様々な学生が集まった。

 サークルの活動は主に、構内のコミュニティールームを定期的に借りて、交流や意見交換にとどまらず、理解を広めるセミナーの計画なども行った。だいたいは、前もって決められた発表者が、自身の体験や活動の発表を行い、意見を交換するという形で行われていた。

 里留は新参者であるから、最初の数か月はただ輪の一人として、皆の話を聞くだけにとどまった。差別、迫害、偏見、蔑視……。会は毎回悲傷な空気が漂った。同時に理知的な議論も行われた。そこでは皆が寛容だった。そして皆、思い思いの愛称を使った。アキ、ユウ、マコ、ユキ……。

 ただ、里留はそれらの輪の中に身を置きながら、どこか居心地悪く思う自分を感じていた。周囲が頷きながら共感を示す中で、里留だけは戸惑いに近い目を周囲に配っていた。

 ある日の会の帰り際、次の発表は里留がしてみないかという話を持ち掛けられた。吾妻という聡明そうな先輩だった。会の運営の一端も担っている。

 いかんせん、機微な内容を扱う活動だから、入会当初はなぜそこに足を運んだか、その理由を表立って尋ねようとしない、そんな配慮も流れていた。とりわけ里留は積極的に自分を語らない様子を示していたから、自然と会のメンバーは、里留の内面に対しての詮索を敬遠していたのだろう。

 しかし個人の吐露と共有、そして理解に理念を置く活動の継続もあるから、同じ者ばかりが話をしても発展は臨まれないという見解もあり、里留は声を掛けられたのだった。

「そろそろ慣れてきただろうから、藤崎さんの話もみんな聞きたい頃だろうと思って」

吾妻はそう言う。吾妻も藤崎も、愛称は苗字を使っていた。

 藤崎の煮え切らない様子を見て、吾妻は幾分眼鏡の奥の眉をひそませた。

「いや、当然、話したくないなら無理しなくていいよ。タイミングってあると思うし」

「でも、どこかで自分を出さないと、いつまでも苦しいままだよ。人間ってそんなに一人じゃ抱えきれないし、それに誰かを助けることにもなるんだ」

「最初は簡単でいいよ。自己紹介ぐらいでさ。新しい人たちと合わせて発表にすれば、それほど時間もかけずに済むだろうし」

「そうだ。今から少し時間あるかな。もしよかったら発表の原稿書くの、手伝うこともできるけど」

いろいろ言葉を掛けられた。里留は顔を強張らせながら了承した。

 

 

 里留は吾妻のアパートに誘われた。

 部屋はベッドとローテーブルが置かれたワンルームで、ゴミなどは見当たらなかったが、衣類やブランケット、毛布の類が部屋中に敷き詰められ、投げ出され、乱雑としていた。

 里留は毛布の隙間などを探して踏み入ると、

「気にしないで、踏んじゃっていいから」

と吾妻は笑う。

「部屋が埋まってると安心するんだ」

吾妻はそう言いながら冷蔵庫からペットボトルの茶を二本取り出し、テーブルに置いた。里留は勧められるままテーブルのそばに座り、間を埋めるように部屋を見渡した。乱雑な床とは別に何もない白い壁、参考書などが詰まる、床の隅に置かれたカラーボックス。ベッドのヘッドボードでは、加湿器が、吹き上げる白い湯気と共に妖艶な香りを漂わせていた。

「早速始めようか」

吾妻は茶に口をつけると、苦しそうな顔をして一口飲んだ。

「このサークルに来たってことは、少なからず自分が性的に少数派だと感じているから  だと思うんだけど。……ぶっちゃけ、藤崎さんはどうなの」

「俺、俺ですか」

里留は愛想のよい苦笑いを浮かべた。

「俺は、正直、すみません。よくわからないんです」

里留は茶には手を付けず、胡坐の上で手を組みながら嘆くように言った。

「ああ、じゃあQってこと?」

吾妻は再び茶を含みながら、慣れたように促した。

「Q、ですか」

Qと言われて、里留は少し顔を曇らせた。そうして俯いたままの里留に、どこか手ごたえを感じず、吾妻は再び尋ねた。

「どうしてわからないって、思うの」

吾妻の問いかけに、慎矢の姿がちらつく。里留は確かに慎矢を特別に思った過去を再認した。しかしそれで自分が性的少数派だとするのを、素直に容認できない自分もいた。だとしても、それをここで胡麻化してしまうのは、それはそれでいけない気がした。

「性的マイノリティってのは、一体なんなんでしょうね」

沈黙ののち、里留はそうこぼした。唇が震える。

「俺は、友達が好きでした。」

里留は絞り出すように続けた。そして意図せず涙が溢れた。吾妻はうん、うん、と言ってうなずいていた。

「でも、男性が好きなわけじゃないんです。……なんなんでしょうね。なんで少数派とか、アルファベットで、俺たちは呼ばれないといけないんでしょうかね」

それは世間の理解や、便宜上、云々と言おうとして、吾妻は口をつぐんだ。

「ここ数か月、俺は皆さんの話を聞いてきました。」

里留は沈黙する吾妻を前に、続けた。

「正直言うと、俺はどの話にも共感できなかったんです。じゃあ俺は、なんなんでしょうか」

里留の目から涙が幾筋か流れ落ちた。

「……もちろん、一言で自分のことを決めるのは難しいよ。誰だってはっきりと自分の指向や表現を分けることはできない。性指向はグラデーションでもあるし、指向がないことだってそれもひとつだ。共感できないのは辛いし孤独かもしれないけれど、それが君なら、それを尊重し合えるのが僕らの活動なんだよ」

「そう。……そうなんですか」

吾妻の優しくも確かな言葉に、里留は幾分安心したように顔を緩めた。

「うん、何もおかしなことはないよ。大丈夫、だから話して。君が好きだった人の、話の続きを」

吾妻の言葉に、里留は静かに顔を上げると、口を開きかけた。しかしそれをついぞ止めたかと思うと、緩んだ表情が見る見るうちに強張り、険しさを帯びた。そしてまっすぐ吾妻を見据えたまま、

「続き? 続きなんてないです。続きなんか」

と言いのけ、ゆっくりと首を振った。

 唐突な変化に、吾妻は面食らった。里留の言葉は、それまでとは変わり、妙な冷気をはらんでいた。

 続きはないと遮断され、吾妻はそうか、と微笑んだ。しかしすぐ、鋭い目を里留に向けた。

「でも、僕は君の力になりたいと思っているんだ。それに君が皆に話してくれれば、それで助かったと、思ってくれる人もいるはずなんだ」

吾妻は言葉に熱を込めて里留へ投げかけた。しかし里留はもう吾妻とは目を合わせず、横を向いたまま、もう柔和な表情を作っていた。

「すみません、今日はもうこれで、帰りますね」

と、にこやかに笑ったかと思うそば、里留は毛布の上に立ち上がった。そして吾妻が何も言えず、口を開けたまま唖然としているうち、里留はゆるゆると、音もなく部屋を出ていってしまった。

 外は月夜だった。春の月夜はうすら寒く、また冷気も夜気も里留に迫るようで、里留は慎矢と過ごした山を思い出していた。そしてまた、埋めた小動物のことを思った。もうすぐ一年経とうとしている。あの死骸は土に溶けただろうか。土に溶けたら、どこへ行くのだろうか。

 里留は吾妻の部屋を想像した。

 想像の部屋には先刻に続き、里留と吾妻が向かいに座っている。吾妻が先ほどと同じ言葉を繰り返した。しかし幻影の里留は、柔和にやり過ごした先ほどとは異なり、テーブルを叩かないばかりに体を起こし、声を上げていた。

「馬鹿な事言うなこのロクデナシが! お前らがでしゃばるから無くなったんだ! 返せ! この野郎!」

「お前それ、差別だぞ!」

吾妻と里留はつかみ合い、毛布の上を転げまわった。

 月夜の里留はとめどなく涙を流した。

「二度と口を利けなくしてやる! お前も埋めてやる!」

幻想の声と涙が流れ続けた。滴る涙は頬に、鼻に、口に流れ、そして幾つかはアスファルトに落ち、人知れず、月光と共に下へ下へと染み入った。

 

 

 大学を卒業後、里留はどこにも就職せず、またどこにも帰らなかった。

 バーテンダー、クラブボーイ、ホテルマン、シティサウナ……。一人暮らしの生活のため方々勤めるも、どれも長くは続かなかった。ゆえにか、どの職場でも、はっきりと里留を覚えているものはいない。

 里留はついに人と接する仕事は諦め、パソコンを使い日銭を稼ぐ生活に至っていた。商品記事の執筆、アンケート、転売、詐欺メール、アカウントの売買。

 そんな生活が続いたある日、里留は依頼を受けた男性用化粧水の記事を、たまには外で書こうと思いたち出かけた。

 喫茶店は昼前で混んでいた。里留は肩まで伸ばした髪で心持顔を隠しながら、通された奥の席に着いた。

 ホットコーヒーが席に届き、一息ついたところで初めて隣の席が訝しい雰囲気であることに気が付いた。二人連れで、一方は壮年の女性、向かいは若いスーツの男性だった。浮気かと耳を傾ければ、どうやら宗教の勧誘に聞こえる。いつか記事にする参考になればと、里留は悟られぬよう耳を澄ました。

「……でね、山の神様がウチの先祖らしいの。夏至を越えてから、どうやら本当にそうなんだって気づいちゃって。私の周りがどんどん変わっていって。愛の人に振り分けられるっていうか。引き寄せってあるでしょ、あんなもんじゃないわ。意識の集約、最適化、そんなフェーズに時代は移行しているのよ」

「ええ、僕も聞いたことあります。でも実際ちょっと遅れてるんでしょ?」

里留は前髪の隙間から横を盗み見た。聞き覚えのある声。スーツの男の横顔は、慎矢のものであった。

「そう、当初の計画よりも遅れてるみたい。だから、いま時代が計画に戻そうと急激に動いていて。やっぱり出会うべき人に出会うというか。めぐり合うべき人にはどうしたってめぐり合うのよ。どこに離れたってね。ほら、私ちょうど辰年でしょ。それでね、私の肩に白い蛇が見えるって。普賢菩薩の、あれの眷属がちょうど白い蛇らしくて……」

壮年の女性は上質な雰囲気を纏っていた。顎ほどの髪はきれいにウェーブし、夏物の黒いカーディガンに身を包んでいる。耳飾りはささやかで、ごく小さな真珠が幾つか並んで下がっていた。

「……あの映画、僕も見ましたよ。出てましたよね、富士山。」

慎矢は前髪を後ろにきれいにまとめ上げ、左右を刈り上げる髪型をしていた。

「そう。私も気づいちゃった。大山の神は大蛇らしくて。やっぱりメッセージを送ってるんだなって思うの。」

「マスコミは孤立させようとしますからね」

「でも真実が暴かれるわ。誰でも力は持っているのよ。けど人々の覚醒が恐ろしいから、マスコミは孤立させようとするの。私が第一覚醒者で……」

里留は頭が痛くなり、ものの十数分座るだけなのに、溶けるような妙な体の疲れを感じた。途切れることのない彼らの話は、一見繋がっているようでいて、終始支離滅裂だった。それにも関わらず、彼らは次々と話を繋げ、それはどうやら互いの理解と共鳴に向かっているようだった。壮年の女性も慎矢も、興奮と高揚に声が次第に上がっていった。

 山の神、精霊、シャーマン、仏、日本神話。話は様々な垣根を越え、混ざり、そして各個人に集約していった。

「……けれど山の神はもう力を失いつつあるんじゃないですかね。ほら、狩猟時代から農耕時代になって。現代では山を切り開いている」

慎矢はアイスコーヒーに手を付けず、熱心に会話を楽しんでいた。慎矢の口から山という言葉が聞こえるとは思わなかった。里留は二人で過ごした山を、そして二人で埋めた小動物に思いを巡らし、人知れず、突き抜けるような鼓動に打ちひしがれた。

「……でもね、私はやっぱり回り回っていくと思うの。質量保存の法則ってあるでしょ。切り開かれた山だって、消えることはないし、ほら、素材とか、私たちの周りに使われることだってあるじゃない」

「なるほど、山の神や魔物は姿を変えて、今、僕たちの周囲に再び集まってきているということですね」

慎矢は興奮気味に声を上げた。女性はその通り、というように、深く頷きながら、厚みのある唇をストローにつけた。

「でも、神は意識の集合だけど、魔物は個人の記憶よ」

慎矢がひとり感慨に微笑むところ、ストローから唇を離した女性が、刺すように言い放った。

「記憶、ですか」

「ええ、質量保存の法則よ。ほら、原子とか、分子は消えないじゃない。形を変えて移動してるだけ。かつて脳だった元素も消えることがないなら、記憶も消えずに移り漂うのよ。それが魔物」

へえ。と慎矢は頷いたが、その固い微笑には理解が見えなかった。

「気を付けた方がいいわ、魔物には。願いや祈りじゃなくて、思いで現れるもの」

慎矢は、女性の唇が薄ら笑うのと同時に、ひやっとした冷気を頬に感じ、咄嗟に横を見た。

 しかしどうしたのだろう、先ほど来たと思っていた隣の客の姿が、もう見えなくなっていた。慎矢はふとしかめ面を浮かべ、そして再び女性を顧みた。

「それでね……」

女性はそれに構わず話を続けた。肉付きの良い指が、ストローを撫でている。