抽斗の釘

小説、散文、文章、短編

加密列

 金がなく飢え死にしそうになれば、私も生ごみを漁り、犯罪を選ぶのだろうか。

いや、何もせず、死んでいくほうがよいと、点けっぱなしの報道を横目に薫は思った。

 家賃が払えず、光熱費も払えない。ただ床に寝そべって、払え払えと急き立てられ、それでも寝そべっていると、ついに立ち退けと部屋から放り出されて、それで打ち上げられた魚のごとく、道端に倒れたまま、冬の寒さや飢えに死ぬ。それもありだなと思った。生きるためにという口実で、人に迷惑をかけるぐらいなら、汚れた仕事を請け負うぐらいなら、生きるためと、それならば、ただ外に放り出されて、のたれしぬ、というのも、ひどく自然で、作為的ではなく、それでこそ生き物のようにも思える。

 ラスク、がしっぽを振りながら、膝の上に手を掛けた。ジャック、ラッセル、テリア、に見える、保護犬。時計を見ると、御飯の時間、よりも一五分ほど早い。

 貧乏など、学生の頃はぜんぜん気にならなかった。食費を削っても平気だったし、スナック菓子の生活でも体を壊さない。着るものも、古着が一番似合うと思ったぐらいで、本当に食べるものがなかったら、友達やバイト先など、いくらでも頼ることができた。

 三〇の半ばを迎えた今、不思議と、貧乏になって、頼れるところがどこにも見当たらないことに気が付いた。年齢だろうか、社会的な、経験によるプライドだろうか、食べるものがないから少し分けて、などと、知人には決して言えないような気がする。そうするぐらいなら、やはり、のたれしぬ、ことを選ぶのかもしれない。

 薫はペット皿にドッグフードをざっと流しいれた。ラスクはそれにがつがつと食いついた。本当に食べるものがなくなれば、ラスクの御飯を分けてもらおう、そんなことを考えた。まだ働いていたころ、ちまちま買いに行くのが億劫で、買いこんでいる。ラスクの小ささなら、一年は持つほど押入れに残っている。

 薫は頭痛が原因で仕事を辞めた。そんなことで、だとか、医者に行けば、だとか、いろいろ言われたが、仕事を辞めれば頭痛が止むと直感的にわかっていた。また、仕事を辞めなければ頭痛は止まないと、どこかでわかっていた。

 ひどい上司も、辛い仕事も、あるわけではなかった。ならばなぜ、次の当てはあるの? それもない。どうするのよ? どうしようもない。やっていけるの? やっていけない。

 薫は通帳を開いた。退職金は一〇年勤めて百万をちょっと超えたぐらい。しかしもうそれも跡形もなくなりつつあった。

 学生のころ、興味本位と貧乏があって、怪しいマッサージ店で働いたことがあった。派遣型のマッサージで、顧客の自宅に赴き、マッサージをする。丈の短い黒いスカートが制服だった。

 源氏名はカミルにした。バイトの面接は中国茶の喫茶店で、メニューにあった加密列茶(カミツレカモミールティー)という表記が目について、少し気に入った。本名に近い源氏名はやめた方がいいとマッサージ店の店長に言われたが、薫はそれでいいと思った。近いとは思わなかったし、一方で、近ければ近いほど自分から遠くなるような気もした。加密列茶が中国茶かどうかも疑わしくて、それも面白かった。

 数か月でマッサージのアルバイトはやめた。正式にやめたわけではないが、面倒になったのと、恋人ができたのとで自然といかなくなった。

 けれど、本当は人気がなかった部分が大きい。ウェブサイトに書かれた口コミは、サービスが悪いだとか、愛想が悪いだとか、かわいくないだとか、脚が汚いだとか、どこぞが黒ずんでいるだとか。そんなこと、他人に言われる筋合いはない。人気もやる気も、元よりなかったのだ。

 何度か店長から電話があったけれど、それにも出なかった。しばらくたってサイトを確認してみると、それでもカミルは在籍となっていて、手の平で顔を隠した見覚えのある女がいつまでも残っていた。

 今でもカミルは居るのだろうか。サイトと客の記憶に、生きているということになるのだろうか。私が、のたれしんだ後も。

 薫はそう思い、ふとサイトを見に行きたくなったが、もし残っていれば面倒な気持ちになるだけだろうと、やめにした。

 

 ラスクが再び膝に両手をのせて、しっぽを振っている。薫は時計を見た。散歩の時間の、一五分ほど前だった。

 立ち上がり、支度した。上着とキャンプハットをかぶり、ラスクにリードを付け、アパートの下に出た。

 揺れ動く下半身とか細いしっぽ前に見ながら、もしドックフードまで尽きてしまったなら、この子はどうするだろうと考えた。しかしすぐ、ラスクならどうにでもやっていけそうだと思った。落ちているものは食物、それ以外でもなんでも口にする。野良でも腹を壊すこともあるかもしれないが、飢えて死ぬことはないだろうと思った。この子は生きているのだから、生きていける、と、妙なことを思った。寒さも天然の布団を纏っているのだから、くるまってやり過ごすのだろう。

 ラスクは先行して決まった散歩ルートを通った。寒々しい日だった。冷たい風に帽子が翻るのを抑える。ラスクは風に毛皮を揺らし、平気そうに歩いた。

 坂道を下った突き当りに、広い児童公園の脇道に出る。その脇道も坂道で、下り坂と下り坂とが直角にぶつかるところだった。見通しが悪いからか、オレンジのカーブミラーが設置されている。そこで用を足すのがラスクの習慣だった。

 ラスクが足を上げている間、そこで小学生に出会った。散歩ルートや時間はほとんど変えないのに、今まで見たことのない小学生だった。彼女は公園の脇道を上ろうとするところだった。水色のランドセルを背負って、真っ白な汚れのないフリースを着て、濃い緑色のスカートをはいている。白いソックスに、ピンク色のスニーカー。

 いいなと思った。きっと大切に育てられているに違いない。清潔に洗濯された洋服。汚れを知らぬ無垢な脚。が、その時薫はハッとして、そばを通ろうとする少女から咄嗟に顔をそらした。少女の目が、ひどく大人びて、年寄のように見えたのだ。

 少女と薫はやがてすれ違った。その際、薫は横目でさっと少女の顔を再度盗み見た。目の周囲だけが、ひどい色素沈着を起こしている。二重のはっきりとした、涼しげに垂れる大きな目だった。前髪はそれを隠すことなく、さっぱりと眉上で流されている。

 少女はすれ違う間際、ふっと目を細め、微笑んで見せた。

 薫が息を飲む間に、少女はもう坂を上り始めていた。薫は振り返って少女の後ろ姿を見た。水色のランドセルと、深緑のスカート。薫はどうしてか、唐突に、そのスカートの香りを感じたような気がした。甘くて酸い、さわやかな果実の匂い。あの中国茶喫茶のカミツレの香りだった。

 ぼんやりと振り返ったまま立ち止まっていると、ラスクがリードを引いた。見下ろすと、用事は済んだから、早くいこう、という顔をしている。

 薫はラスクに引かれるまま前を向き、歩き出した。黒ずんだ目がどうしたというのだ。そう言い聞かせた。

 しかし薫は、少女の黒ずみに、不幸を見出せずにはいられなかった。いや、少女の不幸を望んで止まない自分がいた。自分の体の各部の黒ずみと、少女の目の周囲の黒ずみは、きっと同じ道のりを辿るはずだった。であるのに、一方で少女をうらやむ自分がいた。

 薫は歩きながら、なぜか、少女の目の周囲の黒ずみが、自分のせいであってほしいと思いついた。ならば、少女の目の周りにクリームを丁寧に塗ってやりたい。そして一緒に風呂に入り、優しく抱きしめてやりたい。ささやかな冗談を交わしたりして、笑い合いたい。

 薫は突如沸き起こるそんな衝動に、せめて挨拶だけでもと、閃いた。声をかわしたい。自分を認知させたい。あなたを認知していると伝えたい。と、少女を再び振り返った。

 坂の中腹に、水色と深緑、が見えた端に、ぐらっと視界に力がかかった。腕が引かれる。慌てて前を見ると、ラスクの背、肩が筋肉に盛り上がって、首輪をもって必死にリードを引いている。首輪がのどに食い込んで、息がゼイゼイと鳴っている。待って、という間も、それでもラスクは顧みずに地面を掻いた。

 何か見つけたんだ、と薫も歩を合わせて駆けると、ラスクは走り出したのち、地域のごみ置き場で立ち止まり、熱心に臭いを嗅いだ。ラスクの鼻先には、黒くなった林檎の皮の欠片が地面にへばりついている。薫は顔をしかめてラスクを引き離すと、やっと再び少女を振り返った。

 そこにはもう少女の姿は居ない。坂道を折れて曲がったのだ。どこかでそれも予期していて、落胆ともあきらめともつかぬ気持ちのまま、顔を戻そうとした。が、そのときふと、坂と坂の交差に立つカーブミラーに目が付いた。

 薫はほんの少しの間、その鏡面から目が離せなかった。鏡面の中、あの少女が、薫のほうをまっすぐに向き、薫がそちらを向いたとわかると、ゆらゆらと手を振ったのだ。

 薫は反射的に手を挙げた。そして心持、手首を揺らし、鏡面の少女が振り返り、背を向けて駆けだすのを見届けると、力なく手のひらをすぼめた。

 

 それから少女と出会うことはなかった。

 一方で、それからラスクの拾い食いがひどくなった。何か見つけると、その小さな体躯からは考えられないほどの筋力で薫を引き、素早くゴミに食いついた。柿の実、蜜柑の皮、ポテトチップスの欠片、ラーメンの残り汁。そしてついに、食物を包んでいたであろうビニール片を飲み込んでしまって、腸閉塞となった。治療と通院の費用が必要になった。

 頭痛は休暇旅行にでも行っていたように戻ってきた。薫は下町の書店へと求人誌を求めに行った。

 その帰り、日和が好いからぶらぶら歩いていると、中国茶という看板を見つけた。引かれるように中を見た。あの喫茶店ではない。日本茶葉を取り扱う店で、その中にハーブティも揃えるようだった。中に入って、加密列を見つけた。裏表紙を見ると疲労回復、鎮痛作用とある。これは、と思い、茶葉を買った。

 帰宅し、さっそく茶を淹れた。一口飲む。林檎に近い甘い果実の香りがしたが、味は少々苦かった。すぐマッサージ店のことを思い出した。サイトを調べに行くと、驚くことにカミルという名前と写真は残っていて、未だに出勤していることになっていた。一〇年以上も前からずっと出勤を続けているのだろうか。そんなことはない。カミルは薫だ。出勤などしていない。

 薫はまた一口加密列茶を飲むと、店のサイトの番号に電話を掛けた。削除を依頼しようと思った。頭痛はない。鎮痛作用が効いているのだろうか。薫は微かな活力と義憤が沸きあがるのを感じていた。

 受話口に男が出る。あの時の店長なのかは分からなかった。薫は開口一番、過去に働いていた者だが、写真がまだ使われていることを伝えた。

 源氏名を伝え、男の返答は意外だった。カミルはまだ働いているという。今日も出勤予定だと付け足した。

「いたずらですか? 営業妨害は止めていただきたいですね」

男の声は薫の返答を待たず、威圧的に落とされた。

「いえ、そんなつもりは」

薫の声は震えた。後が続かない。

「……ご予約、されますか」

男の威圧的な声は、意外なことを続けた。そして滔々と施術時間と料金を述べる。一時間八千円が、安いか妥当なのかは分からなかった。

「体の痛みや、疲労感、コリをほぐしますよ。皆様満足されます」

「あ、あの」

薫は言葉を探した。男は返答を待つのか、無音となった。薫の手元の湯呑から、ゆらゆらと白い湯気が上る。あの香りはもうしない。