抽斗の釘

小説、散文、文章、短編

生命の時報

 彼は疲れていた。

 平日は週末の為と思い、週末は平日の為と思う。それが死ぬまで続くのか。その間も若い時間はみるみる過ぎていく。

 なんのための命だろうか。

 生活費に同額と消える給与。得て失うその繰り返し。知らない他人のための業務も繰り返し生まれ消えいく。感謝もされず、覚えられもせず。取り換えの利く存在。

 取り換えが利かないのは家族だろうか。結婚すればやがてきっと親となる。今の生活も、子供の為と言って幸福に置き換わるのだろうか。ならば自分の親はどうだっただろうか。

 彼は電車に運ばれながら、そんなことをふつふつと考えていた。金曜の晩だった。平日が終わるという安堵と共に、すでに見える平日という憂鬱があった。

 せめて金曜の晩は酒に主導権を渡してしまおう、それが彼の慰めだった。

 自宅とは逆向きの、とある魚河岸に向かう。

 河岸はじめじめとしていた。一日雨が続いて、それが晩には弱まり、霧のような様子。雨は一帯を幻想に包んだ。

 街灯のオレンジは、その明かりで夜空を紺色に明るめていた。また、その夜空の紺色も、街灯の色をより明るめていた。

 一件目は立ち飲み屋で安く酔い、二件目には客足の落ち着いた居酒屋へ、小鉢を相手に居座った。小鉢が空になって一時間もすると、視線に耐えかねて外に出た。

 霧雨は魚河岸を冷やし続けていた。酔心も一息に醒めそうだった。

 通りをひとつふたつ中に入ると、小さなホテル通りとなる。その端に、これまた小さな児童公園がある。

 そこは飲み屋を逃れ、それでも名残惜しい酔客が流れつく場所だった。彼もハイボール缶を片手に同様だった。しかし霧雨で濡れるためか、その日人影は見当たらない。

 公園には白い野良猫が一匹住んでいる。歓楽店で遊ぶ余裕のない彼も、毎度その野良猫を撫で遊び、その温度で欲動を紛らわすのだ。

 しかし見渡せど野良猫の姿は無い。夕飯か雨よけか。代わりにひとりベンチに俯く女を見つけた。十七か十八か。おそらく売春だと思った。

 彼は電子タバコを吸い吸い女を盗み見た。

 本当に売春か、それとも失恋か、はたまた家出少女か。なんと声をかけるものか、思案する。

 ただ、口実はひとつあった。幸いにも霧雨は続く。傘が要るか要らないか、そんな程度の雨模様でも、とにかく鞄の折り畳み傘を少女の前へと差し出した。

「これ、使いますか」

少女は不思議そうに顔を上げた。

 瞬間、彼は言いようのない失意を感じた。少女は思いのほか清純そうな顔をしていた。派手な化粧もなければ髪の毛も野暮ったい。十五のようにも見える。なぜか、彼には嫌悪に近い動揺が湧いた。

 彼はとにかくこの娘をここに居させてはいけないと思った。しかし少女はあざとく微笑み首を傾げ、

「でも」

と言って遠慮する素振りを見せた。

「これ」

彼はそう言って、すかさず一万円札を差し出した。

 売春などしたこともない。やり取りも様式も分からない。ただ、目の前の少女を動かすには、金での要約が手短だった。

 少女は何も言わないうちから札を受け取り、貸した傘で隠れるように着いてきた。きっと少女も売春の様式が分からないのだろう。二人は公園を抜け、ホテル通りを行く。

 ビジネスホテルを選んだのはせめてもの配慮だった。誰に向けるわけでもない。ただ良心への微かな配慮だった。

 彼はチェックインに二人分の料金を支払った。それで部屋に少女を押し込むと、さよならするのが計画だった。

 しかし部屋の扉を開けるやいなや、少女は彼の脇に手を差し込むと、半ば強引に部屋の中へと引きずり込んだ。そして少し付き合えと言う。少女は窓際の丸テーブルに彼を座らせると、手際よくルームサービスを取り付けた。

 少女をホテルに置き捨て逃げるという彼の思惑が、どうして少女に知られたか、彼は不可解なうちにも大人しく席に着いた。彼女の動作から、多少の安堵を見出していたのだ。彼女ははなから清純などではなかった。

 彼がユニットバスのトイレで用を済ませている間に、部屋のチャイムが聞こえた。戻れば机にワインとグラス二つ。そしてオリーブの小皿。席に座ると彼女も向かい合って腰を下ろした。その際夏のブラウスから薄い胸元が見えた。彼は落ちついたようにそれを見届けた。

 彼は保身を打つように茶化した。 

「君、いくつ? お酒、駄目じゃないの」

彼女はふふっと笑いながら、小皿を手に取ると、その伸びる油の端へ、神酒のようにそっと口づけて見せた。その時面妖にも、彼には彼女の顔が十も歳を経たように大人びて映った。

「二十五。」

彼女は言った。それが本当かは分からない。あの公園で聞いたならばそれを嘘だと見破っただろう。しかし今は二十五だった。彼はワインの栓を開けた。

 ワインを一口、オリーブを一粒、そうやって手が動くうちにも、二人の話題は互いの印象をなぞっていった。

「お兄さんはいくつ」

「二十五」

「もう大人だね」

「まだ十代みたいだ」

「いつまでも子供だね」

「良い子に見える」

「良い子に見せてる」

「本当は不良」

「不良少女」

「の、お嬢さん」

「と、お坊ちゃん」

「そのうえ甘ちゃん」

「冷めたふりした、ね」

「何も知らないくせに」

「何も知りたくない」

「このままでいい」

「これで終わりたい」

彼ははたとグラスの手を止めた。軽妙な会話の途切れは、互いの意識をそれぞれに引き戻した。少女はにやりと微笑むと、指先の油をあらためて舐めた。そして、

「生きる意味なんてないよ」

と、追い打つように吐き捨てた。それは用意された台詞のように、室内灯の差す部屋に響いた。

「うん、生きる意味なんてない」

彼は彼女と同じ言葉を繰り返しながら、だって、と続けた。

「だって、命や生活に価値の差はない。生きていること自体が尊いんだ」

それは昨晩テレビニュースで見た、とある映画監督のインタビューの言葉であった。が、言ったものの、それがとても稚拙に思えた。薄く、意味をもたせるにはひどくずるい言い回しのように響く。

 彼女は彼の言葉に続けなかった。彼は情けなくなった。それで酔ったと言って、ひとりダブルベッドに身を投げた。実際、眠気が強く襲った。殴打のような眠気だった。期待もあった。彼女が同じベッドに潜り込んではくれないだろうか。そう夢心地に、次第に意識の敷居は閉ざされていく。

 

 鐘の音のような、あたりに轟く広漠とした音で目が覚めた。

 部屋は電気が落とされ、カーテンの隙間から紅色の外光が滲んでいた。

 彼はベッドの上で起き上がり、手元を見渡した。

 シーツに包まるようにして、彼女がうずくまっているのが分かった。

 彼は再び頭を倒し、薄明のなか天井を見上げた。知らぬ間に夜が明けた。よく眠ったように思う。そうして改めて鐘の音に耳を傾けた。それはある調子を持っていた。街に反響し間延びしているが、何かの曲を歌っているに違いなかった。聞いたことがある。童謡だろう。彼は思いつくままに、でたらめに歌詞を付けて口ずさんだ。徐々に歌がよみがえる。それは「赤とんぼ」だった。

 彼はいったん眉をしかめた後、飛び起きて時計を見た。十七時を差している。ならば十五時間は過ぎたことになる。

 彼はベッドから離れると、一息にカーテンを開けた。外光は朝日ではない。夕暮れだった。街は徐々に街灯を灯し、人々は繁華の道を往来し始めていた。

 彼はベッドを振り返った。夕映えに彼女の顔があらわになった。

 彼は息をのんだ。

 同じベッドで寝ていたのは、自分の母親に違いなかった。六十を過ぎた老年の母の姿だ。

 彼は動揺しながら、ゆっくりと眠る母親に近づいた。母は彼の動作に起きる様子はなく、すやすやと、いかにも安寧そうに眠っている。彼は母に顔を近づけた。顔の皺や染み、頬の下がりなどは年寄そのものだった。が、彼は不思議と嫌悪など覚えなかった。なぜかその母の姿に慈しみを覚えた。なぜか、美しさすらも感じた。

 彼は母の髪に鼻先を近づけた。年齢は皮膚だけではない。その古い脂の匂いも、また微かに聞こえる切れ切れないびきも、すべてが年老いながら、一方で幼子のような柔らかさがあった。

 彼ははっとした。

 母は眠っている。無防備な姿に彼女のすべてが露呈し集約している。そして、これが生命だと直感した。

 老母も若い娘だったのだ。

 しかし彼女は若さも美貌も、輝くような日々もすでに失った。夫と別れ、子供にも去られ、ひとりで過ごす孤独な魂。化粧も服も何も纏わず、わずかな貯蓄で生かされるだけでの無為な余生。何もかも失う宿命の、人間の結末そのもの。それが彼の目に映った。それはただ純然たる生命だった。

 生きている、と彼は思った。そして生きていることそのものが尊い、という誰かの言葉が、その時初めて自分の身のことのように思われた。

 彼は力なく椅子に腰かけた。ワイングラスが二つ、ほんの少し、まだ中身が残っている。その傍には薬包と、そこに微かに残る粉薬があった。

 彼は遠い母を思った。田水張る白銀の風景がうっすらと広がる。

 窓には街の繁華が揺らいだ。それを後ろ背に、彼は陰行くベッドを、落ち着いたように見届けていた。 (了)