抽斗の釘

小説、散文、文章、短編

月か花

 気持ちのよい夜であった。

 一日分の熱に夜気が注いで、街は足し水のようにほんわりとしている。

 居酒屋のエアコンに凍えた体は、生ぬるい夜の風に浸かって生き返ったところ。

 火照ったり冷えたりを繰り返した夜に、脳はぼんやりとした夢心地に緩んだまま。

酔心もほどほど駅の前を通ると、ちょうど最終電車が着いたらしい。改札からは人が潮のように溢れ出てきた。が、それもしばらく歩いて駅の灯りが薄れゆくと、そこらでとんと人は消え、それをちょっと不気味にも感じながら、ふらふらと交番の前を通った。

 交番では赤ちょうちんに似たランプが、ぽっと暗闇に浮かび、また青黄色い室内も同様に、エドワードホッパーの絵画のように黒へ浮く。蜘蛛の巣にまみれた観音開きの扉には、「巡回中」との白い掛け看板が、夏の虫にたかられ垂れ下がっていた。

 小林は、巡回という文字に、今朝の朝礼を思い出した。

 副校長がいつものように連絡事項を挙げる。

それに加え、このところ校区内では窃盗事件が流行っているとのことだった。

犯行はいつも深夜。いやしくも寝静まった住家に忍び込む手口。

幸い傷害の被害はなく、金品目的であることは明瞭だから、登下校の警戒を強める段階ではない。しかし物騒は物騒。念のため注意しておけとのことだった。

若い体育教師である小林はこの手の臨時業務によく駆り出される。

通学路や繁華街へ見回りの必要が起これば、必ず小林の名がまず挙がる。街で問題を起こした生徒の保護も、よく小林が命じられた。

 それは小林にとって決して不平ではなかった。

 少なからず肉体を使うことには自信がある。学生時分は陸上と柔道をやっていた。現役よりはずいぶん細った体であるが、不良や悪漢に対応できる術は体に染みついている。それにまだ、街を走り回る体力も十分。日頃から、周囲が喜んでくれるならば、自分の体で良ければいくらでも差しだす気概でいた。

 だから巡回中という文字を見ると、むしろちょっとくすぐられるものがある。もとより就職は警察官か教師かを悩んだ程だ。地域を守るのと、子供たちを守るのと。悩んだ末に後者を選んだ。過去によって熟成されきった大人よりも、未来ある、未熟な子供を守る方が世のためになる。どうせ人生を社会に摩耗される身であるなら、できればその身を美しい未来に寄与したい。小林の生活の動機はそこにあった。何より純粋な子供たちが愛おしい。愛おしさを還元すれば、子供たちは小林を慕った。そこに生きる喜びすらも感じた。

加えて吹くのは気持ちの良い夜の風。ちょっと酔い醒ましのかたわら、散歩を兼ねて校区内の見回りをしても良いような気持になった。

 いわんや本当に泥棒と出会おうとは思っていない。しかし気持ちよく酒を飲んだ後、多くの者が気の大きくなるにまかせて、食欲や性欲でその日を締めるように、小林にも肉体を使って地域に奉仕したという自己満足を、この夜の締めに置きたい気持ちがあった。

それは一面では教育者たる者の鑑であると言えるかもしれない。私欲におぼれず、奉仕によって一切の悦びを得る。そんな修行僧のような清廉さが、小林の自負でもあった。

また、小林のそんな清廉な性質は住処からもうかがえる。彼は赴任先の学区内に賃貸を借りている。それはプライベートの確保より、むしろ自分の生活圏と生徒保護者のそれを重ねることに美徳を置いた結果である。そこには私生活すら教師であり続けたいという克己があった。

 小林は胸を張るように伸びをすると、体を傾け、帰路とは異なる道に入った。

 時間はすでに日を跨いでいる。生ぬるい夜風は彼の体をもう十分に暖め、汗ばみ始めたポロシャツをすり抜けていった。

 

 夜の窃盗は、駅前の小汚い小店通りから駅から少し離れた目新しい開発住宅地、そして古くから土地に根付く屋敷が並ぶ集落と、学区内ならところ構わずあちこち起こった。捜査のかく乱のためだろうか。と、小林は自分に空想の刑事を重ねながら推理し、屋敷集落の方へと向かった。

集落は道が細く入り組み、屋敷同士が迫るように立ち並ぶ土地である。古い屋敷ばかりだから外塀も一様に高い。当然見通しも悪い。もし自分が泥棒であるならばそこを重点的に選ぶ、などと推理したのだ。そこなら目撃されても追われにくいし、集落は藪山と隣接する立地にある。そのため隠れやすいし逃げのびやすい。そんな場所だから、パトロールの巡査たちもどうかすれば見落とす点があるかもしれない。有事の際には少しでも手伝えればとも思った。

しかし当然、犯行が今夜起こるとは限らない。犯行が起こらないに越したこともない。とどのつまりどうせ夜道を歩くなら、多少風情があった方がよいと、そんな軽い気持ちもあった。そこなら山から下りる空気もみずみずしいだろう。酔体には涼しいぐらいが気持ちよいのだ。

 十分と歩き、集落に着けばすぐ、屋敷群が立ち塞ぐように現れた。街灯も電柱も数少ない土地、思っていたよりもずいぶん暗い。集落自体が裏の藪山と闇とに融け、それはひとつ大きな城のようにも見える。また、空気に爽やかなみずみずしさを期待したものの、実際踏み入れば、ヒヤリとする悪寒じみた冷気の世界。草木の湿気の青い香りもする。整備され切っていない排水路の生臭い匂いもする。そこに水が流れているのか、遠くで水がちょろちょろ流れる音もする。

 小林は暗闇にぶるっと身をひとつ震わすと、尿意が半身に染みるのを感じた。しかし教師たる身、幕末の風雲児のようにそこらの塀で用を足すわけにもいかない。ぐっと腹に力を込めて我慢した。

 引き返したいとの誘惑も起こった。が、ともかく地域をひと回りするまでは生徒たちに顔向けできないと、ひとり勝手に自戒する。小林は腰に据えた太刀を握る心地、入り組んだ細い道、集落を奥へ進んだ。

 静かな道を幾らか進んだ後、三又路に差し掛かった。

うっすらとした視界は月光のみ。左右分かれる道の中央には古く小さい祠が、門衛のように小林を見据えている。

 雲の加減か、月光はその一方、一路だけを差し照らしていた。

小林は目を細めた。その道の先、ふとその奥で、ひとつ影の動くのが見える。

おやと思う足も、自然と忍ぶようになる。すると影は、ある一戸の塀の傍で体を伸び縮みし、屈伸するように動くのが分かった。と思うと、するするとまるで忍者のように塀を這い上り、そのままさっと翻ると、敷地の中へ、吸い込まれるようにして消えていった。

 当たりだと思った。小林の脳裏には、瞬時に自分を囲む生徒や保護者などの敬慕の顔が踊った。自然と足は塀に向かって動いていく。

この時小林には通報するという頭はなかった。静かな通りである。いま通電すれば、話声で相手に自分を知らせることになるだろう。また、聞こえないところまで悠長に引き返していては、うかうか泥棒に逃げられることとなる。事態は喫緊だった。

 忍び足のまま、屋敷の塀伝いに表門まで回った。インターフォンを押せば中の住人を起こせるだろう。しかし、すると泥棒にまで聞こえるかもしれない。

 小林はそう勘定を働かせ、そのまま表門の木の引き戸に触れた。からりと動く。不用心にも鍵はされていない。これではまるで泥棒に入れと言っているようなものだ。

 そう心で叱責しながら、表門をくぐった。その時水の音がまた聞こえた。藪山からの水源が近いのだろうか。それとも中に水場でも?

そんなことを過らせながら、正面の玄関には触れず、迂回し庭へ回った。影が塀を越えた位置に向かう。泥棒なら玄関から入らない。勝手口や窓を使うはずだと思った。そして侵入するためには窓を破るなり鍵を壊すなりの作業が必要になる。今なら鍵穴に集中しているはず。飛び掛かって抑え込むには十分な隙だろう。

 小林は半ば息を止め、角からひっそりと庭を覗き込んだ。

 月夜に浮かぶのは、小さいながら立派な庭園だった。寺庭をきゅっと縮小させた風情がある。夜を纏う石灯篭や松の木に泥棒の影を探した。しかし一見では見当たらない。

 小林は慎重に足を動かした。玉砂利が鳴らないようゆっくりと。

 歩みを進めれば掃き出し窓が庭に並行して並び、中に内縁が見える。目を凝らせばその窓のひとつが半身ほど開けられ、レースのカーテンがゆらゆら風に小さく揺れるのが見えた。

 窓が破られた形跡はない。鍵は開いていたか。ならばもう中に?

小林はちらちらと庭にも注意を向けながら、慎重に窓に近づいた。ぬるい風が中から抜ける。ほんのりとお香の香りが通った。

もし泥棒がすでに中に入っているなら、これはこれで好機。袋の鼠だと思った。しかし迂闊に動けば中の住人に危害が及ぶ恐れもある。小林は焦る心を鎮めながら、音の出ぬようゆっくりと身を屈め、その窓から内縁へと頭を滑り込ませた。

 気を抜けば闇討ちを受ける恐れもある。小林は狩りをする動物のように慎重に周囲を睨みながら、体をするりと縁側に内入れた。

 と、縁側に接する襖が開かれていて、奥がぼんやりと明るいのが見える。そこは座敷で、覗く間も同時に、ぽっかりとした電気行灯の傍、ひとり女が力なく首を傾け、しな垂れ座っているのに出会った。

 そこがひどく脱俗した雰囲気ではあったものの、ともかく今は構っていられない。小林は知らせねば、という使命感から、遠慮も無礼も忘れ、忍び声に女に叫んだ。

「あの。大変です。泥棒。泥棒が入りました」

挨拶や説明の猶予はない。小林は小鼻に汗を浮かべながら必死に声を絞った。と、女は眼を薄め、ぼんやりとしていたが、小林の声が届いたか、縁の方、襖の影で屈む小林へ顔を上げると、微かに頬を行灯に明るめた。

「え……、なに。泥棒?」

「ええ、たった今。気を付けて。どこかにいます」

すると女はぽかんとしたのち、うっとり微笑むと、次第に口をおさえ、肩を震わせて笑い始めた。

なぜ笑うのか。小林には瞬間分からず、今度は小林がぽかんとした。状況が飲めない。泥棒の危険、初対面の女、と、その嬌笑。ともかく今騒がれるのはまずかった。

「ちょっと、静かにしてください。気づかれます」

「だって。」

と女は言うと、なおも笑いながら続けた。

「御免なさい。だって、いきなり現れて。あまりに真剣に。……ふふ、でも、どう見たって、あなたの方が泥棒ですわ」

小林はちょっと面食らい、女を怪訝そうに睨んだ。女があまりにも悠長なのだ。

有事とはいえ身知らぬ男が入ってきたのだ。多少取り乱しても良い。この瞬間、小林にはそう思う暇はなくとも、直感に予見した住人の態度とは、それはあまりにもかけ離れている。女にはまるで女子学生のような能天気さがあった。いや、まだ女子学生のほうがしっかりとしている。

そして次第に憤りに似た非難の心も起こった。身の危険だぞと、叱りたくもなった。しかし泥棒に気付かれれば元も子もないものだから、

「ここの窓から入るのを見たんです」

と、女の理解を促すため、できるだけ神妙そうに声を落としてみせた。

「そこから?」

女は尚もくすくすと笑う。

「静かに」

「だって。私、ずっとここに居たんですよ。もしそこから誰か入ってきたなら、いまみたいにすぐ分かるものだろうけど。」

小林は口を丸くした。そうかもしれない。座敷と縁側はひとつづき。その位置、誰か通れば、嫌でも女に見つかるだろう。

「しかし確かに」

勢いづく小林へ、女はそれから、すぐに見知った親戚のように顔を緩めていた。

「もう。泥棒だってなんだって、特段代わりはしませんよ。ほら、いらっしゃい。折角来たんだから、ゆっくりされて」

女はそう言って重たそうに体を起こすと、脇の座布団を動かし、ちゃぶ台へと小林を促した。

 女がそういう態度だから、加えて泥棒など見ていないと言うのだから、小林は自分の方が早とちりをしているのではとの懸念を抱いた。

 見間違い? あるだろうか。自分はしかと塀から入る影を見た。

 が、その影も、泥棒泥棒だと思って歩いていたのだから、月光に生まれた影か何かを見間違えたのかもしれない。猫かイタチの類か。加えて醒めているとはいえ自分は酒を飲んだ身。アルコールを入れたという隙は、小林の実見を簡単に揺るがせた。女のあっけらかんとした様子から、あれが空目だったという気も強くなる。

 女は逡巡する小林の脇をするりと抜けると、微笑みをたたえたまま、縁側とは逆の、内の襖へ抜けていった。小林は女の後ろ姿とその隙に、彼女が和装であると気が付いた。黒か、灰の混ざった深緑の付け下げである。襖を閉めゆく女の座り姿を眺めながら、普段着にしては窮屈な、と、その奇妙なシチュエーションに、あんぐりと口を開けたまま、ついぞ言葉を続ける機会を逃してしまった。

 席を外した女に、勝手に帰れば余計に不振で失礼だからと変に気を利かせ、小林はおとなしく、出された座布団の傍に立って腕を組み、女が戻るのを待った。

あの影は泥棒か、それとも月夜の見間違いか。かといって家中を勝手にうろうろ探し回るわけにもいかない。せめてこうやって人騒がしくしていれば、もし泥棒が居たとしても危機と察して帰るだろうか。もし女の叫び声がすればすぐ飛んでいこう。小林はそう決め、ぐっと耳を澄ませた。どこかでまた、水の流れる音が続いている。他には特段怪しげな物音は聞こえない。

 しかしこんな夜半に着物とは、外から帰ったばかりなのだろうか。小林は腕時計を見た。それにしては遅い時間だ。それに自分が入った瞬間、女はくつろいでいたようにも見えた。くつろぐなら部屋着になってもよいものだが。など、くるくると思いを巡らしている。

 女はすぐには戻らない。小林は手持無沙汰に座敷を見渡した。女が横座りにしな垂れていた行灯の足元には、色打掛だとか柄襦袢とかが円座を作っている。きっと今脱いだものではないのだろう。よく見ればあちこちに帯だとか麻の浴衣だとか小紋やらも散らばっている。が、不思議とそれらは不潔そうには見えず、むしろ畳に彩る艶やかな植物のようにも見えた。

 行灯の後ろは床の間となっている。

その床板には細長い漆の花器に、菖蒲の花が一輪、活けてあった。小まめに替えているのか、葉や茎は今切ったようにピンとしてみずみずしい。そしてその上につく花は、行灯の灯りを吸うように色づき、利発そうに上向き凛としている。

小林は導かれるように、その上に掛かる掛け軸を眺めた。それは一幅の書であった。

「何て書いてある? 花?」

だろうか。小林は墨で描かれたそのひと文字を眺めた。

書は墨が潤沢に使われ、太い筆に字の形は気ままに崩されている。水を多く含ませ書かれたのか、墨の色は黒から灰色、白と、所々まだら模様に移ろい、全体的に滲んだ墨から、字の輪郭は曖昧である。また、それが「花」の字だとしても、草冠と思しき部分はずくずくとした墨汁に、前後左右のでっぱりはほとんど消え、一塊となって形を成さない。

筆脈は草冠の左部からそのまま「花」の字の「イ」らしき下部につながり一筆に垂れさがっている。また「イ」の横の「ヒ」も、払いや跳ねの形が墨の滲みに消え、それもまた一塊となり下へ垂れているように見える。もはや文字という線から、墨で塗られた面のような様相。それは小林が見知った花という文字にはかけ離れているものの、しかし菖蒲の花を前にするためか、明瞭ではないがそれが花という字のように見えた。

「その書に、ご興味が……?」

と、唐突に女の声がした。振り返れば女が音もなくそこに立っている。

 女は漆の盆に銚子を乗せていた。猪口が二つある。今から飲もうと言うのだろうか。小林は反射的に、

「いや、もう帰りますので」

と、手のひらを見せた。

 女はきょとんとした顔をしたのち、心持顎を引いてじっと小林を見つめた。

「あら、どうして」

どうしてと言われても、と、小林は瞬間返事がなかった。もとよりここに居る理由もなりゆきだ。帰る理由も理屈は生まない。

「どうしてって、僕の勘違いで入ってしまったんですから、これ以上居座るわけにもいきません。むしろご迷惑をかけてしまったんだから」

と、理屈抜きに答えた。しかし女は、

「あら」

と言って恭しく、膝立ちに酒器を並べる。

「そうね、迷惑」

女は続けて微笑みながら、裾を折りつつ正しそうに座った。そしてじっと小林を見上げる。

「……迷惑なんて。でも、どうしても迷惑をかけたとおっしゃるのなら、その償いと思ってお付き合いくださいな」

小林は言葉がすぐには出なかった。迷惑をかけた償い、ということであるなら、小林には断れない。小林は不思議な気持ちになった。迷惑をかけた人の家に居座り、さらに酒の馳走を預かるというのが無礼。せっかく用意してくれた馳走に手を付けず、相手の親切を無下にし帰るというのが無礼。そう常識を探す傍ら、今この屋敷でこの女を前に話していれば、何が常識なのかも分からなくなる。むしろこの女の言う通りにするのが、どこか道理のようにも思えてくる。小林は難しい駆け引きは苦手だった。

「償い、ですか。」

「ほら、いいから座って」

女は焦れたように言った。銚子を傾けて揺らしている。

 小林は少し苦い顔をしながら、強く促される方へ流れた。座布団の上にちょこんと正座し直し、猪口を両手で包むと頭を下げながらそれを小さく差し出した。

「そうそう」

女はそう言って小林の猪口を満たすと、すぐ自分のものにも続けて注いだ。

 小林は促されるままに猪口に口を付けた。甘い酒で、酒気が鼻孔に抜け消えゆくようだった。女も向かいで一口付け、ゆっくりとそれを降ろし、温めるように両手で包んだ。薄く、細い指であった。

「それで、その書にご興味が?」

女は先ほどの続きを始めた。小林は首を振った。

「いや、まったく。ただあるから、なんとなく眺めていたぐらいのもので」

「あら、そう?」

そういって、女は妙に嬉しそうに微笑むと、一口飲む。小林も合わせる。

「じゃあ、なんて書いてあるかお分かり?」

字が崩れているのは共通の認識らしい。小林は興味なく目を伏せた。

「なんでしょう。僕にはさっぱり」

憮然とする小林に、女はくすりと笑った。

「あら、まだ? でもきっとすぐ、お分かりになられると思うけれど」

書の話をしているのに、女は不思議と一瞥も目を書にはくれていなかった。ただ掛け軸を後ろ背に、静かに猪口を温めている。

「……ただ、これを月と読む人もいれば、花と読む人もいらっしゃるのよ」

「月か花、ですか」

再度小林は掛け軸を見上げる。しかしその字はどうも月には見えづらい。いや、そう言われてみれば、左右の太い墨汁が、どちらも下に向かって下がっているのが、月の字の外枠のようには見えそうだった。

「いろんな、見方があるんですかね」

「ええ、きっと書家も、見様が人によって異なるよう書いたに違いありませんわ」

「そうですかね」

「ええ。例えば、私にとってあなたが泥棒にも見えるように」

と、そんな突然の切り返しに小林は面食らった。

「泥棒? いや、僕は決して泥棒などでは。」

しかしどう言おうが立派な弁解になりようがなく、それから小林は俯くしかなかった。

「……僕は、人影がここの家に入っていくのを見たんですよ。外の塀を乗り越えて、この敷地に入る様子を。だから追って入ってきたんです」

力ない小林の弁明に、女は妙に目を輝かしたように見えた。

「そう? ……でも他の人はどこにいらして? 私の目の前にはあなたしかいませんわ」

「きっともう逃げ出したか、それかまだ家の中に。他のご家族はいらっしゃらないのですか」

すると女は少し眉をひそめ、続けてくっと酒を飲んだ。

「……いませんわ。私ひとりだけ。私以外にはあなただけ」

「そう、ですか」

「まあ、いいじゃない、どっちにしたって同じこと。あなたはどちらにせよ、この家に今いるんだから。泥棒でも、そうじゃなくても」

「だから、すぐ帰ろうと思ったんです」

「それはやっぱり泥棒だから? 泥棒なら早く逃げたいものね。でも、結局こうして居座っている。それは本当は泥棒だけど、逃げれば本当に泥棒だとばれるから? それともまだ何も盗めてないから……?」

女の言いぶりは、どうも小林を泥棒だと決めたいような言いぶりだった。無理もない。こんな夜半に他人の住居に無断で侵入したのだ。泥棒だと思われても仕方がない。が、女はそう思っているにしては、ずいぶん落ち着いているように思えた。しかも酒なども出してくれている。それが小林には不可解の他何物でもない。とはいえ、女が取り乱して騒がないのは実際助かっていた。不法侵入だろうか、窃盗未遂だろうか。今騒がれて警察を呼ばれれば、小林は誰が見ても犯罪者であった。

小林は猪口をぐいと飲み干した。

今ここを去れば女に後から通報されるだろう。そうなれば遅かれ早かれ警察の御用となる。今すぐにでも帰りたいが、どうにかして、自分の疑いを晴らす必要があった。

「ハア、私ねえ」

と、女はおもむろに、何故か焦れたようにため息を吐くと、小林の勘定を介せず口を割った。

「私ね。おなかに子供が居たの」

「……子供、ですか」

唐突な言葉だった。脈絡もない。何を今から聞かされるのだろうか。しかしともかく居た、という言葉尻に、小林はただ身構えた。

「でもねえ、生まれる前に行っちゃって」

つまりそれは流産だろうか。小林はその言葉を口に出せず、感慨深そうに頷いた。

「今日、四十九日を迎えてね。はっきりとした日は分からないんだけど、たぶん今日なの」

「それは、その。お悔み、申し上げます」

流産した日から、今日が四十九日目ということだろうか。女の話す意図が不確かなまま、小林がひねり出せたのはありきたりの言葉であった。

 というのも、同時に小林の胸には響くものもあった。それは生徒たちのことである。

 小林のように生徒の有事に駆り出される立場であれば、ただの非行の対処が多いが、ごくまれに悲惨な場面に立ち会うこともあるにはあった。子供の命の問題については、おそらく人より敏感だった。それゆえ、多少思うところもあって、小林から出るのは気遣いに満ちたゆえの、ありきたりな言葉であった。

しかし女は、そんな小林の言葉を聞いているのかいないのか、ともかく話を続けるのだった。

「それでね、今日はお参りに行ってきたの。」

「お参り、ですか」

「まだ形にもならなかったから、死産届なんかなくて。お医者様も自然にまかせましょうって。……位牌も、御骨も、何もなくて。だからあの子が居たという証が何もなくて。あの子が居たという時間が嘘になりそうで。だから私、お参りでもしないと忍びなくって」

それは小林にはまだ無理解な話であった。何週目からそうなるのか。医者とのやり取りは、行政の手続きは? これといった助言や提案もままならず、ともかく頷いて話を聞くしかなかった。

「きっとお地蔵様が導いてくださるって。……私ね、トイレの水に流しちゃったの。私から落ちた黒い血の塊。きっとあの子が居た小さな布団を。私、トイレの水に落としちゃって。でも私、どうすればいいのか分からなくって。何がなんだか分からなくって。それで、私動揺しちゃって、どうしようもなくて、流しちゃったの」

女の声が徐々に感情的になるのが分かった。それでも女は続ける。

「きっとあそこに居たんだわ。あの血の中に。それで冷たくて暗い水道管の中を、ひとり流されていったんだわ」

そういって女は両手を顔で覆い、言葉にならない声を震わした。小林はもう頷くことも忍びなく、空になった猪口を眺め、ただ神妙そうな顔をして黙っていた。

すると女は両手を顔から剥がすと、天を仰ぐように額を上げた。

小林は、その女の顔を見て息をのんだ。行灯に浮かぶ女の顔は、涙に濡れ、悲壮そのものである。が、しかし、頬は脈々と生きた血潮に色づき、瞳は涙と共に灰色の宝石のように輝いて見える。それはまるで美しい絵画を眺めるようだった。……絵画。いや、小林は今までこれほどの情動を見たことはない。それは色欲さえ及ばぬ、清廉なばかりの感情の隆起だった。

「……それでね、私、お地蔵様にお願いしたの。どんな姿でもいい。どんな形でもいい。だから、きっとあの子が戻って来られますようにって。あの子をお導きくださいって。あの子が寂しくないように。あなたの居場所はここにあるわよって。」

女は上向いたまま滑らかに話した。両手はいつの間にか、小さく腹の前で合わせられている。小林は女の話から、自然と、神々しい地蔵菩薩の偶像を頭の上に描いていた。それが女の天を見る視線と相まって、自分の後ろに何か立つような、生ぬるい気配を感じるような気がした。

「だから、今夜、お地蔵様は導かれたんだわ。ほら、だって、現にあなたがここに来て」

女はそれから顔をゆっくりと下げ、その灰色の瞳を小林の眼前に真っ直ぐと晒した。それは優し気で慈しみに満ちた清明な目であった。女の口は動く。

「でもね、あの子ずっと私のお腹に居たでしょう。きっとまだ目は見えませんでしょう。でも、音だけはきっと聞こえるでしょう? だから名前を呼んで、私、あの子をここに呼ばなきゃいけないの。」

女はそう言い終わると、少しの間口を閉ざして、小林を意味深に見つめた。小林は何か言葉を促されているような気がして、乾燥した口を開けたが、しかし何も言いようは無かった。口内に少なくなった唾液の音が、座敷に小さく鳴るだけだった。

 女は心持、首を傾げた。

「あなたはきっと泥棒でしょう? じゃなきゃ入る理由がないじゃない。……お地蔵様に、あの子に、導かれてこの家に入ったんでしょう?」 

いいえ、違います。僕は泥棒なんかじゃありません。答えは明白だった。が、それを口にするのは至難であった。

「……私、あの子を流したの。その償いよ。償いに、あなたみたいな悪い人を借りたんだわ。でも、それだっていいの。きっと、あの子が私に戻るためなら、どんな新しい体をお借りしたって。丈夫なら、きっと……ねえ、」

女はそう呟きながら、続いてはっと顔を崩した。

「そう、名前。名前を呼ばなければ分からないわよね。……名前ね、この書を見て、誰かがおっしゃったように、月か、花だろうと思っていたの。あなたならきっと名前をお分かりよね。ねえ、あなたはこれをなんとお読みになったの」

女はもはや、小林がそこに居るのかも知らぬように、実に嬉々と、空に話しかけていた。

「あなたは。月ちゃん? 花ちゃん? どっち?」

そう言って、女は熱の陰る瞳を、ゆっくりと小林の瞳に向けた。いつからか、内襦袢の胸元が緩み、膨らんだ胸元が晒されている。

 ぞくっと走る熱気を感じた。女に何を求められているのか、小林は直感した。それはとてつもない甘みを予知させた。

 しかしその熱気は、小林がはっと思い出す、不貞への忌避と共に、一度強く彼の体を後方へと押しやった。その力を借り、小林はさっと座布団から腰を上げ、早口に言った。

「あの、僕、そろそろ帰らせてもらいます」

しかし女はゆっくりと首を傾げ、真から不思議そうにつぶやいた。

「……なぜ?」

同時に女の背後で何かが動いた。それは掛け軸の書に見える。文字の一部がずるりと動いて、墨の一部が半紙の空白に躍り出る。小林は目を疑った。文字が動いた。が、その黒いものはすぐに知った形となった。

——家守だ。

それを口に出せたかどうか、小林には自分でも分からない。小さな家守はその黒灰の体を書の墨汁に重ね、息を潜めて待っていたのだ。そして今姿を見せた。名の呼ばれるのを、待ちわびたように。

 小林は硬直した。そして家守と女とを交互に見遣った。

女はこちらを見つめている。家守はじっと耳を澄ませる。

二人から、強い渇望の渦を感じた。

同時に、渦に呑まれる恐怖を覚えた。

二人の奥に家族が見える。暖かく幸福な、三人の、家庭の影絵。

「ぼ、僕は、失礼し」

小林は即座にそう言い捨てると、座布団を後ろ足に蹴り、襖に肩をぶつけながら、雪崩れるようにして縁側から庭に転げ出た。そして尻もちを突きながら、その際再度、行灯に明るむ座敷を顧みた。

 その時彼は、喉を絞められたようなか細い声を漏らした。

 座敷の天井に、黒い大きな影が張り付くように映っていた。それは、塀を乗り越え、自分を中へと誘った、あの影に他ならない。

 小林は玉砂利の音も気にせず、庭を駆けだした。その後ろ背に、尚も女の声が後に続いた。

「——ちゃん。また連れていらしてね」

その名前は聞き取れない。月だろうか花だろうか。しかし小林には端からどちらとも区別が付かない。

 小林は門を抜けると、息の切れるのも忘れ、集落をただ力の続く限り走り抜けた。

 もう彼には草木の青い香りも、排水路の生臭い匂いも感じられない。

 ただ、耳には遠く音が聞こえる。ちょろちょろと流れる水の音。それはどこまで走っても、後からずっと着いてくる。

……彼が夜叉のごとく駆け抜けた後、三叉路は元の静けさを取り戻していた。

そこには月光が落ち、細道は白く染みている。

いつか戻る、彼の帰路を教えるように。(了)