金曜日は私も早引けになるのだから、一緒に夕飯でも作り一週間の労働を共に労い合いたい。
有里子はそんな風に苛立ちながら、冷えた夏野菜を叩き切っていた。
結婚して三年になる。夫の倖一は今日も外に遊びに出ていた。
しかしそれを特段悪いとは思わない。生き方は人それぞれ、ましてや彼は自由業だった。平日の五日間、八時間労働が社会人として当然だという、そんな枠に押し込めようとするのは、今の時代身勝手だと有里子は思う。
しかし鼻に付くのが、その遊びに行く相手が同世代の女たちということ。皆どうせ裕福な主婦で、きっと時間を持て余している。その退屈しのぎに夫が使われているのが気に食わない。
私の夫は、もとい、私の家庭は、そんな他人の暇つぶしにあるわけじゃない。
有里子はそうなおも苛立ちながら、乱暴にまな板の野菜を銀のボールへ流し入れた。
また何より不服なのが、倖一がそれを有里子に事前に報告しないことである。この日はあの場所であの人に会う。その連絡をうやむやに出かけてしまうのだ。だから有里子は自分と夫との予定を照らし合わせ、一家庭としての夜の予定を組むなどといった計画が立てづらい。しかしその不服を訴えるのは、夫の人格を束縛するようで、なんだが強く言い出せないでいた。
それでも倖一は酒など飲まず、もとより飲めないのだが、ともかく夜半まで飲み歩くことはなかった。そして憎たらしくも、いつも決まって夕飯までに帰ってきた。だから有里子の沸点はいつも微妙なラインで揺れ動く。これで朝帰りだとか浮気の露呈などすれば簡単に怒れるものの、至極健全なように白い顔で帰ってくるのだから、有里子はいつもちょっと不機嫌そうな中でも、
「おかえりやっしゃ」
と、おちゃっぴいに迎えるのだった。
倖一はそのようにして、誰それに会ってこんな話を聞いただとか、若奥様たちの派閥がどうだとかの話を仕入れてくる。そこでやっと有里子は、夫が今日どう過ごしたのかを把握する。会っていたのがいつも同世代の女性たちであることもそうやって分かる。
また、その活動が仕事のネタになるのだから真っ向からは否定もできない。倖一は個人のイラストレーターで、ソーシャルメディアに簡単な漫画を描いて生計を立てている。
正確にはそれが収入を生むわけではないが、浮気話や家庭の問題などを茶化す小話を描いて、それを客引き用に、最終的には真っ当なイラストの販売を成果としている。漫画の人気は良くも悪くも上々で、それを発端に企業からのイラスト依頼も度々入るらしい。
だから主婦方との退屈しのぎは、イラストの依頼に遠からず繋がっている。したがって今のところ収入の面でも、イラストレーターとして大成するという倖一の夢の面でも、平日の優雅なお茶会は必須であるのだ。
一方の有里子は京都の土産物会社で事務方のチーフをしている。入社当初は観光産業の土地柄、手堅く安泰な仕事だと思っていたものの、観光客の激減で社内は改革を迫られてしまった。今では各地の店舗を閉じて、代わりに入れるテナント業に舵を切り出した。事務もいろいろな変革があったものの、業務自体は簡略し、早帰りの実施なども取り入れられている。楽になったと思う一方で、仕事が減った不安も覚えないわけではない。いつかは自分も旧態の捨てられた業務のように、お払い箱となる恐れもおおいにあった。
安泰というものは存在しない。生き残るためには常に進化を強いられる。変化し続けることが生きるということだ。それは生き残ってきた生物の歴史を見たって明白だ。
有里子はそんな風に結論しながら、豚肉の小間切れを沸いた湯の中に放り込んだ。眼鏡が湯気に曇る。しかし放っておいても晴れるのだからと、その曇った視界のまま、有里子は鍋をじっと見届けた。
とはいえ、夫の行動を許し続けることも、夫婦関係の進歩であると言えるだろうか。
有里子の思案はぐつぐつと揺れた。
変化と寛厚は近くもあるが、しかし別物である。ましてや夫は家族である。この先も倖一の自由を許容できるだろうか。許容すべきとするのが私や時代の変化だろうか。
そんな風に問いながら、有里子は菜箸で鍋の中をぐるぐると掻きまわした。湯の中の肉の汚れも同じようにぐるぐる回った。
豚肉を鍋から引き上げた頃、倖一は帰ってきた。一年で日が一番長い時節である。午後七時前であるのにまだ外は明るく、キッチン窓の網戸からは夕方の匂いがした。が、それを台無しにするようなジャケットに染みた香水の匂い。有里子はそれでも笑顔を作った。
「おかえりやっしゃ」
「ただいま。おはようお帰りで」
倖一は飄々とジャケットを脱ぐと、肌着になってキッチンを覗いた。
「冷しゃぶかいな」
「そうどす」
こうした少々アクの強い二人の言葉は、いつしか現実から少し離れたものになっていた。芝居がかったような関西弁は、三年間の二人のやりとりが築き上げた、一種独特な空気だった。不満、不服、疑念、退屈。それらをすべて包み込んでしまう便利な道具が、その芝居じみた言葉であった。
「もうできるやろか」
「へえ。大人しゅうまっとくんなまし」
「へえへえ」
倖一はそう言って、食卓へ麦茶や食器を並べ始めた。
「せや、味噌汁つくろか」
「や、昨日のんがまだあるさかい」
「さいでっか」
さいでっか、などとは二人それぞれの現実では使わない。この、二人の家庭というものがある種の非日常を作る、劇場のようになっているのである。客はいない。そのため二人の茶番に終演はない。
二人はやがて食卓を揃え、向かい合って席についた。
「ほないただきましょか」
「いただきます」
「……いけまんな」
「いけまっか」
倖一は、その口ぶりとは別に箸の動きは緩慢だった。きっと腹が減っていないのだろう。チョコケーキかフルーツパフェか。有里子は汁椀を置いて静かに切り出した。
「今日はなんかおもろい話おわしたか」
「んー」
倖一は口を動かしながら皿の上を眺めていた。有里子も少し目を落とす。豚肉と野菜をゴマダレであえただけの簡単な料理。鮮やかな色彩はどれも泥のように汚れている。
「まあ、ぼちぼち……」
「なんやそれ」
倖一は口を動かしながら、しかし思い立ったように目を細めた。
「ああ、でもな。おもろい話もあったで。芦屋の奥さんの話の続きやけど、浮気相手の男の奥さんがこれまた、美容クリニックの先生とできてはるらしい」
「はあ。ほんで?」
「ほんで、治療費をうまいことしてもろて、見返りにお付き合いしてはるらしいわ。先生からしたら理想の顔そのものなわけやし、奥さんも安く綺麗になりはるもんやから、そりゃあまんざら……」
「ふうん」
有里子は力なく相槌を打った。疲れ切った金曜日の夕飯に聞く話ではない。聞いておきながら、有里子は無性に腹が立った。そして倖一の話を遮るように、
「なあ。もう、女の人と遊ぶの止めたら」
と、ついぴしゃりと言いのけた。
倖一はちょっと驚きながら、小さなくしゃみに顔を潰すと、それからつまらなそうに口を尖らせた。
「……なんでや」
「うん。前から思ててんけど、あんまし気持ちいいことないで。人様の噂ばっか描きさらしてや」
まともにそう言われると、倖一は「遊びやないけど」とつぶやきながら、子供のように箸でミニトマトを転がした。
「……まあ、そりゃあ、気分ええことないやろけど。せやけど閲覧は伸びよるしなあ。需要はうまいこと拾えている気いするし」
「せやかてコメントは荒れてるやん。いつか炎上すんで」
「はは、もう燃えとりますわ。ユリの兄ちゃん呼んでくれんか」
有里子の兄は消防士だった。有里子は澄ました口に、パプリカだとかナスビの端を放り込んだ。
「呼んでもええけど、あんたみたいな燃えへんゴミは専門外どす。月曜日にお迎え来るで」
「ほなそれまでここに居させてもらいます」
「ほんま捨てたろか」
「環境にわるいで」
「地球に謝り」
「再利用してんか」
倖一は微笑みを取り戻しながらトマトを拾って口に入れた。有里子はそんな倖一に再度鋭く小言を刺した。
「でもまじめに、そろそろ女の話描くの止めたら? 飽きるやろ。見てる人も」
「せやかてなあ。他にネタあるやろか」
「男の話にしい」
有里子の代案は唐突だった。単に女を避けるためということで、安直に男を持ち出したに過ぎないのだろうが、倖一にとっては不意打ちだった。
「……それの何がおもろいねん」
「おもろいて。女は男同士の絡みが好きやで」
涼し気に口を動かす有里子に対し、倖一は少し箸を止めた。
「下ネタやん」
有里子は噴き出す。
「ちゃうちゃう、そういう絡みやなくてさ。普通に遊んだ話とか、昔の失敗談とか。ほら、男子同士でわちゃわちゃしてんの見てるとおもろいやん」
「そうかなあ」
「せやって」
「そうやろか」
「そうやて。……ほら、昔おったやん、栗田くん。あの人の話描きいや。仲ええやろ。最近遊んでへんの」
「んー。せやなあ、あいつもいま時分忙しいやろし」
「よう昔旅行とか行ってたやん。ないの、そん時のおもろい話」
「あるはあるやろけどもう忘れてしもたわ」
「ちょっと今度飲みに行ってきいよ」
「そんなすぐ会われへんて。みんな忙しいやろし」
「なんでよ、二人で会うならすぐ行けるやろ」
「栗田と二人で会うんか」
倖一は妙に抵抗した。有里子は少し不思議に思いながらも、依然涼し気に相槌を打った。
「なんなん、あかんの」
「うーん」
倖一はいつのまにか箸を置き、腕を組んで考え込んだ。
「ぱっと行ってきたらええやん。あの人もまだ関西やろ」
「あんな、ユリ」
と、倖一は突然改まった顔をすると、ぼんやりと有里子のほうを見た。視線は目を外し、有里子の首元を捉えるように見える。
「……どしたん」
「僕なあ、最近気い付いてんけどな。なんか男があかんねん」
有里子は唐突な告白に眉をしかめた。
「あかん? あかんてどういうこと」
「なんか複数で会うのはかまへんねんけどや。サシで会うのはなあ。なんか意識してまうねん」
「意識?」
有里子は倖一の告白に胸がざわめくのを感じた。
「そんなこと絶対ないねんけどな。男と話してるとなんやこの人に襲われるんちゃうかとか、その、肉体的な関係になってしまうんちゃうかとか、そんなことばっか考えてしもて、普通に楽しまれへんねんな」
「なんやそれ。あほちゃうか」
と、それまでの調子で言い捨てそうになるのを抑えるために、有里子は瞬間言葉が続かなかった。倖一の話しぶりは真剣なように聞こえる。それを茶化すのは、倖一の微細な部分を傷つける恐れがあるように思った。倖一は続ける。
「……いつからか分からへんけどな。なんかそう思うようになってしもて。別に男が好きってわけでもないねんけど、なんか想像してまうねん」
「ふうん」
想像するだけなら普通に過ごせそうなものだが。と、そう考えると倖一の想像というのはよほど現実味を帯びたものなのだろう。つまりそれは人間としての本質的な性質によるもののように思えた。
有里子は倖一の本質の一部では、男との愛情を求めているのではと勘ぐった。つまり、倖一はどこかで栗田とある一定の関係になることを期待している。それを忌避し、目を背けるために、倖一は無闇に女と遊んで、そして頑なに女の話を描くのではないだろうか。
「笑わんし、怒らへんからほんまのこと言うてみ」
有里子は母親のように声を落とした。
「なんやほんまって」
「ちょっと、ほんまは興味あるんちゃうん」
「興味ってなんや」
「その、男の人と遊ぶことに」
「んー」
倖一の返答は曖昧だった。が、つまりそれは答えだった。有里子は胸のざわめきが高鳴るのを感じた。
「……その、自分でも分からへんけどな。そう言われると、もしかすると、ちょっとだけ」
倖一は恥じらうこともせず、しかし笑うこともせず答えた。有里子は少し考えた後、できるだけ真剣であることを示すよう努めながら言った。
「それ、おもろいんちゃう」
「……はあ?」
倖一は顔を歪めたが、有里子はできるだけ真剣である様子を続けた。
「それ、漫画のネタになるってこと。なあ、会いいな。栗田君に」
「何言うてんねん。無理やって」
「無理ちゃうて。仲よかってんから久々に会おう言うたらええやん」
「会うのはええけど。そんな感じになるのが無理や」
「わからんて。会ってみんと、話してみんと。無理なら無理であんたの片思いの話にすればえんやん」
「せやかてネタにしていいことと悪いことがあるやろ。僕の気持ちも栗田の気持ちもある」
「なんや今更。さんざん他人のこと茶化してきたくせに。自分も友達も茶化すぐらいの気概で行きいや。自分の話をちゃんと描きいや。漫画家やろ」
「イラストレーターや」
「おんなじや」
「おんなじちゃうわ」
と言いながら倖一は席を立った。気が付けばすっかり皿はきれいになっている。ゴマダレも、レタスで拭いて平らげたのだろう。残っていない。
「ごちそうさん」
続けて両手を合わすと、倖一は食器を台所に運び始めた。その様子が有里子にはちょっと冷たく感じ、踏み込み過ぎたか、茶化すような形になってしまったかと少々後悔した。が、倖一は皿を運びながら遠くで言った。
「まあ、でも、一回栗田誘ってみるわ。」
意外にも、倖一はまんざらでもなさそうではないか。
有里子は秘かに笑みを浮かべた。
もし二人がうまくいけばどうだろう。倖一のメディアの新しい展開になるし、女たちからも遠ざけることができる。一石二鳥ではないか。……さらに私は男同士の恋愛を許した妻となる。夫を成功に導き、また多様性にも理解を示す、そんな明哲な妻。そして倖一は性別や家庭の垣根を越え自在に生きる夫。これが変化していく時代に許される夫婦の形だ。これが私たち夫婦に必要な進化なんだ。
有里子はそう眉を緩めながら、食洗器に食器を詰める倖一の背を眺めた。しかしはっと思いつくと、小さな声で付け加えた。
「ほんで、私のことも描いてな。夫が他の男と遊びに行って残された嫁の話」
倖一は聞こえたか聞こえないか、どちらにせよいまいちピンとこないらしく、
「ああ? うん、せやな」
と言ったのみ、のそのそと風呂場の方へ入っていった。
それから一週間も経たないうちに、倖一は栗田と約束を取り付け、二人で飲みに行くことになったらしい。
いつも通りの平日だが、いつもと異なるのは、それが事前に報告されたことだ。
有里子は倖一の連絡を受け、仕事終わりに百貨店の地下で総菜を買い込んで帰った。コロッケと鳥のから揚げと、数種類のチーズとハム、そして少し高いワインと。
ひとり分にしては少々買い過ぎたが、有里子の心は浮き浮きとしていた。
事前に連絡をくれたおかげで、自分の夜を自由に楽しめるということもあるが、何よりこの日の夫の相手は男である。そしてそこには幾らかの恋情がある。それによってなぜか、言いようのない微笑ましい気持ちにかられるのだ。それは例えば、想像に過ぎないが、自分の息子の初恋を知るような。また、未熟な学生の、初めての恋人との宿泊旅行を告げられたような。
もう日をまたぐ時間に近くなったころ、倖一はこそこそと帰ってきた。二人に何かが起こるのには十分な時間だった。有里子は長い晩酌を広げながら、悠々と倖一を迎えた。
「おかえり。どうだった」
「ただいま。……どうって。まあ、楽しかったよ。」
有里子は茶化す気はないにせよ、よそよそしい調子の倖一へ、笑みを浮かべずにはいられなかった。
「今度描いてな。今日の話」
有里子はそう言いながら、夫と栗田、二人の愛情のやりとりを想像した。そこに女たちの影はない。男同士の時間。それは昼間のお茶会よりも、むしろ清涼さすら覚える。
「うん。まあ、でも、べつに普通やったで」
倖一は尚も表情を変えず、俯きながら風呂場の方へ向かっていく。
有里子はその後ろ背へ、微笑みに顔を歪めると、からかうように声を上げて悪態づいた。
「この浮気もん」
その声は、調子は、いつもの通り軽妙な芝居じみたものだった。倖一はそんな有里子の声を受け、背を向けたままほんの一間足を止めると、
「なに笑(わろ)てんねん」
と言い捨てた後、脱衣所に入りゆっくりとドアを後ろ手に閉めた。
有里子は微笑みながら、いつものやりとりのようにそれを聞き流そうとした。
しかしふと、沸いていたそれまでの慶びが一風に霧散していく心地に襲われた。代わりに何か寂し気な心地だけが残った。
有里子は間を埋めるよう半ば無意識にスマートフォンを手に取ると、ソーシャルメディアを開いた。そしてとりとめのない情報を漁った。倖一のメディアページも、取り立てて変化はない。以前の主婦たちの漫画で更新は止まっている。
そうしているうちにも、寂し気な心地は増して膨らんでいった。
有里子は続けてニュースサイトを開いた。ゴシップは絶え間なく更新される。どれもこれも不毛であった。
ついと、ぼうっとする画面をよそに、
「自分は何か、重大な思い違いをしているのではないだろうか。」
と、そんな突拍子もない直感が胸に走った。
「この浮気もん」
続けて自分の台詞が部屋に反響した。自分が誰かに言われたようだった。
有里子はその声に、何げなく顔を上げた。心臓が跳ねた。息を失う。
脱衣所のドアの隙間から、女の顔が覗いていたのだ。そしてそれはこちらに向かって笑んでいる。
瞬間、どこの誰だと身の毛立った。が、他人が中にいるはずもない。
それはどこか見慣れた顔だった。有里子は硬直した。それは紛れもなく、醜怪な自分の笑顔そのままだった。
全身の毛穴から噴き出す恐怖や驚きに身を固められ、有里子はただそのもう一人の自分を凝視した。するとそれは笑みを絶やさないまま、音もなく、ドアの中へ滑るように戻っていった。その肩が、乳房が、腰が、何も纏わぬ裸と分かった。やがて、ゆっくりとドアは閉められた。
ほどなくして、浴室の開く音が遠くに聞こえた。シャワーの音が近くなる。
有里子は依然身動きを取れずにいた。しかしそれが去ったことで、次第に深呼吸を始めることはできた。
「幻覚だ。きっとそうだ」
そう言い聞かせる。おそらくあれは浴室へと入っていった。そして倖一と出会うだろう。倖一はどうするのだろう。おののくだろうか。しかしあれは私だ。でも私ではない。
裸の倖一と、もうひとりの自分の身体とが浴室で絡み合う様子を想像した。倖一は拒みながらも身を委ねていく。まるでコンテンツの鑑賞者のようにそれをぼうっと見届けた。思考も次第にぼうっと揺らいだ。
浮気だろうか。夫とあれの浮気だろうか。しかしあれは幻だ。幻は幻と交じるのだろうか。あれは、私は、誰と浮気するのか。あそこに居るのは誰だろう。夫だろうか。同性愛だろうか。それとも進歩か、時代の変化か。私は何と浮気するのか。
幻ならば、消えれば何が残るだろうか。
有里子はテーブルの残飯を見下ろした。明日は燃やせるゴミの日だろうか。ゴミ出し係は倖一だ。思考は散漫し、そんなことを思う。
ここに無いのは何だろうか。
網戸からは夜気が入った。
夏の香りは緑であった。 (了)