抽斗の釘

小説、散文、文章、短編

相合傘

  パタパタと、傘を鳴らす雨の音が続く。傘のなか、わたしの横には、夜の街に映える彼女の白く整った顔があった。相合傘。‥その白い顔に映える濃いめの化粧。口紅。美人だな、とわたしは思う。小さな折り畳み傘からは、彼女の黒革の上着がはみ出ており、雨に肩を濡らしている。

  ‥スタイルが良く、器量も良く、人気者である彼女が、わざわざ宴会を抜け出してまで、なぜわたしなんかに傘を勧めてくれたのかは分からなかった。わたしは宴会を早めに脱出し、駅まで濡れようとしたところ。ふたりは相合傘で、最寄りの駅まで歩いていた。

  ニコニコと、彼女は私と話をしてくれた。彼女のタバコを辞めた話や、夜は眠れず、動画や本で自身を疲れさせてからしか眠れないといったもの。

  ふと、暗いビルの窓ガラスに、ふたりの姿が写った。暗闇に浮かぶ彼女の姿は、青白く細い悪魔のようだった。

  ‥時に社会は、冷たさと優しさを交互にわたしにみせた。その度に、何が正解なのか、わたしは分からなくなった。社会には曖昧な優しさと、曖昧な冷たさがあるだけだった。優しくすべきだという教えと、馬鹿を見るといった慣例が交錯していた。わたしにはそのどちらの正解も分からなかった。味方は裏切った。しかし敵ではなかった。わたしには社会が、人が、分からなくなった。社会に出れば、はっきり分かると思った。それは見当違いだった。わたしは掴み所のない社会に、ふわふわと漂い、時間ばかりが過ぎていった。わたしは何も掴めなかった。

  …ふたりはなおも夜の道を歩いていた。彼女は酒に強いらしく、宴会の疲れも見せなかった。会話が止まっても、美しい彼女は、穏やかな微笑みを崩さなかった。わたしは脚のむくみを感じていた。

  ‥雨の冷えがあった。傘の外界は寒さであった。しかし、この、傘のなかは、ふたりの身を寄せる、当然の体温があった。もし世界の優しさが嘘であっても、体温は本当で、そこにあるものだ。

  雨は尚も強まり、雨音は増す。世間を砂嵐のように覆い隠す。傘の中だけが、わたしの、はっきりとした世界になった。激しい雨音が、わたしたちふたりに会話を諦めさせた。無言の傘の中、その間は、彼女はわたしのものだった。

 ‥ 駅の明かりが見える。靴の中に雨水が入って冷たい。いっそのこと、耳を塞いでしまいたい。優しい言葉と、冷たい言葉と。

  傘の柄を、しっかりと掴む、彼女の華奢な手の甲は、骨が浮き出て美しい。いまはわたしのものだった。