抽斗の釘

小説、散文、文章、短編

だれかれの恋

 

 寿賀子の恋愛話を、もう興味を持って聞く者はあまりいない。

 というのも、彼女の恋愛話は聞くたびに相手が変わるのだ。

 そしてそれらすべてが片思いだった。

 二十年来の付き合いがある謙慈が知るだけでも、この数年で相手は忙しなく変わった。

 大学院生、電気工事士、証券会社課長、家電量販店員、ピアノ調律師、水道局員、喫茶店のマスター……。

 また、彼女の学生のころからの相手を加えるときりがない。

 誰しも、寿賀子と会うたびに恋愛の相手が変わるものだから、もう聞くほうも真摯な姿勢で向き会うのが馬鹿馬鹿しくなる。アドバイスや共感をしたところで、次に会えばそれが徒労に終わるのだと分かっている。

そ して何より人々を呆れさせるのは、寿賀子が相手にとって、いわゆる都合の良い女になっているということだった。

 聞けば相手は大概が所帯持ち。彼らは寿賀子との長い関係を求めていない。

 数回のデートで音信不通は当たり前。一夜だけの都合が大多数。

 挙句の果てに浮気を相手の親友に相談し、その親友とも浮気が始まるという始末。

 寿賀子の話はいつもそんな具合で、いつまでもハッピーエンドには至らなかった。話を聞いた友人たちは、いつも茹で損ないのパスタを口にしたような苦い顔をする。

「それ、遊ばれているだけだよ。やめなよ」

とか、

「いいかげん、君を好きになってくれる人を探せば」

など、友人たちに叱られたと寿賀子はよく謙慈に笑ってみせた。

 そしていつも、微笑みは苦笑いに変わった。

「でも、私を好きになってくれる人なんて、一生現れないよ。私は幸せになれないんだ  よ」

 そんな寿賀子の被害者めいた結論は、いつ会っても変わらない。

 結局、毎回救いようのない話に終始し、それにより、何より寿賀子自身が幸福になろうなどと思っていないことが分かる。

 それが分かるから、いつからか寿賀子の恋愛話に心身を費やす人はほとんどいなくなった。寿賀子が自分の恋愛について、真剣ではないと彼らは合点する。

 また謙慈においても、その叱る友人というのがきっと男だと邪推するのだ。

 

 寿賀子は仕事の都合上、各地を転々としていた。

 昼間は化粧品や健康食品の販売をやっていると本人は言うが、謙慈は詳しい事情にはいつも踏み込まなかった。踏み込まないのが、寿賀子との関係の上で礼儀であると彼は信じていたのである。礼儀とは、彼にとって破綻の対義でもあった。

 寿賀子は自分の方から、彼女が半ばフリーランスの位置づけだと補足を加えた。場所の空いた百貨店やドラッグストアから依頼を受け、派遣会社から短い任期で赴任を言い渡される。ということらしい。

 ごくまれに、謙慈は寿賀子から、メッセージアプリを通して唐突な近況を受けることがある。内容はさして実のあるものではない。ある時はビーグルの仔犬を飼い始めたという知らせだった。

 謙慈は顔をほころばせた。犬を飼うとは、いよいよ腰を落ち着かせる心情になったかと感心した。生活拠点を雄琴にしたらしい。しかし感心もつかの間、数か月後には飛田、北新地、さらには金津園、そして数か月後には浅草だとかに移ると連絡が入った。それからは関東を絶え間なく渡っているらしい。謙慈はそのたびにふんふんと鼻を鳴らした。

 寿賀子はいつも、故郷としている京都に、「用事」ができればその数日前には帰ってきて、しばらくその「用事」までぶらぶらと遊んで過ごした。そのたびに大津に住む謙慈は呼び出され、お茶や酒の相手に付き合わされた。

 しかし謙慈はそれもまた苦でなかった。

 四十になって心安い友人もずいぶん減った。家族を優先し交流の減る友人たちの中で、寿賀子だけは謙慈にとっても数少ない同世代の付き合いだった。だから謙慈は寿賀子から連絡が来るたびに、嬉々として滋賀から電車を乗り継ぎ京都に出てくるのだ。

 長い付き合いの者と過ごす時間は、多少なりとも昔の時間を取り戻す機会だった。若い生気に満ちた時代がよみがえるのだ。

 

 五月の連休。寿賀子が姪の結婚式に呼ばれたと言って、東京から京都に帰ってきたときのことである。

 それが幾つの姪なのか。どんな血縁の姪なのか。例によって、呼び出された謙慈は彼女の事情には踏み込まない。ただ何も言わず静かに彼女の前に現れる。寿賀子はそんな謙慈を、微笑みをもって迎えるのだった。

 祇園のとある喫茶店に、そんな二人の姿があった。

 店内は穴倉のように薄暗く、表のドアだけが、春の白く暖かい日和に開け放たれている。

 中から見える祇園四条通は、八坂神社へ行き来するにぎやかな人通りで煩雑としていた。

 店内は外との間に透明な敷居を立てたように静かだった。

 テーブルにはご丁寧に「大声での会話はお控えください」との注意書きが置かれている。

 フロアの各所には艶やかな百合の大輪が、大きな植木篭に剥製のように首を垂らしている。それが室内の陰により香しく、鮮やかに映えるのだった。

 平時は仕事柄、暑い日でもスーツを着る謙慈であるが、この日は祝日、珍しくTシャツを選んでいた。体型は日頃スーツに矯正させているものだから、腹がベルトの上に餅のように乗っている。それが布の上からでもよく分かる。

 一方対面する寿賀子はすでにスーツケースをホテルに預けてしまったらしく、いかにも身軽そうな、ミモザの柄のワンピースでその細い体躯を包み、薄暗い照明に骨をよじらせていた。

 二人の会話は何げないそれぞれの近況から、いつものように恋愛の話へと移っていた。

 といっても一方的な寿賀子の話である。他の者なら苦い顔をする場面でも、謙慈はストローを噛みながら、至って面白そうに耳を傾けていた。

「……それでね。いつからか覚えてないけれど、彼氏なるものができてね」

嬉々とする声を、はにかみを、隠すように淡々としゃべる寿賀子に、謙慈はわざとらしく目を開き驚いて見せた。……今回の寿賀子の恋愛は、珍しく順調な話らしい。

「本当に? 良かったじゃない。……おめでとう」

しかし寿賀子は、そうことほぐ謙慈に対し神妙そうな顔を作った。

「そう? 本当に? 彼氏ができるって、そんなにおめでたいことなのかな」

「うん。そりゃあ。……でも寿ーちゃんはなんだか、嬉しそうじゃないね」

「だって月に一度も会わないし。実感もわかないよ」

「でも彼氏は彼氏でしょう。喜びなよ」

そういって謙慈は冷ややかにアイスカフェオレを吸い上げた。溶けた氷の黄土色が、口から謙慈の顔に浸透し、同じ色となる。寿賀子は目前の男にそんな空想を浮かべ、ふいと目を伏せた。

「……そうかなあ。これは喜ばしいことなのかな。なんだか全然……。」

「嬉しくないって?」

謙慈は口先でストローを遊びながら相槌を打った。寿賀子は目を伏せたまま、心持顎を突き出している。

「うん。なんというか。やっぱりいろいろ考えちゃうんだけどさ。私は彼氏彼女とか恋人とかよりも、私にとっての唯一無二の存在が欲しいみたい。彼氏って呼び方、なんだか軽いじゃない。私に必要なのはそんなんじゃなくてさ、あてはまる言葉がないような、確固たる関係というか……。」

「うん。寿ーちゃんの言いたいことも分かるけど。でもそのためには、やっぱり彼氏彼女からやっていくしかないじゃない」

謙慈はそう言うとグラスをテーブルに置き、無神経そうに店内を見渡した。古い町家を改装した店なのだろう。古家の趣が所々に残っている。と、天井の梁に二頭の動物らしい彫りがなされているのに気が付いた。それらは互いに向かい合い、ある距離を保ったまま硬直している。

「あれ。なんだろう」

「どれ」

と、寿賀子は謙慈の目が差す先を、首と体をひねって追った。

「犬だろうかな」

「ライオンじゃない?」

「どうしてだろう」

「何が?」

「……うん?」

謙慈は寿賀子の問いに曖昧にうなると、再びグラスを掴み一挙に残りを吸い上げた。

寿賀子も前を向きなおすと、何事もなかったかのように、再び床に目を落とした。

「まあ、とりあえずさ、今の赴任期間のあいだでも、東京でいろいろ楽しいことを共有できる相手ができたってことは、それはそれで嬉しいかな。どんな関係になるか。これからのあの人次第だね」

と、口の端を力なく引きのばして見せた。

「……寿ーちゃんはあんまり、その、彼のこと好きじゃないの」

「うん。そうね。付き合いたいっていうから、仕方なく了解しただけ。正直今の時点では、あの人と配偶者的な先はないと思ってるよ。でも、だからといって仲良くしないってことも違うだろうし。あの人はそれでもいいって……」

「……あの人あの人って、なんだか他人行儀な言い方だね」

謙慈は腕組みを腹の上に乗せながら、皮肉そうに薄笑いを浮かべた。寿賀子は少し虚を突かれたように顎を引くと、次いで中年には似つかわしくない口を尖らせる表情を作った。

「だって名前も知らないんだから。なんて呼んでいいのか分からないよ」

「彼氏なのに名前を知らない? そんなことある?」 

「だって、本当にずっとあの人に興味が沸かなくて。会うってなってからだって、全然」

「じゃあさ、その人とはどうやって知り合ったの。」

謙慈はそう言ってすぐ、あっと顔を降ろして後悔した。

 これは踏み込み過ぎたのではないだろうか。

 そう思うと、それから寿賀子の顔を見るのが途端に恐ろしくなった。ひとりでに目が惑った。視線は忙しなく机のグラスや灰皿をはい回り、瞬時に対面のワンピースに散らばるミモザに飛びつくと、そこでやっと踏みとどまれた。そこならなんとか会話の視線の許容だろう。

「……アプリだよ。婚活アプリ。」

ミモザの上から声がした。それは落ち着いた声だった。そして寿賀子は脚を組みなおしたのだろう、謙慈の視界にミモザが一斉に揺れた。声もつられて揺れた。

「ああ、アプリね。それなら偽名だって使えるからね」

「ふふ、でも私がやっているのは実名のやつだよ」

ため息のような微かな笑声に、謙慈はさっと唇だけを盗み見ることができた。微笑んでいた。寿賀子は微笑んでくれている。謙慈はぐっと息をのんだ。

「……でもさ、本当に名前を覚えられなくて。実際会ってから、お名前はなんでしたっけって、私聞いちゃった」

あはは、と唇は開き歯を見せた。謙慈はそれを見ると、咄嗟に餅腹を震わせて笑ってみせた。続く寿賀子の声は、子供のように明るんでいた。

「でもね、そしたら意地悪して教えてくれなくて。好きなように呼んでください、だって。だからずっと名前が分からないままなの」

そんなことはないだろう。メッセージのやり取りをしている、ということなら、嫌でも名前は表示されるはずだった。しかし謙慈はそうだろう、そうだろうと強く頷いた。寿賀子の声が明るいうちなら、今は十分それでよかった。

 そこで、謙慈はさらに寿賀子の恋愛話に花を添えるべく、

「でも、そうだとしても、会ってる時の会話が不便じゃない? そんなときはなんて呼んでるの」

と、名のない恋人の話を促した。寿賀子は対し、なおも少女のように顔を上げ、思い描くように答えた。

「あなた、かなあ。あなたは何を頼むのですか、とか、あなたは今日の晩御飯どうしますかとか、そんな感じで呼んでる。そういえば、」

寿賀子はそう言うと、その名のない恋人と、どれだけデートが盛り上がらないだとか、どう趣味が合わないだとか、そんなつまらないことをいかにも楽し気に話し続けた。

「あなた、ね」

その間謙慈はそう呟き頷きながら、今までの寿賀子の恋愛話の相手を、二十年来の幾人ものすべてを、できる限り思い出そうとしていた。

 大学院生、電気工事士、証券会社課長……。

 そこには名のある者がひとりでもいただろうか。

 謙慈は眉をしかめた。

 よしんばいたとして、それらが本当の名前だったのだろうか。

 謙慈の回想は、寿賀子と別れ、妻子の居る大津行きの電車でも長く続いた。

 しかしいくら考えても、寿賀子の恋愛話の中で、彼女がはっきりと本名を挙げた人物はひとりもいなかった。そしてそこには、謙慈自身も少なからず含まれていた。

「それに加えて、あなた、と来たか。もうネタ切れかな」

謙慈はそんなことを腹に呟き、今回の寿賀子の恋もきっとダメになるのだろうと、話の結末を予想した。そして安堵を覚えたか、いつしか夜景が映る座席の上に、餅腹を力なく落とし眠り始めてしまった。

 

 つい一年ほど日が経った。

 あれから寿賀子からの連絡もはたと途絶えていたが、日常の流れに浸る謙慈にとって、それに気をとめる勘は彼になかった。あるいはどこかで気が付いたとしても、脳裏に過るのは瞬間の美しい幻影だけで、危機感には及ばない。

 また、寿賀子の方で「用事」ができれば、いつものように連絡を寄越すだろうと、そんな怠惰に謙慈の日々は過ぎていた。

 そして例年どおり五月の連休がやって来た。

 謙慈が初日の夕刻までごろごろしていると、妻が子供の手を引きながら、おもむろに実家に里がえりすると言って荷物を抱えだした。

「あれ、そうだっけ」

と、謙慈は肌着のまま、部屋の敷居に立ちすくんだ。すくみながら、敷居の凹凸で足裏の筋を刺激するように足踏みをした。

「言ってたけどね」

と、妻は吐き捨てるようにして出ていった。

 ひとり残された謙慈は首をひねりながら、それでもやっと自由になった余暇を、どう過ごすか考え巡らした。

 そこに現れたのは、やはり寿賀子の幻影だった。

「たまにはこちらから遊びにいくのもいいかもしれない」

 彼女の影に湧くのは、やはり若い生気に満ちていた時代の香り。そうと決まればと、謙慈はスマートフォンを手に取った。翌日の朝から関東に赴けば一日遊べる。なんなら今日の夜からというのも感興をそそる。

 謙慈は頬に脂を光らせながら、画面を巡らした。

 寿賀子はどこだと、メッセージアプリの友人リストを手繰った。

 が、一巡したところで寿賀子の名前が見つからない。

 見落としたかと、再三リストを当たった。

 が、やはり寿賀子の名前はどこにもない。

「どうしたもんだ」

謙慈はスマートフォンを置いて、その場の床に座り込んだ。

 名前がないということは、彼女のアカウントに何か問題が起こったということだろうか。それは何かアプリの不具合によるものだろうか。もしくは通信が悪いために表示されないのだろうか。アプリを再度更新してみようか。問い合わせてみようか。

 謙慈はそうやっていろいろ考えながら、インターネットで「友達リスト 消えた」との検索も試みた。おおかたの答えは、相手方がアカウント自体を抹消したのだろうから、もう手は無いとのことだった。

 謙慈は硬直した。寿賀子との不通はどうやら取り返しの出来ない現実だった。

 謙慈はうなる。ならば寿賀子のあの恋は本当だったのだろうか。

 しかし同時に謙慈の心には、寿賀子が披露してきた数多の伽話もまた、ふたりの間の特別な現実として確かに残り続けている。

「あれ。嘘じゃなかったのか。まさか。」

 いつの間にか、窓から五月の西日が差し始めていた。

 謙慈はその中にひとり留まり、額へは脂汗が滲み始める。

 暑いかどうかも分からない。眩しさも感じない。

 脂汗はやがて頬を伝った。それを拭うことも忘れ。

 じきに夜が来る。それまでは、夕日が寿賀子の代わりに彼へ笑った。 了