抽斗の釘

小説、散文、文章、短編

若葉

  アオはキッチンで佇んだ。

  午後の街中の日影が、締め切った窓ガラスとレースカーテンをすり抜けて、薄っすらと部屋に注いでいる。ダイニングには、灰色の球体がプカプカと浮いていた。


「日曜日は嫌い。」

アオは言う。ふたりはソファに座りながら寝る前に紅茶を飲んでいた。なぜかと佐々木が訪ねると、

「日曜日はお父さんが家に居たから。家の中がみんなそわそわしている感じ。」

「別に何かひどいことをされるってことは無いんだけど、怒鳴られるだとか、叩かれるだとかは。でも、歩く音だとか、椅子のきしみだとか、扉を閉める音だとか、そういうささいなことひとつひとつがどきっとして。あんまり話さないし、話せることもないんだよね。ぎこちなくなっちゃって。」

「午後になるとそれが余計に辛くなるの。息苦しいのに、いつもの家で。外は明るいのに、部屋の中は暗くて。何も進まないのに、何もできなくて。夕方になっていくとそれは絶望。夕飯がピーク。でも夕飯が済むと、みんなで楽しくテレビなんかをみて、笑ったりするの。」

「お母さんもいつものと違うのよ。笑っているけど、どこか緊張している感じ。家族じゃなくて、お父さんを見ている感じ。家事なんかもいつもよりテキパキと早く終わらせちゃって」

「それは、いつものお母さんが、日曜日は妻とか、夫婦になっちゃうってこと? 」

 佐々木はアオの肩に手を回しながら、眉を上げて興味深そうな表情を作った。

「分からない。外は明るいし、近所の子供の遊ぶ叫び声とかがよく聞こえるし。落ち着かなくって、何か色々食べたり飲んだりしちゃう。ジュースとか。お腹が水っぽいのに、それでもまた飲んだりしちゃって。お腹いっぱいで夕飯はおいしくなくなるし。」

「だから大きくなってからは、日曜日は出かけることが多かったの、わたし。出来るだけ家に居ないように。でも可哀そうなのはお父さんよ。みんなに居心地を悪くさせていると感じながら、家の中がなんか変な感じになりながら、でも休日はやっぱり家でゆっくりしたいでしょ。」

「それが生活とか、生きていくことなんだと思うとなんだか切なくなる。普通の、穏やかなことなのに、苦しいだなんて。」

 佐々木はふんふんと相槌を打ちながら、マグカップに残った冷たい紅茶をくるくると回した。

「……。さあ、明日も仕事だから、もう寝よう。聞いてくれてありがとうね。」

  アオは佐々木のマグカップを取り上げると、さっとシンクへ流してしまった。佐々木は大きな欠伸をしながら、その様子を分厚い瞼に眺めていた。

  アオは結婚を機に職を辞め、佐々木と二人暮らしを始めた。佐々木の通勤の便が良い地域に住むため、アオは実家と地元を離れる選択を取った。「いつかは解放されたい」そういった仕事への願いも、この機会は彼女にとって良いものに思えた。

 元来愛想と器量の良い彼女は、職場や得意先から重宝された。退職を方々から惜しまれたことからも、彼女にとって優越を得ることの出来る、幾分満足のいく選択だったように感じていた。そして彼女なりに雰囲気に呑まれ、送別の際には涙したものであった。

 堅実なふたりの貯蓄は佐々木の分と合わせ、しばらく生活する上では十分にあった。アオは思い描いていた良い妻になろうと、てきぱきと家事をこなす毎日を送った。器用な彼女にとって、家事だけを行うことは容易だった。佐々木と一緒に起きるものだから、午前中に掃除や洗濯を済ませてしまうと、節約のため電灯を消した暗い部屋に、ぼんやりと座っているだけのこともあった。昼過ぎのワイドショーを聞き流しながら、前の職場では今頃、などと思いを巡らすことも少なくなかった。未だに解いていない引っ越しの荷を幾つか眺め、そしてはっと思い出したかのように、作りすぎてしまう夕飯の買い物に行き、佐々木の好みを考えるのであった。佐々木は何を出しても、毎日うまいうまいと平らげてしまった。

 買い物から帰り、突如現れた灰色の球体を目の当たりにして佇むも、アオは不思議と戸惑わなかった。自然に、それが眼には見えないものだと分かった。しかし、さて、どうしたものだろうと、買い物袋をキッチンに降ろし、ソファに腰掛けた。灰色の球は彼女の目の前で、依然としてプカプカと浮かんでいる。

 疲れているのかしらと考え、彼女はベッドルームへ向かった。しかしどうすべきかが分からずうろうろしては、またリビングに戻る。リビングの風景は変わらなかった。

 彼女は在職中に使っていたトレンチコートを羽織り外に出た。得体の知れないものから離れたかったし、どうすべきかひとりで考えたかった。こよみは初夏であったが、その日は肌寒い日だった。空は湿気を帯びて陰り、雨が降りそうだなと思った。住宅の隙間から見える街路樹が、強くなびいていた。

 アオは当ても無く住宅街を歩いた。当然、平日の昼間の住宅街は静かなものだった。その静かな住宅の穏やかさと、これから崩れそうな天気のアンバランスに息苦しさを感じた。立ち並ぶ住宅の一軒々々に、電灯を消した部屋のテレビの前に、そのひとつひとつに、同じ私が座っている様を想像すると、車酔いのように気分が悪くなった。

 アオはどきどきした。どうも、心臓ではなく、肺の辺りに感じた。どうしてこんな辛い気持ちになるのだろう、何が私をそうさせているのだろう。狭い住宅街の道路には、追い立てる様にどんどんと自動車が通っていた。彼女の側を、空気をそぐように。

 住宅街を駆け足で進むと、橋が架かる川に抜け出た。水の流れる音と、河原一面に茂る菜の花が、幾らかアオの心を落ち着かせた。ゆっくりと橋の中央に進み、川を見下ろすと、松葉色の川面が、うねり猛って鳴いていた。アオは咄嗟に、もし落ちたならと恐怖した。そこへ、そんなアオを攫うように大きな川風が吹いた。アオは咄嗟に目をつむり、前髪が巻き上がる。強い川風はトレンチコートの隙間から強引に入り、アオの胸を抜け、背中を登り、襟足に吹いた。同時に、雲が揺らされ溜まった水がこぼれたように、さあっと音を立てて雨が降り出した。弱く、軽く、冷ややかな雨だ。それは瞬く間に彼女を、その周辺を、そして町を包み濡らした。アオは咄嗟に目を開ける。曇り空に薄まっていた日光が、霧雨に反射するようにあたりが明るくなった。アオはその、一瞬間の世界の変化を目の当たりにした。顔を上げずにはいられなかった。遠くには、そのガラス粉のような雨の中、小さな山に、名も知らぬ、小さな城が鮮明に見えた。空気の途を通るように、まっすぐと。彼女の城を見据える視界の縁に、緑の小さなものが移った。アオの傍の街路樹には、若葉が薄緑を吹き、綿毛を生やしていた。風に吹かれた小雨が、町を、橋を、彼女自身を、今度は撫でる様に横吹いた。そうか、あれは球体ではなく、空洞だ。

 アオは水滴に光る若葉を指先で触れた。若葉も、水滴も柔らかく、彼女の指先はやさしく冷えた。

「頼りないなあ。」

 アオはその指先で、若葉を軽くつまみ、千切れぬようそっと擦った。

「飛ばされちゃうかもしれないね。食べられちゃうかもしれないね。」

「でも、小さくて、ふわふわで、鮮やかで」

「傷つけられやすい? 」

それは生きているだけで、成長しているだけで、

「誰がこれに文句を言えるんだろう。」

 わたしはここで、日常の風景を見て、わたしは食事をして、細胞を入れ替えて、そしてわたしは時間を進んでいく。わたしの時間をわたしが進む。息苦しさはなくなった。そこでアオはくるりと濡れたコートを返して、来た道を、自宅へ穏やかな足取りを向けた。

 しかし、はて、あの灰色のものはどうしようか。あれもわたしなのだろうか。どうしたら消える? でも私だから消さなくてもいいだろうか。でも目障りだし。とりあえず、あるのは仕方ないとして、風呂場へ隠しておこうか。ベッドの下は? ……実家に持っていくのは良くないかもしれない。捨てるのは、ゴミ捨て場に置くのはなんだか忍びない。リビングに置いておいていいか。でももし佐々木にも見えたら?

 アオはスマートフォンを取り出し、「得体のしれないもの/同居人/対処法」で検索したが、何も有力な方法は見当たらなかった。彼女は諦めて、そのまま近くのペットショップを検索した。少し遠いが、歩いて行ける。出来るだけ軽めのペットケージを購入しよう。餌は必要? 何を与えたらいいんだろう。私は、本当は何が好きなんだろう。佐々木は知っているだろうか。わたしの好きなもの。佐々木はどんな顔をするだろう。でもあれは、たしかに在るものなんだ。そのことに、誰が文句を言えるのだろう。

 アオはそんなことを考えながら、また振り返り、強い足取りで橋の先へ進んでいった。濡れた地面は光沢をもち、彼女の背中へ吹く川風は、もう彼女に気づかれることはなく、あらゆるものに触れながら駆けていった。