抽斗の釘

小説、散文、文章、短編

春の風

 梅の花の匂いが、春の日和に暖まって香る。花は満開から少し過ぎ、細く歪な枝の間で熟しては、色あせて垂れ始めている。垂れた梅花の間を、羽虫が衝動にまかせ、日和に漂っている。平日の穏やかな中、一人の青年が住宅街を歩いていた。冬物のコートは幾分暑く感じ、中のシャツには湿気を感じていたが、コートを脱ぐのも億劫であった。

  青年は祖父に金を工面しに行くところであった。学校を卒業したものの、何にも就く気が起きず、しばらくその日暮らしを決め込んでいた。幸福なことに祖父が資産家であり、また特に孫の生活に対して口を出さない大人物であるため、彼はそこに甘え、生活の金が無くなれば集金に赴く次第であった。彼は幾分、彼なりに、生活に対する水準を求めていたため、人が集まる都会に部屋を借りていたが、祖父の家は都会から列車で三十分ほど乗った郊外にある。世間では高級住宅街とされている地域であったが、青年にとってはあまり意識するところではなかった。

 平日の住宅街はのどかで、静かであった。祖父の家までは最寄りの駅から徒歩で行くことができ、その道程の小学校からは、子供のにぎやかな叫び声が聞こえた。‥リコーダーの合唱が聞こえた。と、大きな羽虫が、彼の頭の傍を通った。ブーンという羽音に背中を丸めるが、そこには誰も見ている者はいない。

 シャツを蒸らして祖父の家に辿り着いたものの、生憎留守の様であった。彼は苛々したように、何度もチャイムを鳴らしてみたが、遠く家の中で同じ軽やかな音が響くだけであった。‥電線の上でヒヨドリが鳴いている。宅配のトラックが家の前を通り、運転手と目が合った。彼は詰まらなそうに口を尖らせる。このまま帰っても面白くない。また改めて赴くのも面倒であるし、送金してくれと手紙で頼むのは彼なりに忍びない。何より生活費が早く欲しい。彼は宛てもなく歩いて、祖父が帰る時間を潰すことにした。

 彼は煙草に火をつけ、ぷかりと煙を吐き上げた。面白いもの、珍しいものもない住宅街である。改めて眺めると、どの家も、高級住宅街と言われるだけに、ある水準以上の大きさだなと考えるが、どれも数年に雨風に啜れている。味がある、といったものは彼には感じられなかった。どの家も、主が努力し、年月をかけて築き上げた、各々にとっての資産を感じた。そこにはある時代の、資産という概念を示しているように感じた。しかし一方で、定められた区間に並べられたそれらは、世間の通念のような、何か憎らしい退屈さを感じた。彼にとっては或る種の自己嫌悪や、僻みの部類だったのかもしれない。どの資産も、それを築く努力や苦しみは、そして喜びは、彼にとって分からないものでは無かったが、都会に部屋を借りている彼には、少なからず時代を感じさせるものだった。そういった定型の通念の箱の中に、収めることのできない、決して把握することのできない、禍々しく混沌とした家族模様が詰め込まれている様を、彼は茶番のような皮肉にも、憂鬱にも思えて仕方がなかった。彼は煙草をポイと、側溝へ投げ捨てた。

 彼がそんなことを感じながらぶらぶら歩いていると、或る住宅の中から、若い女性の声が聞こえた。

「こっち、こっちおいで」

 青年は自分が呼ばれていないとは分かっていたが、手持ちぶさたもあり、無意識に声の主を探した。弾むような若々しい声である。立ち並ぶ住宅の一つ、どうやら、高く深い緑の生垣の向こうから声がするようであった。彼はその生垣に沿って、ゆっくりと歩みを落とした。枝が絡み合う重々しい生垣は、所々薄くなっており、その先に、何かが活発に動く様子が伺えた。暫く生垣をなぞって進むと、生垣の一部に隙間が空いており、彼は思わず足を止め、じっと中を覗き込んだ。

 そこには若い女性と、一匹のレトリバーが愉しげにじゃれていた。立派な屋敷の縁側に、午後の日差しが暖かに注いでおり、レトリバーは女性の周りを、尻尾を懸命に動かしながらぐるぐる回っている。

  青年は少女を知っていた。彼がまだ小さい頃、彼が頻繁に祖父の家に出入りしていた頃、近所に住むその少女が、乳母車に乗せられていた様子を思い出す。年齢で考えると高校生か大学生だ。そうか、卒業して、春休みなのだな、と彼は考える。考えながらも、違和感を覚えた。少女が四つん這いだったのである。

 年齢を考えれば、レトリバーと同じ目線で、犬と同化して遊んでも、不思議ではないとも思ったが、それにしてはどこか、その遊びに艶めかしさを感じた。

「ほら、こっち、乗ってみて」

 少女はレトリバーに、彼女の上に乗ることを催促していた。四つん這いのまま屈んだり、体を歪ませたりしている。しかしその言葉や催促はレトリバーには通じず、ただ尻尾を振り、彼女の周りをうろうろと回るだけである。それでも少女は笑顔で、愉しげに、そして或る色気を帯びた目線をレトリバーに送っている。2匹は活発にじゃれ合っている。少女は四つん這いのまま、丸めた手を、春の光の中に、手招くように動かしている。彼は犬に扮する少女に、或る要求を感じた。人間の、或る種の勝手な業を感じた。人間らしさを、人間臭さを、彼はその庭先の日溜りに嗅いだ。

 青年は静かに生垣から離れ、足音が立たないようそっと歩き出した。彼は祖父の家に戻ろうかと考えたが、決まりの悪さに躊躇する。ブーンとまた、彼の耳元を羽虫が通る。彼はふと、何か得たように微笑みを浮かべ、そのまま鼻歌交じりに歩いて行った。ぼんやりとした風が吹く。土の匂いと、若い植物の匂いが混ざった、そわそわとする春の風であった。

シュガーアンドバター

  自分の性格や趣向を人に伝えるのは難しい。自分は繊細だから勘弁して欲しいという甘えと、自分は強靭だから尊重してほしいという甘えが同居している。いざ人に伝えようとすると、どちらも前に出ては退き、モゴモゴと口が閉じる。指針も指針で、わたしの理想はあるのだけど、現実はこうだよと突きつけられるのが恐ろしい。それが現実の一部で、経験の一部だからだ。説得力があるし、自信がある。全てのケースではないにしろ、わたしが愚かな人にされるのが、馬鹿らしいが堪え難い。わたしには胸を張る自信もない。結局は、同じ水槽の魚なのだけど、わたしには、うまく空気を吸えるか分からない。水面に浮く死体が見える。

  人の脳はリスクを回避する。本能的に保守となる。当然、変化は短期的なリスクを生むし、短期の連続が長期となる。変化を恐れるのがリスクだ、という提唱も、死体にすれば食えない餅だ。人は利己的に優しい。しかし全てがそうではない。だから、芯が弱い者は、色々な力に耐えられず負けて、細かく折れて粉になる。

  こっちがイチゴで、こっちがシュガーアンドバター。と、あの子が笑顔で細長い焼き菓子をくれた。胃が、気持ち悪いし、車酔いのように頭がクラクラとする。体調のすこぶる悪いわたしを他所に、あの子はお裾分けです、と笑顔なのだ。イチゴが同性愛なら、シュガーアンドバターは異性愛だ、と理屈のない分別をする。どちらも同じ事なのだ。

  わたしは食べもせず、シュガーアンドバターのまろやかな風味を、口の中で思い浮かべた。言うまでもなく、わたしは脆い。パキパキと、折れていく。しかし、せめて、粉でも甘くありたいと思った。不格好でも愛おしく、舐めてくれれば幸せだ。唾液に染みて、愛されたい。脳まで届いて、惑わしたい。

わたしには、訪れた記憶はないけれど、懐かしくなる情景があった。時々思い描いては、何処だろうかと、首を傾げる次第である。

それは、真っ青の部屋だった。

床一面は紺色のカーペットで、窓は一方だけに、群青のカーテンから、外の日光が差している。午前中の光だ。電灯は付かない。窓の下には、誰かが使った様子のベッドがあり、換気は滅多にしないのか、埃っぽい。

そこは、わたしの部屋ではない。きっと祖父、若しくは今は知らない懇意の老人が、若い時に使っていた部屋だろう。

わたしはそこに住みたいとは思わない。しかし、そこでぼんやりしたいと思う。わたしはそこに泊まりたくない。しかし、うつらとしたいように思う。

そこにはお洒落な音楽も、気の利いた家具も無い。目からウロコのビジネスも、キャッチーなコピーもない。刺激的な会話や、カラフルな発想も無い。画期的なテクノロジーも、古風さへの憧憬も無い。また、真偽のやりとりや、本当らしい優しさもない。ただそこに部屋があって、床と、ベッドと、日の差す窓を眺めている。

おそらく、部屋は4戸のアパートのうち1つで、窓の外には小麦畑が広がっている。もしくは、都会の下町の、路地の片隅かも知れない。

そこは、そのベッドは、ともすれば、わたしの老後の姿が、横たわった後かもしれない。

決して寄り付けない、受け入れない、交差しない青が、青だけがそこにあった。

ただ、わたしは、床に座り込み、そんな部屋を眺めている人物が、わたしでは無いように思えて仕方がない。もしくは、結局誰も居なかっただけなのかも知れない。

 

眠りの国

  先輩は仕事中に時々眠っています。キーボードに手を置きながら、こくこくと。

  先輩は会議中でも眠ってしまいます。腕を組んで、目をつむって考えるふりをして、そのまま、こくこくと。

  ある日、わたしは通勤の電車で先輩と乗り合わせました。座席に隣り合って座り、世間話をひとしきり済ませてしまうと、話題はすぐになくなってしまいました。混み合った車窓からは、何処までも続く曇天と、すすかぶれた街並みが広がっているのが見えました。

 

‥僕は最近、所構わず眠気に襲われることが多くなった。仕事中や通勤中、歩いている時や食べている時も。しかし、それは僕自身の意志で、眠ろうとしているところもあった。‥僕は普段の生活の営みから、目をそらそうとしているのだと、思う。‥つまり、僕は眠りに救いを求めるようになっていた。そして、眠りに救いを求めていると、体の方も勝手に眠りを求め出した。人と話をしているときでさえ、強い眠気に意識を失う時がある。

  そうやって日常の大半を眠気と過ごしていると、徐々に、どちらが、現実か、夢か、わかなくなっていく。日頃、歩いている世界が、眠りの国と混同する。いや、混同させている。

  床につき訪れる、眠りの国は実に良い。食べたり、風呂に入ったり、そういった、しなければならないことが何ひとつない。荒唐無稽で、意思も、意義も、社会的通念も何も無い。何より、本当で無いのが良い。すべて偽りでまやかしだ。本当で無いこと、嘘であることのなんと居心地の良いことか。なんと気楽なことか。本当で無いことの、なんと、なんと素晴らしいことか。匂いも感触も無く、色と音と、取り留めのない物語ばかりしかない。脈絡のない物語は、僕を十分に楽しませてくれる。

  現実は、現実は、僕にとってあまりにも鮮明すぎた。鮮明で、刺激が強すぎる。体が、頭が、それを拒絶しつつあることを感じる。僕には、最近徐々に、人の言葉がわからなくなっていた。声は聞こえるが、何を話しているか理解できない。自分が何をしたのか、覚えていない。次にすべきことを思い出せない。読んだそばから忘れていく。出来ていたことが出来なくなる。僕が作り上げたものが、得たものが、砂の山のようにサラサラと崩れていく。集めても、掻き集めても、指の間を抜けて流れていく。

  いま、目を瞑り、じっとすると、すぐに眠りの国は僕を引っ張っていく。眼球に繋がる神経を、脳が奥に奥に引っ張っていくような感覚がある。すると、前だから後ろだか、三半規管、方向感覚がわからなくなって、ぐらぐらとぶっ倒れそうになる。そうなっていくと、少しの車酔いのような気持ち悪さと、現実から離れていく浮遊感に気持ちが高揚し、考えるということが薄れてきて、ふわふわと感覚がまだらになって、のがれられるのだ。

  混乱、混乱。脳がどうにかなっているのは確かなことで。脳が膨らんだり縮んだりしているのだ。これは。いや、人が、社会が、すれ違う人々が、僕の敵であった。卑小で、ずるく、しゃかいであった。僕の脳だけが道をあるき、明かりや、線や色だけのせかい。生きているのか、起きていても、眠りの国。

  ‥僕は耳栓をする。僕は目を閉じて歩く。夢の中、ああ、眠りの国。

 

  先輩はとつぜん、疲れたんだと、爽やかに笑い、こくこくと、わたしの横で、眠り出したのでした。

  わたしは、垂れた先輩の頭から、ぽろぽろと砂がこぼれていくような、そんな気がしました。 

  車窓が突然白く、眩しくなりました。わたしたちの電車は街を抜け、窓には、朝日をはじいて光る、きらびやかな水田の景色でした。稲刈りが終わり、水が張られた冬の水田は、曇天をまぶしく、みずみずしく映します。

  先輩はなおも、頭をさげて眠っています。落ちていく砂が、キラキラと朝日に光っているのでした。

 

 

相合傘

  パタパタと、傘を鳴らす雨の音が続く。傘のなか、わたしの横には、夜の街に映える彼女の白く整った顔があった。相合傘。‥その白い顔に映える濃いめの化粧。口紅。美人だな、とわたしは思う。小さな折り畳み傘からは、彼女の黒革の上着がはみ出ており、雨に肩を濡らしている。

  ‥スタイルが良く、器量も良く、人気者である彼女が、わざわざ宴会を抜け出してまで、なぜわたしなんかに傘を勧めてくれたのかは分からなかった。わたしは宴会を早めに脱出し、駅まで濡れようとしたところ。ふたりは相合傘で、最寄りの駅まで歩いていた。

  ニコニコと、彼女は私と話をしてくれた。彼女のタバコを辞めた話や、夜は眠れず、動画や本で自身を疲れさせてからしか眠れないといったもの。

  ふと、暗いビルの窓ガラスに、ふたりの姿が写った。暗闇に浮かぶ彼女の姿は、青白く細い悪魔のようだった。

  ‥時に社会は、冷たさと優しさを交互にわたしにみせた。その度に、何が正解なのか、わたしは分からなくなった。社会には曖昧な優しさと、曖昧な冷たさがあるだけだった。優しくすべきだという教えと、馬鹿を見るといった慣例が交錯していた。わたしにはそのどちらの正解も分からなかった。味方は裏切った。しかし敵ではなかった。わたしには社会が、人が、分からなくなった。社会に出れば、はっきり分かると思った。それは見当違いだった。わたしは掴み所のない社会に、ふわふわと漂い、時間ばかりが過ぎていった。わたしは何も掴めなかった。

  …ふたりはなおも夜の道を歩いていた。彼女は酒に強いらしく、宴会の疲れも見せなかった。会話が止まっても、美しい彼女は、穏やかな微笑みを崩さなかった。わたしは脚のむくみを感じていた。

  ‥雨の冷えがあった。傘の外界は寒さであった。しかし、この、傘のなかは、ふたりの身を寄せる、当然の体温があった。もし世界の優しさが嘘であっても、体温は本当で、そこにあるものだ。

  雨は尚も強まり、雨音は増す。世間を砂嵐のように覆い隠す。傘の中だけが、わたしの、はっきりとした世界になった。激しい雨音が、わたしたちふたりに会話を諦めさせた。無言の傘の中、その間は、彼女はわたしのものだった。

 ‥ 駅の明かりが見える。靴の中に雨水が入って冷たい。いっそのこと、耳を塞いでしまいたい。優しい言葉と、冷たい言葉と。

  傘の柄を、しっかりと掴む、彼女の華奢な手の甲は、骨が浮き出て美しい。いまはわたしのものだった。

    

仰向けの世界

  彼は勤めの帰路の電車、乗合せた同僚と鬱病について話した。

  彼も同僚も然る病の治療中で、服用する薬や副作用について和やかに話した。

  車両は動き出し、二人は肩を並べ座席に着いた。ゴトゴトと鈍行は夕刻の街を抜けて行く。

  話すと二人の治療薬は異なったし、同僚は不眠に悩み、彼は過眠であった。

  会話は、堕ちていく夕日の中、一日が終わった疲れと安堵の車内に、緩やかに広がる。

  同僚は深夜に悶え苦しみ、彼は早朝に頭を抱えのたうち回った。

  窓から注ぐ斜陽は、乗客の体を温めた。定型のアナウンスが、乗客の日常を確かめた。

  同僚は今後の生き方に悩んでいた。死ぬまでの間にどうやって自身の理想を叶えるか。

  彼は現在の生き方に苦しんでいた。死ぬまでの間に何を成し、その為の今は何なのか。

  同僚はベッドの中、仰向けに手を合わせ、天井の神に願った。どうか寝かせてくれと。

  彼はベッドの中、仰向けに見る天井から、百足が落ち体を這う、浅い夢に何度も起きた。

  鈍行は尚も乗客とその日常を運ぶ。二人は共感と差異に笑いあった。ゴトゴトと揺れる。

  同僚の最寄りに到着し、二人は別れを告げた。車両はまた、ゆっくりと動き出す。

  彼はふと周りを見渡した。其処が優先座席で、彼の他は背の丸い老人ばかりであった。

  彼は窓に頭を任せ、車内の天井を仰いだ。

  夕日に染まる丸い吊革が、ゆらゆらと、掛かる主人を待つように揺れていた。

  

  

熱帯魚

  夏に金魚を死なせ、次の冬には熱帯魚を眺めていた。夏祭りで掬ったものであったが、6尾は月日を追うごとに減り、次の夏に最後の1尾が浮いた。6尾とも庭の同じ所に埋め、線香を上げた。その度に、土に溶け、骨の様を思い描いた。
  黒の壁紙に、青の背景を施した水槽が、几帳面に並べ、積まれている。鮮緑の水草に、赤や黄色などめまぐるしい。エアポンプがガラスを鳴らしている。
「冬なのに熱帯魚買うの?」
熱帯魚の水槽を眺める僕を横に見上げ、彼女は尋ねた。
「難しいから、またすぐ死んじゃうよ」
積み重なって並べられた水槽は、照明で照らされてどれも薄明るく、色とりどりの魚がそれにぼんやりと照らされ思うままに漂っている。ガラスには品種の説明が貼られていた。値段、人への慣れ、適正温度、餌、飼い方、留意点等々。魚はしかし、そのようなことは気に留めず、水泡と遊び、小さな仲間を追いたて、何もせず漂い、寄り添い、水槽の中はそれぞれの思惑や欲求で満たされていた。どれも、小さなガラスの中であった。
「冬は、関係ないでしょう」
僕は思わず笑って返した。
「そう? 熱帯魚なんだから、また夏に飼えばいいよ」
彼女はフェイクファーのついた緑のフードとショートヘアーを揺らし、正論とばかりに僕に説いた。青く光る水は、僕にとっては恐らく冷たいんだろうと思った。魚たちは片目で僕らを捉えていた。黒く深い目であった。
  きんと冷えた夜だった。プラットホームで電車を待っていると、彼女は僕のコートの袖を引いた。
「あそこ、みて」
夜のプラットホームは電灯に浮き、ホームの先、ガラス張りの喫煙所も暗闇に浮いていた。その先の暗闇には何も見えなかった。喫煙所には、背広の男性や丈の短いスカートの女性などが煙草を吹いていた。
「水槽の熱帯魚みたい。プカプカ口を開けて」
煙草を吸う僕にとって皮肉を感じたが、彼女は揶揄でなく、単純にそう感じている様子だった。
  車窓には夜の街並みが流れた。暗闇に浮かぶマンションは、ペットショップの並べられた水槽のようだった。それぞれの部屋に電灯がともり、各々の部屋で生活が営まれていた。飯を食い、寝る。家庭内で起こる問題など、僕には観察の戯れのように感じた。関わることの出来ない、けれども起こっている現実であった。
  最寄りの駅で降りると、僕らはコンビニで夕飯を買い、部屋に帰った。
  部屋に入ると、ホームセンターで買った安価なスポットライトを点け、ハウスミュージックを小さく流して、薄暗い部屋でナポリタンをチンして食べた。暖房は強めに設定し、本や菓子、グラス、物が溢れ散らかった部屋で、幾つもの布団や衣類がごちゃごちゃに折り重なるベッドに沈んだ。
  僕は沈んだ。僕らは温水が満たされた水槽の底にいた。漂う熱帯魚の下。少なくとも彼女がそばにいる間は温水の中だった。小さな音楽が少し激しくなる。暗闇の部屋、電灯に浮かぶ天井、色とりどりの、漂う魚の腹を見る。体は水槽の底、更に沈んでいく。僕の体は温水に柔らぐ。鰭や鱗が溶けていく。僕らは泳がなくてはいけない。死ぬまで泳がなくてはならない。誰に観られ、観られることもなく。餌を求め、生きている。尽きて水面に浮く日は其処にある。水面はすぐ頭上に見えている。今僕らは、浮くことも無く沈んでいる。
  音楽が止まり、時計の針の音が聞こえた。朝が来ると、窓や扉は全て開け放たれて、温水が外に流れ出てしまう。僕らは流水に浮き上がり、背ビレを冷やして彷徨う。
  ‥僕は仰向けに煙草を吹いた。僕も熱帯魚だった。彼女はすぐに死ぬと言う。生を、温度を、貪るように彩り漂い、活きれど、泳げど、戦えど、水槽の中。
  煙草を消すと、彼女は布団から少し顔を出し、両目で僕を捉えていた。目は、揶揄うように微笑んだ。