抽斗の釘

小説、散文、文章、短編

ラブホテル・ブラザー

 

 潤う、ということにはひどく痛みを伴う。

 清太は唾液を飲み込みながらそんなことを思った。

 喉に垂れていった唾液が喉仏のあたりで染み、しわりと痛んだのだ。

 乾燥した春の空気は、喉の側面を荒廃の土地のようにヒビ割れさせている。

 そこに水が入り、肌は水を吸い、シュウシュウと音を立てる。細胞は膨らみ、その時痛みを伴うのだ。清太は車の中で両手を垂らしながら、自分の喉の内側に、そんなイメージを浮かべていた。

 エンジンを止め、キーを挿し口から抜き出した。同時にエアコンが止まり、フロントガラスから入る日差しだけの刺激が残る。車内はむっとする。

 清太は天日干しの虫のように外に這い出た。そして眩しそうに眼を細める。彼の黒いTシャツや伸び始めた坊主頭は、春の陽をよく取り込んだ。

 見渡せば、駐車場に影はなく、灰や白の反射光が夏の景色を黒い瞳に映し出した。

 気温は初夏に相当すると、午前のカーラジオは伝えていた。お出かけになる際はご注意ください。女の声が頭に残っている。駐車場はいつもより混んでいた。

 スーパーマーケットは住宅地から車で一〇分ほどの場所にある。そこは新しく開発されたごくごく小さな商業地だった。田畑をつぶして現れた背の低い大型スーパー。家電量販店。ドラッグストア。100円ショップ。そのだだっ広い駐車場。

 ラブホテルに向かう前に、必ずそのスーパーマーケットで飲み物と昼食を調達することにしていた。割安なのだ。

 清太は春の陽を頭に浴びながら、入り口に向かい駐車場を横切った。

 その時にある老夫婦とすれ違った。彼らは大型のビニール袋をいくつも抱えている。もし二人暮らしならば、到底それらすべては消費できないだろう。清太はそんな揶揄めいた瞳で彼らを盗み見た。しかし老夫婦はそんな外目を気にもせず、福寿の微笑みを互いに並べ、何か語り合っている。心嬉しいことがあるらしい。しかし清太の耳には、その物語の末梢でさえ、ラジオの混信のように何も掬い取ることができなかった。

 

 清太がラブホテル通いを始めたのは四月に入ってからのことだった。

 春の陽気の最中、世間では入学だの就職だの浮足立つところ、ふとひとりで部屋に居るのがいたたまれなくなった。

 さみしい。夜までただ妻の帰りを待つ生活はたださみしかった。そのさみしさは強く簡単な、肉体的な開放を求めた。

 しかし夜になって妻が帰っても、決して肉体的な触れ合いは行われなかった。

 妻を労い癒すための家事を進めるだけで、気が付けば就寝時間になる。そうなれば互いにそれ以上のことをする力も残っていない。

 かといって平日の昼間、自宅に見知らぬ女性を呼ぶのは、近所にも家の中にも具合が悪い。そこでラブホテルの休憩時間を利用して、女性を呼ぼうと思い至った。「おひとり様のラブホテルが快適」というネットの三文記事を見た影響でもある。

 だが、実際ホテルに一人で入ってみると、記事の通りか、その居心地の良さが春の誘惑に勝った。女性も誰も呼ばず、清太はただひとり、ホテルの一室で過ごすのである。窓のないラブホテルの部屋は、春の陽気も、世間も、家族さえも遮った。

 また、何かが起こりそうな期待感がホテルの部屋には強く漂っていた。考えるまでもなく、隣では何かが起こっているのである。それはどんな行為か。時間か。相手か。それを考えるだけで、実際に行為を行うよりも清太の好奇心は満足に達した。快感に至らないゆえの高揚が、一人の部屋にほどよく充満した。

 そうやって外界から一切遮断された空間で空想を楽しむ。それに清太は魅入られた。そしてその空想に抱かれながらいつしか眠りにつく。それは清太にとって安寧に他ならなかった。さらに、それから目が覚めた時の爽快感は格別だった。さみしさとはなんだ、欲求不満とはなんだ。これが本当の眠りなのだ。と、そう思うほどに、彼の心は、体は、活力を取り戻していた。

 かといってそれを毎日行うわけにもいかず、資金の限りもあるから、その遊戯を週に一回の楽しみとした。それがこの四月の下旬まで三度行われた。この日の四度目の遊戯は、少し慣れてきた清太にとって、一工夫の必要が案じられていた。実際三度目の遊戯は多少退屈を感じ始めていた。この日は次の段階に進む機会だった。

 

 スーパーマーケットの店内は食材を冷やす、特有の冷気に満たされていた。

 そしていつもより騒然としている。

 見慣れない黒の作業服が、幾人もうろうろしているのだ。

 一介の買い物客でしかない清太であるが、その光景を見受けると、何事だと、自分の有事のように落ち着かなかった。そして歩けば所々、商品棚の通路がバリケードで塞がれている。「作業中」との張り紙もぶら下がっている。そしてバリケードの中の作業員たちは、熱心に棚の商品を、床の青い箱へ移していた。

 清太の目には、彼らの商品への気遣いというものがまるで見えなかった。かえって外野の清太の方が、壊れるのではと心配してしまうほど、彼らは乱暴に商品を降ろしている。ガラス瓶がぶつかる、不穏な音が連続して店内に響いていた。

 隣の通路も、また隣の通路も。

 作業着の人々はスポーツ競技のように躍動していた。当然、手早く終わらせることに優位があるのだろう。

 こういう場合、店を休業にはしないのだろうかと清太は思った。ゆっくりやった方が間違いも起きにくいだろう。商品も傷つかない。なにより取りたい商品が取れない。清太は眉をしかめながら、店内を進んだ。

 幸い、総菜コーナーは作業の対象外らしかった。籠を腕にぶら下げ、冷麺とパックのオレンジジュースをいれた。そしてブドウのグミも追加した。

レジでは初老に見える、小さな女性が清算をしてくれた。

 この時清太はいつも「まさか目の前の客が今からラブホテルに向かおうなどとは思うまい」と、秘かに盗み笑いを浮かべるのだった。

 それが何の優位性を生み出すわけでもないことを、分からない清太ではないのだが、その秘かな、外見では他人に予想もつかない自分、というものが、清太には愉快だった。

「ねえ、お姉さん。僕は今から、どこに行くと思いますか」

つい、そんな質問をぶつけてみたくなる。清太はこらえるように唇を微笑みに結んだ。

「実はラブホテルなんですよ。こんな平日の昼間から」

その瞬間レジの女性がはっと顔を上げ、清太の顔を直視した。清太は女性と目が合ってから、自分がずっと女性を見つめていたことに気が付いた。女性は怪訝そうな顔を清太に向けている。少し口に隙間をつくり、しかし何も言わない。上下の前歯は唇に隠れている。それほど微かな口の隙間。その隙間はただ、真っ黒な暗闇だった。

 清太は少し色を失った。狼狽するように目を動かした。

 いったい、俺は、この人に何か口にしただろうか。

 自分がラブホテルに関して何か口に出してしまったような気がした。そして清太には、女性との間に弁解の必要があるように思えた。

 女性はひとつ険しい顔をしてふいと目を降ろすと、商品を清算籠に移し始めた。

「……失礼しました。実は僕、役者をやっていまして。小さな芝居小屋のしがない役者ですけれどね。儲からないですよ。そりゃ、いつも赤字です。でも少しでも腕を磨いて、お客さんには満足して帰ってほしいと常々心掛けているんです。

 よい演技のためには、まずセリフが完璧に頭に入っているのが大前提です。しかし演目は毎週のように変わりますからね。ひっきりなしに。そのたびに役作りが必要なんですが、これがまた大変なんです。毎度それまでの役を捨てて、新しい人格を頭に入れなければならない。大変ですよ。これは。先週は警察官、今週は夢遊病者。来週は哲学者で、その翌週には小学生になるんです。いや、これは実際大変です。頭の中に入れ替わり立ち代わり他人が踏み込んで来るようなもんですから。そして彼らは本来の僕の記憶を遠慮なしに動かすんです。棚の荷物を片付けるように。

 しかし僕は役者ですから、それを受け入れなければならない。それが仕事なんです。他人が頭の中に入って棚を荒らしても、さあどうぞ、と、それを許さなければいけない。

 だからちょっとした、こんな買い物中だって、セリフを常に唱えて覚えなくちゃいけないんです。セリフを間違えては、芝居が台無しになりますからね。ストーリーだって、その誤った一言で予期せぬ結末に転変してしまう可能性があります。つまり一度間違えれば修正不可能なんです。だから」

「……カード……ですか」

女性は清太の思考を遮ってつぶやいた。

「……はい? 何か」

「ポイントカードはお持ちですか。それとお箸は」

「……ああ、カードね。」

清太はポケットから財布を取り出し、その中を探って見せた。一度だけ使ったスタンプカードや、貯め込んだレシートなどが、ズボンの体温で張り付いている。それを恭しくピリリと剥がして念入りに探した。……何を?

「……ああ。そういえばカードは持っていないんですよ」

清太はふいと顔を上げてそう告げると、いかにも好人物のように笑ってみせた。

 

 清太はインテリアメーカーに勤めた会社員だった。照明部、商品開発課の在籍だった。

 六年ほど勤めていたが、半年前から強烈な眠気を感じるようになった。

加えて左右の二の腕が、筋肉へ麻酔を打たれたように力が入らなくなった。

 それで業務中はパソコンを触るのも億劫になって、自分のデスクで座りながらうつらうつらとうたた寝するか、昼飯や市場リサーチと理由を付けて、喫茶店で三時間も四時間も時間を潰した。喫茶店では寝るか、流れている昼間の陽気なテレビ番組を眺めて過ごした。

 無論商品会議などあろうものなら話にならない。周囲が熱心に商品コンセプトを練る間にも、こくりこくりと頭を上下させる始末だった。そこには表立って注意する上司はいなかった。しかし水面下での悪評は確実に蓄積されていった。

 与えられる仕事が徐々に減っていくと、また居心地も悪くなる。終業までの時間ばかりを持て余し、かといって仕事はないかと上司に尋ねる意欲もない。それでも危機感どころか、眠気ばかりが清太の時間の大半を占めていた。

 かといって、八時間いっぱい喫茶店で時間を潰したり、何の用事もないパソコンの前に座り続けたりするわけにもいかず、清太は一〇分ごとにトイレだとか、備品を補充するだとか言って席を立ち、トイレへと逃げ込む。そこで同僚に出くわそうものなら、便器に向かって出ない尿を出すそぶりや、入念に手を洗うなどしてやり過ごす。そして

「おつかれ」

と、さも忙しい最中、同僚をねぎらう社員のように声をかけ、彼らが出ていくのを見届ける。トイレに誰もいなくなると、鏡に現れる自分をただ見つめて過ごした。

 見つめて、何をするわけでもない。意識を向けるべき興味が他にないのだ。だから清太は自分の姿を見つめ続けた。自分ならば、見つめていたって文句を言わない。

 鏡の自分はまた、見つめる清太を静かに見つめ返した。親しみが込められた目線は、清太を唯一理解してくれる人間のように思えた。微笑むと彼も微笑む。ひょうきんな顔を作ると、また彼も自分を笑わせてくれる。

 そうやって、清太は鏡を前にやっとほっとするのだった。

 何かに虐げられているわけではない。ただ何となく何かが苦しい。鏡の中の自分は、そこに自分がいるのだと証明してくれる。また、それと同時に、彼はそれを理解したうえで、何も言わずそっとそばにいてくれた。

 そんな生活が数か月続き、あるとき会社に異動を打診された。開発課は人手が余るらしい。それで次の部署はと上司に尋ねると、業務円滑課だという。聞けばその課は清太ひとりで、業務は来客時、オフィスのドアの開け閉めや、備品の補充、植木の水やり、侵入害虫の駆除などだという。  

 馬鹿らしくなった。それですぐに辞表を提出した。

 

 清太には妻がいる。それからの生活は彼女ひとりに頼ることになった。体に力が入らないと訴えると、しばらく休んでと言ってくれた。その通りにした。幸い少しばかり貯金をしていた。退職金も少し出た。その金を、日々の弁当やラブホテル代に充てた。

「人生の節目なんだよ、きっと」

と、妻は言った。清太もその通りだとおもった。

 退職してから、清太にはふと、視界に隙間のようなものが度々見えるようになった。

 それは何の法則性もない。リビングでくつろいでいるとき。新聞に目を落としているとき。食器を洗っているとき。風呂上がりに体を拭いているとき。または、運転をしているとき、階段を上っているとき、商品棚をながめているとき。

 閉め忘れたドアのわずかな隙間のように、視界のごく端で、その時見ているはずの視界とは別に、光や色が細く映るときがある。

 そのたびに、清太はそのありかを探した。

 しかしその方に目を動かすと、その隙間はすっとどこかに消えてしまう。それがどこからかの由来かわからなくなる。

 それは例えば、何かの反射光のようだと思った。

 車が陽向を横切った時の咄嗟の輝き。

 鳥が空を裂いた瞬間に映る羽の色。

 黄金虫の離陸。

 格子柵から垣間見える奥景色が、角度の関係で色づく一瞬。

 しかしいくら目を凝らしても、自分の視界に入ったはずの隙間らしき色は見当たらない。

 錯覚か、何かの勘違いだと思い、それを誰か、例えば妻に言うようなことはしなかった。

 実際それぐらいに些細なことで、とりわけ言及したり調べたりする必要性は感じなかった。病的な危機感はそこにない。思い違いで、デジャブとか正夢のような、日常のひずみのようなものであると思われた。

 ただ、それがもし隙間であるなら、誰かがその隙間から覗いている可能性もある気がして、ならば清太の視線に気が付きさっとドアを閉めている気がして、それだけは少し不気味な心地だった。

 

 清太は車に戻り、ラブホテルへ向かった。

 県道を郊外の方に進み、脇道に分岐する細い道へ入る。そこに入れば車通りもほとんど消える。一変して両側が雑木林に囲まれる、避暑地のような場所を通る。ほどなくするとラブホテルが現れる。近辺ではこの一棟しかホテルはない。地中海の雰囲気を模した建物だ。車は木漏れ日を浴びながら、滑るようにして敷地へ入った。

 一階が駐車場で、外から見えない角度にロビーへの入口がある。

 ロビー内は冷房が効いて、清太の腕を冷やした。

 床は石敷、壁は洞窟の岩壁を模した漆喰。窓も他の客の姿もない。閉演間際の遊園地。そのアドベンチャーアトラクションに佇むようだった。ロビーの所々には大型の観葉植物が置かれている。遠くで水の落ちる音がする。加えて人工的な甘い香りがする。

 心持忍び足で奥に進んだ。すぐに大型のパネルが現れる。そこに使用可能な部屋の写真が並ぶ。三十ほど部屋数はあるが、使用中の部屋はぽつりぽつりと暗く表示されている。清太は手ごろな部屋を探した。部屋は一人で、少し寝るだけだから小さく安いものがいい。幸い一番安い部屋が空いていた。迷わずその脇のボタンを押し込んだ。

 ロビーを抜けると客室の、吹き抜けのフロアが広がった。中心に大きな噴水が置かれ、それを四方ぐるりと囲み、二階建ての客室が並ぶ。一見リゾート地のようだった。  

 一階は高値の大きな部屋が占めている。エレベーターは避け、フロア隅の階段を使い、二階へと回った。清太の部屋は階段を上がったすぐ横の部屋だった。

 重厚な扉を引くと、すぐ、妖艶な照明に浮く、大きなベッドが目に入った。 

 さて、と無闇に声を上げ、悠々と合成革の黒いソファに座り、冷麺とグミを食べ、オレンジジュースを一息に飲み切った。そしてそれらを乱暴にビニール袋に詰めてしまうと、ベッドへ倒れ込み、ゆっくりと目を閉じ、瞑想に入った。

 何も聞こえない。近隣で行われているはずの気配も感じない。静かな空間。……しかしやはり飽きがきているのか、集中力を欠いた。容易に遊戯の幻は、清太の元へやってこなかった。

 清太はすぐ目を開けると周囲を見渡した。ベッドの頭の壁に、蓮の花の絵が掛かっている。黒い背景に、薄ピンクと白が、細い花びらへグラデーションを織りなしている。暗闇の鏡へ強い光を当てたような意匠だった。

 清太は少し卑屈に笑った。肉体的な快感が、天竺の心地だとも言いたいのだろうか。それは所詮ラブホテルの絵画だった。高名な芸術家のものでも秀逸な作品でもあるまい。ましてや実物とも疑わしい。大方プリントした量販ものだろう。けれど、卑屈に思いながらも、清太には不思議とそれがひどく心に浸透するように思えた。そして量販物とはいえ、芸術品は幾らか清太に高尚な気持ちを与えた。

 また目を閉じ、高尚な心地が残るうちに、ゆっくりとした遊戯を味わおうと思った。しかしまた、なぜかいつものように幻想はうまく近づいてこない。

 近隣で行われている行為を強く思った。顔も分からない女性と自分を一心に重ねた。しかし空想の中での女性の体は、あぶくのように霧散して、形をとどめない。

 どうして集中できない。

 清太は目を閉じながら苦しそうに顔を歪めた。空想の部屋では形が形を成さなかった。それでいて、なぜかそこに妻の面影が動いた。それは決して艶めかしい幻想ではない。顔のない妻が、ちらちらと花に流れる水滴のように動く。そして妻はいつしか両親の面影へ変わった。両親は飼い猫に変わった。飼い猫は辞めた会社の社員たちに移り変わった。社員たちの背は幼いころの友人たちの姿を映した。幼い友人たちは清太の頭上の方へと駆けていった。

 清太は目を開けた。そして頭の上を見る。蓮の花が依然として清太を見下ろしていた。

「これのせいだ。これが気になって」

うまくいかないのだ。清太はそう直感すると、枕元のスイッチをひねり、部屋を真っ暗に消した。窓もない部屋は、一髪の明かりも許さなかった。

「これで誰からも、何も見えない。」

 清太はそう再び目を閉じる。

 すぐは、うまくいきそうだった。が、幻想中の今までにない、全身の力が抜け、重くなっていく感覚を覚えた。一方で脳は徐々に明瞭だった。

 ジジジ。と、こめかみの上で音がした。昔の古い四角いテレビを点けたような、不鮮明なラジオを合わせるような、微細な空気の振動を感じた。その振動が耳の奥に届いて器官を揺らした。ベッドがいくらか沈む気がした。ベッドの足元では、何か空気が動いたような気配がする。明瞭な意識の中で、清太はそれが気のせいだと知っていた。一人の密室で誰かが動くわけがない。ドアが開かれた音も聞こえなかった。ましてや誰かが入る道理などない。それが錯覚だと清太は分かっていた。デジャブや正夢のような日常のひずみだと知っていた。

 そこが夜の砂浜、波打ち際であるかのように、不安の波が清太の体に打ち寄せ始めた。

 波は清太の体に手を伸ばし、引き波に清太をどこかへ連れて行こうとしていた。

 嫌な気がした。生きていたくないという望みが内に沸いた。

 波の中に立つ足のように、清太の横になる体は濡れた砂に沈んでいった。

 清太は察した。誰かが上に乗っている。

 体の重みも、砂に沈む体も、誰かが自分に乗っているからだ。

 清太はそっと目だけを開けた。しかし自分の上には誰も乗っていない。暗室があるばかりである。

 それを確認すると、また目を閉じた。

 重みがよみがえる。やはり誰が乗っている。それはきっと真っ黒な影だった。

 その影が、まるでピザ職人が生地を伸ばすように、清太の上で前後に躍動している。

 清太はピザ生地だった。上からの圧力に、次第に薄く長く引き伸ばされている。

 清太は抵抗できなかった。ただ力なく、なすが儘に引き延ばされた。

 それが不思議と楽だった。このまま終わりまで付き合うと、どこかに飛んでいくような気がした。自分が自分でないところに到達する。その心地よさ。

 時間は遠のいていった。同時に苦しさや不安も和らいでいく。

 そうか、と清太は思った。

 自分が消えれば苦しみも消えるのは当然だった。

 もう少しだと思った。もう少しで喪失することができる。

 清太の上に追いかぶさる職人も、正念場だろうか、懸命に動きを増していた。

 もう少し、もう少し。

 清太の意識は次第に体と離れ揺れ、圧力に反転して上昇するようだった。

 ああ、これが、これが。

 と、清太の意識が薄く細く、糸ほどに研がれる間際、職人は突如唸りを上げて静止した。かと思えば力なく清太の上に倒れ込み、やがて重みは消えてしまった。

 清太ははっと目を開けた。そこには暗闇が広がるばかり。しかし体はずいぶん軽い心地。

 心は清涼になった。体は活力に満ちていた。

 清太は体を起こし、手探りで照明のスイッチを探し当てた。

 明るくなった部屋にはやはり清太一人だけだった。

 口の端で何かが疼いた。

 唾液が口から垂れている。それが落下にきらりと光った。清太は顔を枕に押し当て、それをぬぐった。

 頭上では、蓮の花が毫光のように散開していた。  了

満開

 

 この日、四月一日は入社式で、美桜はその会場へと向かっていた。

東大路通りを北へ歩く。そして度々、苦々しい瞳を青空へ向けた。もたないと思っていた桜は、ちょうどこの時に絶頂を迎えていた。

美桜が桜を疎ましく思うのは、群衆を思うのに近かった。断りもなく頭上に咲き乱れるやかましさ。それは花見客の高揚した喧騒によく似合うものだった。

 東山五条の交差点では花見客が団子になり信号を待っていた。信号を渡り五条坂の方に折れ、道なりに進めば清水寺に続くらしい。群衆の浮き立つ背に幾分苛立ちを覚えながら、美桜もその後ろへと静かに足を揃えた。

 金曜日であるから今日をしのげば土日とふつか休み。気楽だと自分に言い聞かせるも、気休めは苛立ちになんの効力ももたらさない。

 これから会社でうまくやれるか。先輩には気に入られるか。友人はできるか。

 そんな不安がある。

 遅刻はしないか。会場にはたどり着けるか。日時を勘違いしていないか。

 加えて、いろいろな不安が次々と生まれる。

 そしてそれらの不安へ旗を振って扇動するのが春だった。新生活、というだけの漠然とした生命力が花のように開いて、不安を空に浮かせたまま落とさない。春の乾いた日和が喉を絞めた。

 目の前で談笑する信号待ちの花見客は、みな鮮やかなシャツを春風に膨らませていた。

 彼らを歓迎するように、交差点を渡ったすぐそば、大谷本廟の門桜が花を空に広げている。

 やがて信号は青になった。

 花見客たちは五条坂へ右手に折れる。美桜はひとりだけまっすぐ進んだ。すると花見客も桜も見えなくなって、そこでふうと一つ息を吐いた。

 

 指定された入社式の会場は、ビルの貸し会議室を使っていた。

 エレベーターで上階に上がると、すぐ目の前に、大部屋へ長机がぎっしりと並んでいるのが目に入った。定刻の三〇分前だった。すでに受付は開かれているようで、部屋の入口前に作られた簡易の受付には、社員だろう、髪の明るい女性が一組の長机に腰かけている。そして隣に座る男性と親し気に話しているところだった。そのキャラメルのような髪が、紺のスーツに鮮やかに映え揺れている。

 しかし美桜の姿が見えても、二人はなお話を切り上げそうにない。で、ひとつふたつやり取りを終えたうえ、そこでやっと二人は作為的に座りなおし、美桜の顔を一瞥した。女性はふっと微笑みを浮かべる。美桜は聞かれる前から名前を名乗った。

 女性は髪を耳に掛けながら、受付表の上にペン先さ迷わせ、やがて落とした。そしてさっと、美桜の名前を切るように線を引いた。その所作ひとつがずいぶん手早く、小慣れている。ただそれだけの動作だが、それがいかにも業務的で、美桜は社会に出たのだと妙な感銘を抱いた。

 女性は席に着いて待つよう促した。美桜はひな鳥のように幾度か頷き、席へと向かった。

 席は指定されていて、名前の書かれたA4の封筒が几帳面に机へ並べられている。美桜の席は後ろの方だった。自分より先に来ているのは数えるほど。おとなしく座っていると、次第に前の席もぽつりぽつりと埋まり始めた。

 美桜はその間どのように知り合いを作るか、想像により準備をした。初日にどれだけ知り合いを作るか。その重要さはこれまでの学生生活でいたく身に染みている。ひどいと半年は孤独な状況が続くものだ。それはまるで椅子取りゲームのようなもの。友人の数は限られているのだ。

 美桜はキョロキョロと瞳を動かした。まだ定刻まで時間はあるだろうから、周囲に座った者に声をかけてみようか。話題は何が適切だろう。それとも私語は厳禁だろうか。軽薄な行動は評価などに影響するのだろうか。

 しかし生憎、美桜の周囲に座ったものは男性ばかりだった。皆緊張している面持ちで、美桜とは目も合わせず、不機嫌そうに無言で席についた。

 ふと前に目を遣ると、運よく隣り合った女性同士が肩を寄せ、小声で何かやり取りをしているのが目に付いた。美桜は途端に焦りを感じた。自分もそうするべきだろうか。あそこまでいって話しかけてみようか。美桜のパンプスの底が、ひとつ外側へ床をこすった。そして美桜は落ち着かない様子で左右に目を凝らした。両脇の男性は無言を貫き、膝の上に静かに両手を並べている。美桜は唾液をひとつ飲むと、ゆっくりと膝を戻した。指定された席に居ろとの指示だ。無闇に立ち歩く勇気はない。

 美桜のこうべは徐々に下がった。やがて目に入るものは封筒に張られた印刷の名前だけだった。

「山崎美桜」二十二年付き合い、見知った名前だ。それは自分の名に違いない。それを眺め続けた。きっと美しい名前だった。その名を見た者はおそらく白く淡いピンクを思い浮かべるだろう。そして現れた現物と名前とを交互に見て少し笑うにちがいない。あの受付の女性だってそうだろう。きっと笑っただろう。

 美桜は机に置かれた自分の手の甲を見た。それは陸上選手のように黒い。また体毛も濃い。指の毛穴も目立つが、手首などは、シャツの袖から切れ切れに細毛が見えている。

 美桜はさらに机の下、スカートに隠れた太ももを見下ろした。生地は風船のように膨らんでいる。短く太い。体型や背の低さは母親譲りだが、その体に乗っかる頭の骨格は父のものだ。彫りが深くごつごつとしている。そこに太筆で引いたような眉が入る。力強い顔つき。美桜のうつむいた頭の両脇に、前髪がカーテンのように垂れていた。前髪で眉と輪郭が消えるように隠している。ごつごつとして、日陰に隠れるもの。それは桜だとしても、どちらかといえば幹の瘤だ。

 微かなさざめきに顔を上げた。幾分そうしていたのか、気が付けば会場はすっかりとリクルートスーツで埋まっていた。その様子を後ろから見渡せば、スーツの肩や黒髪の後頭部が密接に並び、黒土の地面のようにも見える。平坦に続く一面一色の地面。

 そこに受付をしていたあの女性がさっそうと現れた。そして青空が映る窓の前に立つと、艶のある声をマイクに響かせあいさつを述べた。スーツスカートから伸びた足は細く長く美しい。黒ばかりの景色でその白さが光るようだった。それがしっかりと床に刺さって伸びている。

 美桜はそれから入社式の間中、ぼうっとその白い足、薄ピンクの膝頭ばかりを目で追っていた。

 入社式は説明会を含め、昼までには終わった。結局誰にも声を掛けず、掛けられず、逃げるようにして会場を去った。幾組かの新しい交友は、昼飯を食いに行こう、などの声も聞こえた。花見をしよう、という大きな声も聞こえた。

 電車を乗り継ぎ、最寄り駅から自宅までの帰り道にも、桜の並木がある。閉校した小学校の桜だ。校庭を囲むようにして二十三十と樹木が続く。午後の桜。乾燥した風。やはりそこも満開であった。

 桜の樹の下には死体が埋まっている。美桜はそんな言葉を茫然と思い出していた。それはやはり目の前の桜の美しさが疑わしいからだった。なんの代価もなくあの善美を生むことはできない。できるはずがない。善美の影には何か汚らしいものが隠れているのが理だろう。合格者の影に落伍者がいるように。人気者の影に嫌われ者がいるように。富者の影に債務者がいるように。

 美桜は午後の日差しに頭頂部の熱を感じた。

 ならばあの女性社員の足下にも、きっと死体が埋まっているに違いなかった。それは幾体かの、男や女の死体だった。美桜は自然と、あの女性自身も、いつか裸体となり桜の木の根に絡まる様子を思い浮かべた。そしてしわがれ朽ちていく。

 花は醜悪の上に咲く。ならば美桜にも、自分の憂鬱の上にもそうだった。

 花見客が喜ぶのもそうだろう。花は日常の様々な醜悪を吸い昇華する。それは新生活の始まりに違いない。しかし足元の栄養は必ずしも彼ら自身の醜悪とは限らない。花は勝手に、美桜の醜悪を吸って咲く。それを知らない客が見る、花やぐ。

 美桜の瞳はいつしか潤んでいた。それでも彼女の頭上には、桜がなおも隆々と花を広げ、薄紅の瘴気を放ち続けていた。

 

 土日は彼女なりの遊惰をむさぼり、暴食した菓子が週明けの朝になってもまだ胃に残るようだった。ひたすら録りためたアニメや映画、動画は幾らか彼女をいやしたが、それもほんのひと時のことだった。

 すっきりしたかった。気持ちよくなりたかった。キラキラしたかった。が、的確な方法は思い浮かばない。春物の服を買いに行こうかとも思い立った。しかししばらくはリクルートスーツの生活。給与も一か月先である。新しい服を着る予定もない。そして美桜はベッドに横たわり、自分とは関わりのない世界の映像を眺め続けた。そうしてすぐに土日は終わった。画面を閉じて残ったのは日曜日の夕闇と、誰も気にしない美桜の体だけだった。

 月曜となる。美桜は出勤に重たい足を最寄り駅に向け歩いた。心は憂鬱なまま、週末となんら変わりはない。むしろこれからの週を思えばなおさら憂鬱だ。その憂鬱とは反するように、この日も晴天が続くらしい。幾分ましなのは、朝の微かな冷気がまだ周囲に漂うことだった。

 と、いつも通る住宅街のある家の前に、中年の女性が居るのが見えた。女性は自転車を表に出して、タイヤに空気を入れているらしい。玄関は開けられていて、おそらく中に息子がいるのだろう、子供の声が奥から聞こえた。

 普段、朝などは誰にも出会わない閑静な道だが、その時は母親の声が辺りに響いていた。明瞭には聞き取れないが、自転車の世話ぐらいできるようになれと息子に叱咤しているらしい。母親は固太りした体を丸めながら、熱心に体全体を使って、空気入れのポンプを動かしている。髪は寝起きのまま触っていないのだろう。茶色くそばだって膨れあがり、熊か大型の狸のように見える。薄紅のエプロンを付けたまま、薄緑と白のチェックのシャツを着ている。黒ぶちの大きな眼鏡がずり下がることも気にせず、息子の返答に大きな笑い声をあげていた。

 美桜は少し気まずくなった。その母親を見知っているわけではないが、近所の住人だから、自分のことを知っていてもおかしくない。けれど、知らないかもしれない。おはようございます、ぐらいの挨拶は自然かもしれないが、知らない他人から声を掛けられるのを不審に思うかもしれない。ましてやそんな起き抜けの格好を、他人に見られ不快に思われるかもしれない。

 美桜は一寸引き返そうとも思った。しかし相手が十分見える位置で引き返すのもずいぶん不自然で、それはそれでかえって不審に思うかもしれない。

 美桜はそんなことをふつふつと思いながら、足を止めることもできずにゆるゆると道を下った。と、美桜の足音に気が付いたのか、母親がふっと空気入れから顔を上げた。美桜はとっさに下を向く。瞬時に出た選択は気が付かないふりだった。そのままやり過ごそうと思った。お互いに気が付かないと分かれば、なんの問題も憂慮も起こらない。美桜は下を向きつつ足の歩みを速めた。そして自転車の後輪が目の端に映った時、美桜の耳に唐突な声が入った。

「いってらっしゃい」

美桜はその声に、遠慮がちに顔を向けた。母親は背を伸ばし、まっすぐに美桜を見ている。頬の肉が左右に推しあがるほど、口角を上げていた。美桜は咄嗟に歩みを緩めていた。玄関を見遣っても誰もいない。その挨拶は自分に向けられたのだと気が付いた。が、こんな時なんといえばよいのか準備がなかった。他人の母である。通常ならおはようございますだろう。美桜は目を丸くしたまま、微かに口を開いた。声は出ない。

「いってらっしゃい」

母親は再び言った。今度はまっすぐ、美桜と目が合ったまま。

「……いってきます」

美桜の返事は反射だった。考えた末の言葉ではない。そしてその返事が母親へ通ったかは分からないほど、小さな声が出た。しかし母親はもう一度、強く微笑み頷いた。

 美桜は幾分酔いに近い上気を感じたまま、道を進んだ。自転車が見えなくなった後ろにも、未だに息子と何か遣り合う、母親の大きな声が辺りに響いていた。

 美桜は駅に向かい歩いた。その間ずっと、上気する頭を朝の冷気がさすっていた。

道すがら、小学校の桜並木の下を通る。美桜はそれを見上げた。桜は満開の花を付けたままだが、花弁が朝風にふるい落とされ、美桜の頭や肩に優しく降り注いでいた。

 この時ばかりは、疎ましい気持ちなど起こりもしなかった。 了

来世

 

 植物写真家・黒部の自宅庭は、それだけに多様な植物で溢れていた。目隠しのキンモクセイやツゲに広い庭を囲ませ、ユズリハモクレンサルスベリなどの高木、ボタン、ツツジマンリョウの低木、オリーブ、ギンバイカなどの鉢植え、ローズマリー、西洋イチゴ、スイセンプランターが隙間なく並ぶ。また、幾つかの大型の水鉢には、ウキクサの中にスイレンカキツバタなども季節に咲いた。一方で、やはり芸術家の故郷としての臭味も漂うようで、庭は和や洋の趣が雑多に混在しながらも、それでいて不思議な調和を保っていた。

 黒部の自宅を訪れるのは、佐々木にとって珍しいことではない。普段の写真原稿のやり取りはオンラインを活用するが、時節ごとに直接赴き、顔を合わすのも、編集者にとっては、原稿をつなぐ重要な仕事だった。しかしその時の黒部は、いつもの若年からくる生意気さや快活な様子は見えず、いやに静かな顔つきだった。

「いや、お久しぶりです。どうですか、作品の方は」

と、毎度のように庭の見える座敷に通された佐々木は、窓際の籐椅子に浅く座ると、当たり障りのない挨拶を投げかけた。しかし黒部は、苦いものを嚙むような顔で、いまいちすっきりとしない。

「最近はね、まあ一応」

と、なんとでも捉えられる言葉を返すだけだった。

「……おかげさまで先月号も順調でして。先生の出された『羊歯の森』、あの作品も、方々から好評をいただいていますよ。読者の便りもいくつか届いておりまして、ほら、」

と、佐々木は鞄から葉書の束を取り出し、黒部の前へ差し出した。しかし黒部は籐椅子に足を組み、ちらとその束を見ただけで、ふいと、興味なさげに目を反らすと、ぼんやりと庭の方へ目を遣った。佐々木は行く宛てのなくなった手紙の束を、そっと籐のガラス机へ置くと、黒部の後を追随し、春霞の灰に降られたような、薄緑に沈む庭を眺めた。

 春も進めば、鬱蒼と霞がかった庭も、楽園のように華やぐだろう。それだけに、今の眠たげな霞の季節は梅の花、それがより一層麗らかに花をつけ、冴えて見える。

 黒部の庭には、サクラと対をなすよう、中央付近に梅が置かれている。色づく時期が順に訪れる二株の樹は、季節の移り変わりを刻、刻と伝える緩やかな時報のようで、佐々木は春に黒部を訪れるたび、その趣に作家とその庭の感性を共にほめるのだった。

 と、今年もそのおべんちゃらをたくらみ、庭をついと見渡した。しかし、梅の木が見当たらない。一年に一度のことだから、見間違いだろうかと、再度首を伸ばして庭を見た。しかしやはり梅の木はない。

「あれ、梅は」

と、佐々木は何も考えないうちから声に出した。同時に黒部の顔を見る。

「まったく、参りますよ、佐々木さんには」

黒部は庭から顔を戻すと、実際参るらしく、増して苦々しい顔を見せて応えた。

 佐々木は疼いた。何かある、と、記者上がりの嗅覚が耳元で囁いた。

 踏み込んで聞けば、面白い話が聞けるかもしれない。それがすぐに佐々木の仕事で使えるものではなくとも、黒部ほどの注目される若手作家のことなら、後々使いようも出てくるだろう。また、そんな黒部との関係を続ける上で、ある程度踏み込むのは、利はあっても損はない。しかし黒部は参るという。実際参った話なのだろう。図々しく粘着して倦厭されては、それでは損だ。

 佐々木は逡巡しているうちにも、黒部へ勝馬を眺めるような笑みを向けていた。黒部のその参りますという言動から、自分への一握のへつらいや信用を、感じられなくはなかったのだ。

「へえ、参ったですか。それは、どうも……?」

そんな佐々木に、黒部は含み笑いを噛むようにして、すっと右手を差し出して見せた。

「あれ、どうしました」

佐々木は大仰に声を上げた。黒部の右手全体を覆うように、包帯がなされているのだ。

「怪我ですか。そりゃ。あれ。」

「ええ。どうしたものか、やってしまいましたよ」

まるで母親のように顔を歪める佐々木に対し、黒部は包帯を撫でながら、どこかさわやかに笑うのだった。

「なら作品は、カメラはどうなんです」

「いや、参りました」

首を振る黒部に、佐々木はしがみ付かないばかり、机へ手をついていた。

「しかしまあ、休暇のいい機会かと思って」

と、のんきそうに続ける若輩を前に、佐々木は腕を組み、籐椅子の背にもたれ、天上を仰ぎつつため息をついて見せた。叱ってみるのもまた、ひとつの編集者の仕事だった。が、それ以上に込められたのは、見通せつつある仕事を邪魔された率直な不機嫌だった。

「いけない。そりゃ駄目だよ黒部さん。写真家がそんなことあっちゃあ。商売道具なんだから。え、次の依頼はどうするんです、え」

業界を臭わせるそんな言い分も、黒部は対して堪えない様子で、なおも大事そうに右手を撫で、含み笑いを浮かべる次第だった。

「一体何をして、怪我なんかしてんですか。」

佐々木は焦れた。が、押して引くという技術も忘れていない。一転して優し気に問うのだった。

「切ってしまいまして。」

「梅の木を。」

黒部は含みを持たせながら、ゆっくりと、そう二言告げ、また怪しげに微笑むのだった。佐々木はその声が、どこか不思議に、背後から聞こえたようで、そっと片耳を抑えるのだった。

 疑問はいくつかあった。なぜ梅の木を切らなければいけなかったのか。なぜ自分で切ったのか。なぜ梅の木なのか。そして植物を専門とする黒部が、食い扶持であろう樹を切ることがあっていいのだろうか。

「切った、ですか。」

落胆ともとれる怪訝な表情を浮かべ、佐々木は首を傾げた。

「ええ、切ってやったんです」

話を促すつもりだったが、どうも黒部は要領を得ない。

「なぜ、切ったんですか。邪魔でしたかね」

焦れた佐々木は端的に切り出した。創作に対する、黒部なりの不満や葛藤の発露だろうか。そうならば、編集者たる自分がケアしなければいけない。しかし次に黒部が口にしたのは、

「親父をね、切り離してやったんだ」

という、不可解な言葉だった。

 

 黒部の父親といえば、確かこの年明けに三回忌を迎えたところであった。

 父親の通夜の時分、それはちょうど佐々木が黒部に目をかけ始めたぐらいで、その時の黒部は葬儀の席でも暗い影一つ見せず、むしろかえって平生よりも快活な様子だった。佐々木はそこにある種、妖力の片鱗を見出し、それが正解だったのか、結果、彼は現在の名声を手に入れている。臨終の間際でそうだったのだから、月日が流れた今、冷淡と思えた黒部の口から父親と聞こえたのは、佐々木にとってはいささか騙し討ちで、加えて追い出したと続けるのだから、その勿怪顔はなおさらである。

「お父様を、切り離した?」

佐々木はもはや、策略を打つ間もなく問い返した。

「ええ、そう言いました」

黒部は涼し気な顔をしている。自分がいかに妙なことを口にしているのか、それが分からない黒部ではない。しかしそうやって焦らすのは、黒部の妖の部分なのか。遊びに付き合うほど、佐々木もお人好しではない。

「……佐々木さんは、幽霊を信じる口でしたっけ」

佐々木が席を立つ口実を巡らしていると、ふいに黒部のほうから尋ねた。

「ははは、お父様がいらっしゃいましたか」

「いや実に、そうでして」

佐々木は呆気を越して心配になった。

「あの梅が、つぼみを付け始めた頃です」

黒部は佐々木に意を介さず話を続けた。佐々木はその話を、いつか原稿にできるだろうかと、メモ書き程度に残したのだった。

 

 あれは庭の梅がつぼみを付け始めた頃でした。僕は夜型の人間でしてね、その日も資料整理や次の取材の旅程を練っていました。確か、二時か三時のことだったと思います。いつもなら朝方まで書斎に籠りっぱなしなのですが、その日は妙な気配を感じましてね。もちろん独身ですから、この家も両親に先立たれ仕方なく引き受けただけ、他に誰もいるはずはありません。それに暖かくなり始めましたから、悪鬼を起こす者も増えるとも聞きました。気のせいだと思いながらも、気になり出すと止まらないのも、また僕ですからね。一応、家の中を見て回ることにしたんです。

 それはまあ杞憂でした。家の中には当然、風呂場も押入れも、誰も居はしませんでした。ほっと安心し、僕はコーヒーを淹れながら、気が付いたんです。庭を見ていないと。それで座敷までいって、襖をあけて庭を睨みました。するとそこに、いたんです。ちょうど、梅の木のそばに。やはり泥棒だと身構えましたが、どうも様子が違いました。泥棒なら、僕に見つかると分かれば、逃げるなり、襲うなり、何か動きがあってもいいはずです。しかしその人影は、身動き一つしませんでした。その上、全裸なのです。裸です。ぞっとしましたよ。泥棒よりなおさら怖い。全裸の者が、夜、ひとの庭に居るんですから。

 僕は威嚇の効果も期待して、座敷の電灯を点け、さらに手元の懐中電灯でそれを照らしてやりました。しかし驚いたことに、照らしたと思った瞬間、さっと人影は消えてしまったんです。逃げたと思い、周囲を照らしましたが、どこにも姿は見えませんでした。御覧の通り広い庭ですから、人の足ではそんなに素早く逃げることもできないでしょう。その時かろうじて見えたのは、その裸が男であるということだけで、あとは何もわかりませんでした。

 一人でひどく心細い気持ちでしたが、かといっていい大人が、心細いと言って騒ぐのもどうかと思い、僕はそれからもう寝ようと寝床に潜り込んだのです。朝がひどく待ち遠しい時間でしたね。

 で、布団でちょっと考えたんです。まあ、誰だってそんなことがあれば考えずにはいられないでしょう。あの瞬間、ライトに映った男の陰部、あれは、どうも親父のものに思えたんです。僕が子供の頃、一緒に風呂に入って眺めた、あの父親のもの。思い返すほどに、不思議とあれは父親だと僕は確信してしまったんです。

 それで、なぜ死んだ父親が、と、当然考えましてね。ご存じの通り、親父は死んでいますから、まずは幽霊だと思いました。でも馬鹿馬鹿しい。写真家が幽霊、見えないものを見たとすると、なんだが皮肉めいていますしね。でもまた一方で、写らないようなものを写すのも、僕らの仕事なんです。だから僕は布団の中で考えました。僕は何を見たんだろうって。

 朝方になってはっきりと分かった。あれは父親そのものに違いない。父親の、一部に違いないと。……佐々木さんは物質不滅の法則ってご存じですかね。ええ、質量保存則とも言います。元素は結合と分裂を繰り返しますが、消えはしない。つまり、死に焼かれた父の体や脳も、水素や炭素、酸素の元素に分裂し、細かくなって空中に飛散したのではないでしょうか。

 自我たる意識や記憶が脳を構成する神経や細胞に宿るなら、それらを構成する元素に宿っていても不思議ではない。元素は空中に流れ出ると、海に流れたり、土の中に降りたり、あちこちに行くでしょう。その数は膨大です。火葬場は最寄りの場所を使いましたから、この地域一面に親父であったものが広がったに違いありません。それはこの庭にだって例外ではないはずです。

 そのごく一部、一粒かもしれませんが、親父であった元素が、あの梅の木に入った。雨や地下水からか、それとも呼吸からか、ともかく親父は梅の木に入りました。

 しかしこれは特段珍しいことではないように思います。佐々木さんだって、ふと思いがけず遠い親戚を思ったり、旧友が夢に出てきたりすることはあるでしょう。僕らももちろん代謝し、体から水素や炭素などを吐き出している。遠い旧友の吐き出した数多の元素が、巡り巡ってほんの一粒、僕らの口に届くことがあってもおかしくはないと思うんです。そうやって有象無象の元素を僕らは取り込み、僕らの記憶と彼らの記憶が結びついたとき、それが肖像として僕らの脳裏に浮かぶ。しかし親父は僕の枕元には立たず、梅の木に現れた。それは、親父が梅の木に宿ったと考えていいかと思います。梅の木の記憶を通して、僕と父親が結びつき、肖像として現れた。

 御存知の通り梅の木も代謝しますが、活発なのは皮の周辺だけで、樹木は心材といって、樹の中心は死んだ細胞で固まっています。もし親父の粒が心材に取り込まれて居座るのなら、そして毎晩のように庭に出るのなら、これほど僕を苛立たせることはないでしょう。それが例えば、一年草多年草ならまだ我慢したかもしれません。が、梅の庭木は百年以上生きる。そりゃ第二の人生だ。つまり、親父の来世は梅の木になったんです。それが親父にとって不本意かどうかはわかりませんが、僕はいつまでも親父に監視されるのは御免です。

 ですから、あの梅の木は次の日に切ってしまいました。植えることはあっても切ることは珍しいですからね。慣れない作業に、この通り、自分の手まで切ってしまった。

親父の怒り? あはは、それはいかにも超自然的な思想ですね。元素にそんな力はないでしょうから。

 それからは、もちろん焼きましたよ。でなければ切った意味がありませんからね。これで親父であった元素はまた、空中に飛んでいったわけです。それからどこへ行ったのか。もしまた庭に戻ってきたのなら、やはり切って燃やしてやりますよ。

 自分が死んだらどんな来世を迎えたいか? 不毛なことを聞きますね。死ねば無限の僕が、無限の時間、気が狂うまで世界を漂うんだ。そうやって自失し、やがて意思の持たない単細胞に成り代わる。行きつくところは誰しも発狂です。それは地獄とでも天国とでも言える心地でしょうね。

 あれ、ひどい顔をされていますよ。その顔、一枚撮って差し上げましょうか。(了)

井守

 

 がらーん、がらーん。と、手持ち鐘の音が近づいてきた。

 ちりりん、ちりりん。と、風鈴の音も聞こえる。

くろーやき、くろおーやき。そこに力のない男の声が続いた。

 亜里砂は猫のようにクッションから飛び跳ねると、音もなく、ドアの覗き窓に目を入れた。

「こっちにきた。……早く帰れよ」

声には出さずつぶやいた。鐘や風鈴、そして男の声は、確かに亜里砂の部屋の方へ向かってきている。

 古いマンションのためか、覗き窓は魚眼レンズになっていない。視界はほんの周囲で、コンクリートの外廊下と、冬の晴天の空が広がるばかりだった。

 と、その狭い視界にふと影が差した。

 訝しい。白髪の小男が、紺の半纏にスーツといういで立ちで、荷車を引き、ドアの前を通過していく。

 小男が引く荷車には、風鈴のほかに「薬」「テトロドトキシン」と書かれた釣り旗がそれぞれ下がり、男の歩みか風かに合わせてゆらゆらと揺れている。荷車に積まれているのは大きな水槽で、中では黒や赤の色が点描のように乱れている。そこにはイモリが何十何百と詰められて、水の中でうじゃうじゃしているのだ。

男はやがて過ぎていった。

 亜里砂はのぞき窓から小男が去ったことを見届けるとふっと息を吐き、洗面台へ行き、鏡に自分の姿を映した。

 乱れたショートボブを手櫛で抑えた。赤に染めた髪は、先ほどの水槽に動くオレンジじみた色ではなく、紅や青の混じる深い赤であることを改めて確認した。携帯カイロを寝巻のポケットから取り出すと、それでまつ毛カーラーを挟んで暖め始めた。その間、ぼんやりと、鏡に映る自分の姿を眺めた。

 先ほどの男は薬売りと名乗り、ここしばらくマンションを徘徊している。オートロックマンションではないから、勝手に入ってくることができる。管理会社にも、未だ誰も連絡していないようだ。

 亜里砂は以前に一度その薬売りと遭遇した。自分の部屋を出たところで鉢合わせた。

 薬売りは亜里砂と目が合うと、白髪と皺の深い日焼けた顔で微笑み、時間はあるかと尋ねてきた。出かけるからと断ればよいものを、亜里砂は咄嗟に、素直にあると答えてしまった。

「要は富山の置き薬です。ご存じですか」

と、薬売りは聞いてきた。

 富山がどうかはわからないが、つまりは置き薬のセールスだと察した。置き薬なら実家でもやっていた。わかります、とだけ答えると、

「じゃあひとつ、おいて行ってください、後生ですから」

と、のっけから頼みこまれた。なんの薬かも、値段も言わない、強引なセールスだった。

 薬売りは体をひねると、自分の背に隠していた荷車の水槽から、ひとつかみ、数匹のイモリを出して見せた。

「今でしたら、水槽も無料でお付けいたしますが」

男の手の中で数匹のイモリが体をくねらせて悶えている。その中の一匹が指の間からすり抜けて、外廊下の床に落ちた。男はそれを慣れたように拾い上げながら、

疲労回復、精力増強。……ほかには惚れ薬なんて効果もありますがね。へへ」

と笑いをこぼし、その一匹を水槽に投げ入れた。

「置き薬ですから、最初の代金はいただきません。数か月に一度、ご訪問させていただきまして、使った分だけお代金をいただきます。」

と、薬売りは朗色を浮かべた。対して亜里砂は、

「それが、薬、なんですか」

と、心持ち体を引きながら尋ねた。

「ええ、じっくり黒焼きにして、召し上がっていただければ。それまでは水槽で飼育していただければ、観賞用にもなりますし、日持ちもします。十五年は生きますからね。ああ、しかし、間違っても生食はご遠慮ください。」

そう言って薬売りは朗笑し、続けて、「テトロドトキシン」の釣り旗を指でつまんで見せ、まっすぐ亜里砂に笑いかけた。

「微量ですがね。触った手で体の粘液に触れるようなこともご遠慮いただきたい。しかし良薬口に苦しとも言いますが。医療の場では活用の研究もなされておりまして……」

と、薬売りは脇に抱えた黒鞄から、チラシか説明書きの類を漁り始めた。

 その間にも薬売りの片手には、数匹のイモリが握られていたが、その時には体を反らし、腹の色を見せたまま、ぐったりと頭を垂らすだけであった。

「すみません、急ぎますので」

と、亜里砂は寒気を感じ、咄嗟に口から出た言葉のまま、その場から足早に抜け出した。

「そうですか、それはすみませんでした」

と、薬売りは尚も朗笑を上げ、またお願いします、と続ける声を聞かないよう、亜里砂は荷車の水槽の脇を通り、外階段へと逃げ去った。薬売りが水槽へイモリを投げ戻したのだろうか、後ろ背にばしゃりと水音が聞こえた。

 

 亜里砂は手早く化粧を済ませてしまうと、リビングに戻り、ベッドへ向け声を上げた。

「お前もいつまでいるんだよ! 早く帰れよ!」

 掛け布団が盛り上がったかと思うと、ついと男が顔を出した。行きずりの男だ。男は目を瞬きながら、自分のスマートフォンを見、起き上がり、ズボンを探した。

「ちんたらすんなよ、このダボが」

亜里砂は叫びながら男の背を蹴った。しかし男は反抗する様子もなく、うるさそうな顔を亜里砂に向けると、ジャケットを羽織り、

「じゃあ、また……」

と力ない笑みを浮かべながら手を挙げかけたところで、再度背を蹴られ、微笑みながらも靴を履いて出ていった。

 亜里砂は男が出ていくドアの隙間から、あの薬売りが戻ってきはしないだろうかと聞き耳を立てたが、その心配はないようだった。

 男が去っていくのを監視するように見届けると、亜里砂は素早く自分のスマートフォンを開いた。メッセージが届いている。

「では、十三時に京都駅で」

マッチングアプリは便利な代物だった。特に亜里砂のようなデートで生活費を稼ぐ者にとっては、客の選定や交渉に頭を使わないで済む。自己紹介欄で、デート目的であることと金額を示しておけば、自然と自分に合う需要を集めることができる。見知らぬ人と出会うのは心配も尽きないが、人目のある場所をデートに選べば、滅多なことはしてこない。いざとなれば走って逃げる。体力には自信があった。

 亜里砂は今のところ、動画サイトへのダンス投稿を生きがいにしていた。踊りを動画サイトに上げ、閲覧数やコメントを得ることに、何よりもやりがいを見出していた。

 一方で素顔をインターネットに晒して生きていくということは、安定的な定職を得るには不向きだった。理解を示す職場も増えてきているとはいえ、中の人間はそうそう変わらない。いくつかアルバイトを経験したが、遅かれ早かれ、いわゆる配信者であることが露呈する。いくら気にしないそぶりをとっても、職場の同僚はいやでも好奇の目を亜里砂に向ける。性根が悪いのも中にはいて、それで弱みを握ったつもりになって、いろいろ面倒な交渉を持ち掛けた輩もいたのだ。亜里砂にとって、どう安定した生活費を獲得し、そして配信の活動を続けるか、それがいつまでも悩みの種だった。

 そこでデートで生活費を稼ぐ方法を始めた。売春、出会い系、パパ活。世間ではそう呼ばれ、これも好奇の目で見られるわけだが、

「人の生き方に指図するな」

と、亜里砂は点けっぱなしになっていたワイドショーを消した。子供からの環境で、テレビを点けておく習慣が抜けない。テレビは面白くない。動画サイトを見る方が、亜里砂にとってはずいぶん有意義だった。

 十二時四五分には、待ち合わせの京都駅改札に着いた。時間をしっかり守るのも、親の教育のものだった。約束をしたのなら十五分前に集合する。それもなかなかやめられない。

 京都駅の改札前はいつも人通りが激しかった。とめどなく、どこからともなく人が溢れ流れていく。亜里砂はいつも通り、待ち合わせ前の時間で今日の相手を想像した。どんな人が来るのか。それは準備運動のようなものだった。

 想像はいつも、半分当たり、半分外した。人はそれぞれ個性を持っていて、カテゴライズするのは間違っている、と亜里砂は常々思うようにはしているのだが、しかしデートにお金を払ってやってくる人間は、だいたい似たような人物だった。誰しも生き続けると、いつしか年齢という肉付きのよいマスクを被ることになるのだろうか。と、そう思うほどに、来る客の外見はもとより、言動、背格好ですら、亜里砂には違いが分からなくなりつつあった。つまり、オジサン、と呼ばれる種別がいると思ってしまうほどに、また、呼ばれるにふさわしい人たちが、多くは亜里砂の相手だった。だからほんの個性や違いはあるにせよ、ほとんど予想通りの相手が現れるのである。

 亜里砂はそんな中でも自然体で接することを心掛けていた。自然体を心掛ける、そこにいくらか矛盾を感じないでもないし、心掛けるならばそれはやはり自然体ではないのかもしれない。

 食いぶちのためにできるだけ客には気に入られようとした時期もあった。しかし相手に合わせることを続けていると、代わる代わる迫りくるオジサンたちに、亜里砂は自分を見失いそうになった。自分もオジサンたちの世界に引っ張り込まれて抜け出せないような感覚になる。デートに来るオジサンたちは、残念ながらほとんど定型だった。薬売りの水槽にうごめくイモリのように、ほとんど区別がつかない同種の箱の世界のようだ。イモリたちに腕をつかまれ、水槽の中に引き込まれる。囲まれ、かわいがられ、イモリばかりを眺めているうちに、いつしか自分もイモリになるのではないだろうか。

 ともかく、亜里砂はできるだけ相手に合わせず、素直に、思うまま受け答えすることを心掛けた。嫌われたとして、どうせ一度の関係であるし、なにより自分を見失わない術だった。そしてそれがまた好評であると感じられた。亜里砂の素直な言動に、少なからずオジサンたちは心を突かれ、反応していた。どれだけ彼らが、普段、世の中に生き、そして同時に世から粗放に扱われていたとしても、亜里砂はそんな彼らの反応に、実は、いつも愛情を芽吹かせてしまっていた。これが、生活費の他に、いつまでも亜里砂がデート業を辞められない理由であった。

「人が好き」

亜里砂は就職活動の場で幾度かこの言葉を聞いた。そのたびに、なぜか苛々とし、自分の番になると、

「私は人が嫌いです」

と、衝動的に言いのけて、面接官の眉をゆがませた経験が何度もある。中には面白がって、どうして、と聞かれることもあったが、理由は言いたくありませんと、これも言いのけて、場は白けてしまう。亜里砂もそれを計画していたわけではないから、自己アピールにつながることは当然なく、その後はただしどろもどろになって終わる。もちろん就職活動はいつまでもうまくいかない。

 人が嫌いであるのに、オジサンは愛する。その歪さを感じながら、しかし亜里砂は愛情の根源も、自ら把握していた。それは求められ、かわいがられる喜びか。しかしそれは違った。

 亜里砂のオジサンたちへの愛情は、その人の死を、どうしても思ってしまうからであった。

 最初はどんなに汚く卑しいオジサンが現れても、「この人の先は長くない。もうすぐ死ぬ」と勝手に思って、それで愛おしくなる。その人との限られた時間を大切に過ごしたいと、その場限りは思うのであった。

 中にはそんな亜里砂の愛情を感じ取って、つけあがるオジサンや、最初から救いがないような低俗なオジサンもいるのだが、それはそれで、また愛おしく思い、素直にふるまい、結局オジサンたちを喜ばせてしまう。今日もそんな感じになるのだろうか、亜里砂は嫌気とも緊張ともつかない、落ち着かない心持だった。

 一三時を過ぎて、アプリにメッセージが入った。

「つきました。特徴、教えていただけますか」

亜里砂は手早く返信した。

「赤い髪の者です」

亜里砂は黒のキャスケットを頭から脱ぐと、さあっと周囲を見渡した。赤い髪をしている者は他にいない。

 どのオジサンか、と亜里砂はしばらく目を凝らした。いち早く姿をとらえることで、どのように半日過ごすか、イメージしやすい。それをできるだけ先手に行うことで、問題も避けることができるように思えた。

 が、亜里砂の前に立ったのは、オジサンでも青年でもオバサンでもなく、くりくり坊主頭のスカートを履いた子供だった。

 

「黒滝蓮です。よろしくお願いします」

と、その子供は名乗った。クロタキ、レン。クロタキと聞いて、マッチングアプリの相手だと亜里砂は思った。珍しい、今日の相手は子供かと思うも、子供がそんなアプリを使うはずはない。

「えっと」

と、亜里砂が言葉を失っていると、蓮と名乗る子供は、

「お父さんが、仕事なんです。だからお姉さんにお願いしたんです。」

と、説明を加えた。

「きゅうな、仕事だって」

と、訝しがる亜里砂に補足をする。

「お姉さんに遊んでもらいなって」

 子供が能弁そうなのが幾分安心だった。説明することにためらいはなく、また大人の顔色もよくみている。つまり、亜里砂は都合よくベビーシッター代わりにされたのだ。クロタキ自身が本当に仕事か、それとも遊びかはわからないが、ひどく無責任であることには違いなかった。見知らぬ人間に子供を預からせるのだ。

 亜里砂はアプリのメッセージ画面を再び開いた。相手は沈黙を続けている。それは任せたと言っているようだった。

 それから二人で水族館に足を運んだのは、蓮の希望だった。

「どこか行きたいところある?」

「えっと、水族館に行ってみたいです」

 水族館はデートとして最適だった。下心のある客は昼間ならドライブや温泉、夕方からならクラブやバーに連れて行こうとする。それらを避けるために亜里砂はよく京都駅集合、水族館に行くというコースをとった。水族館なら人目も多いし、家族連れも多い。そんな気分になりにくいし、何より観賞するものがあるというのが、間を埋めてくれるし、相手が誰であれ、いつでも楽しむことができるのだった。

「水族館ね、わかった。……それで、何時に帰るの」

「えーと、お父さんから電話がかかってくると思います」

「お父さんが迎えに来るの」

亜里砂はできるだけ、オジサンであろうクロタキには会いたくなかった。蓮は迎えの質問には何も答えられないようで、少し俯き、それから自分の住んでいるところの庭のことや、同級生が近くにいるが、あまり遊べないことなど、自分が話したいことを話した。亜里砂は蓮の境遇を察し、優しく頷くのだった。

 蓮は水族館のフロントの、青い照明に、眼鏡の奥にある二重の目を光らせていた。かわいいな、きっとこの子は大きくなったらそれなりに美形になるのだろう、亜里砂はそんなことを思った。

 オオサンショウウオ、アシカ、ゴマアザラシ、ペンギン、海水魚の大水槽……。水族館として種類が多いわけではないし、ジンベエザメホッキョクグマ、ラッコなどのスターがいるわけでもない。しかし二人は楽しんだ。蓮は積極的に声を上げて、水槽のガラスに張り付くような行動はしなかったが、それでも目は輝いていたし、驚くような、見とれるような、そんな様子でガラスを眺めた。それでも預かられているという意識があるのか、もともとそういう性格なのか、幾分ガラスからは離れて眺めることを守り、別の子供たちの集団が、力強く二人を押しのけて前に出ると、さっと体を引き、半ば隠れるように彼らを見るのだった。

 白や青のライトに照らされる、幻想的なクラゲの展示を抜けると、後はもうおしまいで、残りは売店と簡単な食事ができるスペースが残るばかりだった。

 その軽食スペースの脇には、壁沿いに小さな水槽が並べて展示されており、中にはドジョウやサワガニ、イシガメ、ゲンゴロウなど、淡水生物が並んでいた。環境破壊による、希少生物となった生きものたちの紹介らしい。ほかの展示に比べるとずいぶん地味で、展示場所も軽食のついでのような感じだから、先に売店のほうに行くか、引き返して出口の方に向かう客も多かった。

 二人は壁に沿って歩いた。小さな水槽はさながらマンション部屋のように、また小さな住人が、それぞれ姿をその中に潜めていた。迫力も動きも少ないから、亜里砂は流すように歩いた。蓮も一心に顔を水槽に向けながら、それでも亜里砂の歩みを追うように着いてくる。

 そして壁の一番端に、アカハライモリの展示水槽があった。亜里砂は少しぎょっとした。イモリを握った薬売りを思い出した。水槽にうごめく数十のイモリを思い出した。が、その水槽には、薬売りのものと違って、数匹しか入れられていない。そしてどれも、流木や石影に隠れているようだった。

 亜里砂が眉をしかめながら水槽を覗いていると、流木の下から一匹のイモリがはい出てきた。ゆっくりと、しかしまっすぐに、水流に抗い、小さな手足を左右交互に動かし、砂利を掴み、掻き、ガラス面のほう、亜里砂の方へと近づいてくる。

そして気が付けば、それに続いてどこからともなく二匹目、三匹目と、イモリは陰からはい出てきていた。どれもガラス面に向かい、亜里砂をめがけやってくるように思えた。

 亜里砂はイモリのどこか不気味な意思を感じ、そっとガラス面から離れた。十分遊んだ。もうそろそろ蓮の迎えが来るかもしれない。帰ろうと、蓮を促すため、その方を見るも、蓮は依然として、顧みることなくイモリの水槽に張り付いている。

怪獣とか恐竜に似ているから、きっと子供は気にいるんだろう。亜里砂はそう思い、ソフトクリームでも買ってやるかと、微笑み、売店へ向かった。売店は、壁展示のすぐ横に続く。

 売店の店員と金のやり取りをして、カップコーヒーとソフトクリームを両手に、再び水槽を見た。しかし蓮の姿は、その場所からいなくなっている。はて、と思い、幾つかテーブルが並ぶ軽食コーナー全体を見渡した。親子、カップル、友達同士。ちらほらと席は埋まっているが、どの席にも蓮の姿は見当たらない。気のつく子供だから、売店に並ぶ亜里砂を見つけて、よい場所でも探しに行ったか、と思い、外のテラスや、クラゲの水槽まで戻って探した。しかしどこに蓮はいない。

「迎えが来たのかな」

亜里砂はそう呟き、壁の水槽まで戻った。テーブルには依然として、数人同士のグループが集っている。そこにソフトクリームが垂れ、亜里砂の指先にヒヤリとした感触を与えた。亜里砂は驚いたようにそれを舐め、それで手に持ったまま帰るわけにもいかないから、隅の、四人掛けのテーブルに一人で座った。

 冷たいソフトクリームを舐め、また熱いコーヒーを交互に含み、手持無沙汰にイモリの水槽を眺めた。

「帰れた?」

人知れず、そう思った。イモリたちはまた流木の陰に隠れたのか、姿は見えない。

 

 数日後の昼過ぎ、亜里砂はまたクッションに体を任せていた。

 ベッドの掛け布団は今日も男の形に膨らんでいる。テレビは相変わらず点いたままだった。亜里砂はスマートフォンを片手に、次の投稿を思案している。曲は何を選ぼうか、今度は振り付けを自分で考えてみようか。

と、遠くから鐘の音が聞こえ始めた。

 がらーん、がらーん。

 ちりりん、ちりりん。

 亜里砂は猫のようにクッションから飛び跳ねると、バタバタと慌ただしく、扉の方へ駆けていった。 終

魑魅

 

 加賀慎矢と藤崎里留が逢引を始めたのは高校三年の初夏だった。

 私立の男子校の特進クラスだった二人は、帰りの電車が同じ方向ということから、いつしか遊ぶ仲になって、授業や膨大な宿題から逃避するように下車し、ファミリーレストランやカラオケ、ゲームセンターに通い始めた。しかし小遣いが限られる二人だから、ある山寺の、さらに奥に進んだ山中を屯場にすることが常になった。

 肩を並べ楠や楢の木の足元に腰かけているうち、それぞれの進学の悩みや家庭、学校の愚痴などをこぼし、話は回を重ねるごとに深まり、下の話や好きな女優を語り、写真や動画を一つの画面で見ているうちに、肩が触れ、手が触れ、頬が触れ、次第に制服のまま抱き合って、限られた放課後を過ごす仲となった。

 どちらからか、ということはなかった。二人で自然とそうなった。慎矢は思春期のひどいニキビ面だったが、里留にとってはそれすら魅力に覚えた。校則があるから二人とも襟足をきれいに刈り上げており、慎矢は終始その髪型を嫌ったが、彼は運動部で背が高く、その髪型が一番似合うと、里留は秘かに思っていた。

 山中で寄り添い眠るようになってから、里留はそれがどういう関係なのか、考えることが度々あった。友人なのか、恋人と言えるのか。答えは出ないが、ただ他では得られない魅力と温度である、ということだけは感じていた。そして慎矢が、その時間を互いに作り合う、特別な存在であることは、言うまでもなく自覚していた。

 そうと自覚すると、意図せず授業中でも彼の背中を見つめてしまう。休み時間になれば彼の動きを目で追ってしまう。彼と別の友人がじゃれていれば、いくらか嫉妬も覚えた。

 里留はいつしか、漠然と流れつく情報に、それが同性愛であるかもしれないと意識し始めた。同時に戸惑いもした。それと自覚して、さらに自発的に調べもした。

 自分はやはり同性愛者かもしれないと感づいてから、同性愛者である自身を意識するようになった。ことあるごとに、自分は同性愛者であるということが、脳裏によぎる。体育、健康診断、昼食、放課後。それまでのささやかな時間が、急に異なる鼓動を伴うようになった。

 胸に秘めたその自意識は、今までの生活には無く、様々を色づけた。それは怪しげで、危なげで、かつ温かく美しいものだった。それを秘める自分も同時に、尊く、特別で、他の誰も手にできない、煌びやかな宝珠を抱えるようだった。

 里留は次第に変化した。それと意識しだしてから、慎矢だけではなく、別の友人と話すときも、いやにどきまぎするようになった。それまでなら気にならなかったささやかな触れ合いや、友人のやさしさなどに、機敏に反応し、素直に応じられず、人知れず顔を赤らめるようになった。

 

 

 ある日、慎矢に核心を迫られた。

二人はいつものように、寺の奥の、山中の楢の木を目指していた。

「どうしたの、最近」

どうしたの、という質問に、里留はたじろいだ。ずるい質問だと思った。

「なにが」

「なんか、元気ない?」

「別に、普通」

里留は自分のそっけない声に自身でも気が付いて、余計に取り繕うのが気恥ずかしくなった。慎矢の目を避けるように顔を逸らす。

「なんか、変だと思って。本当に何もない?」

里留はふてくされたように頷いた。繋いだ慎矢との手が、先ほどからゆるみ、解けそうになっていた。人差し指と中指の先だけが、かすかに引っかかり、保っていた。

 慎矢とはそれまで、ふたりの関係を明確な言葉で示したことはなかった。ただ一緒に帰り、談笑のうちから、どちらからともなく電車を降り、山の中で触れ合い横になる。その行動だけが、二人の目的であり、確認作業でもあった。

 二人は目的の楢の木の足元で横になった。二人とも歳がら性の知識は十分あった。だから里留はなおさら落ち着かなかった。手をつなぎ、時に抱き合い横になる。それで満足する自分と、一方でそれ以上に湧き上がる、心臓の繁吹くような熱を抱えた。それが何とも快かった。

 自分は同性愛者だ、君たちに嫉妬を感じている。そんなことを言えば、この経験は、約束のない機会は、すぐに失われる心配があった。

「明日から、予備校に行くんだ」

里留が何も言い出せない先、慎矢が口を割った。里留は面食らったが、

「そうなんだ」

とだけ答えた。慎矢はそれ以上何も言わない。慎矢の言葉の真意が、里留はつかめず、じれったかった。

山中は静かだった。鳥の鳴き声や木の葉ずれの音が聞こえてもよかったが、風すら吹かない。ただ山の土や、シャツにしみた汗から立ち上る香りだけがしていた。

「帰ろうか」

幾時が経ったのか、日が傾き始めた頃、慎矢が唐突に立ち上がった。里留はほんの少しの間、仰向けのまま、斜陽に陰り、また所々光る、慎矢の横顔を眺めた。

 二人は並んで山道を降りた。暮れだすと暗がりは早かった。冷気も山頂から流れ漂う。それでも里留の歩みは遅く、慎矢の踵ばかりを見て歩いた。

そこで、道の中ほどに、小さな黒い塊が落ちているのを里留は見つけた。慎矢は気づかず跨いだが、それは小動物のように見えた。黒とグレーと茶色が混ざったような短い毛で覆われている。目は小さいのか、毛で隠れて位置はわからない。ピンクがかった小人のような手足、頭からは鼻だろうか、手足と同色の突起が突き出ている。外傷は見当たらない。行く道にはなかったから、きっと先ほど息絶えたのだ。

「なんだろう。ネズミかな」

モグラだよ、たぶん」

しゃがみこんだ里留の頭の上から、慎矢は言った。

「死んでるのかな」

「たぶん、死んでるね」

「どうする?」

どうするもこうするも、と、しかめ面を慎矢は見せ、進むそぶりを示したが、しゃがんだまま見上げる里留と、そして小動物とを交互に見たかと思うと、

「埋めてやろう」

と、ため息交じり、肩からずれた鞄紐を上げ直した。

 スコップなどは当然持ち合わせていなかった。素手で拾おうとする里留を慎也は強く止め、代わりに鞄から大学のパンフレットを取り出すと、そこに動物の体を器用に乗せた。

 楢の木に戻り、その足元に穴を掘った。初め朽ちた枝を使ったが、じれったくなって、二人は素手で穴を掻いた。できた穴に動物を放り込む。転がるさまは、くたくたとして力なく、やわで、それは生きていたんだなと、里留はとりとめなくそう思った。

 

 

 高校を卒業し、慎矢と里留は別々の大学へ進んだ。

 里留は入学早々、掲示板のポスターを眺め見たのち、性的マイノリティのコミュニティーサークルへ入会した。

 そこでは性的少数者と自覚する者や支援者など様々な学生が集まった。

 サークルの活動は主に、構内のコミュニティールームを定期的に借りて、交流や意見交換にとどまらず、理解を広めるセミナーの計画なども行った。だいたいは、前もって決められた発表者が、自身の体験や活動の発表を行い、意見を交換するという形で行われていた。

 里留は新参者であるから、最初の数か月はただ輪の一人として、皆の話を聞くだけにとどまった。差別、迫害、偏見、蔑視……。会は毎回悲傷な空気が漂った。同時に理知的な議論も行われた。そこでは皆が寛容だった。そして皆、思い思いの愛称を使った。アキ、ユウ、マコ、ユキ……。

 ただ、里留はそれらの輪の中に身を置きながら、どこか居心地悪く思う自分を感じていた。周囲が頷きながら共感を示す中で、里留だけは戸惑いに近い目を周囲に配っていた。

 ある日の会の帰り際、次の発表は里留がしてみないかという話を持ち掛けられた。吾妻という聡明そうな先輩だった。会の運営の一端も担っている。

 いかんせん、機微な内容を扱う活動だから、入会当初はなぜそこに足を運んだか、その理由を表立って尋ねようとしない、そんな配慮も流れていた。とりわけ里留は積極的に自分を語らない様子を示していたから、自然と会のメンバーは、里留の内面に対しての詮索を敬遠していたのだろう。

 しかし個人の吐露と共有、そして理解に理念を置く活動の継続もあるから、同じ者ばかりが話をしても発展は臨まれないという見解もあり、里留は声を掛けられたのだった。

「そろそろ慣れてきただろうから、藤崎さんの話もみんな聞きたい頃だろうと思って」

吾妻はそう言う。吾妻も藤崎も、愛称は苗字を使っていた。

 藤崎の煮え切らない様子を見て、吾妻は幾分眼鏡の奥の眉をひそませた。

「いや、当然、話したくないなら無理しなくていいよ。タイミングってあると思うし」

「でも、どこかで自分を出さないと、いつまでも苦しいままだよ。人間ってそんなに一人じゃ抱えきれないし、それに誰かを助けることにもなるんだ」

「最初は簡単でいいよ。自己紹介ぐらいでさ。新しい人たちと合わせて発表にすれば、それほど時間もかけずに済むだろうし」

「そうだ。今から少し時間あるかな。もしよかったら発表の原稿書くの、手伝うこともできるけど」

いろいろ言葉を掛けられた。里留は顔を強張らせながら了承した。

 

 

 里留は吾妻のアパートに誘われた。

 部屋はベッドとローテーブルが置かれたワンルームで、ゴミなどは見当たらなかったが、衣類やブランケット、毛布の類が部屋中に敷き詰められ、投げ出され、乱雑としていた。

 里留は毛布の隙間などを探して踏み入ると、

「気にしないで、踏んじゃっていいから」

と吾妻は笑う。

「部屋が埋まってると安心するんだ」

吾妻はそう言いながら冷蔵庫からペットボトルの茶を二本取り出し、テーブルに置いた。里留は勧められるままテーブルのそばに座り、間を埋めるように部屋を見渡した。乱雑な床とは別に何もない白い壁、参考書などが詰まる、床の隅に置かれたカラーボックス。ベッドのヘッドボードでは、加湿器が、吹き上げる白い湯気と共に妖艶な香りを漂わせていた。

「早速始めようか」

吾妻は茶に口をつけると、苦しそうな顔をして一口飲んだ。

「このサークルに来たってことは、少なからず自分が性的に少数派だと感じているから  だと思うんだけど。……ぶっちゃけ、藤崎さんはどうなの」

「俺、俺ですか」

里留は愛想のよい苦笑いを浮かべた。

「俺は、正直、すみません。よくわからないんです」

里留は茶には手を付けず、胡坐の上で手を組みながら嘆くように言った。

「ああ、じゃあQってこと?」

吾妻は再び茶を含みながら、慣れたように促した。

「Q、ですか」

Qと言われて、里留は少し顔を曇らせた。そうして俯いたままの里留に、どこか手ごたえを感じず、吾妻は再び尋ねた。

「どうしてわからないって、思うの」

吾妻の問いかけに、慎矢の姿がちらつく。里留は確かに慎矢を特別に思った過去を再認した。しかしそれで自分が性的少数派だとするのを、素直に容認できない自分もいた。だとしても、それをここで胡麻化してしまうのは、それはそれでいけない気がした。

「性的マイノリティってのは、一体なんなんでしょうね」

沈黙ののち、里留はそうこぼした。唇が震える。

「俺は、友達が好きでした。」

里留は絞り出すように続けた。そして意図せず涙が溢れた。吾妻はうん、うん、と言ってうなずいていた。

「でも、男性が好きなわけじゃないんです。……なんなんでしょうね。なんで少数派とか、アルファベットで、俺たちは呼ばれないといけないんでしょうかね」

それは世間の理解や、便宜上、云々と言おうとして、吾妻は口をつぐんだ。

「ここ数か月、俺は皆さんの話を聞いてきました。」

里留は沈黙する吾妻を前に、続けた。

「正直言うと、俺はどの話にも共感できなかったんです。じゃあ俺は、なんなんでしょうか」

里留の目から涙が幾筋か流れ落ちた。

「……もちろん、一言で自分のことを決めるのは難しいよ。誰だってはっきりと自分の指向や表現を分けることはできない。性指向はグラデーションでもあるし、指向がないことだってそれもひとつだ。共感できないのは辛いし孤独かもしれないけれど、それが君なら、それを尊重し合えるのが僕らの活動なんだよ」

「そう。……そうなんですか」

吾妻の優しくも確かな言葉に、里留は幾分安心したように顔を緩めた。

「うん、何もおかしなことはないよ。大丈夫、だから話して。君が好きだった人の、話の続きを」

吾妻の言葉に、里留は静かに顔を上げると、口を開きかけた。しかしそれをついぞ止めたかと思うと、緩んだ表情が見る見るうちに強張り、険しさを帯びた。そしてまっすぐ吾妻を見据えたまま、

「続き? 続きなんてないです。続きなんか」

と言いのけ、ゆっくりと首を振った。

 唐突な変化に、吾妻は面食らった。里留の言葉は、それまでとは変わり、妙な冷気をはらんでいた。

 続きはないと遮断され、吾妻はそうか、と微笑んだ。しかしすぐ、鋭い目を里留に向けた。

「でも、僕は君の力になりたいと思っているんだ。それに君が皆に話してくれれば、それで助かったと、思ってくれる人もいるはずなんだ」

吾妻は言葉に熱を込めて里留へ投げかけた。しかし里留はもう吾妻とは目を合わせず、横を向いたまま、もう柔和な表情を作っていた。

「すみません、今日はもうこれで、帰りますね」

と、にこやかに笑ったかと思うそば、里留は毛布の上に立ち上がった。そして吾妻が何も言えず、口を開けたまま唖然としているうち、里留はゆるゆると、音もなく部屋を出ていってしまった。

 外は月夜だった。春の月夜はうすら寒く、また冷気も夜気も里留に迫るようで、里留は慎矢と過ごした山を思い出していた。そしてまた、埋めた小動物のことを思った。もうすぐ一年経とうとしている。あの死骸は土に溶けただろうか。土に溶けたら、どこへ行くのだろうか。

 里留は吾妻の部屋を想像した。

 想像の部屋には先刻に続き、里留と吾妻が向かいに座っている。吾妻が先ほどと同じ言葉を繰り返した。しかし幻影の里留は、柔和にやり過ごした先ほどとは異なり、テーブルを叩かないばかりに体を起こし、声を上げていた。

「馬鹿な事言うなこのロクデナシが! お前らがでしゃばるから無くなったんだ! 返せ! この野郎!」

「お前それ、差別だぞ!」

吾妻と里留はつかみ合い、毛布の上を転げまわった。

 月夜の里留はとめどなく涙を流した。

「二度と口を利けなくしてやる! お前も埋めてやる!」

幻想の声と涙が流れ続けた。滴る涙は頬に、鼻に、口に流れ、そして幾つかはアスファルトに落ち、人知れず、月光と共に下へ下へと染み入った。

 

 

 大学を卒業後、里留はどこにも就職せず、またどこにも帰らなかった。

 バーテンダー、クラブボーイ、ホテルマン、シティサウナ……。一人暮らしの生活のため方々勤めるも、どれも長くは続かなかった。ゆえにか、どの職場でも、はっきりと里留を覚えているものはいない。

 里留はついに人と接する仕事は諦め、パソコンを使い日銭を稼ぐ生活に至っていた。商品記事の執筆、アンケート、転売、詐欺メール、アカウントの売買。

 そんな生活が続いたある日、里留は依頼を受けた男性用化粧水の記事を、たまには外で書こうと思いたち出かけた。

 喫茶店は昼前で混んでいた。里留は肩まで伸ばした髪で心持顔を隠しながら、通された奥の席に着いた。

 ホットコーヒーが席に届き、一息ついたところで初めて隣の席が訝しい雰囲気であることに気が付いた。二人連れで、一方は壮年の女性、向かいは若いスーツの男性だった。浮気かと耳を傾ければ、どうやら宗教の勧誘に聞こえる。いつか記事にする参考になればと、里留は悟られぬよう耳を澄ました。

「……でね、山の神様がウチの先祖らしいの。夏至を越えてから、どうやら本当にそうなんだって気づいちゃって。私の周りがどんどん変わっていって。愛の人に振り分けられるっていうか。引き寄せってあるでしょ、あんなもんじゃないわ。意識の集約、最適化、そんなフェーズに時代は移行しているのよ」

「ええ、僕も聞いたことあります。でも実際ちょっと遅れてるんでしょ?」

里留は前髪の隙間から横を盗み見た。聞き覚えのある声。スーツの男の横顔は、慎矢のものであった。

「そう、当初の計画よりも遅れてるみたい。だから、いま時代が計画に戻そうと急激に動いていて。やっぱり出会うべき人に出会うというか。めぐり合うべき人にはどうしたってめぐり合うのよ。どこに離れたってね。ほら、私ちょうど辰年でしょ。それでね、私の肩に白い蛇が見えるって。普賢菩薩の、あれの眷属がちょうど白い蛇らしくて……」

壮年の女性は上質な雰囲気を纏っていた。顎ほどの髪はきれいにウェーブし、夏物の黒いカーディガンに身を包んでいる。耳飾りはささやかで、ごく小さな真珠が幾つか並んで下がっていた。

「……あの映画、僕も見ましたよ。出てましたよね、富士山。」

慎矢は前髪を後ろにきれいにまとめ上げ、左右を刈り上げる髪型をしていた。

「そう。私も気づいちゃった。大山の神は大蛇らしくて。やっぱりメッセージを送ってるんだなって思うの。」

「マスコミは孤立させようとしますからね」

「でも真実が暴かれるわ。誰でも力は持っているのよ。けど人々の覚醒が恐ろしいから、マスコミは孤立させようとするの。私が第一覚醒者で……」

里留は頭が痛くなり、ものの十数分座るだけなのに、溶けるような妙な体の疲れを感じた。途切れることのない彼らの話は、一見繋がっているようでいて、終始支離滅裂だった。それにも関わらず、彼らは次々と話を繋げ、それはどうやら互いの理解と共鳴に向かっているようだった。壮年の女性も慎矢も、興奮と高揚に声が次第に上がっていった。

 山の神、精霊、シャーマン、仏、日本神話。話は様々な垣根を越え、混ざり、そして各個人に集約していった。

「……けれど山の神はもう力を失いつつあるんじゃないですかね。ほら、狩猟時代から農耕時代になって。現代では山を切り開いている」

慎矢はアイスコーヒーに手を付けず、熱心に会話を楽しんでいた。慎矢の口から山という言葉が聞こえるとは思わなかった。里留は二人で過ごした山を、そして二人で埋めた小動物に思いを巡らし、人知れず、突き抜けるような鼓動に打ちひしがれた。

「……でもね、私はやっぱり回り回っていくと思うの。質量保存の法則ってあるでしょ。切り開かれた山だって、消えることはないし、ほら、素材とか、私たちの周りに使われることだってあるじゃない」

「なるほど、山の神や魔物は姿を変えて、今、僕たちの周囲に再び集まってきているということですね」

慎矢は興奮気味に声を上げた。女性はその通り、というように、深く頷きながら、厚みのある唇をストローにつけた。

「でも、神は意識の集合だけど、魔物は個人の記憶よ」

慎矢がひとり感慨に微笑むところ、ストローから唇を離した女性が、刺すように言い放った。

「記憶、ですか」

「ええ、質量保存の法則よ。ほら、原子とか、分子は消えないじゃない。形を変えて移動してるだけ。かつて脳だった元素も消えることがないなら、記憶も消えずに移り漂うのよ。それが魔物」

へえ。と慎矢は頷いたが、その固い微笑には理解が見えなかった。

「気を付けた方がいいわ、魔物には。願いや祈りじゃなくて、思いで現れるもの」

慎矢は、女性の唇が薄ら笑うのと同時に、ひやっとした冷気を頬に感じ、咄嗟に横を見た。

 しかしどうしたのだろう、先ほど来たと思っていた隣の客の姿が、もう見えなくなっていた。慎矢はふとしかめ面を浮かべ、そして再び女性を顧みた。

「それでね……」

女性はそれに構わず話を続けた。肉付きの良い指が、ストローを撫でている。

 

加密列

 金がなく飢え死にしそうになれば、私も生ごみを漁り、犯罪を選ぶのだろうか。

いや、何もせず、死んでいくほうがよいと、点けっぱなしの報道を横目に薫は思った。

 家賃が払えず、光熱費も払えない。ただ床に寝そべって、払え払えと急き立てられ、それでも寝そべっていると、ついに立ち退けと部屋から放り出されて、それで打ち上げられた魚のごとく、道端に倒れたまま、冬の寒さや飢えに死ぬ。それもありだなと思った。生きるためにという口実で、人に迷惑をかけるぐらいなら、汚れた仕事を請け負うぐらいなら、生きるためと、それならば、ただ外に放り出されて、のたれしぬ、というのも、ひどく自然で、作為的ではなく、それでこそ生き物のようにも思える。

 ラスク、がしっぽを振りながら、膝の上に手を掛けた。ジャック、ラッセル、テリア、に見える、保護犬。時計を見ると、御飯の時間、よりも一五分ほど早い。

 貧乏など、学生の頃はぜんぜん気にならなかった。食費を削っても平気だったし、スナック菓子の生活でも体を壊さない。着るものも、古着が一番似合うと思ったぐらいで、本当に食べるものがなかったら、友達やバイト先など、いくらでも頼ることができた。

 三〇の半ばを迎えた今、不思議と、貧乏になって、頼れるところがどこにも見当たらないことに気が付いた。年齢だろうか、社会的な、経験によるプライドだろうか、食べるものがないから少し分けて、などと、知人には決して言えないような気がする。そうするぐらいなら、やはり、のたれしぬ、ことを選ぶのかもしれない。

 薫はペット皿にドッグフードをざっと流しいれた。ラスクはそれにがつがつと食いついた。本当に食べるものがなくなれば、ラスクの御飯を分けてもらおう、そんなことを考えた。まだ働いていたころ、ちまちま買いに行くのが億劫で、買いこんでいる。ラスクの小ささなら、一年は持つほど押入れに残っている。

 薫は頭痛が原因で仕事を辞めた。そんなことで、だとか、医者に行けば、だとか、いろいろ言われたが、仕事を辞めれば頭痛が止むと直感的にわかっていた。また、仕事を辞めなければ頭痛は止まないと、どこかでわかっていた。

 ひどい上司も、辛い仕事も、あるわけではなかった。ならばなぜ、次の当てはあるの? それもない。どうするのよ? どうしようもない。やっていけるの? やっていけない。

 薫は通帳を開いた。退職金は一〇年勤めて百万をちょっと超えたぐらい。しかしもうそれも跡形もなくなりつつあった。

 学生のころ、興味本位と貧乏があって、怪しいマッサージ店で働いたことがあった。派遣型のマッサージで、顧客の自宅に赴き、マッサージをする。丈の短い黒いスカートが制服だった。

 源氏名はカミルにした。バイトの面接は中国茶の喫茶店で、メニューにあった加密列茶(カミツレカモミールティー)という表記が目について、少し気に入った。本名に近い源氏名はやめた方がいいとマッサージ店の店長に言われたが、薫はそれでいいと思った。近いとは思わなかったし、一方で、近ければ近いほど自分から遠くなるような気もした。加密列茶が中国茶かどうかも疑わしくて、それも面白かった。

 数か月でマッサージのアルバイトはやめた。正式にやめたわけではないが、面倒になったのと、恋人ができたのとで自然といかなくなった。

 けれど、本当は人気がなかった部分が大きい。ウェブサイトに書かれた口コミは、サービスが悪いだとか、愛想が悪いだとか、かわいくないだとか、脚が汚いだとか、どこぞが黒ずんでいるだとか。そんなこと、他人に言われる筋合いはない。人気もやる気も、元よりなかったのだ。

 何度か店長から電話があったけれど、それにも出なかった。しばらくたってサイトを確認してみると、それでもカミルは在籍となっていて、手の平で顔を隠した見覚えのある女がいつまでも残っていた。

 今でもカミルは居るのだろうか。サイトと客の記憶に、生きているということになるのだろうか。私が、のたれしんだ後も。

 薫はそう思い、ふとサイトを見に行きたくなったが、もし残っていれば面倒な気持ちになるだけだろうと、やめにした。

 

 ラスクが再び膝に両手をのせて、しっぽを振っている。薫は時計を見た。散歩の時間の、一五分ほど前だった。

 立ち上がり、支度した。上着とキャンプハットをかぶり、ラスクにリードを付け、アパートの下に出た。

 揺れ動く下半身とか細いしっぽ前に見ながら、もしドックフードまで尽きてしまったなら、この子はどうするだろうと考えた。しかしすぐ、ラスクならどうにでもやっていけそうだと思った。落ちているものは食物、それ以外でもなんでも口にする。野良でも腹を壊すこともあるかもしれないが、飢えて死ぬことはないだろうと思った。この子は生きているのだから、生きていける、と、妙なことを思った。寒さも天然の布団を纏っているのだから、くるまってやり過ごすのだろう。

 ラスクは先行して決まった散歩ルートを通った。寒々しい日だった。冷たい風に帽子が翻るのを抑える。ラスクは風に毛皮を揺らし、平気そうに歩いた。

 坂道を下った突き当りに、広い児童公園の脇道に出る。その脇道も坂道で、下り坂と下り坂とが直角にぶつかるところだった。見通しが悪いからか、オレンジのカーブミラーが設置されている。そこで用を足すのがラスクの習慣だった。

 ラスクが足を上げている間、そこで小学生に出会った。散歩ルートや時間はほとんど変えないのに、今まで見たことのない小学生だった。彼女は公園の脇道を上ろうとするところだった。水色のランドセルを背負って、真っ白な汚れのないフリースを着て、濃い緑色のスカートをはいている。白いソックスに、ピンク色のスニーカー。

 いいなと思った。きっと大切に育てられているに違いない。清潔に洗濯された洋服。汚れを知らぬ無垢な脚。が、その時薫はハッとして、そばを通ろうとする少女から咄嗟に顔をそらした。少女の目が、ひどく大人びて、年寄のように見えたのだ。

 少女と薫はやがてすれ違った。その際、薫は横目でさっと少女の顔を再度盗み見た。目の周囲だけが、ひどい色素沈着を起こしている。二重のはっきりとした、涼しげに垂れる大きな目だった。前髪はそれを隠すことなく、さっぱりと眉上で流されている。

 少女はすれ違う間際、ふっと目を細め、微笑んで見せた。

 薫が息を飲む間に、少女はもう坂を上り始めていた。薫は振り返って少女の後ろ姿を見た。水色のランドセルと、深緑のスカート。薫はどうしてか、唐突に、そのスカートの香りを感じたような気がした。甘くて酸い、さわやかな果実の匂い。あの中国茶喫茶のカミツレの香りだった。

 ぼんやりと振り返ったまま立ち止まっていると、ラスクがリードを引いた。見下ろすと、用事は済んだから、早くいこう、という顔をしている。

 薫はラスクに引かれるまま前を向き、歩き出した。黒ずんだ目がどうしたというのだ。そう言い聞かせた。

 しかし薫は、少女の黒ずみに、不幸を見出せずにはいられなかった。いや、少女の不幸を望んで止まない自分がいた。自分の体の各部の黒ずみと、少女の目の周囲の黒ずみは、きっと同じ道のりを辿るはずだった。であるのに、一方で少女をうらやむ自分がいた。

 薫は歩きながら、なぜか、少女の目の周囲の黒ずみが、自分のせいであってほしいと思いついた。ならば、少女の目の周りにクリームを丁寧に塗ってやりたい。そして一緒に風呂に入り、優しく抱きしめてやりたい。ささやかな冗談を交わしたりして、笑い合いたい。

 薫は突如沸き起こるそんな衝動に、せめて挨拶だけでもと、閃いた。声をかわしたい。自分を認知させたい。あなたを認知していると伝えたい。と、少女を再び振り返った。

 坂の中腹に、水色と深緑、が見えた端に、ぐらっと視界に力がかかった。腕が引かれる。慌てて前を見ると、ラスクの背、肩が筋肉に盛り上がって、首輪をもって必死にリードを引いている。首輪がのどに食い込んで、息がゼイゼイと鳴っている。待って、という間も、それでもラスクは顧みずに地面を掻いた。

 何か見つけたんだ、と薫も歩を合わせて駆けると、ラスクは走り出したのち、地域のごみ置き場で立ち止まり、熱心に臭いを嗅いだ。ラスクの鼻先には、黒くなった林檎の皮の欠片が地面にへばりついている。薫は顔をしかめてラスクを引き離すと、やっと再び少女を振り返った。

 そこにはもう少女の姿は居ない。坂道を折れて曲がったのだ。どこかでそれも予期していて、落胆ともあきらめともつかぬ気持ちのまま、顔を戻そうとした。が、そのときふと、坂と坂の交差に立つカーブミラーに目が付いた。

 薫はほんの少しの間、その鏡面から目が離せなかった。鏡面の中、あの少女が、薫のほうをまっすぐに向き、薫がそちらを向いたとわかると、ゆらゆらと手を振ったのだ。

 薫は反射的に手を挙げた。そして心持、手首を揺らし、鏡面の少女が振り返り、背を向けて駆けだすのを見届けると、力なく手のひらをすぼめた。

 

 それから少女と出会うことはなかった。

 一方で、それからラスクの拾い食いがひどくなった。何か見つけると、その小さな体躯からは考えられないほどの筋力で薫を引き、素早くゴミに食いついた。柿の実、蜜柑の皮、ポテトチップスの欠片、ラーメンの残り汁。そしてついに、食物を包んでいたであろうビニール片を飲み込んでしまって、腸閉塞となった。治療と通院の費用が必要になった。

 頭痛は休暇旅行にでも行っていたように戻ってきた。薫は下町の書店へと求人誌を求めに行った。

 その帰り、日和が好いからぶらぶら歩いていると、中国茶という看板を見つけた。引かれるように中を見た。あの喫茶店ではない。日本茶葉を取り扱う店で、その中にハーブティも揃えるようだった。中に入って、加密列を見つけた。裏表紙を見ると疲労回復、鎮痛作用とある。これは、と思い、茶葉を買った。

 帰宅し、さっそく茶を淹れた。一口飲む。林檎に近い甘い果実の香りがしたが、味は少々苦かった。すぐマッサージ店のことを思い出した。サイトを調べに行くと、驚くことにカミルという名前と写真は残っていて、未だに出勤していることになっていた。一〇年以上も前からずっと出勤を続けているのだろうか。そんなことはない。カミルは薫だ。出勤などしていない。

 薫はまた一口加密列茶を飲むと、店のサイトの番号に電話を掛けた。削除を依頼しようと思った。頭痛はない。鎮痛作用が効いているのだろうか。薫は微かな活力と義憤が沸きあがるのを感じていた。

 受話口に男が出る。あの時の店長なのかは分からなかった。薫は開口一番、過去に働いていた者だが、写真がまだ使われていることを伝えた。

 源氏名を伝え、男の返答は意外だった。カミルはまだ働いているという。今日も出勤予定だと付け足した。

「いたずらですか? 営業妨害は止めていただきたいですね」

男の声は薫の返答を待たず、威圧的に落とされた。

「いえ、そんなつもりは」

薫の声は震えた。後が続かない。

「……ご予約、されますか」

男の威圧的な声は、意外なことを続けた。そして滔々と施術時間と料金を述べる。一時間八千円が、安いか妥当なのかは分からなかった。

「体の痛みや、疲労感、コリをほぐしますよ。皆様満足されます」

「あ、あの」

薫は言葉を探した。男は返答を待つのか、無音となった。薫の手元の湯呑から、ゆらゆらと白い湯気が上る。あの香りはもうしない。

 

 

 

万年茸

 

 日が暮れるのが早くなった。

 絢菜はふた吸いばかり吸った煙草を灰皿へ落とし込み、駆け足のところを早々、赤信号に止められた。それで手持無沙汰に、そんなことをあらためて思った。

 目の前の交差点では帰宅時間とも相まって、乗用車やバス、タクシーなどの前照灯が、信号機に合わせ、多様なエンジン音と共に目まぐるしく行き交った。また、正面に見える郵便局では、しきりに郵便の赤いバイクが出入りしている。

郵便局の道なりに行き当たる踏切は、警音を鳴らし続けていた。その向こうでは夜空が、まだ微かに紅色を残している。冷たく強い風が吹いた。絢菜は紫のマフラーを襟もとで強く抑えた。

 交差点の先、踏切までの道には、郵便局に続き片側の道に連なっていくつか小店が並んでいる。古本、理髪、額縁、酒屋、学生服。どの店も時代に置き忘れられたように、小さな店構えはどれも一様に古びている。いくつかはシャッターが開いたところも見たことがない。その古めかしい並びに、暖簾も出さない小さな飲み屋があった。いわゆる隠れた名店ということらしく、上司の小東は好んでそこに通っているらしい。今日は絢菜も誘われた、というよりも絢菜のほうから誘ったに近いかもしれない。信号が青に変わった。絢菜は駆け足に交差点を渡った。

 絢菜は入社三年目で、職場では未だ若手という位置づけだった。一方上司の小東は春先に都市部の支店より転勤してきて、職場の中では日が浅い方であった。絢菜とは課も異なるから業務上の関りはあまりないが、年齢も二回り近く離れているのに、不思議と馬が合うというか、たとえ絢菜が何をしてもきっと彼は怒らないだろうし、彼は絢菜が怒るようなこともしないだろうといった、不思議な直感の安心を絢菜は抱いていた。きっとそれを小東も感じているだろうと、これもまた直感のようなものを内心いだき、日ごろから何かと声を掛け合う仲になっていた。ある時ふと小東がこの店に通っていることを聞きつけて、もともと入りにくい店構えでもあったから、興味や経験というところで、この日はちょっとだけ飲みに行こう、という話になった。

 絢菜は店の前に来ると、古木枠のガラス戸をそっと引いた。むわっと室内の暖気と、湯気が広がったように見えた。

 小東は先に、入り口にほど近いカウンターの隅の席に座っていた。テーブルにはビールのジョッキが置いてあり、半分ほど減っている。小東はすぐに顔を上げた。

「お待たせしました」

「おつかれ」

「やっと終わりましたよ」

「大変だったね。定時間際に」

絢菜は大仰に肩を落として見せた。職場では、金曜は定時で終業、という決まりがあるものの、定時間際に絢菜のほうの課で問題が起こった。

「解決したの」

「ええ、一応。残りは週明けにやることになりました。ああ、疲れた」

「ビール、に、する?」

小東はお品書きを片手に差し出したが、絢菜は受け取らず、マフラーやコートを脱ぎながら頷いた。

おやっさん、ビール、ひとつ」

 すぐにビールが出され、続いて通しの小鉢が二つ並べられた。鳥皮のポン酢と、魚の端材の生姜煮だった。

「おつかれさまです」

二人はグラスを擦り合わせるように重ねた。

 

 

 酔いもいくらか回った。二人の会話は他愛のない、職場の話が主だった。

 小東は仕事ができる上司だった。聡明で、冷静で、声を荒げたことも、今まで一度もない。部下などが問題を起こしても、咎めることはせず、また難色も示さず、ただ淡々と問題解決に向かい動いた。それができる知識と経験と、そして頭の回転を持っていた。

 また、同僚に聞いた話では、通勤時には必ず文庫本を開いているらしい。推理小説かなにかだろうか。それに加え、学生の頃には陸上でどこぞの選抜にも出たという。近年まで地元の小学生をボランティアで教えているような話も聞いた。それでルックスさえもう少しシャッキリとしていたなら、異性からの人気も高かったに違いない。小東は顔も体もぬっとしていて、さらにいつも一回り大きい背広を着用しているものだから、古木のような野暮ったさを纏っていた。今の業種よりも、考古学や歴史の研究家のほうが似合っていそうだった。

 パート従業員の昼飯時の愚痴がひどい、という絢菜の話が終わったころ、小東は微笑みながらおもむろにカバンから銀の小包装を取り出すと、さっと口に流した。絢菜は頭上でさらさらと鳴る顆粒の音を聞き、それを眺めた。わざわざ目の前で飲んで見せるのだから、詮索しても問題はないように思えた。

「なんです、それ」

「これね」

丸めた包みを開くと、そこに霊芝と書かれている。銀の包装に薄い緑や茶色で色付けされてある、市販の漢方のように見えた。

「れいしば」

「レイシ、ね。万年茸のことだよ」

マンネンタケ、といわれ、キノコだと分かった。そんなキノコは知らなかった。

「漢方ですか」

小東は口を洗うようにビールを飲みながら頷いた。

「お酒で飲んでいいんですか」

絢菜は少々大げさに眉をしかめて見せた。

「昼飯、今日、いけなかったから」

小東は苦笑いを浮かべながら、ぼそりと弁解した。

絢菜は相槌も半ば梅酒の残りに口を付けた。小東も間を埋めるように、ジョッキをなめるように口を付けた。絢菜は横目で小東を覗きながら、

「なんの薬なんですか」

と切り出してみた。

「うん、いろいろ効能はあるみたいだよ」

絢菜は小東の籠り声に瞬間、苦悩、と聞こえ、ひやりとしたが、すぐさま空耳と理解し、頷いた。

「不眠と、食欲改善と、記憶の向上、疲労の改善、あと神経衰弱にも……」

小東はメモを読み上げるように宙を見て述べたのち、ぱたりと止め再びビールを口にした。続くかと思えばそのまま言葉はなく、ちらりと絢菜のグラスを見た。

「次、何か頼む?」

「いえ、もう……」

「そう? じゃあ俺はもう一杯だけ……」

それから半時ほど小東は飲み続けた。いくらか饒舌になったらしく、いつも飲んで帰ってから、さらに焼酎を飲むだとか、妻にインスタントラーメンを作ってもらいながら、食べずにソファで眠ってしまうだとか、つまらない話を小東は面白そうに語り続けた。絢菜はただそうですか、と、空になったグラスを時々見つめながら、半ば目をつむり頷いていた。

 

 

 店を出ると雪が散らついていた。通りの交通量はずいぶん減っている。後から、会計を済ませた小東も出てきた。

「ああ、雪だね」

「ごちそうさまでした」

小東は適当な返事をしたまま、絢菜に預けていた自分のマフラーと鞄を受け取った。それを巻きながら、

「帰るか」

とつぶやくと、駅の方へのそのそ歩きだした。数件の店並みの先に、踏切があり、そのすぐそばはもう駅となっている。だから踏切の周辺は同時に駅前にもなり、植木などが整備される簡単な広場だが、街灯が少なく夜は薄らさみしい。

 夜景に小東の後ろ背を改めて見ると、やはり古木のようにぬっと高い。それが膝をあまり曲げずに足を擦るように歩くから、どこか静的というか、夜の森を意思持つ樹木が人知れず徘徊しているような、児童劇の世界を垣間見ているような、懐かしい気持ちになる。絢菜はそんな後ろ姿に、やはり着ぐるみに対する子供のように、とびかかったり、ひっかいてやったり、黒いマフラーを締め上げたいような衝動を感じた。

 踏切でさよならだった。絢菜は手前の改札で、小東は逆の方向、踏切を渡って向かいの改札にいかなければならない。

 横断歩道で小東は立ち止まり、絢菜を振り返った。

「じゃあ……」

と、小東が心持手を挙げたところで、絢菜は笑みを浮かべ遮った。

「改札までお見送りします。こっち、まだ来ませんから」

「いいよ、そんなの」

と渋る小東の背中を押した。小東のコートは厚い羽毛で、温かくも冷たくもなかった。うっすら思いがけない贅肉の感触と、その下の硬さは背骨を感じるようだった。

「ほら、奢ってもらったし、それぐらい……」

と、絢菜の言葉に重ねて踏切の警音が鳴った。絢菜は咄嗟に小東の背から手を離した。小東は後ろを見ないまま足を止める。遮断機がゆっくりと下降を始めた。赤い電灯が交互に光った。目に残る強い赤光は、繊維のように軽く降り続く薄い雪と、それが付着する白髪交じりの頭髪と、そして黒いコートの縁とを律動的に赤色に表した。

 絢菜はその光景を後ろからぼんやりと眺めた。光は鼓動のようだった。

「生きてる」

絢菜はそう口にしたのか、心に思っただけか、自身でも分からなかった。ちょうど回送電車が踏切を通過し、轟音に辺りが覆われたためだった。

 しかし小東は振り向いた。振り向き、絢菜を見下ろした。枠なしの眼鏡が、その表面の手垢とともに赤く光っていた。眼鏡の下には立派な鼻と、そして一筋の鼻血が、流れ、そしてマフラーに擦れて伸びたところだった。

 絢菜はその一瞬間に目を見開き、そして次には目を細め、首をかしげて見せた。

 遮断機が上がり、二人は連れ立って踏切を渡った。小東は改札を抜け、今度こそ大きく手を挙げて、別れを告げた。

 それからしばらくして、絢菜は自分の電車へ乗り、車窓を眺めながら帰った。小東の鼻血が気になった。今もなお、鼻血の跡を口元につけたまま、電車で居眠りをしたりしているのだろうか。

 電車は明かりのない田園地帯の中を走っていた。町と町との間の道だ。絢菜は夜道に、朝に見る枯れた田園風景を思い重ねた。

 と、前方の窓に青い光が見えた。それは一息に車両の横を通っていった。踏切だった。人気のない、田園の間にある踏切。自殺防止の青い電灯。それと踏切の赤い電灯とが混ざって、絢菜が顔を覗かせる車窓の、前を通過するその瞬間、いかにも人工的な紫色に変わり光っていた。

 絢菜はそれが見えなくなるまで目で追い続けた。まだ残る酔いのせいか、とてもそれが、美しく、特別な体験のように感じられた。それが彼方に消えてしまうと、唐突に小東の死を思った。小東の葬式を想像した。あのぬっとした背も、棺に納められるのだろう。死んでも変わらないすまし顔で、そうですか、といった風に、蝋を塗ったような蒼白顔で朽ちていくのだろう。

 絢菜は少し泣きたいような気持になった。しかし涙は出なかった。ふるふると唇が震え、それでだけで涙は引っ込んでいく。

 絢菜の度々崩れかける顔を、黄色い車窓に映しながら、明かりのない田園の中を、電車は抜けていった。

 

 

 小東が鼻血を流しながら職場で倒れたのは、それからひと月近く経った年末間際のことだった。幸いにか、すぐに正月休みとなるので、そのまま小東は休職を申し出たらしい。療養に充てるとのことで、年明けか、二月になってからか、体調次第ですぐ顔を出すだろう、との噂だった。

 絢菜は年末に、亡き祖父の古家の片づけを手伝っていた。数年前に故人となってから、祖母は叔父の家で同居することとなり、しばらく古家は放置されていた。年末が好い機会だからと、親族でかわるがわる遺品の片づけや掃除に訪れることとなった。

 絢菜は座敷の押入れを片付けていた。そこには床飾りが主に詰め込まれていた。掛け軸、瀬戸物、茶器、干支の木彫り。どれも大事そうに桐の箱に仕舞われていたが、奥にひときわ大きな木箱を見つけた。

 開けてみると、床飾りにしてはいくぶん大きな枯れ木に、手のひらほどの大きさの、ひだのようなものが、幾重にも並び生えているものだった。ひだはキャラメルのような深い茶褐色で、陶器のように硬く、指でたたけば軽い音がした。

「おばあちゃん、これなに」

絢菜は座敷の押入れに頭を入れた祖母を振り返り、尋ねた。

「霊芝さね」

祖母は押入れから頭を出すと、何事もないように言った。

「レイシ、ね」

「何がいいのか、さっぱりね。縁起物だろうけど」

そうか、これが万年茸かと、絢菜は一人感心していた。床飾りもなるのだろうか。

「これ、食べれるの」

「そんなもん、食べたなら腹こわすよ」

食べられるものなら、と祖母は笑った。

 絢菜はふうん、と言ったまま、大きな霊芝の飾りを両手に抱え、冷えた台所へと向かった。ダイニングテーブルに霊芝を置くと、代わりに置いていたスマートフォンを取り上げ、霊芝について調べた。

 霊芝はやはり万年茸という説明で、うまく乾燥して保管すれば万年は形を崩さないとある。漢方として昔から重宝されているようだが、医学的根拠はいまだ乏しいらしい。祖父の持つもののように、飾りとして利用されることが多い。食用には適さないとある。

 絢菜はスマートフォンを置いたのち、心持背を伸ばして祖母のいる座敷を顧みた。そして気配のないことを確認すると、霊芝の傘の部分をさっと指でぬぐい、そっと口をつけ、それから犬歯を立てた。かり、と軽い音がして、欠片が絢菜の舌の上に落ちた。クイニーアマンをかじった時のようだった。

「うえ」

すぐに異物感が口に広がり、反射的に指先へ欠片を吐き出した。それは鉱石のように、紫色の輝きを見せていた。