抽斗の釘

小説、散文、文章、短編

夜のどんどん

 虎の天使が腕を組んで見下ろしてきます。わたしは眠れない体をごろごろ動かしながら、時計のコチコチを聞いています。目を閉じると、黒鬼が、どろどろ動きます。腕が、足が固まってきました。さあ、夜のどんどんです。

 わたしは家族と、白のハイエースに乗って健康診断へ赴きました。運転は慣れない妹が、練習がてら担当していました。そこは、古く小さい診療所です。駐車場の枯木には、尾の長い南米のサルが、手をたたいてはやし立てます。その日はくもり空でした。木枯らしが吹いているようです。

 中に入ると、建物のなかは外見より遥かに広く、看護師のおばさんが何人も忙しそうに、しかし慣れた様子でテキパキと患者を流していきます。わたしたち家族は4人掛けのテーブルに座り、アンケートを記入し、体温を測ります。机がとても散らかっていたので、わたしは片づけました。しかしイライラすることに、いくら片づけても机は散らかったままでした。

 次は視力検査です。一般的な視力検査でしたが、わたしの左目の視力は0.8㍉から、0.08㍉へ下がっていました。看護師のおばさんはにこにこしています。

 そのあとは、一度鳩を撫でてから、一枚の絵を鑑賞する検査です。画用紙にこどもがクレヨンで描いたような幼い絵で、一面の草むらに、いろいろな動物や弥勒菩薩の顔が描かれています。「これは幸せな絵です」とのことです。検査方法というのが、その絵の中に悪魔や怪物、魔王が隠れていないか、見えないかといったもので、わたしには、弥勒菩薩の顔がどんどん魔王に歪んで変わっていくのが見えて、とっさに目をそらしました。家族のみんながどう見えていたかはわかりませんでしたが、わたしは、正常に見えている、悪魔は見えないと申告しました。検査は正常と診断されました。

 健康診断では「正常」と診察されたため、そのあとは音楽発表会です。今回わたしは裏方を担当します。わたしがいやいや引き受けたのは、シンセサイザーの餌係でした。演奏中はどうしても楽器のおなかが減ってしかたないとのことでしたので、白い砂をシンセサイザーの口へ流し込むのです。重要な役割に必死だったので、音楽会はあっという間に終わってしまいました。ライブの後はもちろん打ち上げです。小さな女の子にビールを飲みたいとせがまれる夏でした。ただ、〆のざるうどんが別料金だと請求され、わたしたちは閉口した次第です。どうする? と相談しましたが、結局注文し、食べませんでした。夏の夜風の心地よさが印象的でした。

 夕食が済み、解散すると、わたしは自室にこもり、カメラオブスキュラの実験にとりかかります。レンズを覗くと、銀の板に16つの穴が見え、そこからランダムに白いイタチが顔を出します。しかしわたしにはイタチであるはずの動物が、実験用のシロネズミに見えて仕方ありません。その様子が愛くるしいものだったので、実験は終了しました。

 最後に書庫にこもり、製本を行います。文庫本やマガジンなど、一つの物語が色々な本に分かれて収録されているため、それぞれ本を割き、ボンドで張り合わさなければいけません。しかし、やはり文庫本やマガジンは、書籍の大きさが違うため、張り合わせるにはどうしても苦労します。どのように工夫しても、きれいに文字が並ばないのです。わたしはその作業をあきらめてしまって、古い木目の床に寝転がります。夜のどんどんもそろそろおしまいです。

 仰向けに天井を眺め、静かにしていると、聞こえてくる音が文字となって頭に入ってきます。時計の音はもちろん、遠くの電車が通る音や、車の音、換気扇、室外機、足音、鳥の声、風の音、雨の音。すべてがうるさく、まぶしいので寝つけたものではありません。そこでわたしは、文字に変換できない音を思い浮かべます。超音波のような、高い高い、形容できない音です。その音は、黒い画面に、緑の線が波で表現できない程、画面の上のほうで、まっすぐな水平線を描いたまま続いていきます。わたしがその線から落下すると、それで夜のどんどんはおしまいになります。

 ……以上の文章は、或る女性が自らの回想をボイスレコーダーに吹き込み、その肉声を私が文字に起こしたものである。また、これらの回想は、決して一晩で起こったものでは無く、複数日に分かれて録音した記録を一つに纏めたものである。この文章は解離現象や思考促拍に関する記録、参考として残すものである。また、彼女曰く、これらの映像は日常の速度で流れるものでは無く、ビデオを早送りした様に高速で流れるもので、それを捉え、言葉に直しているとのことである。また、「どんどん」とは彼女曰く、何者かが近づいて来る様子ではなく、彼女自身が何かから離れていく形容。とのことである。

楠木の森

 ……背の高い楠木が、さわさわと木々の上で葉を揺らした。

 ……或る森の、或る木々の隙間に彼女は立っている。

  日常で、自分の言葉を探すのは難しい。

  ここは深い深い、茂った木々の中で、葉や枝の隙間から、午前のさわやかで活き活きとした日がさしている。わたしがどこから、どのようにここへやって来たのか、その道のりはどうでも良いことだった。広葉樹が生い茂り、間に間に、背の低い植物が重なるように生えている。わたしには植物の名前はわからなかった。季節の花もわからない。そして、この場所は、あまり名前や季節は関係のないところだった。薄い紫や水色の小さな花が、遠慮深そうに咲いている。今わたしに重要なのは、名前のないことよりも、音や色で。物事を的確に言い当てない、断定をしないことだった。

  言葉が飛び交う世の中で、わたしに合った言葉に出会うことは、なかなかあることではない。日常に溢れる、自分には合わない言葉を浴びているうちに、だんだんと、自分が削られていくように感じる。それでも、生活のなか、孤独はつきもので、どうしても自分への言葉を、画面に求めてしまう。わたしは画面に溢れる言葉から、誰かを感じ、一人であることから、そして何もない時間から逃れようとしていた。

  つねづね画面には、響きの良い言葉や、小気味の良い言葉に出会うことが多い。人々を代弁してくれるような、巧妙な言葉に巡り合う機会がおおくあり、またその言葉を使うことで、巧妙な快感を小刻みに得ることが出来る。誰かが見つけて、見せてくれた言葉だ。子供のころ、友達が見つけた美しい虫のように、それは輝かしく優越的だ。それは、わたしの心にしがみついて、ざわざわと、濡れた落ち葉を踏み荒らしていく。その感触が心地よい。現に、わたしの足元を、今、茶色の虫が這っている。

  森に佇む大きな楠木は荘厳だ。静かで、たしかだ。風は止み、しんとして、空気は青々しい。言葉が溢れる世の中で、わたしは言葉の真意や本質は求めなかった。ただ、自分に合った言葉を大事にしたい。言羽とは言うものの、やはり葉のほうが豊かで、みずみずしい。わたしは楠木が好きだった。

  耳をすますと、鳥の声や、葉が落ちる音がする。重要なのは、誰それであることを認識しないことだった。顔つき、言動、趣向。要求、願望、衝動。わたしには孤独の寂しさと、孤独の安心とが矛盾していた。人々の動きはわたしを苦しめ、しかし人々の動きから目を離せないでいた。人々の動きはどれも醜く、つまらなく、儚かった。そして、愛おしく、ゆたかで、輝かしかった。そんな人々を敬遠しながら、羨ましく思った。

  小気味の良い言葉、音の良い言葉、やさしい言葉、正解、処世術、助言、卑下、揶揄、皮肉、情報、情報。たくさんだった。わたしは強い眠気に、落ち葉が湿る土の上へ仰向けに転がった。すがすがしい青空を見上げる。そこに模様をつける木々の枝が、方角を失ったようにゆっくりと回りだす。地面がかたむく感覚になった。落ち葉の床に、のめり込んでいくようだった。

  モラル、マナー、ルール。デザイン、カラー、ジェンダー。分からない言葉だらけだった。わたしは我慢できずに目を閉じる。……土の匂いがする。木々の深緑が擦れる匂いがする。腕を広げると、地に這う苔むした樹木の根に手がふれた。すこし、あたたかい気がした。ふわふわと柔らかい苔が手のひらに吸い付く。わたしの黒い血を吸い上げるように。

  わたしは目を閉じたまま根を感じ、その先に伸びていく枝や葉を想像した。それはひとつの樹木であった。長い年月の末育まれた、たくましい植物だった。土に合わないものは枯れていく。ここはわたしじゃないひとの森。生むべきものは、美しいだけじゃない、すがすがしいだけじゃない。生え、青々と伸びる言葉。

  わたしの森だ。

  それでも、強い種には負けるのかしら、などと考えながら、わたしは目を開け、起き上がることが出来た。森の奥、枝葉の影から、小鳥やリスといった小動物が、丸い木の実を両手に、こちらをうかがう様子を思い浮かべる。気楽に暮らせたら良いな、と思う。

……彼女は暫く、ぼんやりと森の中で座り込む。

……頭上ではなおも、さわさわと楠木が揺れる。風に揺れ、落ちた種を探そうと、ざわざわと虫が動いた。

春の風

 梅の花の匂いが、春の日和に暖まって香る。花は満開から少し過ぎ、細く歪な枝の間で熟しては、色あせて垂れ始めている。垂れた梅花の間を、羽虫が衝動にまかせ、日和に漂っている。平日の穏やかな中、一人の青年が住宅街を歩いていた。冬物のコートは幾分暑く感じ、中のシャツには湿気を感じていたが、コートを脱ぐのも億劫であった。

  青年は祖父に金を工面しに行くところであった。学校を卒業したものの、何にも就く気が起きず、しばらくその日暮らしを決め込んでいた。幸福なことに祖父が資産家であり、また特に孫の生活に対して口を出さない大人物であるため、彼はそこに甘え、生活の金が無くなれば集金に赴く次第であった。彼は幾分、彼なりに、生活に対する水準を求めていたため、人が集まる都会に部屋を借りていたが、祖父の家は都会から列車で三十分ほど乗った郊外にある。世間では高級住宅街とされている地域であったが、青年にとってはあまり意識するところではなかった。

 平日の住宅街はのどかで、静かであった。祖父の家までは最寄りの駅から徒歩で行くことができ、その道程の小学校からは、子供のにぎやかな叫び声が聞こえた。‥リコーダーの合唱が聞こえた。と、大きな羽虫が、彼の頭の傍を通った。ブーンという羽音に背中を丸めるが、そこには誰も見ている者はいない。

 シャツを蒸らして祖父の家に辿り着いたものの、生憎留守の様であった。彼は苛々したように、何度もチャイムを鳴らしてみたが、遠く家の中で同じ軽やかな音が響くだけであった。‥電線の上でヒヨドリが鳴いている。宅配のトラックが家の前を通り、運転手と目が合った。彼は詰まらなそうに口を尖らせる。このまま帰っても面白くない。また改めて赴くのも面倒であるし、送金してくれと手紙で頼むのは彼なりに忍びない。何より生活費が早く欲しい。彼は宛てもなく歩いて、祖父が帰る時間を潰すことにした。

 彼は煙草に火をつけ、ぷかりと煙を吐き上げた。面白いもの、珍しいものもない住宅街である。改めて眺めると、どの家も、高級住宅街と言われるだけに、ある水準以上の大きさだなと考えるが、どれも数年に雨風に啜れている。味がある、といったものは彼には感じられなかった。どの家も、主が努力し、年月をかけて築き上げた、各々にとっての資産を感じた。そこにはある時代の、資産という概念を示しているように感じた。しかし一方で、定められた区間に並べられたそれらは、世間の通念のような、何か憎らしい退屈さを感じた。彼にとっては或る種の自己嫌悪や、僻みの部類だったのかもしれない。どの資産も、それを築く努力や苦しみは、そして喜びは、彼にとって分からないものでは無かったが、都会に部屋を借りている彼には、少なからず時代を感じさせるものだった。そういった定型の通念の箱の中に、収めることのできない、決して把握することのできない、禍々しく混沌とした家族模様が詰め込まれている様を、彼は茶番のような皮肉にも、憂鬱にも思えて仕方がなかった。彼は煙草をポイと、側溝へ投げ捨てた。

 彼がそんなことを感じながらぶらぶら歩いていると、或る住宅の中から、若い女性の声が聞こえた。

「こっち、こっちおいで」

 青年は自分が呼ばれていないとは分かっていたが、手持ちぶさたもあり、無意識に声の主を探した。弾むような若々しい声である。立ち並ぶ住宅の一つ、どうやら、高く深い緑の生垣の向こうから声がするようであった。彼はその生垣に沿って、ゆっくりと歩みを落とした。枝が絡み合う重々しい生垣は、所々薄くなっており、その先に、何かが活発に動く様子が伺えた。暫く生垣をなぞって進むと、生垣の一部に隙間が空いており、彼は思わず足を止め、じっと中を覗き込んだ。

 そこには若い女性と、一匹のレトリバーが愉しげにじゃれていた。立派な屋敷の縁側に、午後の日差しが暖かに注いでおり、レトリバーは女性の周りを、尻尾を懸命に動かしながらぐるぐる回っている。

  青年は少女を知っていた。彼がまだ小さい頃、彼が頻繁に祖父の家に出入りしていた頃、近所に住むその少女が、乳母車に乗せられていた様子を思い出す。年齢で考えると高校生か大学生だ。そうか、卒業して、春休みなのだな、と彼は考える。考えながらも、違和感を覚えた。少女が四つん這いだったのである。

 年齢を考えれば、レトリバーと同じ目線で、犬と同化して遊んでも、不思議ではないとも思ったが、それにしてはどこか、その遊びに艶めかしさを感じた。

「ほら、こっち、乗ってみて」

 少女はレトリバーに、彼女の上に乗ることを催促していた。四つん這いのまま屈んだり、体を歪ませたりしている。しかしその言葉や催促はレトリバーには通じず、ただ尻尾を振り、彼女の周りをうろうろと回るだけである。それでも少女は笑顔で、愉しげに、そして或る色気を帯びた目線をレトリバーに送っている。2匹は活発にじゃれ合っている。少女は四つん這いのまま、丸めた手を、春の光の中に、手招くように動かしている。彼は犬に扮する少女に、或る要求を感じた。人間の、或る種の勝手な業を感じた。人間らしさを、人間臭さを、彼はその庭先の日溜りに嗅いだ。

 青年は静かに生垣から離れ、足音が立たないようそっと歩き出した。彼は祖父の家に戻ろうかと考えたが、決まりの悪さに躊躇する。ブーンとまた、彼の耳元を羽虫が通る。彼はふと、何か得たように微笑みを浮かべ、そのまま鼻歌交じりに歩いて行った。ぼんやりとした風が吹く。土の匂いと、若い植物の匂いが混ざった、そわそわとする春の風であった。

シュガーアンドバター

  自分の性格や趣向を人に伝えるのは難しい。自分は繊細だから勘弁して欲しいという甘えと、自分は強靭だから尊重してほしいという甘えが同居している。いざ人に伝えようとすると、どちらも前に出ては退き、モゴモゴと口が閉じる。指針も指針で、わたしの理想はあるのだけど、現実はこうだよと突きつけられるのが恐ろしい。それが現実の一部で、経験の一部だからだ。説得力があるし、自信がある。全てのケースではないにしろ、わたしが愚かな人にされるのが、馬鹿らしいが堪え難い。わたしには胸を張る自信もない。結局は、同じ水槽の魚なのだけど、わたしには、うまく空気を吸えるか分からない。水面に浮く死体が見える。

  人の脳はリスクを回避する。本能的に保守となる。当然、変化は短期的なリスクを生むし、短期の連続が長期となる。変化を恐れるのがリスクだ、という提唱も、死体にすれば食えない餅だ。人は利己的に優しい。しかし全てがそうではない。だから、芯が弱い者は、色々な力に耐えられず負けて、細かく折れて粉になる。

  こっちがイチゴで、こっちがシュガーアンドバター。と、あの子が笑顔で細長い焼き菓子をくれた。胃が、気持ち悪いし、車酔いのように頭がクラクラとする。体調のすこぶる悪いわたしを他所に、あの子はお裾分けです、と笑顔なのだ。イチゴが同性愛なら、シュガーアンドバターは異性愛だ、と理屈のない分別をする。どちらも同じ事なのだ。

  わたしは食べもせず、シュガーアンドバターのまろやかな風味を、口の中で思い浮かべた。言うまでもなく、わたしは脆い。パキパキと、折れていく。しかし、せめて、粉でも甘くありたいと思った。不格好でも愛おしく、舐めてくれれば幸せだ。唾液に染みて、愛されたい。脳まで届いて、惑わしたい。

わたしには、訪れた記憶はないけれど、懐かしくなる情景があった。時々思い描いては、何処だろうかと、首を傾げる次第である。

それは、真っ青の部屋だった。

床一面は紺色のカーペットで、窓は一方だけに、群青のカーテンから、外の日光が差している。午前中の光だ。電灯は付かない。窓の下には、誰かが使った様子のベッドがあり、換気は滅多にしないのか、埃っぽい。

そこは、わたしの部屋ではない。きっと祖父、若しくは今は知らない懇意の老人が、若い時に使っていた部屋だろう。

わたしはそこに住みたいとは思わない。しかし、そこでぼんやりしたいと思う。わたしはそこに泊まりたくない。しかし、うつらとしたいように思う。

そこにはお洒落な音楽も、気の利いた家具も無い。目からウロコのビジネスも、キャッチーなコピーもない。刺激的な会話や、カラフルな発想も無い。画期的なテクノロジーも、古風さへの憧憬も無い。また、真偽のやりとりや、本当らしい優しさもない。ただそこに部屋があって、床と、ベッドと、日の差す窓を眺めている。

おそらく、部屋は4戸のアパートのうち1つで、窓の外には小麦畑が広がっている。もしくは、都会の下町の、路地の片隅かも知れない。

そこは、そのベッドは、ともすれば、わたしの老後の姿が、横たわった後かもしれない。

決して寄り付けない、受け入れない、交差しない青が、青だけがそこにあった。

ただ、わたしは、床に座り込み、そんな部屋を眺めている人物が、わたしでは無いように思えて仕方がない。もしくは、結局誰も居なかっただけなのかも知れない。

 

眠りの国

  先輩は仕事中に時々眠っています。キーボードに手を置きながら、こくこくと。

  先輩は会議中でも眠ってしまいます。腕を組んで、目をつむって考えるふりをして、そのまま、こくこくと。

  ある日、わたしは通勤の電車で先輩と乗り合わせました。座席に隣り合って座り、世間話をひとしきり済ませてしまうと、話題はすぐになくなってしまいました。混み合った車窓からは、何処までも続く曇天と、すすかぶれた街並みが広がっているのが見えました。

 

‥僕は最近、所構わず眠気に襲われることが多くなった。仕事中や通勤中、歩いている時や食べている時も。しかし、それは僕自身の意志で、眠ろうとしているところもあった。‥僕は普段の生活の営みから、目をそらそうとしているのだと、思う。‥つまり、僕は眠りに救いを求めるようになっていた。そして、眠りに救いを求めていると、体の方も勝手に眠りを求め出した。人と話をしているときでさえ、強い眠気に意識を失う時がある。

  そうやって日常の大半を眠気と過ごしていると、徐々に、どちらが、現実か、夢か、わかなくなっていく。日頃、歩いている世界が、眠りの国と混同する。いや、混同させている。

  床につき訪れる、眠りの国は実に良い。食べたり、風呂に入ったり、そういった、しなければならないことが何ひとつない。荒唐無稽で、意思も、意義も、社会的通念も何も無い。何より、本当で無いのが良い。すべて偽りでまやかしだ。本当で無いこと、嘘であることのなんと居心地の良いことか。なんと気楽なことか。本当で無いことの、なんと、なんと素晴らしいことか。匂いも感触も無く、色と音と、取り留めのない物語ばかりしかない。脈絡のない物語は、僕を十分に楽しませてくれる。

  現実は、現実は、僕にとってあまりにも鮮明すぎた。鮮明で、刺激が強すぎる。体が、頭が、それを拒絶しつつあることを感じる。僕には、最近徐々に、人の言葉がわからなくなっていた。声は聞こえるが、何を話しているか理解できない。自分が何をしたのか、覚えていない。次にすべきことを思い出せない。読んだそばから忘れていく。出来ていたことが出来なくなる。僕が作り上げたものが、得たものが、砂の山のようにサラサラと崩れていく。集めても、掻き集めても、指の間を抜けて流れていく。

  いま、目を瞑り、じっとすると、すぐに眠りの国は僕を引っ張っていく。眼球に繋がる神経を、脳が奥に奥に引っ張っていくような感覚がある。すると、前だから後ろだか、三半規管、方向感覚がわからなくなって、ぐらぐらとぶっ倒れそうになる。そうなっていくと、少しの車酔いのような気持ち悪さと、現実から離れていく浮遊感に気持ちが高揚し、考えるということが薄れてきて、ふわふわと感覚がまだらになって、のがれられるのだ。

  混乱、混乱。脳がどうにかなっているのは確かなことで。脳が膨らんだり縮んだりしているのだ。これは。いや、人が、社会が、すれ違う人々が、僕の敵であった。卑小で、ずるく、しゃかいであった。僕の脳だけが道をあるき、明かりや、線や色だけのせかい。生きているのか、起きていても、眠りの国。

  ‥僕は耳栓をする。僕は目を閉じて歩く。夢の中、ああ、眠りの国。

 

  先輩はとつぜん、疲れたんだと、爽やかに笑い、こくこくと、わたしの横で、眠り出したのでした。

  わたしは、垂れた先輩の頭から、ぽろぽろと砂がこぼれていくような、そんな気がしました。 

  車窓が突然白く、眩しくなりました。わたしたちの電車は街を抜け、窓には、朝日をはじいて光る、きらびやかな水田の景色でした。稲刈りが終わり、水が張られた冬の水田は、曇天をまぶしく、みずみずしく映します。

  先輩はなおも、頭をさげて眠っています。落ちていく砂が、キラキラと朝日に光っているのでした。

 

 

相合傘

  パタパタと、傘を鳴らす雨の音が続く。傘のなか、わたしの横には、夜の街に映える彼女の白く整った顔があった。相合傘。‥その白い顔に映える濃いめの化粧。口紅。美人だな、とわたしは思う。小さな折り畳み傘からは、彼女の黒革の上着がはみ出ており、雨に肩を濡らしている。

  ‥スタイルが良く、器量も良く、人気者である彼女が、わざわざ宴会を抜け出してまで、なぜわたしなんかに傘を勧めてくれたのかは分からなかった。わたしは宴会を早めに脱出し、駅まで濡れようとしたところ。ふたりは相合傘で、最寄りの駅まで歩いていた。

  ニコニコと、彼女は私と話をしてくれた。彼女のタバコを辞めた話や、夜は眠れず、動画や本で自身を疲れさせてからしか眠れないといったもの。

  ふと、暗いビルの窓ガラスに、ふたりの姿が写った。暗闇に浮かぶ彼女の姿は、青白く細い悪魔のようだった。

  ‥時に社会は、冷たさと優しさを交互にわたしにみせた。その度に、何が正解なのか、わたしは分からなくなった。社会には曖昧な優しさと、曖昧な冷たさがあるだけだった。優しくすべきだという教えと、馬鹿を見るといった慣例が交錯していた。わたしにはそのどちらの正解も分からなかった。味方は裏切った。しかし敵ではなかった。わたしには社会が、人が、分からなくなった。社会に出れば、はっきり分かると思った。それは見当違いだった。わたしは掴み所のない社会に、ふわふわと漂い、時間ばかりが過ぎていった。わたしは何も掴めなかった。

  …ふたりはなおも夜の道を歩いていた。彼女は酒に強いらしく、宴会の疲れも見せなかった。会話が止まっても、美しい彼女は、穏やかな微笑みを崩さなかった。わたしは脚のむくみを感じていた。

  ‥雨の冷えがあった。傘の外界は寒さであった。しかし、この、傘のなかは、ふたりの身を寄せる、当然の体温があった。もし世界の優しさが嘘であっても、体温は本当で、そこにあるものだ。

  雨は尚も強まり、雨音は増す。世間を砂嵐のように覆い隠す。傘の中だけが、わたしの、はっきりとした世界になった。激しい雨音が、わたしたちふたりに会話を諦めさせた。無言の傘の中、その間は、彼女はわたしのものだった。

 ‥ 駅の明かりが見える。靴の中に雨水が入って冷たい。いっそのこと、耳を塞いでしまいたい。優しい言葉と、冷たい言葉と。

  傘の柄を、しっかりと掴む、彼女の華奢な手の甲は、骨が浮き出て美しい。いまはわたしのものだった。