抽斗の釘

小説、散文、文章、短編

浮気者

 金曜日は私も早引けになるのだから、一緒に夕飯でも作り一週間の労働を共に労い合いたい。

 有里子はそんな風に苛立ちながら、冷えた夏野菜を叩き切っていた。

 結婚して三年になる。夫の倖一は今日も外に遊びに出ていた。

 しかしそれを特段悪いとは思わない。生き方は人それぞれ、ましてや彼は自由業だった。平日の五日間、八時間労働が社会人として当然だという、そんな枠に押し込めようとするのは、今の時代身勝手だと有里子は思う。

 しかし鼻に付くのが、その遊びに行く相手が同世代の女たちということ。皆どうせ裕福な主婦で、きっと時間を持て余している。その退屈しのぎに夫が使われているのが気に食わない。

 私の夫は、もとい、私の家庭は、そんな他人の暇つぶしにあるわけじゃない。

 有里子はそうなおも苛立ちながら、乱暴にまな板の野菜を銀のボールへ流し入れた。

 また何より不服なのが、倖一がそれを有里子に事前に報告しないことである。この日はあの場所であの人に会う。その連絡をうやむやに出かけてしまうのだ。だから有里子は自分と夫との予定を照らし合わせ、一家庭としての夜の予定を組むなどといった計画が立てづらい。しかしその不服を訴えるのは、夫の人格を束縛するようで、なんだが強く言い出せないでいた。

 それでも倖一は酒など飲まず、もとより飲めないのだが、ともかく夜半まで飲み歩くことはなかった。そして憎たらしくも、いつも決まって夕飯までに帰ってきた。だから有里子の沸点はいつも微妙なラインで揺れ動く。これで朝帰りだとか浮気の露呈などすれば簡単に怒れるものの、至極健全なように白い顔で帰ってくるのだから、有里子はいつもちょっと不機嫌そうな中でも、

「おかえりやっしゃ」

と、おちゃっぴいに迎えるのだった。

 倖一はそのようにして、誰それに会ってこんな話を聞いただとか、若奥様たちの派閥がどうだとかの話を仕入れてくる。そこでやっと有里子は、夫が今日どう過ごしたのかを把握する。会っていたのがいつも同世代の女性たちであることもそうやって分かる。

 また、その活動が仕事のネタになるのだから真っ向からは否定もできない。倖一は個人のイラストレーターで、ソーシャルメディアに簡単な漫画を描いて生計を立てている。

 正確にはそれが収入を生むわけではないが、浮気話や家庭の問題などを茶化す小話を描いて、それを客引き用に、最終的には真っ当なイラストの販売を成果としている。漫画の人気は良くも悪くも上々で、それを発端に企業からのイラスト依頼も度々入るらしい。

 だから主婦方との退屈しのぎは、イラストの依頼に遠からず繋がっている。したがって今のところ収入の面でも、イラストレーターとして大成するという倖一の夢の面でも、平日の優雅なお茶会は必須であるのだ。

 一方の有里子は京都の土産物会社で事務方のチーフをしている。入社当初は観光産業の土地柄、手堅く安泰な仕事だと思っていたものの、観光客の激減で社内は改革を迫られてしまった。今では各地の店舗を閉じて、代わりに入れるテナント業に舵を切り出した。事務もいろいろな変革があったものの、業務自体は簡略し、早帰りの実施なども取り入れられている。楽になったと思う一方で、仕事が減った不安も覚えないわけではない。いつかは自分も旧態の捨てられた業務のように、お払い箱となる恐れもおおいにあった。

 安泰というものは存在しない。生き残るためには常に進化を強いられる。変化し続けることが生きるということだ。それは生き残ってきた生物の歴史を見たって明白だ。

 有里子はそんな風に結論しながら、豚肉の小間切れを沸いた湯の中に放り込んだ。眼鏡が湯気に曇る。しかし放っておいても晴れるのだからと、その曇った視界のまま、有里子は鍋をじっと見届けた。

 とはいえ、夫の行動を許し続けることも、夫婦関係の進歩であると言えるだろうか。

 有里子の思案はぐつぐつと揺れた。

 変化と寛厚は近くもあるが、しかし別物である。ましてや夫は家族である。この先も倖一の自由を許容できるだろうか。許容すべきとするのが私や時代の変化だろうか。

 そんな風に問いながら、有里子は菜箸で鍋の中をぐるぐると掻きまわした。湯の中の肉の汚れも同じようにぐるぐる回った。

 豚肉を鍋から引き上げた頃、倖一は帰ってきた。一年で日が一番長い時節である。午後七時前であるのにまだ外は明るく、キッチン窓の網戸からは夕方の匂いがした。が、それを台無しにするようなジャケットに染みた香水の匂い。有里子はそれでも笑顔を作った。

「おかえりやっしゃ」

「ただいま。おはようお帰りで」

倖一は飄々とジャケットを脱ぐと、肌着になってキッチンを覗いた。

「冷しゃぶかいな」

「そうどす」

こうした少々アクの強い二人の言葉は、いつしか現実から少し離れたものになっていた。芝居がかったような関西弁は、三年間の二人のやりとりが築き上げた、一種独特な空気だった。不満、不服、疑念、退屈。それらをすべて包み込んでしまう便利な道具が、その芝居じみた言葉であった。

「もうできるやろか」

「へえ。大人しゅうまっとくんなまし」

「へえへえ」

倖一はそう言って、食卓へ麦茶や食器を並べ始めた。

「せや、味噌汁つくろか」

「や、昨日のんがまだあるさかい」

「さいでっか」

さいでっか、などとは二人それぞれの現実では使わない。この、二人の家庭というものがある種の非日常を作る、劇場のようになっているのである。客はいない。そのため二人の茶番に終演はない。

 二人はやがて食卓を揃え、向かい合って席についた。

「ほないただきましょか」

「いただきます」

「……いけまんな」

「いけまっか」

倖一は、その口ぶりとは別に箸の動きは緩慢だった。きっと腹が減っていないのだろう。チョコケーキかフルーツパフェか。有里子は汁椀を置いて静かに切り出した。

「今日はなんかおもろい話おわしたか」

「んー」

倖一は口を動かしながら皿の上を眺めていた。有里子も少し目を落とす。豚肉と野菜をゴマダレであえただけの簡単な料理。鮮やかな色彩はどれも泥のように汚れている。

「まあ、ぼちぼち……」

「なんやそれ」

倖一は口を動かしながら、しかし思い立ったように目を細めた。

「ああ、でもな。おもろい話もあったで。芦屋の奥さんの話の続きやけど、浮気相手の男の奥さんがこれまた、美容クリニックの先生とできてはるらしい」

「はあ。ほんで?」

「ほんで、治療費をうまいことしてもろて、見返りにお付き合いしてはるらしいわ。先生からしたら理想の顔そのものなわけやし、奥さんも安く綺麗になりはるもんやから、そりゃあまんざら……」

「ふうん」

有里子は力なく相槌を打った。疲れ切った金曜日の夕飯に聞く話ではない。聞いておきながら、有里子は無性に腹が立った。そして倖一の話を遮るように、

「なあ。もう、女の人と遊ぶの止めたら」

と、ついぴしゃりと言いのけた。

 倖一はちょっと驚きながら、小さなくしゃみに顔を潰すと、それからつまらなそうに口を尖らせた。

「……なんでや」

「うん。前から思ててんけど、あんまし気持ちいいことないで。人様の噂ばっか描きさらしてや」

まともにそう言われると、倖一は「遊びやないけど」とつぶやきながら、子供のように箸でミニトマトを転がした。

「……まあ、そりゃあ、気分ええことないやろけど。せやけど閲覧は伸びよるしなあ。需要はうまいこと拾えている気いするし」

「せやかてコメントは荒れてるやん。いつか炎上すんで」

「はは、もう燃えとりますわ。ユリの兄ちゃん呼んでくれんか」

有里子の兄は消防士だった。有里子は澄ました口に、パプリカだとかナスビの端を放り込んだ。

「呼んでもええけど、あんたみたいな燃えへんゴミは専門外どす。月曜日にお迎え来るで」

「ほなそれまでここに居させてもらいます」

「ほんま捨てたろか」

「環境にわるいで」

「地球に謝り」

「再利用してんか」

倖一は微笑みを取り戻しながらトマトを拾って口に入れた。有里子はそんな倖一に再度鋭く小言を刺した。

「でもまじめに、そろそろ女の話描くの止めたら? 飽きるやろ。見てる人も」

「せやかてなあ。他にネタあるやろか」

「男の話にしい」

有里子の代案は唐突だった。単に女を避けるためということで、安直に男を持ち出したに過ぎないのだろうが、倖一にとっては不意打ちだった。

「……それの何がおもろいねん」

「おもろいて。女は男同士の絡みが好きやで」

涼し気に口を動かす有里子に対し、倖一は少し箸を止めた。

「下ネタやん」

有里子は噴き出す。

「ちゃうちゃう、そういう絡みやなくてさ。普通に遊んだ話とか、昔の失敗談とか。ほら、男子同士でわちゃわちゃしてんの見てるとおもろいやん」

「そうかなあ」

「せやって」

「そうやろか」

「そうやて。……ほら、昔おったやん、栗田くん。あの人の話描きいや。仲ええやろ。最近遊んでへんの」

「んー。せやなあ、あいつもいま時分忙しいやろし」

「よう昔旅行とか行ってたやん。ないの、そん時のおもろい話」

「あるはあるやろけどもう忘れてしもたわ」

「ちょっと今度飲みに行ってきいよ」

「そんなすぐ会われへんて。みんな忙しいやろし」

「なんでよ、二人で会うならすぐ行けるやろ」

「栗田と二人で会うんか」

倖一は妙に抵抗した。有里子は少し不思議に思いながらも、依然涼し気に相槌を打った。

「なんなん、あかんの」

「うーん」

倖一はいつのまにか箸を置き、腕を組んで考え込んだ。

「ぱっと行ってきたらええやん。あの人もまだ関西やろ」

「あんな、ユリ」

と、倖一は突然改まった顔をすると、ぼんやりと有里子のほうを見た。視線は目を外し、有里子の首元を捉えるように見える。

「……どしたん」

「僕なあ、最近気い付いてんけどな。なんか男があかんねん」

有里子は唐突な告白に眉をしかめた。

「あかん? あかんてどういうこと」

「なんか複数で会うのはかまへんねんけどや。サシで会うのはなあ。なんか意識してまうねん」

「意識?」

有里子は倖一の告白に胸がざわめくのを感じた。

「そんなこと絶対ないねんけどな。男と話してるとなんやこの人に襲われるんちゃうかとか、その、肉体的な関係になってしまうんちゃうかとか、そんなことばっか考えてしもて、普通に楽しまれへんねんな」

「なんやそれ。あほちゃうか」

と、それまでの調子で言い捨てそうになるのを抑えるために、有里子は瞬間言葉が続かなかった。倖一の話しぶりは真剣なように聞こえる。それを茶化すのは、倖一の微細な部分を傷つける恐れがあるように思った。倖一は続ける。

「……いつからか分からへんけどな。なんかそう思うようになってしもて。別に男が好きってわけでもないねんけど、なんか想像してまうねん」

「ふうん」

想像するだけなら普通に過ごせそうなものだが。と、そう考えると倖一の想像というのはよほど現実味を帯びたものなのだろう。つまりそれは人間としての本質的な性質によるもののように思えた。

 有里子は倖一の本質の一部では、男との愛情を求めているのではと勘ぐった。つまり、倖一はどこかで栗田とある一定の関係になることを期待している。それを忌避し、目を背けるために、倖一は無闇に女と遊んで、そして頑なに女の話を描くのではないだろうか。

「笑わんし、怒らへんからほんまのこと言うてみ」

有里子は母親のように声を落とした。

「なんやほんまって」

「ちょっと、ほんまは興味あるんちゃうん」

「興味ってなんや」

「その、男の人と遊ぶことに」

「んー」

倖一の返答は曖昧だった。が、つまりそれは答えだった。有里子は胸のざわめきが高鳴るのを感じた。

「……その、自分でも分からへんけどな。そう言われると、もしかすると、ちょっとだけ」

倖一は恥じらうこともせず、しかし笑うこともせず答えた。有里子は少し考えた後、できるだけ真剣であることを示すよう努めながら言った。

「それ、おもろいんちゃう」

「……はあ?」

倖一は顔を歪めたが、有里子はできるだけ真剣である様子を続けた。

「それ、漫画のネタになるってこと。なあ、会いいな。栗田君に」

「何言うてんねん。無理やって」

「無理ちゃうて。仲よかってんから久々に会おう言うたらええやん」

「会うのはええけど。そんな感じになるのが無理や」

「わからんて。会ってみんと、話してみんと。無理なら無理であんたの片思いの話にすればえんやん」

「せやかてネタにしていいことと悪いことがあるやろ。僕の気持ちも栗田の気持ちもある」

「なんや今更。さんざん他人のこと茶化してきたくせに。自分も友達も茶化すぐらいの気概で行きいや。自分の話をちゃんと描きいや。漫画家やろ」

イラストレーターや」

「おんなじや」

「おんなじちゃうわ」

と言いながら倖一は席を立った。気が付けばすっかり皿はきれいになっている。ゴマダレも、レタスで拭いて平らげたのだろう。残っていない。

ごちそうさん

続けて両手を合わすと、倖一は食器を台所に運び始めた。その様子が有里子にはちょっと冷たく感じ、踏み込み過ぎたか、茶化すような形になってしまったかと少々後悔した。が、倖一は皿を運びながら遠くで言った。

「まあ、でも、一回栗田誘ってみるわ。」

意外にも、倖一はまんざらでもなさそうではないか。

 有里子は秘かに笑みを浮かべた。

 もし二人がうまくいけばどうだろう。倖一のメディアの新しい展開になるし、女たちからも遠ざけることができる。一石二鳥ではないか。……さらに私は男同士の恋愛を許した妻となる。夫を成功に導き、また多様性にも理解を示す、そんな明哲な妻。そして倖一は性別や家庭の垣根を越え自在に生きる夫。これが変化していく時代に許される夫婦の形だ。これが私たち夫婦に必要な進化なんだ。

 有里子はそう眉を緩めながら、食洗器に食器を詰める倖一の背を眺めた。しかしはっと思いつくと、小さな声で付け加えた。

「ほんで、私のことも描いてな。夫が他の男と遊びに行って残された嫁の話」

倖一は聞こえたか聞こえないか、どちらにせよいまいちピンとこないらしく、

「ああ? うん、せやな」

と言ったのみ、のそのそと風呂場の方へ入っていった。

 

 それから一週間も経たないうちに、倖一は栗田と約束を取り付け、二人で飲みに行くことになったらしい。

 いつも通りの平日だが、いつもと異なるのは、それが事前に報告されたことだ。

 有里子は倖一の連絡を受け、仕事終わりに百貨店の地下で総菜を買い込んで帰った。コロッケと鳥のから揚げと、数種類のチーズとハム、そして少し高いワインと。

 ひとり分にしては少々買い過ぎたが、有里子の心は浮き浮きとしていた。

 事前に連絡をくれたおかげで、自分の夜を自由に楽しめるということもあるが、何よりこの日の夫の相手は男である。そしてそこには幾らかの恋情がある。それによってなぜか、言いようのない微笑ましい気持ちにかられるのだ。それは例えば、想像に過ぎないが、自分の息子の初恋を知るような。また、未熟な学生の、初めての恋人との宿泊旅行を告げられたような。

 もう日をまたぐ時間に近くなったころ、倖一はこそこそと帰ってきた。二人に何かが起こるのには十分な時間だった。有里子は長い晩酌を広げながら、悠々と倖一を迎えた。

「おかえり。どうだった」

「ただいま。……どうって。まあ、楽しかったよ。」

有里子は茶化す気はないにせよ、よそよそしい調子の倖一へ、笑みを浮かべずにはいられなかった。

「今度描いてな。今日の話」

有里子はそう言いながら、夫と栗田、二人の愛情のやりとりを想像した。そこに女たちの影はない。男同士の時間。それは昼間のお茶会よりも、むしろ清涼さすら覚える。

「うん。まあ、でも、べつに普通やったで」

倖一は尚も表情を変えず、俯きながら風呂場の方へ向かっていく。

 有里子はその後ろ背へ、微笑みに顔を歪めると、からかうように声を上げて悪態づいた。

「この浮気もん」

その声は、調子は、いつもの通り軽妙な芝居じみたものだった。倖一はそんな有里子の声を受け、背を向けたままほんの一間足を止めると、

「なに笑(わろ)てんねん」

と言い捨てた後、脱衣所に入りゆっくりとドアを後ろ手に閉めた。

 有里子は微笑みながら、いつものやりとりのようにそれを聞き流そうとした。

 しかしふと、沸いていたそれまでの慶びが一風に霧散していく心地に襲われた。代わりに何か寂し気な心地だけが残った。

 有里子は間を埋めるよう半ば無意識にスマートフォンを手に取ると、ソーシャルメディアを開いた。そしてとりとめのない情報を漁った。倖一のメディアページも、取り立てて変化はない。以前の主婦たちの漫画で更新は止まっている。

 そうしているうちにも、寂し気な心地は増して膨らんでいった。

 有里子は続けてニュースサイトを開いた。ゴシップは絶え間なく更新される。どれもこれも不毛であった。

 ついと、ぼうっとする画面をよそに、

「自分は何か、重大な思い違いをしているのではないだろうか。」

と、そんな突拍子もない直感が胸に走った。

「この浮気もん」

続けて自分の台詞が部屋に反響した。自分が誰かに言われたようだった。

 有里子はその声に、何げなく顔を上げた。心臓が跳ねた。息を失う。

 脱衣所のドアの隙間から、女の顔が覗いていたのだ。そしてそれはこちらに向かって笑んでいる。

 瞬間、どこの誰だと身の毛立った。が、他人が中にいるはずもない。

 それはどこか見慣れた顔だった。有里子は硬直した。それは紛れもなく、醜怪な自分の笑顔そのままだった。

 全身の毛穴から噴き出す恐怖や驚きに身を固められ、有里子はただそのもう一人の自分を凝視した。するとそれは笑みを絶やさないまま、音もなく、ドアの中へ滑るように戻っていった。その肩が、乳房が、腰が、何も纏わぬ裸と分かった。やがて、ゆっくりとドアは閉められた。

 ほどなくして、浴室の開く音が遠くに聞こえた。シャワーの音が近くなる。

 有里子は依然身動きを取れずにいた。しかしそれが去ったことで、次第に深呼吸を始めることはできた。

「幻覚だ。きっとそうだ」

そう言い聞かせる。おそらくあれは浴室へと入っていった。そして倖一と出会うだろう。倖一はどうするのだろう。おののくだろうか。しかしあれは私だ。でも私ではない。

 裸の倖一と、もうひとりの自分の身体とが浴室で絡み合う様子を想像した。倖一は拒みながらも身を委ねていく。まるでコンテンツの鑑賞者のようにそれをぼうっと見届けた。思考も次第にぼうっと揺らいだ。

 浮気だろうか。夫とあれの浮気だろうか。しかしあれは幻だ。幻は幻と交じるのだろうか。あれは、私は、誰と浮気するのか。あそこに居るのは誰だろう。夫だろうか。同性愛だろうか。それとも進歩か、時代の変化か。私は何と浮気するのか。

 幻ならば、消えれば何が残るだろうか。

 有里子はテーブルの残飯を見下ろした。明日は燃やせるゴミの日だろうか。ゴミ出し係は倖一だ。思考は散漫し、そんなことを思う。

 ここに無いのは何だろうか。

 網戸からは夜気が入った。

 夏の香りは緑であった。 (了)

 

 

生命の時報

 彼は疲れていた。

 平日は週末の為と思い、週末は平日の為と思う。それが死ぬまで続くのか。その間も若い時間はみるみる過ぎていく。

 なんのための命だろうか。

 生活費に同額と消える給与。得て失うその繰り返し。知らない他人のための業務も繰り返し生まれ消えいく。感謝もされず、覚えられもせず。取り換えの利く存在。

 取り換えが利かないのは家族だろうか。結婚すればやがてきっと親となる。今の生活も、子供の為と言って幸福に置き換わるのだろうか。ならば自分の親はどうだっただろうか。

 彼は電車に運ばれながら、そんなことをふつふつと考えていた。金曜の晩だった。平日が終わるという安堵と共に、すでに見える平日という憂鬱があった。

 せめて金曜の晩は酒に主導権を渡してしまおう、それが彼の慰めだった。

 自宅とは逆向きの、とある魚河岸に向かう。

 河岸はじめじめとしていた。一日雨が続いて、それが晩には弱まり、霧のような様子。雨は一帯を幻想に包んだ。

 街灯のオレンジは、その明かりで夜空を紺色に明るめていた。また、その夜空の紺色も、街灯の色をより明るめていた。

 一件目は立ち飲み屋で安く酔い、二件目には客足の落ち着いた居酒屋へ、小鉢を相手に居座った。小鉢が空になって一時間もすると、視線に耐えかねて外に出た。

 霧雨は魚河岸を冷やし続けていた。酔心も一息に醒めそうだった。

 通りをひとつふたつ中に入ると、小さなホテル通りとなる。その端に、これまた小さな児童公園がある。

 そこは飲み屋を逃れ、それでも名残惜しい酔客が流れつく場所だった。彼もハイボール缶を片手に同様だった。しかし霧雨で濡れるためか、その日人影は見当たらない。

 公園には白い野良猫が一匹住んでいる。歓楽店で遊ぶ余裕のない彼も、毎度その野良猫を撫で遊び、その温度で欲動を紛らわすのだ。

 しかし見渡せど野良猫の姿は無い。夕飯か雨よけか。代わりにひとりベンチに俯く女を見つけた。十七か十八か。おそらく売春だと思った。

 彼は電子タバコを吸い吸い女を盗み見た。

 本当に売春か、それとも失恋か、はたまた家出少女か。なんと声をかけるものか、思案する。

 ただ、口実はひとつあった。幸いにも霧雨は続く。傘が要るか要らないか、そんな程度の雨模様でも、とにかく鞄の折り畳み傘を少女の前へと差し出した。

「これ、使いますか」

少女は不思議そうに顔を上げた。

 瞬間、彼は言いようのない失意を感じた。少女は思いのほか清純そうな顔をしていた。派手な化粧もなければ髪の毛も野暮ったい。十五のようにも見える。なぜか、彼には嫌悪に近い動揺が湧いた。

 彼はとにかくこの娘をここに居させてはいけないと思った。しかし少女はあざとく微笑み首を傾げ、

「でも」

と言って遠慮する素振りを見せた。

「これ」

彼はそう言って、すかさず一万円札を差し出した。

 売春などしたこともない。やり取りも様式も分からない。ただ、目の前の少女を動かすには、金での要約が手短だった。

 少女は何も言わないうちから札を受け取り、貸した傘で隠れるように着いてきた。きっと少女も売春の様式が分からないのだろう。二人は公園を抜け、ホテル通りを行く。

 ビジネスホテルを選んだのはせめてもの配慮だった。誰に向けるわけでもない。ただ良心への微かな配慮だった。

 彼はチェックインに二人分の料金を支払った。それで部屋に少女を押し込むと、さよならするのが計画だった。

 しかし部屋の扉を開けるやいなや、少女は彼の脇に手を差し込むと、半ば強引に部屋の中へと引きずり込んだ。そして少し付き合えと言う。少女は窓際の丸テーブルに彼を座らせると、手際よくルームサービスを取り付けた。

 少女をホテルに置き捨て逃げるという彼の思惑が、どうして少女に知られたか、彼は不可解なうちにも大人しく席に着いた。彼女の動作から、多少の安堵を見出していたのだ。彼女ははなから清純などではなかった。

 彼がユニットバスのトイレで用を済ませている間に、部屋のチャイムが聞こえた。戻れば机にワインとグラス二つ。そしてオリーブの小皿。席に座ると彼女も向かい合って腰を下ろした。その際夏のブラウスから薄い胸元が見えた。彼は落ちついたようにそれを見届けた。

 彼は保身を打つように茶化した。 

「君、いくつ? お酒、駄目じゃないの」

彼女はふふっと笑いながら、小皿を手に取ると、その伸びる油の端へ、神酒のようにそっと口づけて見せた。その時面妖にも、彼には彼女の顔が十も歳を経たように大人びて映った。

「二十五。」

彼女は言った。それが本当かは分からない。あの公園で聞いたならばそれを嘘だと見破っただろう。しかし今は二十五だった。彼はワインの栓を開けた。

 ワインを一口、オリーブを一粒、そうやって手が動くうちにも、二人の話題は互いの印象をなぞっていった。

「お兄さんはいくつ」

「二十五」

「もう大人だね」

「まだ十代みたいだ」

「いつまでも子供だね」

「良い子に見える」

「良い子に見せてる」

「本当は不良」

「不良少女」

「の、お嬢さん」

「と、お坊ちゃん」

「そのうえ甘ちゃん」

「冷めたふりした、ね」

「何も知らないくせに」

「何も知りたくない」

「このままでいい」

「これで終わりたい」

彼ははたとグラスの手を止めた。軽妙な会話の途切れは、互いの意識をそれぞれに引き戻した。少女はにやりと微笑むと、指先の油をあらためて舐めた。そして、

「生きる意味なんてないよ」

と、追い打つように吐き捨てた。それは用意された台詞のように、室内灯の差す部屋に響いた。

「うん、生きる意味なんてない」

彼は彼女と同じ言葉を繰り返しながら、だって、と続けた。

「だって、命や生活に価値の差はない。生きていること自体が尊いんだ」

それは昨晩テレビニュースで見た、とある映画監督のインタビューの言葉であった。が、言ったものの、それがとても稚拙に思えた。薄く、意味をもたせるにはひどくずるい言い回しのように響く。

 彼女は彼の言葉に続けなかった。彼は情けなくなった。それで酔ったと言って、ひとりダブルベッドに身を投げた。実際、眠気が強く襲った。殴打のような眠気だった。期待もあった。彼女が同じベッドに潜り込んではくれないだろうか。そう夢心地に、次第に意識の敷居は閉ざされていく。

 

 鐘の音のような、あたりに轟く広漠とした音で目が覚めた。

 部屋は電気が落とされ、カーテンの隙間から紅色の外光が滲んでいた。

 彼はベッドの上で起き上がり、手元を見渡した。

 シーツに包まるようにして、彼女がうずくまっているのが分かった。

 彼は再び頭を倒し、薄明のなか天井を見上げた。知らぬ間に夜が明けた。よく眠ったように思う。そうして改めて鐘の音に耳を傾けた。それはある調子を持っていた。街に反響し間延びしているが、何かの曲を歌っているに違いなかった。聞いたことがある。童謡だろう。彼は思いつくままに、でたらめに歌詞を付けて口ずさんだ。徐々に歌がよみがえる。それは「赤とんぼ」だった。

 彼はいったん眉をしかめた後、飛び起きて時計を見た。十七時を差している。ならば十五時間は過ぎたことになる。

 彼はベッドから離れると、一息にカーテンを開けた。外光は朝日ではない。夕暮れだった。街は徐々に街灯を灯し、人々は繁華の道を往来し始めていた。

 彼はベッドを振り返った。夕映えに彼女の顔があらわになった。

 彼は息をのんだ。

 同じベッドで寝ていたのは、自分の母親に違いなかった。六十を過ぎた老年の母の姿だ。

 彼は動揺しながら、ゆっくりと眠る母親に近づいた。母は彼の動作に起きる様子はなく、すやすやと、いかにも安寧そうに眠っている。彼は母に顔を近づけた。顔の皺や染み、頬の下がりなどは年寄そのものだった。が、彼は不思議と嫌悪など覚えなかった。なぜかその母の姿に慈しみを覚えた。なぜか、美しさすらも感じた。

 彼は母の髪に鼻先を近づけた。年齢は皮膚だけではない。その古い脂の匂いも、また微かに聞こえる切れ切れないびきも、すべてが年老いながら、一方で幼子のような柔らかさがあった。

 彼ははっとした。

 母は眠っている。無防備な姿に彼女のすべてが露呈し集約している。そして、これが生命だと直感した。

 老母も若い娘だったのだ。

 しかし彼女は若さも美貌も、輝くような日々もすでに失った。夫と別れ、子供にも去られ、ひとりで過ごす孤独な魂。化粧も服も何も纏わず、わずかな貯蓄で生かされるだけでの無為な余生。何もかも失う宿命の、人間の結末そのもの。それが彼の目に映った。それはただ純然たる生命だった。

 生きている、と彼は思った。そして生きていることそのものが尊い、という誰かの言葉が、その時初めて自分の身のことのように思われた。

 彼は力なく椅子に腰かけた。ワイングラスが二つ、ほんの少し、まだ中身が残っている。その傍には薬包と、そこに微かに残る粉薬があった。

 彼は遠い母を思った。田水張る白銀の風景がうっすらと広がる。

 窓には街の繁華が揺らいだ。それを後ろ背に、彼は陰行くベッドを、落ち着いたように見届けていた。 (了)

 

安らぎの石

安らぎの石

 

 

 インターネット回線業者の営業職であった降矢は、給与の不満から独立を決意した。

同僚より成果を上げているにもかかわらず、それが正当な評価に反映されないのだ。

 降矢は自分のクリーンな営業を誇りとしていた。

 成績の水増しもしなければ顧客との癒着もしない。契約上のデメリットをあえて話さなかったり、顧客に過度な便宜を図ったり、夫人に色目や期待を使って懐に取り入ったりというのは、正当な需要供給の関係に悪影響を及ぼすとの信条だった。

 そのため、降矢は三十になるまで、地味でありながらも堅牢な実績を積み上げていた。内外の信頼も厚い。それも正当な商品説明や魅力を語る努力の賜物である。顧客に少しでも不利があればすぐに引いた。その誠実さが顧客に好かれた。

 しかしその一方で、自分と同じように出世していく同僚が鼻に付いた。彼らは決して能力が高いわけでも、分野に関する知識が豊富なわけでもない。ただ業務外での営業活動、ここでは浮気や賄賂に近い活動が行われていた。

 社内でそれが噂にならないこともないが、過程はどうであれ、一定の実績に評価と地位が与えられた。降矢はそれが不満だった。

 だからいっそ独立してしまう方が、自分の潔白な営業力を存分に発揮でき、その力を証明するとともに、相応の富を手にできると思ったのだ。

 ただ、降矢は特別な技術を持ち合わせているわけではない。入社後八年、ずっと営業をやってきた。そこで販売業に目を付けた。店を持つわけではなく、インターネットを使って商品を仕入れ、販売するのである。それならば、今ある技術で何とかなりそうだと思った。

 退職後、慣れない英語を使い、日本で受けそうな商品を海外から仕入れた。

 オーストラリアのマヌカハニー、台湾の桜エビ、中国の激安クッション、シンガポールのゴムベラなど、当たりそうだと思う品物には次々と手を出した。営業の仕事を思い出しながら、隅々、できるだけ丁寧に商品紹介などを行った。しかしどれも上手くいかなかった。ただ仕入れて売るだけでは何かが足りないのだ。

 そこで降矢は前職に使っていた手帳をめくり、営業訪問で懇意となった好人物らしい金満家の主人の連絡を探した。大きな屋敷の主人だ。

 営業訪問から契約まで、実際彼に会ったのは数度のことだが、不思議と互いに馬が合うのを感じた。営業をしていたらそういう経験がまれに起こる。言葉を交わしただけでこの人は信用に足ると直感するのだ。

 この主人はとりわけそうだった。話せば母親の故郷と同郷らしい。九州から身一つで上京し、苦労と努力を惜しまず糧にし、身を立てた大人物だ。

 降矢は純粋に主人を尊敬していた。また、主人も相当な身分であるはずなのに、いっぱしのサラリーマンである降矢を尊重してくれている。それが言動の端々から伝わるのである。

 主人に商売のコツを賜ろうと思った。

 彼ならきっと何か有益な金言を渡してくれるに違いない。また、そうでなくても、降矢は個人事業をする中で、どこか同じような境遇の人と何かしらのつながりを欲していたのかもしれない。それが先駆者であればなお心強かった。頭には、主人の皺の多い笑顔がちらついていた。

 連絡を入れた。緊張はあった。冷静に考えれば数度会っただけの若造。しかし契約後も小まめに連絡をいれておいたのが功を奏したのだろう。すぐに会う運びとなった。降矢は喜んで日取りを設定した。

 訪れてみると改めて主人の富を目の当たりに感じた。その屋敷をはじめ、玄関にある一枚板のついたて、ありがたそうな横物、本物か、三張並ぶ弓の置物。それらを見れば、富を一から築き始めた降矢にとって、改めて彼が相当な富の所有者だと実感する。

 主人は降矢が来る時間を予期していたように上がり框に腰かけ待ち受けていた。

 インターホンは鳴らさない決まりだった。誰が屋敷に訪問したのか近所に知られないためだと、主人は以前から降矢に釘を刺していた。

 簡単な挨拶を入れ、互いに変わりないことを喜んだ後、降矢は主人に正直に切り出した。

「実はこの度独立しまして。しかし方々手を出しましたが、どれも一向にうまくいかないんです。何か成功のコツというものを、ひとつご教授願えませんか」

主人の笑顔は健在だった。そして意味深く頷いたのち、

「実は、初めてお会いした時から、いつかあなたがそうなるのではと睨んでいたのですよ」

と、優しく微笑んだ。

 それから主人は降矢を座敷に通した。広縁は開け放たれ、初夏の風がさわやかに吹き込んでくる。庭は広壮だった。一面に白砂利がしかれ、大きな飛び石が打たれている。そこにとんとんと低木の植え込みが、石灯篭が、影石が、松の木が、適度な距離を保ったまま庭の景観をなしていた。居心地が良いのだろう、日向の砂利の上には雉鳩が二羽、とっぷりと腹を沈ませ休んでいる。外と中は筒抜けだが、不思議と虫一匹入っては来ないようだった。

 光沢のある唐木の大きな座卓の前で、主人は見事に膨らんだ腹を抱え依然と微笑んでいた。白いポロシャツが腹の形に伸びている。その下は野暮ったい灰色のスラックスだった。変わらないなと降矢は思った。記憶の通りの姿だ。おそらく、それだけ見れば街中の人は決して彼を金満家だと思わないだろう。主人はどこか、富が外に晒されるのを嫌う節があった。しかし、いざ座敷に飾られた品々に囲まれてみるとそれだけで、豊穣の富を司る木像のように有難くも見えてくる。

 降矢は息をのんだ。主人は豊かな微笑のまま、「家の者は生憎出ておりますから、お茶の一つも出ませんが」と断ったうえ、

「成功のコツ、ですか。正直、僕は何もコツなんてわかっていません。そう、運がよいだけで」

と口を割った。

「ただ、降矢さんとはどこか不思議なご縁を感じているんです。なんだか昔の自分を見ているようで。だから普段人に言わないことも話していいかと思ってしまう。」

そして微笑んだままひとつ床の間へ顔を向けた。

「あれをご覧ください。僕はあれらの石を持っている。僕がもし幸運であるとするならば、きっとあの石たちの力でしょう。だから僕が特別すごいのではないですよ。あの石たちがすごいんです」

主人の口から唐突に石と出て降矢は薄い嘲笑を隠せなかった。主人の謙遜だと思った。

「ご冗談を」と言いかけたが、しかしふと見た主人の微笑みが、まっすぐ床の間に並ぶ鉱石をとらえ、張り付いたように動かないことに気が付いた。その様子が妙な迫力を持っている。降矢は瞬時に主人が本当にそう信じていると察した。床の間の鉱石は主人の目に答えるように、陰る座敷の微かな光を吸って煌めいている。

 降矢はおとなしく話を促すほかなかった。

「……そう、ですか」

「いや、馬鹿馬鹿しく思われるのもわかりますが、実はこれが本当で。……石の力は必ず存在するんです。現に僕がここに居られるのも、きっとあの石たちのお陰だと、日々感謝している次第でして。」

どうも話がきな臭くなった。降矢は苦笑いを浮かべた。人の弱みに付け込んでくる輩の多いことは、これまでの営業でも幾度と経験してきた。このまま話に乗ると、石を買えだとか入信しろだとか、そういう話になるに違いない。降矢は毅然としろと自分に言い聞かせ、咳ばらいをひとつ入れた。

「いや、すみません。残念ですが、私はそういった分野にほとほと疎くて。実はあまり、スピリチュアルな話は得意ではないんです」

主人は日向のように笑った。

「僕も自分だけでやってきた身分ですからね、あなたのお気持ちは嫌でもわかります。怪しいなと、そうお思いでしょう。ははは、安心なさってください。買えなどとは言いませんよ。あくまで僕はそう思ってやってきた、というだけのお話ですから」

主人の明るんだ笑いに、降矢は息をついた。

「すみません、私はてっきり……」

「いやいや、構いません。……しかしいち友人として助言しますが、一人で事業をやっている限り、いつかとてつもない壁にぶつかることは必至でしょう。それはひどい疑心や不安を伴う。世間は鬼ばかり。それは真面目に、誠実に生きれば尚更……。そんな時にただ一つ助けになるのは、自分の心のありようです。僕が石を持つのは、要は願掛けみたいなものです。石の力とはつまり願うこと、それ自体に力がある。ほら、初詣なら誰だって足を運ぶでしょう」

「心のありよう、ですか。なるほど。確かに初詣なら誰だって……」

降矢は何度か頷いた。緊張は少し和らいだ。それを主人は察したか、本当の親族のように表情を柔らかにした。

「まあ、あくまでお守りのようなもんです。僕が何かお手伝いできるとしたら、こんな程度のことで……。しかし何度も言いますが、やるもやらないも心持ひとつで変わってくるものですよ。僕はそれに助けられた、というだけのこと。もし興味がおありでしたら、ひとつでもふたつでも、持って行ってもらって結構です。もちろん持って行かなくても……」

主人はそう言ってこくこくと頷いた。降矢も合わせるように頷き、ふたりは黙った。

 いざ選択を委ねられると不思議なもので、降矢の心は左右に揺れた。主人はくれると言う。それは単純に主人の好意に思えた。人の好意を無下にするのは苦手だった。懇意な中の好意だ。そこに打算は見えなかった。金をとる様子もない。

 それにもし万が一ひとつでも貰ったとして、それで自分に不利益は起こるだろうか。部屋の置き場所をとるぐらいのもので、他に困ることがあるだろうか。

 主人は考え込む降矢を見かねてか、丸々とした黒い指を折り、口を開いた。

「念のため申し上げますが、石はそれぞれ力が異なります。ざっと申し上げますと、招福、勝負運、財運、健康。厄払いや良縁結び、安産、長寿、学業成就。あとは継続力に、直感力、浄化作用。それに心の安らぎ、なども……。」

主人が挙げた効能は、どれも今の降矢にとって魅力的なものだった。同時に妙な引力も感じる。願いとは自力で生きようとする者にとって、これほど頼りたくなるものかと、効能を聞くうちにもまた強く心が動いた。

 降矢はしかし首を振った。

「いや、ご厚意はありがいのですが。やっぱりまずは自分の力だけでやってみようと思います。小細工なしにやると決めていましたから。」

それが降矢の答えだった。誘惑が強い分、かえって降矢の本質が強く出た。

 主人は微笑んだ。

「よろしい。それもひとつ、心のありようです。」

主人は満足そうにそう言うと、頑張れよ、と降矢を激励した。

 

 それから幾月かが過ぎていった。

 降矢の生活は努力むなしく悲壮をたどった。

 ここしばらくは、事業に挑戦する余裕すらなくなってしまい、日銭を日雇い労働で稼ぐ次第となっていた。

 いつしか希望や精力に満ちた目も曇っていく。それにつれ人相や生活も粗雑となった。

 しかしそれでも、最低限の誘惑や暴力には抗った。博打も打たない。女も買わない。苦しい中でも、周囲の人間にはできるだけ誠実に尽くした。金の無心だってしなかった。が、悲しくも、月日のごとに友人や恋人は彼の元を去っていった。

 また、それまでのマンションにも住めなくなり、とある河岸の近く、狭く湿った部屋に移り住んだ。生活資金の調達のため、部屋には家具も少なくなった。畳の縁が黴で青く広がるのをただ見つめて過ごした。

 降矢は困窮した。何もない部屋で時々思うことは、あの屋敷にあった石のことだった。あの床の間で怪しげに煌めく鉱石たち。もしあれをひとつでも貰い受けたなら、何か状況は変わっただろうか。好転したのだろうか。そんな憶測ばかりが浮かび消えない。

 降矢はやがて無気力になった。

 日長黴臭い借家の布団で過ごすことが多くなった。日雇いも休み勝ちになった。一度休めば思考は泥沼のように粘着した。休んだことに対する自責が、さらに体を布団に押さえつけた。

 売る家具も尽き、生活を続ける上で、事業のために分けておいた残り少ない資金にも手を付けた。それももう底が見え始めている。

 それでも心臓は動いていた。腹も減る。半額弁当の生活だった。食べ終えた容器に残るのは、いつも先行きの不安だった。

 ふいに不思議なほど不安に対する恐怖が奮って、体が動くときがあった。それで数日日雇いにでると、また少しばかりの金に甘えた。何も進まなくなった。不安ばかりが深くなっていった。

 まるで畳の下に、井戸でもできたような心地だった。

 それはどこまでも深く、底が見えない。

 ただ安心が欲しくなった。降矢はもう事業だの成功だのを考える力もなくなっていた。ただ安心したい。この行き詰った日々の生活に安心したい。

 降矢は湿った布団の中でできるだけ理想の未来を描いた。

 それは湖畔の小さな家だった。そこには慎ましやかな生活がある。木を伐り、椅子を作る生活だった。午後には小さな妻と幼い子供とを伴って釣りをするのだ。そして日暮れの水面を三人で眺める。淡い色彩がゆっくりと移ろった。幸福だねと三人で笑った。日が暮れてしまうと夕飯が待つ小さな家へ、手をつなぎ湖のほとりを歩いて帰った。そこで子供が声を上げる。地面に埋まっていた美しい鉱石を見つけ、それを手に取る。宝物だねと微笑み合う。

 気が付けば、夜の布団で泣いていた。明日にでも、主人の屋敷へ行こうと思った。

 

 玄関に入ると、主人は待ち伏せていたように奥の陰から姿を現した。この日も屋敷には相変わらず主人だけのようだった。

 降矢の突然の訪問にも、変わらずにこやかに迎えてくれた。そしてまたあの座敷へ、何も言わないうちから通してくれた。

 降矢は主人と座卓に対面するなり包み隠さず現状を訴えた。

「事業は結局うまくいきませんでした。それどころか、日雇い労働で生活を補う日々です。友人も、恋人も失いました。私はもうおしまいです」

主人は静かに頷いて話を聞き、なぜここに来たのか、その理由は尋ねなかった。

「何がいけなかったんでしょうか。私は事業のために真面目に働きました。友人や恋人にも、誠実に尽くしたつもりです。ただ金がないだけで、将来が不確定なだけで、それだけでこんな仕打ちを受けるのでしょうか。私はなにも悪いことなんかしていない」

主人は静かに口を開いた。

「事業は運もあります。どれだけ緻密にやっても、上手くいかないことがある。ご友人や恋人だって、何か事情があったにすぎません。人の心のことですから、彼らの人生を咎めることは誰にもできないのです。……しかしあなたは十分奮闘なされた。それだけでいいじゃありませんか」

「しかしあんまりです。私は何も悪くない。これまでだって、ズルのひとつもしないでやってきたんだ。これがその末路ですか。無慈悲だ、不条理だ。」

降矢はわめき、肩を震わせ俯いた。いま思いを主人に晒すことが、道理でないのは分かっていた。が、孤独になった今、目の前にある善意にその心をぶつけることしかできなかった。

「以前にも申し上げたが、生きていく者にとって、世間は苦しみで溢れています。それらはたとえどこかに属していたとしても。ただ、それも心のありようです。もしあのまま事業が進めば、もっと大きな借金を抱えたかもしれない。ご友人は遅かれあなたを見捨てるような者たちだった。恋人だっていずれ他の……」

「もう、いいんです。そのことは。ただ、不安だ、不安なんです。」

「不安、ですか。しかし不安というのは、人生の大事な……」

「いいから石を」

「……石?」

「石をください。私はただ人生に安らぎが欲しい。もう何もいらないから、安らぎだけでいいから。私に心のありようを。安らぎのありようを。確か、あったでしょう。安らぎの石が。」

主人は優し気に頬を緩めた。そこにそよ風が外から入る。雲が流れ日を隠したか、幾分主人の顔が青黒く変色したように陰った。

「あなたが以前におっしゃった、心のありようとはつまり梯子のようなものでしょう? 私は何かに捕まっていたい。しがみ付かなきゃ落ちてしまう。それがあの石の力でしょう?」

「ええ、その通りです。あなたもようやくお分かりになられたようだ。」

「それを、どうかいただけませんか。今にも落ちてしまいそうで私は、」

「安らぎの石なら、ここに」

主人はそう言って、懐から銀の鉱石を取り出した。それは刀のように細長く、黒光りしていた。

「ああ、それが。ずいぶん、他のと比べると小さいものだ」

「ええ、だから置石には適していません。これは、このように肌身にずっと抱えているものです」

主人はそう言いながら、座卓の足に隠していた工具箱から、木づちを一本引き抜いた。それをどうするかと考える間もなく、主人はその木づちを、座卓の鉱石の上にたたきつけたのである。それは存外、軽い音をして机の上に砕け散った。

「ああ。何を。」

降矢は身を引きながら声を上げた。主人はくれると言ったそばから石を破壊した。その一挙に困惑する降矢に介せず、主人は丸い指でその欠片を集め出した。そして数粒まとめると、降矢にそれを差し出した。

「これを、庭の鳩にやりなさい」

それは低く引力のある声だった。しかし笑みは絶やさずにいる。降矢は色を失いながらも、それが降矢を救う意味のある行動だとして抗えなかった。降矢は手を差し出してその粒を手のひらに受け取った。

「これを鳩に。いったい」

「いつも餌を撒いてやっていますから、奴らも慣れたものです。ほら、多少の音がしたって逃げもしません」

主人は彫刻のような微笑を湛えたままだった。その圧力に押されるように、降矢は座布団から腰を上げ、広縁へと出た。庭には主人の言うように、鳩が以前と変わらず白砂利の上に腹を休めている。そして降矢の影を見ると、鎌首を上げ二羽とも彼の足元に近づいてきた。

 降矢は主人に言われるまま、手のひらの小さな粒を庭先に放り投げた。あまりに小さく、ほとんど感触も重量もない。降矢は鳩が砂利に紛れた粒を見失うだろうと案じた。しかし二羽の鳩はそれぞれ、器用に砂利の間からその粒を探し出すと、とんとんと、そこにあるだけ平らげたように見えた。これも主人が日頃から調教してきた結果だろうか。

 降矢はしばらく鳩を見届けた後、頭を翻して主人を見た。主人は陰の座敷に、なぜかまっすぐ、奥の襖を見つめたままだった。

「やりましたが、これでいいのでしょうか」

降矢は問いかけた。

「やりましたか。確かに食いましたね」

「ええ、おそらく」

「ではそのまま鳩を見ていてください」

降矢は言われるがまま庭を見下ろした。鳩は餌の続きがないか、未だに辺りを模索している。と、次第に鳩の様子が妙になるのが分かった。首を前後に揺らしながら、胴がふらふらと揺れる。すぐ、足元もおぼつかなくなり、やがて尻と嘴から、血を噴き出してひっくり返った。

 降矢は声を上げた。鳩は二羽とも、目の前で吐血し死んだのだ。

「ご主人」

降矢は叫んだ。が、すぐにさっきの鉱石だと合点した。

「毒なんだ」

「輝安鉱と言います」

主人の声が後ろ背に聞こえた。

「キアンコウ。」

降矢は子供のように復唱しながら、鳩の亡骸から目を離せないでいた。が、一つ身を震わせると、一心不乱に両手をはたいた。

「どうして毒なんか。」

そう嘆きながら、降矢の心は激しく動揺した。

 俺がやったのか。俺のせいなのか。

 俺は悪くない。俺は殺してない。

 降矢の顔は険しく歪んだ。そしてその顔を座敷へ向けた。座敷の陰は答える。

「あなたが殺しました。……つまり、それが安らぎです」

降矢は一瞬間黙った。そして威嚇に似た笑い声をあげた。

「は、は、毒が安らぎですか。それはつまり死という、」

「いいえ」

座敷の声は打つように退けた。そして続ける。

「死ではなく、罪が僕らの安らぎです。悪が心の楔です」

降矢は何も言えず陰を見つめた。主人は続ける。

「どうですか。梯子が、あなたの井戸に掛かりましたか」

降矢はそんな囁きを耳にしながら、広縁に佇み、自分の両手と鳩の死骸とを交互に見つめた。知れず、両手に重みが生まれた。何か、得体の知れない手ごたえを感じた。

 雲が切れる。日が差して、座敷に主人の姿が見えなくなった。陰には大黒天の彫像が浮く。

 あんなものあったろうか。

 降矢は身震い、正気を求め、足でひとつ床を鳴らした。 (了)

蜂の飛行高度

 

 蜂が背から、耳の縁を通っていく。

 そのたびに僕は首を縮めて、目の横に映った黒い影が遠くへ行くのを見届ける。

 その間ひと時暑さを忘れ、そして次第に彼らを憎む。

 それは毎年のように経験することだった。

 ──虫の飛行する音が今でも苦手だ。

 とりわけ甲虫系の羽音。中でも蜂の羽音。

 あの小型扇風機のような音が聞こえるたびに、奴らはどこに潜むのだろうと探してしまう。近頃そんな季節になった。

 羽音がすれば当然、彼らはそこにいるのだ。生垣の隙間、低木の縁、軒の裏。

 僕は彼らの動きに注意する。彼らは前足や頭を熱心に動かして何かをしている。いつも、何かをしている。

 加えて迷惑なことに、彼らは好奇心や警戒心が強い。

 こちらは用などないのに、彼らは決まって断りもなく近づいてくる。すぐ去れば何も言わないが、どうかすれば僕の頭や体の周りを回って調べたりする。

 彼らの多くはこれが生まれて初めての季節だ。好奇心が強いのは仕方がないと思う。仕方がない一方で、彼らは彼らを嫌う者を感知する、そんな器官をもつのではとさえ思う。

 彼らは背後からなんの予兆もなしに飛んできて、わざと耳のそばを通ったりする。そのたびに僕は肩をすくめて、体を強張らせ、時にはいきおいあまって首を痛めることもあるし、外を歩いているのだからそんな僕の奇怪な動きを周囲に晒すことにもなる。僕は恥ずかしい。彼らはそれを楽しんでいるのではとさえ思う。

 もし幽霊が臆病な人の前に限って現れるなら、蜂もそうだと僕は思う。彼らは半ば怖がる僕のような人を驚かせるために現れるのだろう。

 つまり、彼らを怖がらなければ、彼らの方も面白くないはずだ。

 一度、蜂が平気な人を見たことがある。それは野外の森林に囲まれた会場で、小型のスズメバチが一匹、テント屋根の中に入ってきた。

 多くの人は怖がってその場から離れたが、その人は逃げなかった。そして蜂はなぜかその人の太ももに止まった。やはり、人を驚かせることを目標にしているのだろうと僕は確信した。しかしその人は身動き一つしなかった。

「こっちが何もしなければ、蜂も何もしてこない」

そう言ってその人は笑っていた。その人の言う通り、蜂は少しの間彼の太ももを調べると、何事もなく外へ飛んで行ってしまった。僕は瞬時に彼を尊敬した。自然と付き合うとはこういうことだと思った。つまり蜂を見るとすぐ刺される、と恐怖するのは、いかにも自然に対し自意識過剰なことなのだ。自然は危害のない人を攻撃するほど、そんなに暇じゃない。ただ時々、面白がって寄ってくるのだ。

 しかしそんなふうに思い込もうとしても、蜂の恐怖を拭い去ることは容易ではない。

 というのは、人がアシナガバチに刺される場面を幾度か見たことがあるためだ。

 その多くは細い雑草道を通った時だった。大方巣が近くにあったのだろう。刺された人の患部を冷やすさまを見るたびに、僕は改めて蜂が怖くなった。

 人々は、蜂に生涯2度刺されるとアレルギーで死ぬと言って僕をおびやかす。長い人生で毎年のように蜂に出会うのだから、2度ぐらいすぐだと思う。

 僕はこれまで一度も蜂に刺されたことがない。なのに、もう生命の危機を感じている。死という誘惑を持ちながら滑稽だろう。僕は結局、辞世というものにどこかファンタジーを描いているに過ぎないのだ。死とはつまり、蜂に耳の傍を飛び回られ、その恐怖に耐えながら2度刺されるのを待つ、くらいに恐ろしいことである。ということを、しっかりと心にとめ確認しなければならない。

 とすると、死の恐怖が夏の空を飛んでいる、とも例えられるような気がする。しかもそれは羽音を上げてやってくるのだから、怪談のような演出付きだ。中でも耳朶に響くのがクマバチのもの。彼らの羽音は力強い。

 そんなクマバチに刺されたという幼児の話を聞いたことがある。

 僕がまだ小学生ぐらいのことで、夏休みに母の古い友人が遊びに来た。

 母の友人には幼稚園児の息子がいた。彼は大の虫好きで、虫を収集する趣味があるらしい。だから虫を見つけると必ず追い、捕まえに行くのだという。それはクマバチも例外ではなかったようだ。

 道に飛んでいるクマバチを見つけて、それを捕まえようとしたらしい。しつこくかまいにいって、案の定刺されてしまった。幸い大ごとにはならずに済んだらしい。

 僕はその話を聞いて、小学生ながらにぞっとした。きっとあの黒くて存在感のある塊を握ったに違いない。その感触は柔らかくてふわふわして、そして少し硬いのだろう。あの羽音だから、羽ばたく力も強いのだろう。手中でバタバタと強い羽ばたきを感じるのだろう。そして手のひらにちくりと痛みが走る。きっと痛いだろう。泣いただろう。

 しかし大人になって、クマバチは温厚だという話を聞いた。ミツバチの大きなものと言われれば、その温厚さが想像できる。

 そして針を持つのはメスだけらしい。藤棚やハナミズキに群がっているのがそれで、一方オスはというと、よく上空にホバリングしているのがそれだそうだ。なぜホバリングしているのかというと、通りがかるメスを待っているらしい。オスは針を持たない。メスと交尾することだけが能らしい。だからよく道の上で羽音を鳴らしながら停止しているのは、警戒しているわけでも威嚇しているわけでもない。メスをただ待っているのだ。

 時にはそんなオスのクマバチが、首筋に降りてくるときがある。あれはどうやら動くものをなんでもメスだと期待して見に来ているらしい。もしくはほかのオスだと思って縄張りを主張するのだ。彼らは視力がとても弱い。ツバメを追うクマバチを見たことがある。きっと奴は食われただろう。

 だから近づいてくるクマバチにおびえる必要はない。針もないし戦う力もない。メスは針を持つが、どうやら温厚らしい。それは、他の蜂の多くは集団生活で、巣を守る役割がある一方、クマバチは単独行動らしい。巣を守る必要もあるときはあるが、何より自分が無事ならばよいのだ。だから無闇に戦わない。

 しかしそんな知識を得たとしても、やはり僕はあの羽音を聞くと、首を縮ませずにはいられない。わかっていてもだめなのだ。それは僕の幼少からずっとそうだった。

 怖い理由は昔から分からない。母の友人の息子のように、無知であるがゆえに怖いもの知らずでもなかった。知っても知らなくっても怖いのだ。

 怖いという思いとともに、クマバチの羽音を聞いて思い出すことがある。父方の祖母だった。

 祖母は僕が十代のころに他界してしまった。記憶の面影だけでも、上品な女性だったと覚えている。背が高く、すっとたたずみ、花の刺繍が入ったブラウスを着ていた印象が強い。いつもお香の香りがした。骨ばった手は太い血管が浮き出ている。ほら、と言ってその血管を見せてくれた。手や腕の皮膚は力なくたわみ、柔く薄いゆえのやさしさがあった。老年は髪染めをやめて美しい白髪だった。いたずら好きで茶目っ気があった。どこで入手したのか、ひょっとこのお面を被って、帰宅した僕を驚かせたりした。遊んで帰りが遅くなった僕に夕飯は食べてしまったと嘘をついたりした。

 僕が幼少の頃、一度祖母と買い物かなにかでふたりで出かけていた帰りのことである。

 夏の日で、祖母は日傘をさしていた。今はもう廃園となった、幼稚園の脇を通っていたときのこと。そこは短い桜並木だった。

 道の片側は車道で、もう片側から桜の木が枝を伸ばし、道に木陰を降ろしている。

 そこにクマバチが飛んでいた。例のホバリングだった。そして桜の枝があるから、ずいぶん低いところを浮遊していた。

 僕は当然怖がった。きっかけを与えればすぐ顔の前に飛んで来られる距離であるし、クマバチの方もそんな僕を察してか、心なしか行くぞ、行くぞと身構えている気だってしてくる。

 僕はきっと泣き顔を浮かべていただろう。別の道を行こうと訴えたかもしれない。

 しかし暑い日のことであるし、祖母は汗っかきだった。わざわざ遠回りして帰るという面倒なことはしなかった。祖母はきっと僕を弱虫だなと思ったに違いない。祖母は困ると笑うを両方顔に浮かべていたと思う。

 すると祖母は怖気づく僕を見かね、あの血管の浮いた柔らかい手で僕を腰に寄せると、さっと日傘を傾けてくれた。

 日傘は僕の視界を隠した。風景は陰り、クマバチは見えなくなった。クマバチもきっと、僕が見えなくなったはずだった。僕とクマバチの間にシェルターが生まれた。

 そうやって、僕と祖母はクマバチの下を潜り抜けた。日傘の思いもしない用途に、幼い僕は幾らか感動したはずだ。クマバチを力づくで追い払うこともなければ、僕らが逃げる必要もない。ただそっと穏やかに、間に何かをいれてやれば、脅威も思っているほど大したものではないのだ。

 年の甲だと言えばそれまでだが、大げさに言えば物事との付き合い方を教わった気がする。そしてそれが奥ゆかしく思えた。僕はそれに感動したのだろう。今もそんなささやかな所作を覚えているのだから。

 そんな感動があったから、今でもクマバチを見ると自然と祖母を思い出す。

 そしてクマバチが嫌いな自分も同時に思い出すのだ。

 実は祖母の命日も回忌も覚えていない。僕にとってはクマバチの季節が、祖母の命日のようなものであった。

 話は少し逸れるがあることを僧侶から聞いた。

 死者の魂は、人の頭の少し上を移動するらしい。そしてそこから娑婆を眺めるのだとか。

 それはちょうど、蜂の飛行高度のあたりではないだろうか。 (了)

 

もうやめて

 

 悪寒と共にくしゃみが出た。

 ひどいくしゃみで、痛みと共にティッシュには黒い血粒が付いた。

 翌日には発熱で、一日中布団にいた。

 その熱が少しだけ弱まったころ、これはいけないと総合病院に連絡をとり、熱が引いた翌日に検査、またその翌日には陰性という結果をもらった。

 そのまま最寄りの耳鼻科に電話をした。

 この時にはもう熱の上がることはなかったが、鼻や目の周りの重たさ、関節痛、悪寒、冷や汗は依然として残っていた。油断すればどうかするともうひと波、病としても火事場の馬鹿力か、灯滅せんとして光を増すか、ともかく彼らの報復が起こりそうな気配がある。

 幸い、耳鼻科はその日の診察時間を過ぎたところに、ひとつ席をとってくれた。ありがたかった。

 僕は車を運転し、耳鼻科へ向かった。雨が続いたあとの、少し冷える午後のことだった。

 

 その日は世間的に休日であったが混んではいなかった。診察時間を越えているためだろう。

 待合には大人が3人ほど、入ってきた僕に目も向けず、皆俯くなどして長椅子に掛けていた。

 受付を済ませると、僕も彼らと同様、空いていた一番後ろの席に座った。

 その背に窓があって、換気のために開けてあった。レースのカーテンが風にゆらゆらと動いている。僕はそれを首筋に受けながら、うっとうしいがじっと我慢した。その席が空いていたのはそのためだろう。

 数分と経たないうちに帰りたくなった。カーテンが絶えず僕にちょっかいを掛ける。

 布団が恋しい。やはり出てきたのは失敗だった。そう悔やむ自分の背へは、製氷のしずくを落とされるような作為的な寒気があった。窓風のせいかもしれない。僕はできるだけ背中を丸め、それ以上体熱が出ていかないよう努めた。

 診察は願うほどスムーズにはいかない。十数分と待っても、待合に動きは起きない。

 停頓したところ、やがて僕は待合の彼らすべてが子供連れであることに気がついた。

 パーテーションで区切られた4畳半ほどの玩具スペースがある。幼児がふたり、そこで遊んでいる。加えて小学生らしい女の子がトイレから出てきた。女の子は親らしい女性のそばに、僕から隠れるようにして座った。

 加えて数分もすると、あとからまた子連れが、3組も新しく訪れた。

 けっきょく待合に居る人々は、やはり僕以外すべてが親子だった。

 途端に騒がしくなった。増えた子供はそれぞれ、親にくっついてひそひそ話をしたり、玩具スペースに参入したりした。積み木の崩れる音が、絶えず続いていた。

 僕は首を伸ばした。受付の奥に治療室が筒抜けに見える。先生の眼鏡と、患者の後頭部が見える。診察は悠長なように思えた。

 僕の苦しむ顔が面白いのだろう。前の長椅子の背から、ひとりの男の子が僕を盗み見しているのと目が合った。そして合ったとわかるとさっと頭を隠した。

 好奇心の強い多くの子供がよくそうするように、散切り頭は再び背から覗き、僕を盗み見た。そして目が合うとまた引っ込め、また覗き見て、隠れて、見て、そして無邪気な微笑みを浮かべる、という様子だった。

 遊びだと分かると僕もやぶさかではないから、寒気も忘れて、手の甲や文庫本で顔を隠し、「いないいないばあ」の要領で付き合うと、数回もやらないうちに勝手に向こうが飽きて止めてしまう。だから僕は幾度か、ひょうきんにした顔を、なさけなくも受付の女性に晒すことになった。それも慣れたものなのか、受付の女性は冷淡にもすっと顔を下げ、作業を続けた。

 その冷淡な頭の後ろから、治療室の子供の叫び声が上がった。同時に母親や看護師、先生の笑い声が上がる。子供とっては辛いひと時だろう。見知らぬ白衣の老人から、意味もわからず鼻に管を入れられるのだ。そしてそれを笑われる。

 僕はいよいよ真剣に帰りたくなった。

 和やかなのは結構だが、笑い声に待っているのは煩わしい。子供などに遠慮せず、力づくにでもさっさと器具をその鼻に差し込んで処置を終えてしまえと思った。

 僕は苛々とした。どうも、自分の番まで長く掛かりそうなので帰りますと、幾度も申し出ようと思った。

 しかし背骨の寒気が、帰るにしてもそれ以上の活動を拒んでいた。程度を越えると、身体のどこかにある、ブレーカーのような開閉器が落ちてしまいそうな気がした。

 暑くはないのだが、汗で額が湿った。視界の中の様々な輪郭がゆるんだ。首筋にまで汗が垂れた。と思いそこに触れると、首筋はカサカサに乾燥していた。

 鼻の奥が重い。咽頭に濡れた鉛筆の削りカスを詰められたような心地だった。そこに苔だとか黴だとかが生えていそうな病的な異物感があった。

 一段と強い叫び声が上がった。

 治療は佳境を迎えているらしい。

 声の方にまた首を伸ばしてみれば、治療台に看護衣の後ろ肩が見えた。どうやら座る看護師の上に、叫び声の主が乗せられているらしい。看護師の肩から栗皮色の後頭部が揺れて見える。後ろから羽交い締めにされているらしい。僕の願いがいくらか通ったのだ。

 言葉にならない叫びが続いた。いかにも子供らしい危機への反応だった。

 そのなかで、ふと通るようにして、少なくとも僕には、院内に響くようにして彼の言葉が聞こえた。

「もうやめて。もうやめて。」

僕はそれを聞いて盗み笑いをせずにいられなかった。

 それは、おおよそ子供が使うような響きには聞こえなかった。簡単な単語、例えばイヤ、でも、ヤダ、でもない。

「もうやめて。」それが随分おとなびた調子で聞こえたのだ。

 もう、やめて。

 僕は頭の中でその言葉を反復した。

 もう、とつけるのは、真摯に、切に嫌なのだろう。それでも医者は止めないのだろう。

 僕は彼らの背を眺め続けた。母親は?

 母親らしき女性は、赤子を抱えて診察台のそばに、微笑みながら揺れていた。看護師はついに3人がかりで子供を取り押さえている。

 子供の声はすぐ、意味を持たない叫びに戻った。子供が必死なうちに用いた「もう」は通じなかったのだ。

 僕は「もう」という言葉を考えた。程度を越えた時の、それは言い得ない感情のうったえだ。続いてその「もう」を使う場面を考えた。やはり切迫し、懇願するときに使うだろうと思った。それはやはり言葉にならない感情の乞いなのだろう。もう限界です。もう歩けません。もう無理です。もうやめて。もう、もう、もう。

 

 やがて治療を終え、母親と子供は診察室から待合に戻ってきた。

 子供は随分ほっとした顔をしているのだろう。僕はそんな顔を期待して待っていた。しかし実際の彼の顔は、随分不機嫌そうなものだった。

 そうか、と僕は思った。終えてさっぱり安心するのではなく、怒るのか。僕はそんな意外な感動に彼の顔を眺め続けた。

 待合のしっかりした長椅子は患者で埋まっている。母親は柱に置かれた古い籐の椅子に座ると、膝がしらにその子と向き合った。

 男の子はというと母親を鋭い目で睨みあげ、じっとその場に立ち尽くしている。そして触れようと伸ばされる母の手を避け、身体を左右に振り回し不服を訴えた。

 そうか、と、僕は再度思った。

 彼は先生でも看護師でもなく、「もうやめて」と懇願しても助けなかった、母に怒ったのだ。

 男の子は母の腕を弾くと、その手で数回、母の膝をいかにも弱弱しく叩いて見せた。

 それでも母親は笑い、腕で彼の頭を引き寄せ包むと、その膝の間に彼を取り込んでしまった。

 男の子はそれから抵抗する様子もなく、なされるまま頭を母親の腹にこすりつけた。母親はその頭をゆっくりと撫でている。

 それから男の子はじっくりと母の腹を味わい、やがてうずめる顔を反転させ、抱かれながらその面を周囲に晒した。

 それは不機嫌なままの、鋭い顔だった。そして僕と目が合う。

 僕は例によって彼も笑わせるべく微笑んで見せた。しかし彼はさらに目をきっと細め、鋭く僕を睨み返した。

 そこには他の子供たちにあったような、大人に対する恐怖も、未知の者に対する羞恥も遠慮もない。隠れることも、止めることもしない。彼はただ僕を睨んだ。

 僕は彼の睨みを受けながらいろいろと考えた。

「僕は何も悪くないじゃないか」

そう諭しもしたい。しかし彼は耳も貸さないだろう。彼の「もう」は治療台で失われたのだ。かわりに世間への敵意が残ったのだ。彼にとって見知らぬ僕は、見知らぬ世間の悪意だった。しかし本当の彼の心はもうわからない。ただ彼の鋭い目が僕に注がれ続けた。

 次の患者が呼ばれた。僕の番はもっと後だろう。僕の治療はずっと後だろう。

 窓から風が吹いた。ひとりの背が冷える。背が寒い。 了

だれかれの恋

 

 寿賀子の恋愛話を、もう興味を持って聞く者はあまりいない。

 というのも、彼女の恋愛話は聞くたびに相手が変わるのだ。

 そしてそれらすべてが片思いだった。

 二十年来の付き合いがある謙慈が知るだけでも、この数年で相手は忙しなく変わった。

 大学院生、電気工事士、証券会社課長、家電量販店員、ピアノ調律師、水道局員、喫茶店のマスター……。

 また、彼女の学生のころからの相手を加えるときりがない。

 誰しも、寿賀子と会うたびに恋愛の相手が変わるものだから、もう聞くほうも真摯な姿勢で向き会うのが馬鹿馬鹿しくなる。アドバイスや共感をしたところで、次に会えばそれが徒労に終わるのだと分かっている。

そ して何より人々を呆れさせるのは、寿賀子が相手にとって、いわゆる都合の良い女になっているということだった。

 聞けば相手は大概が所帯持ち。彼らは寿賀子との長い関係を求めていない。

 数回のデートで音信不通は当たり前。一夜だけの都合が大多数。

 挙句の果てに浮気を相手の親友に相談し、その親友とも浮気が始まるという始末。

 寿賀子の話はいつもそんな具合で、いつまでもハッピーエンドには至らなかった。話を聞いた友人たちは、いつも茹で損ないのパスタを口にしたような苦い顔をする。

「それ、遊ばれているだけだよ。やめなよ」

とか、

「いいかげん、君を好きになってくれる人を探せば」

など、友人たちに叱られたと寿賀子はよく謙慈に笑ってみせた。

 そしていつも、微笑みは苦笑いに変わった。

「でも、私を好きになってくれる人なんて、一生現れないよ。私は幸せになれないんだ  よ」

 そんな寿賀子の被害者めいた結論は、いつ会っても変わらない。

 結局、毎回救いようのない話に終始し、それにより、何より寿賀子自身が幸福になろうなどと思っていないことが分かる。

 それが分かるから、いつからか寿賀子の恋愛話に心身を費やす人はほとんどいなくなった。寿賀子が自分の恋愛について、真剣ではないと彼らは合点する。

 また謙慈においても、その叱る友人というのがきっと男だと邪推するのだ。

 

 寿賀子は仕事の都合上、各地を転々としていた。

 昼間は化粧品や健康食品の販売をやっていると本人は言うが、謙慈は詳しい事情にはいつも踏み込まなかった。踏み込まないのが、寿賀子との関係の上で礼儀であると彼は信じていたのである。礼儀とは、彼にとって破綻の対義でもあった。

 寿賀子は自分の方から、彼女が半ばフリーランスの位置づけだと補足を加えた。場所の空いた百貨店やドラッグストアから依頼を受け、派遣会社から短い任期で赴任を言い渡される。ということらしい。

 ごくまれに、謙慈は寿賀子から、メッセージアプリを通して唐突な近況を受けることがある。内容はさして実のあるものではない。ある時はビーグルの仔犬を飼い始めたという知らせだった。

 謙慈は顔をほころばせた。犬を飼うとは、いよいよ腰を落ち着かせる心情になったかと感心した。生活拠点を雄琴にしたらしい。しかし感心もつかの間、数か月後には飛田、北新地、さらには金津園、そして数か月後には浅草だとかに移ると連絡が入った。それからは関東を絶え間なく渡っているらしい。謙慈はそのたびにふんふんと鼻を鳴らした。

 寿賀子はいつも、故郷としている京都に、「用事」ができればその数日前には帰ってきて、しばらくその「用事」までぶらぶらと遊んで過ごした。そのたびに大津に住む謙慈は呼び出され、お茶や酒の相手に付き合わされた。

 しかし謙慈はそれもまた苦でなかった。

 四十になって心安い友人もずいぶん減った。家族を優先し交流の減る友人たちの中で、寿賀子だけは謙慈にとっても数少ない同世代の付き合いだった。だから謙慈は寿賀子から連絡が来るたびに、嬉々として滋賀から電車を乗り継ぎ京都に出てくるのだ。

 長い付き合いの者と過ごす時間は、多少なりとも昔の時間を取り戻す機会だった。若い生気に満ちた時代がよみがえるのだ。

 

 五月の連休。寿賀子が姪の結婚式に呼ばれたと言って、東京から京都に帰ってきたときのことである。

 それが幾つの姪なのか。どんな血縁の姪なのか。例によって、呼び出された謙慈は彼女の事情には踏み込まない。ただ何も言わず静かに彼女の前に現れる。寿賀子はそんな謙慈を、微笑みをもって迎えるのだった。

 祇園のとある喫茶店に、そんな二人の姿があった。

 店内は穴倉のように薄暗く、表のドアだけが、春の白く暖かい日和に開け放たれている。

 中から見える祇園四条通は、八坂神社へ行き来するにぎやかな人通りで煩雑としていた。

 店内は外との間に透明な敷居を立てたように静かだった。

 テーブルにはご丁寧に「大声での会話はお控えください」との注意書きが置かれている。

 フロアの各所には艶やかな百合の大輪が、大きな植木篭に剥製のように首を垂らしている。それが室内の陰により香しく、鮮やかに映えるのだった。

 平時は仕事柄、暑い日でもスーツを着る謙慈であるが、この日は祝日、珍しくTシャツを選んでいた。体型は日頃スーツに矯正させているものだから、腹がベルトの上に餅のように乗っている。それが布の上からでもよく分かる。

 一方対面する寿賀子はすでにスーツケースをホテルに預けてしまったらしく、いかにも身軽そうな、ミモザの柄のワンピースでその細い体躯を包み、薄暗い照明に骨をよじらせていた。

 二人の会話は何げないそれぞれの近況から、いつものように恋愛の話へと移っていた。

 といっても一方的な寿賀子の話である。他の者なら苦い顔をする場面でも、謙慈はストローを噛みながら、至って面白そうに耳を傾けていた。

「……それでね。いつからか覚えてないけれど、彼氏なるものができてね」

嬉々とする声を、はにかみを、隠すように淡々としゃべる寿賀子に、謙慈はわざとらしく目を開き驚いて見せた。……今回の寿賀子の恋愛は、珍しく順調な話らしい。

「本当に? 良かったじゃない。……おめでとう」

しかし寿賀子は、そうことほぐ謙慈に対し神妙そうな顔を作った。

「そう? 本当に? 彼氏ができるって、そんなにおめでたいことなのかな」

「うん。そりゃあ。……でも寿ーちゃんはなんだか、嬉しそうじゃないね」

「だって月に一度も会わないし。実感もわかないよ」

「でも彼氏は彼氏でしょう。喜びなよ」

そういって謙慈は冷ややかにアイスカフェオレを吸い上げた。溶けた氷の黄土色が、口から謙慈の顔に浸透し、同じ色となる。寿賀子は目前の男にそんな空想を浮かべ、ふいと目を伏せた。

「……そうかなあ。これは喜ばしいことなのかな。なんだか全然……。」

「嬉しくないって?」

謙慈は口先でストローを遊びながら相槌を打った。寿賀子は目を伏せたまま、心持顎を突き出している。

「うん。なんというか。やっぱりいろいろ考えちゃうんだけどさ。私は彼氏彼女とか恋人とかよりも、私にとっての唯一無二の存在が欲しいみたい。彼氏って呼び方、なんだか軽いじゃない。私に必要なのはそんなんじゃなくてさ、あてはまる言葉がないような、確固たる関係というか……。」

「うん。寿ーちゃんの言いたいことも分かるけど。でもそのためには、やっぱり彼氏彼女からやっていくしかないじゃない」

謙慈はそう言うとグラスをテーブルに置き、無神経そうに店内を見渡した。古い町家を改装した店なのだろう。古家の趣が所々に残っている。と、天井の梁に二頭の動物らしい彫りがなされているのに気が付いた。それらは互いに向かい合い、ある距離を保ったまま硬直している。

「あれ。なんだろう」

「どれ」

と、寿賀子は謙慈の目が差す先を、首と体をひねって追った。

「犬だろうかな」

「ライオンじゃない?」

「どうしてだろう」

「何が?」

「……うん?」

謙慈は寿賀子の問いに曖昧にうなると、再びグラスを掴み一挙に残りを吸い上げた。

寿賀子も前を向きなおすと、何事もなかったかのように、再び床に目を落とした。

「まあ、とりあえずさ、今の赴任期間のあいだでも、東京でいろいろ楽しいことを共有できる相手ができたってことは、それはそれで嬉しいかな。どんな関係になるか。これからのあの人次第だね」

と、口の端を力なく引きのばして見せた。

「……寿ーちゃんはあんまり、その、彼のこと好きじゃないの」

「うん。そうね。付き合いたいっていうから、仕方なく了解しただけ。正直今の時点では、あの人と配偶者的な先はないと思ってるよ。でも、だからといって仲良くしないってことも違うだろうし。あの人はそれでもいいって……」

「……あの人あの人って、なんだか他人行儀な言い方だね」

謙慈は腕組みを腹の上に乗せながら、皮肉そうに薄笑いを浮かべた。寿賀子は少し虚を突かれたように顎を引くと、次いで中年には似つかわしくない口を尖らせる表情を作った。

「だって名前も知らないんだから。なんて呼んでいいのか分からないよ」

「彼氏なのに名前を知らない? そんなことある?」 

「だって、本当にずっとあの人に興味が沸かなくて。会うってなってからだって、全然」

「じゃあさ、その人とはどうやって知り合ったの。」

謙慈はそう言ってすぐ、あっと顔を降ろして後悔した。

 これは踏み込み過ぎたのではないだろうか。

 そう思うと、それから寿賀子の顔を見るのが途端に恐ろしくなった。ひとりでに目が惑った。視線は忙しなく机のグラスや灰皿をはい回り、瞬時に対面のワンピースに散らばるミモザに飛びつくと、そこでやっと踏みとどまれた。そこならなんとか会話の視線の許容だろう。

「……アプリだよ。婚活アプリ。」

ミモザの上から声がした。それは落ち着いた声だった。そして寿賀子は脚を組みなおしたのだろう、謙慈の視界にミモザが一斉に揺れた。声もつられて揺れた。

「ああ、アプリね。それなら偽名だって使えるからね」

「ふふ、でも私がやっているのは実名のやつだよ」

ため息のような微かな笑声に、謙慈はさっと唇だけを盗み見ることができた。微笑んでいた。寿賀子は微笑んでくれている。謙慈はぐっと息をのんだ。

「……でもさ、本当に名前を覚えられなくて。実際会ってから、お名前はなんでしたっけって、私聞いちゃった」

あはは、と唇は開き歯を見せた。謙慈はそれを見ると、咄嗟に餅腹を震わせて笑ってみせた。続く寿賀子の声は、子供のように明るんでいた。

「でもね、そしたら意地悪して教えてくれなくて。好きなように呼んでください、だって。だからずっと名前が分からないままなの」

そんなことはないだろう。メッセージのやり取りをしている、ということなら、嫌でも名前は表示されるはずだった。しかし謙慈はそうだろう、そうだろうと強く頷いた。寿賀子の声が明るいうちなら、今は十分それでよかった。

 そこで、謙慈はさらに寿賀子の恋愛話に花を添えるべく、

「でも、そうだとしても、会ってる時の会話が不便じゃない? そんなときはなんて呼んでるの」

と、名のない恋人の話を促した。寿賀子は対し、なおも少女のように顔を上げ、思い描くように答えた。

「あなた、かなあ。あなたは何を頼むのですか、とか、あなたは今日の晩御飯どうしますかとか、そんな感じで呼んでる。そういえば、」

寿賀子はそう言うと、その名のない恋人と、どれだけデートが盛り上がらないだとか、どう趣味が合わないだとか、そんなつまらないことをいかにも楽し気に話し続けた。

「あなた、ね」

その間謙慈はそう呟き頷きながら、今までの寿賀子の恋愛話の相手を、二十年来の幾人ものすべてを、できる限り思い出そうとしていた。

 大学院生、電気工事士、証券会社課長……。

 そこには名のある者がひとりでもいただろうか。

 謙慈は眉をしかめた。

 よしんばいたとして、それらが本当の名前だったのだろうか。

 謙慈の回想は、寿賀子と別れ、妻子の居る大津行きの電車でも長く続いた。

 しかしいくら考えても、寿賀子の恋愛話の中で、彼女がはっきりと本名を挙げた人物はひとりもいなかった。そしてそこには、謙慈自身も少なからず含まれていた。

「それに加えて、あなた、と来たか。もうネタ切れかな」

謙慈はそんなことを腹に呟き、今回の寿賀子の恋もきっとダメになるのだろうと、話の結末を予想した。そして安堵を覚えたか、いつしか夜景が映る座席の上に、餅腹を力なく落とし眠り始めてしまった。

 

 つい一年ほど日が経った。

 あれから寿賀子からの連絡もはたと途絶えていたが、日常の流れに浸る謙慈にとって、それに気をとめる勘は彼になかった。あるいはどこかで気が付いたとしても、脳裏に過るのは瞬間の美しい幻影だけで、危機感には及ばない。

 また、寿賀子の方で「用事」ができれば、いつものように連絡を寄越すだろうと、そんな怠惰に謙慈の日々は過ぎていた。

 そして例年どおり五月の連休がやって来た。

 謙慈が初日の夕刻までごろごろしていると、妻が子供の手を引きながら、おもむろに実家に里がえりすると言って荷物を抱えだした。

「あれ、そうだっけ」

と、謙慈は肌着のまま、部屋の敷居に立ちすくんだ。すくみながら、敷居の凹凸で足裏の筋を刺激するように足踏みをした。

「言ってたけどね」

と、妻は吐き捨てるようにして出ていった。

 ひとり残された謙慈は首をひねりながら、それでもやっと自由になった余暇を、どう過ごすか考え巡らした。

 そこに現れたのは、やはり寿賀子の幻影だった。

「たまにはこちらから遊びにいくのもいいかもしれない」

 彼女の影に湧くのは、やはり若い生気に満ちていた時代の香り。そうと決まればと、謙慈はスマートフォンを手に取った。翌日の朝から関東に赴けば一日遊べる。なんなら今日の夜からというのも感興をそそる。

 謙慈は頬に脂を光らせながら、画面を巡らした。

 寿賀子はどこだと、メッセージアプリの友人リストを手繰った。

 が、一巡したところで寿賀子の名前が見つからない。

 見落としたかと、再三リストを当たった。

 が、やはり寿賀子の名前はどこにもない。

「どうしたもんだ」

謙慈はスマートフォンを置いて、その場の床に座り込んだ。

 名前がないということは、彼女のアカウントに何か問題が起こったということだろうか。それは何かアプリの不具合によるものだろうか。もしくは通信が悪いために表示されないのだろうか。アプリを再度更新してみようか。問い合わせてみようか。

 謙慈はそうやっていろいろ考えながら、インターネットで「友達リスト 消えた」との検索も試みた。おおかたの答えは、相手方がアカウント自体を抹消したのだろうから、もう手は無いとのことだった。

 謙慈は硬直した。寿賀子との不通はどうやら取り返しの出来ない現実だった。

 謙慈はうなる。ならば寿賀子のあの恋は本当だったのだろうか。

 しかし同時に謙慈の心には、寿賀子が披露してきた数多の伽話もまた、ふたりの間の特別な現実として確かに残り続けている。

「あれ。嘘じゃなかったのか。まさか。」

 いつの間にか、窓から五月の西日が差し始めていた。

 謙慈はその中にひとり留まり、額へは脂汗が滲み始める。

 暑いかどうかも分からない。眩しさも感じない。

 脂汗はやがて頬を伝った。それを拭うことも忘れ。

 じきに夜が来る。それまでは、夕日が寿賀子の代わりに彼へ笑った。 了

 

ラブホテル・ブラザー

 

 潤う、ということにはひどく痛みを伴う。

 清太は唾液を飲み込みながらそんなことを思った。

 喉に垂れていった唾液が喉仏のあたりで染み、しわりと痛んだのだ。

 乾燥した春の空気は、喉の側面を荒廃の土地のようにヒビ割れさせている。

 そこに水が入り、肌は水を吸い、シュウシュウと音を立てる。細胞は膨らみ、その時痛みを伴うのだ。清太は車の中で両手を垂らしながら、自分の喉の内側に、そんなイメージを浮かべていた。

 エンジンを止め、キーを挿し口から抜き出した。同時にエアコンが止まり、フロントガラスから入る日差しだけの刺激が残る。車内はむっとする。

 清太は天日干しの虫のように外に這い出た。そして眩しそうに眼を細める。彼の黒いTシャツや伸び始めた坊主頭は、春の陽をよく取り込んだ。

 見渡せば、駐車場に影はなく、灰や白の反射光が夏の景色を黒い瞳に映し出した。

 気温は初夏に相当すると、午前のカーラジオは伝えていた。お出かけになる際はご注意ください。女の声が頭に残っている。駐車場はいつもより混んでいた。

 スーパーマーケットは住宅地から車で一〇分ほどの場所にある。そこは新しく開発されたごくごく小さな商業地だった。田畑をつぶして現れた背の低い大型スーパー。家電量販店。ドラッグストア。100円ショップ。そのだだっ広い駐車場。

 ラブホテルに向かう前に、必ずそのスーパーマーケットで飲み物と昼食を調達することにしていた。割安なのだ。

 清太は春の陽を頭に浴びながら、入り口に向かい駐車場を横切った。

 その時にある老夫婦とすれ違った。彼らは大型のビニール袋をいくつも抱えている。もし二人暮らしならば、到底それらすべては消費できないだろう。清太はそんな揶揄めいた瞳で彼らを盗み見た。しかし老夫婦はそんな外目を気にもせず、福寿の微笑みを互いに並べ、何か語り合っている。心嬉しいことがあるらしい。しかし清太の耳には、その物語の末梢でさえ、ラジオの混信のように何も掬い取ることができなかった。

 

 清太がラブホテル通いを始めたのは四月に入ってからのことだった。

 春の陽気の最中、世間では入学だの就職だの浮足立つところ、ふとひとりで部屋に居るのがいたたまれなくなった。

 さみしい。夜までただ妻の帰りを待つ生活はたださみしかった。そのさみしさは強く簡単な、肉体的な開放を求めた。

 しかし夜になって妻が帰っても、決して肉体的な触れ合いは行われなかった。

 妻を労い癒すための家事を進めるだけで、気が付けば就寝時間になる。そうなれば互いにそれ以上のことをする力も残っていない。

 かといって平日の昼間、自宅に見知らぬ女性を呼ぶのは、近所にも家の中にも具合が悪い。そこでラブホテルの休憩時間を利用して、女性を呼ぼうと思い至った。「おひとり様のラブホテルが快適」というネットの三文記事を見た影響でもある。

 だが、実際ホテルに一人で入ってみると、記事の通りか、その居心地の良さが春の誘惑に勝った。女性も誰も呼ばず、清太はただひとり、ホテルの一室で過ごすのである。窓のないラブホテルの部屋は、春の陽気も、世間も、家族さえも遮った。

 また、何かが起こりそうな期待感がホテルの部屋には強く漂っていた。考えるまでもなく、隣では何かが起こっているのである。それはどんな行為か。時間か。相手か。それを考えるだけで、実際に行為を行うよりも清太の好奇心は満足に達した。快感に至らないゆえの高揚が、一人の部屋にほどよく充満した。

 そうやって外界から一切遮断された空間で空想を楽しむ。それに清太は魅入られた。そしてその空想に抱かれながらいつしか眠りにつく。それは清太にとって安寧に他ならなかった。さらに、それから目が覚めた時の爽快感は格別だった。さみしさとはなんだ、欲求不満とはなんだ。これが本当の眠りなのだ。と、そう思うほどに、彼の心は、体は、活力を取り戻していた。

 かといってそれを毎日行うわけにもいかず、資金の限りもあるから、その遊戯を週に一回の楽しみとした。それがこの四月の下旬まで三度行われた。この日の四度目の遊戯は、少し慣れてきた清太にとって、一工夫の必要が案じられていた。実際三度目の遊戯は多少退屈を感じ始めていた。この日は次の段階に進む機会だった。

 

 スーパーマーケットの店内は食材を冷やす、特有の冷気に満たされていた。

 そしていつもより騒然としている。

 見慣れない黒の作業服が、幾人もうろうろしているのだ。

 一介の買い物客でしかない清太であるが、その光景を見受けると、何事だと、自分の有事のように落ち着かなかった。そして歩けば所々、商品棚の通路がバリケードで塞がれている。「作業中」との張り紙もぶら下がっている。そしてバリケードの中の作業員たちは、熱心に棚の商品を、床の青い箱へ移していた。

 清太の目には、彼らの商品への気遣いというものがまるで見えなかった。かえって外野の清太の方が、壊れるのではと心配してしまうほど、彼らは乱暴に商品を降ろしている。ガラス瓶がぶつかる、不穏な音が連続して店内に響いていた。

 隣の通路も、また隣の通路も。

 作業着の人々はスポーツ競技のように躍動していた。当然、手早く終わらせることに優位があるのだろう。

 こういう場合、店を休業にはしないのだろうかと清太は思った。ゆっくりやった方が間違いも起きにくいだろう。商品も傷つかない。なにより取りたい商品が取れない。清太は眉をしかめながら、店内を進んだ。

 幸い、総菜コーナーは作業の対象外らしかった。籠を腕にぶら下げ、冷麺とパックのオレンジジュースをいれた。そしてブドウのグミも追加した。

レジでは初老に見える、小さな女性が清算をしてくれた。

 この時清太はいつも「まさか目の前の客が今からラブホテルに向かおうなどとは思うまい」と、秘かに盗み笑いを浮かべるのだった。

 それが何の優位性を生み出すわけでもないことを、分からない清太ではないのだが、その秘かな、外見では他人に予想もつかない自分、というものが、清太には愉快だった。

「ねえ、お姉さん。僕は今から、どこに行くと思いますか」

つい、そんな質問をぶつけてみたくなる。清太はこらえるように唇を微笑みに結んだ。

「実はラブホテルなんですよ。こんな平日の昼間から」

その瞬間レジの女性がはっと顔を上げ、清太の顔を直視した。清太は女性と目が合ってから、自分がずっと女性を見つめていたことに気が付いた。女性は怪訝そうな顔を清太に向けている。少し口に隙間をつくり、しかし何も言わない。上下の前歯は唇に隠れている。それほど微かな口の隙間。その隙間はただ、真っ黒な暗闇だった。

 清太は少し色を失った。狼狽するように目を動かした。

 いったい、俺は、この人に何か口にしただろうか。

 自分がラブホテルに関して何か口に出してしまったような気がした。そして清太には、女性との間に弁解の必要があるように思えた。

 女性はひとつ険しい顔をしてふいと目を降ろすと、商品を清算籠に移し始めた。

「……失礼しました。実は僕、役者をやっていまして。小さな芝居小屋のしがない役者ですけれどね。儲からないですよ。そりゃ、いつも赤字です。でも少しでも腕を磨いて、お客さんには満足して帰ってほしいと常々心掛けているんです。

 よい演技のためには、まずセリフが完璧に頭に入っているのが大前提です。しかし演目は毎週のように変わりますからね。ひっきりなしに。そのたびに役作りが必要なんですが、これがまた大変なんです。毎度それまでの役を捨てて、新しい人格を頭に入れなければならない。大変ですよ。これは。先週は警察官、今週は夢遊病者。来週は哲学者で、その翌週には小学生になるんです。いや、これは実際大変です。頭の中に入れ替わり立ち代わり他人が踏み込んで来るようなもんですから。そして彼らは本来の僕の記憶を遠慮なしに動かすんです。棚の荷物を片付けるように。

 しかし僕は役者ですから、それを受け入れなければならない。それが仕事なんです。他人が頭の中に入って棚を荒らしても、さあどうぞ、と、それを許さなければいけない。

 だからちょっとした、こんな買い物中だって、セリフを常に唱えて覚えなくちゃいけないんです。セリフを間違えては、芝居が台無しになりますからね。ストーリーだって、その誤った一言で予期せぬ結末に転変してしまう可能性があります。つまり一度間違えれば修正不可能なんです。だから」

「……カード……ですか」

女性は清太の思考を遮ってつぶやいた。

「……はい? 何か」

「ポイントカードはお持ちですか。それとお箸は」

「……ああ、カードね。」

清太はポケットから財布を取り出し、その中を探って見せた。一度だけ使ったスタンプカードや、貯め込んだレシートなどが、ズボンの体温で張り付いている。それを恭しくピリリと剥がして念入りに探した。……何を?

「……ああ。そういえばカードは持っていないんですよ」

清太はふいと顔を上げてそう告げると、いかにも好人物のように笑ってみせた。

 

 清太はインテリアメーカーに勤めた会社員だった。照明部、商品開発課の在籍だった。

 六年ほど勤めていたが、半年前から強烈な眠気を感じるようになった。

加えて左右の二の腕が、筋肉へ麻酔を打たれたように力が入らなくなった。

 それで業務中はパソコンを触るのも億劫になって、自分のデスクで座りながらうつらうつらとうたた寝するか、昼飯や市場リサーチと理由を付けて、喫茶店で三時間も四時間も時間を潰した。喫茶店では寝るか、流れている昼間の陽気なテレビ番組を眺めて過ごした。

 無論商品会議などあろうものなら話にならない。周囲が熱心に商品コンセプトを練る間にも、こくりこくりと頭を上下させる始末だった。そこには表立って注意する上司はいなかった。しかし水面下での悪評は確実に蓄積されていった。

 与えられる仕事が徐々に減っていくと、また居心地も悪くなる。終業までの時間ばかりを持て余し、かといって仕事はないかと上司に尋ねる意欲もない。それでも危機感どころか、眠気ばかりが清太の時間の大半を占めていた。

 かといって、八時間いっぱい喫茶店で時間を潰したり、何の用事もないパソコンの前に座り続けたりするわけにもいかず、清太は一〇分ごとにトイレだとか、備品を補充するだとか言って席を立ち、トイレへと逃げ込む。そこで同僚に出くわそうものなら、便器に向かって出ない尿を出すそぶりや、入念に手を洗うなどしてやり過ごす。そして

「おつかれ」

と、さも忙しい最中、同僚をねぎらう社員のように声をかけ、彼らが出ていくのを見届ける。トイレに誰もいなくなると、鏡に現れる自分をただ見つめて過ごした。

 見つめて、何をするわけでもない。意識を向けるべき興味が他にないのだ。だから清太は自分の姿を見つめ続けた。自分ならば、見つめていたって文句を言わない。

 鏡の自分はまた、見つめる清太を静かに見つめ返した。親しみが込められた目線は、清太を唯一理解してくれる人間のように思えた。微笑むと彼も微笑む。ひょうきんな顔を作ると、また彼も自分を笑わせてくれる。

 そうやって、清太は鏡を前にやっとほっとするのだった。

 何かに虐げられているわけではない。ただ何となく何かが苦しい。鏡の中の自分は、そこに自分がいるのだと証明してくれる。また、それと同時に、彼はそれを理解したうえで、何も言わずそっとそばにいてくれた。

 そんな生活が数か月続き、あるとき会社に異動を打診された。開発課は人手が余るらしい。それで次の部署はと上司に尋ねると、業務円滑課だという。聞けばその課は清太ひとりで、業務は来客時、オフィスのドアの開け閉めや、備品の補充、植木の水やり、侵入害虫の駆除などだという。  

 馬鹿らしくなった。それですぐに辞表を提出した。

 

 清太には妻がいる。それからの生活は彼女ひとりに頼ることになった。体に力が入らないと訴えると、しばらく休んでと言ってくれた。その通りにした。幸い少しばかり貯金をしていた。退職金も少し出た。その金を、日々の弁当やラブホテル代に充てた。

「人生の節目なんだよ、きっと」

と、妻は言った。清太もその通りだとおもった。

 退職してから、清太にはふと、視界に隙間のようなものが度々見えるようになった。

 それは何の法則性もない。リビングでくつろいでいるとき。新聞に目を落としているとき。食器を洗っているとき。風呂上がりに体を拭いているとき。または、運転をしているとき、階段を上っているとき、商品棚をながめているとき。

 閉め忘れたドアのわずかな隙間のように、視界のごく端で、その時見ているはずの視界とは別に、光や色が細く映るときがある。

 そのたびに、清太はそのありかを探した。

 しかしその方に目を動かすと、その隙間はすっとどこかに消えてしまう。それがどこからかの由来かわからなくなる。

 それは例えば、何かの反射光のようだと思った。

 車が陽向を横切った時の咄嗟の輝き。

 鳥が空を裂いた瞬間に映る羽の色。

 黄金虫の離陸。

 格子柵から垣間見える奥景色が、角度の関係で色づく一瞬。

 しかしいくら目を凝らしても、自分の視界に入ったはずの隙間らしき色は見当たらない。

 錯覚か、何かの勘違いだと思い、それを誰か、例えば妻に言うようなことはしなかった。

 実際それぐらいに些細なことで、とりわけ言及したり調べたりする必要性は感じなかった。病的な危機感はそこにない。思い違いで、デジャブとか正夢のような、日常のひずみのようなものであると思われた。

 ただ、それがもし隙間であるなら、誰かがその隙間から覗いている可能性もある気がして、ならば清太の視線に気が付きさっとドアを閉めている気がして、それだけは少し不気味な心地だった。

 

 清太は車に戻り、ラブホテルへ向かった。

 県道を郊外の方に進み、脇道に分岐する細い道へ入る。そこに入れば車通りもほとんど消える。一変して両側が雑木林に囲まれる、避暑地のような場所を通る。ほどなくするとラブホテルが現れる。近辺ではこの一棟しかホテルはない。地中海の雰囲気を模した建物だ。車は木漏れ日を浴びながら、滑るようにして敷地へ入った。

 一階が駐車場で、外から見えない角度にロビーへの入口がある。

 ロビー内は冷房が効いて、清太の腕を冷やした。

 床は石敷、壁は洞窟の岩壁を模した漆喰。窓も他の客の姿もない。閉演間際の遊園地。そのアドベンチャーアトラクションに佇むようだった。ロビーの所々には大型の観葉植物が置かれている。遠くで水の落ちる音がする。加えて人工的な甘い香りがする。

 心持忍び足で奥に進んだ。すぐに大型のパネルが現れる。そこに使用可能な部屋の写真が並ぶ。三十ほど部屋数はあるが、使用中の部屋はぽつりぽつりと暗く表示されている。清太は手ごろな部屋を探した。部屋は一人で、少し寝るだけだから小さく安いものがいい。幸い一番安い部屋が空いていた。迷わずその脇のボタンを押し込んだ。

 ロビーを抜けると客室の、吹き抜けのフロアが広がった。中心に大きな噴水が置かれ、それを四方ぐるりと囲み、二階建ての客室が並ぶ。一見リゾート地のようだった。  

 一階は高値の大きな部屋が占めている。エレベーターは避け、フロア隅の階段を使い、二階へと回った。清太の部屋は階段を上がったすぐ横の部屋だった。

 重厚な扉を引くと、すぐ、妖艶な照明に浮く、大きなベッドが目に入った。 

 さて、と無闇に声を上げ、悠々と合成革の黒いソファに座り、冷麺とグミを食べ、オレンジジュースを一息に飲み切った。そしてそれらを乱暴にビニール袋に詰めてしまうと、ベッドへ倒れ込み、ゆっくりと目を閉じ、瞑想に入った。

 何も聞こえない。近隣で行われているはずの気配も感じない。静かな空間。……しかしやはり飽きがきているのか、集中力を欠いた。容易に遊戯の幻は、清太の元へやってこなかった。

 清太はすぐ目を開けると周囲を見渡した。ベッドの頭の壁に、蓮の花の絵が掛かっている。黒い背景に、薄ピンクと白が、細い花びらへグラデーションを織りなしている。暗闇の鏡へ強い光を当てたような意匠だった。

 清太は少し卑屈に笑った。肉体的な快感が、天竺の心地だとも言いたいのだろうか。それは所詮ラブホテルの絵画だった。高名な芸術家のものでも秀逸な作品でもあるまい。ましてや実物とも疑わしい。大方プリントした量販ものだろう。けれど、卑屈に思いながらも、清太には不思議とそれがひどく心に浸透するように思えた。そして量販物とはいえ、芸術品は幾らか清太に高尚な気持ちを与えた。

 また目を閉じ、高尚な心地が残るうちに、ゆっくりとした遊戯を味わおうと思った。しかしまた、なぜかいつものように幻想はうまく近づいてこない。

 近隣で行われている行為を強く思った。顔も分からない女性と自分を一心に重ねた。しかし空想の中での女性の体は、あぶくのように霧散して、形をとどめない。

 どうして集中できない。

 清太は目を閉じながら苦しそうに顔を歪めた。空想の部屋では形が形を成さなかった。それでいて、なぜかそこに妻の面影が動いた。それは決して艶めかしい幻想ではない。顔のない妻が、ちらちらと花に流れる水滴のように動く。そして妻はいつしか両親の面影へ変わった。両親は飼い猫に変わった。飼い猫は辞めた会社の社員たちに移り変わった。社員たちの背は幼いころの友人たちの姿を映した。幼い友人たちは清太の頭上の方へと駆けていった。

 清太は目を開けた。そして頭の上を見る。蓮の花が依然として清太を見下ろしていた。

「これのせいだ。これが気になって」

うまくいかないのだ。清太はそう直感すると、枕元のスイッチをひねり、部屋を真っ暗に消した。窓もない部屋は、一髪の明かりも許さなかった。

「これで誰からも、何も見えない。」

 清太はそう再び目を閉じる。

 すぐは、うまくいきそうだった。が、幻想中の今までにない、全身の力が抜け、重くなっていく感覚を覚えた。一方で脳は徐々に明瞭だった。

 ジジジ。と、こめかみの上で音がした。昔の古い四角いテレビを点けたような、不鮮明なラジオを合わせるような、微細な空気の振動を感じた。その振動が耳の奥に届いて器官を揺らした。ベッドがいくらか沈む気がした。ベッドの足元では、何か空気が動いたような気配がする。明瞭な意識の中で、清太はそれが気のせいだと知っていた。一人の密室で誰かが動くわけがない。ドアが開かれた音も聞こえなかった。ましてや誰かが入る道理などない。それが錯覚だと清太は分かっていた。デジャブや正夢のような日常のひずみだと知っていた。

 そこが夜の砂浜、波打ち際であるかのように、不安の波が清太の体に打ち寄せ始めた。

 波は清太の体に手を伸ばし、引き波に清太をどこかへ連れて行こうとしていた。

 嫌な気がした。生きていたくないという望みが内に沸いた。

 波の中に立つ足のように、清太の横になる体は濡れた砂に沈んでいった。

 清太は察した。誰かが上に乗っている。

 体の重みも、砂に沈む体も、誰かが自分に乗っているからだ。

 清太はそっと目だけを開けた。しかし自分の上には誰も乗っていない。暗室があるばかりである。

 それを確認すると、また目を閉じた。

 重みがよみがえる。やはり誰が乗っている。それはきっと真っ黒な影だった。

 その影が、まるでピザ職人が生地を伸ばすように、清太の上で前後に躍動している。

 清太はピザ生地だった。上からの圧力に、次第に薄く長く引き伸ばされている。

 清太は抵抗できなかった。ただ力なく、なすが儘に引き延ばされた。

 それが不思議と楽だった。このまま終わりまで付き合うと、どこかに飛んでいくような気がした。自分が自分でないところに到達する。その心地よさ。

 時間は遠のいていった。同時に苦しさや不安も和らいでいく。

 そうか、と清太は思った。

 自分が消えれば苦しみも消えるのは当然だった。

 もう少しだと思った。もう少しで喪失することができる。

 清太の上に追いかぶさる職人も、正念場だろうか、懸命に動きを増していた。

 もう少し、もう少し。

 清太の意識は次第に体と離れ揺れ、圧力に反転して上昇するようだった。

 ああ、これが、これが。

 と、清太の意識が薄く細く、糸ほどに研がれる間際、職人は突如唸りを上げて静止した。かと思えば力なく清太の上に倒れ込み、やがて重みは消えてしまった。

 清太ははっと目を開けた。そこには暗闇が広がるばかり。しかし体はずいぶん軽い心地。

 心は清涼になった。体は活力に満ちていた。

 清太は体を起こし、手探りで照明のスイッチを探し当てた。

 明るくなった部屋にはやはり清太一人だけだった。

 口の端で何かが疼いた。

 唾液が口から垂れている。それが落下にきらりと光った。清太は顔を枕に押し当て、それをぬぐった。

 頭上では、蓮の花が毫光のように散開していた。  了